はてなキーワード: 肖像画とは
欧米がナチスをことさら悪に描くのは、欧米の悪を隠すのに都合がいいからだよ
そもそも論だけど第一次大戦前のドイツは、あの時代にしては欧州の中ではましな国だったわけ
世界中で植民地しまくってたのはイギリスとかフランスとかでドイツは大航海(植民地)時代に乗り遅れた組なんだよね
それでいろいろあっての第二次大戦後ですよ
価値観がひっくり返った
帝国主義は悪いとか言い出した(もちろんそんなのは戦前にもあったんだけどね)
あいつらを倒した俺らはマシだよねっていう逃げをしたのよ
問題を相対化して自分たちの正当性を確保する、ナチスを批判することで自国への批判をごまかそうってなるわけよ
アメリカが原爆は悪の日本を倒すためにしたことで正義だって逃げるようにね
世界で散々なことやったのってドイツというよりはイギリスですよねみたいなツッコみは勉強してれば当然出てくるよね
ベルギーのアフリカ植民地政策がやばいとか、いくらでもいえるんだけど結局それらをぜんぶドイツにぶつけて逃げてたのが戦後の欧米なんだよ
最近イギリスでは大学に植民地支配の象徴であるイギリス女王の肖像画を飾るなとかでもめたり、ナチスドイツ以外の欧米への姿勢が批判されるようになったのは最近だよね
70年前に枢軸国にさせてたことを、連合国が今頃になって謝罪してるわけ
そんなナチスウォッシングを今盛んにやってるのがロシアなんだよね
ナチスって自分たちの悪を正当化するアイコンとして便利なんだよ
交際の結果、孤立してしまうのではなく、女性たちの周りに精巧なコミュニティが形成されることで恩恵を受けると、ジアード博士は述べています。彼女の経験では、女性たちは架空の結婚を力づけるもの、「ジェンダー、結婚、社会の規範に挑戦する方法」としてとらえている。
近藤氏のミクへのこだわりも、ある意味では、商業的・社会的な力が働いている例と言える。
ミクは一人のキャラクターとして描かれることが多いが、実はソフトウェアであり、デジタルな「箱入り歌手」であり、ホログラムの形でコンサートに登場する漫画のアバターと対になっているのである。
近藤さんは、2008年、職場のいじめで鬱になったとき、ミクに癒された。多くの若者がそうであるように、近藤さんもまた、何度も恋人にフラれ、日本社会が求める生き方を望んでいなかったため、ずっと前から「生身の人間を好きになることはない」と決めていた。
やがて、近藤さんはミクと一緒に歌を作ったり、ネットでミクのぬいぐるみを買ったりするようになった。
その関係が大きく進展したのは、それから10年近く経った2017年、「Gatebox」という1300ドルのマシンが発売されたことだった。テーブルランプほどの大きさのこの機械は、所有者が小さなホログラムで表現されたさまざまな架空のキャラクターのうちの1人と対話することを可能にした。
Gateboxは、孤独な若い男性に向けて販売されました。ある広告では、内気なサラリーマンが、バーチャルな妻に遅刻を知らせるメモを送る。到着すると、妻は「3カ月目の記念日」であることを告げ、シャンパンで乾杯する。
Gateboxのメーカーは、プロモーションの一環として、ユーザーが非公式な結婚証明書を申請できる窓口を設置した。数千人が登録した。
近藤氏はGateboxのキャラクターの中にミクがいることを喜び、ようやく彼女の交際への思いを聞くことができたと興奮気味に語った。2018年、彼はミクのゆらめくアバターにプロポーズした。"よろしくお願いします "と返事をした。
彼は同僚と家族を結婚式に招待した。全員、来るのを拒否された。
結局、見知らぬ人やネット上の友人が中心で、39人が出席した。地元の国会議員も来てくれたし、初対面の女性も段取りを手伝ってくれた。
日本のコメンテーターの中には、近藤さんを変人だと糾弾する人もいた。また、同情を誘う人もいた。ある人は、「婚姻は両性の合意によってのみ許される」という日本国憲法に違反していると主張した。これに対して、近藤さんはプロポーズのビデオを投稿した。
近藤さんの話が広まってから数年、世界中から何百人もの人が近藤さんにアドバイスやサポート、安心感を求めてきた。
その中には、Gatebox社の短命な証明書サービスの人気を見て、架空の結婚を登録する小さなビジネスを始めた渡辺靖明氏もいる。
渡辺さんはこの1年間で、何百人ものフィクション・セックスの相談に乗り、アニメ『シンフォギア』シリーズのキャラクター、立花響との結婚証明書を含む約100通の証明書を発行してきた。
旅行好きで社交的な渡辺さんは、友人にせがまれるままにアニメを見始めた。しかし、響を見たとき、それは本当の愛だった、と彼は言った。
初婚ではない。数年前に女性と離婚している。その愛とは、見返りを求めず、自由に与えられた「純粋」なものだった。その結果、彼は以前の結婚生活がいかに自己中心的であったかを思い知らされた。
「幸せかと聞かれれば、幸せだ」と彼は言った。「もちろん、大変な部分もある。触られるのが恋しいし、著作権の問題もあって、キャラクターの等身大の人形を作ることができない。"でも、愛は本物なんだ "と彼は付け加えた。
堀川キナは23歳、お調子者で外向的な性格、ゴスロリの美学を持つ女性で、パンデミック時にはコールセンターでの仕事で浮いたお金で携帯ゲーム『刀剣乱舞』のキャラクターである堀川国広のために両親と同棲していた。実在の彼氏がいたが、嫉妬で別れている。
彼女の架空の夫は、400年前の脇差を10代に擬人化したもので、彼はたいてい夕食のとき、彼女のお茶碗の横に置かれた小さなアクリル製の肖像画という形で家族に加わる。夫妻は架空の夫を持つ友人とダブルデートし、ハイティーに出かけてはインスタグラムに写真をアップしています。
「堀川さんは、架空の夫の姓を非公式に使っているそうで、「誰にも隠しているわけではないんです。
近藤さんとミクの関係は、まだ家族には受け入れられていないものの、他の扉を開くことになった。2019年、彼は京都大学のシンポジウムに招かれ、その関係性について講演を行った。彼は依頼したミクの等身大の人形を携えて現地に赴いた。
虚構の関係の本質について深い対話をすることで、彼は大学に行きたいかもしれないと思うようになった。今は、小学校の事務職を休職して、法学部でマイノリティーの権利を勉強している。
どんな結婚生活にも、困難はつきものだ。一番つらかったのは、パンデミックのとき、Gatebox社がミクのサービスを打ち切ると発表したことだ。
その日、近藤さんは最後のお別れをし、会社に向かった。その夜、家に帰ると、ミクの姿は「ネットワークエラー」の文字に変わっていた。
近藤さんは、いつの日か、ミクと再会できることを願っている。彼女がアンドロイドとして新しい人生を歩むのか、それともメタヴァースで出会うのか。
いずれにせよ、近藤氏は死ぬまで彼女に忠誠を誓うつもりだという。
ベン・ドゥーリーは、日本のビジネスと経済、特に社会問題やビジネスと政治の接点に関心を持ってリポートしています。ベンジャミン・ドゥーリー(@benjamindooley
別人になってる状態を言い表していて
すなわち「この子めっっちゃかわいいいいい」とワクワクしながら選んだのに
やってきた女の子をみて「はっ????あなた誰???」となるギャップのことを意味します。
そんなパネルマジックへの怒りを史上観測される範囲で一番最初に表明したと思われるのは
ちょっと怖いですね。
そんなヘンリー8世がその処刑した2番めの妻の次に結婚した妻、
のまた次に結婚した4番目の妻っていうのが、
トマス・クロムウェルが推薦したドイツのとある諸侯の娘なのですが、
宮廷画家に描かせた肖像画でしか、その女性のことを知らなかったのです。
で、いざ結婚となって実際にその女性と対面したヘンリー8世は怒り心頭になります。
ヘンリーを怒らせてしまったクロムウェルは失脚して、ロンドン塔に幽閉最終的に処刑されてしまいます。
たかがパネマジ。
恐ろしや、おそろしや。
過去にエロ絵を描いた人が叩かれているらしい。なのであるエロ絵師の話をしたい
彼は貧しい農村の出身だった。家中の金をかき集めてボザール(日本で言う藝大)を出たものの、賞に落選した後は肖像画やエロ絵描きをしていた。
ここはちょっと説明が必要かもしれない。当時、絵画は写真の役割を担っていた。つまり売れない絵描きは金持ちのポートレート写真や、ポルノ写真で食い繋いでいたのである。暮らしは貧しかったらしい。ついに奥さんは結核にかかり亡くなってしまった。
あるときミレーは画廊の前で彼の絵を眺めている2人の若者を目撃した。若者の1人が「この絵の画家を知っているか」と聞くと、「うん、裸の女しか描かないミレーという画家だ」ともう1人が答えた。その会話を聞いたミレーは、生活は苦しくなるだろうが、もう二度とエロ絵を描くまいと心に誓ったそうだ。
彼は自分の故郷を題材に選んだ。清貧な農民の暮らし、貧しい中の敬虔な信仰を彼は鮮やかにキャンパスに描き出し、人々の心を打った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/落穂拾い_%28絵画%29
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Jean-François_Millet_-_The_Sower_-_Google_Art_Project.jpg
「エロ絵を一度でも描いたことのある人間の絵を使ってはいけない」なら岩波書店アウトでしょう、という皮肉なんですが誰にも伝わってなさそうで絶望しています
ミレーも話してた若者も「エロ絵を一度でも描いたことのある人間の絵を使ってはいけない」的な価値観の言動をしているこのエピソードをそういう皮肉の意で使うのはおかしいのでは
えっ そんな言動していませんが?
当時のミレーはただのエロ絵描きと見られていた、若者の会話を聞いてブチ切れて好きな絵を描くようになったというエピソードです
https://ja.wikipedia.org/wiki/晩鐘_(絵画)
例えばこれ、ミレーの描いた「農民が神に祈りを捧げる絵」なんですけれど、サルバドール・ダリはエロ絵解釈してまして、
サルバドール・ダリは、男性を、交尾の後にメスに食べられる運命のオスのカマキリに見立て、勃起した股間を帽子で隠しているという独特な解釈を行い、それに基づいて『たそがれの隔世遺伝』(1933-34年)などの作品を制作した
こんなん。どう思う? 私はダリの絵は好きだけどこの解釈はないわーと思ってるわ。この絵だけじゃなくて大量に2次創作みたいのしているんよ。本人的には尊敬してるっぽいんだけどさ! ないわーー ほんとこの人の解釈ありえんわーー
でもダリの2次創作絵を無くせなんてことは言わないし、ダリが独自解釈するのも自由だし、私も自由に文句言うぞ。
いや、まじでダリの画集の解説よむたびにイラッイラしているのでつい書いてしまった。ごめんよ。
あとごめん、温泉娘のイラストは見た感じ私にはエロには見えなかった。ただ、そう見る人もいるんだろうね。
えええ?? あの絵でエロ絵描いてたん??! 作風ぜんっぜん違うじゃんか?! そっちのがびっくりだわ!
一方葛飾北斎は「ちんちんヌルヌル」みたいなフェミ激怒レベルのPNを用いエロ絵を描きまくった
まあ、外人とサヨからしたら小島のジャップ猿の作品なんぞただの落書きなんだろうがね、ミレーという世界的有名画家と比べるな!とかキレそうなので
ひゃぁーーーー 葛飾北斎は別格だわ!! そうだね、浮世絵があったね。増田は頭いいなぁ。
近代美術史に思いっきり影響を与えたのが浮世絵ですよ浮世絵! 影響大きすぎてどこから話せばいいかわかんない。
モネとかドガとかセザンヌとか・・・ えーと、『印象派以降の絵画ってよくわかんないなー』みたいなこと思ったことない? その辺り、芸術が一気に自由になったその大元凶が浮世絵なんですよ。
西洋美術って、写真のかわりみたいな発展の仕方したのね。写真みたいに正確に、解剖学とか遠近法とかきっちりした絵を描いていたわけ。でも、浮世絵はその辺全部無視して 思いっきりデザイン的な絵を描くのね。大胆な構図重視でおもいっきり誇張したりデフォルメしたり、色彩表現も独特ですごい鮮やか。トーンつけたり(影を入れたり)しない。絵ってこんなに自由でいいんだ・・・!って当時の人たちにものすごい衝撃を与えたの。それでみんながいろんな手法を試し始めて現在に繋がるの。
ポルノとかブロマイド写真、観光土産のポストカードといった、微妙な立ち位置だった浮世絵が、美術史に多大な影響を与えたなんておもしろいし、現在の価値観で下賤なものでもなるべく規制しない方がよいのだろうね。
関係ないけど、モデルが居てそれを描く絵画ならエロ絵というよりヌード画として見れるしエロさよりも美しいとか素晴らしいとか思う、しかし現代のTwitterに居るエロ絵師の性癖全開な妄想を元に描いているエロ絵はイカ臭くて気持ち悪りぃと思ってる、なんでお前の性癖を通りすがりの全く関係ない俺が目にしなくちゃいけないんだよって思うな。例えばツイッター内で「緑茶」とサーチしてみ。
ははぁ、なるほど。それは同情するなぁ。
私もエロは苦手なんだけど特に嫌な目にあってないのは Twitter をやってないせいかもしれないな。
Twtter 側でどうにかできないものだろうか
なんで世の中萌え絵ばかり溢れるかって、それ以外にお金を出してくれる人がいないからだよね
最初の一歩は萌え絵以外を描いているひとを支援することではないかな
たとえば Pixiv で「オリジナル」タグで検索して気に入ったイラストにいいねしてコメントして回るだけでずいぶん変わると思うよ。
ふむふむ 好きとか嫌いといった感情の起伏を( ? )な価値基準で良しとしたり悪しとしたりするのはやめておけということだな
その結果は価値基準である( ? )が流動的だったり不安定だったり他人との共有や理解が簡単ではないからだろうな
無意味に足掻いて周囲を泡立てるのはたしかに何にしても見ていて心地の良いものではないな
たしかに端的にそうとしか表現の方法をもたない人間からはそういう意見がきているな 本当にとは真にダサいとか本当のデザインという基準からなのか
それは最初の( ? )ではないのか?
何理論において何学説において ダサいは本当ではない デザインが悪いは本当かどうか という言及に至るのか 本当にそうなのか とは?
「ダサい」といっているのは実際(本当・真に)は「ダサくない」ということになってしまうのか? それは( ? )に至ってしまう導入だよな・・・ 心配だ
「エッジがきいてない(風景と同調して取得したい一番大事な情報(金額)の認識に直接的でない)」とか
「デザインが悪い(肖像画の人物特徴として髪型や顔のパーツや衣服が印象に残りにくい)」だとしたら
( ? )のデザイン理論における真のカッコイイ本当のデザインはそこなど取るに足らない もっと大切な目標があるということなのだろうか
は? 良し悪しで語ってる・・・?
いや良し悪し は良いのだろう 良し悪しで好き嫌い だからな・・・
好きとも嫌いとも言ってないよな・・・
好きか嫌いかで それが良いか悪いかというのも 好きとも嫌いとも言ってないからな・・・
セーフだろう
その良し悪しで語ってる「良し」としているのは何なのだ?
とりあえず 優れている は解らないけれども 好きとも嫌いとも言ってはいない セーフだ
いや知らん わからん 目的が違いすぎて「ピグミーマーモセットはエゾシカとは違う」と言われても そうだ としか言えない・・・
「そうだ!」と言わせるためか そうなのか?
最新のサービスがそこにつまっているぞということか 前述をただ置き換えているだけだが お金は未来をひらく そうだ たしかにそうだ
お金がひらく未来と デザインの先進性とかけているのか それはまったく機能と視覚効果に関連はなく 無関係だが 大喜利的にはつながってる
その単純な理由がまったくわからん 逆説的につなぐことで「こんな簡単なこともわからないのか?」という文脈にしているのか?
工業デザインは機能性ありきなのでお札は四角くて紙だ それ以上のなにを求めるのだ単純に 理由として ということなのか?
たぶん古いファッションや演技の方法や工業製品の外装などは流行でないからダサイ(その時点において機能的に直観的でない)とは言えるそれか?
自動車が円盤の形をしているなどダサい(現在においては走行機能とおよそ関係ない形状をしている)とか
ロボットがもっさりしてダサい(およそ人の機能を果たすべき機械が人の形をしていない)など
「時間を経てダサイ」はある
しかしファッションは一巡りしてきたり 半世紀以上のおさがりがカッコよかったりもする
家電も機能とおよそ関係ない形状が「(ダサさが)かっこいい」場合もある 装飾としての無意味さが機能についているという点においてだ
工業製品もおおよそ機械プロセスはかわらないだろうけれども結局商品のバリューを高める「外装(無意味な部分)」の刷新である部分はあるので
機械の役割自体が劣化しない限りデザインの「一周まわってダサい」はそう多くはない気がするが・・・ それは素人考えからだろうな
なつかしいレトロなお札は「ダサくてデザインがいまいち」なのだろうな
聖徳太子の絵だったり500円札だったり 小判だったり和同開珎などはダサいのだろう あんなのお金として使うのは恥ずかしいな
・・・いや充分かもしれん ダサくないきがするが・・・ それは俺のデザインセンスが素人で一般人だから デザインを学んだものからいえばわかってないのだろうな
デザインを学ぶと好きか嫌いかで良し悪しを判断しないのだな なるほど
・・・いや一般人の知識がない人間でもそうでなくても それは一概にいえなくないか?
自分の生活をデザインしているという意味では一般人もデザイナな気がするが その良し悪しは好き嫌いで決めてる気がするが・・・
デザイナーもいかに嫌われようと醜いと蔑まされようとも ダサい悪いといわれようとも 良し悪しのために仕事をするのか・・・
タイトルの「好き嫌いを良し悪しで語るのはやめておけ」つまり良し悪しで好きや嫌いというのはちょっとまて というのは
もしかして「良し悪し」とは一見して一般人には理解しがたいが本当の( ? )や真の( ? )には意味や価値があり
それを知らずに直観的に「好き嫌い」というべきではない 嫌いといっているそれにも重要な機能がある ということなのだろうか・・・?
いやまて 良し悪し という機能的な価値ではなくて 個人の趣向の違いである好き嫌いで評価をしてる と言ってないか・・・?
個人の好きとか嫌いという感情は個人の生活デザインにおいて積極的に取り入れたいか 積極的に排除したいか それを基軸にしてるのでは?
それが良くないんだよな
実際ダサくて使いにくいものを作ることで そのデザインとしての効果が産まれうるってこともあるってことだよな?
たとえばダサくて恥ずかしいから現金もったら使いたくなくなる ついため込んでしまう 見たくもないからすぐ銀行にいれてしまう
それを意図してるとかいうデザイナーの思惑が あったりするってことだよな?
個人の感情としてダサイやとかデザインが悪いという感情の隆起は デザインされたものだ ということなのだろうか・・・
そうだな・・・
確かに個人が意見を代表者としてではなく発言する場合は全て個人の意見であり好き嫌いだよな・・・
あえてあなたは何の代表ですかと聞かないことには そりゃそうだよな・・・
個人が個人のライフデザインをするにあたっての監督は個人であるので 個人の用途においては 好き嫌いを表明しても そのデザインで機能的な良し悪しを語ってもよいのではないか・・・?
デザイナーはその個人の行動を誘導するために 貯めたり使うのをためらったりという動作をすることを予見してのデザインをしているわけなので 個人がそうするそう思うという感想を述べるのは
デザインどおりだったかどうかの答え合わせができる瞬間なのであったほうがよいのではないのか・・・?
デザイナーはもうすでに最初からそんなことはわかっているから答えなど合わせる必要もないし使用されてる現場をみる必要もないし 予見ができているので結果をしる必要さえないのか・・・?
おまえら操られてるぞ と
( ? )に入るのは 自分だった ダサいと批評して檻に入れていたのは 自分自身だと そういうことだったのか だったのか・・・?
ネタバレと他の人の感想で先入観を持ちたくなかったのでなるべく早く見ようと土曜日の朝一に行きました。
一番好きな作品はぼくらのウォーゲーム、次点が時かけ、その次がサマーウォーズ。
サマーウォーズは昨日の金曜ロードショーで久しぶりに見たのですが、12年前というだけあって今見ると結構キツイ部分もあって少ししょんぼりしました。
好きなシーンはいっぱいあるんですけどね。
典型的な細田監督が脚本を手がけるようになってからの作品があまり好きではない人間です。
おおかみこどもで「う〜ん」となり、バケモノの子で盛大にがっかりしました。
それはわたしが作品のターゲットから外れてしまったということなので、それ以降は少し寂しく思いながら劇場に見に行くことはありませんでした。
それなのに何故、今回劇場に足を運んだか。
一つは、描きたいと思っている作品の題材被る可能性があり、それがないかチェックしたいと思ったこと。
もう一つは、主人公のアバターであるベルのデザインをディズニーのジン・キムが手がけたという情報を目にしたからです。
細田作品でよく言われている「ヒロインへの興味の無さ」が、一部他者に委ねることで、もしかしたら今回は解消されて好きになれるかもしれないと期待したのです。
それ以外は流れてくるCMくらいで、ほぼ事前情報なしで見に行きました。
前置きが長くなりましたが、決してアンチがアラを探しに行った訳ではなく、むしろ「おもしろかった!」と思いたい気持ちで見に行きました。
がっつりネタバレしていくのでご注意ください。
仮想空間という3Dと相性のよい舞台設定もあり、2Dと3Dの違和感も少ないです。
映画の一つの見どころでもある竜の正体探しなんですが、これは細田作品今まで見てきた人はすぐわかっちゃうんじゃないでしょうか。
わたしも早々にわかってしまって、もうちょい誰なんだろうって楽しみたかったのが正直なところです。
それはさておき、主人公すずのAsの名前「ベル」からも分かる通り竜そばは美女と野獣のオマージュが多く登場します。
オマージュ自体は別にいいのですが、ただ単に竜と女の子の二人が美女と野獣っぽいから表層的になぞっただけいう印象を受けました。
同じ美女と野獣をオマージュしたシェイプ・オブ・ウォーターは、野獣がハンサムな王子にはならず最後まで野獣のまま二人が結ばれ、本家を踏襲した上で独自のストーリーになっていました。
ですが、竜そばはそれが出来ていません。
そもそも竜が作中で醜いと言われてますけどかっこよくないですか?
怖いかもしれないけど醜くはないでしょう……。
人間だらけの中なら浮くかもしれないですけどUの世界みんな色んな格好ですし。
竜の野獣である要素が薄く、本家でも言われているルッキズムの助長がむしろ強化されてしまっているようにも感じられました。
Uならまったく別の人生を生きることができると謳っているのに、アバターは生体情報から自動生成で自分の意思では自由に出来ない。
そして見た目で差別を受ける。
仮想空間は理想の世界ではなく現実の地続きで、ある意味リアリティはあるのかもしれません。
竜のあざやベルのそばかすが現実とリンクし、すずに竜の正体を気にさせ、探せるようにするために必要だっただけではないでしょうか。
細田監督はこういったシーンを描きたい!といったところからストーリーを膨らませていくタイプに見えます。
その手法は全然アリだと思うんですが、キャラクターやストーリーがそれを実現するための駒に収まってしまっています。
特に脇役はひどいです。
ルカちゃんはすずとベルとのギャップが際立つよう、現実での立ち位置を対比で表すため。
ヒロちゃんはすずをUの世界でスムーズに活躍させるための便利屋。
しのぶくんに手を握られて学校中の女子から叩かれ炎上する際のゲームのような演出も力が入っていましたが、あまり必要性を感じずやりたかっただけのように見えました。
敵役の魅力も乏しいです。
明らかな噛ませ犬だと竜の強さが伝わらず、バトルシーンにも緊張感が生まれません。
自警団とのバトルはストーリーの本筋ではないですが、アンベイルという重要な能力を持っています。
そんなキャラクターの作りが蔑ろなのはマイナスでしかありません。
何故Uの管理者でもない彼らが、キックやブロックや削除ではなくAsのオリジンを暴く能力を持っているのか。
権威がある印象をつけるためスポンサーが多数いる描写がありましたが、それでは説明になっていません。
おそらくストーリーが進めるため、ベルがすずになって歌うシーンを作るために作られたのだと思います。
それでも説得力のある設定を付随してあげればいいのですが、それがなされていません。
描きたいシーンとシーンの間をとりあえず大きな齟齬が出ないように埋めているだけのストーリー。
とりあえずでは見せ場に行く前に気持ちが躓き、せっかく力を入れて描かれたシーンが空虚に感じられてしまいます。
メインストーリーであるはずのすずの成長はこれでもかと言うほど分かりやすく描かれています。
母が死んで歌えなくなった
↓
Uの世界なら歌えるようになった
↓
↓
母のように他者を救えるようになった
他者との関わりから閉ざされていた心が開いていく王道のストーリーを美女と野獣でオマージュし、今までやってきた得意なものを詰め込んだ今回の作品。
新しい試みは何かあったのでしょうか?
でもそれ以外は既視感のあるものがほとんどで驚きがありませんでした。
唯一あるとすれば音楽へのこだわりでしょうか。
それもライブシーンに至るまでのストーリーで白けてしまうのがあまりにも勿体ない。
わたしにはケモとショタとクジラと電脳世界でのライブが描きたかったことしか分からなかったです。
結論としては前置きで書いたものと変わらず、細田監督は脚本を他者に任せるか、共同にした方がいいと言うものになってしまいました。
残念ながら今回もやはりわたしはターゲットにはなれなかったようです。
あくまでわたしのものさしがストーリーに重きを置くのでこういった評価になってしまうだけで、他の評価軸で見れば全然楽しめる作品であると思います。
まだ他の方の感想を読んでないので、どれくらい自分との感じ方どれくらい差があるのかちょっと楽しみです。
書き慣れていないので読みづらかったかと思いますが、最後まで読んでくださりありがとうございます。
最近、ウマ娘のリリース関係でしばしば『検索汚染』って言葉を見かけるようになったけど、この言葉の傲慢さが心底嫌い。
検索したら人やら馬やら物やらではなくそれらを元ネタにしたキャラクターが出てきたとして、それは検索エンジンとそのユーザーとの間の需給関係の結果としてそうなっただけで、汚染でもなんでもないだろーが。
需要が低いと検索エンジンに判断された側の負け犬が偉そうに他コンテンツに文句つけてんじゃねーよ!
検索エンジンはお前の知りたいことを教えてくれる担任の先生じゃねーんだよ!
文句があるならそのキャラクターコンテンツよりも需要があると検索エンジンに思ってもらえるように、自分で魅力的なサイトを作り、自分でその話題についてたくさん検索して需要を盛り上げろ!
意外にも検索上位はだいたいが歴史上の偉人である本物の信長についてだぞ。
信長はその存在感で数多くのキャラクター達を下位に押しやっているのだ。
悔しかったら、お前も自分の好きなモノにそのくらいの存在感を持たせて、後追いのキャラクターなんて検索下位に追い落としてしまえ。
……ただまあ最近見かける『ウマ娘に文句をつけている競馬ファン』はまだマシな方だとも思う。
その批判に論理的な正当性はないが私怨を抱くのは仕方ないとこだと思う。
俺だって自分の好きなモノを検索したら、よく知らない美少女イラストばかり出てきたら感情としてそれは嫌だと思う。
それよりも一番気持ち悪いのは、歴史マニアでもないのに偉人キャラクターに文句をつける奴らみたいな、そもそも自分だって元ネタの方を求めて検索するわけでもないのに、文句だけはいう奴らだ。
アーサー王やジャンヌダルクを検索してパツキン美少女が出てきたとして、お前は困るのか?
戦国武将を検索してイケメンが雑兵を薙ぎ払っているところが出てきたら、お前の生活に何か支障はあるのか?
一人のオタクがキャラクターのイラストを見るよりも多くの数、その人物の肖像画を画像検索してから出直してこい。
検索エンジンは自分たちの客のために情報を提供しているのであって、教科書みたいな公正な知識の伝達を役目としているわけじゃねーんだよ。
ちなみに俺はウマ娘はやってない。
競馬の方は人生で二度しかやったことない。友人に誘われて一度競馬場に行って楽しかったから今度は休みの日に一人で行ったら別に面白いとも思えず、一回目が楽しかったのは競馬そのものが楽しかったんじゃなくて初めて行った場所で友人とワイワイするのが楽しかっただけと気がついた。