はてなキーワード: 村上隆とは
いやこれ、サブカルとオタ兼ねてた自分から言うと、腐女子の潜伏問題と一緒で、オタ文化がそもそも「潜伏大好きオープンになるの嫌だ、オープンな奴は叩け」な人たちが集まって出来た文化だから、オープンなサブカルを憎んで叩いているだけの構図かと。
村上隆を嫌いまくり、匿名で荒らしまくる2ch文化の担い手であった男オタの行動を見ても分かるとおり、「自分の嗜好や趣味をオープンにすることを憎む文化」がそもそも男女問わずオタの本質で、だから似た物を愛好しているにもかかわらずオープンにしているサブカルが憎くて憎くてたまらなかったんだろ? と。
オタがきもがられたから潜伏したんじゃなくて、潜伏することを好むから、他者と交流がもてずに、きもがられたんだろ、という。
もっと言うと、物事をオープンにするのは「私と他人は超えられない壁がある。全ての人間は孤独であり、他者の思考を知る手段も共有する手段もない」と言うのを認めることができる人間がすることだ。
オタはそれが出来ないから、オープンにすると「自分だけを特別だと思ってやがる!! 他人にどう見られるかしか考えてない!!」と逆切れする。
孤独を気取るくせに、実はもっとも孤独から程遠い感性(思考を共有できる他者が存在するはず、という希望を捨てられない感性)を持っているから、「いや、オープンにしないとお互いが何を考えているかなんて伝わらない」というのを見せ付けられると、発狂するという。
でなきゃ、オタ叩きが少なくなった今なら、とっとと実名でばんばんオープンに生きるのがオタの主流になってないとおかしいだろ? 90年代より居心地よくなっているのなら。
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。
奈良美智 「自分の作品のファンがラッセンも好きなら発表をやめる」 - Togetter
ムサビの受講生アンケートにおける「嫌いなアーティスト」に村上隆、草間彌生、会田誠、カオスラウンジが挙がるも,奈良美智が挙がらなかったらしい。
それについて,武田氏(誰?)が「奈良美智が好きな人はラッセンが好きなんだろう」という発言をしたらしい。
それについて,奈良氏が「武田さんの発言は、なんだか心外だなぁと思います。僕の作品が好きな人に統計をとってみてほしいですね~。ほんとにそうだったら、発表を辞めます。本気で。」とtweetした。
ラッセンは「美術」として扱われておらず,他方で奈良は「美術」として扱われている。これは,ラッセンは美術館に展示されない(あるいは美術館を発表手段としていない)が,奈良は美術館に展示されていることに端的に表れている。村上隆が美術館に入り鳴子ハナハルが美術館に入らないのと同じである。
もっとも,そのような,業界での位置づけ(奈良=内部者,ラッセン=部外者)という視点は,両者のファン層が重複するか否かと関係しない。
ファンになるか否かは,業界での位置づけではなく個々人の好みの問題であるから,作品あるいは商品自体の性質から導かれるはずだ。
ラッセンの絵は,海とイルカという具体的なモチーフを扱いながら何らの意味を持たない。
奈良の絵もまた,何らの意味を持たない。(それ故に,殊更に「嫌いなアーティスト」として認識する必要に迫られない。)
少女という具体的モチーフを扱っているかのように見えるが,実際にそこで行われているのは,キャンバスに直線を数本引いて「この線の緊張感が」と云々する古式ゆかしい現代アートそのものである。
作品のスタイルからして,ラッセンは中身の無い美しい物好きに,奈良は中身の無い顕学主義者に好まれるであろうから,両者のファン層は異なると予想される。
したがって武田氏の発言は失当であり,奈良が怒るのも尤もなのである。
(などと書いてみたけど,何らの意味を持たないという点では草間彌生も同じなのに彼女はムサビ生に嫌われているらしいので,間違ってる気がする。)
同じく美大受験の予備校へ通い、都内で一番難しいと言われている私立美大を出た者です。専攻は油絵。20年くらい前の受験生の多い時代だったので、デッサンとかやらせたら相当うまいと思う。
言ってることはその通り。
なんだけど、予備校で身につく画力って作家として生きていくために必要なものとは違うよね。
まぁ、村上隆なんかは予備校こそが画力を身につけるところ、みたいなことを確か言ってたと思うけど。
美大を卒業した人間のうち何人が絵で食えているか、立ち止まって考えてみるといい。
漫画家に限って言うと、俺が知ってる美大卒の人って、西原理恵子、しりあがり寿、佐藤秀峰くらいなんだけど。(不勉強でごめんね)
あ、ちなみに上位の美大で予備校に通わず入学する者はほとんどいない。
藤原正彦。
内田樹。
ここ数年くらい「とりあえず一躍脚光を浴びた」感のある人間を見てきたけど、
この3人だけは「なんだかなあ」という感じでいつも見ていた。
一躍脚光を浴びたけど、いつの間にかフェードアウトしてった藤原先生と内田先生。
そして、なんか読者の失笑を一身に浴びつつ、フェードアウトしつつあるイケハヤ師。
本についてはもう色んなところから突っ込みを受けた挙句、気付いたら保守の論客みたいな感じで持ちあげられたのはいいけど、
あの人今どうしてんだろうみたいな感じの人。
品格本以降、全ての段落に突っ込みどころを搭載したクラスター爆弾を投下してくれていた。
たぶん割と高位の老害。
内田樹。代表作はたぶん「ハシズムを許すな」だと思われる。自称思想家兼武道家の本業翻訳家兼実業家。チラシの人や精神科医のお友達。
橋下選挙のときにちょこっと出てきて喧嘩を売ってきたけど土俵に出てこないままフェードアウトした感がある元大学教授。
やまもといちろう曰く、「専門から外れた物事でゴミすぎる論説をしては物笑いの種にされる」
池田信夫曰く、「彼の頭が悪いのはしょうがないが、せめて知らないことには口を出さないほうがいい」
深沢明人曰く、「現実に立脚した話ではなく、何か気の利いたこと、一風変わったことを口にして、商品にしてやろうというだけ」
そして我等がイケハヤ師である。
最早説明不要な感じになってきてるが、最近の尊師のエントリーがびっくりするほど酷い。
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アンチのみなさん、今日もせっせとありがとうございます - ihayato.書店 | ihayato.書店
どのくらい酷いかというと、顔を真っ赤にしながら自転車操業やってんだけど肝心の自転車は1ナノも進んでいない。
そんな感じである。
とりあえずこの2つのエントリーの間のブクマ数を調べてみた。(2月25日時点)
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安易な謝罪がモンスター消費者を助長させる - ihayato.書店 | ihayato.書店 5
(本)村上隆「芸術闘争論」 - ihayato.書店 | ihayato.書店 1
「一流の人は、みんな異常」—デザイナー・山本寛斎名言まとめ - ihayato.書店 | ihayato.書店 41
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もうめんどいので調べるのをやめますが、炎上系エントリーを挟んだエントリーがあんまりブックマークを稼げていない。
というか、炎上系エントリーと、それ以外のエントリーの落差が酷すぎる。
「プロブロガー」なのに大丈夫なんだろうか。本来このあたりのエントリーでPVなりアフィ収入なり稼がないといけない筈なのに。
これで月収なのか売上なのかよく分からないけど月間52万(以上)稼ごうというのだろうか。
やまもといちろうとのブログでのやりとりのほうが圧倒的に面白かったし、
現在進行形でイケハヤ師の株価がどんどん下落、というか暴落していっているので、
対談をやる頃にはもうイケハヤ師自身が賞味期限切れになってフェードアウトしている可能性大である。
フェードアウトしていった2名と、これからフェードアウトしていくであろうイケハヤ師、
この一連のサイクル、特に3において主張されるものが過激であればあるほど、炎上すればするほど、有名になる。
一部の人間に尻尾を振りまいている内容ならなおよい。(保守、反TPP、脱原発、脱貨幣経済など)
しかし毎回違った燃料が投下され続けなければ周りからは飽きられてしまう。
なおかつ1(専門知識がないこと)が露見しないように注意しなければならない。簡単なように見えて実は結構難しい事なのだ。
FUJIWARA先生と、内田先生は、専門知識がないことが露呈してしまったために、フェードアウトしてしまった。
今、イケハヤ尊師も、周りの失笑を買いながら、専門知識が皆無なことを露呈している。
彼らの言論に共通しているのは、「賛否両論ではなく、ただの間違い探しである」ことだ。
間違い探しになりはじめたら、もう終わりだと思う。
2004年。ネットで話題になっていた、町山氏による批判記事を見て、
村上隆という、オタクからひどく嫌われている芸術家がいることを知った。
(町山氏を知ったのもそれが初めてだった)
その後、村上氏のことをネットで調べ、ギャラリーフェイクの22巻も読んでみた。
村上氏に対する私の印象は、「オタク文化を剽窃する似非クリエイター」になった。
そんな印象が変わりだしたのは、2010年ごろだった。
Twitterやニコ動の番組を通じて村上氏の人柄や言論に触れたことで、
もしかして自分は村上氏を誤解しているのでは……と思うようになった。
芸術への興味がわいたので、放送大学で芸術の講義をとってみた。
芸術家や作品を語る中で、「作品の見方は自由。本当に優れた作品なら、誰にでも理解できる」
「芸術とは、天才が生み出す独創的な表現である」といった通俗的な認識が、
いかに幼稚で次元の低いロマンチズムにすぎないかが、繰り返し説明されていた。
この講義は本当に面白かった。物の見方が変わる快感を味わうことができた。
しかし、何より大きかったのはsukebeningen氏である。
絵の良し悪しがわからない私にも、sukebeningen氏の意見は、どうしても正しく思えてしまう。
美術を知らない私でも納得せざるを得ないほど、sukebeningen氏の言葉は鋭い。
とびきり強い正解を出しているように見えるのだ。
また、創作という営みについてのsukebeningen氏の考えを読まされるたび、
視界が大きく広がるような、頭の中がすっきりと晴れるような感動があった。
sukebeningen氏の言論を通じて、村上隆への印象が大きく変わることになった。
いいことばかりではない。
sukebeningen氏のおかげで、自分の意見を持つことが怖くなった。
「権威が認めたものが芸術」って指摘して怒る人は、一体何を芸術としたいのかなあ。大体、みんな美術館にあるような「芸術」で心揺さぶられたことなんか、ほとんどないはずです。我々の心を揺さぶったのは、大量複製されたアニメやマンガだったわけで。
↑これらを見て、村上隆の「日本には現代美術のマーケットがない」というセリフや7~8年前に読んだ↓を思い出した。
現代美術なり、現代音楽なり、現代批評なり、頭に「現代」とつくヨーロッパ由来のハイカルチャーは、日本では、自前のマーケットを持たないまま、権威によってしか人材調達ができなくなっている。あまりにその制度が硬直しているから、制度のなかでキャリアを持っている人間が、その硬直を打ち破っていかないとどうしようもない。
http://anond.hatelabo.jp/20110813025031 に対する私見。ブログに書く程でもないんで此処に。
元増田が疑問に思っているように「おいしんぼ」を加工して遊ぶという行為とカオスラウンジは似ているようにも、見える。
じゃあ何が違うのかっていうと「使った元ネタ」の出自が何かって話なんだと思うよ。
カオスラウンジのコラージュと、おいしんぼのコラージュで決定的に違うのは、カオスラウンジのコラージュの元ネタが二次創作であり、おいしんぼが商業作品である、という点。
これだけ。
ちょっと前に村上隆が自分のやってる事を翻訳だ、って言ったのをきっかけに揉めたのを覚えている人もいると思うけど、これに当てはめて考えるとわかりやすいんじゃないかな。
(村上隆翻訳事件については http://togetter.com/li/46166 http://mojix.org/2010/09/03/murakami-mukatsuku http://tsunoga.blog32.fc2.com/blog-entry-298.html らへんを読んでくれ)
「おまえら」は商業作品をコラージュしたり二次創作したり、という「翻訳」をして、それを「おまえら」の世界で楽しんでいる。
それに対して「カオスラウンジ」は二次創作をコラージュするという行為を通してアートに「翻訳」した。ついでにいうなら「翻訳」をきっかけに金儲けもしたw
そういう事なんじゃないかな、と思ってる。
アートっていうのは「権威」によって「これはアートだ」と認められる事だ、と思う。
その権威が何処かの美術館に飾られる事なのか、なんたらビエンナーレに入賞することなのか、村上隆や美術手帖に絶賛されることなのか、何処かのオークションで何億って価格で落札される事なのかはともかくとして「これは、アートだ」と認められさえすれば、便器にサインをしただけの簡単なお仕事ですらアートになるよっていうのが20世紀初頭からのアートシーンを支配している「空気」だよね。
カオスラウンジは、だから「そういう空気」が支配している世界に二次創作をコラージュするという「翻訳」をして、その「翻訳をした内容(と行為)」がアートとして認められた。
でも「おまえら」からすれば「自分たちの愛が穢された!」って事になるんだろう。
いつも自分たちが商業作品を二次創作という形で「翻訳」して楽しんでいる事と全く同質なのにね。
カオスラウンジがやってる行為とMADの違いが何処にあるのか説明出来る人はいないんじゃないかな。
元増田の疑問は、まさにそこにあると思う。
二次創作を更に二次創作するサークルもいると聞くが、それは「おまえら」の世界の中で完結する行為だから許容されうる範囲の事なんだろう。(揉める事もあるって聞くけどね)
上手く表現出来る気がしない(だから増田に逃げたというのもあるんだが)のだけれど「お互い、人の財産を奪う事の罪悪感は低いんだけど、自分たちの財産が奪われる事には敏感だよね」って事に尽きるのではないかな。(財産、という言葉は適切ではないように思うけれど、他に上手い言葉が思いつかない)
個人的には、カオスラウンジの「作品」を見ても手段も内容もたいした事ないなあ、と思う。
じゃあ何がアートとして評価されたんだろうと自分なりに篩に掛けて残ったのは「二次創作をコラージュする」という行為(水浸しもだけど)であって、それだけは既存のアートシーンには(おそらく)存在なかったと思うからだ(思いついたけど誰もやらなかっただけなんだよ、という「批判」はあるとは思うけど)
そんなわけでカオスラウンジの皆さんの今後の活動を生暖かく見守っていきたい次第でございます。
一回「やらかした」事というのは、それが何であれ、二度と繰り返せないのがアートの世界であるにも拘らず、バッシング覚悟で二次創作をコラージュするという「翻訳」をしなければカオスラウンジという集団のアートとしての価値は無価値であると言っても過言ではないだろうから。
自分の敵は自分っていうか、針のむしろを用意したのは自分自身なんだし。10年代の日本のアートシーンの騎手としてがんばってくだしい。
カオスラウンジなんて大した美術教育も受けてないしオタ度も薄々だし単なるオタとアートを勘違いした徒花的存在(あるいはアウトサイダーアート)にすぎないという事にはみなさんそろそろお気づきだろうが、なんでここまで無駄に色々できちゃったかってやっぱり村上隆が一旦認めちゃったことが最大の問題だと思うんだよな。
別に大した価値基準もない現代アートの業界のなかで、別に公募展とかでも受賞歴のない奴らにとって村上隆の評価ってのはそれこそ成り上がりのための特急券みたいなもんだったんだろうなと(故に駄サイクルと言われたりもしてるんだろう)。
ただ村上隆って、実のところ創作(と言うと反発する人もいるだろうが)の力はかなりのものを持っているが、人のもんを判断する審美眼みたいなものは決定的に欠けているんじゃないか。最近それに気づいた。
村上隆の作品とそこに対する理論構築に関しては個人的にかなり評価しているが、自作以外に対する批評、感想、それから村上隆の取り巻きその他もろもろは正直言って完全無視で構わないんじゃないかなーと思っている。
海洋堂行った時にあまりにフィギュアを見る目がないから専務におもいっきりバカにされてたり、ちょっとアレな作品を持ち上げがちだったり、たぶん見る目の無さってのは昔っから今まで一貫して変わってないんだろうな。
まあ名選手が名監督になるってわけでもないのはあたりまえのことだし。
村上のおじさんにはワークス体勢でバンバン作品を作っていって欲しいが、無駄に下部組織作ったりして自分の方向性以外の方面に手を出そうとしてる最近の活動は正直言ってやめた方がいいかなと思います。