http://anond.hatelabo.jp/20110813025031 に対する私見。ブログに書く程でもないんで此処に。
元増田が疑問に思っているように「おいしんぼ」を加工して遊ぶという行為とカオスラウンジは似ているようにも、見える。
じゃあ何が違うのかっていうと「使った元ネタ」の出自が何かって話なんだと思うよ。
カオスラウンジのコラージュと、おいしんぼのコラージュで決定的に違うのは、カオスラウンジのコラージュの元ネタが二次創作であり、おいしんぼが商業作品である、という点。
これだけ。
ちょっと前に村上隆が自分のやってる事を翻訳だ、って言ったのをきっかけに揉めたのを覚えている人もいると思うけど、これに当てはめて考えるとわかりやすいんじゃないかな。
(村上隆翻訳事件については http://togetter.com/li/46166 http://mojix.org/2010/09/03/murakami-mukatsuku http://tsunoga.blog32.fc2.com/blog-entry-298.html らへんを読んでくれ)
「おまえら」は商業作品をコラージュしたり二次創作したり、という「翻訳」をして、それを「おまえら」の世界で楽しんでいる。
それに対して「カオスラウンジ」は二次創作をコラージュするという行為を通してアートに「翻訳」した。ついでにいうなら「翻訳」をきっかけに金儲けもしたw
そういう事なんじゃないかな、と思ってる。
アートっていうのは「権威」によって「これはアートだ」と認められる事だ、と思う。
その権威が何処かの美術館に飾られる事なのか、なんたらビエンナーレに入賞することなのか、村上隆や美術手帖に絶賛されることなのか、何処かのオークションで何億って価格で落札される事なのかはともかくとして「これは、アートだ」と認められさえすれば、便器にサインをしただけの簡単なお仕事ですらアートになるよっていうのが20世紀初頭からのアートシーンを支配している「空気」だよね。
カオスラウンジは、だから「そういう空気」が支配している世界に二次創作をコラージュするという「翻訳」をして、その「翻訳をした内容(と行為)」がアートとして認められた。
でも「おまえら」からすれば「自分たちの愛が穢された!」って事になるんだろう。
いつも自分たちが商業作品を二次創作という形で「翻訳」して楽しんでいる事と全く同質なのにね。
カオスラウンジがやってる行為とMADの違いが何処にあるのか説明出来る人はいないんじゃないかな。
元増田の疑問は、まさにそこにあると思う。
二次創作を更に二次創作するサークルもいると聞くが、それは「おまえら」の世界の中で完結する行為だから許容されうる範囲の事なんだろう。(揉める事もあるって聞くけどね)
上手く表現出来る気がしない(だから増田に逃げたというのもあるんだが)のだけれど「お互い、人の財産を奪う事の罪悪感は低いんだけど、自分たちの財産が奪われる事には敏感だよね」って事に尽きるのではないかな。(財産、という言葉は適切ではないように思うけれど、他に上手い言葉が思いつかない)
個人的には、カオスラウンジの「作品」を見ても手段も内容もたいした事ないなあ、と思う。
じゃあ何がアートとして評価されたんだろうと自分なりに篩に掛けて残ったのは「二次創作をコラージュする」という行為(水浸しもだけど)であって、それだけは既存のアートシーンには(おそらく)存在なかったと思うからだ(思いついたけど誰もやらなかっただけなんだよ、という「批判」はあるとは思うけど)
そんなわけでカオスラウンジの皆さんの今後の活動を生暖かく見守っていきたい次第でございます。
一回「やらかした」事というのは、それが何であれ、二度と繰り返せないのがアートの世界であるにも拘らず、バッシング覚悟で二次創作をコラージュするという「翻訳」をしなければカオスラウンジという集団のアートとしての価値は無価値であると言っても過言ではないだろうから。
自分の敵は自分っていうか、針のむしろを用意したのは自分自身なんだし。10年代の日本のアートシーンの騎手としてがんばってくだしい。
何これクソワロタwwwwwwwwwwwww これね。 現代アートはあれだけぶったたかれて、原作改変パロ系コラージュ作品が受け入れられる理屈が全然分からないから誰か教えて...
まったくどうでもいいことだが、「騎手」は馬などの人間が乗れる動物を操る人のことだと思う。 「旗手」ですね。