はてなキーワード: 新聞配達とは
俺んち母子家庭で貧乏だったから、ファミコン買えなかったよ。。。
すっげーうらやましかったな、持ってる奴が。
「ファミコン持ってない奴が怪しい」なんて、真っ先に疑われたっけ。
貧乏の家になんか生まれてこなきゃよかった!って悪態ついたときの
母の悲しそうな目、今でも忘れないなぁ、、。
これでようやく遊べると思ったんだけど、ニチイのゲーム売り場の
前まで来て買うのやめた。そのかわりに小3の妹にアシックスの
ジャージを買ってやった。いままで俺のお下がりを折って着ていたから。
母にはハンドクリーム買ってやった。いっつも手が荒れてたから。
ハンドクリームの缶を見せられた。
泣いたね、、。
初めて言ったよ「生んでくれてありがとう」って。
まあ、給食費盗んだのは俺なんだけどね。
https://www.businessinsider.jp/post-207610
「恥の意識」だよな
親兄弟とか友人の世話になったり借金するのは構わないと思っても
赤の他人の助力を受けるのはみっともない
助けられる先方もそのように考えるだろう(だから相手に恥をかかせてはいけない)
また、赤の他人を助けると「ええかっこしい」「偽善者め」と見られるのが怖い
――ここまでは多くの人がすでに同じ事を考えてるだろう
ではなぜ、赤の他人に助けられると恥だと思うのだろうか?
***
駅までは一緒に運んでやるとか苦には思わない
以前、階段で乳母車を押してる人がいたんで下から支えてやったことがある
この場合、大荷物を持った老人にも乳幼児連れの人にも何の落ち度もない
学生時代は新聞配達の店で働いていたが、夕刊の配達時にはたびたび
前カゴに数kgの新聞を満載した自転車を上手に停車して降りられず
このようなとき、見ず知らずの通行人――確実に俺より身なりの良いビジネスマンだの
汗臭い新聞配達員の俺に近寄るだけで可哀相な若い女性などが拾ってくれようとすると
申し訳なさの余り切腹でもせねばいけないような気分になったものであった
だって、どう考えても、五体満足な成人男性の自分が、上手に自転車を停められず
自分に夕刊の束をぶちまけてるのは、言い訳のしようなく自分のせいだ
相手に対して感謝の念をすっ飛ばして「加害者」になったような罪悪感を覚えてしまう
無論、地面に散らばった夕刊を拾ってくれた人は
俺のせいで被害を受けたなどとは一切思ってない「かも知れない」
が、「かも知れない」であって、本心は分からない、それが怖いのだ
***
ではなぜ、人に助けられると罪悪感や加害者意識を覚えてしまうのだろうか?
つまり、助けられたら相応のお礼をせねばならない
乳母車で段差を越えるのを手伝ってもらった……といった程度のことなら
が、「本当なら相応のお礼(自分の失敗に起因するなら「お詫び」)」
をしないといけないのに、それをせずに他人の善意を受けるというのは
(まあ、別の機会に別の赤の他人に親切にすればいいんだが、そんな機会はいつあるかわからない)
***
要するに、因果応報とか、権利には義務が伴うとか、目には目をとか
そういう「世の中はプラスマイナスゼロの均衡があらねばならない」
という価値観が、無償の人助けを「自然に反する異例なこと」のように
思わせているのではないか?
***
金持ちが見ず知らずの貧乏人を助けたりすれば死後アッラーに高く評価され
逆に助けられた方も「助ける機会を作ってやった」という善行と見なされるとかいう
この後段部分が重要だ
つまり、一方的に助けられることを精神的な負債と思わずに済むような
(仏教渡来の初期には皇室が悲田院とかやってたけど恒常的には定着しなかった)
ただまあ、この日本の「他人に助けられるのは恥」という文化のおかげで
日本では生活保護を忌避する人が多く、社会保障費が安く済んでいるのは確実
悪い意味でも、世の中よくできてるよなあ……と感じるばかり
はてなは引きこもりに対してやたら甘いけどさ、結局引きこもりで成り立つだけの環境がないと引きこもれないわけじゃん。練馬の件なんて最たるもんだけど、実家に恵まれてるからできることだよね。いじめを受けた傷だなんだで被害者ぶってるけど、甘えもいいとこだと思う。
自分は貧困家庭に生まれ育って、中学から新聞配達して家に金を入れてた。
高校の授業料も自分で払いながら、大学進学を目指した。両親のようにはなりたくなかったから。
夜はバイト、早朝に起きて勉強・弁当の作成、通学の繰り替えし。
高校生らしい遊びはせずにいたら、友達とは疎遠になり、あるグループからは私物を隠されたり壊されたり、嫌がらせを受けたりしながら、3年間で120万円を貯めた。
大学に入ってから出会ったのは、親の金で遊んでいる奴、親の金で留学だのなんだのを繰り返し英語が堪能な奴ら。自分が授業料を稼ぐのに3つのバイトを掛け持ちして働いている一方で、奴らは金の心配をせずに遊びなら勉学に励み、見事な成績を挙げていた。
自分が求めても、決して届かない環境にいて、結果を出している。
その事実だけが重くのしかかり、ストレスで円形脱毛症にかかった。同じタイミングで実家が更に傾き、大学にいることすら困難になった。休学を勧められたものの、休学にかかる費用を負担できず、大学中退となった。
しかし休んではいられない。すぐに仕事を始めて家に金をいれなければならない。アパレル系の会社で働き口が見つかった。働いているうちにアルバイトから契約社員に雇用形態が変わった。
そして東日本大震災が起きた。母方の実家が福島だった。避難区域に住んでいた祖母と祖父が住むことになった。金銭的な支援付きで。金銭的にはなんとかやっていけるようになったが、狭い部屋で5人が暮らすのは無理だった。これ以上実家に搾取されたくなかったので、これ幸いと着の身着のまま上京した。こうして逃げ込んだのは家賃4万円のボロアパート。布団はなかったので洋服を床にしいて寝ていた。洗髪は2日に1回、2Lのペットボトルにお湯をためて洗った。実家が貧乏だったので苦ではなかった。
手に職を、と、未経験で雇ってくれる映像制作会社の求人に応募した。すぐに社員は無理だけどインターンなら、ということでアパレルのシフトが入ってない日は映像制作会社で働くことになった。無休で1日20時間近く働かせられていたが楽しかった。やがて社長がインターン1日3000円くれることになって嬉しかった。半年続けていたところで、社員として入社しないかとオファーされ、迷いなく承諾した。
3年間がむしゃらに働いた。その間、丸一日休日だった日は1ヶ月分もないだろう。それでも手がけた実績や技能が身につき、映像系でフリーランスとして独立した。
今は、人並みの仕事量で人並みに稼いでいる。途中で何回電車に飛び込もうと思ったか。引きこもりのニュースを見ては、実家に金があって羨ましいと思っていた。自分は家に戻った所で居場所もないし、働くことからは逃げられない。だから、実家に戻らないで自分が生きる方法を掴み取ってきた。
新聞配達からの司法試験合格とか、除籍繰り返しても薬剤師とか、何が何でもモノにする!という根性が感じられるが、元増田にはそれがない。
世間的に見栄えのする仕事とかないかなー、大卒の肩書きとか資格取れないかなー。あ、あまり難しいのは勘弁〜。キツイのも汚いのも嫌〜。てか、俺様が中卒高卒レベルの底辺労働やる訳ないっしょ。バカにしてんのか。年齢差別だ差別!
みたいなやつだよ?何の目的意識もないやつ。
やれるもんならやってみろ、と言いたい。
薬剤師って汚れ仕事じゃないし国家資格だし、と考えているみたいなのでやってみたらいい。薬学部は頭の回転が速くて気の強い女子学生やシンママの巣窟だけどな。そんな環境で6年間。せいぜい虐められないことを祈っとくわ。
なんか盛り上がってるので参加させてくれ。
[基本スペック]
ややADHD気味で人の話に集中できない。図形脳で言語スキル(特に会話)が弱い。
親は両方中卒で無口、兄貴は不登校引きこもり、弟は知恵遅れ気味。親に何かを教わったという経験があまりなく、親の無口が自分にも遺伝している。
家は全く裕福ではなく、父親は過去有名鉄鋼会社で工員勤務。俺が小さい頃に仕事中の事故で片足を失ったがそれでも家族を養うために働き続けてくれた。
[中学校]
大阪の西成に近い、低階層のクラスの家庭が沢山あるエリア。なのでヤンキーが沢山いる地域だった。周りの奴らと比べて頭の出来が良いかも?という自信はあったが、ある時進研模試を受けて自分の偏差値が55程度であることを知る。しかしその当時は偏差値の意味もよく知らず、周りは皆偏差値45ばかりの中55とってる俺は輝いて見えたし、学年一番の偏差値60の奴が天才に見えた。
勉強はあまりしなかったが図鑑などを読むのは大好きだったし特に数学が好きで他のやつが解けない難しい問題を解けるという自信があった。
周りの友達にはあまり行儀の良い子はおらず、いつも誰かの家に集まって夜中までワイワイゲームしたり、夜の公園に集まって時には朝まで駄弁ったり、楽しかったがあまり真面目に勉強はしなかった。授業中はほぼ教科書の落書きかパラパラ漫画を書いていた。
授業中騒ぐようなことはなかったが、もともとADHD気味で人の話を聞けないのと、夜まで遊んでいたり早朝新聞配達のバイトをしたりしていたので先生からの覚えは悪かった。受験の時に「お前は内申点悪いから公立いけんぞ」と言われた。金のない親には非常に申し訳ないことをした。
[高校]
高校に入って最初の構内統一試験みたいなものがあり、そこで自分は大して頭が良くないらしいということに気づいた。周りの友達と話をしていても、なんか自分の考え浅いし遅いな、と感じることが増えてきて、それまで自分はそこそこ頭いいと思っていたのが叩き潰されて結構なショックを受けた。この時に感じた自分は凡人以下であるという自己認識はその後の人生に大きな影響を与えた。それと同時に英語や国語は負けてもいいが数学だけは負けては行けないというプライドに火がついた。
高校の偏差値は高くなかったが担任の教師が偏執的に関関同立に執着しており、お前たちは人生に勝つために勉強しなければいけないという脅迫まがいのプレッシャーを毎日のようにかけてきた。もともと中高一貫の進学組は大学受験マインドが高く、関関同立目指して頑張るぞ、という空気があったので自分もだんだん感化されて勉強するようになっていった。
担任教師は人間性としてはそびえ立つクソだったが奴がいなければ今の自分はなかっただろうな。
だんだん勉強が楽しくなり、受験マニアの友達ができたこともあり、書店で参考書を眺めるという日課ができてきた。
当時家に金が無いことはわかっていたので小遣いはもらっておらず、どこかに遊びに行くとか美味しいものを食べるとかできる状態ではなかった。思い返せば高校の間友達とプールに行くとか遊園地に遊びに行くとかそういう経験は一度もなかったな。
しかし書店にある沢山の参考書を買いたい欲が日に日に強まってきた。そこで、小遣いはもらってはいなかったが毎日昼飯代として500円支給されていたので週の半分くらいは昼飯を食わずにお金を貯めることで月5,000円くらい貯めてこれで参考書を買ったり駿台夏期講習に申し込んだりできる仕組みを開発した。
参考書の数が増え真面目に勉強をするようになり、やはり自分の数学の能力は人より優れているという自信を再度取り戻すようになった。数学は本当に楽しくて熱中した。そのうち数学の先生から「大学への数学」の存在を紹介されて毎月購読するようになった。
と同時にやはり自分の頭の回転は良くないので自分が将来何かを成し遂げたいのであればただ一つのことに時間を集中しなければ他人には勝てないという確信を持つようになった。
だから毎日往復二時間に通学時間の間はずっと参考書を読むようになった。Z会の速読英単語など、最初は全く意味を取れなかったが何度も何度も読みまくることで次第に英語が読めるようになってきた。
高校3年になった頃にはもう勉強が非常に楽しくて生活の中心になっていた。特に大学への数学では毎月巻末に難問が出されて解答を編集部に送ると添削してくれるのだけどそれに本当に熱中していた。この問題は本当に難しく、自分の頭では数時間考えた程度では全く解けず、数日、時には数週間同じ問題をひたすら考え続けるという生活を送っていた。夜寝る前まで布団の上で考えて、眠りながら考えて、朝起きたら布団から出ずにまた考え始めるということをしていた。今考えると頭の使い方が稚拙というか同じところをぐるぐる周ってる感じだったのだけど、そうやって何日も考えると解答が思いつく瞬間が必ず訪れるのでそのカタルシスに当時は本当にハマっていた。毎月添削結果が送られて来るたびに模範解答のエレガントさと、自分の地をのたうち回るような回りくどい議論の差を見せつけられやはり自分は凡人であるということをつきつけられた。点数はいつも150満点中145程度で一度も満点を取ることが出きなかったのは悔いが残る。自分は過去の思い出とかにはあまり執着がなく、京大博士の卒業証書も使いみち無いのでゴミに出したのを友人に止められたくらいだがこの添削結果だけは今も大切に保管している。
自分は記憶力が異常に弱く国語や歴史は非常に苦手だったのだけど、物理や化学も覚えることが多くて困っていた。しかし駿台の著名な先生(山本義隆氏と石川正明氏)の書いた書籍を読み、覚える物理・化学から考える物理・化学へとパラダイムシフトを起こすことができた。ただ暗記するのではなく、なぜその式が成立するのか、なぜそのような化学反応が起きるのかというより深いところを理解できるようになった。同時に物事を深く認識するということが自分の性格に非常にマッチし、そして自分はそのために人の10倍の時間を捧げることができるということが自分の強みであると確信するようになった。この強みは40になった今でも活躍している。
この頃は駿台や河合塾の模試でも上の方に乗ることが多く、志望学科の中では上から2番目を取れるくらいにはなった。そうなると今度は予備校の方からただで授業を受けませんか、というお誘いが来るようになる。これは合格者一覧の名前を稼ぐマーケティングである。その中でも駿台の数学特別講義という非公開の授業にお誘い頂いた。数学がよくできる学生を数十人集めて難問の講義を行うというもので、これもなかなか楽しかった。周りは皆灘とか東大寺の中に偏差値55の学校が混ざっているのはむず痒い感じではあったが、すぐに自分はやはり彼らとはレベルが違うということがわかる(毎回試験があって採点される)。一人明らかな天才がいて、その人は今有名な数学者になっている。
後のことは上記の事の結果でしか無いので端折るがセンターは確か国語社会が6割くらいしか取れず志望学科はC判定、というのが送られてきて先生が「気を落とすなよ」慰めてくれたが自分としては全く想定通りの結果であり過去の模試の結果からこの差は二次で覆すことができるという強い自信が会った。
家の経済的事情から滑り止めを受けるということはできず、前記京大後期阪大のみを申し込んだ。これについては先生から怒られた。本当は阪大の後期にも申し込みたくなかった。
試験は数学は色々ケアレスミスをしてしまったが大筋では正しい解答ができ、物理化学はどちらも1問しか間違えなかったので合格を確信した。
しかし合格した当時自分は中二病を引きずっていたので一緒にいた親に笑顔も特に見せず「合格した」とだけ言った。これは人生の最も大きな後悔の一つ。
大学に入った当時は研究者になることを夢見ていたが大学に入ってからは本当の天才を目の当たりにし、また博士課程卒業間際になり研究というコミュニティもコミュ症では構造的に海外のリア充に勝てないということに気づき断念、IT企業に就職して今はスタートアップをしている。