はてなキーワード: 収容所とは
公共交通機関は怖くて使えなくなった。テレワークができるようになったのは嬉しいけど、
外に出る事すら難しくなっているのは本当につらい。先週も近くのコンビニで自爆テロがあったらしい。
集団登校する小学生の集団に対して自爆テロを行う異常独身中年男性が現れてからは学校は専らオンライン授業になり、子供は退屈そうにしている。
テレビでは毎日セルフケアの大切さを説いているけれど、その啓発番組の生放送中にスタジオで自爆テロがあったのだから世話が無い。
国会では新しい異常独身中年男性対策法案に関する議論が紛糾している。
なんでも35歳以上の独身中年男性を全員収容所に隔離するという法案だそうだ。
国会にも独身の男性国会議員が何人もいるだろうにどうするのかと思ったら、特定の職種は除外するのだという。
議事堂の外では抗議集会が毎日のように行われていて、その集会でも自爆テロが起こっている。もうめちゃくちゃだ。
最近は独身中年男性というだけでクレジットカードの作成や賃貸の契約すらできなくなりつつあるらしく、偽装結婚が急増しているらしい。
永住権目的の偽装結婚にしても自爆テロが頻発している国になぜ永住しようとしているんだろうか、馬鹿なのかな?とも思うけれど
ある社会学者は「地域コミュニティの衰退による人々の孤立化を放置していた社会全体の責任」だなんて言っていたけれど
自分の人生と関係無く自分の利益にもならない他人と関わりたい人間なんていないと思うし、そういうのは国や自治体でやってほしい。
全国の同胞たちよ、
全ての人はみな、平等な権利を持って生まれています。創造主は誰も侵すことのできない権利を与えました。その権利には、生存権、自由権、幸福追求権があります。
この不滅の文言は、アメリカの1776年独立宣言の中にあるものです。より広く言えば、この文言は、世界の全ての民族がみな平等に生まれ、どの民族も生存権、幸福権、自由権を持つということを意味しています。
1791年のフランス革命における人間と市民の権利の宣言(※人権宣言)も、「人は生まれながら自由であり、平等な権利を有し、常に自由であり、権利について平等でなければならない」と言っています。これは、誰も否定することはできません。
それにもかかわらず、この80年間、フランス帝国主義者たちは、自由・平等・博愛の旗を悪用し、私たちの国を強奪し、私たち同胞を抑圧してきました。彼らの行動は、人道と正義に反するものです。
統治において彼らは、私たち人民に自由・民主を僅かでも与えることはありませでした。
彼らは野蛮な法律を施行しました。彼らは中部・南部・北部でそれぞれ異なる制度を作り、私たちの国家統一を妨害し、私たちの民族団結を妨げました。
彼らは学校よりも数多く監獄を建てました。彼らは、私たちの国を愛し民族を愛する人々を斬り殺しました。彼らは、血の海に私たちの蜂起を沈めたのです。
彼らは、アヘンとアルコールを使って、私たち民族を衰弱させました。
経済において、彼らは私たち民族を骨の髄まで搾取し、私たち民族を困窮、欠乏させ、私たちの国をずたずたにし、不況に導きました。
彼らは数百の理不尽な徴税を行い、私たち民族、特に農民と商人を貧困に陥れました。
彼らは私たちのブルジョワ台頭を許しませんでした。彼らは私たちの労働者を情け容赦なく搾取しました。
1940年の秋、連合国に対抗する拠点を更に築くため、日本のファシストがインドシナを侵略し、フランス帝国主義者らは跪いて日本に私たちの国を明け渡しました。そのときから、私たち民族はフランスと日本という二重の枷をかけられたのです。そのときから、私たち民族は、日増しに困窮し、貧困にあえぎました。その結果、ついに昨年末から今年の初め、クアンチから北部にかけて、200万人の同胞が餓死しました。
今年の3月9日、日本はフランス軍を武装解除しました(※仏印処理)。フランス帝国主義者は逃げる者もいれば、降伏する者もいました。
つまり、彼らは私たちを保護するどころか、5年の間に2回も私たちの国を日本に売ったのです。
3月9日以前に、ベトミン(※ベトナム独立同盟会)は何度もフランス人に対して、日本に対抗すべく同盟しようと呼びかけました。フランス帝国主義者はこれに応じず、より一層ベトミンを迫害しました。更には、敗走の際、彼らはイエンバイとカオバンで政治犯を多数虐殺しました。
しかし、フランス人に対して私たち同胞は依然として寛大で人道的な態度を保ちました。3月9日の変動後、ベトミンは辺境へ逃れた数多くのフランス人を助け、日本の収容所から多数のフランス人を救出し、彼らの生命と資産を保護しました。
実際、1940年の秋から私たちの国は日本の領土となり、もはやフランスの領土ではありませんでした。
日本が連合国に降伏したとき、全国の私たち民族は立ち上がり政権を奪取して、ベトナム民主共和国を築いたのです。
実際には、私たち民族は、フランスの手からではなく日本の手からベトナム国を取り戻したのです。
フランスは逃げ、日本は降伏し、バオダイ帝は退位しました。私たち民族は独立したベトナム国を建設するために、100年近く帝国主義者たちと戦いました。私たち民族は、何十世紀も君主制と戦い、民主共和制を築いたのです。
ですから、私たち新ベトナム国の臨時政府は、ベトナム全国民を代表して、フランスとの関係を離脱し、フランスが署名したベトナムに関する全ての協定を破棄し、ベトナム国におけるフランスの全ての権限を破棄することを宣言します。ベトナム全国民は、フランス植民地主義者の陰謀に対抗する覚悟を固めています。
私たちは、テヘラン及びサンフランシスコの会議で民族平等の原則を認めた連合国が、ベトナム民族の独立する権利を認めないということはあり得ないと信じています。
ある民族がこの80年以上にわたりフランスの奴隷であることに勇敢に対抗しました。ある民族が数年にわたり連合国と共にファシストに対抗しました。その民族は自由を得なければなりません! その民族は独立を得なければなりません!
これらの理由から、私たちベトナム民主共和国の臨時政府は、世界に向けて改めて宣言します。
ベトナム国は自由及び独立する権利を持ち、実際に、自由で独立した国となりました。ベトナム全国民は、この自由と独立を維持するために、精神、軍隊、生命、そして財産のすべてを持つ権利があります。
これを以て「ベトナムは日本のファシストから独立した」って喧伝してる人がいるけど、
ですから、私たち新ベトナム国の臨時政府は、ベトナム全国民を代表して、フランスとの関係を離脱し、フランスが署名したベトナムに関する全ての協定を破棄し、ベトナム国におけるフランスの全ての権限を破棄することを宣言します。ベトナム全国民は、フランス植民地主義者の陰謀に対抗する覚悟を固めています。
私たちは、テヘラン及びサンフランシスコの会議で民族平等の原則を認めた連合国が、ベトナム民族の独立する権利を認めないということはあり得ないと信じています。
ある民族がこの80年以上にわたりフランスの奴隷であることに勇敢に対抗しました。ある民族が数年にわたり連合国と共にファシストに対抗しました。その民族は自由を得なければなりません! その民族は独立を得なければなりません!
これらの理由から、私たちベトナム民主共和国の臨時政府は、世界に向けて改めて宣言します。
ベトナム国は自由及び独立する権利を持ち、実際に、自由で独立した国となりました。ベトナム全国民は、この自由と独立を維持するために、精神、軍隊、生命、そして財産のすべてを持つ権利があります。
酸素を奪うとか食料を奪うとかしないと人は死なない。
水に流す、仕方がないがある国民なのに言うほどか?
「Shikata ga nai (仕方がない)」はサンノゼにも刻まれているが?
「仕方がない」は日本人の自己犠牲的な悲観性を表す表現として、多くの外国の著述家によって指摘されている。
また、太平洋戦争時のアメリカやカナダで行われた日系人の強制収容において、収容所での絶望感と虚無感を克服するべく、「Shikata ga nai」というフレーズを頻繁に用いりつつ、そのような苦しい状況の中でも、挫けることなく希望を見出そうとし続けていたと言われており、その精神性は現在でも日系人社会において根強く残っているという[2]。
ピューリッツァー賞作家のジョン・ハーシーは1946年のルポルタージュ『ヒロシマ』で、広島住民はおおむね核爆弾使用の道義的責任に無頓着であったと記し、ある被爆者の、戦争だったのだから「仕方がない」(Shikata ga nai) という発言を紹介している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%95%E6%96%B9%E3%81%8C%E3%81%AA%E3%81%84
ホロコーストマニアになって2年以上の私だけれど、ホロコーストには理解しにくい話も多いとは思っている。何故増田にしばしばホロコーストの話を投稿するかというと、こんな話「チラシの裏にでも書け」だと思っているからで、チラシの裏といえば増田しか思いつかないからだ。チラシの裏でなくてもいいネタはちゃんとnoteとかに書いている。
歴史とは「起きた事実」について考えることであって、起きた事実を「実際には起こらなかった」と考えることではないので、事実認定は慎重ではあるべきだが、単純にその事実が信じられないからと言って否定的に考えるべきものではない。
しかし、ホロコースト否定派は、「自分が信じられないことは起こらなかった」と考える傾向が極めて強く、フランス人の修正主義者として名高いロベール・フォーリソンはとにかく自分が信じられないからと、アウシュヴィッツのガス室を代表例として徹底的に否定した。
さて、そのアウシュヴィッツ(ビルケナウ)の火葬場の火葬能力が現代の火葬場に比べて桁違いに処理能力が高いという史実は、もちろん否定派は信じない。1943年6月28日付のアウシュヴィッツの建設部がベルリンの親衛隊経済行政管理本部に送った書簡には、収容所全体の火葬場の能力として1日あたり、4,756体の処理能力があったと記されている。これは計算上、15分で一体を火葬していたことになるため、現代日本では一体1時間かかるので、実にその能力は4倍もあったことになる。しかも、アウシュヴィッツの火葬場は連続稼働が可能で、火葬場が壊れない限り(実際には何度も故障修理していたが)延々と火葬を続けることすらできた。従って実質的には、日本の現代の火葬場の4倍の能力どころではなく、約二十倍の遺体処理能力があったのである。日本の場合、いくら頑張っても1日に最大五体だが、アウシュヴィッツの火葬場は百体近い。
何故そんな高処理火葬が可能だったのかについては、一つは、日本の火葬場では、というか世界中の火葬場がそうだろうが、一炉につき一体ごとにしか遺体を火葬してはいけないからである。これは当たり前の話で、遺骨を遺族が引き取る必要があるからだ。だから、普通は火葬炉を一回ごとに冷ましてから、台車などで焼け残ったものを炉の中から取り出し、遺族が箸で骨を拾う儀式を行うのである。もちろん遺体を炉に入れる前には通常、僧侶が付き添って儀式を行ってから、となる。清掃も必要だし、あれやこれやで一回転あたり最低でも2〜4時間はかかる。つまり、日本の現代の火葬場はそれ以上処理能力を上げられないボトルネックが存在するのである。火葬場の人員上の問題もあるので、1日五回転がせいぜいなのだ。
アウシュヴィッツの火葬場ではそんなボトルネックなどない。儀式など必要ないし、遺骨を遺族が引き取ることもないから複数人の遺骨が混ざっても大丈夫だ。とにかく大量に死人が出るので、遺体処分だけが目的である。だから、焼却を妨げない限り、遺体は常時複数を炉に入れて焼却し、炉の下に落ちた焼却灰(完全焼却などされていない)は焼却中にガンガン取り出し、炉内の遺体を入れる箇所に隙間が出てきたら、連続的に新しい遺体を投入してゆく。火葬炉は、三つ(あるいは八つ)のレトルトが内部でつながった構造になっているので、それらそれぞれのレトルトで火葬している限り、炉内はあまり温度が低下せず高温を維持できるようになっていた。このように温度変化が少ない状態が続くので、理屈上は火葬材も長持ちするのが特徴でもあった。ただし、戦時下に建設された火葬場なので火葬材の品質が悪く、故障は頻発したようである。
しかし、そんな高処理能力の火葬場があったのに、それでも火葬能力が追いつかないほどの死体は発生することもあった。1日あたり最大で一万人も殺していたとされる時期、1944年5月から7月にかけてのハンガリー系ユダヤ人の大量虐殺を行っていた時期である。やっと本題である。
この時期、火葬場が足りないので、野外に穴(壕)を掘って遺体を焼却していたのだという。ゾンダーコマンドのシェロモ・ドラゴンの証言によると「長さ25メートル、幅6メートル、深さ約3メートルの穴が5つありました」だそうである。この証言の他にも野外焼却をやっていた場所もあった。司令官ルドルフ・ヘスの回想録によると、大半の遺体を野外焼却によって処理していたそうである。
否定派の疑問(難癖)の一つは、そんな大量の遺体を焼却するためには大量のガソリンが必要だったはずだから、終戦前年くらいの時期にそんな大量のガソリンを用意できたはずはなく、嘘に違いない、というものである。これはしかし、否定派は「ガソリンが用意できなかった事実」を証明していないので、難癖の域を出ないわけだが、実はアウシュビッツ収容所群の一つ、第3収容所であるモノヴィッツ収容所があったのは大企業であるIGファーベンの工場であり、ここではメタノールを製造していた。メタノールが燃料となることは言うまでもない。事実、誰の証言だったか忘れたが、野外焼却でメタノールを使っていたとする証言も見たことがある。
さらには、死体を焼却していると死体から脂肪分が溶け出して垂れてくるので、それを壕の底に溝を掘って溶け出した油をその溝に流して、別の場所に溜めてからその脂肪油を死体にぶっかけて燃料替わりにしていたのだという。もちろんそんな話否定派は信じない。
もう一つの難癖は、壕、すなわち地面に穴を掘ってそこに遺体を溜めて焼却することなど、科学的に考えてできるわけがないとするものである。何故ならば、穴の中が燃焼によって酸欠になってしまうからだ、という。しかしこれは、穴の形状にもよるはずである。凹型の壕ならば、それもあり得るかもしれないが、上に向かって広がっている穴ならばどうか。あるいは幅六メートルに対して深さ三メートル、長さ二十五メートルだから、これならば何となく酸欠になりにくい感じもする。もちろんその程度の理屈では否定派は納得したりはしない。
ところが調べていると、日本のあの関東防疫給水部、731部隊が撤退時に証拠隠滅目的で、大量の死体を同様に穴を掘って焼いていたとする証言があった。
外には穴が掘られており、穴の中に薪と"マルタ"が交互に積み上げられ、あとは火をつけるだけになっていました。(P93)
七棟と八棟の近くに、それぞれ大きな穴が一つずつ掘られていた。この穴に、直径一五センチぐらいの丸い鉄棒が何本も平行にわたされた。ちょうど、巨大なバーベキューの網のようである。
わたしたちは、二人一組になって各監房から「丸太」の死体を中庭に運び出した。運び出した「丸太」の死体は、鉄棒の上に並らべられた。
そのうえに、たしか重油だったと思うが、燃料がぶちまけられた。火が放たれた。瞬間、赤い焔とともにもうもうたる黒煙があがった。
「丸太」はこうして、次から次へと、鉄棒の金網の上で焼かれていった。全部で二〇〇体くらいはあったのではないか。(P116-P118)
残った骨などは砕いて近くの川に捨てに行ったというのだから、規模こそ違えど、やってることはアウシュヴィッツのまんまである。
論争相手にこれを示しても、どうやらホロコースト否定派であると同時にネトウヨでもあるらしく、731部隊の丸太処分の話など信じないのだという。
しかし懲りずにもっと調べていたら、広島の原爆でも、穴を掘って大量遺体の焼却処分をやっていたことがわかった。
ひる間の呻き声も次第に聞かれなくなって数多くの人が昇天していった そうして町のあちこちで穴が掘られやけただれた鉄骨を並べた上に死体がうづ高く積まれ油をかけて焼かれていった
穴に死体をうず高く積み上げ油をかけて火葬する風景が町のあちこちで見られた。 | NHK 原爆の記憶 ヒロシマ・ナガサキ
調べたのはネットだけだが、他にもいくつか穴で遺体を焼いていたとする記述は見つかった。
まず焼却燃料について、終戦間際の物資に窮乏していたはずの日本ですら、原爆被害の酷い惨状でも燃料となる油があったとする事実は、ナチスドイツ親衛隊が運営していたアウシュヴィッツ収容所で終戦前年に「ユダヤ人絶滅」作戦という中で、燃料を用意できなかったとする否定派の理屈を非常に弱めるだろう。
そして、ネトウヨが731部隊を信じないとしても、原爆被害の実態を否定するのは難しいはずである。
ともかく、怒涛のように証拠だらけなので、否定派の難癖は無意味である。
しかし、では何故穴を掘って遺体を大量焼却していたのか? 実のところ、そこがよくわからない。穴を掘る意味がよくわからないのである。
高いところから油をぶっかけやすいからだろうか? それとも、焼却後に遺体処分として埋めるのが簡単だからだろうか?
何か知っている人がいたら是非教えてほしい。近所の図書館に行って、司書さんにまで手伝ってもらって文献を調べたが、それでも結局その理由がわからなかった。
※前回書いた似たような内容の増田日記は削除しました。とにかく、何故「穴を掘って」遺体を大量焼却していたのか? 何か知っている人は教えてくださいませ。