はてなキーワード: 偽善とは
馬鹿にされがちだけどコンセプトは素晴らしいし
完璧ではないけど完璧なものを求めたら何もできないことを知っているから
まさにやらない善よりやる偽善
普段はイラストレーターとかにフリーランスに仕事として依頼するには金を払えとか散々偉そうに言ってるくせに
障害者に密着して何ヶ月も準備したりしている芸能人に対してだけ無償で働けとかおかしい
生放送で滞りなくエンタメを提供するのも立派なスキルだしそれに報酬を払うのも当たり前では?
結局妬み嫉みで芸能人にやいやい言ってるだけ
代わりにお前らが出演したって誰もみねぇだろ
てかそこまでいうならまずお前らは年収の数%は寄付してるんだろうな?
善きことをしようとしてる人たちがここまで叩かれるのはおかしい
だったらやっぱこの界隈扱わない方がいいなってなる
善きことをしない方がいいなってなる
日テレは偉いよ
海外では移民なんがその国に馴染めるように、ホームステイとして受け入れる制度があったりするんだよ
そうやって国に溶け込むような受け入れ先がないと、そりゃあ徒党を組んで分断が進んだよ
クルド人擁護派が受け入れてくないと、どうやって分断を防ぐつもりでいるんだ?
自分は川口と関係ないから、多様性尊重のトロフィーだけ貰って、後は知らんぷりですなんて偽善どころか単なる悪だからな
もし、不法滞在クルド人をお前らが受け入れますって言うなら、必ずしも否定しない
けど誰も受け入れないって言うなら、それはみんな受け入れたくないってことなんだから、不法クルド人の強制送還はお前らも含めた総意ってことになるぞ
フワちゃんが言ったくらいの悪口は、幼い頃からずっとテレビで見せられてきたモノで、それがイヤでテレビを見なくなったくらいだから、今更大人らがあのくらいのことで大騒ぎしてんのはサムいし偽善的すぎて気色が悪い通り越して不可解だ。
普段テレビを見ないから、フワちゃんややす子のパーソナリティや関係性について何にも知らない中で、
はてぶで上がってきてる記事だけ見た感じ、
今回フワちゃんがお笑い芸人や関取なら誰でも言ってて誰もが笑って流してるようなただの悪口でこんなに炎上して色々降板させられてるのって、
「普段フワちゃんの無礼芸をイヤイヤ受け入れさせられてる"エライおじさんたち"が、ようやくフワちゃんのしっぽを掴めたから全力で引き摺り下ろしてる」
という状況で合ってるのかな?
フワちゃんが"エライおじさんたち"に失礼なことを言う場合、"エライおじさんたち"は笑って流さないと「無粋」「古臭い」「大人気ない」とバッシングされるでしょ?
でも、
フワちゃんがやす子に失礼なことを言う場合、オーディエンスは「かわいそう」「裏垢誤爆に違いない」と言って、いつもなら守られてるはずの、フワちゃん側を叩き始めるわけだ。
これだけ見ると、"エライおじさんたち"差別な感じもするけど、
ダウンタウン浜田が突っ込みで同じようなことを言うのは、"エライおじさんたち"は笑って喜ぶじゃん。
なんたら言う関取が「アホ●ね」ってツイッターでリプするのは、"エライおじさんたち"は笑って受け入れるじゃん。
浜田に「●ね」って言われて「傷ついた・・・」なんてい言う芸人がいたら、そっちが叩かれるのは目に見えてる。
だから、"エライおじさんたち"は、若い女差別主義をもっていて、でもそれが良くないことだとわかっているから普段は表に出さないようにしてるけど、今回はフワちゃんが足をすべらしたから、「いまがチャンスだ」と、ラジオ出演やテレビ出演やCMキャラクターを降板させてるのかな。
とか考えたけどこの界隈についてな〜〜〜〜〜〜〜んにも知らんから全部妄想と憶測です。
でも、関取やお笑い芸人が言う「しね」と、フワちゃんが言う「しね」って、健常者からしたら明確に善と悪に区別できることなんかな?
僕は違いがわからないし、ここまでは冗談だからセーフで、これ以上は悪意だからアウトだとか、発言者でも裁判官でもないのに、かってにジャッジできない。
それに仮にそんな線引きが本当に存在したとしても、しねはしねじゃん。冗談でも本気でも。僕個人はどっちもイヤだし受け入れられない。だからテレビを見るのをやめた。
まあでも、はてぶでもわりとみんな「これはアウト」「ライン間違えたね」など言われてて、
で、浜田のシネとか関取のシネと違って、捌かれるべき悪なんだな。
わかんね〜〜〜〜。やっぱり僕は発達障害なのかな〜。って考えて、まじ鬱。
一般論として、汚い言葉はやめましょうね、位の事を置いておくが
パリ五輪、止まらぬ誹謗中傷 柔道に始まり男子バレーにも…もはや無差別状態、“引退して”と侮辱も
https://news.yahoo.co.jp/articles/e400b165d9c225751f6378552d45793555c05585
この手の話を見ていつも思う事がある
文筆家やら芸術家
およそ、売名が大切な業界というのはある
この手の人らは、広く広報され名が売れれば、それが自身の糧となる
広告なり、個展なり、タイアップなり、その人の利用価値というのは、まぁ世間の認知度と評判だ
吉田沙保里選手は広告で大分稼いだろうが、それは彼女の戦績が齎したイメージによるものだ
世間に顔を出す、顕名(ペンネーム・芸名含め)で活動するというのは、メリットがある
で、ここについて、世間が反転すると、件の記事の様に世間を悪者にしだす
みんなでヨシヨシして守ってあげようよとね
疑う余地のない要素だ
この時、第三者がしゃしゃり出てきて、「アイドルが恋愛して何が悪い」と偽善を行うのだが
「アイドルが恋愛して何が悪い」というのなら、そう謳って活動しろと思わんか?
それをしないなら騙し通せ
それが「商品管理」ってもんだろう
やす子さん、ふわちゃんから心ない中傷を受けるニュースがあったが、芸能人が裏垢で悪口を言っているようでおそろしかった。
人を傷つけない芸風で、ポジティブな彼女はなぜ彼らの嫌いセンサーに触れてしまうのだろうか。
多くの人は『人に善い人と思われたい、かっこいい・きれい・かわいい人と思われたい、裏の顔はみせたくない、できれば被害者ポジションにいたい』という性質を持っている。これは人間なら誰しも持っているものだけれども
この気持ちに敏感な人がいる。
本当の自己評価は低いがそれを認めたくなく、自分を大きく見せたいタイプだ。(以降 例のタイプと呼称する)
そのタイプは人に優劣をつける。自分がどの位置かを非常に気にしている
優劣の重要なものは主に財力や容貌だ。特に容貌は最も貴重な才能で、ルッキズムを内面化している。
容貌で人を格付けし、自分より劣る人を笑い、勝る人をどうにかして別の面で勝とうと思う。
だが、テレビによく出ているし、売れているし、愛嬌があると肯定的な意見も耳にして、自分の格付けとの格差に居心地が悪くなる
そしてやす子は人を悪く言わない。自分が偽善と思われてもよいので善いことを積極的にする。
例のタイプは、裏垢などで人を悪く言うのが日常化しているが、自信がそうであるためほかの人もそうであると勘違いしがちである。
だから、善い行いをしている人を見れば「お前も裏では悪口いっているだろうに、なんでいい子ぶってるんだ」という気持ちがわく。
ルッキズム的格付けが下で、善い人風でも気が弱そうなら例のタイプにとっては安心なのだが、やす子は結構反撃をしてくる。
まとめサイトの嘘記事は批判するし、やす子の写真をブスの代名詞みたいに使ったツイッタラーには皮肉めいた返しもしている。
そして、これらは全体を落としてやす子が正しいし、皮肉も相手をネガティブにいうわけではなく、自分を肯定するようなポジティブな返しだ
(コレ https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/280538)
例のタイプにとってはこれは「やす子、空気読めよ。」と思われていることだろう。
「ルッキズムの格付けが力の強さで、ちやほやされるのはお前のようなひとではなく、格下の人は善人でもいいから目立たなくあり、自分らを批判しない」という世界だ。
だから、例のタイプにとって「大人しく黙ってりゃいいものを世論を味方につけて殴り返してきやがって」と思われていることだろう。
「狡猾に自分を売るのが上手いやつだ。世間をだまして、全くお前は偉くない。なんでみんな評価しているんだ」と思っている。
別にやす子と知り合いではない一般人でも、自分の学校や会社にいるやす子タイプを思い出して嫌いな気持ちを強くしている。
「上澄み」とはもともと、液体中の不純物が下層に沈んだあとの、上層に近い綺麗な部分のことを言う。そこから比喩的に「全体における良い部分」のことを指すようになった。
ところが、そうした用法は近年広まった誤用である、という主張がある。「上澄み」はネガティブな意味で使われるべきだ、というのである。
上澄みをさらう(すくう)、といった慣用表現があり、それは「表面的な理解」といった意味と認識していた。
用例:そんな上澄みをさらった程度で○○を理解できたと思うなよ
しかし最近よく聞く誤用なのか拡張なのか…逆の意味で使われているのをよく見る。
用例:葬送のフリーレンのクヴァールって、序盤に戦ったキャラなのに実はめちゃくちゃ強かったんだな。こいつ魔王軍の中でも上澄み中の上澄みだね。
「クヴァール 上澄み」で検索するとめちゃくちゃ出てくるこの用法。
強さの評価で上澄み、と言われると表層に位置する浅い存在、すなわち弱い存在のように感じたのだが、明らかに上澄み=みんな気づかなかった強いヤツ、みたいな意味で使われている。
おそらく字面のイメージで澄=よいこと、上=位置的に上、つまり上位であることという意味でポジティブに使われている。
液体の上澄みは、底に沈澱したものがあり、それを本質と捉えて「上澄み=表層的な浅い理解」と喩えた慣用表現だったはずが、完全に逆転してしまっている。
とりあえず葬送のフリーレンのクヴァールについて語る人以外では見たことがないのだが、クヴァールについて語る人はみんなポジティブな文脈で上澄み上澄み言ってるので気になっている。
この用法はすでに定着しているのでしょうか?— た介 (@BigotVinus) November 19, 2023
しかし、たとえば酒造や製油などにおいて「上澄みをすくう」のは、多くは底に沈む不純物を除くためであって、不純物を得るほうが目的だということは少ないだろう。その語源を考えれば、「上澄み」をポジティブな意味で捉えるほうが自然だと思うのだが。
実際にどういう使われ方をしてきたのか気になったので、比喩的な意味で「上澄み」を使っている古い用例を探してみた。
古人の名作 皆な下習いが有る 紫式部の源氏物語も 家筋だけに一体能文のうえ 日記も作り 歌の詞書もし 其外文や雑文に筆を練り 学は元より日本記の局と呼るる程までなり 其の上澄が彼の大作となッたのだ
調べたかぎりでは最も古い用例。上澄みが「良い部分」を指している用法だが、文章全体では上澄みを生むための「下習い」の重要性を説く。
アア世間は泥なるかな泥なるかな、吾独り澄めりと云う者も、矢張り泥の中の上澄を吸うの人なるのみ
上澄み自体は「良い部分」を指すが、文意としては「綺麗な上澄みも所詮は泥の一部にすぎない」といったところ。
明治39年 虚心窟主人『酔醒禅』
同じく泥と上澄みに喩えた用法。
然るに学期を分ち、試験を行い、小刀細工に類する形式的堀割を通して、之を流し込もうとすれば、肝腎な熱流の熱が失せ、有益なる含有物は途中に沈殿してしまって、児童の頭に這入るものは、ただ水のような上澄ばかりとなる。
翻訳書。上澄みよりも沈殿物のほうが有益だというので、明確に上澄みを「悪い部分」としている用法である。
常時百余名という寄宿制も、実は変らぬところは六七十人の堕落書生で、濁った水の上澄を酌むように、余の三四十人は、毎日新陳代謝、だまされて入社し、裸になって退社する者等を総称して見た話して、頭数は百でも二百でも其中に書籍を読む者は、只の一人もないので、只稼いで喰って寝て居るのと、只喰うや喰わずに寝起して居るのと、人の物を盗って喰って居るのと、夫等が下方の沈殿物で、入社即退社が上水の澄んだ所なのだ。
沈殿物が酷すぎるが、上澄みが優れているという書き方でもない。どちらかというと「上層は流動的・下層は停滞的」というイメージか。
快楽の上澄をのみ飽まで飲んで、渣滓の苦きには吸い至らず、花婿の其当夜に死んだ彼は永久に花婿である、彼を人生の最も幸福な者というも、強ち不当でない。
「美味しいところだけ味わって死んだ」という話で、やや皮肉めいた書きぶりだが、上澄みを「良い部分」とした用法ではある。
極端な理想主義と極端な現実主義の上澄みを取る、という話で、ちょっと独特の用法な感じがする。「良い部分」ではあるか。
苗字もなく、生きて居るのさえうんざりした者達の集って居る、暗い罪悪にまみれて居る世界では、そのような事は何でもない。三面記事にさえ、載せきれない「彼らのいがみ合い」の一つとして、世の中の上澄みは、相変らず、手綺麗に上品に、僅かの動揺さえも感じずに、総てが、しっくり落付いて居たのである。
上層は綺麗で上品で落ち着いているが、それは下層の濁りが上層まで伝わらないからだ、という用法。
単なる表層・深層の言い換えだが、「上層は流動的・下層は停滞的」のイメージが入っているかも。
とりあえずこのあたりで。
以上から考えるに、「上澄み」の用法はさらに4つに分類できる。
1. 上澄みは全体のなかの「良い部分」である。
1-a. 上澄みは「悪い全体」のなかの「良い部分」である。
2. 上澄みは全体のなかの「悪い部分」である。
3. 上澄みは全体のなかの「流動的な部分」である。
「上澄み」という語のイメージは「良い部分と悪い部分が上下に分離している」といったものであり、単純には1の用法なのだが、1-aの用法だと「実は悪い部分が底に隠れている」「実は沈んだ部分のほうが本質である」という逆張り的な文意になることが多いため、次第に「上澄み」自体に「うわべだけで本質的でない」ような印象がついていった、ということだろう。それが極まったのが2の用法。3の用法だけは独自な感じ。
最初の話に戻ると、
というのは2の用法であるが、これが「本来の用法」「正しい用法」であるとは言い難いと思われる。少なくとも、さらに古くから「上澄み=良い部分」とした用法は存在してきたわけで、今となってはどちらの用法も定着していると考えるべきだろう。
第一に、単なる実験の一つとしてやってみましたってことだったら別にこれ自体は不快ではない。それ以外の部分で気に障ったことが多い。
まず、
というくだり。支援級の担任もこういうこと言う人いるんだけど、これ言われるとね、当事者親としては(健常児より)楽しかったっていうのがもう健常児より下に見てるんだなって思うのよ。よくいるでしょ、知的障碍者は天使だとかいうようなやつ。あれと一緒。本人には自覚がないのが厄介なんだよね。
あと、目的として挙げているコスト削減だとか誤診リスクの低減だとかがおかしい。医者しか診断できないって、明確な診断基準があるんだから当たり前だし、誤診リスクの低減も、「70%程度の正解率で御の字」ではお話にならない。診断の重さを全く理解していない。
全体的に、自分が関わったことがあるといえば文句は出ないだろうという打算が透けて見えるし、自閉症児に全く寄り添っていない。技術的な部分以外からあふれ出る偽善臭も非常に不快。繰り返すけどこれ本人には自覚ないんだよ。はてな民ならこの辺のモヤモヤを分かってくれると思う。
あとブコメな、
うん、分かるんだけどさ、未だに自閉症だって言われるのはそんなに屈辱なんだというのは率直にショックだった。うちの子はそんな屈辱的な属性を持っているのかと。割とたくさんいるんだけどね。
確かに、偽善的な言動には不快感を覚えることもありますよねっス。
ただし、その「いいね」やコメントが本当に無行動を示す証拠とは限りません。
中には実際に支援している人もいるかもしれませんし、気持ちが先走って行動が追いつかない場合だってありますっス。
「言うだけで実際に行動しない」人の存在は、特に若い世代からしたら不満の種になりがちっス。
結局、行動が伴わない善意は風に飛ばされる砂のようなものっスからねっス。
とは言え、全ての中高年がそうであるとは限らないので、一概に断定するのは避けた方が良いかもしれませんっス。
コミュニティとしての力を発揮するためには、世代を超えた連携が大切だからっスね。
言葉だけではなく、具体的な行動と共に協力し合える社会を目指せると良いっス。
忌憚のない意見ってやつっス。
インスタにAmazonで買える250万の
「被災地に送ってあげたい」みたいな
付いてたけど、こういう言うだけの
アカウント見ると大体中高年のジジババで
自分らは保身の為に金貯めて一銭も出さないくせに「被災地のこと考えてます」「今でもウクライナでは戦死してる人がいます」みたいな事言って
キショいんだよクソ老害。テメェらが溜め込んでる無駄な金全部出せよ。
思いついたように慈悲の精神に目覚めてコスパ良く無料で被災地がどうのSNSに呟くことでチヤホヤされて気持ち良くなるためだけに被災地とウクライナを利用するな。被災地とウクライナは中高年のオナホかよ。
日本の中高年は本当に気持ち悪い。コイツらがいたから日本が30年失ったのがよくわかる。