はてなキーワード: バブルとは
大学生活とコロナ禍がちょうど重なって楽しくないとかそういったことはもう諦めの域に入ったのでどうでもよい。
1番の問題は、日本という国そのものの将来に希望が持てずいることだ。
私たちの世代は、生まれた時には高度経済成長もバブルも既に遠い過去の物になり、義務教育では少子高齢化の話をされてきた。数年前(18歳になって)有権者として政治に参加できるようになったが、白票を投じるだけで国政に対する意見自体を持てないままだ。
少子高齢化、伸び続ける失われた10年(今は失われた30年なのか?)、その他社会問題が積み上がっているが、これらはほとんど全部が私たちの世代がどうすることも出来ないうちに積み上がった問題だ。
生まれた時点でそれらの問題は存在していたし、選挙権を得るまでに解決の兆しはほとんどなかった。解決が難しい問題だし、上の世代の怠慢だと切り捨てることもできないだろう。ただ、積み上がった問題を突然有権者になって押し付けられてしまったというような感覚もある。
若者の政治的無関心の理由の1つは、自分たちが政治に関わる年齢になった時点でどうにもならない問題が積み上がっていることを成長過程で悟ったこと。また、それらが中高生の頃に見ていて解決されそうもなかったこと。これらの理由ではないかと思う。私自身はこういった理由で政治への期待感が持てない。
やまなみ工房という障碍者福祉施設があってそこに通う人がリハビリがてらに描いた文字を羅列しただけの絵に100万だかの値がついてる。
割と時間をかけた力作もあるがそれでも300万とか400万とかいう値がつくのは行き過ぎではないか。
他にもNFTだかいう技術の波に乗って小学生がWindowsのペイントで描いたようなクオリティの絵が万単位で売れていく。
その小学生は数か月で300云十万稼いでいる。どうにも海外の有名人の目に留まりSNSのアイコンに作品の一つが使われたことによって価値が爆上がりしたらしい。
俺はなんでも鑑定団をよく見るがあの番組では芸術に文字通り生涯を捧げた人達が紹介される。
画材などに財を全てなげうって、食べるものも切り詰める清貧の生活の中で芸術家として大成していく様が伝えられる。
そんな人が描いた絵なのに、たとえ本物でも「150万円」という鑑定額だったりする。
前はそれを安いとか思ったことはなかったが今の風潮に照らし合わせると過小評価な気がする。
あるいは逆か。障害者の描いた絵が数多の芸術家達の歴史を踏まえず評価されすぎているきらいがあるように思える。
なんで芸術家と比べてしまえば本気度が低いに決まってる人たちが悠々自適に描いた絵に悠々と大金をかっさらっていくのか。これでは芸術家が報われないのではないか。
別に「障害者が作り出すものは劣っている」とか言いたいわけじゃない。障害者どころか健常者の平均的な画家と比べても、なんでも鑑定団で特集される芸術家の芸術に捧げる熱量は、比較にもならないだろうが。
まあ作品が一品物だからということもあるわけで、たまたま金持ちがその障害者の絵を気に入ってそういう金額が買い取ったというだけの話かもしれない。
つまりそういう金額は一個人にとっての価値であるだけで、客観的な価値を反映したものではないのかもしれないというわけだ。
「客観的」という言葉を途端に胡散臭く感じるだろう?「『客観的な価値』ってなんだよ」と言いたくなるだろう?
脱線するがアレイスタークロウリーなる魔術師を自称した実在の人物は法の書という出版物のなかで「真の意志」という概念について説いている。
「真」という言葉も、客観性と同じようなうさん臭さを持っていると思う。
たとえば惰性で好き勝手に振る舞うことを真の意志とは異なるというようなことが書かれている。でも見方によっては、好き勝手に振る舞うとは何かしら律するものの影響下にないということで、そこで発現されている行動はありのままの意志の反映なのではないのか。
ありのままを「真」という言葉で言い替えれるとするなら結局それはそのまま真の意志という概念に対する反論になる。
それを退けるためにはこのような「ありのまま」が真というものに対する言い替えとはならないわけとともに、では真という言葉は具体的にどのような性状を指しているのかを説明する必要がある。
真とか客観とかいう言葉を使う人たちは往々にしてそこらへんを「当たり前のもの」として、分かっているものとして論を進めてしまうから胡散臭いのだと思う。
とはいえ、こうも当たり前のように客観とかいう言葉が飛び交っていると、その中身は素人にはブラックボックスながらも客観というもの自体は幻想ではなく確かに存在すると思うことこそが妥当で健全な生き方なのかなとも思えてきてしまう(こういやって長いものに巻かれる感じで客観や真などのような概念の存在を信じることにしたのは俺だけだろうか?)
俺は気象学が好きでその勉強をしているなかで「予報精度はモデル計算の不確実性に依存する」という文言が出てきたのだが、まあ不確実性って言葉もまた客観とか真という言葉と同等なあいまいさ、抽象性を帯びているったらない。
そりゃ人間が作ったモデルは現実の物理法則に完全に依拠したものではないだろうことはわかるが、不確実性って単語一つで言いくるめられてもしっくりこないわけよ。それでもまあ「モデル計算の不確実性」が在るものとして、そらんじれるぐらいに自分にとって真実になるように努力するわけ。科学的な文脈で語られていることまでいちいち無いものとして疑ってかかるよりも、とりあえず丸呑みにする方が妥当な態度な気がするから。学術的な文脈でも「客観」という言葉をよく見るから、とりあえず客観というものは存在するものとして妥協しておくというのと同じ。
話を戻すが、たとえば俺がモナリザとかひまわりを価値ないといったところで、それらの絵画の価値には微塵も傷がつかないだろう。
そう言うときの価値が客観的な価値だ。逆に言えば、一人の人間がいくら熱狂的に特定の絵を愛して大枚を叩いたところで、ただちにその絵の客観的な価値がそれに相当する客観的価値をもつものとして裏付けられるわけではない。個人の好き嫌いと客観的価値はいうまでもなく独立したものであるはずである。
ダヴィンチとかピカソみたいな大芸術家、あるいはバンクシーも含めてああいう人たちに作品の絵の価値は客観的価値を反映しているといえる。
それは同じ絵が(何度も)オークションにかけられるという過程を経てその経済的価値が民主主義的に固まっていっているからだ。これを実勢価格ともいう。
一方で障害者の絵に対するにわか景気はある個人にとっての価値の反映でしかない。それを指標としても客観的価値は見えてこない。
だからまあ結局、このような状況は五体不満足な障害者にせめて富がもたらされる機会が作り出されているだけであって、芸術家より評価されているというわけではないから、まあ誰も(故人も含めて)実体的そして精神的な被害者はいないからこのままでいいかなと思う。
両親まじでクソ親だったけど、クソ親のおかげでまともに育ったから親ガチャあんまり関係ないなって思う。
でも、クソ親のもとでどうして自分がここまでまっとうに育ったのかなって考えたら、どう考えても環境だった。
親がクソだったけど、兄弟で力を合わせて乗り切ったし、親戚もクソだったけど兄弟で絶対にあんな大人にならないって心に決めるきっかけになったし。
教師もクソだったけど、すごく境遇の似てる唯一無二の親友との共感のきっかけになったし、就職したら周りの人間全部クソで、そうか、大人ってこんなものなのかって気づくきっかけになった。
それから周りの人間に迎合することもむやみに反発することもアホらしくなって、自分の目で見聞きして正しいことを考えるようになって、やっと自立した人生を送れるようになった。
月並みなセリフだけど、周りにそういう大人ばっかりだったから自分はまともに育ったんだなって思うと、親ガチャは失敗だったけど環境ガチャには成功したんだなって思うよ。
そういう意味での親ガチャの成功失敗って、要するに親が金持ってようがなかろうが、人格出来てようが出来ていまいが、大人になったときに人のせいにしないでまともに生きてられるかどうかだと思うよ。
少なくともうちの親ガチャは相当まともじゃなかったよ。でも、今の自分があるのはそのおかげだよなってしみじみ思う。
具体的な話を一つすると、もともと金を持ってた両親はバブルで負債を抱えることになるんだけど、結局持ってた金も実力無視の運で手に入れたような金だったから、そのまま金もってたら今頃自分なんて完璧なひきこもりニートだったろうなって思う。
あの時負債を抱えて家まで追い出された惨めな負け犬みたいな両親を目の当たりにしたから、自分のちからでしっかり生きなきゃなって思ったからね。
どれだけ気をつけてたって脳卒中でイチコロだし、若い時期に癌にならないとも言えない。
でも、幼少時代から思春期がマジでクソだったから、割とこの年まで生きられて十分幸せだなっていう実感はある。
あとは生きられるまで生きようっていう気持ち。
ちなみに言うと、自分の同年代にはその当時SSR級の親ガチャひいてる人間が知人親戚山のようにいたけど、9割が今クソみたいな生活してるよ。
そこまで含めて親ガチャっていいたいのかもしれないけど、自立したらその先は自分の責任なんだから、それもわからないなら結局は自分ガチャ失敗しただけだろうな。
1. FIT(固定価格買い取り制度)をやめろ
最悪の制度。金持ちをますます金持ちにした。おかげで、再生エネルギーなんて強制的に(民間企業)の電力会社に購入させるという法律が、どうして通ってしまったのだ?例えば、日銀とかが民間企業なのに、日銀券を(立法府が無理やり)すりださせるととか絶対に変だろ。おかげで、一般家庭は富の再生算が減ってしまった。
2. 地上デジタル放送によるテレビの買い替え制度は犯罪行為だ
マスコミのせいで、電子系の製造業界が 有効需要を破壊された。どう考えても、日系企業なんかが「同じ努力をして」テレビをつくったら、韓国と中国に勝てるわけがない。なんと言っても、日本人は所得が高い。逆に言うと、テレビなんかは「いつ買うか?」という供給がわからない状態にないと、生産設備が供給過剰になる可能性を考慮していく必要があるのだから、資本主義社会においては絶対に「確実に儲かる」ポイントはつくってはいけない。そんなものをつくったら、絶対に「安い労働力のある国」からアービトラージをくらうのだ。おかげで、家電業界は滅びた。マスコミが家電を殺した。
3. 雇用の流動化の促進
本当なら、雇用流動化は「労働者の資産をアップする」はずだったのだ。例えば資本主義社会においては安定した需要は常に生じないのだから、雇用を守ろうとすると「供給過剰になる」ので絶対にまずい。なので、本当ならば、最低賃金以下なら無条件で生保をあげるべきだ。
法が照らせる範囲が無限でなく、しかも「法」で行政が実施することを完全にできないのならば、無理に法案にすべきじゃないのだ。なのに法律をつくって、人を抑圧してきたのが、経済的に無理な法律をつくり、人々を抑圧することを実行することを可能とした。例えば、ヤクザなんかは法律を悪用した集団で、国営というユニバーサル・アクセスな領域があったから存在できたのだ。つまり、ヤクザは国に依存している。ヤクザの洗練されていないギャンブルが金になるのは、国が賭博を禁止しているからだ。そんな国際競争力を獲得できないド素人の賭博を裏でさせるのならば、表で堂々とギャンブルさせろ。ヤクザを滅ぼしたいのなら、ギャンブルを市井に開放すべき。ギャンブルで家が崩壊するような家庭は、すでにパチンコで崩壊しているからセーフ。
5. 老人を輸出しろ
外国に老人を輸出して、現地民に介護させろ。絶対にソッチの方が低コストだ。どうせ、都会民はおんなじことを地方の親にしているだろ。東京の一等地に老人を介護させるのだったら、カンボジアかマレーシアのような発展途上国に歩けなくなったら輸出して、低費用に抑えようではないか。
刑務所に入りたいから『犯罪を犯す』ようなやつがいるなら、無条件で刑務所に入れてやれ。少なくとも、犯罪を犯すよりマシだろ。
そのかわり、少年法を廃止な。大人も子供。子供も大人。LGBT + Children だ。何が問題なのさ。
一億二千万人を派遣会社の社長にしよう。そうすれば、完全雇用だ。
9. 国民にメルカリに参加させよう。むしろ、メルカリをしないと非国民にしよう。
ガス電気空気もすべてがメルカリで扱われれば、強制的に税を徴税できる。選挙もだ。メルカリで入札やろう。