はてなキーワード: サボタージュとは
起
2014/4/15彼らは静かに島に上陸し、強固な橋頭堡を建て、われわれが気づいたときには既に退去させることができない状況であった。
思い起こせば、金より名誉だったのだろう。汚職にまみれたものたちを追放した結果、残ったものたちは名誉を求めた。後世の残る名誉を。
そして主席は忠誠に代えそれを与えることにした。
承
われわれが軍事力を行使できないことを見越した上で、彼らは重火器を搬入し終え、そして陣地はますます強固さを増していった。
総理だけではもうどうにもならない状況ではあるが、既に同盟は形だけのようにも思えた。
転
総統は雪辱もあり、主席の軍を迎え入れた。春に勝利したものはは逃げ惑い、統領が軍事力を行使しようとしたときは島によって阻害される状況であった。
そして列島においてもサボタージュが起こり、また利を求める者たちが、総理の足を引っ張ろうとした。
その上半島においても不穏な動きが見える。
結
2015/4/4
そうやって非コミュとかコミュ障をぼっちで放置するだけでなく、いじめとか引きこもりの原因にもなっていて、長らく社会問題になってるんだけど、どうよ?
「持たざる者が、持つ者にたいして、配慮しろ(=オレにも寄越せ)と説得する」ってのが現代社会のありとあらゆる場所に見られる。
才能があるやつはイイよな努力しなくても何でも出来て、とか。
これらにたいしてもちろん人権()とか平等()とかをお題目というか錦の御旗にして、持たざる者が持つ者に対してその是正を求めて行くわけだ。それは別段非難されることではない。自分の利益を最大化しようという行動だからだ。でも一方で「持つ者が持たざる者には一切オレの富をやらん」というのも同じく自分の利益を最大化しようという行動で、その点で両者に差はない。
「持たざる者が持つ者に対してその是正を求める」というのが社会正義をひいて絶対的に正しいと思う人もいるが、これは嘘だ。倫理的に一定の正しさはあるが、じゃあそれが「持つ者の私有財産権」を犯していいものかというと疑問である。その両者の間で良い具合のところで落としどころをきめるしかなくね? というのが現代社会のコンセンサスだ。
「持たざる者が、持つ者にたいして、配慮しろ(=オレにも寄越せ)と説得する」ときに、持たざる者が絶対に自覚すべき事がある。
長らく社会問題になってるんだけど、どうよ?
これは「俺たちに配慮しないと問題を起こすぞ(=いやならお前たちの富を寄越せ)」という意味だ。
デモやストライキもその意味ではまったくいっしょだ。「社会問題になってますねー(チラチラ」はサボタージュに近い。
「持つ者」が多数派で法を支配している場合、「持たざる者」のあらゆる抗議は違法であるとされる可能性がある。または適法の行動では「持つ者」の意志を一切変えられないという事態も予想される。法の支配や独占は言うまでもなく(適法ではあるのだろうが)ある種の暴力である。その場合「持たざる者」の抗議行動はテロになるだろう。
デモやストライキ、サボタージュとテロの違いは法律で許可されているかいないかの一点に尽きる。しかし手法としては同一線上にあるものだ。
就職活動は真面目にやらなかった。
皆と似たようなスーツを着て、面接され、精査されていくという過程に耐えられなかった。
正月明けてからさすがにNNTはヤバいと思い、ハロワに行ったらすぐに内定をもらった。
とりあえず働ければいい、という低い条件で求人を漁ったので決まらないわけがなかった。
新卒で、若く、人格的に問題がなく、他に強力な競争相手がいなければ当然の結果だ。
通勤時間はドアtoドアで30分。
サビ残ありだったらすぐ辞めてやろうと思っていたのに何てことだ。
忙しくはないので、仕事の合間を見てネット閲覧などのサボタージュ可能。
この記事もサボタージュの成果だ。
この給与で、この条件下で長く働く気はない。
そもそも労働はクソ以下だと思っている。働きたくない。
それに同性愛者は結婚できないし、できても共働き前提の関係だ。
労働に従事して思ったが、
これに残業がついたら死にたくなる。
36協定で定められている残業の上限45時間なんて頭がおかしいとしか言いようがない。
8時間労働し、飲み食いやシャワーや着替えたりで3時間消費し、通勤で少なくとも往復1時間かけ(多い人は2時間かもしれない)
上限を守って残業をするとして、一ヶ月一日2時間までの残業が可能だ。
せいぜい一日の疲れを癒し、さあ趣味でもしようかといったところで寝る時間がやってくる。
こんなことでは何もできない。
子供の時番長クラスの人間はみな横着だった。皆もそういう思い出があるだろう?だらしない人間だけど何故か人望が厚いんだよ。
それは何故か?そこに1つの人生成功術の答えがある。要するに横着な人間ほど人気があるし権力がある。
横着なのになんでアイツ人気あるんだよと嫉妬にまみれた人々は言う。しかし横着だから、横着だからこそ人気があるんだよ。
では何故横着だと人気があるのか?それは強いからだ。人間の精神なんてほんとに弱々しいことを知らねばならない。
我々は社会化した人間を「オトナ」と呼び、「一人前」という意味合いを持たせているが、じつは大間違いでみんな心の弱い未熟者なんだ。
そんな世の中だからコドモのような横着者だけが周囲からみて強い人間に映るし実際に強い。みんな出来ないことが出来る、みんな言えないことが言える。
こまけーこたーいいんだよ!とばかりに好き勝手振る舞える人間は強い。面の皮が厚いのではない。
横柄で極悪非道ではあるがちゃんと人の心がわかっている。昔の武士にもそんな人は多かった。
高校の時にも野球部にいただろ?横着極まりない男でやりたい放題天衣無縫に振る舞っているのにやるときはやる。だから誰も文句いえない。
このやるときはやるって部分が肝心。なぜなのか?君たちの中では横着者というと自分勝手なイメージがあるだろう?それは間違いなんだ。
そんなのは横着者じゃない。横着というのはルールにとらわれないことであって、集団のルールにとらわれないのみならず個人のルールにもとらわれない。
だからルールにとらわれないからって個人主義ってわけでもないんだ。むしろ横着な人間ほど集団主義が多いくらい。よくよく考えてみれば当然のことである。
3年寝たろうって童話があっただろう。あれも横着者の強さを表している。昼間っからグースカ寝てはセックスしてばかりいる。
それを人々は人間として堕落した姿だと非難するがそうではない。大物ほど力をためる期間や時間が必要なのだ。
いやそうした時間があるような横着者だからこそ大物なのだ。じゃあ世の中の無職どもも大物なのかおかしいじゃないかと思うだろう?
それは違うんだ。彼らは中途半端にしか堕落できない。引きこもりは究極のサボりだと思われているがそうではない。
「やるときはやる」人間にこそ究極のサボタージュが可能なのだ。努力とサボりの観念をそうして正しく理解すれば、持てる力をフルに発揮できるようになる。
止めなきゃヤダよって言ってるw
なぜか?
それが統治だからだ。
基準を満たさない原発は満たした状態になるまで止めなければならない。
橋下閣下は、関電の頑な抵抗の前に期限切れ故に、キミのような軟弱者にも配慮したが、それでは原則が理解されないどころか、現実的な政治的妥協をした閣下を再稼働派が攻撃するという恩を仇で返すような発言のオンパレードになったのは周知の通り。
ほんと、為政者として神だわ。オレならそんな侮辱は真っ平御免だが。
いいか?
関電が供給義務者として、瑕疵のある原発に頼らずに民間の電源を売電する民間事業者にとって合理的な価格で売電する契約を結ぶ責務があったんだよ。
それを関電は、交渉時にいくらで買い取ったかについて公表しなかった。
http://www.taro.org/2012/04/post-1195.php
問い そうした企業から電力を購入するにあたって、関西電力が支払うとされている電力の単価はkWhあたりいくらと想定して、計算しているか。
大阪市エネルギー戦略会議がなぜ原発なしで間に合うと言った事をバカ扱いしているバカどもはそれを判っていない。
関電が1kwh12円で買取らせてとかフザけた交渉していたら5000万kwとも言われている民間の電源から10万kwぐらいしか出てこないのは当然だ。
それを1kwh80円と言っていれば300万kwぐらい余裕で出てくるのが市場原理だ。
埋蔵電力(藁)とか言ってるバカどもはそこを理解していない。
関電にとって合理的な価格で出てくるかなんて数値になんの意味もない。関電が血を流して売電事業者にとって合理的な価格でいくら集められるかの数値を出す事が独占企業の社会的責任いや義務だ。
関電は卑怯にもその交渉過程を公表にしなかった、だから開示権限がない橋下閣下はそのまま再稼働を呑んだ。
為政者ならばそれは立派な決断だが、オレは原理原則主義者だからな。
需給調整契約も減らすわ、電力を掻き集める努力も放棄して原発が資産か負債に落ちるかの分け目で金勘定でサボタージュを行った関電は絶対許さない。
自動化してみようと思う!と勢いよく書いておいてなんだけど、教えてもらった方法で自動化しても多分今後も遠隔操作によるチェックはなくならのではないかと予想してる。
すると何かい? 自動化させてもらえず手動処理を強いられていたのが不満なのではなく、自動化の見込みがなく手動でしかやるしかないタルい処理を日常業務にツっこまれたことに対する不満だったのかい?
そんなタルい作業は省略して自動化できる範囲だけで監視するよう作業メニューを変えることを提案していたのなら、そりゃ拒否られるよね。だってその意見はただの怠慢というかサボタージュじゃん。業務上必要な命令なんだから従いなさいよ。
suterukami 事件, 司法
殺せ殺せの大合唱に負けた司法。此の件は事件の中身よりも司法側の方針の方が優先され過ぎている気がずっとしてる。そしてそのとおりの結果になった。2012/02/20
なあに、誰も証明責任なんか追及して来ませんよ。適当な気分で叫んどきましょう。」
sink_kanpf 不適切なブックマークを通報する 事件, 司法
結局、法で決したというより、多数決で決したという感じの裁判だったという感想。世論的には「理屈とか手続きとかどーでもいいからとにかく吊るせ」一色だったし。 2012/02/20
上記ソリューションのおさらいです!
「裁判制度について無知なアホのコメントみたいに見えるですって?
『印象』とか『感想』とかイノセントを装う言葉を選んでおきましょう。」
sillyfish 光市母子殺害事件, 司法, 死刑, 一部ブコメがひどい
人をくびり殺すことを「法相は"仕事"しろ」なんて表現する感性と"犬の交尾"がどれほど違うのか、私にはわからない。殺し屋モノか何かのつもりなの?/法相と刑務官にはサボタージュを呼びかけたい 2012/02/20
敵側が合法だったり適正だったりして言いがかりをつけにくい場合は
→とりあえず情感たっぷりに言い変えてみる。
→ばかばかしいと思うなかれ、なんでもやるだけやってみるのさ。
ex.
切断した死体の肉を噛み裂き血を啜る行為を「食事」なんて表現する感性、私にはわからない。
"犬の交尾"
(※突然「交尾」とか何の話してるのかわからない人のために解説すると
>犬がある日かわいい犬と出会った。・・・そのまま「やっちゃった」・・・これは罪でしょうか
のこと。
ですが、それだけではないと思います。今回の圧勝のもう一つの要因は「余りにもお粗末な敵失」でしょう。民主+自民の既成政党の動きは、例えばアメリカでティーパーティーに対抗している民主党(米)とは比較にならないほどの低レベルでした。
まず、橋下新市長が「どうして日の丸・君が代にこだわったのか?」という戦術を全く理解していないという「大バカ、大間抜け」ぶりにあります。あれは非常にシンプルな戦術なのです。維新の人たちは、別に戦前の日本に戻したいわけでも「たちあがれ」的な形で高齢者のカルチャーに寄り添いたいのでもありません。
そうではなくて「日の丸・君が代」で攻めれば「敵はきっとイデオロギーから反発して感情的になる」だろうというのが彼等の「狙い」なのです。そうして「庶民の生活レベルの話や、大阪全域の経済再建」などの実務的な、具体的な政策論を説く代わりに、イデオロギー的な橋下批判に彼らが専念すれば「シメシメ」という作戦です。
イデオロギー的にカッカすることで、「反独裁」とか「反ファッショ」などという絶叫しかできない場所に追い詰められ、それが正義だと我を忘れた「反橋下」陣営を見ていると、中間層は選挙戦の展開を見ながら、これでは自分たちの民生向上にも閉塞感打破にも「全く役に立たない」という風に見てしまったわけです。
こうなると完全に橋下氏の「思うツボ」です。一旦自分たちがモメンタムを獲得してしまえば、反対派が「反独裁」を叫ぶということは「漠然と橋下支持を固めた中間層」に対して「お前たちはバカだ」と見下しているということになり、「叫べば叫ぶほど票が逃げていく」無限の循環に陥るからです。まんまと罠にはまったわけで、以降は全く勝負にならなかったのです。弁解の余地はありません。
橋下が本当にそんな戦略をとっていたかはさておき、敵失の分析は妥当な所だと思う。
彼等は防衛線の設定と攻撃ターンでやってることが釣り合ってない。
自分達の行動を問いただされるターンでは、
侵されてはいけない。
だが
・事前に生徒に洗脳じみた圧力をかけたり
・校門でノボリ立ててビラ撒いたり
という数々の行状は
「個人の信条の自由」を守るための必要最低限から大幅に逸脱している。
という気持ちを持ち続ける。
年数度、業務の一端で心ならずも君が代を歌う、
その夜は左翼仲間と「ペーッ、仕事とはいえ口が腐った!もっと強いのくれ!」と酒が進む、
ここまでが「個人の信条の自由」の範囲というものだろう。
どうしても歌うこと自体が許容できないというなら
起立して口パク、これでいい筈だ。
何故見習えないのか。
(ついでに、消極的に歌うことすら不可、というの自体も変な話だが。
歌に神通力があるとか、異教の儀式に加わると魂が汚れるとか、汚れは永遠に落ちないとか、
そういうのは宗教の教義ならあるだろうし、イスラム教徒に礼拝を受けさせるのは暴挙だが、
進歩的な左翼思想にそのような宗教性や迷信は無いはずだ。左翼にとって歌は歌でしかないだろう。)
つまり、
そういう視点じゃないんだよね。
「公務員(公立学校の教師も含む)が『俺それ嫌いだから』って理由で仕事をサボってよいかどうか」なんだよ。
そもそも国歌斉唱・国旗掲揚の際に起立しろという命令が職務として正当なものだという判決は、もう何度も高等裁判所や最高裁判所で出まくってる。それこそ両手じゃ数え切れないくらいにね。
それをおかしいと思うのは各自の自由だが、現実は違うって事だ。
赤信号が「止まれ」なのはおかしい(好きな色で進めばいいじゃないか)、車道が左側通行なのはおかしい(好きな車線で走ればいいじゃないか)、大半のトイレや公衆浴場が男女で分けられているのはおかしい(好きな所を利用すればいいじゃないか)、ってのと同レベルなんだよ。「公務員が起立を強制されるのはおかしい」ってのは。
なんでまた義務化とか余計なことをするんだろ。
有権者から選ばれた議員や首長というものは、有権者が納めた税金の使い道を決めるのが仕事。
つまり、税金で雇われてる彼ら公務員が仕事をさぼっていたら処罰するのも彼らの仕事の一つなわけ。
特に大阪あたりはこのサボタージュが各地で長い間横行しているらしいので、是正するために締め付けを厳しくするべきだと知事は考えているわけよ。
大阪で、君が代斉唱時に起立しなかった教員をクビにする条例がもうすぐできるらしい。
例によってはてブでは公教育への介入だ、思想統制だ、という話になってるらしいが。
問題は、公立学校の教職員が式典に出席した上で君が代斉唱を拒否していて、
その後の校長・教育長の指導や業務命令にも従わない、ということだ。
それを思想・表現の自由としているのなら、彼ら個人の思想の表現のためにやっている、と考えられる。
これは「公務員が勤務時間中に、自らの政治的主張のために業務をサボタージュして示威行為している」、
「判断能力が未熟な児童・生徒に、教員の立場を利用して自らの政治的主張を宣伝している」ということになる。
つまり問題は日の丸・君が代だけではなく、「公務員が思想を理由に業務をサボタージュするのは認められるか」、
「教員が児童・生徒に自身の政治的主張を宣伝するのは認められるか」ということだろう。
これらを認めてしまえば、極論すれば「教員が教えたくないこと・教えるべきでないと思うことは(指導要領に載っていても)教えなくて良い」
「教員が教えたいこと・教えるべきだと思うことは(指導要領に載っていなくても)教えて良い」ということになりかねない。
公民の教科書を放り出して毛沢東語録を教えても教員の自由、歴史の教科書を放り出して歴代天皇の諡号を暗唱させるのも教員の自由、
生物の教科書よりも旧約聖書の創世記を読ませたい、国語の教科書の代わりに団鬼六を読ませよう、という教員が出てきたらどうするのか。
児童・生徒がどんな内容の教育を受けるかは、その時に出会った先生次第で構わない、と思う人がどれだけいるんだろうか。
教科書の内容も式典の式次第も、文化祭や体育祭などの学校行事も、社会が期待する一定の水準に達するために教育委員会が指導してるんであって、
その内容は法律に則っていたり文部省の指導要領に則っていなければいけないのは当たり前のことだ。
具体的に言うと、会社が先に潰れるよね。
なるほど確かに.
あとは日本人の特性からいってそこまで天晴なグータラぶりを発揮できるかどうか.
完全サボタージュになるとどうしようもないが,
ある程度のことはゆるゆるやる人たちだとすると,どうなるだろう.
実際問題として何割の人が真面目なら企業は成立するのだろう.
IT化やアウトソーシングが進んだら,日本の大企業なんて2割の優秀な人がいれば,
残り8割の人の主たる業務は「優秀な2割の邪魔をせず黙っておくこと」だとすると,どうなるだろう.
2割を選出するための多様性としての8割.
1億円の宝くじ1枚を当てるために買われた外れクジ999枚みたいな.
outputは天と地でも,いずれも買値は同じ300円.
もちろん8割にただ飯食わせることに,優秀な2割が耐えられるかという話があるが,
ここもまた日本人のメンタリティ的にふんばれてしまいそうな気が.
まぁ2割だけで戦う無理のある組織は,
いずれそうでないところに負けて,淘汰が進むのかな.
そして「そうでないところ」ってのは多分,外資なんでしょうねぇ.
昨日のテレビタックルをチラ見してたら、青山氏や毎日新聞にいたあの人が、
民主党のやり方がまずくて、官僚のサボタージュを招いている、民主党が悪い、という内容を話していた。
まあ、そうなんでしょうけど、サボタージュしてる官僚の無責任さには全く触れず、オドロイタヨ。
ご機嫌とらなきゃ、働かない公務員てなんだよ、ソレ。
利権をまわし合う相方の自民党以外は、働かない公務員てなんだよ、ソレ。
それを直せない民主は確かに力不足だけど、自民~官僚~マスコミ~経団連の世の中に戻っていいの?
これで気に入らない政党には協力しなくてもOK、それが日本的官僚独裁国家。
国民がソレに対してOk出してますから、みたいな時代が来るよ。
コマ叩いていもしょうがないよ。
平身低頭、いつも人に優しい 上司には優しく接する。敬意を持って接する。
慇懃無礼、態度がでかい 上司には、慇懃無礼、でかい態度で接する。
私に優しくしてくれる必要はない、たとえば、派遣のお姉さんに優しくできる上司には、尽くす。
派遣なんて、所詮派遣、いくらでも換えが効くという上司には、所詮上司なんて、プロジェクトいくつか、サボタージュしてとばせばいくらでも換えが効く・失脚するという態度で接する。
俺が不思議なのは、他人に対して無礼な上司というのは、無礼に接するのがコミュニケーションなんじゃないのか?
郷にいれば郷に従えで、上司のルールにあわせているだけなんだが?
俺に優しくしろとは言わない、派遣の人や、新人など、弱い人にやさしくできるかどうかが、尊敬を受けるかどうかだと思ってる。
それは、間違っているのか?
そいつが苦労したかどうかなんて知らん、他人に弱者に優しくできるかどうかと思う。
苦労なんて、両親不在で奨学金で、とか夜学でとか、専門学校出とか、いろいろしってるよ。
トイレットペーパー工場に勤めるはずが、教師の薦めで大学に来られた奴とかな。
そういう努力には敬意を払う。上司だというだけでは敬意は払えない。
すくなくとも、他人を捕まえて、頭がおかしいどうのこうの、という文章には敬意は払えない。
夜と霧
ヴィクトール・E・フランクル
収容所で集団を対象に精神的ケアをほどこす可能性はきわめて限られていた。これには言葉よりも効果のあるものがあった。模範だ。たとえば居住棟の班長の中に公正な人物がいたが、その毅然とした、見ているだけでも勇気づけられる存在は、ことあるごとに彼の統率下の被収容者に深く広く影響をおよぼしていた。存在、それも模範的存在の直接の影響は、言葉よりも大きいものだ。だが、なんらかの外的根拠を挙げて内的な共感をよびさますときには、言葉も有効だった。わたしは集団に話をし、外的状況を伝えて一居住棟のすべての被収容者に心の準備をさせ、精神的なケアに役立てたことがある。
あれは最悪の日だった。今しがたの点呼で、古い毛布を帯状に切り取ることも(即座にゲートルを作るのによく使った手口だ)、ほんのささいな「窃盗」も、今後すべてサボタージュと見なし、即刻、絞首刑をもって罰せられる、という布告がなされた。さて数日前、飢えかけた被収容者がじゃがいも倉庫に忍びこみ、数キロのジャガイモを盗むという事件が起こった。浸入は露見し、被収容者たちは、「侵入者」が誰か、知っていた。収容所当局は、このことをどこかから聞きおよび、違反者の引渡しを要求してきた。これを拒めば、収容所の全員に一日の絶食を課すという。もちろん、二千五百名の仲間は、ひとりを絞首台にゆだねるよりは断食のほうがましだと判断した。
この断食日の夕方、わたしたちはむき出しの土の床の居住棟にごろごろしていた。気分は最悪だった。ほとんど口をきく者もいない。なにか聞こえるとすれば、とげとげしい言葉だった。そこへ、停電が追い討ちをかけた。悪い雰囲気はここに極まった。居住棟の班長は賢明な男だったが、全員が耳をそばだてるような短い話をした。ここ数日に病死したり自殺したりした仲間のことを語ったのだ。そして、死因はさまざまでも、彼らの死のほんとうの原因は自己放棄だと言い、これについて、そしてどうしたら精神的な崩壊でつぎの犠牲者が出ることを未然に防げるか、少しばかり解説してもらいたいのだが、といって私を指名したのだ。
私は、心理学の視点から解説をしたり、居住棟の仲間に精神医として話をして、いわば医者としての立場から魂を教導するなどとんでもないという気分だった。寒さに凍え、空腹で、ぐったりとし、またいらいらしていた。だが、わたしは力をふりしぼって立ち上がり、このまたとない機会を利用した。なぜなら、今話をすることは、かつてないほど必要だったからだ。
医師、魂を教導する
こうして、わたしは語りはじめた。まず、とらわれのない目には、お先まっ暗だと移ってもしかたない、と言った。また、わたしたちはそれぞれに、自分が生き延びる蓋然性はきわめて低いと予測しているだろう、ともつけ加えた。収容所にはまだ発疹チフスはひろまっていなかったが、生存率は五パーセントと見積もっていた。そして、そのことを人々に告げた。わたしは、にもかかわらずわたし個人としては、希望を捨て、投げやりになる気はない、とも言った。なぜなら、未来のことはだれにもわからないし、つぎの瞬間自分になにが起こるかさえわからないからだ。そして、たとえあしたにも劇的な戦況の展開が起こるとは期待できないとしても、収容所での経験から、すくなくとも個人のレベルでは大きなチャンスは前触れもなくやってくることを、わたしたちはよく知っている。たとえば、とびきり労働条件のいい特別中隊への小規模な移送団に思いがけなく編入されるとか、同じような羨望の的の、被収容者を「幸福」で舞い上がらせるようなことは、いつも突然起こるのだ。
わたしは未来について、またありがたいことに未来は未定だということについて、さらには苦渋に満ちた現在について語ったが、それだけでなく、過去についても語った。過去の喜びと、わたしたちの暗い日々を今なお照らしてくれる過去からの光について語った。わたしは詩人の言葉を引用した。
「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」
わたしたちが過去の充実した生活のなか、豊かな経験のなかで実現し、心の宝物としていることは、なにもだれも奪えないのだ。そして、わたしたちが経験したことだけでなく、わたしたちがなしたことも、わたしたちが苦しんだことも、すべてはいつでも現実のなかへと救いあげられている。それらもいつかは過去のものになるのだが、まさに過去のなかで、永遠に保存されるのだ。なぜなら、過去で<ある>ことも、一種の<ある>ことであり、おそらくはもっとも確実な<ある>ことなのだ。
そしてわたしは最後に、生きることを意味で満たすさまざまな可能性について語った。わたしは仲間たちに語った。横たわる仲間たちはひっそりと静まり返り、ほとんどぴくりとも動かさなかった。せいぜい、時折かすかにそれとわかるため息が聞こえるだけだった。人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある、この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことを、苦と死をもふくむのだ、とわたしは語った。そしてこの真っ暗な居住棟でわたしの話に耳をすましている哀れな人々に、ものごとを、わたしたちの状況の深刻さを直視して、なおかつ意気消沈することなく、わたしたちの戦いが楽観を許さないことは戦いの意味や尊さをいささかも貶めるものではないことをしっかりと意識して、勇気をもちつづけてほしい、と言った。わたしたちひとりひとりは、この困難なとき、そして多くにとっては最期の時が近づいている今このとき、だれかの促すようなまなざしに見下ろされている、とわたしは語った。だれかとは、友かもしれないし、妻かもしれない。生者かもしれないし、死者かもしれない。あるいは神かもしれない。そして、わたしたちを見下ろしている者は、失望させないでほしいと、惨めに苦しまないでほしいと、そうではなく誇りをもって苦しみ、死ぬことに目覚めてほしいと願っているのだ、と。
そしてしめくくりとして、犠牲としてのわたしたちについて語った。いずれにしても、そのことに意味はあるのだ、と。犠牲の本質は、政治的理念のための自己犠牲であれ、他者のための自己犠牲であれ、この空しい世界では、一見なにももたらさないという前提のもとになされるところにある、と。もちろん、わたしたちのなかの信仰をもっているものには、それは自明のことだろうし、わたしもそのひとりだ、と。
わたしは、ひとりの仲間について語った。彼は収容所に入ってまもないころ、点と契約を結んだ。つまり、自分が苦しみ、死ぬなら、代わりに愛する人間には苦しみに満ちた死をまぬがれさせてほしい、と願ったのだ。この男にとって、苦しむことも死ぬことも意味のないものではなく、犠牲としてのこよなく深い意味に満たされていた。彼は意味もなく苦しんだり死んだりすることを望まなかった。わたしたちもひとり残らず、意味なく苦しみ、死ぬことは欲しない。この究極の意味をここ、この居住棟で、今、実際には見込みなどまるでない状況で、わたしたちが生きることにあたえるためにこそ、わたしはこうして言葉をしぼりだしているのだ、とわたしは語り納めた。
わたしの努力が報われたことを知ったのは、それからほどなくのことだった。居住棟の梁に電球がひとつともった。そしてわたしは、涙を浮かべてわたしのほうへ、礼を言おうとよろめき寄ってくるぼろぼろの仲間の姿の見たのだ。しかし、この夜のように、苦しみをともにする仲間の心の奥底に触れようとふるい立つだけの精神力をもてたのはごくまれなことで、こうした機会はいくらでもあったのにそれを利用しなかったことを、わたしはここで告白しなければならない。
p.135
フランチェス子がヌルいのは、「被害者は十分自衛している」という主張だ。寝込みを襲われた時に、携帯していたナイフで、強姦魔である知り合いを刺すことができてこそ自衛というものだ。それは明らかに現実にできることだが(だって外国はそうだからね)、そこまで覚悟完了している人がどれだけいるだろうか。その結果犯罪になろうとも、それが自衛なら断固やるべきだし、断固法改正すべきなのだ。被害を受けたくない者が暴力をもって対抗することが、明らかに一つの解決策なのだ。
そもそもフェミニズムの歴史は普通選挙権運動や公民権運動と同じく破壊工作の歴史だ。暴動、不法占拠、無賃での資源奪取、サボタージュ、そして本当に警察への暴行。
暴力は停滞した人間関係や社会を粉砕し、非常時に物事をなせるよいものでありうる。その認識がフェミニズムには当然備わっているはずだ。フランチェス子にも備わっているだろう。いないとしたら呆れる。彼女は暴力を論じながら、暴力に全く太刀打ちできまい。口先だけということになる。
男が暴力を誇るのは、停滞した人間関係や社会を粉砕できて、非常時に物事をなせて、あるいは不当な暴力に対抗できるからだ。暴力の能力がないことは鍵穴の鍵を一つ欠いているということに他ならない。鍵穴に合う鍵を持っている/欠いていることは基本的に誇る/悔しがるべきことだ。
勉強ができないけどスポーツができるからといって、スポーツを通じて勉強が出来るか? 勉強を捨ててスポーツだけで身を立てるという約束事の上に、初めてそれは正当化される。逆にスポーツができないけど勉強ができる人は、勉強で身を立てるという約束事の上でしか自分を正当化できない。
私は怠惰だから、警察が守らないいざという時に戦えずにただ攻撃を甘受することになるだろうし、それを悔しいと思っている。その感覚がないことはおぞましいことだ。
「鍵穴に合う鍵を持たないことが素晴らしい」という世の中は基本的に何らかの欺瞞に支えられている。普通は「鍵を持つべきではない」という倫理観に支えられていたり、あるいは鍵を他の誰か(軍や警察)に委任していて分業を円滑に行うためだったり、何らかの意味で鍵が必要ない場が形成されている場合に限られる。そういう場が成り立たない局面に備えるには、やはり鍵は持つべきなのだ。備えないなら不運に対処できなくなり、その時にものすごく悔しい目に遭う。
そういう人に「何で鍵を持たなかったの」と言って悔しがらせないことは倫理として大いに是認されるだろうが、「だったら鍵を持てば対処できるんじゃないの」という主張を非難することはただの欺瞞にすぎない。
実際、そういう非難をする人は、鍵を持っていないし、「鍵を持ちたくない」という自分の主張の正しさをまともに考えたことがない。正当化できるなら「これこれこういう理由で私たちは鍵を持ちたくないし、鍵が必要とされる局面に遭遇したくない、それは社会的に是認される」と言えるはずだからだ。言えないから「お前たちがとにかく間違っているから私たちは正しい」としか言えていない。それは全く説得ではない。正当化としても極めて稚拙で欺瞞的としか言えない。
要するに鍵を持ちたくないし、鍵を持たなくてもいい場を保ちたいし、それが社会的に是認されるならいい訳だ。たったそれだけの正当化ができればいいということになる。
それでも場が成り立たなくなることは常に起こりうる。その時は鍵がないから対処できない。それはそういうものだ。コストとリスクはトレードオフということだ。鍵を持ちたくないのならば、場が成り立ち続けるために何か努力するしかない。例えば、暴力が全く必要ない場と社会を維持し続けるにはどうするか、という命題に立ち向かうことになるだろう。それが暴力を捨てた代償となる。(普通はそれは軍事力・警察力に委任するということになるはずだ)
善良な市民が善良に生きていても、犯罪者は犯罪を犯すし、その時すぐに警察が出動して迅速な対応ができるとは限らないのだから、私は日本に武装権が必要だと思っている。一から導入するので、軍事力や警察力との調整も容易なんじゃないかな。
西松建設事件で民主党の小沢一郎代表(現幹事長)の秘書が逮捕されたときも思ったが、わたしの頭がおかしいのか? 世間のほうがおかしいのか? とにかくどうかしていると思う。
先週末からさかんに喧伝されている「天皇の政治利用」問題だ。あれのどこが政治利用なのかまったく理解に苦しむ。ことの経緯を冷静に検証すれば、「100日ルール」をミスったのは官僚の不手際だったことがわかる。それを官僚が「政治利用問題」にすり替えて責任回避しているに過ぎない。こういう責任逃れ、保身に関する官僚の智恵は本当にすごい。しかし、それは国益にも何にもならない。しばらく《THE JOURNAL》をさぼっていたが、あまりにデタラメなので復活することにして。しかし、本当はわたしの頭がおかしくなっているのかもしれない......。
新聞報道によると、そもそも中国側から「国家指導者」クラスの来日を打診されたのは前政権下の2009年の初めだったという。外務省は当然、これに対する準備と情報収集を始めたはずだ。もし、始めていなかったら職務怠慢というほかはないが、"優秀"な外務官僚がそんなミスをするはずはない。周到な準備の中で習近平国家副主席が来日することはつかめたはずだ。習が次期主席の最有力候補であることは、チャイナウォッチャーなら誰でも知っていることだからだ。もし知らなかったとしたら、外務省はバカである。知らないはずがないのである。そこで、次に外務省がやるべきことは「前例」のチェックである。
調べればすぐに分かることだが、1998年に胡錦濤現国家主席が副主席として来日した際、天皇陛下と会見している。となれば、次期主席を確実視される習副主席の来日に際し、陛下との会見要請があるのは当然、予測できただろうし、外務省としてもその準備を始めたはずだ。なにごとも根回し優先の霞が関で、ここまで簡単に素人でも予測できる事態を前に何もしないはずはない。当然、この段階でどのレベルかは不明だが、内々で宮内庁にも意向を伝えていたはずである。もし伝えていないとしたら、それこそ職務怠慢である。
宮内庁側も、当然こうした動きは察知していなければならい。本当に天皇陛下の体調をおもんぱかるなら、それに影響を与えそうなあらゆる情報を収集していなければならない。とくに外務省の動きは、「要人来日=陛下との会見」と直結しているだけに、常に連絡を密にすべき相手である。中国側から要人の来日が打診された年初の段階から、両省で連絡を密に取り合い、情報共有していなければならない。していないとしたら職務怠慢である。
新聞報道によると、最終的に中国側から習の来日を伝えてきたのは10月だったという。あわせて天皇陛下との会見を希望していることを伝えられたそうだ。しかし、そんなことは外務省も宮内庁もとっくに知っていなければならない事項だ。なにしろ、素人のわたし(山口)が考えても容易に想像できることだから。もし、知らなかったとしたら、その職に留まる資格はないといえる。
役人の仕事は、ここから「ルールに合わせる」ことだ。習副主席の最終的な来日日程が決まらず、100日を切りそうだと判断したら、どういう方便を使ったらルール違反にならないのかを考えるのが、官僚の仕事ではないか。今回はなぜか、外務省も宮内庁もそれをしなかった。
羽毛田信吾宮内庁長官によると、来日100日を切った11月26日になって"初めて"外務省から「内々の打診があった」という。これを信じろというほうが無理だ。羽毛田は、それまでまったく知らない寝耳に水の事態だというのだろうか? 外務省となんら情報共有していなかったのだろうか。だとしたら、これも職務怠慢というほかはない。
繰り返すが、中国側は遅くとも10月には習の名前を挙げて、陛下との会見を希望している旨を外務省に伝えている。これまでの例から考えると、この段階で即、情報が宮内庁に伝わらなければならない。それがなぜか今回はできていなかった。
ミスはどこで発生したのか。単なる連絡ミスなのか、職務怠慢なのか、あるいは新政権に対する意図的なサボタージュなのか。現段階ではハッキリしないが、いずれにしても省庁間の連絡ミスで情報共有できていなかったことが、「100日ルール」を犯した根本原因だ。なぜなら、ここまではすべて事務方の仕事だからだ。
そのことを官邸(政権)が知ったのが、おそらく直前になってからだったのだろう。それでドタバタが始まったのだ。羽毛田はこの動きを見逃さず、官僚側のミスを覆い隠すために「政治利用」という分かりやすいロジックを持ち出したのだ。
「100日ルール」を守らないとなぜ、「政治利用」になるのだろう。では、バリバリに政治的意図を持った要請でも100日以上前に持っていけばOKなのか。いずれにせよ、羽毛田の主張は矛盾している。本気でこれを問題視しているのなら、(根耳に水の)11月26日の段階で新聞記者に対して「官邸がこういう横紙破りの要請をしてきた。宮内庁としては容認できない」と語ればよかったのに、そういうことはしていない。しかも、最終的に平野博文官房長官の電話による説得を「宮内庁といえども政府機関の一翼を担う......」などという理屈で、自らの判断によって受け入れてしまっている。つまり、羽毛田も共犯なのだ。
今回、あえて記者に漏らしたのは、「自首」による共犯逃れを目論んだに相違ない。自ら語れば免責されると考えた、官僚の浅知恵だ。
もし、羽毛田が宮内庁長官として本心から今回の一件が天皇の政治利用であり、あってはならないことだと考えるなら、身を賭してでも会見を阻止すべきである。辞表を叩きつけて、その場で新聞でもテレビにでも出まくって、自らの主張をプロパガンダすればよかったのだ。それをせずに、長官の職にとどまり、小沢に批判されても「辞めない」と言い張るのは、結局、すべてが保身だったと言われても仕方あるまい。
もちろん、この間に訪中を控えた小沢幹事長サイドから政府に対して何らかのア
ピールなどがあったかもしれない。しかし、あったとしても最後の最後の段階での話ではないか。繰り返すが、最終段階まではあくまで事務方の仕事なのだ。その事務方の連絡ミス(あるいは意図的なサボタージュ)を「政治利用」にすり替えていることは否定できまい。
しかし情けないのは、こんな簡単な霞が関トリックを新聞が見破れないということだ。新聞を読むと、まるで霞が関の官僚が書いているような解説ばかりで驚いてします。たとえば、「100日ルール」ができたのは、陛下が前立腺がんの手術を受けた2004年からだというが、ではそれ以前はどんなルールがあったのか、まったく触れていない。自民党政権下では、2004年より以前も100日を切る要請はなかったのか?
週刊朝日は過去に、皇室関係者らの声を元に天皇の公務が多く負担がきつ過ぎるのではないかという記事を何度も書いているが、そうした声を一度として顧みることがなかったのは、羽毛田をはじめとする宮内庁官僚ではなかったか。だから、わたしには羽毛田らが陛下の体調をおもんぱかっているというのは、まったく冗談にしか聞こえない。だったら、もっと早くに公務負担を減らすべきだった。
「陛下のお体への気づかい」という誰にも否定できないワードをそれこそ政治利用し、民主党政権を牽制しようとしているのは、羽毛田ら宮内庁を中心とする霞が関官僚ではないのか。
なんてことに憤るわたしはやっぱり頭がヘンなのか。やっぱり新聞に書いてあるとおり、これは小沢らによる天皇の政治利用なのだろうか......。わからなくなってきた。