2009-12-30

暴力はある種の鍵穴に対する鍵であり、よいものでありうる

ランチェス子がヌルいのは、「被害者は十分自衛している」という主張だ。寝込みを襲われた時に、携帯していたナイフで、強姦魔である知り合いを刺すことができてこそ自衛というものだ。それは明らかに現実にできることだが(だって外国はそうだからね)、そこまで覚悟完了している人がどれだけいるだろうか。その結果犯罪になろうとも、それが自衛なら断固やるべきだし、断固法改正すべきなのだ。被害を受けたくない者が暴力をもって対抗することが、明らかに一つの解決策なのだ。


そもそもフェミニズム歴史普通選挙運動公民運動と同じく破壊工作の歴史だ。暴動、不法占拠、無賃での資源奪取、サボタージュ、そして本当に警察への暴行

暴力は停滞した人間関係社会を粉砕し、非常時に物事をなせるよいものでありうる。その認識フェミニズムには当然備わっているはずだ。フランチェス子にも備わっているだろう。いないとしたら呆れる。彼女暴力を論じながら、暴力に全く太刀打ちできまい。口先だけということになる。


男が暴力を誇るのは、停滞した人間関係社会を粉砕できて、非常時に物事をなせて、あるいは不当な暴力に対抗できるからだ。暴力能力がないことは鍵穴の鍵を一つ欠いているということに他ならない。鍵穴に合う鍵を持っている/欠いていることは基本的に誇る/悔しがるべきことだ。

勉強ができないけどスポーツができるからといって、スポーツを通じて勉強が出来るか? 勉強を捨ててスポーツだけで身を立てるという約束事の上に、初めてそれは正当化される。逆にスポーツができないけど勉強ができる人は、勉強で身を立てるという約束事の上でしか自分正当化できない。


私は怠惰だから、警察が守らないいざという時に戦えずにただ攻撃を甘受することになるだろうし、それを悔しいと思っている。その感覚がないことはおぞましいことだ。

「鍵穴に合う鍵を持たないことが素晴らしい」という世の中は基本的に何らかの欺瞞に支えられている。普通は「鍵を持つべきではない」という倫理観に支えられていたり、あるいは鍵を他の誰か(軍や警察)に委任していて分業を円滑に行うためだったり、何らかの意味で鍵が必要ない場が形成されている場合に限られる。そういう場が成り立たない局面に備えるには、やはり鍵は持つべきなのだ。備えないなら不運に対処できなくなり、その時にものすごく悔しい目に遭う。

そういう人に「何で鍵を持たなかったの」と言って悔しがらせないことは倫理として大いに是認されるだろうが、「だったら鍵を持てば対処できるんじゃないの」という主張を非難することはただの欺瞞にすぎない。

実際、そういう非難をする人は、鍵を持っていないし、「鍵を持ちたくない」という自分の主張の正しさをまともに考えたことがない。正当化できるなら「これこれこういう理由で私たちは鍵を持ちたくないし、鍵が必要とされる局面に遭遇したくない、それは社会的に是認される」と言えるはずだからだ。言えないから「お前たちがとにかく間違っているから私たちは正しい」としか言えていない。それは全く説得ではない。正当化としても極めて稚拙で欺瞞的としか言えない。

要するに鍵を持ちたくないし、鍵を持たなくてもいい場を保ちたいし、それが社会的に是認されるならいい訳だ。たったそれだけの正当化ができればいいということになる。

それでも場が成り立たなくなることは常に起こりうる。その時は鍵がないから対処できない。それはそういうものだ。コストリスクトレードオフということだ。鍵を持ちたくないのならば、場が成り立ち続けるために何か努力するしかない。例えば、暴力が全く必要ない場と社会を維持し続けるにはどうするか、という命題に立ち向かうことになるだろう。それが暴力を捨てた代償となる。(普通はそれは軍事力警察力に委任するということになるはずだ)


善良な市民が善良に生きていても、犯罪者犯罪を犯すし、その時すぐに警察が出動して迅速な対応ができるとは限らないのだから、私は日本に武装権が必要だと思っている。一から導入するので、軍事力警察力との調整も容易なんじゃないかな。

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