はてなキーワード: 入れ子とは
偶数月の末日頃発売。電子版は基本的に翌月の10日前後に発売なのだが、今回は4日発売と、いつもより早かった。今回も私の推し作家・座裏屋蘭丸先生はお休みだ。ひぃん。しかし『Daria』で連載中の『コヨーテ』が佳境なので仕方ない……。再来月まで待てがんばる……。
そして今回は前号で最終回を迎えた、『 鴆(ジェン) 天狼の目』(文善やよひ)の記念特集が紙本版にはドドンと入っているはずなのだが、電子版には文善やよひ先生のコメントまでひっくるめて一切掲載されていない。悲しい。なんでそんなに電子派を冷遇するの……。Canna公式Twitterによれば、特集記事のほかに各鴆シリーズの第1話も一挙再掲載されているらしい。
鴆シリーズは獣人(鳥人)ものという、BLの中でも特殊なジャンルではあるけれども、とても漫画の上手な作家さんの描いた漫画で読みやすいので、BL初心者とジャンル不問で漫画好きの人におすすめ。個人的に好きかと問われると、微妙なのだが……(単純な好みの問題)。
ということで、 鴆特集は電子派の私には読めないので、それ以外の掲載作の感想をば。
新連載きた! バンドマンBL。主人公が性的なトラウマ持ちでしかも感性が周囲とズレていて浮きまくる系の人。ゆえにすっかりメンヘラに成長しており、おそらく攻めであろうバンド仲間(ベース担当)に面倒を見られてなんとか生きてる感じ。
1話目なのでなんとも言えないが、バンドマンBLというと『ギヴン』という超人気作品の存在がよぎるので、チャレンジャーだなと。
去年の暮れ辺りに完結した『ヤクヨメ♂』のスピンオフ作品。ヤクヨメ♂の攻め・いわおの子分的な人のツレが主人公。タイトルは主人公の職業が漫画家であるためにバクマンみたいになったようだが、かといって主人公がちゃんと漫画家稼業に励んでいる描写があるわけではない。カップリングが替わってもなお、作者の例のあの性癖をてんこ盛りに盛った内容である。まあ幸せそうでなにより♂♂♂
読み切り。パン屋×米屋の幼なじみBL。エロはない。ピュアラブ系。絵柄が『この世界の片隅に』のこうの史代先生的なふんわり系で、ストーリーにも尖ったところはない。最初から最後まで可愛くほわほわしていた。たぶん、二次創作でしかBLを知らない人の漠然と思う「BLってこんな感じ」に近いんじゃないかと。なごむ。
逃げる相手を追うのが好きな男×逃げ癖のある男。あ、攻め受けこれで合ってるかな?
前編から間が空いてしまったので、どんな話だったっけな……。出来れば短い話は毎回掲載されるといいんだけど、BL読みにおいては短気は損気だ。
絵柄がリアル寄りでがっつりと大人の男同士のゲイものって感じ。
フラッととんずらをこく方もこく方もだが、昔とった杵柄とコネで相手の居場所を特定してくる奴もだいぶヤベェ。もはや犯罪だし。でも追う方からはターゲットはびびりながらもちょっと嬉しそうに見えたらしい。うん、それって幻覚じゃないかな。
今となっては一般ジャンルでも大人気小説家でBL小説家でもある凪良ゆう先生の人気作品のコミカライズ版。世間知らずの坊っちゃん医者×詐欺師。
毎度思うけど、凪良ゆう先生の小説は大部分が心理描写に費やされているし、分かりやすくてノリのいい文体が魅力なので、それを絵で見せられてもなぁ……という感じ。いくら上手い絵でも。凪良ゆう先生の小説が好きだが『積み木の恋』は未読の私としては、ただ原作を読みたくなるだけ。凪良ゆう先生を全く知らない人が読んだらどう思うだろうな? 一読してスルーかな。
まあ、コミカライズ担当の漫画家が悪いんじゃなくて、いくら出版不況で小説が売れないからってこんな企画立てちゃう編集部がよくないんだ。
『 鴆(ジェン)』特集は冒頭に書いた通り電子版には載っていないので、省く。
ゲイカップル・いまぢとほづつみの家に猫に擬態した宇宙人のサンが転がり込んできて、地球侵略の為の情報を得るためにいまぢとほづつみの暮らしを観察しているという話。
痴話喧嘩回。今回はサンの出番が多くてよかった。自転車をこぐいまぢの後頭部に貼り付いているサンの後ろ足がとってもキュート。サンは中身が宇宙人なだけあって人の心を解さないかと思いきや、人間の夜の営みをガン見で観察した結果、恋愛アドバイスができるまでに成長してしまった。すごい猫だ。釈迦に説法感のあるアドバイスだったけれど。
ラストの引きが強い。これは続きが気になるぞ……。
旅人×猫耳獣人。旅人のオルは癖の強い城塞都市国に入国するなり引ったくりに遭い、無一文身元不明人になってしまう。なり行きで働くことになった、猫耳獣人ばかり売っている娼館で、美しい娼夫アコニと出逢う。
ハーレクインのような美麗な絵とストーリー。しかしBLである意味がもはやなくないか? というほどに娼夫達の見た目が女性的。
今回はあまりストーリーに進展がなかったな……。オルが重大な決断をしただけで(それが「進展」というやつなのでは?)
サイボーグ×人間。酸素濃度のやたら高い星に来た元軍用サイボーグが、植物の調査研究をしている人間の護衛だかお守りだかを担当する話。
もはやハードボイルドの可能性はすっかり消し飛んでしまった……。人の心を薄くしか持っていないサイボーグが、ワンコキャラな人間に恋してしまい、誰が見てもほわほわと浮わついているという話。これは温かく見守るしかない……。正直、もっと渋いのを期待してたのだが。山なしオチなし意味なし略して「やおい」まさにこれ。
オメガバース作品。政略結婚と人身売買の中間みたいなカップルなんだけど、買った方の攻めは受けの事を好きなわりに受けの愛を信頼してはおらず、買われた受けの方は実は真っ直ぐ攻めを愛している。猜疑心故に素直になれない攻めと、惚れた弱みで腹を割って話すことが出来ずに攻めの顔色をびくびく窺い続ける受けの、ディスコミュニケーションぶりが、読んでて非常に辛い。
現代的な人権意識と家庭内の前時代的な価値観による閉塞感のギャップがえげつない。ていうかこれ完全にDVじゃん。受けの人全力で逃げて!
……と思うんだけど、逃げねんだよなぁー。それでも攻めを愛してるからってよー。
そんな古風なストーリーなんだけど、今回は実在の最新型避妊薬「インプラノン」が登場する。えっこれもう認可されてたっけ? と思わずググってしまった。マッチ棒くらいの長さの筒の中にホルモン薬の仕込まれた避妊薬で、二の腕の皮下に埋める。三年くらい避妊効果が続く。飲み忘れリスクがないので、99%くらいの確率の避妊効果があるそうだ。
そんな文明の利器を受けの人は良かれと思って攻めの人と相談せずに独断で使用してしまう。そしてそれが新たな修羅場を生む。
あのさぁ、そんだけの行動力があるなら事前に攻めの人とよく話し合おうよ。とも思うけど、攻めは攻めで支配欲と嫉妬の塊で受けとの約束をあっさり覆してくるやつなので、話し合ったところで受けにとって良いような流れには、ならないんだなあ。
今時こういうストーリーはただ只管に辛いばかりなのだが、このギチギチに古風なDVカップルがどのように軟着陸するのか(Cannaだからバドエンではない、と信じたい)、興味はある。
『嘘つきな愛を買う』のDVカップルでがっつりテンションを落とされた後で、今度は陽気に? サバサバしたディスコミュニケーションカップルのやつですよ。ゾンビの佐田×マッドサイエンティスト間宮の日常BL。
前回、一泊温泉旅行(+一泊)にて、恋バナで盛り上がった佐田と間宮。佐田の独特な恋愛観……実は世間一般でいう所の恋愛というもののべたべたしているところが苦手で、それよりセックスの出来る友達くらいの距離感で人と付き合えるといいなと思ってる(間宮と付き合いたいとはミリも言っていない)……を聴いた間宮は、じゃあセックスしよう(もう友達だから)と提案(という名の強制)をしてきて、佐田大ピンチ。
『スリーピングデッド』上巻のレビューには「受けの間宮がだいぶ無理。これで萌えろと言われても」的なことが書かれていがちなのだが、主人公の佐田にとっても間宮はかなり無理だったというのには笑った。正直に「たぶん無理……」と言ってしまうBLの攻め様ってどうなのw
そんな佐田に好かれようと一生懸命な間宮がとても可愛かった。まだ3月なのに可愛い受けオブ・ザ・イヤーが来てしまったぞ大変だ。思いがけない佐田の行動にびびった時の間宮が、死ぬほど驚き怯えた時のハムスターみたいに両手を胸の前で縮こめて目を見開く姿が可愛くて可愛くて可愛くて可愛い。
一方、佐田はといえば間宮がツンツンしまくりながら無茶な要求・暴言・暴挙をぶつけてくるのに案外律儀に応える体でいて、最終的には首尾よく間宮を丸め込んでちゃっかり自分の身を守り切るところが、学校の先生って感じだった。お前そういうとこやぞ……。
もはやゾンビ物とは? って感じのストーリーで今回は特に息抜き回色が強かったが、次回からはどう話が転がって行くのだろうか。ずっと間宮の純愛ネタばかり描かれる訳じゃないだろうし。もうすでに単行本1冊ぶんくらいの分量は書かれたわけだし。既刊が「1巻」ではなく「上巻」なので、あと1、2話で完結して下巻が出るか、1回くらい休載して中巻が出るかかな。
男同士でがっつりド派手に致しているところが見たい人には物足りないんだろうけど、大人の恋愛漫画としてとても面白いので私は好きだな。
耽美SF少年愛BL小説家・長野まゆみ先生が十代の頃に心ふるわせた珠玉の小説、随筆、詩歌のなかから、耽美入門に相応しい全26作を精選。全作品に長野先生のコメント付き。巻末に解説もあり。
目次を見渡すと錚々たる顔ぶれに眩暈がするけど、幻想文学好きは必ず履修する作家ばかりだ。
が、私は現代の幻想小説はわりと好きなんだけど(長野まゆみ先生のほか、川上弘美先生や金子薫先生や今村夏子先生とか)、明治~昭和前期の幻想小説はあまり得意ではないんだよなあ。三島由紀夫は『潮騒』しか読んだ覚えがなかったし、泉鏡花は戯曲『海神別荘』しか読んでいないという体たらく。なお内田百閒は開始十行で寝落ちした。
そんな私が、いくら長野先生のファンだからって、本作品集を買っても最後まで読み切れるのか、甚だ疑問だ……。
では、頑張って読めたぶんだけ。
遊園地で二十七羽ものインド孔雀が殺される事件があって、その重要参考人・富岡の家に刑事が訪れる。富岡はただ前日に公園で孔雀達を長時間眺めていたというだけで犯人ではなさそう。だが富岡家の応接間の異様さと、壁にかけられた美少年の写真のことが、気になってしまう刑事だった。
冒頭を数行読んで、長野まゆみ先生と文体がよく似ていることに驚いた。もしも著者名を伏せられたまま読んでいたら、長野先生が書いたものかと容易く信じそう。文体が似るほど三島由紀夫に影響を受けていたとは。『潮騒』を読んだ時は、似てるとは思わなかったけどなぁ。
かつては美少年だったことを誰にも信じて貰えないほどに老いた男が、孔雀の羽の輝きに魅せられる。(孔雀の羽の色は色素で染まったものではなく、羽の構造が光を反射したものなので、永久に劣化しないのだ。)何者かの起こした事件により、孔雀の美を完成させるには死が不可欠だと気づいた男は、自分こそが事件の犯人ではないのかと妄想をし始める。
ラストシーンは男の美への執念が具現化したみたいでぞくりとした。
雑誌『象徴』の編集長・磯貝が出勤すると、先ほどまた蕗谷から電話があったという。蕗谷というのは筆書きの原稿を持ち込んだ美少年だ。日頃からどんな無名の作家の書いた作品でも必ず目を通すことにしている磯貝は、さっそく蕗谷の小説『蔵の中』を読み始めた。
冒頭は蕗谷の自伝風で、亡き姉との思い出を書き綴ったものであった。だが、姉の死後に蔵の中に独り引きこもるようになった主人公がとある楽しみを見出だした場面から、物語は思わぬ展開に……。
『偏愛耽美作品集』のどこら辺が「偏愛」なのかといえば、美少年が登場するものばかりをピックアップしているところで。さすが長野先生なだけあって。
無名作家の小説『蔵の中』と現実の出来事が交錯し、やがて殺人事件の真相を描いてゆく、と見せかけて……。という現実と虚構が入れ子状になっていてしかもその境界が曖昧な感じ。長野まゆみ先生の『左近の桜』に受け継がれているよなぁ。
蕗谷が女装にハマって鏡の前で表情を作るシーンがとくに印象に残った。
山の手に生まれ育った令嬢のとく子は、眼病の治療のために下町の病院へと入院する。その病院の近所には時春という下町っ子でぽっちゃりめの美少年が住んでいて、しばしばとく子を遊びに連れ出すのだった。
縁日の夕にも時春はとく子を呼び出し、つれ回した。あまりの美しさにどこへ行ってもモテモテで人気者の時春がわざわざとく子を連れ回す理由は見栄のためと、とく子は見抜いていた。とく子の令嬢然とした着物姿を見せびらかすために時春は彼女の手を引くのだと。そこに本心からの労りや思い遣りはない。
時春はとく子を火事現場の跡地に連れ込んだ。「君にほんとうのことを聴いて貰う」と時春は言うが……。
顔が美しいのが唯一の美点の少年。美しい顔はそのままで素顔ではなく見栄の一部となってしまい、その口から出てくる言葉の全てが人の気を惹くための嘘っぽくなる。美しい顔というのは実は醜い顔と同じく異形の一つなのだ。
時春の見栄っ張りを女の子の目敏さで見抜いてしまうとく子だが、時春の美貌の下に隠れた本当の孤独の寂しさには触れようとしない。そんな憐れな話。
ラストシーンで、時春の本心をちゃんととく子が見抜いていたというのが明かされるのが切ない。なんかこれじゃ、時春死んじゃってよかったみたいじゃん……。
はぁ、まだあと23作品もある……。これを私はあと何百年後に読み終わるんだろうか。しかも岡本かの子の次は泉鏡花だし。開始数行でうっ、苦手かも……と思い、もう数日放置している。
心配事が重なると、ゲームをやるより何か読む方が捗るらしい。ここ数年で一番本を読んでいる気がする。
短編連作集。主人公の「私」は亡き姉の夫である義兄と三年ばかり一つ屋根の下で同居している。とはいえ住まいは二世帯住宅のようなものなので、「私」と義兄にはそんなにまめな交流があるわけではない。
義兄は育ちのよいイケメンだが、他人の人間関係について古臭くてチープなドラマみたいなゲスの勘繰りをするのが好きという、変人な一面がある。そんな義兄を「私」は密かに好いているのだった。
「私」はというと、亡父の縁故で就職した大企業で、表向きには倉庫番のようないかにも縁故入社にお誂え向きなポジションにいる。が、裏では会社の重役達のおおっぴらには出来ないような類いの雑用を一手に引き受けている。たとえるなら映画『プラダを着た悪魔』の主人公みたいな感じ。
『レモンタルト』は、そんな「私」が日々の仕事に追われながら、たまに義兄にときめいたり助けられたりする物語。ちなみにエロはない。
私の中の長野まゆみブームは一体いつ終わるのか。まあ終わらなくても別にいいけれども。長野作品の中でも青年同士のBLの作品はだいたいそうだと思うのだが、主人公の好きな相手のいい男ぶり描写が、とても細かい。そんな描写で特に気に入ったのは、普段は冷たそうに見えるイケメンの義兄だが、眼鏡をかけると途端に人のよさが前面に出て、頼もしいお父さんみたいになる、というもの。それなんてファザコン殺し。
基本的にちょっと変わった日常系なのだが、ほのぼのって感じではないかも。入れ子状になった謎やスリルの場面が面白かった。嘘に嘘を重ねて華麗に「私」の足もとを掬うエイプリルフールとか、現代の常識では完全アウトなセクハラ面接の場面はすごいなと思う。『左近の桜』シリーズの何度目覚めても脱せられない悪夢(しかも、本当に目覚めた時は身ぐるみ剥がされた状態で叢に放置されていがち)に通ずるものがある。
「私」を陥れる罠はいつも巧妙なのに、「私」が義兄に思いがけずお近づきになれる展開になるところは、なぜか(あ、BLだからか。)乱暴なまでに強引なとこが笑えるw
星とか生き物とか科学が大好きな喬織人(たかい しきと)は、恵まれた家庭に生まれ育った、優等生。好きな言葉は「穏便」の彼は、学校では目立たないように気を付けている。
そんな喬とは真逆の陽キャ・西央凛々斗(にしお りりと)。喬はひっそりと西央に思いを寄せるのみだったが、ふとしたはずみに彼と接近し、不思議な匂いを嗅ぎとったのだった。
そして体育の授業中、不調を訴えた西央を喬は保健室に連れて行こうとするも、体育館倉庫に連れていって欲しいと西央は懇願する。様子のおかしい西央から発せられる匂いの奔流に呑まれた喬は、わけもわからぬまま西央とまぐわってしまい……。これは人類初のαとΩの誕生から七日間の物語(前編)
レーベルがビーボーイコミックスデラックスで、しかもBL情報サイトで腐女子のお姐様がたが素晴らしいと絶賛している辺りでもうだいぶ怪しいのだが、ページをめくってみればやっぱり……盛り沢山すぎるエロシーン。うえっぷ、お腹一杯です、もう勘弁してください……って感じだが、敢えて「オメガバース」作品を手にとったらこうなるのは当たり前だと思って諦めるしかないw
胸焼けするほどのエロはおいといて、ストーリー全体に生命の不思議に触れる喜びが満ちていて、けっこう好きだと思った。人類初のαとなってしまった喬が、戸惑いながらも自分や西央の身に起きたことを知ろうとし、西央の内面に触れ理解し助けようと奮闘するさまがいじらしい。
お小遣い運用の都合で下巻はまだ買えていないのだけど、これはエロ過ぎること以外は名作だと思う、たぶん。
【追記】
私が固定増田なら、出ていけとかTwitterでやれとかいう増田もいつもくっついて来るから固定増田なんだよなぁ。
私は毎回定時に投稿してる訳でもないのに、毎度よう見つけるよなって思う。
人は「楽と感じる方法」しか選ばないことを前提に、仕組みを作らなければならない。
https://blog.tinect.jp/?p=75230
人の上に立つ人であるとかが
部下に身勝手な期待をする前に
ただ、どうにもモヤッとする文章ではある。
以下のような主張が展開されている。
誰が戦っても勝てる仕組みづくりをしたから
緒戦で日本の優秀な戦闘機と熟練パイロットにボロ負けした米軍が
勝てるようになった、という論が述べられ
誰がやっても勝てる仕組みを作らねばならない、と結論づける。
なるほどと思うのだが、
しかし、その論だと、その「勝てる仕組みを考える仕事」をする人が
勝てる仕組みを簡単につくれる環境を作る人が必要になるのではないか?
という問題が発生する。
更に言うと、その勝てる仕組みを考える仕事をする人が勝てる仕組みをつくれる環境を作る仕事をする人が、
その勝てる仕組みを考える仕事をする人が勝てる仕組みをつくれる環境を作る仕事をする人にその環境を作れるような環境を作る人が必要になってくる。
と、延々と入れ子状になっていくのだが、
おそらく筆者は経営者、企業のトップがその入れ子の大本である、と定義しているのだと思う。
そして、その入れ子状の仕組みの一番内側にいるのが、なにも考えずにただ飛行機に乗って一撃離脱すればゼロ戦に勝てるヤンキーということになる。
なんか文章力がなくて意味がわからなくなってて申し訳がないんだけど、
さらに内側の入れ子の仕組みを考えなくてもいい、というわけではないということである。
もちろん最末端のさらに最末端のワーカーであれば別だろうが。
そう考えると、もとの文章の冒頭に書いているベンチャーの営業の面々がやるべき仕事としては
やはりもう少し踏み込んで消費者・お客様のことを考えなくてはいけないのではないか?って話になるんじゃない?
まあ、この増田の冒頭に書いたように
あくまでこれは人の上に立つ人が
その意味では成立しているのだと思う。
きちんと誰に向かってどのような状況に対して書いている文章なのかがわかりにくことと、
たとえ話として出しているベンチャー企業の話とか戦争の話とかがちょっと胡散臭いというか、ホントの話なの?と感じられるところ、
※タイトルと表紙だけ見て判断したので悪しからず。モノによってはキーワードだけ
私を食い止めて
水ってなんじゃ
かんどうかんくろう
僕僕先生
ニャン氏の事件簿
独りでできるもん
描かれた歯痛
前野ひろみち
あやかし算法帳
空き家課
あるかしら書店
海の百階建ての家
アルデラミン
闇と暮らす
365まいにちペンギン
オラクルブック
マツリカ・マハリタ
フェイブルの海
時間整理術
近松よろず始末処
包丁部
静おばあちゃんにおまかせ
陰陽課
ぴんとこなーす
べてるな人々
三人にせ金作り
怪盗レッド
ピカソになりきった男
ヤクーバとライオン
愛しき駄文具
一日昔話
動くな、死ね、よみがえれ!
おばけのパン屋さん
やだ!!(絵本)
グレッグの駄目日記
ドバラダ門
まどかは神かもしれない
押し絵と旅する男
明和義人
うそうそ(畠中)
ガタスタ屋の矜持
小道モコ
精霊の王
特上添乗員
ウチら特権
ボクらの消えた学校
焼き上がり五分前
いみちぇん!
変形菌図鑑
あやかし課
陰陽課
どこいったん(絵本)
岡本順
毛深い闇
薬売りの独り言
猫とエトワレ
元気に�なるシカ!
地図に無い駅
%(このはなさくら)
悪ガキ7(セブン)
一日なぞの生き物
入れ子の水
サノマリナ
みやたけ外骨
かわなべきょうさい
キルリスト
コンピューターのふしぎ
唯識の読み方
怪盗レッド
チームガリレオ
雑草ルデラル
幻都廻楼
ドルポ
聖なる怠け者
ひだごはん
ヒラマツオ
投書狂
ゴリラのけいこく
ヘッテルとフェーテル
ピカソになりきった男
こしょう息子
つ村きく子
リンカーンとさまよえる亡霊
江戸奇品解題
ヘンテコノミクス
ぽよぽよザウルス
のら犬とりで
十才までに平家物語
1年1組(DVD)
南河物語
築地の門出
ちび竜と魔法の家
うみの100かいだてのいえ
かまどねこ
就活の神さま
空から森が降ってくる
ファミアンドリー※1
夢もまた青し
でしょ115%
マガーク探偵団
ウナノハテノガタ
手話で生きたい
南の島※2
チオベン※3
絵でわかる感染症
やさしくわかるアサーション
ふしぎな出前
宇宙に期待しない
早朝始発の殺風景
くどうなおこ 「いる」じゃん
夏のうた
オシャレ泥棒
言葉のぷれぜんと
なんでも見てやろう
三枚のカード
戦う姫、働く少女
鬼の跫音
~~~~~~~~~~~~~~~
※1詳細不明
※2島田紳助?
ちなみに
入れ子にも
できるぞo(^-^)o
岐阜県現代陶芸美術館のニーノ・カルーソ展に行ってまいりましたわ
2017年に亡くなっていて死後初の展示会になるとか
モジュール自体もひとつの美術品で、組み合わせも美術品になるという
二重の門という作品がちょうど通路の突き当りの壁に展示されていて
まるで通路がその奥まで続いているような空間効果を出していたました
いつもは仕切られている部分も壁状の作品で区切っていらっしゃいますわ
撮影可能な最後の展示室は、博物館建物の柱も魅せたいのかしらと思ってしまいましたわ
スーパーマーケットの手すりをデザインした時にもらった端材からはじめた
鉄の作品も展示されていて、ガス溶断・ガス溶接の跡が生々しかったですわ
作品構想のスケッチをみるとニーノ・カルーソ様は脳内3DCADの人でしたのね
若い頃の精油場(自動車関連工場?)勤務の経験が活きているようでした
ギャラリーヴォイスの茶碗に挑んだ麒麟児たち展も拝見してまいりました
多様な茶碗が展示されていて、大半はお願いすれば手に取ることもできるそうです
わたくしは怖くてやめておきましたけれど
ひとつひとつの作品に込められた時間を想像すると気が遠くなりますわね
あと多治見市図書館の1階では、東日本大震災の写真が展示されていました
旅人さんが「青い目のやつおるで」って言うたからみんなが自分の目が青いことに気づけたって話やんな。
でも、青い目のやつがおることは旅人に言われんでもみんな知っとったことやん。
せやのに、なんで旅人に言われるまで自分が青い目ちゅうことに誰も気づかんかったんか、不思議やんな。
なんでそんな不思議なことになるんか、おっちゃんが解説するやで〜
A氏「ワイは赤目やろうか青目やろうか。もしワイが赤目やったら……」
て考えるわな。
ここでもし、
オッサン「はぁ? 自分青目やん。なんで自分が赤目やったらとかありえんことを想像するん? アホちゃうん?」
とか言うやつおったら、オッサンの方がアホやってことはみんなええよな?
オッサンは確かにA氏の目の色を知っとるよ。けどA氏はそれを知らんやん。
自分が知っとって相手が知らんことを、相手も知っとるはずやとナチュラルに決めつけるんはアホやで〜
話戻そか。
A氏「もしワイが赤目やったらBはどう考えるやろか。そうやな……」
A氏の脳内のB氏「Aは赤目やんな。ワイが赤目か青目かはわからんけど、もし赤目やったら2人とも赤目やから……」
A氏「せや、Bはこんな風に考えるはずや!」
ここで「A氏の脳内のB氏」なる人物が出てくるのがポイントや。
「A氏の脳内のB氏」≠「実際のB氏」やで。
せやから「『2人とも赤目やから』てなんやねん。自分以外の99人が青目なん知っとるんやから、そんなん考えるBはアホやろ」とか言うオッサンがおったらオッサンの方がアホやで〜。気いつけとき〜。
ほんで、A氏はさらに考えを進めるわけよ。
A氏「ワイの脳内のBの脳内におるCは、このときどう考えるやろか。そうやな……」
A氏の脳内のB氏の脳内のC氏「ほーん。AとBが赤目やから、ワイが赤目か青目かはわからんけど、もし赤目やったら赤目が3人やから……」
ここのポイントは「A氏の脳内のB氏の脳内のC氏」が出てくることや。
もちろん「A氏の脳内のB氏の脳内のC氏」≠「実際のC氏」やし、「A氏の脳内のB氏の脳内のC氏」≠「A氏の脳内のC氏」でもあるから気をつけるんやで〜。
「このC、3人赤目がおるとか有りえんことを考えとるわ……」とかアホなこと思わんようにな。
「実際のC氏」が「赤目が3人やから……」とか考えとったらアホやけど、「A氏の脳内のB氏の脳内のC氏」が合理的に検討する可能性の中には赤目が3人のパターンもあるんやで。
ほんでまあ、あとは似たようなことの繰り返しになるんやけど、そのうちに「A氏の脳内のB氏の脳内のC氏の脳内のD氏の脳内の……氏の脳内のZ氏の脳内の……氏の脳内のΩ氏」まで行き着くわけや。あ、とりあえず便宜上100人目をΩ氏ゆうことにしといたで。
「ワイ以外みんな赤目やな。もしワイが赤目やったらこの村は全員赤目やし、ワイが青目やったらワイ1人が青目や」
もちろん、これは実際とはかけ離れた想像よ? けど、脳内の脳内の……って重ねまくって現実から遠く離れてしもうた想像上の世界におるΩ氏にとっては論理的で合理的な思考なんよ。
せやから「このΩおかしなことを考えとるで。アホや」て思うオッサンがおったらオッサンの方がアホなんやけど、ここまで脳内の脳内の……って入れ子にしまくった論理構造は人間の処理能力を超えとるから、しゃあないで。人類みなアホ、人類みなオッサンや。
もちろん、実際のΩ氏は自分以外の99人が青目なんを知っとるで?
けどな、A氏の脳内のB氏の脳内の……の脳内のΩ氏にとっては「全員赤目」という可能性もあり得るんよ。
どんだけ「実際のΩ氏」にとってあり得ん仮定でも、想像の世界ではそれがあり得てしまうんよ。
その直観と論理が食い違っとる感じが、この問題を分かりにくうさせとるんよ。
さてここで思い出して欲しいんが、旅人のおっさんが言うとったことや。
「この村青い目のやつおるで」て言うとったやんな?
この言葉が出てきた瞬間、さっきまで論理の彼方にあった「『A氏の脳内のB氏の脳内の……の脳内のΩ氏』が考える、全員赤目の可能性」が消え失せるわけや。
村人各々が自分の目で見て知っとる「村に青い目のやつがおる」って情報と、旅人が言う「村に青い目のやつがおる」って情報は、ここが違うんや。
なんぼ自分の目で見た情報があっても、「A氏の脳内のB氏の脳内の……の脳内のΩ氏」て具合に仮定に仮定を積み重ねていくと、それぞれのA氏やB氏やΩ氏は自分の目の色を見ていないわけやから、それを1個ずつ重ねていったら「全員の目の色がわからん」のと同じことになるわな。
この仮定の世界は実際の世界とはちゃうんやから、現実で見たみんなの目の色は無意味や。せやから、みんな赤目みたいな実際とかけ離れた極端な可能性も、論理の彼方では成り立つんや。
せやけど、第三者の旅人が保証する「青い目のやつがおる」はちゃう。
これは論理の彼方まで行ってしもうた「A氏の脳内のB氏の脳内の……の脳内のΩ氏」にとっても同じように有効なんや。
やから、旅人のおっさんの発言があって初めて「全員が赤目」という可能性が、脳内の脳内の……っちゅう想像でけへんような世界からも完全に消え去るわけやな。
あとは、まだ「99人赤目で1人が青目」みたいな可能性が、やっぱり脳内の脳内の……の世界にはまだ残っとるんやけど、これは1日経って誰も村から去らんかった時点で消える。
同じように「98人赤目で2人が青目」の可能性は次の日になっても村から人が去らんかったことで消える。
そんで、そのたびに「脳内の脳内の……」の入れ子構造も1つずつ減っていくわけや。
そないしとったら、そのうちに「1人赤目で99人が青目」の可能性だけ残っとるいう日が来る。
その日には論理が入れ子になることものうなっとるから、つまりこれは「自分だけが赤目の可能性」ちゅうことや。
その日が過ぎても村から人が去らんかったら、すなわち自分も青目やっちゅうことやね。急いで引っ越し準備や。
ほんで、翌日みんなでスタコラや。そして誰もいなくなった、やね。
結局この問題がわけわからんのは「脳内の脳内の……」って具合に仮定の話を積み重ねていくと、だんだん現実からは乖離していって「ん、これなんかおかしない?」って脳がエラーを感知してしまうからなんや。
ほんまはエラーやなくて、仮定に仮定を重ねまくった世界やから論理的には成立しとるんやけど、直観的にはそれが納得できへんからわけがわからんくなるんよ。
しかも、旅人の「青い目おるで」は普通に「言われんでも見たらわかること」やから増田みたいな疑問が出るのは当然のことや。
「見たらわかること」は仮定に仮定を積み重ねた世界では消えてしまって、第三者の発言は消えてしまわんのんやけど、これも直観に反するからわけがわからんようになる。
そんなわけわからん問題やけど、こうやって丁寧に解きほぐしたら多少は分かりやすうなるから、おっちゃんの解説で少しでも理解が進んだら幸いやで〜。
ほな!
「青目が1人以上いること」
だけではないよ。
「村人全員が「青目が1人以上いること」を知っていること」
も与えているよ。さらに言えば、
「村人全員が「村人全員が「青目が1人いること」を知っていること」を知っていること」
も与えているよ。
実のところ、この問題を解くにあたり必要な、旅人が与えた真の情報は、
「村人全員が「村人全員が……「村人全員が「青目が1人以上いること」を知っていること」……を知っていること」を知っていること」
100人だとあまりに長くなるので5人くらいで考えてみよう。5人でも100人でも本質は変わらないはずだよ。
「村人全員が「村人全員が「村人全員が「村人全員が「青目が1人以上いること」を知っていること」を知っていること」を知っていること」を知っていること」
となる。
「村人全員が「村人全員が「村人全員が「青目が2人以上いること」を知っていること」を知っていること」を知っていること」
にアップデートされるよ。入れ子が1個減って、代わりに青目の人数が1増えたね。
なぜそうなるかというと、
「村人全員が「青目が1人以上いること」を知っていること」+「昨日、離脱者がいなかったこと」
「青目が2人以上いること」
これは簡単な背理法で、青目が1人しかいないとすると、その青目の人本人が周りの状況を見て、「ああ、俺なんだ」と気付けるからだね。
3日目には
「村人全員が「村人全員が「青目が3人以上いること」を知っていること」を知っていること」
4日目には
「村人全員が「青目が4人以上いること」を知っていること」
5日目には
「青目が5人以上いること」
がわかり、村人は全部で5人なので自分含む全員が確実に青目だと分かって、村から出て行く、ということになる。
【追記】
本題とは何の関係もないけど、この問題、「吸血鬼の目のパズル」にしたら面白かったんじゃないかと思うよ。
それかなんか吸血鬼の弱点で閉ざされた場所という設定にして、赤目の吸血鬼はちょっとでも弱点に触れたら完全消滅するけど、青目ならそれに耐えて逃げられる。
よくぞよくぞここまでのことをお認めになったものだと思います。この様な不幸を事実として直視するのは易しいことではありませんでしょう。まずそれが瞠目に値する成果であるという指摘が一点。
次に、果たしていまのお母様は狂っているのか、正常なのかという事です。あなたは「過去母は父から虐待を受け発狂し、その所為でもって私を虐待するという狂気に身を窶していたが、今の母は正常に戻り、しかし狂っていた頃の自分を忘れてしまった。」とお考えのようですが、これは違います。嘗てのお母様は狂っており、今もまた狂っております。往時お母様は、旦那様とお義母様にいびられたストレスをあなたへの虐待という形にして紛らわせ、自分の心を守っておいででした。これは狂った行いです。幼いあなたには何の咎もないからです。そしていまは、過去虐待した事実を忘却し、あなたに優しく接することで自分の心を守っているのです。これが狂った行いではなく何と言うべきでしょうか?これが狂気である事をあなたは疾っくによくご存知の筈です。あなたが己の受けた過去の仕打ちについてお母様に問い詰めたとき(なさいましたよね?)まさか忘れるはずのないような証拠の残った数々の事をも、お母様は覚えていらっしゃらなかったでしょう。お母様は今もまだ、全身全霊をかけて狂っておいでなのです。そうであればお母様はあなたを虐待した事実について、お認めにならないでしょう。仮に何らかの形でその事を認めることがあるとすれば、認めたほうが結果的に己の心を守る事ができると判断した場合に限ります。それは私に言わせれば、狂い方が変わっただけです。全ては、あなたのお母様が過去旦那様たちに受けた仕打ちに起因することで、もう覆すことができません。お気づきと思いますが、これはあなたが置かれた状況とそっくり同じです。これからあなたが、現在のお母様の優しさをあなたへの愛だと認識して依存を強めたり、逆に過去のあなたへの仕打ちをあらん限りの方法で認めさせ、精神的に屈服させることで腹いせにしたとしても、なんら不思議はありません。しかしそのことは、過去お母様があなたを虐待することで自分の心を守ったことと、どれほどの違いがありましょうか?無論、あなたはそんなことなさらないでしょう。そんなことをしても何の慰めにもならないということに、賢明なあなたはまた気づいてしまっているからです。
事程左様に、あなたとあなたのお母様の関係は入れ子のような構造になってしまっている訳ですが(というよりそう仕向けられたわけですが)、しかしそうであるからこそできる事というものがあります。それは、あなたは狂わずにいるという選択です。嘗てのお母様にはどうしても出来なかったことです。これだけのことを独力でお認めになったあなたには、それが出来るように思われます。地獄の釜の蓋をあけてしまったら、あとは戦うしかないでしょう。戦うと言っても勿論、お母様を攻撃しろという意味でもありませんし、お母様の有り様を許せという意味でもありません。(自明とは思いますがあなた以外の人が読んだとき誤解される怖れがあるので念押ししました、諄くてすみません)あなたは狂わずにいる。その達成があなたの救いであり、過去のあなた及びお母様の供養になるのではないかと思います。お辛いでしょうが、どうぞ一つ気を強く持って立ち向かってください。心より応援しております。
長いんですけどお付き合い下さい。
生物学的な性別、オスであるかメスであるかは先天的なもので、個人の選択によるものではないじゃないですか。その人自身ではどうしようもない、偶然与えられてしまっただけのものですよね。
でも個人の社会における性役割、男であるか女であるかはほとんどの場合その人の生物学的な性別によって周囲から規定されます。オスであれば男をやることに、メスであれば女をやることになる。そこに選択の余地はなくて、自分がどう思うかに関わらず(ほとんどの人は「自分がどう思うかについて考えるタイミング」さえ飛ばすことになる)、気づいたら人は男/女になっている。
生物の中で人間だけが、オス/メスと別に男/女という概念を持っていますよね。これは単なる性別ではなく、人間が社会を形成するために作り出した役割だと言えるのではないかと、僕は考えます。
個人(というか人間の力では)どうしようもない生物学的な性差に基づいて、人をオス/メスではなく男/女という役割に仕立てあげ、男女それぞれに仕事を設定することで回してきたのがこれまでの社会。
偉いものでこれまでの社会は合理的な形になるようにやってきているなあと思います。
こんなことを言うと怒る人がいるので怖いのですが、どう考えても男は働いて女子供を養った方がいいし、女は子供をうみ、育て、男を支えた方がいい。
従来の人類の発展を続けるのであれば。
人が増え、発展していかなきゃいけないという昔から信じられている人類の発展を今後も続けていこうという前提があれば、この考え方は正しくて、超合理的だと思います。
元来人の社会のシステムが拡大、発展するためには、男が働き、女が支え、耐え、食い物にされなければなりません。
人間の行為にはしばしば男女どちらが適しているかが明確なものがあります。
確かに赤ちゃんを育てるのは男でもできるかもしれませんが、一般的には女が育てる方が合理的です。
戦争をするのであれば、女も戦うことはできるでしょうが、兵士は男である方が合理的です。
そして総体的に、これまでの人類の発展に際しては、女が割を食うことが合理的でした。誰かがそのように社会を作られたのか、わかりませんが。
女が割を食う筋合いはないし、男が体を張らなければいけない理由もない。
それもそうです。そもそも男/女なんて、自分がたまたま人間のオス/メスだったがために周囲から規定され、男/女としての役目を果たすことを求められているのだから。
実は男も女もいない。
人間が成長するにつれ男や女という役割を課せられてしまうだけだし、その区別の元になっているオス/メスの区別も先天的なもの、偶然のものであって、その人自身がどうあるかとは何ら関わりがない。
ここまでが前提です。
僕は今、生物学的な性と、それに基づいて個々人に与えられている社会的な性役割を、あんまり意味がないものなんじゃないかと思い始めています。
〇子供を産むことについて
今の社会では女をやっている皆さんが割を食っていることは周知の事実であり、それをどうにかしようという流れはありつつも、まだ割を食っていただいているとで緩やかに従来の人類の発展を続けているような状態です。
従来の人類の発展は女をやっている皆さんが割を食うことで成されるものでした。
ではここで聞きたいのですが、
みなさんは人類を発展させていきたいですか?
みなさんは自分が死んだあとも人類が発展していくことを望んでいますか?
あなたが人類の拡大、発展に最も簡単かつ効果的に貢献できる方法として、「子供を作り、育てること」があげられるでしょう。
子供を育てることは人類全体から見て非常に生産的な行為だと言えます。そもそも生物は繁殖してなんぼてすから、子作りは生き物として正解です。
でもあらためて考えてみると、子供を作ることははたして本当に良いことなんでしょうか。
あ、特に深いことや説得力があるデータを言うわけではないのですが。
単純に、僕はたまたま男だったので思ったのです。
その女が抱えるリスク(妊娠、出産のリスク)と仕事(僕が手伝うにしても、主として子供を育てていくこと)は、その人がたまたま女であった(たまたまメスとして生まれた)がために抱えざるを得なくなったリスクと仕事なのです。
僕には女を孕ませ、リスクと仕事を負わせた罪が生じます。女と子供を作るという合意があったとしても関係ありません。女は僕と同じ一人の人間なのに、たまたま妊娠と出産ができる人間のメスであり、かつ人間のオスである僕がいたために子供を作るという選択肢をとることができてしまい、それにまつわるリスクと仕事を背負ってしまった。
これは、幸せだとされてきたのです。
男は女と結婚して子供を作ることが幸せ。女は男と結婚して子供を産むことが幸せ。
しかしこれは、たまたま女に分岐していっただけの人間に、たまたま男に分岐しただけの人間がとてつもない重荷を背負わせているだけです。
人間対人間として見れば、とてつもなく残酷な行為に見えてしまいます。
しかしそれを男/女のレベルにとどめることで、「そういうもの」とすることができます。女は子供を産むものだし、男は孕ませるものなのだ、と決まっているなら飲み込めるというものです。
実は子供を作ることは、人間が人間にひどい仕打ちをしているだけなのではないかと、僕は思うようになったのです。
〇男女平等について
男も子供を産む苦しみを知れと(あるいは男もそれを知ろうと)、同じ重さの重りを背負ってみたり、鼻からスイカ出したりしようとします。
あれ本当にしょうもなくないですか。
今の男女平等の目指し方を考えた時に、僕は天秤を思い浮かべました。
天秤の片方の皿を男の苦労、もう片方の皿を女の苦労だとしましょう。今までは女の側に大きく天秤が傾いていました。
何度も言うように、社会は合理的なので、女の皿も男の皿と同じ高さにしてあげようと合理的に考えます。
そして、女の皿の下にどんどん台を噛ませ、不器用にも高くしていくのです。
女性専用車両、レディースデー、女性料金などといった「女自身でも正直ちょっと優遇されちゃってるなと思うこと」の数々は、あとから男の皿と高さを合わせようとテコ入れした結果のものです。
そして重要なのは、男女それぞれの皿にはもう片方の皿には決して載せることが出来ない重りがあるということです。
たとえば先程の妊娠と出産は、女だけが持っている重りだと言えるでしょう。男側にはどうやったって妊娠、出産の苦労の重りを載せることはできません。
この天秤は、男女が男女として関わりを持つ限り、その間に必ず現れます。そしてどれだけ双方の重りを調整しようとしても、必ずどちらかに傾きます。絶対にです。
今の社会は天秤の重りをいじり、皿の下に台を噛ませて見た目上の皿の高さを同じにしようとしていますが、それで男女平等が達成されることは永遠にありません。
ではどうすればよいのか、僕は「天秤そのものをなくすこと」がその答えなのではないかと考えました。
次で最後です。
〇本当の男女平等について
人間はたまたま男や女に仕立てあげられているだけで本当は男も女もいないという話、子供を産ませることは、人間が人間にひどい仕打ちをしているだけだという話、今の男女平等の目指し方では永遠に平等になることはないという話をしてきました。
では本当の男女平等とは何なのか。それは、異性との性的な関わりを持たず、異性を異性と思わず接することです。
僕が異性だと思っていたものは、たまたま異性になっただけの同じ人間です。よって、僕と同じだけの自由があります。
僕はかつて、女と付き合い、結婚し、子供を作りたいと思っていました。しかし、そうしようと思っていた女も僕のような男になるかもしれなかった人間で、たまたまメスに生まれたがために女として育てられ、男とつがいになることが幸せとされる存在の一員とされてしまいました。
女には付き合うことも付き合わないことも、結婚することもしないことも、子供を作ることも作らないことも自分で選択する自由がありますが、僕と関わることで選択肢が狭まる可能性があります。そして僕がアプローチをかけでもすれば選択の機会は奪われてしまいます。
同じ人間の選択や機会を同じ人間が奪うことは恐ろしいことだと思いました。やってはいけないとも思いました。
よって僕は、女と関わりを持つことをやめようと思いました。
女と関わりを持つ限り、先程の男女の天秤が現れます。この天秤はどういじってもどちらかに傾くので、関わり続ける限りどちらかが負担を強いられます。
そこで僕は女を女と思わないことにします。そもそも同じ人間なので、やろうと思えばできないことでもありません。
努めて同性と接する時のように、目の前の存在が女性であることに目を向けないように接します。
目の前の人が不当に低い扱いを受けていれば(周りはその人が女だから低く扱っています)、同じ人間なのにどうしてそんなことをするんだと怒りますし、不当に良い扱いを受けていれば(周りはその人が女だから良く扱っています)、同じ人間なのにどうしてそんなことをするんだと怒ります。
そして僕は、女と性的な関わりを持たなかったので、一人で死ぬことになります。
僕は本当は一人で死ぬことだけは嫌で、女を手に入れ子供も作ったことを幸せだと感じて死んでいきたかったのですが、そうするためには同じ人間を害する必要があることに気づきました。そこまでして幸せになるほどの者でもないので、あと他人を害することを躊躇う倫理観がある自分でいたかったので、一人で生きて死のうかなと思いました。
男女という概念を自分の中から徹底的に排除すると、男女という概念を基本として成り立っているこの社会からははみ出すことになります。自分もこの社会で育ったので、ここの幸せを理解しているし、本当は欲している自分もいますが、女が同じ人間であることに気づいてしまったからにはもう女を手に入れるという男の幸せは得ることがどうしてもできません。
最後に一つだけ。
この社会で幸せだと信じ込まれているものは、実は人類の発展に寄与するもの(そして結果的に同じ人間を害したり、同じ人間から害されるものだと僕は思います)です。
みなさんはそれでも人類を発展させていきたいですか?
みなさんはそれでも自分が死んだあと人類が発展していくことを望んでいますか?
僕はここまでずーっと考えていて、もうちょっと疲れてしまって、別に長くも短くもなく、今課されている責任を果たしたら、一人すっと死んでしまってその後になにも残らなくてもいいのかなと思いました。