はてなキーワード: 信濃とは
北条時行9歳 足利尊氏に攻め入られ、父と親族ら数百人が自害or虐殺。一人だけ逃げ延び、信濃の諏訪氏に匿われる
10歳 北条の残党など5万騎を従えて鎌倉に帰還、「中先代の乱」によって足利直義に勝利し鎌倉奪還。
その際に時行を擁護していた諏訪頼重らが自害、集団心中した遺体らは「先祖に顔向けできない」として自ら顔の皮を剝いでおり、その中の死体の一つが時行とされたが、実際には別の子供だった。
11歳 足利尊氏と後醍醐天皇が決裂、尊氏が光明天皇を立て、南北朝時代へ。
時行は南朝後醍醐天皇につき、父や親族らが後醍醐天皇のもとで死んだ件について父の自業自得であるとの文書を送る。
12歳 南朝公卿の北畠顕家を味方にし、再び鎌倉に帰還、「杉本城の戦い」によって足利家長を討ち鎌倉奪還。
翌月の「般若坂の戦い」で形勢逆転し敗走。
数か月後の「石津の戦い」で北畠顕家が死亡。時行はしばらく消息が途絶える。
信濃には「時行が巫女にお手付けして子を産ませた」と称する時行の末裔が多くおり、事実であれば失踪時期に大量に子を作っている。
28歳 足利氏が揉めている間に時行が三度目の鎌倉奪還。翌月に足利尊氏に再び奪われる。
ラムーという知る人ぞ知るスパーがある。弁当は184円、おにぎり50円、たこ焼き100円など、価格破壊で有名な幸福の科学系スーパーだ。
私のような貧困独居中年にはとてもやさしく、「ラムーは福祉」という言葉すらある。
先日、ラムーでいつもどおり激安総菜を買って出たところ、クルマの中で親子でパクパク買ったものを食べている光景が見られた。
9歳くらいの娘と、35歳くらいの若いお父さんだった。
「うまいなぁ」
そんな会話が聞こえた。
奥さんは車内にはいなかったから、ナイショで買い食いデートをしたという感じだろうか?
アップルパイは150円くらいのもので、ラムーで手作りしているものである。
けっして信濃りんご使用!とかグルテンフリー!とか意識の高いものではない。むしろジャンクフードのたぐいである。
しかし、娘にとってはお父さんと二人で夏休みにナイショで食べたアップルパイは、このうえなく美味しいものだったろう。
正直勘弁してくれない?て思う。
人類が生まれる前からずっとある綺麗なだけの自然現象をさ、思想の象徴にしないでほしい。
いま「🌈梅雨空に虹が出ました🌈」みたいなツイートしたら、これはもうLGBTに関する話題だと受け取られるわけじゃん、少なくとも発信者が有名人だったり企業公式だったりするとそう読む人が出る。LGBTに媚びてる、とかさあ。
『初虹も わかば盛りや しなの山』という俳句がある。小林一茶の句。
これを説明せずに現代の句だって言って見せたら、意味は「信濃山でLGBTに目覚めた人がサカっている」て意味になるでしょ。ならんか?なるよ。
出羽 人気の守
常陸 たまに守出るでしょ
上野 すけでよく出る
上総 守人気高し
越中 惜しい
信濃 まあまあ
甲斐 人気薄
駿河 人気薄
伊豆 守人気高し
遠江 人気なし 全くありえない
若狭 ありえない
尾張 まあまあ
伊勢 ありえない
紀伊 ありえない
飛騨 ありえない
加賀 ありえない
三河 まあまあ
志摩 ありえない
近江 人気あり
山城 まあまあ
丹後 あり
摂津 なし
和泉 なし
河内 あり
淡路 なし
大和 なし
因幡 あり
伯耆 なし
石見 なし
美作 なし
安芸 なし
周防 なし
長門 まあまあ
阿波 あり
讃岐 なし
伊予 なし
土佐 人気
筑前 あり
筑後 あり
豊前 あり
豊後 あり
肥前 なし
日向 なし
薩摩 あり
大隅 なし
琉球 あり
もともとの江戸城は太田道灌(どうかん)が長禄元年(1457年)に築いた小さな城だった。その後の北条氏の時代も江戸は寒村にすぎなかった。現在の日比谷あたりまで海水が入り込む湿地帯のため農耕には不向きで、人口も少なく、江戸城は荒廃していた。
転機となったのは天正18年(1590年)、豊臣秀吉が北条氏を攻めた小田原征伐である。この戦いで最大級の功績をあげた徳川家康は、北条氏の所領をそっくりそのまま秀吉から与えられる。伊豆、相模、武蔵、上総、下総、上野、下野の7国である。だが、これまでの領地、駿河、遠江、三河、甲斐、信濃の5国を失う。前の領地は150万石、新たな関東の領地は250万石。石高は増えても慣れ親しんだ領地を離れることは、家康にとって大きな痛手だった。報奨のかたちはとっているが、関東移封は家康を大坂から遠ざけるための秀吉の計略である。
ここに詳細あったわ
参考になる
下山殿を側室に迎えてからしばらくしてのこと、元忠が屋敷に女を囲っていると徳川家臣の間で話題になります。それがどうも、家康が狙っていた馬場の娘らしい・・・。もしそうなら、元忠は家康の命令を無視しているではないか・・・家康は他の家臣にこっそりと調査させると、やはり噂通り馬場信房の娘を屋敷に住まわせているどころか、既に××まで進んでいることが判明。元忠が信房の娘を見つけても彼女は一歩も引かず毅然としてふるまいました。死線を潜り抜けてきた元忠、やっていることは人さらいなのでさも信濃の人々にとっては恐ろしく見えたことでしょうが、流石そこは馬場美濃守が娘、気丈な彼女に元忠は惚れ込み己が妻にしてしまうのでした。なお連れて帰ってからの2人の動向はしばらく不明。そこは妄想がはかどらないからちゃんと記録に残しておけよ元忠。
元忠にお目当ての娘を奪われた家康。ですが怒り出すようなことはせずむしろワハハと笑いながら「流石、彦右衛門めちゃっかりしておるわ。婚姻を祝う準備しておくから正室を一緒に見せに来いと伝えておけ」と正式に元忠の妻であると公表するのでした。
その後、元忠と彼女の間には3男1女に恵まれます。関ヶ原を前にして夫・元忠が伏見城に留守居していた時、彼女は夫が籠っている伏見城の図面を見て
「松の丸が守りに非常に弱い構造となっている。落ちるとするならばまず松の丸が原因になるでしょう」
と元忠から留守を任された家臣たちに言っています。事実、伏見城の戦いでは松の丸が最初に落とされ、そこから雪崩式に伏見城は落城してしまいました。流石は築城名人馬場美濃守の娘、血は争えぬと人々は大いに驚嘆したとのことです。
犯人の言ってることがホントだとすれば、安倍氏の政治的主張や政策などにはあまり関係なく、某宗教がらみで犯人の家庭が壊された(と思い込んでる)せいで、テロに及んだわけで...
ならば、民主主義への冒涜だ否定だ挑戦だとかではないし、多くの政治家や政党幹部の皆さんはビビる必要も、「テロに屈しない!」とかイキリたつ必要もないよね。
むしろ、各種宗教団体の教祖さんとか幹部さんは心当たりがあるなら活動を自粛するとか、ガッチリ警備を固めるなどしてテロに屈しないよう頑張る必要があるw
でも結局、安倍氏への同情票が集まるせいで、いわゆる改憲勢力の議席が十分多くなってしまって、後世には「安倍氏のおかげで憲法改正が実現した」ていうレジェンドが残るんじゃないか説。
ここから教訓を学んだ野党勢は、選挙に勝つには投票日の少し前にだれか暗殺されればいいのだ!みたいなことになって、お祭りにイケニエを捧げる古の慣習が蘇ったりするんじゃないか説。
イケニエがコロされるのは忍びないと思った旅のお坊様が、信州信濃のハヤタロウを呼びに行って、勇猛な犬のハヤタロウが選挙に駆けつけ、与党勢をバッサバッサとなぎ倒して、血だるまになりつつも信州に帰って行って、神社に祀られるんじゃないか説w
https://anond.hatelabo.jp/20211212125107
おそらくはありえない。
簡単に言わないでほしい。
あのとき中国大返しと言う大胆な機動を見せた秀吉以外の誰があれほど鮮やかに明智を滅ぼせるのか。
一番近い摂津にいた信孝?
変の報せだけで逃亡兵が相次ぐぐらい求心力のない男だ。
秀吉が中国から帰ってこないなら兵力は自前の5,000程度しかない。
信孝軍団からはより多くの逃亡兵が出るし反対に明智の勢力は膨らむ。
信雄?
信孝より更に遠いところに居て兵力も更に少なく合戦の腕も似たり寄ったり。
はっきり言ってこんな奴等では光秀の動きを制限することも出来ない。
光秀は勝家が戻ってくるまでの3週間近くを京での政治的運動や宣伝に使えることになる。
明智側勢力が大いに動揺したし、明智の与力や姻族まで様子見を決め込んでしまった。
そういうファクターが一切なくなるということは
・遺された信孝信雄は弔い合戦を挑むことも出来ない
と言う状況が現れるわけで、
これを見たら筒井順慶だって洞ヶ峠から這い出てきて明智に従う。
そもそも光秀に与えられてる畿内軍団は信長に冷酷に追放された佐久間の与力で
信長を討って主替えすることにいまさら抵抗感なんかない。利害が合えばついてくる。
それぐらい勢いが出たら細川すらやっぱり明智側に来るかもしれない。
これまで織田家の軍団に圧迫されて存亡の危機に立ってた各地の大勢力は
事情わかってる毛利に追いすがられながら撤退なんかそうそうできない。
毛利の追撃で散り散りにされたらどこで再起すればいい?姫路城まで戻れてもそこは安全か?
信孝を討って光秀助けに京までのぼってくる。
そこまで織田の情勢が悪いとわかれば
例えば滝川なんか史実では北条と一当たりして敗れたあと真田に諏訪まで送られてるけど
「もう織田の再起の目は薄いな」と思われてたら同じ待遇になると思う?
昌幸「滝川を首にして光秀に送ってご褒美に上野を安堵してもらお」ってなるでしょ。
もともと主家を滅ぼした織田に好感情持ってるやつなんか甲斐信濃にはいないんだから。
史実ですら河尻とか逃げ帰る事すら出来ずに殺されてる。
光秀の主殺しに公的な認可が下る。
鞆まで逃れてた将軍様が戻って来て「大義である」って言い出すかもしれないし
もともと朝廷と繋がりが強い光秀だから帝の内意があった説すらある。
「よくやりました」「各地の大名に号令を出して織田残党を討ちなさい」なんて宣下が来る。
英雄秀吉は中国から出られないまま肝心の時に決断しなかったことを悔いながら殺されていくし
柴田は雪の中で滝川は信濃の山中で状況が分からないまま討ち死にして
ただ高齢でデカい子供もいない光秀はどうやっても次世代に残す基盤は作れない。
衰え次第天下は再度荒れる。
毛利かな。
大政治家が出現することはなかっただろうから織田家が存続する形になる。
そうなったとしても結局は信長の統率力を失った家臣団によって
(どうやるんだかわからないが)信孝が光秀を討って信長の葬儀をやれば
信孝という当主がいるのにそれを蔑ろにするほど抜きん出られる家臣がそんな必ず現れるの?
なんか全体に言えるのは
秀吉の中国大返しをめちゃくちゃ過小評価してるってことなんだよね。
あれは素晴らしく冴えた勝負手であって、
あれ以外のルートで光秀があんな早く打ち滅ぼされるなんてことはあり得ないし
その光秀成敗がなければ有力家臣に過ぎなかった秀吉があそこまで強引なイニシアチブ取れることもあり得ないんだよね。
ただそんなことを時間をかけて長々と展開してる間に
織田豊臣や徳川の支配とは比べられないってことをわかってないよね。
秀吉の四国九州関東東北の成敗がどんなだったのかもわかってないんじゃないの。
フワフワしたイメージでモノ言わないでほしいんですよね。
織田勢力と地方勢力の生産力や兵力をちょっと数字で比べてみたらいいと思います。
秀吉であれ信孝であれ信雄であれ、あれを相続されちゃ勝ち目なんかないから。
小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。甲斐東部郡内領の国衆。武田二十四将の一人に数えられる。
信茂の勝頼離反から滅亡
天正9年12月、織田信長・徳川家康は武田領攻めを開始し(甲州征伐。総大将織田信忠、副将滝川一益)、信濃木曽郡の国衆・木曾義昌が離反する。また、これに伴い相模の後北条氏も武田領への侵攻を開始した。義昌の離反を契機に信濃領国は動揺し、翌天正10年(1582年)2月2日に勝頼は信濃諏訪上原(長野県茅野市)に出兵し、『甲乱記』に拠れば信茂もこれに従ったという。2月29日に織田信忠は伊那郡高遠城の仁科盛信(信盛)を攻め、信忠は矢文で盛信に降伏を促し、信茂らが勝頼から離反したと伝えているが、この段階で信茂が勝頼から離反していることは虚報であると指摘されている[15]。
勝頼は天正9年に新府城(山梨県韮崎市)を新たに築城し甲府から本拠を移転しており、『信長公記』によれば同年3月3日に勝頼は新府城を放棄し、小山田氏の郡内へ逃れたという。『甲陽軍鑑』によれば勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対して信濃の国衆・真田昌幸が上野岩櫃城(群馬県東吾妻町)への退避を提案した。しかし勝頼側近の長坂光堅が小山田を頼り郡内の岩殿城(大月市賑岡町)へ逃れることを主張したという。一方、『甲乱記』では信勝や昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対し郡内への退避を諮問したとしている。
なお、岩殿城は小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村城(都留市谷村城)からは距離があることから、岩殿城を小山田氏の城とするか武田氏の城とするかで議論がある[16]。なお、天正9年3月20日に岩殿城へ武田勝頼が在番衆を派遣している事実も注目されている[17]。
武田勝頼一行が郡内領へ退避するさなか信茂は勝頼から離反。勝頼は田野(甲州市大和町)において織田方の滝川一益の軍勢と戦い、武田宗家は滅亡した(天目山の戦い)。
信茂離反に関して、武田側の史料では、まず『甲陽軍鑑』に拠れば勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬(甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、勝頼一行に対して木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、信茂の従兄弟・小山田八左衛門と勝頼の従兄弟・武田信堯(のぶたか)が信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼一行に虎口から鉄砲を放ったという。信堯は正室が御宿友綱の妹で、信茂とは相婿の関係にある。なお、『武田三代軍記』『理慶尼記』でも同様の話を記し、『理慶尼記』では信茂の離反を7日の出来事とし、信茂が郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠(大月市・甲州市)としている。一方、『甲乱記』では信茂離反の日付を記さず、勝頼は柏尾(甲州市勝沼町)において信茂を待ち、駒飼(甲州市大和町)に移動したところで信茂の離反を知ったとしている。
甲斐善光寺
一方、織田・徳川方の史料として、『信長公記』では勝頼は小山田の館まで辿り着いたが、信茂は勝頼の使者をはねつけたと簡潔に記している。『三河物語』では小山田八左衛門が登場し、勝頼が郡内領へ逃れる途中に小山田八左衛門を信茂のもとに派遣したが帰還せず、信茂離反を知ったという。
織田氏・徳川氏勢により甲斐が平定された後、信茂は嫡男を人質として差し出すために信長に拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ処刑された。
『信長公記』では3月7日条に成敗した「小山田出羽守(信茂)」の名を記し、『甲陽軍鑑』では武田信堯や小山田八左衛門らの名も記している。一方、『甲乱記』、『甲斐国志』に拠れば、3月24日、甲斐善光寺で嫡男、老母、妻、女子とともに処刑されたという。享年44。長生寺『月日過去帳』・森嶋本『甲斐国志草稿』に記される伝存しない同寺所蔵の位牌によれば戒名は「青雲院殿武山長文居士」。信茂の命日は『甲乱記』、長生寺『月日過去帳』に「24日」と記され、『甲乱記』では3月11日の勝頼自害から13日後としている。
武田家において信玄の「弓矢の御談合七人衆」に両職の山県・馬場ら重臣と共に名を列ねている。
武田の小男と恐れられた山県昌景に「若手では小山田信茂、文武相調ひたる人物はほかにいない」と評される。
設楽ヶ原の戦いにおいては、早々に撤退して戦線を崩した武田信廉・穴山信君ら一門衆とは反対に、山県昌景隊の後備として最前線で戦い続けている。
鉄道唱歌(作詞:福山寿久)には「川を隔てて聳ゆるは 岩殿山の古城蹟 主君に叛きし奸党の 骨また朽ちて風寒し」と詠われており[20]、小山田信茂は「奸党」とまで蔑まれている。