はてなキーワード: 主治医とは
Yahoo知恵袋には、本吉病院長に対する地域の冷たい仕打ちがあったような記事が出てくる。
webには、そのようなものはなかなか出回らない。 とりあえず、ちょっとメモまで。
どうなのかな? 投稿者:一患者 投稿日:2007/02/20(Tue) 19:57 No.106
この頃、本吉病院に行くことに、ちょっと抵抗を感じるようになりました。誤診なのか知識不足なのか、適切な処置をされないで手遅れになるところだった人の話を聞きました。医者も生身の人間ですから、診誤ることもあるかもしれないけれども、私たち一般の人は医者を頼りに病院に行くわけですから、しっかり診察をしてほしいものです。
森町長がこの掲示板を見るかどうか分かりませんが、できたら、もっと医師に研修なり、勉強の機会を与えて、町民の命を預かるというのは、重責かもしれないけれども、でも、本吉町で唯一の病院ですので、高い機械を入れるばかりでなく、それを使いこなす人材や医師を育ててほしいと思います。赤字で大変でしょうが、一考お願いします。
直接、病院事務長や院長に話をすればいいのでしょうが……
あとは、勉強用に。
本吉町国民健康保険病院改革プラン(平成20年12月:本吉町国民健康保険病院)
本吉町国民健康保険病院は、昭和22年8月に旧津谷町国民健康保険組合の直営で一般病床24床の病院として開設された。
翌23年には、法改正により旧津谷町に移管され直営病院となった。
昭和30年3月の町村合併により本吉町国民健康保険病院となり、この年に新病棟が建設され、一般病床52床、伝染病病床12床を有する病院となった。
昭和34年当時の診療科目は、内科、外科、小児科、産婦人科を標榜しており、地域の中核的病院として住民の健康と福祉の増進に大きく貢献してきた。
しかし、その後人口減少などの理由により、病院は多額の累積赤字を抱えるようになったため、昭和47年に病院運営委員会を設置し累積赤字の解消に努めてきた。
その後も逐次規模の縮小が図られ、昭和61年には一般病床38床で、内科、小児科を標榜する現在の病院の規模となった。
昭和47年から取組んできた累積赤字の解消は、一般会計からの繰入金の増額等により平成6年に全て解消することが出来た。
その後は単年度の損失はあるものの繰越利益剰余金により累積赤字は発生していない。
本吉町内には、かつては数軒の医科医院が開業されていたが、医師の高齢化等により廃業し、平成15年以降は診療が行われておらず、本吉病院が町内唯一の一般病院として現在に至っている。
国の医療費抑制策による近年の診療報酬改定は、小規模な病院に与える影響が大きく本吉病院においても診療収入が減少している。
特に平成16年度の診療報酬改定により薬の長期投与が可能となり、患者の通院数が月2 回から月1 回になったため外来患者数が減少したことも診療収入減少の要因の一つとなっている。
現在本吉病院では、常勤医師2名により平日の診療に当たり、土日及び祝日等は東北大学病院より臨時医師を派遣いただき診療に当たっているが、患者数による必要医師数は常勤医師3名となっており、早急に常勤医師3名体制の確立を図る必要がある。・・・
本吉町国民健康保険病院は、一般病床が38床で、診療科目は内科、小児科を標榜しているが、現在は内科医師2名により、実質的には内科単科のみの医療提供を行っている。
外来患者数は、1日平均70~80名で年間約21,000人となっているが年々減少傾向にある。入院患者は1日平均35人で病床利用率は93%となっておりここ数年は横ばいとなっている。
外来、入院診療のほかに、件数は少ないが訪問診療や訪問看護・訪問リハビリ等も行っている。
本吉病院は、町内唯一の一般病院であることから、毎週日曜日は当番医として診療を行っているとともに、救急告示医療機関にはなっていないが、内科に係る初期救急については24時間受け入れを行っている。
また、町の健康福祉課が計画している乳幼児等の各種健診や予防接種のほか、町立の幼稚園・保育所、小学校、中学校の校医も受託している。
さらに、町内企業の産業医を受託しているとともに気仙沼地域産業センター主催の健康相談への協力も行っている。
以上のように、本吉病院が地域において果たしている役割は極めて大きく、本吉町の保健医療の推進を図る上で欠くことのできない重要な医療施設となっている。
本吉病院の正職員数は、医師2名、薬剤師1名、診療放射線技師1名、臨床検査技師1名、理学療法士2名、管理栄養士1名、看護師18名、事務職員5名の計31名、ほかに臨時職員が看護補助員9名を含めて21名で、合計52名となっている。
医師については、本吉病院の患者数による常勤医師必要数は3名で、1名不足となっていることから、当直等を含めた勤務時間が過剰になるなど医師の負担が重くなっており、早急に医師の確保を図る必要がある。
宮城県気仙沼市本吉町の市立本吉病院(38床)が苦境に立たされている。津波で1階が高さ1.7メートルまで浸水した被害に加え、2人の常勤医が辞職するなどして現場を離れたからだ。被災と「常勤医ゼロ」の異常事態が重なる医療現場で、看護師や派遣医師が「住民の身近な病院を守りたい」と奮闘を続けている。
押し寄せた津波に入院患者20人や職員は避難したが、1階の診療室やエックス線室、コンピューター断層撮影(CT)などの医療機器は水に漬かり、損壊した。
3月20日には院長(59)が辞表届けを提出。もう1人の常勤医の40代男性も体調を崩し、ともに現場を離れた。病院関係者は「停電、断水、薬不足の中、外来患者は普段の2~3倍に上り、昼夜働きづめだった。誰も責められない」と語る。
現在の医療活動は、徳洲会病院グループでつくる災害医療協力隊「TMAT」が担う。入院患者は岩手県立千厩病院(一関市)に移送し、24時間態勢で外来診療に当たる。
千葉県から5泊6日の日程でやってきた医師黒岩宙司さん(54)は「避難生活の長期化で風邪や不眠を訴える人が増えている。今こそ協力隊の力を発揮しなければならない」と力を込める。
病院職員は津波によって12人が自宅損壊、2人が家族を失った。自宅が津波で流された薬剤師長の遠藤博文さん(54)は「JR気仙沼線の復旧の見通しが立たず、遠距離通院はできない。ここを守るしかない」と、泊まり込みを続ける。
TMATの支援期間は1カ月程度の見通し。市は復興作業と医師確保という難題を背負った。
看護師長の佐々木美知子さん(44)は「人口1万1000の本吉地区住民にとって、病院はここしかない」と話す。
職務に追われ、2人の子どもと会えたのは震災1週間後だった。「住民の健康を守るため、病院存続のため、みんなで力を合わせたい」。言葉に強い覚悟がにじんだ。(高橋鉄男)
◎常勤医去り職員が結束/宮城県気仙沼市立本吉病院看護師長・佐々木美知子さん(44)
入院患者19人全員を岩手県の病院に移し、人心地ついた朝だった。
3月20日。気仙沼市立本吉病院。
男性院長(59)の姿が消えた。
震災から9日間、泊まり込みで診療を続けていた。部屋に辞職願があった。同じ日にもう1人の常勤医も体調を崩し、現場を離れた。
旧本吉町で唯一の病院は常勤医がいなくなった。
看護師ら31人の職員が残された。被災で派遣された外部の医療団の応援を受けている。4月上旬。
「おばあちゃん、眠れていますか」
2階の一室で外来の患者に話し掛ける。そばで派遣医師が心音を聴いている。
院長は地元が兵庫県で阪神大震災にも遭ったという。耐えられなくなったのだろう。
「責められないよね。私も逃げ出したいぐらいだもの」
津波で1階が水没した。医療機器が壊れ、カルテが流され、ガスと電気と水が止まった。
メモ用紙に「カルテ」と書き込み、急場しのぎの診療記録を作ることから始めた。
入院患者の足元で雑魚寝し、患者のタオルを借りて寒さをしのいだ。医薬品が足りない。患者によっては点滴を半分に減らさざるを得なかった。
病院は存続するのだろうか。常勤医の不在は職員を不安にさせた。
外来患者は1日200人前後。震災前の3倍に増えた。不眠や風邪を訴える。
「病院が地域の人に求められている。病院消滅の不安は消え、存続への使命感に変わった」
4月9、10の両日、地元の住民約100人がモップと雑巾を手にやって来た。自治会長(52)が常勤医不在を知り、「地域の力で病院を守ろう」と清掃を呼び掛けた。
1階の泥をぬぐい取る。職員も一緒に精を出す。
看護師長になって12年になる。2人いる管理職の1人として職員を束ねる。
「みんなと一緒に目の前の患者に向き合うことしかできない」
職員のうち、12人が家を流された。それでもほぼ休みなく働いてくれる。家族を失った看護師も現場復帰した。
家に帰ると、長男(8)と長女(5)に抱き付かれる。「うちはどうして休みがないの」と聞かれる。ほとんど一緒にいられない。夫(42)も市の水道職員で忙しい。
医療団はいずれ去る。
「それまでに常勤の医師を確保し、以前の運営に戻れるかどうか分からない。でも、職員と地域の人は命の拠点を残したいと頑張っている」
心の中でわが子に言い聞かす。
もう少し待って。いい未来を残すから。(高橋鉄男)
東日本大震災の津波で1階が水没した宮城県気仙沼市の市立本吉病院(38床)は、大半の医療機器が流されたうえ、院長ら2人いた常勤医が病院を去るなど苦難に直面した。だが、残った看護師や職員は県外から派遣された医師とともに「被災して苦しんでいる人をわれわれが見捨てるわけにはいかない」と奮闘を続けている。【村松洋、堀江拓哉】
3月11日、2階建ての病院は大きな揺れで停電した。非常用発電機でひと息ついたのもつかの間、約35分後には津波が襲った。1階が水没したが、入院患者19人と看護師長の佐々木美知子さん(44)ら看護師、職員約20人は2階に避難して無事だった。医薬品や布団、非常用食料は2階の一室に運び込んだ。
夜には自治会から発電機を借りて、心電図などの機器をモニターした。それでも院内は真っ暗で、懐中電灯で看護を続け、患者にはレトルト食品など非常食を食べてもらった。
来院者は増えた。不眠やストレスで息苦しさを訴える被災者が多く、通常の約4倍の270人が来院する日もあった。佐々木さんは10日間、自宅にも帰らずに看護を続けた。
17日には県外から3人の医師が応援に入り、19日には入院患者の転院を終えた。だが翌日、院長(59)の姿はなかった。机上に「一身上の都合」を理由にした辞職願があった。
院長は阪神大震災で被災し、東日本大震災では津波にのまれ、病院の燃料タンクにつかまって助かった。管理課長の鈴木幸志さん(59)は「2度も被災され、院長の家族も心配していた。去ったことをとがめるわけにはいかない」と話す。体調を崩したもう一人の常勤医も病院を去った。
残った看護師や職員たちも被災者で、計29人中12人が津波で家を流された。夫や親族を亡くした看護師もいるが、全員がほとんど休まずに勤務を続ける。
4月9、10日には地区の住民ら約100人が1階の汚泥の掃き出しなど掃除をしてくれた。地震から1カ月の11日、1階での診療を再開した。
応援の医師はいずれ県外に戻る。病院は今、市や医師会を通じ、新たな常勤医を求めている。佐々木さんは、常勤医不在で病院の将来を心配しながらもこう話す。「家を流され、私たちより困っている人が大勢いる。そんな人たちを診てあげられるのは私たちしかいない。今できることを毎日続けるだけです」
宮城県気仙沼市本吉地区で唯一の医療機関、市立本吉病院では、震災後に男性医師と院長が相次いで休職・辞職し、残された看護師たちが応援の医師と休まず働き続けている。
「大丈夫? 痛くないかな」。白衣の代わりに白いエプロンをまとう看護師長の佐々木美知子さん(44)が高齢の女性から採血し、優しく語りかけた。
1階天井近くまで達した津波は白衣も医療機器も流した。人口1万1千人の本吉地区から市中央部への道は断絶。佐々木さんらは、薬を求めたり体調不良を訴える市民の応対に追われた。院長(59)は1日に最大で270人の患者を診察した。
応援の医療チームが到着した14日から、50代の男性医師が休職。20日には院長が姿を消した。院長室の荷物にまぎれて辞表が見つかった。「院長がああいう辞め方をしたことを責められない」と佐々木さん。「看護師だけになってもやるしかないと覚悟した」
応援チームは小児科や外科の医師もいて、24時間体制で患者を診られる。皮肉にも、内科だけだった震災前より多くの市民を診察できるようになった。5月までは医師2人のチームが交代で来てくれる。ただ、地元の主治医と呼べる医者がいずれ必要となる。
「ここが地域の中心になって、福祉や介護、生活すべてを守りたい」。佐々木さんは同僚の看護師と肩を寄せ、笑いあう。「早く新しい先生に来てもらえるよう、私たちが頑張らなくちゃ」 (柚木まり)
日本を一人の人間にみたてて、今回の東日本関東大震災を怪我のひとつとする。
傷口から細菌汚染おこり(放射能による汚染)が心臓部と脳を兼ねた部位(首都圏)にもおよぶ。
怪我のせいで、血流(電気)が悪くなり心臓部を支える他の器官(関東の県)に
障害(計画停電)が発生。
また、血流が悪くなったことにより運動機能(経済活動)が停滞。
運動をしようとすると、出血が止まらなくなる(大停電が起こる)
脳は自分の怪我の具合の判断が鈍り、細菌がどこまでどれだけ深刻かわからない(放射性物質の危険)
こんな感じ?
少子高齢化の日本はもう数年後に定年を控えた50代のぐらいのおじさんぐらいの若さしかないと思う。
国連かな。
・殺菌(放射性物質への対策)
・手術(被災者の救援)
・松葉杖(?????)
・通院と定期健診(外交による回復方向の修正と定期的な経済活動のチェック)
かな。
被災時に必要なものは何か?時間が立つに連れ必要なものは変わってくる。筆者は岩手県で今回の地震に被災したが、時間や場所によって変わってくるが、自身の経験を元にここにしるす。防災用品の準備や、被災地に救援物資を検討している方は、参考にしていただければありがたい。
この文章は、被災二日目にiPadにて作成した。電気と回線が復旧しだい、どこかに上げるつもり。
インフラがとまるので、食料や衣料はもちろん、燃料や情報を得る手段も確保しておきたい。今回は電気がなくても暖をとれる反射式ストーブ、これはお湯もわかせる、ガスが止まっても使えるカセットコンロが非常に重宝している。
固定電話は回線が生きていても停電していれば、最近の多機能なヤツはつかえないので、結局ケータイに頼ることになる。公衆電話が最近中々ないので。予備の簡易充電器や電池、車載充電器、iPhone用FMトランスミッターが役に立った。
いざという時の移動手段やカーラジオやカーナビのTVでいざという時の情報取得手段になるので、車がある場合はガソリンも出来る限り入れておく。携行缶などで保存する場合は、安全な場所に保存する事。
災害時に一番役に立つメディアはラジオ、次にインターネットとなり、最後にTV、新聞となる。ラジオは用意しておいた方が良い。ネットで情報を得る場合はデマや不確定な情報に注意する事。TwitterやFacebookなどで自分から発信する場合も、不確定な情報は流さない事。ヤフー知恵袋や2chなどは極力使わない。
当たり前だが、一番の被災地から離れていてもインフラが止まれば、店はまともな営業が出来なくなるし、道路も寸断されたり、信号機が止まったり、緊急車両優先などで渋滞する。
水は断水していなければ、早いうちに水を貯めておくこと。飲料用はペットボトルやヤカンに。トイレなどの水は風呂に貯めておくこと。
注意したいのは、ロウソクやコンロ、反射式ストーブを使う場合は余震に十分注意すること。当たり前だが、常にラジオはつけておいて揺れたり緊急地震速報がきたらすぐに消すこと。
余談だが大都市圏に住む人以外は、メインバンクは地元の地銀か農協、郵便局、信用金庫にしておくといいかもしれない。窓口対応がスムーズになる。
地震に限らず、台風でも水辺に近づく人がいるが、こういう人が一番最初の被害者になる。絶対に危険な場所に近づいてはいけない。
当たり前だが、沿岸部では揺れたらすぐに逃げる。ビルの出来るかぎり高い階層か、高台に。
また、心配なのはわかるが特に災害のひどいところに行ってはならない。阪神大震災の時の様な野次馬は論外。自分が被災するだけでなく、救助活動の邪魔になるから。
不要不急の外出は極力避ける。道路の寸断や信号機の停止で思わぬ事故にあうリスクが高くなる。
電話は極力しない、出来れば連絡はメールやtwitter、Facebookや災害伝言板、ラジオの伝言メッセージなどを使う。やむおえない電話の場合も、極力通話は短くすること。
デマを流すのは論外だが、意図せずにデマを信じてしまってもいけない。チェーンメールは無視し、拡散RTは慎重に行うとこ。デマは最悪の場合は人命に関わる。
ロウソクや反射式ストーブを使う場合は、そばから離れる場合は火を消すこと。一瞬でもそばから離れる場合は絶対に火を消すこと。ロウソクは使わないに越した事はないが、使う場合は周りに燃えやすいものをおかない。
よく何かあれば、千羽鶴を折って送ったり、古着等を送る、自分の小説本を送る俳優などがいるが、これらは役に立たないばかりか、ゴミにしかならない上に、輸送力の無駄遣いとなり、迷惑となる。地獄への道を善意で舗装しないように。
命の危険がなくなり、食事もある程度とれる様になると、非常に退屈になる。死傷者が多数でた沿岸部の方々や、原発関連で不安な福島県の方々には大変申し訳ないが、1次的な被害が少かった内陸部にいる自分は、二日目にはもう暇である。TVラジオは災害関係しか流れておらず、ブロードバンドは不通、携帯電話も不安定な為、webも長い時間見る事が出来ない。気を紛らわす為にも、何か簡単な娯楽はあった方が良い。昼間は文庫本を読んで過ごしたが、いよいよ退屈になってきたので、この文章を書いている。
余談だが、そういう意味ではある意味テレビ東京のスタンスは正しいとも言える。今回は岩手にいるので、テレビ東京が何を放送をしているのかは知らないけど。
お菓子、ジュースは非常用の食料という意味もあるが、気を紛らわすという意味で娯楽に共通する。自分はタバコは吸わないが、喫煙する方はタバコも用意しておくと良い。ただし、不測の事態に対応する為、飲酒は避けた方が良い。
モバイル関係やカメラは記録撮影や録音に使える。ただ、間違っても現在進行で危険なもの、炎上中の建物は津波などを撮影してはいけない。そんなものを撮っている暇があったら逃げる事。
人工透析や酸素吸入、糖尿病などの慢性疾患、妊婦の方はかかりつけの医院がどうなっているのか確認しておく。かかりつけの医師が診察不能な場合は、保健所や近くの総合病院、自治体の窓口などに相談すること。
スーパーやガソリンスタンドはかなり混雑し行列となる。そういうところで並んでいるのを無視し割り込んだりすると無用なトラブルを引き起こす。実際、筆者が給油のためガソリンスタンドの行列にならんだところ、何台かが無理やり割り込んでいたが、割り込んだ車両は全部店員によってつまみ出されていた。
水の節約やトイレを我慢するために水を飲まないのは、血栓などのリスクをよぶので、水分はとること。
ある程度インフラが復旧してきても、交通や物流の回復は更に時間がかかる。食料や燃料などは無駄遣いしないこと。また、電気や通信などのインフラも安定的提供には時間がかかるので、無駄遣いしないこと。
「何かしたい」と思って、古着や千羽鶴や自作の小説を贈ったり、慌てて炊きだしボランティアに向かってはならない。邪魔になるだけだ。善意を形に変えたければ募金をするか献血をすれば良い。今回は災害の内容から献血はそれほど必要無さそうだが、募金は最も有効な支援である。ただし、募金をする場合は信用できる組織・団体を介して行うこと。間違っても駅前の街頭募金などに小銭を入れてはならない。善意を装った詐欺や悪質な新興宗教などが関わっている可能性があるからだ。せっかくの善意が被災者に届かない可能性がある。
特に注意しなければならないのは、国連やユニセフなどを騙った振り込め詐欺だ。国連やユニセフはあなたの個人の電話やメールアドレスに、募金を依頼することはない。絶対に相手にしないこと。
コーディネーターさんから電話が来て、そう聞かされた。 正直「やっぱりね」という感じ。自分に決まる予感がしてたから。 父が悪性リンパ腫に罹患している事がわかったのも、ちょうど去年の今頃だった。 癌が国民病と云われるようになって久しかったけど、まさか自分の家族が患うことになるとはと、母と2人最悪の事態ばかりを考えていた。 主治医の説明を受け、余命宣告されなかった事に安堵はすれども、治療の過程におけるリスクがある…即ち、何らかの原因で死んでしまうという可能性が1%でも存在しているという事が怖くて、怖くて、毎日夜になると自室に引きこもって泣いていた。 そして、今。 父は奇跡的にも腫瘍が全て消え、普段と何ら変わらぬ生活を送っている。 去年、あれほどやつれ、禄に歩くことも出来ず、ドデカい輸液パックに24時間繋がれていたのがウソみたいだ。 さぁー、私も早く仕事を見つけなk(略 と、安堵していた所に届いたのが、例のあのオレンジ色の封筒だった。 バンク自体には、父の病気が発覚するよりかなり前に登録していたのだが、まさかよりによってこのタイミングで来るとは。 しかも、骨髄採取する病院は、父が入院していたのと同じところ。 普段はこんな事軽々に考えはしないんだけど…この時ばかりは「まさに運命だ」と思ってしまった。 (人の命がかかっていることだから、あんまこういう事は思っちゃいけないとはわかってるんだけども…ね。) まぁー、正直全身麻酔で? 腸骨に針ぶっ刺しまくるとか? 説明聞いただけでも結構怖かった。 一緒に説明についてきてくれた親友もめちゃくちゃビビってた。 正直今も怖いし、この一件を知った親戚からはマゾだとかアホだとかとも云われてる。 (流石に腹がたったけど、まぁそう思われてもある意味仕方が無いことだから…。) でも…それでも、私はドナーになる。 あの頃のことはあんま思い出したくなかったから今まで考えないようにしてきたけど、こうして文章にしてみたおかげで改めて決心できた。 取り敢えず、頑張ってみる(`・ω・´)
主治医が自立したほうが患者の治療のためになるって考えてれば手立てがなくはないとおもいますよ。
ある種の精神疾患や人格障害については治療のために福祉制度や地域のネットワークを利用した患者の自立が治療に重要という医学報告もありますし、まずは主治医を説得してみることです
主治医の後ろ盾が必要になるのと親が支援しないって言質出す必要あるけど
自分はメンヘラで、なんとか自立する方法ないかなと模索中なんだけど、色々とややこしくてめげそう。辛い。
現状としては、親の持ってる不動産の一つに一人暮らししてる。障害者年金を月6万6千円もらってて、そのうち2万6千円を親に渡した残りの4万で食費や携帯代や医療費その他色々を捻出している。日常生活には特に問題なく過ごせている。
自分としてはなんとか働きたいんだけど、親について頭を悩ませている。
働きたいと親に申し出たら以下のことを言われた。
・まずはデイケアや作業所に通って大丈夫そうならハローワークへ行きなさい
・精神障害者への福祉がしっかりしているところでないと駄目
・そもそも病気を治すことがまずなにより大事だから働きたいと思わなくていい
返す言葉が見つからなくて、結局何も言えずに帰ってきて悩んでいる。
結局、親は私がひどい精神疾患を抱えていると認識しているんだなー、と無力感にかられた。いや確かに私は精神科に通っているし、自殺企図やら家出やらやらかしているし、精神的に安定していない。だけど、その行動とか精神的に不安定になったりするのって全部明確な理由があるんだけど……でもそれは親は聞かないし認めない。
主治医に相談したほうがいいのかとも思ったけど、話を聞いてもらえる環境にもっていくのはどう考えても骨が折れることは確定的。精神科の診察には親がどうしたってついてくるし、主治医に話すこともこっそり裏で親に取り決められているから。診察の場ですべて暴露するのもアリなのかもしれないけど、時間的に無理だろう。主治医はとても忙しいから予約したって診察までには数時間待たされる上に話が長くなるとわかれば後日改めて、ということになる。暴露して、その「後日改めて」までの期間に親が黙って待っているわけ……ないしなー。ひとりで診察を受けたいと申し出たこともあったし、何度かそうしたことがあったけど、診察の後の親の怒涛の質問攻めと喋る内容についての指導には耐え切れなかった。
大人しく作業所やデイケアに通うのもきつい。まず、精神障害者同士の会話に入れない。だって病気の辛さとか話されて共感もとめられてもわからないんだ。パニック起こして辛いとか鬱状態でなにもできないのがが辛いとか夜眠れないとか、私には経験がないからわからない。薬の話題を振られても、私はここ数年もらった薬はすべて飲まずに影でこっそりと捨てているし。いくつかデイケアまわったけど、どこも中心は40歳代がメインだったから話題的にもわからないことばかり。よくわからない上に特に興味もない話題をひたすら延々とうなづいて聞き続けるのは苦痛でしかない。
八方塞りってこんな感じなのかな。
私の母が死んだ。47歳の誕生日を迎えてまもない冬の日。半年の闘病生活の末のことだった。
病名は、慢性骨髄性白血病。
以下、情報が正確でないことにご留意下さい。伝聞や、うろ覚えで書いているものが含まれています。
私は一人暮らしをしているから、その時の状況は電話越しに伝えられた範囲でしかしらないことが多い。以前から頻繁に連絡は取っていたが、病気がわかって以来、母の体調が許せば毎日電話していた。
大学が夏休みになるまで二月余りを残していたと思う。どうも母が白血病らしい、と言うことを聞かされた。私が真っ先にしたのがググって見ること。いかんせん、TVでよく見る難病の一つと言うイメージしかない。調べていくと、ここ10年くらいで新しい薬が開発されて、治療に関わる環境はだいぶ良くなっているらしい。良くはわからないが、いまでは直る病気になったようなのだ。
私は安心した。鵜呑みにするのはいけないと思いながらも、信用できる情報だったからだ。
投薬治療で症状が落ち着けば、通院しながら普通に生活できるらしい。母は電話越しに、「仕事を辞めて暇になったからお菓子を作ってるんだ。夏休みになったら作ってあげる。」と普段とあまり変わらぬ調子で言っていた。
この頃は病名を聞かされたショックから立ち直ってた時期だったと思う。
事態が変わったのは夏休みに入る前のことだ。母が入院した。グリベックという薬が効かなくなっていたらしい。後で聞いた話だが、急遽病院に行き、検査を受けてる間にも体調が急変していたそうだ。これはマズイと言うことで、入院することになった。
入院してからしばらくは、薬で抑えていた病気の症状が現れていて、かなり苦しんだらしい。母の体調を鑑みて、長時間の電話は避けざるを得なかった。この時期の全てはあとから聞いた話しになっている。
薬は何種類かあって、人によっては合う合わないがあるし、量の匙加減も難しい。過剰に生産される白血球が下がりすぎてもだめだし、抑えられなくてもダメなのだ。必然的に、治療は長期間に渡るものになる。
ともあれ、主治医の尽力の下、母は体調が安定するようになった。
夏休みに入って、私は実家に戻った。蛇足ながら以下に私の生活パターンを記す。
朝十時ぎりぎりに起きてバイトに行き、午後3時くらいにはバイトから上がりがてら買い物をして、風呂を浴びた後、母を見舞い、午後6時前後に家に帰って夕食の仕度をする。父が母の見舞いにいくなら付いていって、大体12時には寝る。バイトがなければ家事をしながら、できるだけ母のところで過ごす。
実家は田舎にあるので、私は去年取ったばかりの免許片手に車の運転に習熟することになった。病院までは大体車で20分。
家事は一人暮らしである程度の経験はあるものの、家一つ切り盛りするのは容易ではない。私は祖母と分担してやっていたが、母には到底及ばないことを痛感する。
母は夏の間は比較的安定していたように思う。血液中の成分を分析した数値は上下していて、分からないなりに私たちは不安になったものだったが。熱は高めであったが合併症を起こすことも無く、起きて歩いたり出来ていて母は体力を必要以上に落とさないようにするなど、治療について前向きだった。お医者さんが重い病気にも関わらずしゃんとしていてこちらが勇気付けられる、という風なことを言っていたほどであった。
ただ、病気に対する抵抗力は徐々に失われていっていたようで、秋が近くなったあたりでアイソレーター(空気清浄機の親玉)が個室に入った。母はこれを自分の病状が悪化した証だと見たのか酷く気にしていて、アイソレーターがはやく取れないかとこぼしていた。他にも、入浴は洗浄して誰も入らないうちにしたり、食事に制限がついたりした。納豆などの菌がついてるものは冗談抜きで命に関わるようだ。
治療方針についてだが、これは二転三転していた。母の検査の結果次第であるからだ。当初は入院は短期間のことであるとの話しだった。ついで、退院が見えてこなくなり、移植も検討しなければいけなくなり。最終的には移植するしかないとのことになった。移植についても、中々方針は決まらなかった。少なくとも素人目にはそう見えた。が、この場合は主治医の熱心さの表れでもあった。聞いたところによると他の病院の血液内科(要は専門)の先生とも協議を重ねていたとのことであった。それに母は遺伝子が特殊だったらしい。骨髄バンクでドナーを探すのも難しいだろうと言う話しを聞いた。私か兄かの造血肝細胞を用いての半合致移植に踏み切ることも有力な選択肢の一つだった。最終的には、主治医が見つけてきた、完全に一致する臍帯血を用いて移植することになった。
リスクは大きいがそれしかない、との決断だった。母はまだ比較的若くて体力があることも後押ししていた。
施設の問題で、最初に入院した病院では、移植の前処置に必要な放射線照射が行えないらしいので、他の病院に転院することになった。
夏休みの最後に、父と共に、その病院で転院に必要な手続きと、担当して頂く医者との顔つなぎにいった。穏やかな、経験豊富な先生であった。どうも、前の主治医も今回も医者には恵まれたようだ。
私としては、付き添っていたいのは山々だったのだが、母たっての希望で、大学に戻ることになった。
それからは、移植前の前処置に入る直前までは連絡をとっていた。以降は父を通してたまに状況を確認するに留めた。
移植後2週間くらいたった、12月のある日。
移植がうまくいっているかが、おおよそ見えてくるだろうから、私は土日を利用して母を見舞った。
愕然とした。準無菌室に居た母は、長く伸ばしていた髪をそり落とし、管に繋がれて、一瞬誰だかわからないほど人相が変わっていた。見るからに弱弱しく、その辛さは如何ほどのものか、本人にしかわからない辛さだろう。つい先日風邪を引いたくらいで弱音を吐いていた私は自分を恥じた。
なんと言っていいものか、躊躇ううちに1時間が過ぎて、母は疲れてしまったように見えたので、その日はそれだけにしてアパートに帰った。後から聞けば、私は何もできなかったけれど大層喜んでくれたようだ。
クリスマスには冬休みになるから、その時また会おうね。そう約束した。
クリスマスを目前に控えた日。
父から何通もメールが来ていた。文面は全部、すぐに連絡を下さい。
普段は強いて何も考えず、その日も暢気にバイトに精をだしていた私は、すぐに思い至った。まずいことが起こった。そして、そこで考えるのをやめて、すぐに飛び出す準備に取り掛かった。久しぶりの全力疾走。兄が近くまで迎えにきているらしい。気ばかりが急いて、結局アパートの外で30分ばかり兄を待って立っていた。
病院についたら、丁度父と医者が話しているところだった。呼吸器をはずすのはどの時期にするか。そう漏れ聞こえた。私は泣き崩れてしまった。
母の術後の経過は良好だった。白血球の数値も戻ってきていた。ただ、血小板は立ち上がるのは遅くなるもので、どこかから出血すれば手の施しようが無い。その危険性については何度も言われていた、と父は語った。
母の脳内では出血が起こっていた。最も起こって欲しくなかった事態になってしまったらしい。
病院で、個室を一つあけてくれて、母はICUからそこに移された。自発呼吸はしていない。瞳孔も開いてしまっている。脈拍と体温、それに呼吸器の音だけが母の生きている証だった。それでも母は生きていたのだ!
泣き疲れて、寝て起きれば、母は目を覚ましているのではないか。最近眠れてなかったらしいから、2,3日寝てるだけなんじゃないか。そんなことばかり考えた。
その日から、3,4日ほどだろうか。父、兄、私の3人で交代で寝ずの番を立てて母に付き添った。呼吸器のリズムを厭いながらも、安心させられもする、最も堪えた日々だった。最も、精神とは面白いもので、1ガロンも涙を流せば人間立ち直る方向に向かえるらしい。水を飲んだそばから涙に変えれば少しは気が晴れたものだった。
深夜1時、父と兄と私が見守る中で、母は息を引き取った。
繰り返し、情報が正確ではなく、うろ覚え、伝聞が入っていることにご留意下さい。
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無理矢理ホメオパシーにたとえるなら、
・普通の治療法で治せない医師が、ホメオパシーを使って、見かけ上患者を安定させている
という状態だろ。そんでもって医師が、「私の今の能力では、このホメオパシー以外に病気をコントロールする方法を思いつきません。ホメオパシー以外の方法で病気を何とかしろというのであれば、申し訳ありませんが私の能力を越えていますので、私より有能な先生に主治医を交代する事を提案致します」とか開き直っている状態。この占い教師を肯定的に評価している人たちは、自分の家族の主治医が、こんなヤブ医者でもかまわないのであろうな。少なくとも、医師を代えてみるよな。どうして教師は代えてみようとしないの?
標準医療へのアクセスがきわめて悪い国(インドなんかはそうだと聞く)では、ホメオパシーにも一定の役割はあるだろう。でも、国民皆保険制度がある国ではホメオパシーは要らない。少なくとも、「ホメオパシー以外は方法を思いつかない」などと言うヤブ以外の医師にかかれる選択肢があるのが先進国と言える。この占い教師の逸話は、「能力の低い教師を代える選択肢へのアクセスが困難」という教育制度の貧困さを示していると思うよ。学級崩壊より占いのほうがマシだけど、そりゃ、無医村よりホメオパスでもいた方がマシというレベルの話。
ほんの一ヶ月前にいきなり腰椎椎間板ヘルニアになってしまいました。
つまりは腰の骨と骨の間にある椎間板という組織が飛び出して、神経を圧迫することによりさまざまな症状が出るらしいのだが、
私の場合、腰は発症時も今も特に痛くなく、片足に強烈な痛みと痺れがいきなり出てきた。
今まで腰を痛めてぎっくり腰になったこともなかったし、
腰痛はまったくなかったってわけでもないが中腰とかつづけてその時だけ痛い程度で
特にそれらしい前兆は何もなかった。
で、発症と入院までの経緯なのだが。
いきなり片足のふくらはぎが張り出したと思ってたら、痛みが同じ箇所に出てきて痺れが出るようになった。
そして2時間ぐらいで歩くのがやっとという痛みになった。
その後は悪化する一方で、片足全体に痛みが走り、痺れがひざ下全体に及んでいた。もう片足にはまったく症状なし。健康そのもの。
座ってても何してても痛い。
ストレッチとか、シップとか試してみたけれど、ただただ猛烈に痛い。
昔足の指を3本骨折したことがあったが、それと比較にならないくらい痛い。
バファリンを飲んでみたけれど、まったく効果なし。
なんぞこれ状態。
その日はどうしても仕事場にいないとまずい日だったので、なんとか自分をだまして定時の18時まで居て退社して、
即効で街の何でも屋的な医院にいった。
遅い時間なので専門的な病院や大きい病院はやってないし、整形外科も診療に含まれてたので急場しのぎととりあえずの意味で行ってみた。
診察してもらうととりあえず神経症状なのは間違いないが、原因は今の段階では不明とのこと。
痛み止め(ロキソニン)とビタミン剤出しとくから、1週間後また来てといわれて帰宅。
で、寝違いとかかもしんないし寝たら治るだろうと若干淡い期待を持って就寝。
いつも5秒で爆睡して一度も目が覚めずに朝遅刻ぎりぎりに目が覚める私が
ロキソニン飲んでるはずなのに痛みで眠れない、寝れても浅い眠りで1時間もしないうちにすぐに目が覚めるという悪夢の時間を過ごして不眠状態。
朝いつもの時間よりかなり早く目が覚めて起きるとすごく眠いはずなのだが痛みが圧倒してて不眠とかどうでもいいになってた。
猛烈に痛い。昨日より猛烈に痛い。トイレもつらくなって出が悪くなってました。
でも会社行かないといけないと自分を追い込みながらだましだまし出社の準備をしてたが、
その間も激痛が走り、食欲も出ない。歩くのも困難になりつつあった。
本気で救急車呼ぼうか悩んだけれど痛み止めを飲んで、ほんの少しだけ会社に出社して最低限の引継ぎだけしたら病院にいこうと決めて無理やり駅まで歩いた。
正直いつもはなんてことのない10分程度の道のりに3倍以上の時間をかけて、痛みを無理やり我慢して歩いた。
もうそのときにこれ、会社ってレベルじゃないとやっと決心がついて電話して休んでそのまま電車乗って大きめの総合病院に。
整形外科で診察してもらったのだが、問診と足の反応を調べてもらってたぶんヘルニアでしょうといわれて唖然・・・。
そういえばこのときに気づいたのだが、足にぜんぜん力が入らなくなっていて先生の手に完全負ける状態に。
えっ、腰は痛くなくて足が痛いのになぜヘルニア?状態。軽く話してもらって納得。神経圧迫してるのが足の神経で足に症状が出てるとのこと。
腰が痛くなる場合もあるらしいが個人によって同じように圧迫されているように見えても症状が若干違うらしい・・・。
検査中大丈夫なようにキツい痛み止めの座薬(後に知ったがボルタレンサポの50mg)を入れてもらって、MRIとレントゲンを撮ってもらって腰椎椎間板ヘルニアと確定。
ただ、痛み止めが無意味なぐらい効かない。MRI中も足が震えるぐらい痛い。
で、確定診断後の診察中もずっと痛くて耐えられない中、先生にこれ以上強いのだと麻薬みたいな薬しかないし、外来でできるのはさっきみたいな痛み止め出すだけしかできないけど、会社休めますか?とのこと。
「こんな痛みじゃ会社どころじゃないので休むしかないだろ、常識的に考えて・・・。」
と思いながら会社に事情話して休みますといって無理してもらってベッド確保してもらって即入院決定orz
まさか緊急入院するとは思わなかった・・・。
楽観的に診察してもらってる最中も注射とか点滴とかで帰れるものだと思ってましたorz
その上、まだ決定はしてないけど手術が必要になるかもしれないとのことでした。
とりあえず、かなり症状もでてるので痛み止めがてら神経ブロックを試してみてから決めましょうとのことでした。
ほかにもいろいろ言ってもらってたんですけど、正直痛みで話の7割ぐらいは通り過ぎるだけでしたよ・・・。
そんな感じで入院したんですがその外来で診てくださった主治医の先生がいい人で、
神経根ブロックを無理して本来してない日に早めてしてくれたり(痛みが耐えられないから)、
手術しないといけないと勝手に思い悩んで手術に決めた後も手術か保存療法(手術しないでブロック注射などを使いながら自然治癒で治す方法)で悩む時間をくれたり。
結局手術は回避できて(どちらかというと回避した?みたいな)、神経根ブロック3回コースで退院できるレベルにはなりました。
ただ神経根ブロックが超絶痛い・・・。痛いのを抑えるための治療なんですけど、整形で一番痛い治療法だと先生に言われましたよ。
まぁ、今も若干麻痺が残ってはいるんですが痛みは安静にしてればほぼないのでいいんですが、
5分ぐらい歩くと痛みと痺れがカムバックしてきてしまうんですよね・・・。
これぐらいですんでるのも痛み止め(朝晩ボルタレン37.5mg)のおかげではありますがorz
先生も言ってたんですが、日常生活に戻るのはそれほど難しくないけれど社会復帰が大変な病気だと・・・。
正直会社に迷惑かけてるので早く戻りたいんですが、無理すると麻痺が進行して取り返しつかなくなるといわれてるので
家で安静にしてる日々です・・・。
失礼なことをたびたび申し上げて申し訳ありません。
元記事さんの、ご心配を軽減するには、やはり専門家の手助けが必要だと思います。
ご様子をわからない私が、ご参考になりそうなことを申し上げられているとは思えません。
(もし、またとんちんかんでしたら申し訳ないのですが)、他のご家族が、元記事さんに頼り切りにならないように考えなければならないような気がします。
たとえば、お父様が、ご病人の経過や予後に関して疑問や心配をもったら、元記事さんを通して病院に「なにか言おう」とするのではなく、元記事さんが「忙しそうだな」と思ったら代わりに連絡をとって確認するなどなさっていらっしゃいますか。
癌は、かなり進行している場合でも「まったく見込みが無い」と思うのは時代遅れという話です。
しかし、患者さんご自身が自由自在に歩き回ることは、少なくとも治療加療中はかなり無理があります。
たとえば、お父様が、「知らんふり。まるで「病人担当に接する」ようなふう」では、論外ですーーもし、そうでしたら、病院から特に提案がなくても、なんとか、「相談の場」に同席してもらうというかたちをとるのもいいかもしれません。
「一緒に相談する」というのが、「引き込む(ってことばは悪いですが)」には「効果がある(ってこれもことばが悪過ぎですが)」ことがあります。
「今後の医療方針の説明があるんだそうだ」と、病院までは、なんとか一緒に出向いてもらう、ですとか。
そうなると、「家族みんなに説明してもらう場をお願いする」という段取りが必要になってくるかもしれません。
病院のカウンセリング室では、たとえば、「治療(治療費を含む)の相談」「「自宅療養の看護の相談」「障碍者手当などの受給に関する相談、相談先の紹介」「(もし、転院など予定されていたりすれば)転院先の紹介もしくは探す指針」などが主に行われていることも多いのではないかと思います。
内容によっては、現役の看護士さんが担当にあたってくださることもあるようです。
また、治療加療中の、病人ご本人が相談にいらっしゃることもあるようです。
「家族の役割分担」というような、現場のかたがご存知の、「他のご病人の例」お聞きになるためにも、よい場だと思います。
いずれにしろ、今、ご病人がかかっていらっしゃる病院に予約をかねてお問い合わせになったほうがよいのではないかと思います。
もし、お時間があるようでしたら、電話などではなく、平日に直接出向いたほうがいいかもしれません。
実質的な準備・手続き以外の「家族の心構え」のようなことは、主治医の先生にご相談なさったほうがいいかと存じます。
ご病人個人の今後の経過がどうなるかという予測も不可欠ですし。
ご病人の経過の相談のついでのような感じで、主治医の先生に、「これから自分にこれこれの予定が入っているのですが、期間としては、これこれこういうふうになっており、病人のケアについて不安です。実は、家族がこれこれこうの状態で、どうしたらいいのでしょうか」とダイレクトにお聞きになるのもいいかもしれません。
情報収集も欠かせないと存じます。
身近な方で医学に明るい、もしくは、人脈の広そうなかたはおいでになりませんでしょうか。
気のきかないことしか申し上げられず歯痒いです。なんとかご自愛ください。
タイトルに不適切な表現がありますが、あえて使わせてもらいます。不愉快な人はごめんなさい。
3年前の今頃、夫が重度の男性不妊だと分かり、現在まで子供なし。今年中に体外受精をしようと夫婦で決めていたので先週の私の誕生日(土曜で夫の仕事が休み)に不妊専門の病院へ行ってきた。
本当はもう少し早くに不妊外来へ行く予定だったんだけど、婦人検診の乳がん検査にひっかかってしまい、精密検査に時間がかかってしまった。
エコーで腫瘍が左胸に1つと右胸に2つみつかり、そのうち1つは問題なし、残り2つは「異型細胞」で癌ではないが正常でもなく、今後癌化する可能性もあるので半年毎の経過観察ということに。体外受精をする予定だとあらかじめ伝えていたので、主治医は今後はホルモンの影響等も考えて経過観察する予定だと言ってくれた。
エコー、マンモグラフィー、MRI、針生検と、癌の可能性がなければしない検査(針生検)までしたので、結果が出る前に乳がんの覚悟はしていた。30歳になる前1ヶ月間は乳がん検査と結果待ち。まだ20代だし3つの腫瘍が全部癌ならすぐに全身に転移して死ぬのかな・・・と、とても不安だたけど、私を不安がらせないようにか、夫は「絶対癌じゃないよ」と言うだけだった。
3年前、夫の精子検査の日、夫は結果を聞く前に仕事に戻ったので私は一人で結果を聞いた。
先生:「はい、○○さんの奥さんね?えーっと、ご主人とは自然妊娠は無理ね。精子が少なすぎるから。体外受精でも無理だろうね。子供ほしいなら顕微授精以外無理ね。」
私:「え・・・・?」
先生:「顕微授精の説明は看護師から聞いて帰ってください。はい、お疲れ様でした。」
私:「え・・・、先生、無理って絶対に無理なんですか?」
先生:「絶対とは言えないけどこの数字じゃねー、考えても仕方ないよ。」
徐々に自分の体から血の気が引いていくのを感じて、意識がボーっとして、大して何も質問が出来なかった。ただ、先生の言い方が冷たくて冷たくて、平常心を保つのがやっとだった。何で夫は帰ったんだろう、一緒に居てほしかったと強く思った。今考えれば、同情した言い方をすると泣いてしまうかもしれないから、淡々と言ってくれたのかもしれない。
なので、今回は自分の検査だったけど、結果を聞く時は一緒に居てほしかった。癌じゃないと思うけど、もしも癌だと言われた時には、夫に隣に居てほしかったから仕事を休んで一緒にきてとお願いした。有給があまってるので休めたけど、「結果聞くだけなら一人で行けるでしょ?」って言われた。夫は私がお願いしたら嫌でもお願い事を聞いてくれるのでそれはありがたい。だけど、自分の本意じゃないことも口にするので、時々傷つく。
乳がん検査の結果を聞いた帰りの車の中で、「今は癌じゃないけど、来年には癌になってるかもしれないから、早く子供、作らないとね。もし癌になったらしばらく子供作れないもんね。」って私が言ったら、「見つかってないだけで、俺の体のどこかにも癌あるかもしれないし。」って言われた。夫にとってはその程度の事なんだ・・・と思った。
今までは、夫が不妊で子供が出来ないから自分に引け目はなかった。だけど、自分が癌になって夫の子供が産めなくなるのは申し訳ないと思った。だからすぐに体外受精の病院へ行くことにした。
だって、もし妊娠中に発ガンしたら、癌の治療と中絶のどちらかを選択しないといけない。治療をしないで出産する人もいる。それで子供を残して死んでしまう人も居る。考えすぎだろうけど、やっぱり癌化する可能性があるのなら、今後の最悪の状況は頭をよぎる。
誕生日の前日、外食をしてホテルに泊まった。ちなみにホテルは会社の保養所指定先。誕生日、結婚記念日は必ず外食をしてプレゼントとカードを渡すようにお互いしてきたので、今回も夫はそうしてくれた。だけど、その渡し方が悲しかった。渡し方くらいでって男の人は思うだろうけど・・・。
今までは食事の時にバースデーソングが流れてプレゼントを渡されるとか、日付が変わった瞬間に渡されるとか、そういう演出をしてくれる人だった。
今回はホテルについてベッドに転がったら、「はいこれ」ってプレゼントとカードをベッドに置かれた。午後10時くらいで、まだ誕生日じゃなかった。
私:「え?もう?まだ誕生日きてないよw」
夫:「20代のうちに渡したいから」
私:「え?だって誕生日プレゼントでしょ?誕生日にほしかったな」
夫:「30代とかいやでしょ?20代のお前にあげたかった・・・云々・・・」
夫は同級生で、誕生日は11月。いつも私が先に年をとるけど、自分では今年30歳になるのがそんなに嫌じゃなかったから、夫が20代の私に固執した発言をしたのが悲しかった。
次の日、私の誕生日、日本でも有数の体外受精の権威の病院へ行った。夫の結果はやっぱり悪くて顕微授精以外無理だと言われたけど、私は状態がよかったらしい。
男性側が不妊の場合は、女性は正常でも不妊でもあまり関係なくて、排卵誘発剤を使ってできるだけ沢山の卵子を作って、薬で全部を一気に排卵させて、卵巣から直接卵子を採取する。自己注射になったので、誘発剤は自分で注射器で毎日打つことになった。看護士が別室で注射の打ち方を教えてくれたけど、自分のお腹に注射器を90度の角度で針の根元まで刺すなんて、グロいし怖い。いきなり練習でやってみてと言われたけど、緊張してうまく出来なくて、痛かった。針がお腹に刺さっていかなくて、「痛い、これ以上針が入らないんですけど」と私が看護士に言ったら、「大して痛くないくせに」って夫に言われた。人に刺されたら痛くないんだろうけど、自分で自分に刺すのは、うまく出来ないから痛い。どうせなら「頑張れ」とか「大丈夫大丈夫」とか、そういう励ましの言葉がほしかった。
お昼頃に病院についたけど、初診で体外受精の準備が全部整ったので、自分でする薬や注射一式を渡されて、スケジュールも説明されて、あとは自分のタイミングで始めてくださいって言われた。今度病院に行くのは、自分で誘発させた卵子を採取してもらう時。少しづつ治療が始まると思ってたのにいきなりスタートを切らされた感じがあって戸惑った。
たまたま病院が私と夫の母校大学から車で30分くらいの所にあったので、その日は誕生日だし、病院が終わったら、大学まで行って、昔し住んでたマンションを見たりよく一緒に行った居酒屋に行ったり、同級生が働いてるバーによって久しぶりに話がしたいって夫に言っておいた。子供を作る前に、少し昔しを懐かしみたかったから。
病院を出て夫に「大学近辺に行くんだよね?」って言われて「うん」って言った。病院を出た時19時を過ぎていて私は検査が多かったので疲れてたけど、誕生日なので楽しく過ごしたかった。夫は精液検査だけだったので、待ちくたびれてたのかもしれない。何だか二人とも疲れてた。
「あと2回ここくれば、それで終わりだよね?」って夫が言って、私はキレた。
これから家で注射をしたり色々準備して、病院に行くのはあと4回。そのうち2回は私は腹腔鏡手術をしないといけない。夫は1回、オナニーをして精子を出すだけ。
こんなこと思っちゃいけないんだろうけど、夫のせいで私は痛いきつい辛い思いをしてホルモン治療をするのに、夫はアダルトビデオを見てシャーレに射精すればそれで終わり。体外受精は男性と女性の精神的肉体的負担が全然違う。本当は「夫が健康だったらこんなことしなくていいのに」って思ってるけど、精子がなくて辛いのは夫だから、それは言わないようにしてた。だけど、最近の夫の思いやりのない発言に限界だった。
「2回じゃなかったっけ?」って夫がまた言った。かる~く言った。意外と大したことないねって感じで言った。私が口を開いたら醜い言葉しか出ないから、ずっと黙ってた。涙が止まらなかったけど、横を向いて気付かれないようにしてた。これから顕微授精に向けて私がなにをするのか、夫婦で説明を受けたのに、夫は聞いてなかったんだ。だって2回じゃない。
乳がん検査の時、「もしも癌でも、自分のことを第一に考えて、子供は無理して作らなくてもいいよ」って言ってほしかった。
誕生日の日、「30歳おめでと。30代も一緒に楽しく過ごそうね」って言ってほしかった。
注射が痛いって言った時、手を握ってほしかった。
帰りの車で、「体外受精で辛い思いをするかもしれないけど、一緒に頑張ろう」って言ってほしかった。
きっと私がこうしてほしいって言ったら、そうしてくれる。夫は優しい人だ。だけど、自発的に思ってるわけじゃないのがわかって辛い。
「何で心配してくれないの?」って言った後「大丈夫?」なんて言われても嬉しくない。
体外受精までして子供を作っていいのかも不安だし、答えが出ない。もしかしたら子供は作らないほうがいいのかなって時々思う。
ありのままの出来事を人に言うと、単なる夫への愚痴・悪口になるので友達にも言えない。
最近こんなことが続いてたけど、本当は夫は優しい人だし大事にしてくれてると思う。夫のことが大好きだし夫も好きだと言ってくれる。
毎日一緒に夕食を食べてくれるし、週末も一緒にいてくれる。いつもパソコンばかりしてるけど、外でも手をつないでくれるし、夫を知ってる人はみんな「愛妻家だよね」って言ってくれる。
ただ、すごく鈍くて察することをしないだけ。私が普通の声のトーンで怒ったら気付かない鈍い人。
自分たちの事は客観的に見れないけど、客観的には幸せな夫婦です。自分でも幸せだと思ってる。
今回、色々とヘビーなことが短期間に集中したので誰かに愚痴りたくて増田に思いを綴ったけど、こういうことを乗り越えて他人が夫婦になっていくんだと思う。
そう思いたい。だから頑張ろう。
7月頭に旦那が入院した
入院した、というよりさせたんだけどね
精神的な方で具合悪くて3月半ばから休職中だがその直前に私の妊娠発覚
初めての妊娠で妊娠発覚時もまだ妊娠5週目だったので色々不安だったから家に居たのは嬉しかった
でも旦那の精神面はどんどん悪化していって入院直前にはもう目が離せない状態で毎日毎日怖かった
ある日、ろれつが回らない&ふらふらで家の中で何度も転倒という状態まで生じていたので診察日を待たずに主治医に電話した
主治医から折り返しの電話が来た時、ガタガタと震えながら状況を全て話した
次の日に緊急に診察時間をもうけてくれて、やっぱりふらふらしてる旦那を何とかタクシーに乗せて一緒に病院へ
わざわざ実家の父が心配して仕事を休んで遠方から駆けつけてくれて、旦那はその日のうちに入院になったけど父のお陰で入院のサインも必要な荷物や買い物もどうにか済ませられた
真っ昼間に出掛けたのに家に着いたのは夜の10時を過ぎてた
飼ってるウサギたちが心配そうに私を見ていたのでボロボロと泣きながら頭を撫でていた記憶がある
毎日独りで家事だけでなく入院に関わる色々な事をやっていて倒れそうだったが、旦那は面会に行く度に回復していったから嬉しかった
7月下旬から単独外出の許可が出て自宅にちょこちょこと戻って来ては家事の手伝いをしたりウサギたちの世話をして病院に戻って行っていた
割と元気になっていたので主治医も8月上旬に外泊の許可を出していて、今現在は毎週3泊4日の形で旦那が居てくれる
夜もすやすやと寝ていて朝もしっかり起きられる様になり、自分から家事をやったり私に散歩などの提案をしてくれたりで表情も本来のおだやかさが戻っている
旦那曰く、入院直前の頃の記憶が曖昧だそうで自分が死にたがっていた事も家の中で倒れたりしていたのも覚えていないそうだけどね
忘れもしない今年の5月18日。武蔵野赤十字病院、循環器科の医師から次のような宣告を受けた。「膵臓ガン末期、骨の随所に転移あり。余命長くて半年」妻と二人で聞いた。二人の腕だけでは受け止められないほど、唐突で理不尽な運命だった。普段から心底思ってはいた。「いつ死んでも仕方ない」とはいえあまりに突然だった。
確かに兆候はあったと言えるかもしれない。その2~3ヶ月前から背中の各所、脚の付け根などに強い痛みを感じ、右脚には力が入らなくなり、歩行にも大きく困難を生じ、鍼灸師やカイロプラクティックなどに通っていたのだが、改善されることはなく、MRIやPET-CTなどの精密機器で検査した結果、いきなりの余命宣告となった次第である。気がつけば死がすぐ背後にいたようなもので、私にはどうにも手の打ちようもなかったのだ。
宣告の後、生き延びるための方法を妻と模索してきた。それこそ必死だ。頼もしい友人や強力この上ない方の支援も得てきた。抗ガン剤は拒否し、世間一般とは少々異なる世界観を信じて生きようとした。「普通」を拒否するあたりが私らしくていいような気がした。どうせいつだって多数派に身の置き所なんかなかったように思う。医療についてだって同じだ。現代医療の主流派の裏にどんなカラクリがあるのかもあれこれ思い知った。「自分の選んだ世界観で生き延びてやろうじゃないか!」しかし。気力だけではままならないのは作品制作とご同様。病状は確実に進行する日々だった。
一方私だって一社会人として世間一般の世界観も、半分くらいは受け入れて生きている。ちゃんと税金だって払ってるんだから。立派には縁遠いが歴とした日本社会のフルメンバーの1人だ。だから生き延びるための私的世界観の準備とは別に、「ちゃんと死ぬための用意」にも手を回してきたつもりだ。全然ちゃんと出来なかったけど。その一つが、信頼のおける二人の友人に協力してもらい、今 敏の持つ儚いとはいえ著作権などの管理を任せる会社を作ること。もう一つは、たくさんはないが財産を円滑に家内に譲り渡せるように遺言書を作ることだった。無論遺産争いがこじれるようなことはないが、この世に残る妻の不安を一つでも取り除いてやりたいし、それがちょいと向こうに旅立つ私の安心に繋がるというもの。
手続きにまつわる、私や家内の苦手な事務処理や、下調べなどは素晴らしき友人の手によってスピーディに進めてもらった。後日、肺炎による危篤状態の中で、朦朧としつつ遺言書に最後のサインをしたときは、とりあえず、これで死ぬのも仕方ないと思ったくらいだった。「はぁ…やっと死ねる」なにしろ、その二日前に救急で武蔵野赤十字に運ばれ、一日おいてまた救急で同じ病院へ運ばれた。さすがにここで入院して細かい検査となったわけだ。結果は肺炎の併発、胸水も相当溜まっている。医師にはっきり聞いたところ、答えは大変事務的で、ある意味ありがたかった。「持って…一日二日……これを越えても今月いっぱいくらいでしょう」聞きながら「天気予報みたいだな」と思ったが事態は切迫していた。それが7月7日のこと。なかなか過酷な七夕だったことだよ。
ということで早速腹はきまった。私は自宅で死にたい。周囲の人間に対して最後の大迷惑になるかもしれないが、なんとしてでも自宅へ脱出する方法をあたってもらった。妻の頑張りと、病院のあきらめたかのような態度でありつつも実は実に助かる協力、外部医院の甚大な支援、そして多くの天恵としか思えぬ偶然の数々。あんなに上手く偶然や必然が隙間なくはまった様が現実にあるとは信じられないくらいだ。「東京ゴッドファーザーズ」じゃあるまいし。
妻が脱出の段取りに走り回る一方、私はと言えば、医師に対して「半日でも一日でも家にいられればまだ出来ることがあるんです!」と訴えた後は、陰気な病室で一人死を待ち受けていた。寂しくはあったが考えていたのはこんなこと。「死ぬってのも悪くないかもな」理由が特にあるわけもなく、そうとでも思わないといられなかったのかもしれないが、気持ちは自分でもびっくりするほど穏やかだった。ただ、一つだけどうしても気に入らない。「この場所で死ぬのだけは嫌だなぁ…」と、見ると壁のカレンダーから何か動き出して部屋に広がり始めるし。「やれやれ…カレンダーから行列とはな。私の幻覚はちっとも個性的じゃないなぁ」こんな時だって職業意識が働くものだと微笑ましく感じたが、全くこの時が一番死の世界に近寄っていたのかもしれない。本当に死を間近に感じた。死の世界とシーツにくるまれながら、多くの人の尽力のおかげで奇跡的に武蔵野赤十字を脱出して、自宅に辿り付いた。死ぬのもツライよ。断っておくが、別に武蔵野赤十字への批判や嫌悪はないので、誤解なきよう。ただ、私は自分の家に帰りたかっただけなのだ。私が暮らしているあの家へ。
少しばかり驚いたのは、自宅の茶の間に運びこまれるとき、臨死体験でおなじみの「高所から自分が部屋に運ばれる姿を見る」なんていうオマケがついたことだった。自分と自分を含む風景を、地上数メートルくらいからだろうか、ワイド気味のレンズで真俯瞰で見ていた。部屋中央のベッドの四角がやけに大きく印象的で、シーツにくるまれた自分がその四角に下ろされる。あんまり丁寧な感じじゃなかったが、文句は言うまい。
さて、あとは自宅で死を待つばかりのはずだった。ところが。肺炎の山を難なく越えてしまったらしい。ありゃ?ある意味、こう思った。「死にそびれたか(笑)」その後、死のことしか考えられなかった私は一度たしかに死んだように思う。朦朧とした意識の奥の方で「reborn」という言葉が何度か揺れた。不思議なことに、その翌日再び気力が再起動した。妻を始め、見舞いに来て気力を分け与えてくれた方々、応援してくれた友人、医師や看護師、ケアマネージャなど携わってくれている人すべてのおかげだと思う。本当に素直に心の底から。
生きる気力が再起動したからには、ぼんやりしているわけにはいかない。エクストラで与えられたような命だと肝に命じて、大事に使わねばならない。そこで現世に残した不義理を一つでも減らしたいと思った。実はガンのことはごくごく身の回りの人間にしか伝えていなかった。両親にも知らせていなかったくらいだ。特に仕事上においては色々なしがらみがあり、言うに言えなかった。インターネット上でガンの宣言をして、残りの人生を日々報告したい気持ちもあったのだが、今 敏の死が予定されることは、小さいとはいえ諸々影響が懸念されると思えたし、それがゆえに身近な知り合いにも不義理を重ねてしまっていた。まことに申し訳ない。
死ぬ前にせめて一度会って、一言でも挨拶したい人はたくさんいる。家族や親戚、古くは小中学校からの友人や高校の同級生、大学で知り合った仲間、漫画の世界で出会い多くの刺激を交換した人たち、アニメの世界で机を並べ、一緒に酒を飲み、同じ作品で腕前を刺激しあい、楽しみも苦しみも分け合った多くの仲間たち、監督という立場のおかげで知り会えた数知れないほどたくさんの人びと、日本のみならず世界各地でファンだといってくれる人たちにも出会うことが出来た。ウェブを通じて知り合った友人もいる。
出来れば一目会いたい人はたくさんいるが(会いたくないのもいるけれど)、会えば「この人ともう会えなくなるんだな」という思いばかりが溜まっていきそうで、上手く死を迎えられなくなってしまいそうな気がした。回復されたとはいえ私に残る気力はわずかで、会うにはよほどの覚悟がいる。会いたい人ほど会うのがつらい。皮肉な話だ。それに、骨への転移への影響で下半身が麻痺してほぼ寝たきりになり、痩せ細った姿を見られたくもなかった。多くの知り合いの中で元気な頃の今 敏を覚えていて欲しいと思った。病状を知らせなかった親戚、あらゆる友人、すべての知人の皆さん、この場を借りて不義理をお詫びします。でも、今 敏のわがままも理解してやっていただきたい。だって、「そういうやつ」だったでしょ、今 敏って。顔を思い出せば、いい思い出と笑顔が思い起こされます。みんな、本当にいい思い出をたくさんありがとう。自分の生きた世界を愛している。そう思えることそのものが幸せだ。
私の人生で出会った少なからぬ人たちは、肯定的否定的どちらであっても、やっぱり今 敏という人間の形成にはどこか必要だっただろうし、全ての出会いに感謝している。その結果が四十代半ばの早い死であったとしても、これはこれとして他ならぬ私の運命と受け止めている。いい思いだって随分させてもらったのだ。いま死について思うのはこういうこと。「残念としかいいようがないな」本当に。
しかし、多くの不義理は仕方ないと諦めるにせよ、私がどうしても気に病んで仕方なかったことがある。両親とマッドハウス丸山さんだ。今 敏の本当の親と、アニメ監督の親。遅くなったとはいえ、洗いざらい本当のことを告げる以外にない。許しを乞いたいような気持ちだった。
自宅に見舞いに来てくれた丸山さんの顔を見た途端、流れ出る涙と情けない気持ちが止めどなかった。「すいません、こんな姿になってしまいました…」丸山さんは何も言わず、顔を振り両手を握ってくれた。感謝の気持ちでいっぱいになった。怒涛のように、この人と仕事が出来たことへの感謝なんて言葉ではいえないほどの歓喜が押し寄せた。大袈裟な表現に聞こえるかもしれないが、そうとしか言いようがない。勝手かもしれないが一挙に赦された思いがした。
一番の心残りは映画「夢みる機械」のことだ。映画そのものも勿論、参加してくれているスタッフのことも気がかりで仕方ない。だって、下手をすればこれまでに血道をあげて描いて来たカットたちが誰の目にも触れない可能性が十分以上にあるのだ。何せ今 敏が原作、脚本、キャラクターと世界観設定、絵コンテ、音楽イメージ…ありとあらゆるイメージソースを抱え込んでいるのだ。もちろん、作画監督、美術監督はじめ、多くのスタッフと共有していることもたくさんあるが、基本的には今 敏でなければ分からない、作れないことばかりの内容だ。そう仕向けたのは私の責任と言われればそれまでだが、私の方から世界観を共有するために少なからぬ努力はして来たつもりだ。だが、こうとなっては不徳のいたすところだけが骨に響いて軋んだ痛みを上げる。スタッフのみんなにはまことに申し訳ないと思う。けれど少しは理解もしてやって欲しい。だって、今 敏って「そういうやつ」で、だからこそ多少なりとも他とはちょっと違うヘンナモノを凝縮したアニメを作り得てきたとも言えるんだから。かなり傲慢な物言いかもしれないが、ガンに免じて許してやってくれ。
私も漫然と死を待っていたわけでなく、今 敏亡き後も何とか作品が存続するべく、ない頭を捻って来た。しかしそれも浅知恵。丸山さんに「夢みる機械」の懸念を伝えると、「大丈夫。なんとでもするから心配ない」とのこと。泣けた。もう号泣。これまでの映画制作においても予算においても不義理ばかり重ねて来て、でも結局はいつだって丸山さんに何とかしてもらって来た。今回も同じだ。私も進歩がない。丸山さんとはたっぷり話をする時間が持てた。おかげで、今 敏の才能や技術がいまの業界においてかなり貴重なものであることを少しだけ実感させてもらった。才能が惜しい。何とかおいていってもらいたい。何しろザ・マッドハウス丸山さんが仰るのだから多少の自信を土産に冥途に行けるというものだ。確かに他人に言われるまでもなく、変な発想や細かい描写の技術がこのまま失われるのは単純に勿体ないと思うが、いた仕方ない。それらを世間に出す機会を与えてくれた丸山さんには心から感謝している。本当ににありがとうございました。今 敏はアニメーション監督としても幸せ者でした。
両親に告げるのは本当に切なかった。本当なら、まだ身体の自由がきくうちに札幌に住む両親にガンの報告に行くつもりだったが、病気の進行は悔しいほど韋駄天で、結局、死に一番近づいた病室から唐突極まりない電話をすることになってしまった。「オレ、膵臓ガン末期でもうすぐ死ぬから。お父さんとお母さんの子供に生まれて来て本当に良かった。ありがとう」突然聞かされた方は溜まったものではないだろうが、何せその時はもう死ぬという予感に包まれていたのだ。
それが自宅に帰り、肺炎の危篤を何とか越えて来た頃。一大決心をして親に会うことにした。両親だって会いたがっていた。しかし会えば辛いし、会う気力もなかったのだが、どうしても一目親の顔を見たくなった。直接、この世に産んでもらった感謝を伝えたかった。私は本当に幸せだった。ちょっと他の人より生き急いでしまったのは、妻にも両親にも、私が好きな人たちみんなに申し訳ないけれど。私のわがままにすぐ対応してくれて、翌日には札幌から両親が自宅についた。寝たきりとなった私を一目見るなり母が言った言葉が忘れられない。「ごめんねぇ!丈夫に産んでやれなくて!」何も言えなかった。
両親とは短い間しか過ごさなかったが、それで十分だった。顔を見れば、それですべてわかるような気がしたし、実際そうだった。
ありがとう、お父さん、お母さん。二人の間の子供としてこの世に生を受けたことが何よりの幸せでした。数えきれないほどの思い出と感謝で胸がいっぱいになります。幸せそのものも大事だけれど、幸せを感じる力を育ててもらったことに感謝してもしきれません。本当にありがとうございました。
親に先立つのはあまりに親不孝だが、この十数年の間、アニメーション監督として自分の好きに腕を振るい、目標を達成し、評価もそれなりに得た。あまり売れなかったのはちょいと残念だが、分相応だと思っている。特にこの十数年、他人の何倍かの密度で生きていたように思うし、両親も私の胸のうちを分かってくれていたことだろう。
両親と丸山さんに直接話が出来たことで、肩の荷が下りたように思う。
最後に、誰よりも気がかりで、けれど最後まで頼りになってくれた妻へ。あの余命宣告以来何度も二人で涙にくれた。お互い、身体的にも精神的にも過酷な毎日だった。言葉にすることなんて出来ないくらい。でも、そんなしんどくも切ない日々を何とか越えて来られたのは、あの宣告後すぐに言ってくれた力強い言葉のおかげだと私は思っている。「私、最後までちゃんと伴走するからね」その言葉の通り、私の心配など追い越すかのように、怒濤のごとく押し寄せるあちらこちらからの要求や請求を交通整理し、亭主の介護を見よう見まねですぐに覚え、テキパキとこなす姿に私は感動を覚えた。「私の妻はすごいぞ」今さらながら言うな?って。いやいや、今まで思っていた以上なんだと実感した次第だ。私が死んだ後も、きっと上手いこと今 敏を送り出してくれると信じている。思い起こせば、結婚以来「仕事仕事」の毎日で、自宅でゆっくり出来る時間が出来たと思えばガンだった、ではあんまりだ。けれど、仕事に没頭する人であること、そこに才能があることを間近にいてよく理解してくれていたね。私は幸せだったよ、本当に。生きることについても死を迎えるにあたっても、どれほど感謝してもしきれない。ありがとう。
気がかりなことはもちろんまだまだあるが、数え上げればキリがない。物事にも終わりが必要だ。最後に、今どきはなかなか受け入れてもらいにくいであろう、自宅での終末ケアを引き受けてくれた主治医のH先生、そしてその奥様で看護師のKさんに深い感謝の気持ちをお伝えしたい。自宅という医療には不便きわまりない状況のなか、ガンの疼痛をあれやこれやの方法で粘り強く取り除いていただき、死というゴールまでの間を少しでも快適に過ごせるようご尽力いただき、どれほど助けられたことでしょう。しかも、ただでさえ面倒くさく図体と態度の大きな患者に、単なる仕事の枠組みをはるかに越え、何より人間的に接していただいたことにどれほど私たち夫婦が支えられ、救われたか分かりません。先生方御夫婦のお人柄にも励まされることも多々ありました。深く深く感謝いたしております。
そして、いよいよ最後になりますが、5月半ばに余命宣告を受けてすぐの頃から、公私に渡って尋常ではないほどの協力と尽力、精神的な支えにもなってくれた二人の友人。株式会社KON’STONEのメンバーでもある高校時代からの友人Tと、プロデューサーHに心からの感謝を送ります。本当にありがとう。私の貧相なボキャブラリーから、適切な感謝の言葉を探すのも難しいほど、夫婦揃って世話になった。 2人がいなければ死はもっとつらい形で私や、そばで看取る家内を呑み込んでいたことでしょう。何から何まで、本当に世話になった。で。世話になりついでですまんのだが、死んだあとの送り出しまで、家内に協力してやってくれぬか。そうすりゃ、私も安心してフライトに乗れる。心から頼む。
さて、ここまで長々とこの文章におつき合いしてくれた皆さん、どうもありがとう。世界中に存する善きものすべてに感謝したい気持ちと共に、筆をおくことにしよう。
じゃ、お先に。
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http://konstone.s-kon.net/modules/notebook/archives/565
無断転載しました。ごめんなさい。
元々、いろいろあって精神的にダメージ受けてたんだけど、会社で仕事が評価されなくて病院送り.
主治医もカウンセラーも匙を投げた状態で、入院薦められたけど入ってない.
で、なんで増田でつぶやいてるかっていうと、大波が来たから.
あの日が来る度に不安定になり、突然怒りだす.
そして、本心ではないことばかりを言い出し、別れ話を切り出す.
もちろん目の前でも何度かやらかしている.
おかげで精神的にかなりタフだと自負してたけど、最近医者にIBSだと診断された.
彼女の事は大好きだし、普段の彼女も私のことを大好きだと言ってくれる.
でも、こんな状況なので私の親は許してくれるはずもなく.
どうしろってのさ.
ワイドショーのレポーターがコミケの会場で「ここに十万人の宮崎勤がいます!」と言ったか言わなかったかの問題について。
89年8/10(木)の逮捕、コミックマーケット36(8/12土~8/13日)、明けて月曜からの新聞テレビ欄キャプションを書き出してみた。
出典は朝日新聞縮刷版。(訂正:逮捕は7/23、別の猥褻事件です。8/10は被害者の遺体の一部が発見された日です20:39/8/6)
8/14(月)午前
日テレ | ルックルック | 「検証!!幼女殺人犯の異常と凶悪の正体!!真理ちゃん事件と宮崎は無関係か」 |
TBS | モーニングEYE | 「殺人鬼宮崎・徹底解剖 新証言!盗撮写真誌への投稿と異常幼女性愛」 |
フジ | おはよう!ナイスデイ | 「特集!宮崎勤の自供を徹底追跡・ほかの子も殺害?▽結婚認めて!ピン子涙の訴え」 |
朝日 | 内田モーニングショー | 「猟奇!!頭骨と一ヶ月!!宮崎、遺体に異常執着▽朗読劇で原爆の悲惨」 |
8/14午後
日テレ | スクランブル3 | 「宮崎〝今田勇子〟との関連」 |
TBS | 3時にあいましょう | 「狂気!綾子ちゃん殺害 宮崎の犯行を徹底検証」 |
フジ | タイム3 | 「殺人犯宮崎の狂気の正体!追跡幼女殺人の点と線」 |
朝日 | こんにちは2時 | 「遺体に執着!!狂気宮崎勤の孤独な世界」 |
8/15(火)午前
日テレ | ルックルック | 「聖子極秘帰国…明菜とは関係ない▽娘に口止め!妻が夫を絞殺▽晩ごはん」 |
TBS | モーニングEYE | 「悲劇・妻子5人惨殺▽マッチ激白・聖子帰国▽綾子ちゃん事件詳報」 |
フジ | おはよう!ナイスデイ | 「犯人宮崎の異常な執着▽娘も目撃!夫を殺害し葬儀に参列した妻の演技▽聖子帰国」 |
朝日 | 内田モーニングショー | 「'89夏沖縄・激戦の壕で一枚の手鏡が語る惨!元兵士が44年ぶり再訪」 |
8/15午後
日テレ | スクランブル3 | 「犯人宮崎のゆがんだ性癖」 |
TBS | 3時にあいましょう | 「幼女殺人宮崎の行動と心理▽マッチ久々発言」 |
フジ | タイム3 | 「新証言、宮崎に酷似した男が幼女を誘う現場目撃」 |
朝日 | こんにちは2時 | 「テレビ出演していた宮崎勤友人が証言」 |
8/16(水)午前
日テレ | ルックルック | 「「ドキュメント女ののど自慢」女性議員大会▽政治も歌もヤルッきゃない!」 |
TBS | モーニングEYE | 「幼女連続殺人犯宮崎を徹底解剖・その残虐性に秘められた倒錯世界」 |
フジ | おはよう!ナイスデイ | 「殺害目的で幼女誘拐?宮崎勤凶悪犯の素顔とコミック誌で作られた虚像・今田勇子」 |
朝日 | 内田モーニングショー | 「宮崎26歳の日常と狂気▽高級婦人服の大社長水泳で人名救助80人!」 |
8/16午後
日テレ | スクランブル3 | 「宮崎の残虐犯行を徹底検証」 |
TBS | 3時にあいましょう | 「幼女殺人鬼!宮崎勤の仮面に隠された異常性」 |
フジ | タイム3 | 「ゆるせない!連続幼女殺人宮崎これだけのウソ」 |
朝日 | こんにちは2時 | 「狂気宮崎勤・親子関係と倒錯性に迫る」 |
8/17(木)午前
日テレ | ルックルック | 「宮崎がTV番組に出ていた!父母が衝撃発言!異常性愛への道▽動物特集」 |
TBS | モーニングEYE | 「やすしまたも暴行事件▽マッチ男の決意激白▽虐殺魔宮崎に新証言」 |
フジ | おはよう!ナイスデイ | 「主治医が明かす明菜の病状▽親類が語る宮崎の素顔▽バラバラ死体と7年間同居!」 |
朝日 | 内田モーニングショー | 「'89夏沖縄・激戦の壕で一枚の手鏡が語る惨!元兵士が44年ぶり再訪」 |
8/17午後
日テレ | スクランブル3 | 「やすし暴行?▽今田勇子」 |
TBS | 3時にあいましょう | 「宮崎予備軍は増えるか 残虐!!幼女殺害の背景」 |
フジ | タイム3 | 「やすしまたトラブル▽宮崎が見た残虐ビデオ実態」 |
朝日 | こんにちは2時 | 「続報幼女誘拐殺人▽ひばり私の思い出」 |
8/18(金)午前
日テレ | ルックルック | 「聖子が涙の抗議!離婚はしません、明菜とも無関係▽宮崎のアジト大捜索」 |
TBS | モーニングEYE | 「聖子全告白!気になるマッチとの仲▽イタコが呼んだひばりの霊ほか」 |
フジ | おはよう!ナイスデイ | 「詳報!聖子、明菜事件離婚問題で真相全告白!▽宮崎勤・幼女三遺体への異常な執着」 |
朝日 | 内田モーニングショー | 「渦中聖子梨元に告白!!▽加藤康一がんと闘う▽続報!!幼女連続殺人」 |
8/18午後
日テレ | スクランブル3 | 「研ナオコ愛娘▽聖子会見!!」 |
TBS | 3時にあいましょう | 「聖子心境告白!!マッチの仲は▽続報幼女殺害」 |
フジ | タイム3 | 「聖子初告白 明菜事件と離婚問題▽研ママ愛娘披露」 |
朝日 | こんにちは2時 | 「聖子明菜問題語る▽研ナオコ愛児披露」 |
・どの局も同じ時間帯(午前8時半と午後3時)に一斉に放送を始める。例外は朝日の「こんにちは2時」のみ。事件に関心を持った人間がすべての番組内容を把握しようとしても、ザッピングで細切れに視聴する羽目になる。これが番組名やレポーターが誰だったかの記憶が定まらない原因の一つじゃないかと思った。
・気になるのは17日放送の TBS3時にあいましょう「宮崎予備軍は増えるか 残虐!!幼女殺害の背景」。どうもこれがくさいな。
・やっさんとか、マッチとか聖子とか明菜とか・・・時代やのう。
・はてな記法の使い方がよく解らん・・・。