はてなキーワード: 主治医とは
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クローズドβリリース直前、テスト佳境のただ中、ついに倒れてしまった。大失態だ。おそらく朦朧としているところを、他の大勢にも見られている。
政治層でいうと、楽観的な見通しを持つボスと、コンプライアンスを第一に考える人事部との軋轢に巻き込まれている。そもそも前者には俺の危機感と重圧は全く伝わっておらず、後者はともかく(社会的に)穏当な状況を作って事を終わらせようとしている。どちらも現実を直視してはいない。
ボスからは「引き継ぎにどのくらい掛かるか」を聞かれた。実にバカなことを聞く。そもそも引き継げる人材など、いるはずもないのに(詳細は前回を参照)。加えてこのプロジェクトは、プロジェクトメンバー以外の全員から嫌われている。おそらく手を挙げる人間もいないし、押しつけようとしても退職などして、どうあっても逃げ出すだろう。プロジェクトメンバーにはある程度信頼をもたれている(俺が120%頑張ることを前提として)のが不幸中の幸いと言える。
ともかく、現状のプロジェクトメンバーに引き継げる業務の内容と量ではない。ともかくも、ドキュメントを整備して、引き継ぎ事項をまとめるのにおおむね1ヶ月、と答えた。まあ、本来ならば半分で済むのだが、現状の俺のパフォーマンスを考えれば、倍の時間でも厳しいだろう。
「そんなに掛かるわけないだろう」
とボスは笑って応じた。「完璧に引き継がなくてもいい。適当でいいんだ」とも言った。
バカな。今まで我々が手がけたプロジェクトが次々と火を噴き、主要メンバーが過労死ラインを越えている理由が分からないのか。ドキュメントの不備と適当な引き継ぎによる現場からの無理矢理の引きはがしだ。あれだけ痛い目を見たのに、ボスはもう一度それを繰り返せと言う。こんな楽観論が戦場でまかり通っている限り、この戦争には確実に負ける。そう思った。
引き継ぎ先についても
「今のプロジェクトメンバー、早く帰りすぎだよね。まだ頑張れるよ」
と抜かした。過労死ラインを越えさせず、きちんと休みを取らせる人的マネジメントを俺と相方でやってきた。それを根本から否定されたわけだ。結局のところ、このボスはマネジメントというものを根本から理解していないのだろう。いや、俺にも出来ているかどうかは相当怪しいが、やってはいけないこととやってもいいことくらいは分かっているつもりだ。
人事屋は主治医と面会したいといっている。まあ、妥当な要求だ。これは俺も飲むつもりである。ただ、腹にどういう考えを持っているのかは分からない。何せ、人事屋とは職務上あまり接してきていないのだ。まあ、おおむね俺の状況を確認し、適切な処置を行ったというアリバイを作りたいのだろう。
そして、ボスと人事屋の見解は、おおむね異なっている。というより、人事屋はボスの「やっつけ感」に対して不審を持っているようだ。俺が人事屋でもそう思うだろう。そして、その駆け引きの道具と化したのが俺である。ちなみに大リストラを敢行し俺を窮地に陥れたのはこの人事屋の仕事によるところも大きい。そう思うと、彼が味方であるとは全く思えないわけだ。
政治層の話はどうせまた変わるし、社会ではよくある光景でもあるからこのくらいにしておく。なんとなくこの先、大ボス登場の予感もあったりするし。
振り返って、自分。今回倒れた原因は、ひとつはクスリを飲む時間の調整を間違えたことに起因している。実際、あのタイミングで服用していなければ今日一日くらいは持っただろう。もう一つは、過剰に体調を整えようと早朝出勤を繰り返したツケ、であろうか。何せ外のコンディションが悪い。暑くなる前に出社しないと、出勤だけでほぼダウンしてしまう程度には体力がなくなっている。とはいえ始発で出勤はやり過ぎだった。
今回の事案で、仕事の進捗にも多少問題が発生するが、メンバーに不安が波及するほうが問題だ。今まで自分がこれだけ心身ぶっ壊れていることを告げないようにしていたのだ。他の増田に「パニックは波及する」と指摘されていたが、確かにその通り。このプロジェクトは「俺が全ての元凶です」とことあるごとにネタにする程度には、俺を信頼して仕事を進めてくれている人たちで構成されている。できれば、隠し通しておきたかった。
では、俺が仮にquitするとなると、どうなるのか。信頼すべき「灯台」となる人間がいなくなってしまうわけだ。そんなプロジェクト、続けていられるだろうか。少なくとも迷走はするだろう。頭の中には最悪のシナリオが常に浮かんでいる。
友人にもこの話をしたが、冷たく「どうせ他人は他人なんだから、そんな面倒見なくていいよ。行方不明にでも何でもなっちまえよ」と言われた。人事屋にも「会社というのはそういうときの人を守るための組織ですから、他の人の心配はしなくともいいですよ」と言っていた。なお、繰り返し書いておくと、この人事屋がリストラを実施し、俺たちの必死の抵抗むなしく部下や同僚を退職に追い込んだのである。
義理と仁義、人情で仕事を進めるのが信条の俺(師匠筋がそうだったから)にとって、こういうやり方は正直受け入れがたい。できることなら、俺を信頼してくれているメンバーが笑って暮らしていけるように道筋を整えておいてやりたい。今までダメだったやり方を全て教えて、同じ轍を踏ませないようにしたい。…そんなことを思えるくらいには、自分にはまだ余裕があるのだな、という気もしている。まだ、なにかできることがあるはずだ。それを考えながら、おしまいの日(何のおしまいなのかはまだ見えていないが)を数え待つことにしよう。
余談。テスト工程短くね、というマジレスくれた増田へ。ある意味でいうとその通りで、テストはちょっと足らない。ただ、そんなに不安視はしていなくて、それは開発時の工夫だったり、準備に相当時間かけてたり(途中準備しか出来ない時期があった副産物)した結果、ちょっとだけ足らない状況で済んでいるって感じ。実はそこは余り心配していなかったりする。あと、俺らの業界だとテストすっ飛ばすのも日常だったりするので(よくないです!)、これだけテストしてるってのは、ボスとかから言わせると「余裕あるじゃん」ということ、らしい。
それから、スケジュールと主要機能定義はもうどうしようもなく動かせない状態で存在しており、これを動かすとなると、俺やボスレベルでは対処できる政治層の問題ではなくなる、というのがもっとも恐ろしいアレなわけで…。
仕事で。
ナースでぇーす☆命救ってまぁーす☆
って昨日の合コンで言って、「実演!」なんつって脈を測るふりして手を握ったりして、
すごい楽しかったその翌日に、真顔でここにいて、本気で脈を測っている。
その脈はとても規則正しく、きれいに打っているけど、
目の前の人は、目も開けない。いや、たまに半目。なんの意識もない。
何も喋んない。何も食べない。自分で息すらできてない。
人工呼吸器の一定の吸気排気のリズムと、心電図モニターの音と、たくさんの点滴がぐるぐると彼を囲んでいる。
その人は、私の彼氏でもなければ、親御でもない。ただの一期一会。私はこの人を知らない。
ある日、玄関で倒れた。脳出血だったみたい。
1人暮らしで、家族はいなかった。地方から1人出てきて、兄弟からも絶縁されていた。
色々な機関をあたって、やっと連絡先を見つけて連絡を取った家族は
「いやぁ~あの~」を100回くらい要所に挟みながらも、
つまりは「死んだら、連絡ください」
ということを言った。
可哀そうとは、思わなくなってしまった。もう。
人生のその瞬間だけを見て、ドラマのように「ひどい、可哀そう」とは思わなくなってしまった。
本当に色々な人生が人にはあって。
長い長い色んな積み重ねの中で今、その言葉があるってことを、いっぱい見てきた。
仕方ない。
脈は正常。
呼吸は一定。
でも植物状態。
生きてても、死んでても、なんでもいい人。
主治医の興味はどんどん薄れて、そっと、その人は、そこにいるだけの人になった。
愛されて愛されて、抱きしめられて、見舞いも何人もくる患者さんの横で、
静かに、ピッ・・・ピッ・・・と彼の心電図モニターの音が響いていた。
この人は、生きているのだろうか。
この人は、死んでいるんじゃないか?
もうほとんど死んでいるんじゃないか?
脳死とかドナーとか命のリレーとか、そういうの見聞きするたびに、
私は見失う。
命ってのは何で、臓器ってのは何で、この人は何で。
血圧が少し、安定しない夜があった。
私は医師に報告した。
血圧を上げる薬も、下げる薬も、たくさんあった。
でも医師は、「んー」を何度も繰り返し、私を静かに諭すように、
「自然に看取ってあげよう」と言った。
死っていうのはさぁ~
医療の敗亡じゃないんだよぉ~
むしろね、むやみに色々やることのほうが~
人間らしさを奪う行為にぃ~
「美しい」と思う。そういうのって。
美しいし、わかりやすいし、とても満ちているって思う。言葉で聞くと。文で読んでも。
人間らしくないよね。機械につながれて、点滴チューブに囲まれて、ただ延命されてる。
しかも誰一人、「この人を助けて」って人もいないわけで。
うん。
うん。
うん。
先輩にそう伝えると、「うん・・・」
後輩にそう伝えると、「はい・・・」
私たちは、そうして、彼のカルテを閉じた。
その日、たまたま飲みに行って、うまいうまい言って煮物を頬張りながら、
全然違う話をしてたのに後輩が、
「でも、なんか今日、いつもより顔色良かったですよね」
と、言った。
「あの人さー、髭はえる速度、超はやくないー?
私、朝そったのに、夜もうボーボーだったんだけどー」
と先輩がクスクス笑った。
手を、彼の手を、握ったことがない看護師はいない。
毎日、毎勤務、私たちは欠かさず、彼の手を取り脈を測る。
彼の名前を耳元で呼び掛ける。
体を吹く。
腕を取り、足を抱えて、抱きしめるかのように、体位をかえる。
毎日毎日熱を測って、熱のある日には氷枕を、熱が下がればそれを枕に。
汗をかけば、タオルでふいて、髭をそる。爪を切る。
そんな中で、「あれ?今日、顔色いいな」って日がある。
「あれ、今日苦しそうだな」って日もある。
毎日、毎時間、違う。
脈も血圧もタンの量も、すこしずつ違う今日がある。
どんだけ機械に囲まれようとも、管に絡まれようとも、
この人を、人間らしくないなんて思えたこと一度もない。
わかっていても、目の当たりにすると脳死は人の死だなんて思えない。
生きているとしか思えない。
意識がないことなんてちっぽけなことなくらい、
今ここにある命が圧倒的すぎて、
命すげぇーって思って、
死んでく人もたくさんみるからこそ、
もう生きてると死んでるじゃ、全然違って、
「人として生きてるとは言えない」って言葉が薄っぺらに感じるくらい、
ただもう、ただもう、命があるってことがすごい。問答無用に。命がすごい。
学生の頃は「病院で死ぬということ」を読んで感銘を受けて、
人間らしく生きるとは~!なんて必死だったけど、
法律とか、もう色々あるんでしょうけど、
その時代時代の雰囲気で変わるものの上に乗せてしまっていいのかと思うくらい、
今、現場で、毎日見つめる命というものは、すごい。すごすぎる。
脳死という問題があり。延命という問題がある。臓器という問題もそこをウロウロしている。
命のリレーと言われたり、死待ちの医療と言われたり、枯れ木に水と言われたり。
でも、今、その命の目の前に立ったとき、何も正解を言えない自分がいる。
レスをどうもありがとう。
「CPU」が早いおかげで元々できる子のように思われるけど、決まり事を「インストール」したり試行錯誤するのにどれだけ努力してきたかってのが分かってもらえないのがいちばん辛い。
うちの子も、新しいことを身につけるのにとても時間がかかる。
「分数の割り算は、学校で学ぶのは、たぶん3回目ぐらいです。その前に家で2回ぐらいやっています」
と言ったら、「そこまでやらなくても」と前の担任には驚かれた。
一旦、身につければ忘れないが、そこまで行くのに人の何倍も時間がかかるところは、本当に理解されない点だ。
「この間やったばかりなのに、なんでできないのか」
と何度も厳しく叱ってしまって、本当に申し訳ないことをしたと思っている。
主治医がいる病院は、都内で、発達障害がある成人のための就労支援デイケアをやっているので、検索すると出てくると思う。
親身になって、話を聞いてもらえて、やっと希望がわいてきた。
アドバイスをいろいろとありがとう。
自分からは気付くことができないので、もう大きくなったら、私の方から提案をしてみるつもりだ。
本当に、どうもありがとう。助かりました。
レスをどうもありがとう。
なぜ、見直しをあれほど嫌がるのか、少しわかった気がする。
瞬間、瞬間の判断はすばやいし、的確だが、その判断自体をよく忘れる。
「すぐ、やれ」 「言ったら、やれ」 「メモしておけ」とよく言っているんだが、
メモ自体をなくすし、そもそもメモしたこと自体を忘れている。。
なので、大変だとは思うが、家を出る前に火の始末や戸締りぐらいは、きちんと身につけるように。
これを当面の目標にしてみようと思っている。
成功体験を積む(自身の価値観を構築するための土台を形成する)
得意分野を伸ばす(土台の上に価値観を構築する)
これが重要だと思います。
どちらも、主治医にも言われたことにかぶっているのに、驚いた。
主治医いわく、、世界に自分を合わせるのが下手な人たちなので、
そのためには、試行錯誤をしながら、成功体験を重ねて行くしかないそうだ。
「やりたくないことを、我慢してやらせてもダメなので、他のやり方を考えるしかない」
というわけで、毎日、試行錯誤している。
なので、国語がダメでも、その分、他の教科のできの良さをほめようと、心がけている。
自分が好きなことについては、熱中できるし、かなりの成果を上げるときもあるので、
また、得意な分野ができれば、その分野での友人も増えるのではないかと言われた。
学校でいじめにあっても、どこか他のコミュニティで居場所があれば、辛くないしとも言われた。
なので、いろいろな場所で楽しい思いをできるように、心を砕いているつもりだ。
主治医いわく、あの子は表面上は悪口にも意地悪にも傷ついていないように見えるが、実は、とても深く傷ついているかもしれない。
しかし、どう表現をしていいのか。または、それがどういう感情なのかが、理解できていないのかもしれない。
あの子はこちら側の心の動きを理解するのが苦手だが、私たちはあの子がなにを考えているのか、まだよくわからない。
なので、とても助かった。
本当にありがとう。
これを見つけるまでの、あなたの苦労や心労を思うと、本当にありがたいアドバイスだ。
ありがとう。
反応ありがとう。
療育サービスや親の会に参加しても、同じような子が少ないので、とても参考になる。
このレベルの子は、恐らくは何となく修正されるか、自分なりの工夫で、切り抜けていくかもしれない。
主治医も、特別支援校を変えたところで、好転はしないだろうとみている。
うちの子は、算数の問題を解くのは早いが、見直すということができないので、計算ミスで点数を落としている。
時間が30分余ろうが、見直さない。
というところで、先生の怒りをかうわけだ。「なぜ、見直しをしないのか」と。
また、論理問題は得意だが、国語の感情を読み取る文章題はさっぱり理解できないらしい。
先生からすると、「まじめにやれ」ということらしく。
親から見ると、解けない問題は、こういう理由で解けないんだとわかるんだが。そばについて教えるわけにもいかないし。
とりあえず、今年になって先生が代わって、事情を丁寧に説明してからは、むやみに怒られなくはなった。
彼が、怒りを爆発させたり、教室から逃げだしたときは、自分が感じているものを説明できなかったときらしい。
なにが怒りを誘発したポイントなのかは、常識的に考えるとどうでもいいことなんだが。
また、逃げ出したときは、周囲のうるささと、自分に向けられた注意なのか、質問なのか、わからないんだが、それに対応できなかったようだ。
親としてはどうにか社会の中で生きていって欲しいと思うが、どうやって折り合いをつけさせたらいいのやら、悩む。
彼の悩みはいろいろあるのだが、彼は表現が下手で、こちらには伝わらない。
また、こっちも察することができないような悩みも多いので。
なので、大きくなった子たちが、どういう選択をして、どういう点で苦しんだか、教えてもらえると助かる。
ありがとう。
http://anond.hatelabo.jp/20100611110402
を投稿した増田です。
もう少し、つっこんだ話してもいいでしょうか。いただいたアドバイスを受けての話ではないので、大変申し訳ありませんが…
全てを職場環境が悪かったせいにするつもりはありませんが、精神科医療にいろいろ割り切れないところが多かったのは事実です。例えば、主治医の許可無しでは薬情を渡してはいけないとか。薬情無しで服薬指導ですよ。自分が飲んでる薬に興味を示さない患者も多かったけれど(統合失調症の方とか)、少しも理解をしていない人に精神科薬を何十種類も服用させるのです。精神科医療ではそれが普通でまかり通っているのかもしれませんが、最後まで違和感ぬぐえませんでした。薬の知識を増やしていくのは単純におもしろかったのですけどね。
あと、調剤・分封の衛生管理も非常に劣悪でした。分割調剤とか、ただでさえ錠剤にベタベタ手あかつけて不潔なのに、落とした場所が床以外だったら拾って使用したりしてました。薬剤部全体が「自分が飲まないんだからべつにいいや」という感覚でやっていたと思います。これはどの薬局にも共通していることかもしれませんが。まあとにかく嫌でした。
具体的なご提案ありがとうございます。
薬剤師については否定的な見方(コンビニ店員と同じ・法律に守られているだけの無意味な職業→不要)しかできなかったので、とても新鮮でした。
こういう見方で、自分の首を絞めていたのだとも言えます。
結局は周りどうこう職場どうこうではなく、私個人の問題なのでしょう。
資格そのままでいくかどうか、もう少し考えてみます。
http://news.livedoor.com/article/detail/4757321/
がんの一種・子宮肉腫で死亡した慶応大病院(東京都新宿区)の女性患者(当時26歳)の両親が「誤診が原因」として大学側に賠償を求めた訴訟で、診断した同大医学部の向井万起男准教授が「妻がこの病気になれば子宮を取る」と遺族に説明していたことが7日分かった。向井氏と担当医は「良性の偽肉腫」と判断して女性の子宮を摘出しておらず、両親側は向井氏の発言を「摘出の治療方針を決める義務を(分かっていながら)怠った証拠だ」と主張している。同日に千葉地裁松戸支部(森邦明裁判長)であった第2回口頭弁論で、両親側は発言を引用した準備書面を提出。
まず年齢がポイント。女性の場合、子供が産めるか埋めないか(本人が希望するかどうか)で治療方針は大きく異なる。向井千秋さんはもう恐らく子供産む意思はないだろう。
26歳の女性は、医師の強い勧めにも関わらず、子宮の温存的治療を強く望んだ可能性がある。その場合、現代の医療では、絶対に患者の意思を無視することはできない。それこそ訴訟になるし。
そもそも病理診断は絶対ではない。一流の病理医が自信を持って診断しても、死後解剖で「およそ8割正しければ超一流」といわれるほどの世界。医療崩壊論ではなんども言われていることだろうけど、「結果だけで判断されるようになると、医療はあっという間に崩壊する」。
医師は、常に不確実性と闘いながら、なおかつ近年のIC重視の流れの中で,患者の意思を最大限に尊重しながら、方針を決めていく。死後「癌だった」ことが分かった→「じゃぁなんで癌の治療しなかったんだ」→「医療ミス」って論理の飛躍が激しすぎるだろ。診断・治療は統計的事実にのっとり行われる。確実絶対ご安心、ニコニコ病院なんて世界中のどこにもありえないんだよ。
なんどでも言うが、結果だけを求められると、医療はすぐにでも崩壊する。
両親側の書面や弁護士によると、女性死亡から約2年後の06年11月7日、病院側は遺族を呼び説明会を開いた。向井氏は治療経過を説明する中で「私、女房(向井千秋・宇宙飛行士)がこの病気になったら子宮を取っちゃいます。まず、子どもをあきらめちゃう」と述べた。
多少軽率にも感じるが、向井医師の発言は当然と言えば当然。乳がんでの乳房除去と違い、出産適齢期を超えた女性では、子宮摘出に関しての躊躇は(ないとは言えないが)大きくはないだろう。
双方の書面では病理診断部長の向井氏を巡り、病院側が「病理医であり、治療方針を決める主治医ではない」として、そもそも方針決定の義務がないと主張。両親側は「地位・年齢が(助手だった担当医よりも)上の向井氏が実質的に決定権を掌握していたとみられる」と指摘する。
ここの両親側の指摘にはポカーンとしてしまった。一体お前は何を(ry
病理医の意見は最大限尊重されるし、病院によってどの程度の権力を握っているのかは異なるけれど、決定権を決定的に掌握しているのは主治医ですから。チーム医療が進もうがどうであろうが、これは絶対的に変わらない。
また、病院側は書面で「転移は全く見られず悪性(子宮肉腫)を疑わせる事情はなかった」とし、死亡は「全く予想外」と反論している。【西浦久雄】
向井先生が有名であるが故にたまたまニュースになってるだけで、こんな話日本中にゴロゴロ転がってるんだよ。医療に幻想を抱き、結果だけを求める国民と、それを煽るマスコミが癌であることは間違いないけれど、家族を失う悲しみ、悔しさを怒りにすり替えて医療側を叩くのは、もういい加減やめにしよう、ホント・・・
母が入院した。83歳で救急車で運ばれたのだから、もう、いよいよかと親戚に連絡を回しまくった。これがいかんかった。
母には10歳年下の妹がいる。妹だからか気軽にこき使ってる。突然電話して「明日、草むしりに来られない?」って調子だ。そんなことは私に言えばやるのだが、母は何かと非効率的なので、まともに言うことを聞いていたら、何日かかっても終わらない。段取りを組んで3時間程度で終わらせようとすると「そんな乱暴なやり方じゃだめだ」(実際には、母のほうがはるかに乱暴だ)と難癖つけてくるので、ついつい腰が重くなり、「妹なら、私が言った通りにやってくれるから、妹にやらせる。もういい」と頼まなくなってきた。実は、妹は清掃業をしている。私などよりはるかに(効率的にやりたい)と思っているはずなのだが、母には逆らえないようで、黙々と非効率的な作業に1日を費やす。なんでも、妹は50年前に大病して、4歳と0歳の子供を母に預けて入院していたことがあるらしい。しかも入院費も母のほうで出したらしい。それで恩があるというのだが、いくら世話になったといっても、もう恩は十二分に返していると私は思う。
で、この妹、私からみて叔母が、母の入院先に毎日現れて、毎日3時間から4時間、病院で過ごしているらしいのだ。
入院して最初に主治医の先生からお話があったとき「どなたか、窓口となるキーパーソンを決めてください」と促され、叔母が「私がっ」と声を上げた。父と私は目を剥いた。夫と実の娘を差し置いて出る幕ではないだろう。こちらに時間がなければ有り難い話だが、あいにく、父は仕事を引退して隠居暮らしだし、私は小間使いとして実家に仕えている。母のために割く時間はある。というか、そのために、私は外に働きに行けないので、私の代わりに叔母が小間使いをしてくれるのなら、私としては万々歳だが、まさか、73歳の叔母をつかまえて「お手伝いさんしてください」と言うわけにもいかない。第一、父は母の言いなりになっていて、父の要望に耳を貸さない叔母が嫌いだから、毎日家に来られたら父がノイローゼになりかねない。父は認知症があって、肝心な話を聞きそびれると困るので、結局のところ、私がキーパーソンになった。
病院側は、いろいろな相談事を、私に電話してくる。私は、母の周辺に人たちにメールで状況を報告する。車で30分で行ける病院なので、毎日見舞いに行く。するといろいろと物が増えていたり、物の配置が変わっていたり、私が聞いて知っていることを、叔母が看護師さんに聞いていたりする。黙っていては伝わらないと思ったので、はっきり言った。
「物については十分揃えてあるので、勝手に買い足されても迷惑です。母に何かしてくださるのなら、励ましてやってください」
次の日、叔母は「マッサージ」と称して、母の足を揉んでいた。母は「痛い痛い」と悲鳴を上げる。「痛いのー。でも、動かさないと寝たきりになるよ」と叔母は足を動かし続ける。看護師さんが来ると止めるのだ。看護師さんから「足が痛いとおっしゃるんですが、何か既往症がありますか?」と訊ねられた。「腰には腰椎すべり症があって、前々から腰や足が痛くなるとは言ってました」と答えると「どこか、ぶつけられたりしたことはありませんか?」と重ねて聞かれる。入院する前には、そういうことはなかった。
母は今、自力ではほとんど動けない。
叔母は、母の側に3時間もいて、いったい何をしているのだろう?
いやー、うつ(病)のひとがみんないなくなったら、たぶん国がひとつなくなるくらいにはなるんじゃないかなー。
そうなるとあなたもちょっと困ると思うよー。そういう想像はできないのかなー。
と、元増田に代わって釣られてみる。
元増田はなんで「就労困難」って認定されないんだろうね。実際に仕事できてないのに。
素人から見るととても不思議。むしろ友人さんのありかたのほうが特殊に見える。
主治医に単刀直入に「なぜ?」って聞けたらいいのだろうけれど、意図があって答えてくれてないのかもしれないし、
元増田には、それを聞くのが難しいことなんだろうというのは分かるよ。
もし、ずっと同じ医師にかかっているのなら、セカンドオピニオンというか、他の医師の診察を受けることも考えてみる価値はあるかもしれないね。
その友人さんの医師のところに行ってみるとか。
あまり自分を追い詰めないでねー。
おととしの7月14日、私は首を吊った。原因はいろいろあったけど、就職活動がうまくいかなかったこと、父親が私の奨学金を持ってどこかにいってしまったことが重なったからだと思う。
周りの友人はどんどん就職をきめていて、部活に打ち込んだり遊んでいたりしていた。生きているとどうしてもいろいろ考えてしまうから、とりあえずそれから逃れたい、突発的な行動だった。
幸い吊って何分もしないうちに母親が帰ってきて助かったけれど、その後も地獄のような日々が続いた。過食症からの過食嘔吐で歯がぼろぼろになった。
眠れない日なんてザラだったし、親からキチガイと罵倒され、「娘がキチガイだなんて嫌だ」と泣かれたりもした。(親の中では精神科に通う人はみんなキチガイらしい)
そのころの私はとにかく”精神病になった自分”が許せなくてしかたなかった。もともとプライドが高かったし、まじめなタイプだったから、心の病気=甘えだろ!という気持ちが大きかった。
病気になったことで、人より劣るのが嫌だった。「かわいそうね」という目で見られるのが嫌だった。大学に通う間はなんでもないふりを通した。(今思うと、様子がおかしいことは確実にばれていたと思うけど)
そのころから、あるウェブサービスを使い始めた。最初からかまってちゃん全開の鬱ポストばかりしていた。とにかくはけ口がほしかった。
リアルの知り合いや親には言えるわけがないことを、インターネットにぽろぽろ書いた。インターネットの住人たちは”わたし”を知らないから。そう思うと弱みを見せるというか、思ったことをそのまま書けた。
そうこうしてるうちに、そこで友人とか、知り合いみたいな人たちができた(そう思ってるのは私だけかもしれないけれど、そう書かせてください)。私が鬱で死にそうな時や、しんどい時にReplyなどで助けてくれた。
第三者的にはかまってちゃん死ねよって感じなんだろうけど、私にはそれが救いだった。優しい言葉のひとつひとつが大切なものだった。ああ、私まだここにいていいんだなと思わせてくれた。
過食嘔吐で死にそうな時も、すこしいいことがあったときも、その人たちは本当によくしてくれた。
親から「キチガイは家からでていけ!」と言われ、今家出しているというポストをしたときは、何通か「どこにもいくところがなかったら家に来なさい」というメールももらった。
その中でも特に仲良くさせてもらってる人がひとりいた。共通の漫画が好きで仲良くなった彼女とはちょっとしたことがきっかけで住所交換をし、手紙をだしあったり、誕生日のプレゼントを贈りあったりした。
誕生日の日、プレゼントといっしょに送られてきた手紙には「あなたがつらいとわたしもつらい、しんどいことがあったらなんでも話してほしい。それで気がまぎれるなら、こんなにうれしいことはない」と書かれていた。
おもわず泣いた。見ず知らずの人間に、こんな優しい言葉をかけてくれる彼女がうつくしくみえた。(彼女とはまだ会ったことがないんですけど、いつか一度会ってお礼をいいたいなと思ってる)
そうこうしてるうちに大学を卒業し(奇跡的に留年はなかった)既卒の無職になった時も、「バイトなんて嫌だ。まわりの同期は正社員で好きな仕事してるのに。」といってた馬鹿な私を
「とりあえずバイトから社会復帰してみなよ」「ずっと家にいると楽しくないよ」といろんな人がはげましてくれた。
卒業から半年でようやくバイトが決まり、決まったことをポストするとみんな自分のことのように喜んでくれた。病院にはずっと通ってたけれど、薬の量と過食嘔吐の回数がすこしづつ減っていった。
バイトは接客業だったので最初は本当につらかったけれど、仕入れをしたり、ポップを書いたり、包装をしたりするのは楽しかった。
職場の人間関係がうまくいかなくて挫折しそうだった時も、あのときおめでとうといってくれた人たちのことを考えるとやめようという気になれなかった。
気づいたらいろんなことを楽しめるようになっていた。今年のはじめごろから過食嘔吐をしなくなった。世界がばら色に!とはいかないけれど、自分の調子が戻ってきた。
そして今日、最後の病院にいってきた。主治医に「最初のころは何年かかるかと思ったけれど、治りが早くて驚いた。まわりの人や環境がよかったのと、努力したからですね」といわれ、思わず泣いてしまった。
私がこうやって立ち直れたのは、あのウェブサービスで私のことを気にかけてくれた人たちのおかげです。本当に感謝しています。どん底だったとき、たとえ偽善でも気にかけてくれたあの人たちのおかげで、ようやくキチガイ卒業ができました。
本当にありがとう。ありがとう。あの時、死ななくてよかったと心から思ってる。あの時終わってしまってたら、この気持ちを味わうことができなかった。
フリーターだし、奨学金返していかなきゃいけないし、年金払ってないしでお先は真っ暗なんだけれど、なぜか、不思議とがんばれる気がします。
最近そのウェブサービスには顔を出してないけれど、今でも大切な場所です。直接あちらで書くのは恥ずかしすぎるので、ここに書くことにします。本当にありがとうございました。
全く同じ事を思ったことがあるが、鬱で通院するのは圧倒的に会社員の方が多いそうだ。現場作業員は全然来ないと主治医が言ってた。
http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/706
ほうっておいた腫瘍がすくすくと成長して、おまけにそこから出血して貧血になり、現在手術を前提としたいろいろな検査を受けている身からすれば、
「こいつにはぜってーかかりたくないな」
もし主治医がこのブログ主だったら、強硬に主張して変えてもらう、と思う。
なんか全然違う。あまりに違いすぎてなかなか具体的に言えないが、
以前から、なぜこんなつまらない内容のブログにブクマがいっぱい付くのか不思議だったが、今は読むとまず腹が立ってしまい、血圧が上がって身体に実に良くない。いかん。
ついでにもう一つ。
http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/703
検査のときなど、患者さんに靴を脱いでもらう機会は多い。靴は患者さんのもので、たいていの人はその場に脱ぐんだけれど、靴をベッドの下にしまわないと、機械をそこまで持っていけない。このときに、「靴を主治医の足でベッド下に押し込む」のと、「主治医が腰をかがめて靴を揃える」のとで、やっぱり印象が全然違ってくる
これは絶対やってほしくない。(自分の靴であるにもかかわらず)"不潔な"感じがする。私は全く気にならないが、どうしてもというなら、スリッパに履き替えさせろ(スリッパなら足で扱われてもそう気にならないんじゃないか)。
なぜかみんな”死ぬ”前提なんだが、ちょっと待て。
「ガンになった」だけで下手にオロオロ、シクシクしなくていい。
今時ガンは即効死に至る病なんかじゃない。
ただ、部位によっては症例が少ないから、結構(主に術後)大変だったりする。
シクシク、オロオロしちゃう状態ってのはかなり進行してるからこそだと思う。
ガン見つかっただけなら、痛くないのがガンってくらいだから、見つけれてラッキー!!って祝杯あげて、これから真っ向勝負、って所だと思う。
年末年始にかけて手術とかやってくれる病院はあまりないと思うから(その時期は兎に角外に出したがる)結構バタバタだぞ。
手術しちゃったら、もう後の祭りだから。
術後、酷い事になっても、基本的に移れないと思ったほうがいい。
実績と(ガンの部位による手術数とかHPみればのってる事も多い)まともに話できる主治医の病院にすること!
シクシクオロオロより、今は気合入れるときだと思う。
がんばれ!
(余裕があれば、入院前に、美味しいもの食べにつれてってやって)
人生相談がてら街の占い師に行く気力があるなら試しに行かれてはどうでしょう。
何もする気が起きなくて、苦しくてどうしようも無い時は心療内科に行くことをお勧めします。
重度の鬱は薬によらないと治らないと聞きました。むしろ、薬で治った人を知っています。
一年ほどジェイゾロフトっていうSSRIをメインに飲んでいたが、100mg/dayでも自分の希望する効果が無かったので薬を変えることにした。
ジェイゾロフトは副作用もほとんど無く、うつによる気分の落ち込みもうまく抑えてくれていた。また、躁転するようなこともなく、とても自然に効いていたのでSSRIとしては理想的な薬だと思う。薬価が高いのは仕方無いとしても、いずれまたこの薬のお世話になるかもしれない。
ただ、自分が期待していた意欲の向上という面では、ジェイゾロフトはあまり効果が無かった。当然と言えば当然かもしれない。そこで思い切ってSNRIであるトレドミンに変更をお願いしてみた。主治医は「いいと思います、やってみましょう」と特に断ることもなく承諾してくれた。
25mgを1日2回、50mg/dayからのスタート。薬局のおじさんもうつ持ちでよく話をするのだが、おじさんはトレドミンの副作用(主に吐き気)に耐えられなかったとのこと。そんな不安になること言わないでよー。自分は今まで、抗うつ薬でそれほど激しい副作用が出たことは無いけど。
そんなわけで、今朝からトレドミンを飲んでます。まだ飲んで2時間程度なので、作用は何も出てないと思う。でもなんとなく、両手が軽く痺れてるような感じがする。あと、髪の毛の一部が寝グセになっているような感覚(うまく説明できないけどそんな感じ)が出ている。気のせいか?
祖母が亡くなってから、半年が経った。
96才だった。
寝たきりだったけど、ボケてもなくてしっかりしていた。
会話はできたから、家族みんなで仲良く面倒見ていたほうだと思う。
その際に先生から、家族の意向の確認があり、市立病院の意向を伝えられた。
それならば、安易な気持ちで救急車を呼ばないでください。
救急車の隊員は使命を全うします。
つまり自然死とは違う方向に進みます。
市立病院のベッドも限りがあります」
というような主旨だった。(と記憶。
もっともだと思った。家族も納得した。
その後、デイサービスには行けなくなった。
訪問して往診くれるので何かと助かった。この点は非常に感謝している。
でも、自然死を望んでいると伝えているのに、
薬も少し過剰に思われた。
「おばあちゃん、下痢でもこんなにがんばっているんだから入院させよう」
こう言われたときには入院させた。
「入院して輸血してもらうと元気が出るよ」
さすがにこのときは入院させなかった。
輸血すれば・・って何言っているのと思った。
その後、主治医の勧めで訪問看護にも来てもらい、週に何度か点滴をしてもらうようにした。
訪問看護の初日、翌日の点滴のために、針をそのまま残す方法がとられた。
翌朝、血管が詰まって手がパンパンに腫れた。トマトみたいになった。
38度の熱への対応。
「水枕して」
「熱を逃がすために、掛け布団は手すりにかけるように」
「水を入れたペットボトルを凍らせて脇に挟むといい」
そこまですべきなのか疑問を持った。
「おしりが赤くなっていたのでテープを貼っておきました」と言われた。
おむつかぶれではないので、次から貼らないでくれとお願いした。
点滴をしてもらう日は気疲れした。
その後、腫れなかった手の血管が使えなくなったため、腫れたほうの手に点滴をした。
そしたら容態が急変した。
祖母の最期の言葉は「肺がいちゃー(痛い)」だった。
血の固まりが肺の血管を詰まらせたようだった。
看護士さんたちを別に責めるつもりは無いし、一生懸命やってくれたと思っている。
当初、市内には訪問看護を行っている施設は無いと言っていた。
その後、調べたらあったらしく手配をしてくれた。
ときどき容態を見に来てくれた。
ケアマネージャ・ケアプランという仕組みも必要なんだろうと思う。
税金をたくさん使ってしまった。
これで良かったんだろうか。
年金をもらっていなかったけど、
もらっている家族だったら思いは変わるのだろうか。
介護ってどこまで看ればいいんだろう。
自然死ってなんだろう。
半年経っても良くわからない。
どこかに、記しておきたかった。
毎日ジェイゾロフト、ユーパン、レキソタンを飲み続けてもう一年近いのだろうか。
なんとか発狂せずに毎日会社に通えて、最低のモチベーションで仕事をかろうじてこなしてるのはそれらの薬のおかげということにしておく。
でも、それ以上何も好転する気配が無い。このまま本来の自分の力を出し切ることも無く、廃人のように定年まで頑張らないといけないのか。
薬を変えることを何度も考えた。
セロトニンだけじゃなく、ノルアドレナリンが必要じゃないのかと。SSRIからSNRIへの変更を希望してみた。
いちおう、自分が今はそれなりに落ち着いて見えるから無難にこのままいこうと考えているのかもしれない。
このまま限界まで耐える日々がいつまで続くんだろうか。既に限界は目前だ。
俺は欠陥品なのだろうか。社会および自然界の中で、絶滅・淘汰されるべきなんじゃないかと思えてきた。
それでも今飲んでいる薬のおかげか、激しく気持ちが落ち込むことは少ない。冷静に、自分を冷めた目で見つめ続けている。
5年通った心療内科で主治医と世間話しながらふとPCの画面を見たら診断がいつの間にか「うつ病」になってた。デパス出してくれるならどこでもいいやぐらいの感じだったんで、診断名がショックだったわけではないけど、長居しすぎたのかな、と思った。主治医には悪いが、彼に求めてたのは処方箋だけで、なにを云われても抜け出せない、でも変われるわけでも死ねるわけでもなかった。けどここに居たらやっぱりそういう病名を付けられる/付けるしかない、袋小路なんだなと実感した。
定時を過ぎて少し経った頃、総務の人に、自分の下にいる派遣嬢が辞めたいといっている、と云われた。前々からそんなことを臭わしていたので驚きはしないが、派遣の1人も使えない自分に嫌気が差すには充分なインパクトだった。
このご時世に仕事があるだけマシだろうとか、布団から出て仕事に行けるだけまだいいじゃん、とか、下を見ればきりがないが、いまこの瞬間の気分としては「死にたい」に尽きる。自分の何かを良くして、そんでどーすんだ。今よりもっと良くなってやりたいこと、ほしいもの、何も思いつかない。これもある種の終わりだ。
こんなやつがのうのうと生きて給料もらって息してて、ごめんなさい。生きたいと願っているあなたと替わってあげられなくてごめんなさい。こんな状態で人とかかわってごめんなさい。ごめんなさい。
具体的になにが悪かったか分からなかった時に謝ってしまったから、余計怒らせてしまったんだよね。
これ、なぜ友達が怒ったかわかるかな?
でももう信じてくれるわけでもないから、自分が悪かったのだし、相手の望むように縁切って(まぁ正しくは切られて)諦めた。
そりゃ一度壊れた信頼は「簡単には」取り戻せないよ。
その努力を諦めて「信じてくれそうにないから縁切り」を選んだのは増田本人。
父と離れたら母がどうなるか分からないから怖い
これは増田が心配する問題じゃない。あなたは母の保護者ではないのだから。
人生の全てを生みの親に捧げるつもりなら構わないけど、
他増田さんの意見にもあるように、変えられるのは自分自身だけだよ。
言うこと聞かなきゃ学費払わないとか言い出すから
学費貰う=親の保護下、でしょ。
言うこと聞かずに学費も貰わず、就職してお金貯めて自分で学費出せばおk
もしくは、親の選んだ大学入ってから逃げる準備を始めるも良し。
まあ口で言うのは簡単だけど、毒親の洗脳と暴力は恐ろしいからね。
割と参考になった無料の読み物を置いていくよ。
(主治医もなかなか良いと言ってた)
なんかの続き。
入院の期間は2週間ちょいくらいかな?まあ一過性のものって診断だったし家族同伴での外出の許可出てからはよっぽど暇なのか面会行く度に売店行っておやつして病室戻るってのしてたからそれも含めもう大丈夫だと母の主治医は判断したのだろうか。よくわからん。ただ母が錯乱してたときの状態は他の家族にトラウマを残したのも確かで家に戻ってくるっていうのはちょっと不安でもあるんだよなあ。錯乱状態だったときトイレに篭ったことがあって、一回外出で家まで帰ってきたときトイレ入った母を見てまた出てこないんじゃないかという気持ちを父と私は抱いてしまったことがあるので。母を信じたい気持ちもあるんだけどこればっかりは時間が経過してトラウマが薄くなるのを待つしかないのかな。まあどうにでもなーれ。