はてなキーワード: ジャイナ教とは
その背後のお気持ちを力説されても(しかも後出しで)相手にしないよ
つまんない漫画読まされて「つまんないですね」って評価して、「いやこの作品を描いた背景の気持ちを共有しろよ!」って始められたら困るだろ
そんなの無理だと思うけど一旦可能だとして、
すでに色々と威力で持って他人の生活に制限かけようとしてるんだから「倫理の話だ」じゃないでしょう
ただ社会活動家っていうのは結局人の生活に介入して嫌がらせすることに快感を感じる変態集団にすぎないことが大半なので
ヴィーガンを早めにぶちのめしておこうっていう反発する人達の動機もわかる
>肉を食べることが善い人生だって奴と何一つ共有する気が無いくせによくそう一方的に被害者ヅラ出来るよな
>とにかくお前らは性格も頭脳もひ弱で、そのひ弱さは何から生まれるかというとその常に被害者ヅラして拗ねて逃げ出す習性だよ
俺自身の肉体と頭脳と性格がひ弱であることは否定できないけど、自分が被害者であると主張はしてないぞ。俺はあくまで、家畜たちを犠牲にし続ける活動に加担したくないと言ってるんだ。
でもヴィーガンは非ヴィーガンに注文をつけてるから言い返されてるわけじゃん?
「加担したくないと言ってるだけ」ってのは嘘だね
あと肉を食べて美味しいと思うこと自体は良い人生だと思うよ、その瞬間はね?
でもさ、例えば人を騙してゲットした金でうまいもん食うことがいいとは思えないだろ?
肉は美味いよ、でも肉を食うには殺さなきゃいけないだろ?
もう生きてるやつを食べるために殺すことを(俺は)否定しないけど、食肉産業でやってることは、殺すためにバンバン産ませることをやってるわけじゃん?そこまでする?
あのな、俺は上座部仏教徒なんだよ
てめえがそのひ弱なお気持ちをひねり出すずっと前から不殺生戒を守ってるんだ
それでいて反発された途端被害者ぶるひ弱さ、
そういうものを笑ってるだけなの
お前の頭の何が弱いって
相手の話もきちんと読めないことだよ
俺はこのツリーで不殺生という価値観について一度も否定してないからな
われわれ仏教徒はお前等の「なんとなく可哀想」なんてふわふわなお気持ちとは隔絶したビシッとした理論で不殺生です
よくヴィーガンごとき新興宗教が不殺生について俺達に説教垂れようとか思い上がれたなw
俺はお前等のだらしない議論姿勢や、倫理や戒律の不洗練、どうしようもない頭の悪さを非難してるだけ
肉なんて食ってねえよばーか
安心してちょうだい元増田ちゃん。あなたは死ななくていいわ。誤解なのよ。
あなたがどういう道筋でその“正しいヴィーガン”にたどり着いたのかはわからないけれど、私の知る範囲で(倫理的)ヴィーガンの主張のなかにその結論を肯定するものは無いわ。早まらないで。
功利主義に基づく倫理的ヴィーガンの観点から、あなたの誤解についてお答えするわ。
功利主義的には「苦痛の総量を減らす、または苦痛と快楽の収支がプラス(快楽が苦痛を上回る)になる」のが倫理的に良いことなのね。最大多数の最大幸福。
細かく言えば「苦痛と快楽」とは別の指標を用いた功利主義もあるけれど、動物倫理の場合はもっぱらこれ。
したがって、畜産において“飼育、屠殺による動物の苦痛”が、人類の得る利益(快楽または苦痛の低減)を上回る場合、“畜肉を食すべきではない”と判断できるわ。
逆に、動物の苦痛が人類の利益に比して十分に小さい場合、それは倫理的に許容されうるわ。
同上
ただし、たまごや乳製品はそれ自身が苦痛を感じる能力を持たないため、畜肉と比べると倫理的ハードルは低いわ。
例えばジャイナ教は非暴力が重要な教義の一つなので必然的に菜食主義だけれど、苦痛を与えずに絞った乳は飲むわ(ラクト・ベジタリアン)。
同上
衣料品の場合、動物を苦しめずに済む代替品が豊富にあるならば、あえて動物性の衣服を着るのは倫理的に肯定しがたいわね。
医薬品の場合、主に動物実験に関する問題ね。この領域は動物倫理的にかなりホットよ。
功利主義的な動物倫理においては、動物実験は必ずしも否定されないのよね。まあ論者にもよるけど。
動物実験における動物の苦痛と、完成した医薬品による人間の苦痛の低減。これの比較で後者が十分に大きければ正当化され得るってわけ。
もたらされる苦痛や死が“意思に反して”いるかどうかは、功利主義的には必ずしも重要ではないわ。
“意思に反”することで、苦痛がより増えるのであれば考慮に値するといった程度かしら。
例えば、糧を得る唯一の方法が狩猟であり、それをしなければ(人が)死んでしまう場合、狩猟による動物の殺害は倫理的に正当化され得るわ。
植物は(少なくとも痛みが神経系によって発生するという生物学的知見を踏まえれば)苦痛を感じないため、功利主義的には道徳的考慮の対象ではないのよ。
ちなみに、倫理的な考慮の対象となる立場を「道徳的地位(Moral standing)」と言うわ。
「何が道徳的地位を持つのか」というテーマは分野や論者によって異なっているわ。功利主義の場合、「苦痛を感じる能力を持つ」ことが道徳的地位を持つ条件ね。
厳密に言えば動物でも苦痛を感じない、例えば海綿動物(きわめて原始的な動物群。神経を持たない)、も功利主義的には道徳的地位を持たないと言えるのね。
また、道徳的地位は持つ/持たないの2択ではなく、強弱も存在しているわ。功利主義なら苦痛を感じる能力の程度ね。
例えばエビ1匹を殺すより、ヒト1人を殺した方が倫理的に悪いと判断できるわけ。
これは個々の人間にも適用でき、健常な成人を殺すより新生児や重度の知的障碍者を殺す方が倫理的に悪くない(もちろん両方悪いが、比較すればそうなる)。
功利主義者がリベラリスト(の一部)、特に障碍者支援者などから嫌われるのことが多いはこれが理由ね。
同上
命を奪うかどうかにこだわってるようだけれど、功利主義的に重要なのは苦痛よ。死は苦痛の一形態たり得る資格を持つというだけ。
自然破壊につながる水道水やミネラルウォーターを飲むべきではない わかる
んー?ここら辺は倫理的ヴィーガンよりも環境主義的ヴィーガンの主張に似てるかしら。
でも環境主義的ヴィーガンの場合、畜産や養殖(の一部)による環境負荷を語ることが多いから、ヴィーガンの主張としてはあまり見ないわねこれ。
水資源の利用による環境破壊はあるにせよ、この書き方だと曖昧過ぎるのよねえ。元増田ちゃんもうちょっと具体的にお願い。
なお、功利主義的に答えるなら、その営為で発生する苦痛が人間の快楽(または苦痛の低減)を上回らない限りOKってことになるわ。
地球温暖化に寄与している二酸化炭素は化石燃料などの地下資源由来で、地上で吸って吐いてした分はほぼ無関係よ。
陸上の炭素循環は(長期的に見れば)収支が釣り合っていたのだけれど、地下に封印されていた(炭素循環の外側にいた)分の炭素が放出されたことで、プラスに傾いちゃったわけ。
家計で言うなら年収200万円(手取り)で年間支出が200万のご家庭に、月々1万円の副収入が加わって年12万円の余裕ができましたって話よ。呼吸は年収に含まれ、支出は炭素固定(主として光合成による)で、化石燃料が副収入。
ちなみに、畜産による温室効果ガス放出(主としてメタン)への寄与はけっこうな割合(確かCO2換算で全体の約14~18%くらい)。あなたが牛ならゲップをやめるのは倫理的かもしれない。
全部わかる
あら?もしかして徳倫理学の方だった?功利主義は結果主義の一分野なので“気持ち”なんてほとんど関係ないもの。
徳倫理主義は、雑に言うと「動機が善ならば善」というもので、良かれと思ってやれば善であるっていう素朴な倫理なのよね。
最近は見直しが進んでるって話だけど、あまり勉強してないから詳しくないのよ。この分野。
呼吸し、水を飲み、命ある動植物を自然から奪い、貪る者は悪魔だ
みんな死のう
死なない者は悪魔だ
功利主義からはまず導かれない結論なので、やっぱり徳倫理主義なのかしら。
でも、良かれと思って“呼吸し、水を飲み、命ある動植物を自然から奪い、貪る”なら、徳倫理主義的には善なのよね。
ここまでは功利主義の観点から答えてきたけれど、やっぱり本人の倫理的観点も考慮しなきゃ片手落ちよね。
でも困った。元増田ちゃんがどんな倫理的基盤でヴィーガンになったのか、わからないわ。
最初の方の考えは倫理的ヴィーガンに対するよくある誤解またはジャイナ教当たりの非暴力主義とPlant thoを混ぜこぜにした感じ。中盤は環境主義っぽいけど問題視する部分がズレてるし不明瞭、後半はさっきも言ったけど徳倫理学っぽいけどなんか違う。
うーん、ネットからいろんな主張(誤解や曲解を含む)を集めてきてパッチワークした感じなのかしら。
ヴィーガンへのバッシング目的で書かれたなら「藁人形乙」で済むけれど、真剣に悩んでいるなら誠意ある回答が必要よねえ。
けっきょく“正しいヴィーガン”が何なのかはわからなかったけど、変な結論から脱却するための私的おすすめ方法を3つほど挙げてみたわ。
良ければ死ぬ前に試してみてちょうだい。チャオ!
辛いならヴィーガンなんてやめちゃっていいと思うの。割に合わないわ。もし心苦しいなら減肉食主義(Reducetarian)くらいから始めてみたら?
私も環境主義的観点(スパイスとして功利主義も一振り)からSemi-vegetarianやってるけど、あまり縛り無いから楽よ?
ヴィーガンからは偽善だなんだ言われるかもしれないけど、まあいいじゃない。自分が納得すればいいのよ。
(2) 勉強する
ヴィーガンやるなとは言わないけれど、何かしらの倫理的または論理的支柱がないと厳しいと思うの。
元増田ちゃんの考えを見るに、あまり一貫した基盤を持っていなさそうだし、環境問題についても詳しくなさそう。体系立てて学ばないと混乱して変な結論にたどり着いちゃうものよ。
いろんな視点、論者ごとに調べてみて、自分に合う立場のものを探してみるといいわ。まずは模倣からよ。
おすすめはピーター・シンガー。「すごいなあ。ぼくにはとてもできない」ってなるわ。
(3) 食生活的ヴィーガン(Dietary vegan)になっちゃう
食事だけヴィーガン。健康目的が多い。一番気楽なタイプのヴィーガン。動物倫理とかうっちゃってる(またはつまみ食い)。毛皮のコートも着ちゃうかも。時たまニセ科学に両足突っ込んでるから注意。
やめたいときにやめられるし、始めたいときに始められる。亜種として一時的ヴィーガン(Part-time vegan)なんかもあるわ。
「ちょっと一週間くらいヴィーガンになるかー」とかできちゃう。「それヴィーガンなの?」という気持ちに蓋ができるならおすすめ。
フェミニストが乳製品を摂ることは矛盾か、という議論が喧しい。
https://togetter.com/li/1194767
http://sutaro.hatenablog.jp/entry/2018/01/29/162209
http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2018/01/30/152800
はじめに言っておくと、わたしはヴィーガニズムやアニマルライツには明白に反対である。しかし、それらを一部のバカによる寝言だとは思わない。むしろヴィーガニズムは正しいと思っている。いや、より正確に言うならば、ヴィーガニズムは正しすぎるがゆえに問題なのだ。
ヴィーガニズムへの反対に理屈をつけようとすると、かなり高い精度でブーメランとなって戻ってくる。人間と動物は違う! 白人と黒人、男と女を代入して同じことが言えるだろうか? 人間は他の動物より賢い! 男が力強いことを男性が優越していることにしたい性差別主義者は、古今東西どこにでもいる。人間が動物と違うのは社会の常識だ! アメリカ南部の奴隷主たちも、同じことを思っていただろう。
10年ほど前、はてなで「本当の本当に大切なことには、理由があってはいけない」というフレーズが話題になった。まったくその通りだ。「同じ人間を差別してはいけない」にも理由はない。理由はないが、道徳律とはそういうものだ。差別はいけない、なぜならそれは差別だからだ、という主張は空虚だが、しかしその正しさを疑う人はいないだろう。差別は正しくない、これは自明です。
ところで、「同じ動物を差別してはいけない」という主張は、「同じ人間を差別してはいけない」と論理的に同型である。空虚である。空虚であるが、ではそれゆえに正しくないと主張することは可能だろうか?
人類の平等への闘いは、「同じ○○」の範囲を広げてゆくことだった。「同じキリスト教徒を差別してはいけない」という議論に対して異教徒が声を上げることは必要だった。「同じ成人男性を差別してはいけない」という主張では、無産階級の男性のことは救えても婦人参政権は実現できなかった。ようやく今、人種差別や性差別が「同じ人間を差別してはいけない」として斥けられる時代になったのだ。
しかし牛や豚からすれば、その「人間の平等」は、「白人のなかでの平等」や「男性のあいだでの平等」と寸毫変わらぬであろう。
それがヴィーガンやアニマルライツの訴えの核心である。これを安易に「人間と動物は違うんです。以上」で切り捨てることは、安易に「だって男と女は違うじゃん」と切り捨てることと、いったいどこが違うというのだろうか? このふたつの主張をまったく別物だと切り分けること、それ自体が彼らの批判する種差別なのだ。
何でフェミニストにばかりそういう要求や追及がなされるのか? と疑問を呈する人もいる。断言するが、それは最悪の戦略である。
第一に、ヴィーガン界隈を見ればわかるが、彼らは一般人に対しても肉を食ってさえいれば無差別にマサカリを投げつけている。それが今回たまたま件のフェミニスト氏に向けられただけであり、構図としてはセクシーな萌えキャラの出てくるポスターをフェミニストから批判されたオタクが「何でオタクばっかり叩くんだ?」と過去の女性運動の蓄積も知らずに愚痴っているのと寸分違わない。やめておいたほうがいい。
第二に、差別に反対する運動の中で別の差別が行われていたとき、それを厳しく追及してきたのはフェミニストたちだったではないか。人種差別に反対する運動の中で性差別が起きたとき、人種差別だけでなく性差別にも反対すべきだ、そうでなければ真の反差別とはいえない、という主張はそれなりの説得力をもって受容されてきたように記憶している。であるとすれば、性差別だけではなく種差別にも、という主張が向けられることは自然な話であろう。
つまり、既存の反差別運動の側は、迂闊にヴィーガニズムを揶揄しているとブーメランが帰ってくるわけだ。反差別、正確には、反人種差別および反性差別を支持する者として、味方がブーメランに撃ち抜かれて斃れていくのを見るのはやるせない。
ではどうするか? わたしはまず、敵対関係を認識すべきだと主張したい。
フェミニストは男性優位社会の敵である。奴隷解放論者は南部社会の敵であり公民権運動の闘士は白人中心主義社会の敵である。それと同様に、ヴィーガンは人類社会の敵である。
このことは、現在のヴィーガニズムの支持者が全員人類であることと何ら矛盾しない.家父長制と闘う人びとの中には男もいた。奴隷を逃がしたり黒人とともに座り込みに参加した白人もいた。そして彼らは、男でありながら男性中心主義の敵であり、白人でありながら白人至上主義の敵だった。ゆえにヴィーガンが、人類でありながら人類社会と敵対するのは何ら矛盾ではない。
わたしたちにはふたつの選択肢がある。ひとつめの選択肢は、敵が提示する平等のテーゼを受け入れることであり、つまりはジャイナ教徒のように虫の一匹も殺さぬようマスクをし箒で道を掃きながら歩く生活を選び取ることだ。もうひとつが、平等と敵対することである。種差別の何が悪い、人間は動物とは違うんだ、人間の都合で動物を搾取することは当然だ、と傲然と言い放つことである。
最悪なのは、この敵対性に対して目を瞑ることだ。敵を「なんか頭のおかしい人たち」として片付けることだ。そうではない。彼らは正しいのだ。彼らは正当な抗議者として、つまりはわれわれの敵として扱われるべきなのだ。
この敵対性を隠蔽してしまったら、他の敵対性が隠蔽されることに抗えなくなる。それは平等への闘いの自滅だ。敵対性がそこにあることを明るみに出すことは、常に闘いの出発点なのであるから。
なのでわたしは宣言する。肉うめぇ。これはヴィーガニズムが提示する平等への敵対だ。朕はたらふく食ってるぞ、汝畜生食われてろ。数百年後、あの世代は動物差別と動物大虐殺を何とも思っていなかった民度の低い連中だ、人類の進歩を阻害してきた、と糾弾されるかもしれない。それでもわたしは、種差別を正しいと信じる。人間は動物とは違っており、この差別は当然だと主張する。未来の子供は、わたしのこの言明を醜悪なスピーシシストの声明として読むかもしれない。ユダヤ人は劣等だと言い放ったちょび髭の指導者や、女は男よりも劣った生き物なのだと公言してきた家父長たちが扱われるように、動物を殺して恥じなかった我々現代人も扱われるかもしれない。ひょっとすると数十年後に革命が起きて、人道に対する罪で訴追されるかもしれない。自己批判を強要されるかもしれない。それでもわたしはヴィーガニズムに敵対する。この差別は正しい差別だからだ。
さあ、みんなもそう叫ぼうじゃないか。種差別は必要だ! 種差別は正しい! 今ここで種差別を! 明日も種差別を! 永遠に種差別を!
たとえば、山の木を伐採しまくったとする。今でこそ科学的検証の積み重ねで、木の根の保水作業や、土壌保持能力が失ったと言われてるが、昔はそんなのわからない。
だから「山の神」というのを仮定して「それの意にそぐわないことをしたから怒った。木を大切にしないとならない。」という流れ。
対人関係も悪行ばかりしたことも、細かく分ければ、それぞれの個人が怒ったり、噂が流れて助けられるものが助けられなかったりで、
その結果、なにか不幸なことが起きたとして、「天罰」すなわち、神が罰を下した。と抽象的に取り扱うがゆえの存在。
ニュートンは近代科学の祖と言われるが、神学者でもあり「神が作ったこの世の理を明らかにする」という動機付けで行われている。
そして、科学的検証が行われて行って、科学的検証が馴染むようなものは科学の手に委ねてきた。しかし、要因が多く絡む要素。再現が苦手な要素については科学は苦手とする。
科学で立証しづらく立証されてないものはどうなるか?とすると、たとえば、根拠に基づく医療のエビデンスレベルで、
2a ランダム割付を伴わない同時コントロールを伴うコホート研究(前向き研究、prospective study, concurrent cohort studyなど
2b ランダム割付を伴わない過去のコントロールを伴うコホート研究(historical cohort study, retrospective cohort studyなど)
その道に詳しい人というのは昔の聖人と呼ばれる人。
西洋、イスラム圏だとみんなアブラハムの宗教で、その聖人たち。
特に幸福論とか、どういう生き方がよいかなんてのは科学に馴染まんから、まだ宗教の担当なだけ。
と言っても、儒教、仏教の開祖こと、孔子やブッダは「怪物乱心を語らず(孔子)」「毒矢の例え(ブッダ)」で挙げられるようにこの世に在らざるものに非常にドライ。
ただ、儒教や仏教がもともと「わからんものを取り扱うための手法」「先祖礼拝」の道教、ジャイナ教や神道と混ざって、この世に在らざるものを取り扱うようになった。
まあ、日本においてはGHQで道徳関連がみんな教育から消え去ったのもあったのが一回りしての新興宗教ブームだとは思うね。
本来あんな新興宗教に頼らなくても、良い生き方はそれ以前の書籍には数多く取り扱われてる。
と言ってもどうせ孔子もブッタもこの世にはいないんだ。今その教えを伝えてるという人も書籍によらざるをえないから、宗教団体に属する必要性はないね。
それとも、あなたのいう「東洋的発想」って現代日本って意味なの?
だったらわかるように書いて欲しかったな。ただ私も現代日本人なんで対応に困るけど。
誰が「前近代の日本では植物は生物ではないとされていた」って趣旨のことをいったの?
「山川草木悉有仏性」という言葉を見ればわかるとおり、むしろ「山」とか「川」のような、現代的視点では無生物であるものまで生物扱いされていたと考える方が正しい。
仏性って宗教的にテクニカルな発想だから、単純に「生命」や「意識」とは置き換えられないものと理解しているけど。
それはともかく、植物や無生物がアニミスティックに擬人化されることがあったのは事実だね。
ただそこっから、前近代の日本が「動物を食べるのも植物を食べるのも同じ罪だから云々」な文化だって主張を成り立たせるのは誤りだろう。
「イスラム圏では違うので、東洋全部じゃない」って反論なら言いがかりだけど、「東洋的発想」って主張への反論への列挙の中に加えただけなら言いがかりとはいえない。
むしろジャイナ教の一例を持って、「東洋的発想」とか言う方が無茶でしょ。
一括りにはできないね。一応肉食禁忌の流れは平安時代からあったはずだが、色々な変遷はあっただろうけど。でもそれでさえあなたのいう「東洋的発想」の反証には十分。
「厭う」ってあのな。漁師だってサディストじゃないんだよ。「もっとマシな方法があるからそれを使えば」という建設的な提案なら聞く耳も持つだろうよ。単に「人道的な屠殺」というのが見え見えの口実だから依怙地になってるだけだろうに。
漁師の話がいつの間に出てきたのかちょっとわからない。「人道的な屠殺」っていう実践は偽善で、「罪の意識や感謝の気持ち」って内面の問題こそ大事って主張に対する批判だよ。
別に漁師が苦痛を最小化するよう努力を払ってても別に驚かないし、この際関係ない。自分の主張への批判を何で漁師にそらすかわからないです。
そもそも、日本人が奴らに反発するのは「お前が言うな」という心理が一番強いだろう。人間に対して「人道的な屠殺」という言葉を使った奴らにまさにナチスというのがいるんだが(ガス室は人道的な処刑法だと強弁していた)、「牧場での牛や豚の屠殺は人道的だからいいんだ、それに対しておまえらの屠殺方法はなんだ、野蛮人!」というのは、まるでヒットラーがスターリンや毛沢東やポルポトをえらそうに罵倒してるようなもんではないかね。
「私は感謝の気持ちを持って屠殺してる。それに対しておまえらの内心はどうだ、野蛮人!」ならいいの?
と言うか、そのたとえだと残虐なやり方で虐殺しているスターリンや毛沢東やポルポトにだって「お前が言うな」と返す資格はないと思うんだが。
「他人を見下すため」という理由付け自体が言いがかりなので反論の必要なし。
言いがかりじゃないでしょ。
あなたのいう「感謝の気持ち」や「業を背負う」ことが大事って主張は、「人道的な屠殺」だの動物福祉だのベジタリアンを偽善と見下す以外に何の意味があるのかわからない。
正確には「他人を見下すため」以外に意味を持たないって方が適切かな。
「妄想」だのなんだのとずいぶんな言われようで、それに対して一々事細かに反論していたらまた感情逆撫でされるだけだと思うので、論点と関係ある部分のみ。
東洋ってどこの東洋?まず前近代の日本は違う。伝統仏教的にも動物と植物は区別されてて、そのために(動物を殺さない植物だけ使った)精進料理なんてものができたわけだし、前近代の日本では仏教的な発想のせいで肉食は抑制されていたよ。
元々「現代の日本」がどうであるかだけが重要なのであって他の点は本筋と関係ないのでスルーしても良いのだが一応一言。
植物と動物は区別されていたが、植物が生物扱いされていなかったというのは誤り。これは過激な菜食主義者でも普通は人間と動物を区別するというのと同じこと。「山川草木悉有仏性」という言葉を見ればわかるとおり、むしろ「山」とか「川」のような、現代的視点では無生物であるものまで生物扱いされていたと考える方が正しい。それからジャイナ教では根菜や球根を食べない。
あと、この文脈でイスラム圏を「東洋」に入れて考えるのはどう考えても言いがかり。確かにそういう言葉の使い方も歴史的にはあったけれど、宗教的も文化的にもアラブなんかは「西洋」とはるかに同質であるのは明らかなわけで。インドネシアやウイグルになると事情は若干異なるけれども。
そもそも「前近代」と一括りに言っても、たとえば戦国時代と生類憐れみの令以降では全然違う。肉食禁忌の江戸時代でさえ、「肉食は抑制」といいながら魚や鳥は食べられていたし、なんだかんだと理由を付けて兎は鳥扱いしたりして、抜け道はたくさんあった。それに、馬肉や猪肉はなし崩し的に食べられるようになっていったわけでね。
「厭う」ってあのな。漁師だってサディストじゃないんだよ。「もっとマシな方法があるからそれを使えば」という建設的な提案なら聞く耳も持つだろうよ。単に「人道的な屠殺」というのが見え見えの口実だから依怙地になってるだけだろうに。屠殺方法が「人道的」だったら批判がやむかと言ったら絶対別の口実がでっち上げられるだけなんだから。
そもそも、日本人が奴らに反発するのは「お前が言うな」という心理が一番強いだろう。人間に対して「人道的な屠殺」という言葉を使った奴らにまさにナチスというのがいるんだが(ガス室は人道的な処刑法だと強弁していた)、「牧場での牛や豚の屠殺は人道的だからいいんだ、それに対しておまえらの屠殺方法はなんだ、野蛮人!」というのは、まるでヒットラーがスターリンや毛沢東やポルポトをえらそうに罵倒してるようなもんではないかね。
他人を見下すための「罪の意識」って何の役に立つの?
「他人を見下すため」という理由付け自体が言いがかりなので反論の必要なし。
「無知な愚か者は無視しなさい」
ジャイナにはこのような教えがあります。これは教えというより、智恵を含んだ教訓と言ってもいいかもしれません。
このような考えは、無益な争いを避けるために、ときとして必要です。
平和と友好を旨とするジャイナ教徒にとっては、暴力や怒り、憎しみなどの感情を抱かないためにも重要な教えと言えます。
熱い火から身を守るには、火と戦うことでなく、火から遠ざかればよいのです。
ですから、憎しみに満ちた者、過激な者、状況を間違って把握している者、邪悪な者たちから、身を守るには距離を置くことです。
愚か者にも「事の道理」をわからせてやろうと思う人もいるかもしれません。しかし、思慮分別のある人なら、愚か者にそのようなことをするよりは、無視してしまったほうがよい場面があることをおわかりになっていただけるでしょう。
人間というものは、お互いが自分を主張しはじめると、どうしても理性より感情が勝ってしまうものです。
ですから、そのようなときは決して反撃してはいけません。
過激な興奮者には、冷たく背を向けて黙殺すればよいのです。
堕落した考え方の者でも彼なりの言い分があります。
悪人には悪人の主張があるのです。
彼らの犠牲にならないためには、相手にしないことが最良の方法なのです。
カースト制度を否定しながらも、ジャイナ教徒が今日まで2500年以上の長きにわたって、インドで生き残ることができたのは、この「距離を置く」という智恵があったことも大きな理由の一つです。
上林龍永「ジャイナの教え」より