野球部で、スポーツ紙がネタとして取り上げていた。
ウチは両親とも圧倒的多数の農家ですよー
名字付けていいよ、って言われた時に藤原氏の子孫を称した。
]]>小林→こば ばやしこ
内田→うっちー うーやん
川端→ばたやん
力間→りっきー
山田→だーやま
鈴木→ずっきー
後藤→ごっちん
藤原→藤原氏
栗原→くりりん
柿崎→かっきー
]]>父とはアニメの趣味が近く、わりと共通で観ている作品が多かったのだが、母とはあまり娯楽の趣味が合わなかったため、ようやくテレビの話で盛り上がれて母も嬉しそうだった。
といっても「青天を衝け」と「どうする家康」しか見てなくて、本作が三本目なんだけど。
特にどうする家康は、地元が静岡で、一人暮らしを岡崎でしている私たち親子にとっては、初めて大河ドラマ館を制覇したり、聖地巡礼したり、一年でたくさんの親子の思い出をつくってくれたとても楽しく思い出深い作品だった。
そして今作。私は正直一話目から「無理かも…」となり、三話の今、「母と共通の話題」「苦手な平安時代の大量の藤原氏の見分けをつけられるチャンス」「おなごの衣装がかわいい」という3点がなければ今すぐにでも脱落しそうだ。
反面母は、「韓国ドラマみたいで面白い!最高!」ってなっており、「今回は辞めておこうかなあ…」とも言い出しにくい。
こういうときはアンチの意見を見て心を落ち着かせようと#反省会を検索してみたものの、全然活用されていなかった… あんなに楽しかったどうする家康は毎週のようにアンチ湧いてたのに…
なんかこう、性的な話が多かったり、女官の噂話みたいな人間の生々しく汚い感じが前面に出ていてつらい… でもようやく一緒に見れる番組がある!って嬉しそうな母を思うとなんとなくやめるとも言いづらいし、私自身母と番組を介したコミュニケーションを取る時間は好きだったので頑張りたいがしんどいな…
時代的に側室とかしょうがない部分はあるけど、わりと今まで見てきた大河ドラマは「史実が許す限りなるべく正妻love」「極力同時期に複数の妻が出てこない」みたいなできる限り汚さを感じさせない配慮を感じたけど、今回ゴリゴリ悲しい女の人とか気の多い男の人出てくる…しょうがないことだけどファンタジーで生々しさとか性的なものとか醜さみたくない…
]]>徳川氏も過去に遡れば源平藤橘のどれかに行き着くはすで藤原氏の末裔のようなものであるのだが、徳川の当主は今も事実上華族のような扱いを受け国から特別視されている。
一体どこで差がついたんでしょうねえ。
やっぱ1000何百年も過去の偉人の威光を持ち越せるってわけしゃないのか。徳川みたいに最近? まで努力し続けた家だから今も庶民を超えた存在としえ扱ってもらえるのねえ
]]>おれは女性ならではっていうことはアリだと思う
女性は男性より事務的な、あるいは政治的な能力が劣るわけではないけども
センスはやっぱり違うので
そんで、ストレートあるいはノンケな男女にもそれぞれ男性的な部分や女性的な部分がある
岸田にも森にも麻生にも女性的なところは確実にあるのよね
高市や加藤や松川などにも男性的なところあるしさ
女性の政治的な能力が男性と変わらないのなら、政治家や閣僚の女性比率なんか関係ないはずなんだけど
でもやっぱり、女性の政治家はおっさんの姫だったり息子がいない政治家の後継者にすぎなかったりするよね
なんかさ、加藤鮎子とか塩崎彰久とかさ、親がリベラルに見えていた政治家の子供が家業を継いでいたりするのは
実は彼ら自身もしんどいんじゃないかな
だけどさ、親が金を持っているおかげで高等教育を受けられて、しんどいことを引き受けなければ責任を果たせないと
考えているとすれば、藤原氏の子孫みたいな感じかもな
わしらには関係ないので、とっとと家業やめれば?としか思わないけどさ
職業選択の自由は憲法で保障されているわけで
やんごとなき方々以外はね
]]>自分では思ってなくても実は高貴な血筋ってことあるんだなあ
ラノベも馬鹿にできないわ
]]>窓←Windows
庭←au
茸←docomo
菊←天皇家、日本
藤←藤原氏
葵←徳川家
]]>奈良平安を経て貴族がほとんど全部藤原に塗りつぶされてく過程で徐々に階級が落ちてって最後の方は地方豪族のあいつどうやら蘇我氏らしいがよくわからん、ぐらいにおちぶれて消えた
外戚で権力をふるうのにしても当初は蘇我氏がやってたのを、藤原氏が蘇我氏の姻戚という形で入り込んでうまいこと蘇我氏から藤原氏に外戚ルールを入れ替えてった
足利家や、織田家、豊臣家など武士の名家()が同じことをやって、自分の血縁を藤原氏に嫁入りさせて生まれた娘を天皇家に嫁入りさせ、藤原の名を借りて外戚の仲間入り、を繰り返してけば藤原上流層を乗っ取って足利外戚家、豊臣外戚家になるチャンスもあったんじゃないか
そういう発想に至らなかったのか、やるメリットなかったのか、藤原氏が巧妙でそのへんのガードが固かったのか
]]>藤原氏の前に藤原氏の立ち位置にいた蘇我氏は何度かの政変を経て徐々に中央から排除され消えていったのに、
蘇我氏の立場を乗っ取った藤原氏は何度もあった政変でダメージを受けつつも生き残り、
平安時代後半には実質的に貴族イコール藤原氏になりおおせ、
第二次大戦開始の自滅ボタンを押す役を引き受けるまで生き残った
奈良時代に、平安時代に、鎌倉時代に、南北朝時代に、戦国時代に、どこかのタイミングで藤原氏が別の家系に入れ替わっていたら、
日米開戦しなかったIFがありえたのだろうか
]]>日本には人権と民主主義という概念がないからね
に( ゚Д゚)ハァ??と思った。
日本の歴史や文化に対して浅い理解しかない欧米人も結構そう思っているらしく、日本は男尊女卑で女性に人権が無い国と勘違いしていろいろかましてくるからむしろ残念。
女性の作家が世界で初めて生まれたのは日本だし、女性の財産権も御成敗式目で保障されていたんだが?
欧米では長らくできていなかった政教分離も鎌倉幕府成立のときにできたし。
むしろ、明治時代ぐらいに欧米の男尊女卑文化を変に輸入したことで女性の権利が減ったんじゃないの?
ちなみに、匿名選挙みたいな仕組みは藤原氏が力を持ち始めた時代にはすでにお寺でやっていたらしい。
全員覆面をして、声色を変えて意見を言い合うことで、自分の立場などにとらわれない自由な議論をしていたと言うけれど...
「僕の思う最強の人権と民主主義」みたいなのは無いけれど、文化に根差した人権も民主主義も昔からあったと思うよ。
]]>平家より過ぎる。
元号は藤原氏、源氏、平家の持ち回りにすべきだ
]]>成宮寛貴の芸名で活躍し、2016年に芸能界を引退した元俳優、平宮博重(なりみや・ひろしげ)さん(38)
と思ったらもともとは福じゃなかったらしいへー
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%A6%8F%E6%BA%80
現富山県である越中国砺波郡福光村が起源(ルーツ)である、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)利仁流井口氏族。ほか滋野氏(現長野県である信濃)などにもみられる。 「福」は深・吹などが転化したもの。
]]>チンギスハンの一族は神風に吹かれてモンゴルに帰ることも出来ずに日本で生き残ることにした、その時彼らを匿ったのが藤原氏であり、藤原氏の一員に加わったということで加藤の名が彼等に贈られることになった。
そうして現代のコント職人となった彼の名は加藤茶、そう、チャハーンとは彼のことなのである。
因みにこれは今考えついた嘘なので実際にモンゴル人に言うと「アホ死ね❗️」と言われること請け合いである
]]>https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1868246
個人的にはウジ(氏)が日本における部族名なのだと思っていたので、みんなが県名を部族名として名乗ると考えたのが意外だった。
俺は平Tairaだな。たまに、源平以外に由来がある名字の人がいると嬉しい。藤原氏でも北家以外にルーツがある(と考えられる)名字は熱い。
穂積さんとか久米さんは激アツ。伴さんとか磯部さんもヤバい。
ほとんどの人がTairaかHujiwaraになるであろうところ、そのまま名字を部族名でHodumiとかKumeとか書ける。
]]>色々なコメントがこの増田に対してつけられているが、
ほとんどが(理系分野でいうところの)疑似科学のような論でしかない。
そして私達は平安時代末期の情勢というものをステロタイプ的にすら理解できていない。
私達は院政にしろ、藤原氏の摂関政治にしろその権力の源泉は天皇による日本国の統治機構によるものであるということが理解出来ていない。
そして文学としての平家物語というものに対する理解もほとんどない。
アニメ平家物語で描かれている世界が文学としての平家物語なのか、
歴史としての平安時代末期のことなのか?すら理解することが出来ない。
私達はあまりに無知で卑小な存在であるとしか言いようがない。
もっと勉強せねば。
]]>]]>NHKのコメンテーターレベルお粗末すぎ。
藻谷氏といい藤原氏といい今まで言ってきた事もう一度検証したら恥ずかしくて人前にでれないでしょう。
藻谷氏はデフレの原因は人口減少とか本に書いてましたが、人口減ってもデフレに陥っていない国はいくらでもあります。
この前フジテレビで完全論破しましたが、恥を知れといいたいですね。香山リカしは論外。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/776556?contentNo=219
然レドモ此ノ陰謀の最モ熱心ナル助成者ノ一人ハ「ノウゴロド」ノ大僧正「セッチン」ナルカ、「セッチン」ハ俗帝ニ反シテ其ノ管内ニ在ル所ノ衆多ノ法皇即チ道士ヲ煽動セリ
今回見つけた中では最も古かった。これはトーマス・ヘンリー・ダイアーの『History of Modern Europe』の翻訳で、原文では以下のようになっている。
But one of its most zealous supporters was Setschin, Archbishop of Novgorod; who incited the multitude of popes or priests in his jurisdiction against the "profane" Emperor.
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/799370?contentNo=128
「グドウィン・サント」ヨリ成リ世界中最モ不毛ノ土地ナリシ「フランダース」ノ「ペース・デ・ウエース」モ勤労ノ効ニ依リ豊饒ナル性質ニ変シ今ニテハ欧州中最モ生産多キ土地の一ト為レリ
こちらはJ・S・ミル『Principles of Political Economy』の翻訳で、原文は以下のとおり。
One of the barrenest soils in the world, composed of the material of the Goodwin Sands, the Pays de Waes in Flanders, has been so fertilized by industry, as to have become one of the most productive in Europe.
最初の「One of the barrenest soils」については「世界中最モ不毛ノ土地」と訳しているあたりに苦心がうかがえる気がする。
光明子は嘗て我邦土の上に生れ出てたる最も明敏なる婦人の一人に御座すなり
https://books.google.co.jp/books?id=y3ljPfzhz6EC&pg=PP11
加ふるに本書の主人公マコウレーは、著者が最も同情を表せる一人にして、其著作は著者が日夕誦読精通する所、其時代は著者が最も熟通せる所なりといへば、本書の著者が本書に置ける得意想ふべきなり。
竹越與三郎『マコウレー』は1893年刊行らしいので批評も近い時期に出たのではないか。「日本評論」は、後の日本評論社の雑誌ではなく、1890年から植村正久が発行したという同名の雑誌のことと思われる。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871718?contentNo=235
されどすべての文字上にあらはれたる人心の形象を文学なりとして、新聞紙を最も重要なる文学の一つとせむは、文学の義をあまりに広く取り過ぎたるものにて、これがために青年文学会の進歩の多少障碍さらるべきは惜むべき事なり。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993477?contentNo=128
良房は藤原氏中、無学無術、最も拙劣なる政治家の一人なりき。
再び登場の竹越與三郎。今度は本人の文章である。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/809188?contentNo=11
「リーランド・スタンフォルド」大学ノ如キハ、千八百八十五年ニ「リーランド・スタンフォルド」氏及其夫人ヨリノ莫大ナル寄付金ニ依ッテ創設セラレタル大学デアルガ、今日デハ、米国ノ諸大学ノ中デ最モ盛大ナルモノノ一デアル
このように並べてみても、通説のとおり英語の「one of the most 〜〜」構文を直訳したものから「最も〜〜の一つ」構文が広まっていったように思える。つまり「誰が言い始めたの?」という質問に対しては「明治初期の翻訳家のうちの誰か」が答えになる。明治といえば、いわゆる言文一致運動があったように、まだ「近代日本語」自体が固まりきらず模索されていた時期であるし、またここに挙げた森鴎外・田口卯吉・竹越與三郎・外山正一などは、いずれも英語の使える教養人であるので、意識的に「直訳」的な表現を取り入れていったのだろうとも思われる。ちなみに、そもそも「〜〜の一つ」といった言い方自体が、英語の「one of 〜〜」から多用されるようになったという話もあるらしい。そうした文体は「欧文脈」「欧文直訳体」だとか言われて研究対象になっているので、気になるなら本格的に調べてみてはどうだろうか。
]]>天皇がハッキリ権力持ってた時期ってほとんどないでしょ
天皇が権威で藤原氏が権力、天皇が権威で鎌倉幕府が権力、そこから源氏が権威で執政が権力の時代や、天皇が権威で大名が権力の時代、天皇が権威で将軍が権力、将軍が権威で老中が権力
みたいな
歴史的に権威と権力の分離とその所在を曖昧にしたまま社会を作るのが日本人得意なんだよね
実力制→権力的なものと考えると
天皇を実力制にしたら、また何らかの形で曖昧な権威と権力の分離がおこるんじゃないかな?
]]>官司の統廃合、観察使の派遣など行政の立て直しに取り組んだ。藤原薬子を寵愛したが、譲位後薬子の変が起きたため、出家した。
52.嵯峨天皇(809~823)
薬子の変を鎮圧。弘仁格式、新撰姓氏録を編纂した。三筆の一人にも数えられる文化人
53.淳和天皇(823~833)
経国集、令義解、秘府略を編纂させた。
54.仁明天皇(33~850)
在位中に令義解が施行され、日本後紀が完成した他、承和の変が起き藤原氏繁栄の基礎となった。医学、書道、和歌など初学に精通した知識人
55.文徳天皇(850~858)
続日本後紀の編纂を開始した。病弱であったため、政治の実権は藤原良房がが握った。
56.清和天皇(858~876)
幼くして即位したため、良房が実権を握り、元服後も握り続けた。在位中に貞観格式が編集された。
57.陽成天皇(876~884)
乳母子を殺す、宮中で密かに馬を飼うなどの奇行が多く、藤原基経に譲位させられた。
58.光孝天皇(884~887)
55歳という高齢で即位し、基経に「実質的な関白として政治を任せた。
59.宇多天皇(887~897)
阿衡の変により、藤原氏を疎み、菅原道真を重用した。在位中に多くの歌人が輩出され、遣唐使が廃止された。
60.醍醐天皇(897~930)
藤原時平の讒言を信じ、道真を左遷した。在位中に古今和歌集の勅撰、三代実録、延喜格式の編纂が行われ、その治世は村上天皇と共に延喜・天暦の治と称された。
61.朱雀天皇(930~946)
在位中は天災が多発し、平将門・藤原純友が乱を起こすなど、多難な時を過ごした。
62.村上天皇(946~967)
乾元大宝を鋳造し、天徳歌合、後撰和歌集などを編纂させた。
63.冷泉天皇(967~969)
病弱であったため、藤原実頼が関白として実権を握った。安和の変の後は、摂政・関白が常置されることとなった。
64.円融天皇(969~984)
藤原氏の政権争いに翻弄され、出家、文化人として風流な生活を送った。
65.花山天皇(984~986)
女御の死を悼んだところを、藤原兼家に計られて出家した。
66.一条天皇(986~1011)
在位中藤原道長が実権を握り、紫式部、清少納言、和泉式部などの文化人が活躍した。
67.三条天皇(1011~16)
藤原道長に絶えず退位を迫られ、眼病、脚気を理由に退いた。
68.後一条天皇(1016〜36)
道長の孫。在位中は道長・頼通が実権を握り、藤原氏の全盛期を迎えた。
69.後朱雀天皇(1036~45)
在位中は頼通が関白として実権を握った
70.後冷泉天皇(1045~1068)
在位中に平等院鳳凰堂が建立され、前九年の役が起きた。
71.後三条天皇(1068~72)
藤原氏を疎んじ、新政を行った。記録所を設け、成功、重任を禁じ、宣旨枡を定めた
72.白川天皇(1072~86)
在位中に富士山噴火、後三年の役が起きた。譲位後、院生を行った。
73.堀河天皇(1086~1107)
在位中は院生が行われたが、藤原師通の補佐により自らも政治に関与し末代の聖王と称された。
74.鳥羽天皇(1107〜23)
譲位後、崇徳~後白河の3代に及ぶ院政を行った。崇徳院を無視して、後白河天皇を即位させたことが保元の乱の原因となった。
75.崇徳天皇(1123~41)
鳥羽上皇に冷遇され、譲位させられた挙げ句、息子の即位も阻まれた。これを不満とし、保元の乱を起こすも敗れ、讃岐に流された。死後怨霊として恐れられた。歌人としても名高い。
76.近衛天皇(1141~55)
17歳で亡くなったため、崇徳院、藤原忠実・頼長親子に呪われたのではないかと噂された。
77.後白河天皇(1155~58)
保元の乱で崇徳院を破った後、譲位し院政を行った。平治の乱、治承・寿永の乱、鎌倉幕府成立などの激動の時代の中、権謀術数を巡らせ朝廷権力を維持した。
78.二条天皇(1158~1165)
崇徳院の子を差し置いて、皇子になったため、保元の乱が起きた。即位後は後白河院の院政に抵抗するも病気のため叶わなかった。
79.六条天皇(1165-68)
自身への敵対勢力に擁立されることを恐れた後白河院によって、わずか4年で譲位させられた。
80.高倉天皇(1168-80)
清盛と後白河院の対立に苦しめられ、譲位した。
81.安徳天皇(1180~1185)
壇ノ浦の戦いで入水した。日本史上最も短命な天皇で、わずか7歳で崩御した。
82.後鳥羽天皇(1183~98)
譲位後、土御門~仲恭の3代にも及ぶ院生を行う。承久の乱に敗れ隠岐に流された。
83.土御門天皇(1198〜1210)
父である後鳥院とは不和で承久の乱にも加わらなかったが、自ら望んで土佐に流された。
84.順徳天皇(1210~1221)
承久の乱に参加するために譲位し、佐渡に流された。
85.仲恭天皇(1221)
父順徳が倒幕を企てたため、即位後78日間で廃位された。
86.後堀河天皇(1221~1232)
わずか10歳で即位したため、天皇になったことのない守貞親王が後高倉院として異例の院政を行った。
87.四条天皇(1232~1242)
滑石を用いたいたずらが原因で転倒し崩御した。
88.後嵯峨天皇(1242~1246)
譲位後、2代にわたる院政を行った。死に際して、帝位継承者決定を幕府に委ねるとしたため、南北朝問題の原因となった。
89.後深草天皇(1246-1260)
持明院統いわゆる北朝の祖。
90.亀山天皇(1260~74)
大覚寺統いわゆる南朝の祖。父後嵯峨院に愛され、兄後深草院を差し置いて子の後宇多天皇を即位させたため、南北朝問題の原因となった。譲位後南禅院を建立
91.後宇多天皇(1274~1287)
大覚寺統。在位中に元寇があった。譲位後、持明院統の伏見天皇を即位させるが、続いて持明院統の後伏見天皇の即位には反対したため、両統送立が始まった。院政を行うが、後醍醐天皇と対立し、政治から身を引いた。好学の天皇として知られる
92.伏見天皇(1287-1298)
玉葉和歌集を勅撰させた。
93.後伏見天皇(1298~1301)
譲位後、院生を行う。元弘の乱後、東国へ逃れるも捕らえられ出家した。
94.後二条天皇(1301~08)
大覚寺統。持明院統から2代続いて天皇が出たことに後宇多院が抗議したため、幕府の計らいで即位。両統送立が始まった。
95.花園天皇(1308~1318)
大覚寺統。教養人で風雅和歌集を勅撰させた。
96.(南1)後醍醐天皇(1318~1339)
鎌倉幕府打倒に貢献した後、建武新政を行う。足利尊氏に敗れ吉野に逃れ南北朝時代が始まる。
97.(南2)後村上天皇(1339〜1368)
高師直に攻められ賀名生に逃れる。一度京都を奪還するもすぐに北朝に奪われた。その後も京都回復を狙い、各地を転戦するも果たせなかった。
98.(南3)長慶天皇(1368~1383)
和歌を愛し、五十番歌合、五百番歌合などを催した。
99.(南4)後亀山天皇(1383~1392)
足利義満の誘いの応じて、南北朝の和解を実現。しかし、義満の死後冷遇され、和平の条件であった両統送立も果たされなかった。
北1.光厳天皇(1331~1333)
後醍醐天皇の失脚を受けて即位したが、鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐の廃位と光厳の即位が否定された。
北2.光明天皇(1336~1348)
足利尊氏の擁立により即位。譲位後、観応の擾乱によって南朝に捕らえられるが後に解放された。
北3.崇光天皇(1348~1351)
譲位後、観応の擾乱で捕らえられた。琵琶を愛した。
北4.後光厳天皇( 1352~1371)
後村上天皇の一統が破れると、足利市に擁護され即位した。南朝の攻撃に遭い、美濃・近江などに逃れたこともあった。
北5.後円融天皇(1371~1382)
足利義満に擁立されて即位。譲位後、院政を行った
100.(北6)後小松天皇(382~1412)
後亀山天皇から神器を受け、南北朝合一が成された。
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