はてなキーワード: インド系とは
監視衛星で軍を動かしているのを見ていたというのがあるだろうし、写真も出ていた。
なかったが、本当にあるように報道されていたし、イギリスは信じて軍も動かした。
というのは、マイケル・ピルズベリーという人が「The Hundred-Year Marathon」という本を出版し、ベストセラーになった。
このマイケル・ピルズベリーという人は元は親中派だったが、中国脅威論に変わった。
なんで米国が親中派だったかは、中国が情報工作をしていた、なんて言っている。
情報工作なんて、たかが背中を押すとか、きっかけを作るくらいしか出来ないものだ。
普通の感覚だったら、情報工作していたなんて言ったら、陰謀論か?と疑いたくならないか。
米国内の日本バッシングのときも、第二次世界大戦を日本に仕掛けるべきだという意見があった。
日本車を壊すのは広まったが、米国が日本と戦争したいという意見があったのは広まらなかった。
米国が1位でなければならない、挑戦者とは戦争だというのは、なぜか残っている。
kindleでも書いている人がいる。
中華系アメリカ人はそれなりに居るのはわかるが、言語の壁はある。
だが知りたいのは今の話だ。
兵器を売るという直接的な物から、兵器情報に付随するガバメントクラウドなども売り込んでないか。
軍事規格を作り、それに合うクラウドは米国産しかなく、そこにしか米国製兵器の情報を置いてはならない、といったことは起こってないか。
兵器なら軍事費に含まれるが、クラウド代なら別枠で予算が取れる、といったことになってないか。
米国本土近くでドンパチやるならまだわかるが、遠く離れた所でやるのだ。
今は中国だが、インドも米国GDPを超える。中国の次はインドなのか?
米国内に居るインド系移民がインドに帰って事業を牽引する時代がくるはずだ。
ニュースによって金融が動く時代、平和を望むという声と一緒に、株価が乱高下するような出来事が起きないか望んでいる人達が居ないだろうか。
一時期からビリヤニ作りにはまった。ビリヤニ鍋までは買ってないがオーブン加熱できる鋳物の鍋は買った。
参考にしている本は以下の3冊
https://www.anonima-studio.com/books/recipes/spice-cafe/
https://airspice.stores.jp/items/611fc81f84ca6342b0621532
https://publications.asahi.com/biryani/
上2冊は比較的マニアックなので最初は3冊目がおススメ。3冊目で感じや工程を理解したうえで上2冊のレシピに挑戦する感じ。
一番面倒なスパイスやバスマティライスの調達もインド系の方が多い地域なので輸入スーパーも多く安く手に入るので問題なかった。
で作って食べて満足してたんだけど気づいたのよ。その輸入スーパーで売ってんのよねビリヤニが。ケバブ屋も何店舗かあって店先でも売ってる。挙句にビリヤニ出してるカレー屋もある。価格はテイクアウトはチキンが5~600円でマトンだと100円増し。カレー屋のビリヤニは2人前くらいの量で1000~1200円。
ビリヤニ作ったことある人が一度は通るんだけど「売ってるのはベチャってしたカレー混ぜ込みごはん」「カレーチャーハン」っていって自分で作ったものこそビリヤニって言い張る。でも売ってるのちゃんとしたビリヤニ。もうパラパラで色もまばらだけどちゃんと味が回っててカルダモンとかクローブ入ってるやつ。自分でも作れるけどこれを超えるにはなかなか手間暇が要るなって思う奴。もちろん都内の有名店のビリヤニに比べると少し落ちるけど正直交通費とか考えると近所の店の方が総合満足度は高い。
もし近所でそれなりのビリヤニが5~600円で買えるのなら幸せなことだから是非買って食べてみてくれ。もちろん店内で1000円くらいで食べるのも良いぞ。自分で作ると量は作れるけど初期投資がそこそこいくので覚悟がいるぞ。あと冷凍のマトンは高いからマトンビリヤニに限ってはお店で済ますのがベストだと思う
はい。無いです
頭の悪い方々がフェミを語るのはロシア・ウクライナやるよかマシだからあっそっておもうけど
そういう話題のたびにイスラムを持ち出すのは真面目に不愉快だし不謹慎極まりない
名誉白人な方々と同じく人種の多様性に無頓着だからご存知ないのだろうけど
彼らは2001年以前からなんなら増田が生まれる前から日本にいるぞ
トルコ風呂の話とか有名だろ?(1984年にトルコ人留学生の抗議運動がきっかけになって「トルコ風呂」>「ソープランド」)
エスニック料理店、ケパブ、コンビニ、ホテル、IT、建設、いろんなところに彼らはいる
そして国籍上は既に日本人だったりする方や父母がそちらの方と言う人もいるだろう
辞めましょうねそう言う遊び
そもそもインドネシアとかトルコとかロシアとかイスラムの認識ないやろな
日本のホテルもケパブもインドカレー(インド人じゃなくてパキスタン・ネパールが多い)も建設現場も
https://www.yomiuri.co.jp/world/20210320-OYT1T50148/
米国のバイデン大統領は19日、アジア系女性ら8人が銃撃で殺害されたジョージア州を訪問した。アジア系に対するヘイトクライム(憎悪犯罪)を巡って住民らと意見交換し、その後の演説で「沈黙は共犯と同じだ。声を上げ、行動しなければならない」と訴えた。
インド系の母を持つハリス副大統領は第2次世界大戦中に日系人が強制収容された歴史に触れ、「人種差別は米国の現実だ。大統領と私は黙っていない」と訴えた。
これは心強い。
これから差別問題に黙ったままの人には共犯ですよ?大統領もそう言ってますよ?と問う道筋ができた。
バイデン氏は首都近郊から大統領専用機に乗り込む際、タラップで体勢を崩して何度もよろめき、一度、膝をつく場面があった。ホワイトハウスの報道担当者は「とても風が強かった。大統領は100%大丈夫だ」と説明した。
焦った・・・ただの風か。
「人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」
二つの家族の間を行き来しながら、人間の記憶や、場所への執着を捉えた文章。それはまるで、漱石のいいところだけ抜き出したような文章だった。
ところで、同じ著者の「インドへの道」もいい。これは大英帝国支配下のインドで、未婚女性が現地の男性に暴行されたという疑惑を巡る話だ。女性を守ろうとする騎士道精神と排外主義が結びつき、支配者と被支配者の亀裂が広がる様を描く、不幸にして極めて現代的な作品である。冤罪をかけられたインド人が、「誰があんな不美人な年増を」と心の中で毒づくの、とても嫌なリアリティがある。たぶん、帯を工夫したら売れるし、どっちの「弱者」がより保護されるべきか的な話題で定期的に盛り上がる増田の住民にも刺さるんじゃないかな。
切れた靴紐を昼休みに買うだけの、注釈だらけの何だかよく分からない小説。細やかな観察眼と都市生活者が思わず共感してしまう日々の経験で、要するにあるあるネタで延々と読ませる。すごい。こういうのが現代文学なのね、みたいに一席ぶつのにも使えるかもしれない。
真面目な話をすると、文学にはいろいろな機能があって、それは作者の意図とはかけ離れているかもしれないのだけれども、その結果的な機能の一つとして、その時代で言語化されていないものを文字化するというのがある。だから、文学賞を受賞した作品だからと言って、実は今の自分が読んでも面白いかどうかは全くの別問題なのだ。文章が巧みで、いかにも知的な主人公の知的な悩みを描いた文学だけが主流な時代は終わっているのかもしれない。そういうのが好きな人は古典で充分であるし、逆に言えばいろんな立場の人のきれいごとではないこじれた気持ちが知りたければ現代文学は面白い。
理由は書かないが、自分は周囲の期待を一身に背負っていたエリートが挫折する話が好きだ。前途有望な若者が、将来を棒に振ったり挫折したりする筋書きに対するこの偏愛ゆえに、自分は「ゲド戦記」第一部の前半部分や「スターウォーズ」のエピソード3に対する執着がある。
生きていくとは何らかの失望を味わうことであり、時間をかけてそれらを味わいつつ咀嚼していく過程であるのだけれど、こうした自分のどうにもならない感情を言語化した先行作品があることで、自分は孤独ではないとわずかな慰めが得られる。
「鏡の中の鏡」「魔術」「薔薇の名前」などの元ネタとなる作品を書いた人。「バベルの図書館」は聞いたことがある人もいるかもしれない。
非常に濃密な短編を書く人で、このネタで長篇普通に書けちゃうだろ、みたいなネタをそのまま短篇で調理する。どの作品も非常に濃密で、読み解くのにエネルギーがいる。文体は簡潔で、物語も必要最小限の描写できびきびと進む。ただ、具体的に何が起きているのか、そしてなぜそうなったのか、その設定の意味は何か、を追うには読者に教養が要求される。読破すると、それ以上のものが得られる。読み終わったらカルヴィーノだとかスタニスワフ・レムの「虚数」だとかミロラド・パヴィチ「ハザール事典」だとかそういう沼にようこそ。
キリスト教文学の癖にルシファーがめちゃくちゃかっこいい。地獄に落ちても神への反逆を続けよとアジる場面は音読したくなる。そのくせ、彼の弱く情けない姿もまた魅力的だ。アダムとエヴァが楽園で楽しげにしているところを見て、自分には愛する伴侶もなく、人類に与えられている神からの恩寵も既に失われたことを嘆く場面もまた、声に出して読みたい。そして、彼は人類への憎悪と嫉妬のゆえに、アダムとエヴァを堕落させる。この叙事詩の主役はルシファーだ!
好きなヒロインは六条御息所。自分の意に反して生霊を飛ばし、他人を苦しめてしまうことに悩むのがかわいそうでならない。今でいうなら、好きという感情をコントロールできなくて、それでも好きな人が振り向いてくれなくて苦しんでいるタイプで、感情のエネルギーが強い自分としては大いに共感する。
他に好きなキャラクターというか、嫌なリアリティがあっていいと思うのは薫で、その優柔不断さがいい。「この子とつきあいたいけど、でもこの子にそっくりな別の子とはいい雰囲気だしなあ」みたいな優柔不断というか欲深さは、男性心理をよく観察していないと書けない。そういう意味で、自分の中では紫式部の評価がすごく高い。
情けない夫が不機嫌な妻に、お前それだけはやっちゃダメだろ的な行為を延々続け、妻から完全に軽蔑され、とうとう上司に妻を寝取られてしまうだけの話で、一人称の視点から延々と繰り返される言い訳はひたすらに情けない。ねえ、僕のこと愛してる? 嫌いになっちゃった? と尋ねまくって、わかっているくせにとぼけないで! 今忙しいから後にして! うるさいからほっといて! もう愛してないったら! あなたを軽蔑するわ! と怒らせるのは、完璧な反面教師であり、ギャグすれすれだ。
しかし、作者は妻のことを相当恨んでたんだなあ。
身体に劣等感を持つ主人公が、付き合うだけで不幸をもたらす浮気性の彼女を振り切って、幸せにしてくれる女性を見つける話。多くの人が何かしらのコンプレックスを持っているし、何であんな自分に敬意を払ってくれない人を好きになったんだろうって記憶を持っていることだろう。王道過ぎるといえばそうかもしれないが、結婚してハッピーになる王道の何が悪い!
ローマ皇帝が自分の治世を振り返る体裁でありながら、欺瞞と自己満足をさほど感じないのは文体のせいなのか。時代も性別も文化も言語も超えて、別の個人に憑依しながらも、己を見失うことなく語る著者の声は、他人の視点に立って(歴史)小説を書くとはどういうことなのかを、これからも厳しく問い続けることだろう。
中年や老人にならないと書けない小説がある。そして何年もかけて書かれる小説があり、構想から数十年が過ぎて着手される作品もある。そうした重みを持つ文学作品がどれほどあることか。
技巧も素晴らしく、文体も素晴らしい。こうした作品に出合えるのは、年に一度か二度だ。
説教臭い頑固おやじのブログ。基本的には仏教説話が多いが、それらに交じって挿入される、「〇〇という迷信には典拠がない」だの「〇〇という習慣は最近のもので、本来のありようや精神とはかけ離れている」だの「〇〇という言葉は語源を考えれば正しくは〇〇と言うべきだ」だのが、まさにその辺のおじさんがいかにも言いそうなことで面白い。
ただ、それだけじゃなくて、第三十九段の「或人、法然上人に、……」のエピソードは、「とりあえずできるところから頑張ればいいじゃん?」的な内容で励まされるし、十八段の「人は己れをつづまやかにし、……」は身軽に生きていくことの幸せさを教えてくれる。
最高だった。ラヒリ大好き。体調崩すレベルで刺さった。アイデンティティの混乱という古典的テーマもさることながら、ラストシーンで過去と不在の人物の記憶が、そして小説の全体が何気ないものによって濃密によみがえってくる様子がすばらしい。そのイメージはプルースト以上に強度があるかもわからない。
これは、インテリのインド系(ベンガル人)移民の第一、第二世代の話なんだけれど、読んでいるうちに海外赴任者の寄る辺なさを思い、つまりイギリスで暮らしていた自分の両親の境遇を勝手に連想させられ、ついつい感傷的になってしまった。随分と勝手な読み方だが、小説の読み方はいつも私的なものだから構わないだろう。
外国では気候も習慣も何もかもが違う。両親の教えることと学校でやることが矛盾していて、両親が里帰りしても子供たちは故郷のノリについていけない、ってのが、すごくパーソナルなツボをついてくる。こういう経験がなくても、地方と都会として読み替えると、増田でいつも議論されている話にも近づくんじゃないかな。
正直なんでこの時代にラブクラフトを読むのか、というのはある。人種差別主義者だし、排外主義者だし、クトゥルフ物はパターンが決まっているコントみたいだし(人類に理解できない名状しがたいものに触れて発狂するのが基本的なオチ)。でも、彼の持っていた宇宙の巨大さと人類の取るに足らなさという感覚は、まさにセンス・オブ・ワンダーだ。そして、「人間の感情の中で最も古くて強いのが恐怖であり、その中で最も強いのが未知のものへの恐怖である」という言葉の通り、究極的には理解できない「他者」という存在の恐怖にまっすぐに向き合おうとしたことを何よりも評価したい。
この作品が好きな理由もまた、不気味なクリーチャーが非常に知的であり、かつ知識欲が旺盛だということによっている。
一巻から三巻までは、ゲドという人物の自我の確立に始まり、他者を助けることや世界を救う英雄的行為が扱われる。しかし、実はゲド戦記は第四部からが本番なのだ。あらゆる魔法の力を失い無力な存在となった彼が、魔法のある世界でいかに生きていくか。これは、老いに直面する男性の物語だ。
そして第五巻! ゲドの生涯で一番の功績が、実は重大な誤り、人類の傲慢に過ぎなかったのではないか、という仕事に生きてきた男性には非常に厳しい可能性が示される。
しかし、ル・グインはゲドにとてもいい歳の取らせ方をしている。果てしなく努力をすれば、男性が女性を、女性が男性を理解できるのだと作者はどこかで述べていたが、その希望を見せてくれるし、そこに女性作家を読む喜びの一つがある。
いわゆる毒親について書かれた小説なんだけど、ねちねちしていなくていい。文体は軽く、描写も簡潔。だからこそ、彼の育った環境の異常さが際立ってくる。なんでこんな親子関係になっちゃったのかについて掘り下げられることもほとんどない。
そして、暗鬱なだけの作品にならないのは、にんじん少年の異常なたくましさだ。ひどい目に合っても受け流し、冷淡な母から何とか愛されようともがいている。読んだときの年齢によって、感想は大きく変わるだろう。
色々とコメントをいただけたのでいくつか返信してみよう。
まず、私をいわゆるネトウヨだと思い込んでコメントしている人がけっこういるみたいだが、私は自分をネトウヨとは思っていないし元の日記も徒らに日本アゲをするような趣旨は一言も書いていない。最初にも書いたが日本の男女格差が酷い(森元首相の例のコメントのように)のは痛感しているしもっと男女平等が実現されてほしいと思っているくらいには自分をフェミニストと思っている。日本の人種・外国人差別がマシだとも決して思っていないし、ネット上の中国・韓国人への誹謗中傷は断じて容認しない程度には自分をリベラルだと思っている。
人種の坩堝のような国から、単一民族の国まで、男女よりも形態にバラつきがあるから単純なランキングは難しいのかも?大和民族と、在日外国人や、その他の民族とのギャップがフィーチャーされるのは良いと思う。
ありがとう。確かにこの辺を見ても民族・文化的多様性は本当に国ごとにバラバラらしいから(日韓あたりは世界的にみて非常に同質な国家らしい)、定量的な指標を作るのは難しいかもしれない。
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_countries_ranked_by_ethnic_and_cultural_diversity_level
それでも定性的には何らかの評価はできるだろうし、不完全でもまずは何らかの横並びの指標で世界を測ってみるのが大事だと思う。指標は後から批判を受けて改善していけばいいし。
なるほど、ではある。しかし男女というのは理屈上はどの国でもほぼ半々なわけだ。人種とかで区切ると国によって多様すぎる。アメリカは人種別のいろいろな統計は出ていて、ひどい結果になっている。
男女はほぼどの国にもいますが多人種はいる国とあまりいない国があるから難しいでしょう。 あと欧州やアメリカは人種差別の多い国というより人種の多い国だと思うんだけどどうよ
男女はどの国もあるというのは確かにそうだなとは思う。一方で、LGBTのような性の多様性まで考慮したら本当にどの国でも同じと言えるのか。また、人種・民族・文化の多様性は国ごとというが、これだけグローバル化が進んでいてどの国民国家も一国では成り立たない世の中で、安易にこうした試みを諦めるのも勿体ないとも思う。どんな国も(日本でさえ ※上のWikipedia参照)何らかの人種的多様性を抱えてて社会的問題を孕んでいる中で、こうした指標を作る意義はあると思う。男女格差の指標だって、20世紀来女性の地位が見直されて社会進出が進む中で出てきたものだし。
あと欧州・アメリカは、人種の多い国だけど同時に人種差別も多い国だと思う(でなければBLMみたいな運動が注目されるはずがない)。一度でも欧州のどこかに旅行に行ったことがある人は、あの独特の硬直した社会の雰囲気を知ってるんじゃないかな。アジア人としての居心地の悪さ。それはCOVID-19の前から変わっていない(今はさらに酷くなっている)。あと欧州人のアフリカ・アラブ系への見下し方とかは酷いよね。以前、欧州の同僚とイタリアのミラノを観光していたときに私は何気なくアフリカ系の人たちに近寄ってしまったのだが欧州人の距離のとり方は凄かった。カリフォルニアから来たインド系の同僚は、ベルリンでフードを目深に被って顔を隠しながら歩いていた。警戒していたんだと思う。
ちゃんとジェンダー不平等指数は22位、ジェンダー開発指数55位、人間開発指数19位とかそういう公平な報道をして、最上級国民ダボス会議で知られる「日本は遅れている」プロパガンダをやめることが先決だと思うが。
公平な報道を、というのは本当にその通り。一方で、ここのコメントでさんざん吹き上がっているように日本社会にまだまだ改善の余地があるのも事実なので、そこは粛々と改善していきたい。
実際に分類された結果「男女差別よりはずっとマシだがら男女差別を放置する言い訳には使えないが欧米を言い返すのは不可能レベルに充分酷い」って出たら、ウヨミソが発狂しそう。
「人種差別・民族差別指数」なるものがあったとして、永住権をもつ外国人の地方参政権すら認めないジャパンはやっぱり差別大好き国家になることは目に見えてるんだが。
冒頭でも書いたけど、自分はネトウヨではないし日本アゲしたかった訳でもないから、もし客観的な指標で日本が低い結果になったらそれはそれで粛々と受け止めるだけだと思う。あと仮にそんなランキングで日本が上位になったからといって、今のネット上での人種差別的な言動は断じて許容しないし、日本社会の大きな問題であることには変わりがない。上のコメントが私にではなくこれを読んで曲解した「ネトウヨ」読者へ向けての警句だとしたらいいが、元の記事には「日本ガー」みたいなことは書いてないはずなのでネトウヨだろうが誰だろうがもう少し丁寧に読んでほしいなとは思う。
外国人の地方参政権云々については、人種問題というよりは移民政策とかもっと政治的な各国の判断だと思うのだが、その分野は詳しくないのでこれ以上はなんとも言えない。
人種格差は、フランスのように「仏市民自体が一つの民族であり、人種を想定するのは差別の温床」という国や、ミャンマーのように「あれは国民ではなく移民」と言う国もあり難しいのよ。逆に統計とってる代表格は南ア
南アフリカは確かに過去に苛烈な人種差別のあった国だから自浄作用的にそうした統計を取ってるのは理解できる。国々で人種・民族の捉え方が違う、というなら男女の問題だって各国で伝統的に扱い方が違うだろうし、とくにムスリム国家では宗教と結びついたナィーブな問題でもあるだろうから、難しいと言っていたら何もできないのではないか。
人種差別ランキングというか評価付けならあるぞ、日本は最近それで評価下がった 理由は外国人労働者へのブラック労働。さらに下がると貿易に影響するからヤバい状況らしいよ
あるよ。なんでないとおもったのか。
既にあるんだとしたら私が単に不勉強なだけなので、ぜひ教えてほしい。タイトルだけでも教えてくれればあとはググれるので。
こういうのでなくて?ランキング形式ではないけど。https://www.google.com/amp/s/www.cnn.co.jp/amp/article/35122505.html まぁアジア系が最大で開いてるので、増田の願望はかなわない臭いけど。
調べてくれたのはありがたいが、これはランキング以前に米国内での話だよね? あとアジア系の格差が最大というのは米国内でアジア系人種への扱いが二極化していることを示すだけで、アジア系社会内で差別が最も激しい訳ではないでしょう? ここから逆に読み取れたのは、米国ではアフリカ系やヒスパニック系、ネイティブ系は逆に社会で固定的に差別対象とされていて、一方アジア系は貧しい階層に押しやられている人たちもいればヨーロッパ系同様の裕福な階層にも入り込める、ということかな。
国連の人種差別撤廃条約に基づく人種差別撤廃委員会による日本政府に対する条約の実施のための改善勧告を見てみよう。ジェンダー関連以外もてんこ盛り。本邦の人権絡みの惨状は男女差別だけじゃないよ、大丈夫だ!
これも元の日記を日本アゲだと勘違いしているコメントだけど、日本に改善勧告してくれるのは大変結構なんだけど、どちらかといえば同じように欧州や米国などにも人種差別の問題をもっと勧告しようね(してるならその報道を見たいね)、という話。それは日本のためじゃなくて世界のためにね。
個人的な感情で人種差別と書いてしまったが、マレーシア政府からするとマレー人優遇政策らしい。が、正直人種差別だとしか思えないのでタイトルではそう書いた。
マレーシアは多民族国家である。2018年のデータでは、マレー系69%、中華系23%、インド系7%という人口構成比となっている。
中華系マレーシア人は19世紀ごろに中国南部から渡ってきて定住している人たちや、植民地時代に労働者としてヨーロッパ諸国に連れてこられた人たちの子孫である。
今回は主にマレー系マレー人と中華系マレー人の断絶について語っていく。
あくまで全体的な傾向だが、マレー系の人は良くも悪くもおおらかである。細かいことは気にせず、10時に始まる授業が始まるのは11時だったり、12時だったり、15時だったりした。基本約束は守らず、お店の人はずっとスマホを見ていたように思う。
一方中華系の人は、勤勉な人たちが多かった。何事にも一生懸命、留学したり、インターンをしたり、積極的な人が多かった。
全く違う性質を持つ2つの民族間の断絶は大きかったと思う。仲が悪いわけではないが、少なくとも私が住んでいたクラスの席は人種ごとに分かれ、ランチも、ショッピングも、人種が交わったグループで行われることはなかった。日本人の私は、マレー系の人からは「中華系の人たちは働きすぎて余裕がない。あんな働いてどうするんだろう」と、中華系からは「マレー系の人たちはあんなに怠惰でひどい」とよく言われていた。
こうしたことから生まれるのは経済的格差である。マレーシアは資本主義をとっているので、勤勉に働く人がお金を得られる。つまり、多くの経験をつみ、起業したり大企業で働く人の多くは中華系である。こうしたことで、経済を回すのは中華系の人々で、マレー系の人々は農業などの一次産業に従事するという構図が出来上がった。
ここに待ったをかけたのがマレー系の人々で、マレー系の人々を優遇することで、マレー系の地位を守ろうとした。そのための政策が1971年にうまれたブミプトラ政策である。
教育は、日本で言えば高校入試において男女別に枠を設けているのと同じようなものだ。こうした場合、性別ごとの最低合格点が異なることで不公平が生じることがある。マレーシアの国立大学では人種ごとの合格枠の比がその人口比とかけ離れているため、優秀な中華系が大学に落ち、マレー系ばかりが合格するということが多発した。
就職は、中華系の人には職業選択の自由が保障されていないということだ。中華系の人は、公務員にはまずなれない。もしなれても昇給などで不当な扱いを受ける。私の友人の中華系マレーシア人も、子供の頃から警察官に憧れていたが、途中で自分はなれないことを知って、その時はとても悲しかったと言っていた。
減税はそのまま、マレー系の人たちは車や家に関する税がかなり優遇されている。低金利ローンや住宅購入時の割引などもある。また、会社もマレー系の人が経営している場合はかなり税金の優遇措置がある。(中華系の人は、無能はマレー系を人形としてトップとしておけばいい、なんてジョークをよく言っていた。)
国際的な批判(マレーシアは人種差別撤廃条約を批准していない)や、中華系(や、とばっちりで差別されているインド系)の人たちの反発があり、ブミプトラ政策の緩和を推進する動きもある。
しかし、マレーシアは民主主義国家であり、マレー系の人口は全体の69%であることから、ブミプトラ政策の緩和という政策は話題になっては消えるということを繰り返してきた。
最近では2019年に選挙の結果首相となった93歳のマハティール氏の支持率は当初79%であったが、ブミプトラ政策を見直す姿勢を明らかにしてから、下院議員や州議会議員の補選で与党は3連敗し、支持率も39%まで低下し、デモも多発した。
もともとマハティール氏は昔も首相であったが、その際もブミプトラ政策の見直しをしようとして野党に転落した。
こうした背景もあり、実際ブミプトラ政策の撤廃は難しく、もし撤廃される日が来るとしてもそれはかなり先のことだろう。
マレーシアのことだから差別的だと思ってしまうが、他の国から来た何世とか言われる人たちが日本の富のほとんどを持っていて、政治的主導権も持ってたら、多分私もそれを良しとは心から思えないから。