はてなキーワード: トゥルーエンドとは
特にケモナーってわけでもなかったけど無料だったし絵も気に入ったので、とりあえずエンディングだけは一通り見てのネタバレ駄文。
システムなど基本的なことに関しては、既読スキップなど最低限のUIはあり、ストレスはそこまでたまらなかった。まあそこまで複雑なシステムがあるゲームでもないしこのくらいでも十分。
翻訳に関してはかなりレベル高い。ところどころ安定しない一人称や、誤字が見られるものの読むぶんには問題ないレベル。
あと現地宗教や特産物、地名など地域に根づいたポンと出されても全くわからない要素に関して用語集があるのも非常によかった。
ストーリーに関しては、一回目は何も考えずにプレイした結果(後のトゥルーエンド見るに、誘導されたのかもしれないけど)唐突に車にはねられ、並行世界的場所で先輩と二人幸せに暮らすとかいうエンドでさっぱりわけがわからなかった。正直トゥルーエンド見た今もよくわからない。
そのデータでいくつかエンディング見た後、結局雲豹に関してさっぱりわからなかったり、ストーリーが気になったので攻略を見てプレイ。そうして順繰りに各キャラエンド、そしてトゥルーエンド見ていった。
そうした全体の感想としては、ストーリー前半部のイチャイチャや分岐パートに関してはまあそっち系の興味もないこともあって流してたけど、後半の雲豹に襲われる辺りからの展開は物語に引き込まれた。
それまで伏線を生かした逆転もあり話が盛り上がって、その後の雲豹が襲ってきた理由や先輩の正体も意外性があり楽しめた。
まとめとしては、無料とは思えないレベルで纏まっており、そっち系に興味ない自分でも頼んでプレイすることができた。
あと、キャラクターとしては、やっぱり長年見守ってくれてたりピンチに頼りになったりとかっこよくて世話焼きな虎爺が一番好き。
たぶん少数派ではあるが、それであるが故に多くの人と悩みを共有できないこのような考え方を、自分もずっと持っていた。別に誰かに読んでほしいわけでもないが、もし仮に僕が慣れない筆をとることによって誰かの心に少しでも寄り添えることができるなら、また他の誰かからしたら到底理解不能な考え方であるかもしれないけれど、それでもただ貶すためではなく、僕たちのような存在の頭の中を少し覗き見してみたいという好奇心を持ってくれる方がいたら、と思い文字を起こしてみることにする。重ね重ねいうが、書き物をするのが初めてで、稚拙な表現も多いと思うが、ご理解いただきたい。そして、他人に言われるまでもなく自分が一番よくわかっているのだが、この文章を書いているのは蟻地獄に落ちた蟻のように、何年もこの考え方に雁字搦めに縛られている本当にダメな奴だということも、どうか頭の隅に置いていただきながら読み進めていただければと思う。
本当は語りたくもないのだが、簡潔にでも語っておかねば正しい背景を理解できないかもしれないので、述べておこうと思う。何はともあれ、この記事を書くきっかけになったの一番の理由は、元記事を書いた方のエロゲー経験という共通点があったからである。この単語を聞いて、女性の方は嫌悪感を催すかもしれない。もちろん、無理に読み進める必要もないのだが、私にとっては私の恋愛観と切っても切れない関係性なので、これを語らずには話が先に進まないのである。
元々、小さいころからPCを使っていた私がそういったゲームを遊ぶことになるのは至極自然な流れであった。いわゆるオタク男子という奴である。私はプレイした本数自体は少なかったが、それでも買ったゲームは大切にじっくりとプレイした。エロゲーには様々なジャンルがあるが、私は"泣きゲー"というものを好んでプレイしていた。こういったゲームは、理想の女性が望むような行動をとってくれて、性欲の発散の手助けのために作られた所謂抜きゲーとは違って、僕にとってはそういうシーンはむしろおまけであり、濃厚で綿密に練られたシナリオに没入することであたかも別の人生で青春をやり直してるかのような感覚になり、私が中高生のころに味わえなかった経験を追体験させてくれる稀有で貴重なものであった。
私のプレイしたゲームだけかもしれないが、このころ"泣きゲー"には大体のおきまりがあって、ヒロインは大体誰でも何かしら問題を抱えていた。そしてもちろん、恋愛経験のない方向けのゲームのため、知る限りほとんどのヒロインが未経験の女性ばかりであった。主人公はシナリオを進める中で、好感度をあげ、特定のヒロインのルートに入ることによって、ヒロインが直面している問題を一緒に背負うことになる。好感度を一定の基準まであげ、かつ彼女たちが何かしら抱えている問題を解決に導くことができれば晴れてヒロインと結ばれトゥルーエンドである。そして、そのどちらかの条件が満たせなければ、対応したバッドエンドに入る仕組みになっている。(例外もあるが話の本筋とずれるので詳細は省く)何より私が面白いと感じたのは、そのゲームの中で私が恋した女性と二人で困難を乗り越えながら絆を深め、問題を解決できたときに用意されている感動的なシナリオ、そして愛する人とお互いが初めて結ばれる幸せ、これは当時の私のようなオタク人間が現実ではとうてい味わうことのできない幸福感であった。
しかしながらあくまで仮定ではあるが、恋愛経験がないままこういうゲームばかりをしていれば、中には恋愛観をこじらせてしまう方もいるのではないだろうか。自覚はなくとも、何度もそういったゲームを繰り返すことによって、お互い初めてどうしの人間が結ばれるのが至上の幸せ、いや唯一の幸せという価値観が力強く形成されてしまうのである。多感な時期に強くインプットされてしまえば、その感覚から抜け出すのはなかなか難しい。
少なくとも僕にとっては、恋愛とはそういうものだと強く印象付けられてしまった。
だからこそ奥手なのだと、自分を万年童貞だとのたまいながら、こころのどこかではいたいけな少女もびっくりのロマンチストな、自分ぴったりのプリンセスが私の目の前に通りかかって私に助けを求める場面を自覚なきまま何年も求めていたのである。そして、その相手と耐えがたき困難を抜けたそののちに、相手が自分のことを愛してくれて初めてそこで、自分の初めてを捧げるにふさわしいと本気でそう思っていた。自分で書いていながら、少々うすら寒い。しかしながら、これが私の恋愛背景である。
ここまで説明して、どうだろうか。所謂エロゲー全盛期の頃にプレイしていた諸君は、どのような価値観を持っているだろうか。
今思えば、自分を童貞だと自嘲するのは、自分の童貞はそう安くはないという表現の裏返しであり、簡単にはくれてやらないぞという誰も聞いていないのに勝手にしゃべりだす迷惑な自己主張であったのかもしれない。そして、恋愛を必要以上に自分自身の中で神格化させてしまったが故に、性行為というのは本当に為すべき相手としかしてはいけないという意固地な考え方になってしまい、初めて付き合った彼女の経験人数を知ってからは、そのことを思うだけで胸がきゅっとなる毎日を過ごしていた。ちなみに為すべき相手としかしてはいけないという考え方について、具体的には私にとって人生においてたった一人の相手のみをその行為のパートナーとすることである。
おそらく、我々は、いや私だけかもしれないが、過去の男と比べられるのが怖いのではなく、そういう経験を汚いものと思ってるわけでもなくて、その行為が自分だけでなく相手にとってもとても特別なことであって欲しい、というちょっとわがままな押し付けがあるのだと思う。過去にプレイしたゲームの主人公のように、自分だけが相手にとっての特別な存在になることができ、自分だけが相手の抱えてる問題を解決することができ、自分だけが相手の、自分以外の誰にも見せることのない色々な表情をみることができる、そんな彼女にとって随一の関係でありたいと。
でもそれはゲームの中に作られた砂上の楼閣のようなもので、現実というのは私にはそう甘くなかった。私も最近やっと理解したのだが、性行為というのは何も特別なことではなく、相手の問題を解決したり、一緒に困難に立ち向かう必要などもなく、もっと言えば恋愛関係になる必要すらなく、ただただ当事者同士のきちんとした合意さえあればできてしまうことなのだと。そしておそらく、水が流れる川のように、風になびく木々のように、自然の営みの一環として、我々の目に見えないところではあるがごく自然に平然とそういう風に行われているものなのであると。ただただ我々だけが、ひどく特別なものだと、神聖であるべきだと、簡単には触れてはいけないところだと思っているだけで、現実の多くの人はここまで頑なに守り固めた価値観を持ち合わせていないのだ。
そして、だからこそ苦しいのだ。こんな価値観、そうそう持っている人などいない。持っていたとしてもそれを口に出す人などめったにいないだろう。
我々が愛読していたのは、シンデレラの結末のその後が少しだけ書いてある、ちょっとおませな絵本にも等しい。
そんな絵本のストーリーを、少なくとも私は本気で望んでいたのだ。
私も彼と同じように、初めて付き合った彼女とのそういった部分での価値観の違いに直面し、結婚を考えるにつれてとても暗い気持ちになった過去があるので、彼の気持ちはすごくよく分かる。私がどれだけ思っていることを素直に伝えても、正直彼女との価値観の違いを嫌というほど知らされお互い不幸になるだけであった。
でも一つだけ言えることは、あなたが彼女の今までの経験に対してとても辛く思うということは、少なくともあなたにとって彼女はとてもとても大切で、特別な存在で、彼女にたいして君は他の人に見せない部分をたくさん見せているのではないだろうか。こんな言い方するのも卑怯ではあるかもしれないが、過去僕を受け入れてくれたゲームのヒロイン達は、僕が仮に未経験ではなかったら受け入れてくれなかったのだろうか。もちろん全員が受け入れてくれるかはわからないが、きっと多くの子がそんなこと関係なしに僕を受け入れてくれたはずだ。もちろん性は繊細な問題であり、三大欲求の一つにも数えられるぐらいだから、そこに関しての価値観の違いというのがとても重要なのは確かだ。しかしながら時として我々も譲歩しなければならない。我々の人生はあくまでゲームの中ではなく、現実というリセットもセーブもできない世界なのである。そんな僕たちにとって非情で冷たい世界だからこそ、自分を受け入れてくれる存在に対して行動するときは後悔しないようによくよく考えて欲しい。
もちろんこのまま付き合い続けて、一生その悩みに苛まれ人生の最後の最後で後悔することもあるだろう。
いつか時間が解決し、あの頃どうしてあんなことばかり気にかけていたんだろうと思う未来もあるだろう。
彼女と別れることで、自分の悩みを解決してくれるような新たな存在に出会えることも当然ながらあるだろう。
きちんと彼女の存在に向き合って、自分にとっての彼女がどれだけの存在か、そして自分がどうするべきかゆっくりゆっくり考えて欲しい。
この違いなんだよなぁ。
結局はここが絶対的な違いなんだよ。
オタクの作品を一般人向けにしたり、一般人向けの作品をオタク向けにすると、このギャップが超えられずに作品のエッセンスが谷間にボトボト落ちていって意味不明な何かになるのよ。
何でこんな違いが生まれるのかって言うと、一般人は結局のところそれぞれの人生を受け入れられる程度には人生が充実してるのよ。
でもオタクはアニメの見すぎで求める人生のハードルが高まりすぎて、そのハードル越えるの諦めきって腐った人生送った結果自分の人生に不満プンプンな訳。
だからオタクは自分のありのままの人生なんて受け入れらないから、トラックに轢かれて異世界でチートし放題とか妄想しちゃう。
そういうメンタルがループ物とぶつかると、トレードオフになる可能性の向う側にある第三の答えを求めだすんだよオタクは。
女か虎かとオタクに問えば、①ハンサムな主人公は突如逆転のアイディアが閃く②奇跡が起きて王女と結ばれる、みたいな事抜かすのがオタク。
なにそれ?
お前ら何が言いたいのってなるわけ。
だからオタク向け作品を一般人向けにしたり、一般人向けをオタク向けにしたりすると、不幸と踊って横転事故の大惨事になるって事よ。
オーケー?
見たアニメ全部レビューする体力無いからレビューしたいのだけやる。
ソリティア激しくてたまに何やってるのか把握しきれないけどデュエルにケレン味があって結構好き。主人公の性格が遊星をマイルドにした感じで歴代の中でもかなりの安心感がある。にしても”カードは作った”をスキルという形でゲームルールに組み込んでしまうヤケクソっぷりは凄いね。ネットとかで散々突っ込まれてきた要素が最後はこういう形になるとはね。
「気持ち悪いよ」って本人の台詞じゃなくて他人から言われてる台詞だったんだね。知らんかった。物語が物凄い動いてる最中に終わってるんだけど原作の販促効果高めすぎでしょ。
主人公女の子で良かったんじゃねーかな。もっと課金して良かったんじゃねーかな。とはいえグラン君主役でメインキャラ中心に進めた方が物語にノイズは少ないのは事実なんだよね。多分スタッフもその辺考えて色々頭ひねってあの最終回になったのかな。あれテレビでやってくれたのは感謝だな感謝。普通なら円盤特典でしょ。
武装少女
『このアニメは女の子のかわいさをお楽しみいただくため邪魔にならない程度のさし障りのない真剣勝負をお楽しみいただくアニメです』とぼくの目には映りました。女の子かわいかったなー。マツコを始めとしてオカマもいいキャラしてたね。自分はさとりちゃんのこと最初好きじゃなかったけどデレたら凄い可愛くてビックリ。女の子ってのは変わるもんだね。最後の方までずっと解説要因だった月夜ちゃんが以外にキレッキレなキャラしてたのも驚いた。お友達になりたい。
エロマンガ先生ルートを攻略して終わると思ったら実は共通ルートだった。勝負はとっくに付いていると思っていたがそうではなかったんじゃ。いうなればこれまでの勝負所は全てプリフロップ(テキサスホールデムポーカーの4回あるベットタイムのうち最初の1回)じゃったんじゃよ。そして全員が降りることを選択せずにレイズ(掛け金上乗せ)をかました所でアニメは終りを迎えたのじゃ。ここから先が本当の勝負なんじゃ。一見ゲームに参加してないように見えるファッションビッチも、おっぱいの大きな同級生も、ホモじゃない宣言したはずの国光先生さえも、同じテーブルの上で二回目のベットタイムに備えているんじゃ。なんということじゃ。俺達の戦いはこれからだにも程がある。だがそれが心地良い。勝者は既に決まってい共通ルートには二度と戻ってこれないと思っていのに、その共通ルートがこれからまだまだ続くのじゃ。エロマンガ先生たちの楽しい楽しいエロマンガみたいな日常がこれから始まるのじゃ。これってある意味エロマンガ先生ルートすら越えるトゥルーエンド。時よ止まれ、共通ルートは美しい。
「推理小説におけるロマンス描写」を、絶対真実な添え物とスルーするのではなく、本当の謎解きは情愛部分にあったのだとみなします。
随時更新
私の持論として。一番大事なことは『自分が作品をスッキリ楽しめたか』という部分であり、正解のない舞台作品の考察というものは『よりスッキリした心で作品を愛する』ために行うべきである、と考えている。
作者の真意とかメッセージとかは観客に都合のいい時にだけ引っ張り出せばよい駒であり、エンタメの世界に『解き明かすべき絶対の謎』なんて無いのである。
「楽しんだモン勝ちや!」である。
その観点で言えば、初見の私の感想は、もうグッドエンドとして十分だった。
http://anond.hatelabo.jp/20170206104211
作品構造を分解すると唸るほどしっかり構築されていることがわかり、「ただ自分が見たままを感じ、考察などせず楽しむべき」類いの舞台ということが浮き彫りになって仕方がない。
しかし私は、好奇心と言うか…感動を共有できない淋しさと言うか…出所のわからない衝動に駆られて、本作を『ミステリー』として推理することに踏み込んでしまった。
そしてこの目的で2回目観劇したことを多いに後悔していたのだけど、今わずかばかりの希望の光が見えてきた。
犯人やトリックを推理する殺人ミステリーではなく、二人の人間の有り様を推理する情愛ミステリー。
簑浦も諸戸も幸せになれる最適解。
ですので、自分でも自分なりのトゥルーエンドを目指しますが、時間にリミットがあるため、もし同じくこの迷宮にうっかり足を踏み入れてしまった探偵さんがいらっしゃれば、ご助言を賜れると幸いです。
目指すゴールは『スッキリ楽しめて、より作品を好きになる』こと。
本作は深い意味で「原作に忠実」だと感じるのだけど、原作をそのまま演じている訳ではない。
今のところ私にとっての最大の謎は、この世界の階層構造と登場人物である。
私に見えたキーパーツを挙げていく。
また、注釈の挿入タイミングを正確に記憶していないので、区別が間違っているかもしれない。
基本的に諸戸は今回の舞台上では同一存在だと考えていますが、そう見えるだけかもしれないため分けておきます。
随時更新
我々は『なぜ』錯覚していた?
前提として、本編はすべて「諸戸」と「簑浦」で代替できる隠喩要素のみで編纂されている。(秀ちゃんの手記、丈五郎の過去、など)
また、一般的に「嫌悪感」を感じるものを排除し、極限まで美しく描いている。(ビジュアルはもちろん、諸戸の性的侵略も)
→諸戸からの握手を握り返さない『箕浦』に諸戸は驚き『私』を見詰める。すると『箕浦』は諸戸の手を握り返した
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→本編は経験談の体なのに、諸戸のセリフにも括弧を入れて諸戸のモノローグが挿入されている。簑浦のモノローグはほぼ《私》であるのに、諸戸のモノローグはしっかり《僕》
観劇2回目の備忘録:http://anond.hatelabo.jp/20170208235429
(着眼項目リストと理由:http://anond.hatelabo.jp/20170207171941)
観劇2回目で受けた印象:http://anond.hatelabo.jp/20170209051208
初見感想を書いた後のメモ:http://anond.hatelabo.jp/20170207200710
http://anond.hatelabo.jp/20170208235429
率直に書く。総合的な感想や考察は落ち着いたら書くつもりだけど、壁打ち悲しいから書かないかも。(というか他作品観劇したらもう書けなくなるだろうから、勢いつかないと現実的に厳しそう)
トゥルーエンドではないけどグッドエンドはもう前回観れたから、推理の旅を終えていいようにも思っている。あとやはり証人が足りない。私の観たルートより先の話が展開されないと推理が苦しいし淋しい。
初見と印象が違いすぎる。
何が変わった? 私が変わった?
今回はまったくもやもやしなかった。ただあるがまま受け止めてほんと苦しい。
今作はもうずっと『諸戸と簑浦』の話しかしていない。だからもうつらい。世界に二人しか居ない。つらい。
時系列順に。
ちなみに『私』と『箕浦』と《わたし》と《みのうら》と簑浦が出てきます。
手記の内容は、すべて完全に諸戸についての内容。つらすぎ。
『私』は諸戸を「哀れ」と評す。まじかよ。
奥さんがお茶を入れてくれてそれを飲んだはずなのに、誰かいませんか?的なことを言う。え、やっぱこの『私』お亡くなりになってない?
そして諸戸登場。語り部の『私』と会話する。おかしくない?
だから最初は『私』も諸戸も亡くなってて、死後の世界に見えてならなかった。
てゆか、今日見た諸戸がこわくてこわくて、ずっとすごいこわくて。諸戸の亡霊みがやばかった。成仏してない霊感。
初見は王子様のような諸戸だったのに、何が変わった? 私が変わった?
『私』と諸戸は二人で一緒に過去を振り返る。
諸戸との最初の決別、夜の告白の時、聞いてる時の『私』はものすごく悲しそうな切なく美しい顔をする。嫌悪の色ではない。
『私』は諸戸に「性愛には応えられないけれど一緒に遊んだりした友情には感謝しているし君もそれを喜んでいるように見えた」的なことを言うのだけど、これ少なくとも2回目撃している。隠喩だったかそのままだったか…どこだっけ思い出せない丈五郎と道雄だっけ…? すごいつらい。
あのね『私』と『箕浦』が互いに演じた《わたし》と《みのうら》、《わたし》は未来をすべて知っているようで(諸戸の死を含む)、《みのうら》は生きてるからすごく生命力のある反応をする。『私』が《みのうら》になって井戸出たときなんて、それまでとのギャップにちょっとびっくりした。
ここで振り返ったのは過去だから未来ではないけれど、どうにも諸戸からも時間を感じない。(ミスリーみあるけど)
似てきたなと私が感じたのは、この冒頭の『私』と諸戸、諸戸親子、諸戸と吉ちゃん。親子はアフタートークでも言われていたけど…というかあの世界は「諸戸と簑浦に関すること以外すべてカット」されているので、全部が諸戸であり簑浦であってくるしくて無理。常にライフ削ってくる。
大人になってから。『箕浦』は「ここからは僕が」と言って登場する。おかしい。どうして語り部の語る内容にキャラクターが介入できる?
だから私は、ああこれは『演劇』なのだな、と気付く。原作では簑浦が口頭でこの物語を語ってくれるのだっけ?それとも小説? ここではその語り口が『演劇』なのだと。
『箕浦』は『私』が初代に渡そうとした指輪も意気揚々と奪ってくる。《みのうら》演じている『箕浦』は本当に生命力に溢れてる。
嗚呼だめだ寝落ちたらもう思い出せない…『箕浦』だけは「諸戸と簑浦に関すること」が何もない存在だったようにも思えてくるけど、もう私の記憶は証人として使えなくなってしまった。
『私』は決して初代を「美しい」と言わなかった。まわりくどく魅力を説明する。その形容自体に違和感は無いが、乱歩が連載初期から意図的に言語を使っていたのなら、初代を「美しい」と表現しないのは変だ。簑浦にとっての初代の価値が軽すぎる。
『箕浦』は何についても「美しい」と言わなかった。やはり簑浦は矛盾や歪さを抱えていないか? それを『私』と『箕浦』で同時成立させていないか。『私』と『箕浦』は別々の役割をもった役者。
初代は証言する。正面を向いて淡々と切々と語る。あれは諸戸のことではなかったかしら。初代だけに存在する追加情報の時だけ『箕浦』を見て『箕浦』に話しかけてやいなかったか?
『私』のかんばせが本当に何の欠点も無いようなほど美しく、そしてとても表情豊かで観客をガンガン見てくる。目が合うとかじゃなくて、観客の目を見てくる。後方でも目を見てくる。つまり語りかけ度がぱない。あいつはメッセージを発している。
対して『箕浦』からはそんな様子を受けない。《わたし》を演じる時間が短いからかもしれないし、セリフが少ないせいかもしれないし、ずっと座っているから私の座席位置がかすらずそう見えなかっただけかもしれない。
いや、ほかの『役者』もそうだった。わざわざ観客の目を見てきたりしない。あれは『私』だけだ。
(正確な表現を思い出せない…2時間以上の空間を丸暗記してそれを体験した自分の心理思考も記憶して寝落ちリセット回避はこのセリフ量だと流石に無理ゲー過ぎ…でも記録に残すならちゃんとしたい…)
初代が亡くなった時に現場での出来事にしっかり対応していたのは『私』。泣き崩れてずっと耐えているのが『箕浦』。
深山木を訪ねてからは、未来を知っている《わたし》役の『私』は度々悔しそう・つらそう・悲しそうな表情をする。
『私』には彼を救えないから? ねぇ、これ『私』にもそういった感情がちゃんとある描写だよ。
初代と深山木さんを亡くしてから場面転換の際にオープニング曲としか聞こえない音楽が入る。唸りをあげて悶絶する『箕浦』。あ、ここ襲いかかる諸戸の唸りと重なる。
諸戸に関係ないところでも、疑心暗鬼なセリフはすべて『私』が言っていたように思ったけど…いやこれは断言して大丈夫では。
しかし確実に《みのうら》の口から「諸戸を疑っている」主旨の言葉が出たときは『箕浦』が発言するし、
諸戸から「君は疑っているんじゃないのかい」といった疑心暗鬼を抱いている主旨の言葉が出たときに対面しているのは『私』と、徹底していた。
諸戸と『箕浦』が家で初めて会話している時、諸戸を見つめる『私』がくそやばい。愛憎ぶちこんだ流し目の破壊力。軽蔑の目線でもあっただろうか?嗚呼ほんと駄目だ脳がリセットされて正確に思い出せない!
ああ、でもここで諸戸を見つめる『私』は、『私』を見つめる諸戸に似ている。それは性愛を込めた時じゃなくて島で秀ちゃんに夢中になってる『私』を見ている時のそれ。
「子どもは残酷」って諸戸が説明したとき、めちゃくちゃ学生時代の簑浦思い出した。
しかし諸戸の話題が《みのうら》への愛についてから事件の推理パートに移ってからはクソつまんなそうに家ん中ブラブラして諸戸の推理聞き流してる風に壺にしなだれかかってる『私』だるえろかわい過ぎだった。「ねぇ~まだぁ~?」してる子猫ちゃんかよ。たぶん唯一私が萌えれて心を緩められたシーン。
ずっと『私』は推理パートつまんなそうにしていたのかなと思いきや、だるえろかわいいのあそこだけで、曲技団に刑事と行った時とか身を乗り出して聞いていた。
いや、あれは『箕浦』の代わりに演じていたのか?
あそこ本当に諸戸が『箕浦』のことを狙っていた。すごくこわい。じわじわ距離詰めてくる。こわい。あれなんであそこにそんな描写入れたんだろう。あの時の話題は何だっけ…おとっつぁんについて?
秀ちゃんの手記。まじつらい。ぜんぶ諸戸と簑浦の話でつらい。
ぜんぶ諸戸と簑浦の話であるから、『手記の秀ちゃん』に母親が居ないから、この舞台での諸戸にも母親が居なかった。(正確に言うと丈五郎が母親の話をするが、諸戸は母親の話を一切しない)
原作未読であるので自分で確認できないのだが、諸戸が母親について告白する場面はそんなにカットが必要な位置にあるのだろうか?
諸戸が母親から性的虐待を受け、それによって女性に嫌悪感を持ち女性は愛せなくなったこと。親からの愛情が与えられず性行為でだけ情を向けられたから、諸戸が簑浦へ向ける愛情も性愛以外の多様さをみせられないこと。これらは諸戸の歪な愛を単なる超自我とイドのせめぎあいにさせず、諸戸が『かたわ』と比喩できる大きな理由となっていると思う。
手記の後に諸戸がどちらと会話をしていたか覚えていない…記憶の砂が零れ落ちていくの恐ろしい…
おそらく『箕浦』と話している? 系図帳から暗号見つけるのはここか?
島へ行く途中の列車?船?の中、諸戸が「疑っている?」と問いただすのは『私』で、その話題が終わるとすぐに『箕浦』に入れ替わる。
だめだここですべきは事実の羅列ではなく印象という目撃証言を残すことだ。
島に着いた夜。寝ていた『私』と『箕浦』。『私』だけが起き上がり、秀ちゃんと出会う。
そこに現れる諸戸。
私はここにめっちゃ違和感感じて、それまでの流れでやっぱり諸戸も登場人物なのかな…って思ってた気持ちが吹っ飛んだ。なんでここに諸戸が居るの?って思った。『私』と同じ次元の存在だから?
で、原作既読の友人に確認してもらったら、原作ではここに諸戸は居ないししばらく諸戸と合流しないって……
それから呑気に毬遊びをする『私』と『箕浦』を見て、ここでも彼らは『役者』として並列であるとめっちゃ感じた。対話をすることはあっても、物理的に直接交流するシーンはここが…あ、いや初代の指輪を奪ったね。そことここだけのはず。二人存在しないとできない行為だから。
まだ全然考察とか感想にまで至れていないけど、直感だけの変な話しだけど、
諸戸と『私』が同列であることと、『私』と『箕浦』が並列であることは、次元が違っているのですよ。だから諸戸と『箕浦』は同列ではない。
あ、それが《わたし》と『私』か。
丈五郎に帰れと言われてから、諸戸を助ける決心をして、諸戸からメッセージを受け取っているところも、井戸の中も、『箕浦』はずーっと冒険譚の主人公だった。キラキラワクワク輝いていた。秀ちゃんへの恋とか初代の復讐とか諸戸への心配とかじゃなくて、冒険に夢中だった。
諸戸からのメッセージを読むのは『私』で、あいつまた俺に変な気を起こしそうでいやだわ~的な愚痴をこぼし、『箕浦』もそれに乗っかる。「同性愛理解できない」ってまた言う。「頭では理解してるけど全然わかんねー」って言うのはどこだっけ。いやほんとに『箕浦』には友情以外まったく無い。微塵もない。清々しいほどに無い。脈ナシにも程がある。
前述した「諸戸も登場人物なのかな…って」考えに変化しかけたのは、同じく前述の事情聴取のシーンで《みのうら》を演じる『箕浦』をそれこそ蛇のような視線で諸戸が見つめていたから。スポットライトの当たらないところで。その時『私』はスポットライトの中で刑事の事情聴取を聞き入っている。(時系列ぐちゃってごめん。でも記憶が蘇ったものをとにかく書いて残す)
ひえええあんな完全無欠の究極ノンケみたいな『箕浦』に言い寄っても絶対無理だよ諸戸なんで気付かないんだよ異常だろ…ってぐらい怖かった。対してワンチャンありそうに見えるのは『私』。否定してるんだけどなんか匂ってならない。なんか否定だけを信じられない。
あれか? 「『好き』の反対は『嫌い』じゃなくて『無関心』」ってやつか?
(初見感想で書いた「《みのうら》も実は諸戸を愛していたのではないか?という容疑が浮かんでならない」のは、完全に『私』のせい。これは初見からそう。私はこれを初見で「諸戸カンチガイ乙‼」みたいに感じていたから、こいつは諸戸の疑心暗鬼が見せる簑浦だなと思っていた。)
諸戸は『私』を探しさまようラブファントムなのかと思っていたけど、全然《みのうら》演じてる『箕浦』も狙ってくる。
『私』と『箕浦』はだいたい一緒に舞台上に居るんだけど、諸戸が《みのうら》よりも『私』を優先して見つめたのは、
諸戸は簑浦を探しさまようラブファントムという印象に落ち着く。
水責めから『私』はもがき出す。水喰らって噎せるし《みのうら》と諸戸に水ぶっかける。
序章でも鬼との出会いを思い出してる時に喉を掻くから、原作にも白髪化がいつか描写されてないそうだし諸戸生理的に拒否られてない可能性ワンチャン…!?って一瞬思った。違った。
『箕浦』ずっと脅えていて本当にかわいそう。諸戸に抱き締められてもノンケ過ぎて嫌悪感すら無い様でだだ死の恐怖に脅えている。…って、そうだ。『箕浦』は諸戸の性愛に嫌悪感すら返していないわ。性愛なんてもの存在しないようにしか見えない。
「ホモフォビア過ぎて逆に男性とキャッキャする現象」が何か科学的に存在しているのですか?(そんな感想を見かけた。)気になるので詳しい方に教えていただきたい。
それまで『箕浦』を抱きしめて必死に告白していた諸戸(この時の諸戸何故か記憶してない。零れ落ちた感覚もない)が、『私』に「嫉妬している?」と問いかけられた瞬間、逆鱗に触れられたように(地雷ぶち抜かれたみたいに)目を見開いて、そのまま『箕浦』から手を離し、表情も目線も変えず亡霊というか亡者みたいにゆらぁりと『私』の方に移動していき、「ああ、嫉妬している」と答える。
これほんとめっちゃこわい。ラブファントムこわい。ホラーフィクションでよくある悪霊に追いかけられていたのが御札を持った瞬間にこちらが相手から見えなくなってあっさり追いかけられなくなる・あるいは逆に結界が崩壊してそれまで見向きもしなかった悪魔が突然こちらに向かってくる、あれ。完全にあれでこわい。ほんとこわい。
諸戸を否定して死んでたまるかと逃げ出す『私』。諸戸は唸り雄叫びを上げてから『私』を追いかけたっけ?
確かここ最前列目の前に諸戸が来たのに私は目をそらしてしまった。それまでずっと三人の内をを覗きこんでいたけど、目の合うところに居る諸戸の瞳を覗きこむことはできなかった。
そして遂に『私』を捕まえた諸戸。手を掴み上げ触る。
なんというかね、性的な意図をもって犯そうとする時って、例えば、頬を触る(唇を奪おうとする脅迫)、腿を撫で上げる(局部に侵入しようとする脅迫)、みたいな仕草がイメージしやすいんだけど。諸戸は手なんだよね。いや、手を撫でられるのも十分性的な接触になりえるし、手を撫でてくる痴漢とかクソ質悪いと思うんだけど(あれって痴漢に該当するの?冤罪増えそうだから流石に法的には該当しなさそうだよね?まじきもい腹立つ)、もっと分かりやすくセクシャルな表現にしても良かっただろうに、なぜしなかったのか。手なのか。
同じ手でも手を舐めるとか頬擦りするとか自分の身体に触れさせるとか、方法はいろいろあるのに。
あ、そうだ。秀ちゃんは吉ちゃんの手を取って自分の胸に触れさせていた。超嫌がってたけどあれは同じ手の使用でも犯されている感がわかりやすい。
井戸の中での死についてのくだりも、秀ちゃんの手記で隠喩されたまんまでほんとつらい。もう死んでしまいたいという諸戸の叫び。
そうだここ『箕浦』も死んでしまいたいと絶望して挫折して復唱していたのに、『私』が水を挿したんだよね…亡霊を呼び起こしてしまった。
諸戸が嫉妬していることを認めたのが、《みのうら》と秀ちゃんが結ばれてしまうかもしれないことについてなのか。(そう明言してた気もするけど)
それとも「本当はかたわものではなく、簡単な手術で醜い自分を切り離すことができること」なのか。
醜い自分を殺したいけど、殺したらきっと自分も死んでしまうと思ってる諸戸…まじ…
助六さんに「生きたくなかったの?」って聞かれた時に、「世間に顔向けできない」と言った諸戸まじ魂抜けてた。心ここに在らず。ライフが0。助六さんに心の内を回答する必要ないから大正解。しかしイドの超自我破壊と自我乗っ取りを止められなかったことは、この時の諸戸の回答もあながち嘘じゃないなと。
あれ?と言うか水嵩が増さなくなったって表現、昨日あったっけ?
私は水嵩が増さなくなったことを知ってるから、初見ではセリフがあったはず。
『私』と襲いかかる諸戸の図を見ている『箕浦』の表情は、「死者を冒涜せぬよう省略」と『箕浦』が言った場面しか見えなかった。
と言うかこのセリフ初見では聞き逃してたからテラびっくりしたんだけど!
【今】はいつだよ!?って疑問が再浮上した。
初見のとき、序章で『私』が「なお、現在では差別用語となる言葉が登場するが、当時のなんちゃらを変えないためそのまま使用します」云々言ってて、「えっ!?『現在』っていつ!?『当時』っていつ!? 『私』が執筆したとき? 乱歩が執筆した時? 私が観劇している今? ねえあなたは『いつの人』なの!?」って、超混乱した。
まだ決めていない。
少なくとも、丈五郎を目にした諸戸や、井戸を出た時の諸戸は、『登場人物の諸戸』だったから。
それにしても《みのうら》になった『私』の生命力。
佐藤さんの『私』は表情がくるくる変わるしよく動くし観客の目をガン見してきて語りかけ度がぱないけど、アクティブなのにどうにも《わたし》の時は幽霊っぽかったの間違いじゃなかったんだな。ってめちゃ思うぐらい「生きてるかどうか」がなんか明確に違うんだけど。演技力?すごない?やばない?
《わたし》になった『箕浦』と、《みのうら》になった『私』も言葉を交わす。「語り忘れたことあるかな?」
ラストは『箕浦』が読んで、『私』が諸戸の訃報を初めて知ったような顔をしている。井戸で《わたし》役になってからの『箕浦』は、諸戸が鬼籍であることを既に知っていた。
『箕浦』はあまり『私』も諸戸も見ない。助六さんと井戸を脱出しようとした時から、『箕浦』は正面向いてどっしり座って痛ましそうな顔をしている。あれ…顔背けてるのかな…
座ってラストを読んだあと、やって来て『私』に手を伸ばす諸戸の手を宥めるように下ろさせる。
ああそうだ、『箕浦』に向き直った諸戸の表情は見えなかった。
そしてこの物語の語り部は諸戸を憐れにも思っていると序章で明言している。
諸戸の訃報を握り潰すところ。あれね《みのうら》の憎悪というよりも、醜い半身へのやりきれない憎しみに見えた。悔し泣きみたいに表情を潰すところは正直感情が読めなかったよ。ある意味復讐に燃えていた『箕浦』の様子にも近かった。
今回は推理するために三人をずっとガン見するつもりでいたけど最前列譲っていただけたのでピクセルに余裕できて他の演者さんもかなりしっかり拝見できた。
もろもろで再投稿
『カゲロウプロジェクト』が好きです。すごく好きで、だから映画が公開されると聞いた時はとても嬉しくて、前売りも買って、初日に見に行きました。だから、あの作品をどう捉えればいいのか分からないんです。捉えたくないと言うのもあるのかも知れなくて、あれから何日たっても消化しきれずにいます。「駄作だった」の一言で割りきれないんです。認めたくないんです。いままで好きだったことを、否定したくないんです。そういう話です。
前提として。カゲロウプロジェクトというのは(知っている人も多いだろうけれど)所謂メディアミックス型のコンテンツで、楽曲、小説、漫画、アニメ、それぞれが同じ夏の日を繰り返すルートの一つとして機能しています。ストーリーとしては「目にまつわる能力」を持った少年少女たちが、繰り返される夏の日の謎とその能力について迫っていく~という感じです。ハルヒのエンドレスエイトの設定が細かい感じ、と捉えると分かりやすいです。
小説なんかが発売される前、楽曲しかなかった頃。作者の「じん」さんの手によって投稿された楽曲群の一つ(コノハの世界事情、というボーカロイド曲)にドはまりしました。中学二年生のなんともアレな感性にあの熱い中二的世界観ががっちりはまったというか。それまでろくに曲を聞いたことの無かった私にとって、あのニコニコ動画という友達の知らない場所の、ボーカロイドという大人は知らない「特別」なコンテンツはすごく心を惹きました。それぞれのルートの共通点、明らかになる事実から徐々に全容を割り出す謎解きの感覚、個性豊かなキャラクター。今も好きです。初めて買ったCDも、初めて手を出した二次創作も、初めて買った同人誌も全部カゲプロです。アルバムは何百回も繰り返し聞いて、カラオケに行けば必ず一曲は歌います。SNSもカゲプロを語り合うために始めました。青春全部捧げました。服の趣味がパーカーとジーンズに固まったのも影響受けてます。それぐらい大好きで、多分相当にこじらせてます。私は、そういう人間です。
(勿論、パーカー着てる奴を蹴り飛ばしたりとか絡んでくるとかデマかよく分からない厨とか呼ばれるそういう輩と私は違います(同じに見えるだろうけれど)。ああいう輩のせいで普通に好きな人たちまでひとくくりにされることがすごく嫌でした。)
ある日、アニメ化の情報が明らかになりました。制作会社はシャフトでした。西尾維新さんも好きな私はアホみたいに舞い上がりました。あの大好きなカゲプロのキャラクターがガハラさんと同じシャフ度を!シャフ度をかましてくれる!放送まで毎週1人ずつ公開されていくキャスト、この子の声は誰だろう、とワクワクしながら同じく好きな友人と語り合いました。
そうして始まったアニメ。私は「どうして、こんなにつまらないんだろう」と首をかしげることになりました。
面白くないんです。なんというか、脚本が無理矢理な感じがして、うまく没入できない。ぎこちないというか、詰め込みすぎているというか、無闇に前衛的な表現をして失敗しているように思えました。画面前で、何度もいたたまれなくなりました。これをみている一般の人たちのことを考えると胃がいたくなりました。しかしツイッターに流れてくる意見は肯定ばかりだったから(フォローしてる人がクラスタしかいないんだから当たり前)、私は、己の認識を疑うばかりで、それにうまく返せなかったと思います。
あまりにも無茶が過ぎる脚本に構成で作られたこのアニメを、エンディングから考えるに恐らく最後の繰り返し=トゥルーエンドのルートになったこのアニメを公式と認めたくなかったです。でも、否定したくもありませんでした。
いやにあら探しばかりしてしまう性格だった事をすごく恨みました。ダメだった、という意見を口にすることが自分のせいで憚られるばかりで、盲目になれたらきっと幸せだったのかなと思います。拗らせていたはずなのに、結局私はその程度にしか好きになれていなかったと、そんな風に思いました。だって好きなものは否定したくないんです。大好きで大好きで大好きだっていい続けて二年たって、もうこの頃には私にとってカゲプロ大好きということは義務でした。というか、なんで嫌いって言わなきゃいけないんですか?という感じです。『カゲプロ大好きであることが私』、みたいな。
暫く経ってからまとめサイトの嘲笑う記事をみて、ああ、私の感性は間違ってないんだと思う反面、けれど大好きなコンテンツがおもちゃにされていることにすごい不快感を覚えました。否定したくないし、否定されたくもありませんでした。それが事実なんだとわかっていても。
勿論、良いことも一杯ありました。主人公のシンタローは寺島さん、その相方のエネは阿澄さんが声をつけてくれたし、彼らが動くところをみられました。新しい曲も作られて(dazeというめっちゃかっこいい曲、EDのボーカルはじんさんがよく使うボカロのIAの人が!)、楽曲のアレンジ版ではアニソン歌手のLiSAさんが歌ってくれたり。
でも、やっぱり私はアニメが、カゲプロに自ら汚点のレッテルを貼ったように思えたアニメが嫌いでした。だから、子供ながらに、アニメのDVDを買わないことを唯一の反抗としました(それ以外の関連商品は全部買ってました。ここで一旦、カゲプロに関する私の収集癖が止まったのでそれは良かったです)。
アニメの後、それまでバカみたいに追いかけていたのが多少我に返ったのか、カゲプロに対する熱は冷めていました。逆にラブライブへめっちゃハマりました。曲からハマったカゲプロと同じようにハマりました。クラスでもスクフェス(アプリゲーム)が流行っていて、カゲプロは、時折ちょこちょこ入るカゲプロ漫画の情報を確認、発売する小説を読む程度でした。カゲプロクラスタじゃなくて絶好調にラブライバーでした。まきちゃん。
じんさんは自分の音楽活動に絶好調のようでした。私が好きなのはカゲロウプロジェクトを作ってるじんさんなので、さっぱり興味もわきませんでした。それ以外ほぼ何の動きもない期間が二年くらい続いて、今年。
長らく音沙汰の無かった小説の新刊が出て、舞台となる夏にはいつもよりこったイベント(ニコ生)があって、そこでアニメ二期と映画化が発表された時、久しぶりに己の中の炎が燃え上がるのを感じました。ああやっぱり私はカゲロウプロジェクトが好きだったんだ!と、その時何処か安堵しました。じんさんはカゲプロを忘れていなかった。わくわくが止まらなくて、嬉しくて嬉しくて。ものすごくテンションが上がりました。皆とうらぶとあんスタの話しかしてなかったのに、またカゲプロの話をしていて、その光景によくわからないけどありがとうって思いました。
映画の公開は11月。作画監督を、カゲロウプロジェクト全体のキャラクターを担当している「しづ」さんが務めると知りました。個人的には、しづさんの実力は文句のつけようがないと言っても過言ではないくらい、全てにおいて長けていると思います。シャフトの絵は私はそうでもなかったけれど、否定的な人も多かったので、今度こそ、ととても期待が持てました。
私はこの時点で、映画にたいして「カゲロウプロジェクトの面白い作品」ではなく「カゲロウプロジェクトの違和感を持たない作品」を求めていました。エンターテイメント性ではなく、普遍性をお願いしたかったんです。「最高の作品」じゃなくていい、「いろいろ言いたいことはあるけど、でも良かったと言える作品」が見たかったんです。変なギミックも要らない、無駄な挑戦も要らない、普通の、贔屓目にみられる人なら躊躇いなく面白かったと言えるような。
公開前に投稿された主題歌は控えめに言って最高でした。もう高ぶりが止まらなくて、ヘビロテしまくりました。若干判明していた作画や20分という短さへの不安が瞬間吹き飛びました。これ、いけんじゃないか……?アニメを忘れさせてくれるような、そういう存在になってくれるんじゃないか、と僅かながらに期待して。
容赦なく希望を踏み潰されました。なんだあれ。今でも言葉がないです。あんなクオリティーに1900円とか詐欺じゃねえか。意味のわからないストーリー、メアリースーじみた超展開、観客を置いてきぼりにする視点変更、ファンであることが前提だとしてもあまりにも置いてきぼりな紹介。無駄な4DX、ぶれる作画、絵すらないエンディング。たった二十分すら安定させて持たせられない。かくかくしたキャラクター絵はシャフトの方が数倍増しだと思わざるを得ません。(詳しくはねばーまとめとかとぅぎゃったーとかに物好きがまとめてると思うのでそれを)
一番嫌なのは、それなりを払って、期待して、好きなのに。それなのに、そんな否定的な言葉しかでないことです。認めたくないです。好きなんです。どんなものでもよかったって受け入れたいのに。周りの皆は絶賛しまくりで、私だけがおかしいみたいで、まるで二年半前のアニメ放送時の再現のようでした。
広げすぎた風呂敷は畳むことが出来るんでしょうか。アニメ二期もこのクオリティーなんでしょうか。日にちが経つにつれ不安ばかりが増していきます。なんで私は自分の好きなものが落ちぶれる様をみなくちゃいけないんだ、と変な怒りすらわきそうで、でも、嫌いになれないんです。きっとどんなひどいものを見せられても、イヤになったってキライにはなれないと思います。それくらい好きなんです。今だって好きになりたいと思っています。批判された所を否定したくて、でも否定できないことが一番悔しいです。辛いです。
これからも好きでいたい。でも、好きでいることで幸せになれないのなら、私はなんで好きになってしまったんでしょう。もし、むやみに話を広げすぎて謎すら解明されないまま終わってしまったなら、私が追いかけてきた意味はどうなってしまうんでしょう。今、そう思わせるだけのものがそこにはあるんです。昔は、期待ばかりあったはずなのに。
そんなに金が欲しいんですか?雑で手軽なコンテンツで大量に搾取できればなんでもいいんですか?ふざけるな、といえるような偉い立場じゃないことは分かってます。でも、少しくらい、良いものを提供してくれたっていいじゃないですか。
良かったって言わせてください。好きで良かったって言わせてくださいよ、お願いだから。
辛いのでFGOやります。以上です。
『カゲロウプロジェクト』が好きです。すごく好きで、だから映画が公開されると聞いた時はとても嬉しくて、前売りも買って、初日に見に行きました。だから、あの作品をどう捉えればいいのか分からないんです。捉えたくないと言うのもあるのかも知れなくて、あれから何日たっても消化しきれずにいます。「駄作だった」の一言で割りきれないんです。認めたくないんです。いままで好きだったことを、否定したくないんです。そういう話です。
前提として。カゲロウプロジェクトというのは(知っている人も多いだろうけれど)所謂メディアミックス型のコンテンツで、楽曲、小説、漫画、アニメ、それぞれが同じ夏の日を繰り返すルートの一つとして機能しています。ストーリーとしては「目にまつわる能力」を持った少年少女たちが、繰り返される夏の日の謎とその能力について迫っていく~という感じです。ハルヒのエンドレスエイトの設定が細かい感じ、と捉えると分かりやすいです。
小説なんかが発売される前、楽曲しかなかった頃。作者の「じん」さんの手によって投稿された楽曲群の一つ(コノハの世界事情、というボーカロイド曲)にドはまりしました。中学二年生のなんともアレな感性にあの熱い中二的世界観ががっちりはまったというか。それまでろくに曲を聞いたことの無かった私にとって、あのニコニコ動画という友達の知らない場所の、ボーカロイドという大人は知らない「特別」なコンテンツはすごく心を惹きました。それぞれのルートの共通点、明らかになる事実から徐々に全容を割り出す謎解きの感覚、個性豊かなキャラクター。今も好きです。初めて買ったCDも、初めて手を出した二次創作も、初めて買った同人誌も全部カゲプロです。アルバムは何百回も繰り返し聞いて、カラオケに行けば必ず一曲は歌います。SNSもカゲプロを語り合うために始めました。青春全部捧げました。服の趣味がパーカーとジーンズに固まったのも影響受けてます。それぐらい大好きで、多分相当にこじらせてます。私は、そういう人間です。
(勿論、パーカー着てる奴を蹴り飛ばしたりとか絡んでくるとかデマかよく分からない厨とか呼ばれるそういう輩と私は違います(同じに見えるだろうけれど)。ああいう輩のせいで普通に好きな人たちまでひとくくりにされることがすごく嫌でした。)
ある日、アニメ化の情報が明らかになりました。制作会社はシャフトでした。西尾維新さんも好きな私はアホみたいに舞い上がりました。あの大好きなカゲプロのキャラクターがガハラさんと同じシャフ度を!シャフ度をかましてくれる!放送まで毎週1人ずつ公開されていくキャスト、この子の声は誰だろう、とワクワクしながら同じく好きな友人と語り合いました。
そうして始まったアニメ。私は「どうして、こんなにつまらないんだろう」と首をかしげることになりました。
面白くないんです。なんというか、脚本が無理矢理な感じがして、うまく没入できない。ぎこちないというか、詰め込みすぎているというか、無闇に前衛的な表現をして失敗しているように思えました。画面前で、何度もいたたまれなくなりました。これをみている一般の人たちのことを考えると胃がいたくなりました。しかしツイッターに流れてくる意見は肯定ばかりだったから(フォローしてる人がクラスタしかいないんだから当たり前)、私は、己の認識を疑うばかりで、それにうまく返せなかったと思います。
あまりにも無茶が過ぎる脚本に構成で作られたこのアニメを、エンディングから考えるに恐らく最後の繰り返し=トゥルーエンドのルートになったこのアニメを公式と認めたくなかったです。でも、否定したくもありませんでした。
いやにあら探しばかりしてしまう性格だった事をすごく恨みました。ダメだった、という意見を口にすることが自分のせいで憚られるばかりで、盲目になれたらきっと幸せだったのかなと思います。拗らせていたはずなのに、結局私はその程度にしか好きになれていなかったと、そんな風に思いました。だって好きなものは否定したくないんです。大好きで大好きで大好きだっていい続けて二年たって、もうこの頃には私にとってカゲプロ大好きということは義務でした。というか、なんで嫌いって言わなきゃいけないんですか?という感じです。『カゲプロ大好きであることが私』、みたいな。
暫く経ってからまとめサイトの嘲笑う記事をみて、ああ、私の感性は間違ってないんだと思う反面、けれど大好きなコンテンツがおもちゃにされていることにすごい不快感を覚えました。否定したくないし、否定されたくもありませんでした。それが事実なんだとわかっていても。
勿論、良いことも一杯ありました。主人公のシンタローは寺島さん、その相方のエネは阿澄さんが声をつけてくれたし、彼らが動くところをみられました。新しい曲も作られて(dazeというめっちゃかっこいい曲、EDのボーカルはじんさんがよく使うボカロのIAの人が!)、楽曲のアレンジ版ではアニソン歌手のLiSAさんが歌ってくれたり。
でも、やっぱり私はアニメが、カゲプロに自ら汚点のレッテルを貼ったように思えたアニメが嫌いでした。だから、子供ながらに、アニメのDVDを買わないことを唯一の反抗としました(それ以外の関連商品は全部買ってました。ここで一旦、カゲプロに関する私の収集癖が止まったのでそれは良かったです)。
アニメの後、それまでバカみたいに追いかけていたのが多少我に返ったのか、カゲプロに対する熱は冷めていました。逆にラブライブへめっちゃハマりました。曲からハマったカゲプロと同じようにハマりました。クラスでもスクフェス(アプリゲーム)が流行っていて、カゲプロは、時折ちょこちょこ入るカゲプロ漫画の情報を確認、発売する小説を読む程度でした。カゲプロクラスタじゃなくて絶好調にラブライバーでした。まきちゃん。
じんさんは自分の音楽活動に絶好調のようでした。私が好きなのはカゲロウプロジェクトを作ってるじんさんなので、さっぱり興味もわきませんでした。それ以外ほぼ何の動きもない期間が二年くらい続いて、今年。
長らく音沙汰の無かった小説の新刊が出て、舞台となる夏にはいつもよりこったイベント(ニコ生)があって、そこでアニメ二期と映画化が発表された時、久しぶりに己の中の炎が燃え上がるのを感じました。ああやっぱり私はカゲロウプロジェクトが好きだったんだ!と、その時何処か安堵しました。じんさんはカゲプロを忘れていなかった。わくわくが止まらなくて、嬉しくて嬉しくて。ものすごくテンションが上がりました。皆とうらぶとあんスタの話しかしてなかったのに、またカゲプロの話をしていて、その光景によくわからないけどありがとうって思いました。
映画の公開は11月。作画監督を、カゲロウプロジェクト全体のキャラクターを担当している「しづ」さんが務めると知りました。個人的には、しづさんの実力は文句のつけようがないと言っても過言ではないくらい、全てにおいて長けていると思います。シャフトの絵は私はそうでもなかったけれど、否定的な人も多かったので、今度こそ、ととても期待が持てました。
私はこの時点で、映画にたいして「カゲロウプロジェクトの面白い作品」ではなく「カゲロウプロジェクトの違和感を持たない作品」を求めていました。エンターテイメント性ではなく、普遍性をお願いしたかったんです。「最高の作品」じゃなくていい、「いろいろ言いたいことはあるけど、でも良かったと言える作品」が見たかったんです。変なギミックも要らない、無駄な挑戦も要らない、普通の、贔屓目にみられる人なら躊躇いなく面白かったと言えるような。
公開前に投稿された主題歌は控えめに言って最高でした。もう高ぶりが止まらなくて、ヘビロテしまくりました。若干判明していた作画や20分という短さへの不安が瞬間吹き飛びました。これ、いけんじゃないか……?アニメを忘れさせてくれるような、そういう存在になってくれるんじゃないか、と僅かながらに期待して。
容赦なく希望を踏み潰されました。なんだあれ。今でも言葉がないです。あんなクオリティーに1900円とか詐欺じゃねえか。意味のわからないストーリー、メアリースーじみた超展開、観客を置いてきぼりにする視点変更、ファンであることが前提だとしてもあまりにも置いてきぼりな紹介。無駄な4DX、ぶれる作画、絵すらないエンディング。たった二十分すら安定させて持たせられない。かくかくしたキャラクター絵はシャフトの方が数倍増しだと思わざるを得ません。(詳しくはねばーまとめとかとぅぎゃったーとかに物好きがまとめてると思うのでそれを)
一番嫌なのは、それなりを払って、期待して、好きなのに。それなのに、そんな否定的な言葉しかでないことです。認めたくないです。好きなんです。どんなものでもよかったって受け入れたいのに。周りの皆は絶賛しまくりで、私だけがおかしいみたいで、まるで二年半前のアニメ放送時の再現のようでした。
広げすぎた風呂敷は畳むことが出来るんでしょうか。アニメ二期もこのクオリティーなんでしょうか。日にちが経つにつれ不安ばかりが増していきます。なんで私は自分の好きなものが落ちぶれる様をみなくちゃいけないんだ、と変な怒りすらわきそうで、でも、嫌いになれないんです。きっとどんなひどいものを見せられても、イヤになったってキライにはなれないと思います。それくらい好きなんです。今だって好きになりたいと思っています。批判された所を否定したくて、でも否定できないことが一番悔しいです。辛いです。
これからも好きでいたい。でも、好きでいることで幸せになれないのなら、私はなんで好きになってしまったんでしょう。もし、むやみに話を広げすぎて謎すら解明されないまま終わってしまったなら、私が追いかけてきた意味はどうなってしまうんでしょう。今、そう思わせるだけのものがそこにはあるんです。昔は、期待ばかりあったはずなのに。
そんなに金が欲しいんですか?雑で手軽なコンテンツで大量に搾取できればなんでもいいんですか?ふざけるな、といえるような偉い立場じゃないことは分かってます。でも、少しくらい、良いものを提供してくれたっていいじゃないですか。
良かったって言わせてください。好きで良かったって言わせてくださいよ、お願いだから。
辛いのでFGOやります。以上です。
やっぱり永遠の課題じゃんハーレム系のラブコメで最終的に誰選ぶかって
でも、誰もが納得するエンドに行き着いたラブコメ作品って多分存在しない気がするんだよね
ニセコイとかはがないとかあんな終わり方じゃ荒れるなっていう方が無理だし、
俺ガイルだって恐らくは似たような終わり迎える感じでしょどうせ
もうさ、いっそラノベや漫画みたいな原作では「俺たちの戦いはこれからだ!」くらい尻切れトンボな感じで完結させて、
あとはVita辺りで正式な続編ADV作ってそっちで完結させてくれよ
ハーレム系ラブコメは展開分岐できるADVゲームの方が媒体として適してるでしょ
マリーとか地味子とか初登場したその瞬間から負けヒロインとして描かれてる感じあるじゃん
ああいうのもうやめてほしいわ
一応最近は人気のラブコメ作品(少なくとも今名前を上げた作品は全部)原作の
ギャルゲーが作られることは多いみたいだけど所詮ifルートだからifとして見ちゃうし
展開に無理があったりすることも結構あるんだよね
そういうことじゃなくて、ADVじゃなくとも各ヒロインが正式なトゥルーエンドを終えられるような
そういう構成にしてほしいのだが、どうだろうか