はてなキーワード: 負け組とは
普段はROM専で、SNSでリアルタイムに反応をもらうことに不慣れでつい舞い上がってしまい、更新ボタンを押す手が止まらなくなってしまった。
また、フェイクは入れまくっていたけれど、身バレするのがホッテントリに入って注目されるようになってから怖くなった。
自分の精神衛生の悪化を感じたので、勢いで消した。私にはSNS上でオープンな発信者になるのは早かったみたいだ。
だけど、どうしてもお礼を言いたくてのこのことまた出てきてしまった。
6月11日現在における今年度の寄付総額は約130万円、寄付件数は79件。
7月13日現在では総額305万3千円、件数は149件! 倍増! すごい!!
自分の投稿がどれだけ貢献したかはわからないけれど、寄付してくれた方々に対して厚く御礼を申し上げます。本当にありがとう。
https://utf.u-tokyo.ac.jp/project/pjt83?pg=400&page=1
読んでみると、過去に授業料免除を受けていたという人が恩返しとして寄付しているのが結構多いのが分かる。
https://utf.u-tokyo.ac.jp/project/pjt83?pg=400&page=1#project-tab03
あとは3つおまけ。
まず大学側の要因として挙げられるのが次の2つ。
私も今回調べるまで、自分の研究科以外の寄付基金の存在を知らなかった。修学支援基金も含めて。自分もお世話になってたのにね……。
OB・OG向けにたまに郵送するニュースレターという形でOB・OGへのアウトリーチする基盤はある。
現役の学生からお金を搾り取ろうとする前に、OB・OGへの寄付の働きかけを強化する手段はあるんじゃないのかな。
関連して第2に、学部・研究科ごとの独立性が高くて、「東京大学」としての寄付の呼びかけに失敗している。
夫は別の学部・研究科の出身なので、ニュースレターを私の出身のところと比較できるのだが、どちらも自分たちのところの研究のための基金の情報しか載っていない。
ふるさと納税における各自治体みたいに、寄付金を巡って本部と各研究科が競争しているような状態なのかもしれない。
あるいは、授業料免除のような学生全体に関わる経済的困難層向けの修学支援は東京大学の本部としての活動になる一方で、OB・OG向けのアラムナイ活動は学部・研究科の所管になっているように見えるから、そこで齟齬があるのかもしれない。
他方で、卒業生側に目を向けると、卒業生には寄付をするインセンティブがない。
寄付をすることに対して、アイデンティティ上の満足や実利など自分のためになる何かがなければならない。
多くの東大生OB・OGには、寄付に対するそうした対価は存在しないと思う。
アメリカの有名大学には寄付による入学枠がある。寄付することが、そのまま自分の子どもの利益に繋がる。
賛否はあると思うけど、その寄付金を使って貧乏人の子どもが入れるようになるならば、うまくできた制度設計だと思う。
でも、これは私立大学だからできることだろうし、東大でそんな制度が採用されるとはとても思えない。
※補足:ハーバード大学やスタンフォード大学などのアメリカの有名大学のほとんどは私立大学。
でも、はてなーは公共心が高くて、公共性への貢献からアイデンティティ上の満足を得られるであろうから、皆さんからの寄付には勝手に期待している。
②なぜ親と折り合いの悪い層にこだわるのか
これは、実際にそういう人を知っているから。金銭面で決定的に仲違いしたから。その人は大学からも去ってしまったから。
大学院に行きたいと言っていたけれど、結局コンサルに就職した。私が知っている中でもかなり天才と呼んでよいほどの頭の人だったのに、ものすごくおもしろい研究をしたはずだったのに、本当にもったいない。
セクシャルマイノリティーの立場から授業料値上げについて書いていた学生のnoteを読む限り、最近でもこの問題が解決してなさそうで非常に残念だ。
私の場合、分かりやすい経済的困難層だったことと、進学には反対したけどなぜか書類の準備には協力的だった親がいたことはすごく運がよかった。
親との折り合いが悪くて授業料免除制度からこぼれ落ちてしまうような学生をどう救うかの問題が解決しない限り、いくら支援制度の充実を掲げたとしても、学生の自助努力の水準を上げる授業料の値上げは行うべきではない。
③最後に。自分のこれまでを褒めてもらえたことはうれしかった。その一方で、危うさも感じた。
やっぱりみんな学力によるメリトクラシー(能力主義)にとらわれすぎだと思う。
特定の能力を持っている人はそれにふさわしい場所に行けるべきという考え、あるいはそれが実現された社会は、最終的にはその能力を持たない人を苦しめることにもなりうる。
学力という一つの能力のみによる純粋な選別装置として大学を機能させることと、社会全体の平等は別の話。
能力によって個人レベルでの格差を乗り越えることができたとしても、社会全体の格差は残り続ける。
世代間の社会的流動性が高ければそれはそれで問題ないのかもしれないけれど、それでもやっぱりいま・この世代において個人レベルで「負ける」人は発生する。
特定の能力による勝ち負けの発生自体をなくさないと東大ヘイトも負け組ヘイトもなくならないんじゃないか。
もちろん個々の能力ごとに勝ち負けが発生するのは避けられないけど、いろんな人のいろんな能力が尊厳をもって扱われて、トータルでみたら引き分けだとみんなが感じられるような社会になってほしいと心から思う。
だから繰り返しの主張になるけど、大学生への経済的支援だけではなく、若者向けの支援も、かつて若者だった人たち向けの支援もやるべきというのが私の立場。
「東大生は社会的に有用だから他を差し置いて特に支援されるべき」ではない。
個々人が寄付という形でその思いを表明するのは、個人の善の構想の中にある自由な選択。
でも、公的に税金を使ってやるべきような正義の話なのかは分からない。
それに、社会的に有用になることを東大生に押し付けることも適当ではないと思う。
社会貢献のためにみんな働いているのか? ジョブズは社会貢献のためにiPhoneを作ったのか?
そうではないだろう。
人々が自由にその能力を発揮して、自分の何らかの価値のために働いて、それが結果的に社会の役に立つ。それが一番健全。
最初から社会のためになんて言ってるやつはうさんくさい。個人の感想だけど。
この投稿以降は再び社会の片隅でひっそりこっそり生きる生活に戻ります。
誤字脱字は直すけど、それは何卒ご容赦を。
何かと社会に迫害されがちな弱者男性のみなさんのための最強のソリューション。
それは無言の既婚匂わせである。
難しいことじゃない、シンプルなダミーリングを買ってきて左手の薬指にはめておけば良いのである。
それだけで各種のメリットが得られる。
ダミーの結婚結婚を付けることによって得られるメリットのうち最強のものは、この信頼感。
男性にとって結婚の最大のメリットは、家庭人と見なされることで信頼度が上がるということなんだが、
指輪を付けておくだけで、結婚していなくてもこの信頼を得られるわけである。
女性が見ても、他の一人の女性には認められてる男性、として人格保証として機能する。
家庭を破壊するような悪さはそうそうするまい、と思ってもらえる。
いい歳して独身のおじさんだと、負け組、コミュ障、ゲイ、などといろいろ勘ぐられてしまうしね。
ユニクロとかチェックとかジーンズとか多少ださめな格好をしていても、すでに結婚してるんだし家庭人の服装だ、と思ってもらえる。
パートナーが許してるんだからその格好で十分なんじゃない?って。
服が古くても、汚くても、家庭のために自分の身なりにお金をかけない良いダンナ、そういうポジティブな評価につながる。
薄毛が進行していても、もうこれ以上モテる必要はないんだから大丈夫だろうと思ってもらえる。
ビール腹になっても、父としての貫禄の一部だとむしろ好意的に受け止められる。
(いちおう服は着てくださいね、念のため。)
既婚だと匂わせることで、周囲が勝手に忖度してくれて、自動的に言い訳として機能するようになる。
空気の読めない休暇を取っても「家庭の事情でいろいろ忙しいんだろな」。
アニメ浸りで三次元の女性に関心を示さなくても「浮気しない良い夫じゃん」。
友達がいなさそうでも「家庭に入ると個人的な付き合いって減るんだよな」。
ありとあらゆるマイナス面が、「結婚するとそうなっちゃうよね」と許される。
そう、すべてが許されるのだ。
指輪さえあればね。
ただニュースを見ていると、ふと去年の市議会選挙のことを思い出した。
政治に詳しいわけでも興味があるわけでもないけれど「選挙に行くべき」という考えはあるので、誰かに投票しなければいけない。でも、正直言って、市議会議員なんて、顔も名前もひとりもわからない。
市から送られてくる新聞みたいなものに、候補者の名前と公約の一覧が載っていたので、それをざっと読んで決めることにした。
恵まれているのか、うちの市は定員割れをすることもなく、それなりに選択肢のある状況だ。
まず、不正に慣れすぎている自民党は除外。市議会選挙なのに「反原発」とか書いてある様子のおかしい人たちは除外。うちの市に原発はない。
うちの市は道路が狭い割に、でかいトラックが頻繁に走っている。歩道もないようなところを子供達が歩いているのをよく目にするので、「通学路の整備を進める」なんかを公約に入れている人は、ちゃんと市民の生活を見てそうでいい。我が家に子供はいないが、道が歩きやすくなることはいいことだ。
あとはなるべく若い人がいい。
それらの条件を考慮して、この市で生まれて、有名私大に進学し、名のある会社に勤めた四十代後半の候補に決めた。初出馬らしい。
誰に投票するか決めたので、投票所になっている近所の児童館に行って、その人の名前を書いた。
選挙に行ったので外食したり、YouTubeを見ていたりして過ごしていると、いつの間にか結果が出ていた。
自分が投票した候補は落選していた。当選までは、あとたった十二票だった。
別に、その候補を応援していたわけではない。演説を見たわけでもないし、本人に手を振られたわけでもない。選挙の当日まで名前も知らなかった候補だ。
がっかりする必要はまったくない。そのはずなのに、がっかりしてしまう。
「負けた」
そうすれば、こんな気持ちになることもない。
なんで苦しい生活を強いられて、投票にまで行って、こんな惨めな気持ちにならなきゃいけないんだ。
これ以上惨めな気持ちになりたくない。
だからきっと負け組は、政策とか公正さとかじゃなくて、勝てそうな候補に投票するべきなんだ。
その後の生活なんて関係ない。どうせ政治なんて誰がやっても大差ない。
次の選挙がいつかも知らない。
だけど、その次は、その次の次はわからない。
ただニュースを見ていると、ふと去年の市議会選挙のことを思い出した。
政治に詳しいわけでも興味があるわけでもないけれど「選挙に行くべき」という考えはあるので、誰かに投票しなければいけない。でも、正直言って、市議会議員なんて、顔も名前もひとりもわからない。
市から送られてくる新聞みたいなものに、候補者の名前と公約の一覧が載っていたので、それをざっと読んで決めることにした。
恵まれているのか、うちの市は定員割れをすることもなく、それなりに選択肢のある状況だ。
まず、不正に慣れすぎている自民党は除外。市議会選挙なのに「反原発」とか書いてある様子のおかしい人たちは除外。うちの市に原発はない。
うちの市は道路が狭い割に、でかいトラックが頻繁に走っている。歩道もないようなところを子供達が歩いているのをよく目にするので、「通学路の整備を進める」なんかを公約に入れている人は、ちゃんと市民の生活を見てそうでいい。我が家に子供はいないが、道が歩きやすくなることはいいことだ。
あとはなるべく若い人がいい。
それらの条件を考慮して、この市で生まれて、有名私大に進学し、名のある会社に勤めた四十代後半の候補に決めた。初出馬らしい。
誰に投票するか決めたので、投票所になっている近所の児童館に行って、その人の名前を書いた。
選挙に行ったので外食したり、YouTubeを見ていたりして過ごしていると、いつの間にか結果が出ていた。
自分が投票した候補は落選していた。当選までは、あとたった十二票だった。
別に、その候補を応援していたわけではない。演説を見たわけでもないし、本人に手を振られたわけでもない。選挙の当日まで名前も知らなかった候補だ。
がっかりする必要はまったくない。そのはずなのに、がっかりしてしまう。
「負けた」
そうすれば、こんな気持ちになることもない。
なんで苦しい生活を強いられて、投票にまで行って、こんな惨めな気持ちにならなきゃいけないんだ。
これ以上惨めな気持ちになりたくない。
だからきっと負け組は、政策とか公正さとかじゃなくて、勝てそうな候補に投票するべきなんだ。
その後の生活なんて関係ない。どうせ政治なんて誰がやっても大差ない。
次の選挙がいつかも知らない。
だけど、その次は、その次の次はわからない。
自己責任論大好きでパワハラ気質なのも氷河期世代だし、いつまでも恨み言ばっかりで下の世代から疎まれてるのも氷河期世代
なんでズレるかっていうと、氷河期世代は国主催のイス取りゲームで正社員のイスに座れたやつと座れなかったやつに二分されてるから
違うんだよ
氷河期世代のときにはわざわざ非正規雇用を拡大してまで負け組の枠を増やして、半分は負けるようにルール設定されたんだ
なんでそうしたかっていうと色々あるんだけど、団塊世代が勝ち逃げするためと、第三次ベビーブームを防ぎたかったのと、人件費が高いのが日本企業の国際競争力低下の原因という思い込みがあったというあたりが大きかった
とにかく、イス取りゲームの負けの規模が大きかった
運良くイスに座れたやつは自分は頑張ったから実力で勝ち取ったと思い込みがちで、自己責任論で夥しい数の負け組を切り捨ててきた
負け組は、あまりに理不尽なルールを強制されて敗者復活のチャンスもなかったから、諦めの感情が強く、多分死ぬまで不平不満を言い続ける
結局「男女の友情は成立するか」という言い出した奴が男女の友情を信じていないことが明確な言葉の周縁ですべてがやんや言われているだけで、そのグラデーションを塗りつぶすやれたかも委員会のような極論がきらいなんだと某noteを見て思ったし、思い返せばああいう目線で物事を見ている人は少なからずいるんだろうなと思う(その世界の中で勝ち組負け組関係なく!)。でも正直こういった、人を人と見ない世界観というのは自分も職場では活用しているのでその楽さというのはわかる。
世界にはいろんな男女がいてその背景にある物語をいちいちくみ取るよりは「既婚者は全員セックスしている」「まんさんは彼氏を引っかければ生きられるから楽」とか紋切り型の台詞を言っている方がとてつもなく楽だし情報過多な世の中でのサバイブ術ではあると思う。同時にこの価値観を持つことでその世界と自分が距離を保てる(俺とあいつらは違う)というおまけもあって強者にも弱者にもいいことがたくさんあるんだけど、世界はそんな紋切り型ではなくて、あらゆるグラデーションの中間だし、難しいし、捉えきれない。でもそういった中庸なところで責任をとれるのがいい年した大人の特権で、務めで、面白いところなんだと思う。
責任って言うと仕事が一番に思い出されるけど、生活も責任の宝庫だ。例えば丁寧な暮らしっていうのも暮らしのコストを減らして自分に背負える大きさにした上で自力で運用するという一つの責任の捉え方だ。そう思うとあらゆる大人の生き方は責任と自分の大きさをどう取るかって問題に近くなる(不倫とかは自分に背負いきれない責任を負おうとして失敗する例)。また責任は動機でもあって、行為にもつながる。無責任な行為をきちんとやるのはもう難しくてそれは若者の特権で青春だ。大人は責任を負ってきちんとTPOを見て羽目を外す。そういうエッセンスを凝縮すると「やっていき」という言葉になる。
論旨がフラつているけど人を人として見る(=目の前の人に責任を負う)ことを怠るといずれ自分が自分に責任が持てなくなっていって、いわゆる無敵になってしまう気がする。人としてというのはマテリアルというか顔があるとか手に指がついてるとかそういう生々しさから入っていってもいい。それをしているといずれ相手を紋切り型で切り捨てるのが怖くなる。少なくとも友人レベルの人にはそうやって無二の目線を、価値を感じながら接していくのがいい。俺はそう思うよ。おまえはどうだかしらないけど