はてなキーワード: 被災者とは
着の身着のまま避難してきた人のなかには、持病の薬が倒壊した自宅にあって取りに行けない、という人もいるはず。
とりあえず地震の揺れや津波からは脱出したけれど、高齢者など災害弱者にはつらい状況。まだまだ生命の危機を脱していない。
特に発災直後の避難所は水も電気もトイレもない、みたいな状況。公共インフラが乏しく生活に必要な基本的なニーズさえ十分じゃない。
日常生活が突然遮断され、切り離されたとき、仕事先も絶望的な状況であったり地域の経済がめちゃめちゃになっている、という真っ暗な情報以外に明るい情報がない。
今回の能登でも避難所では通信環境が悪く、地域で何が起こっているのかすら情報を得られないということがあったみたいだ。
また、平素の何気ない地域社会のコミュニケーションが、交通インフラの寸断やバラバラな避難所環境というなかで阻害されている。
被災者からヒアリングするときは、当事者の混乱状態のなかで、いろいろなストレスが切実なつぶやきの形で語られるけれど、
支援者は、それなりの視点をもって一緒に整理していくことが大切なんじゃないかな。上記の区分は単にぱっと思い付いたところだけど。
いち早く準備して駆けつけたさまざまなNPOのなかには、あの団体とかあのひとたちとか(迷惑がかかるから具体的な名前は書かないけど)
東日本でも活動してい組織力も機動力も蓄えられた有名組織もある一方で、さまざまな見知らぬ中小の規模な団体も現地入りしていることだった(自分が知らなかっただけだけど)。
ニーズをきめ細かく聞いてくれてうれしいという被災者のSNSから、それは本当に頼もしいと思った。
穴水や能登町あたりは発災直後においても、まだしも入りやすかったのか、支援が先行していたように思う。能登町には知人がいるのでとりわけ関心をもっていたのだけど、うれしいことだ。
二次避難って言葉自体もそうだし、それを促す側の雰囲気も含めて悲壮感が強すぎるんじゃないかって思う。
「豪華温泉旅行に行こう!」とか「世界一周豪華客船の旅に出よう!」とかならもうちょっとポジティブな印象になるんじゃないだろうか。
ノリもジャパネットの商品紹介みたいな感じにするとか、当たりしかないお楽しみ抽選会風にするとか、楽しそうな雰囲気を目指す感じで。
ぶっちゃけ「被災者ずるい! 羨ましい!」って声が出てくるくらいに良い待遇なら、二次避難も多少はスムーズに進むんじゃなかろうか?
俺が主張してることのニュアンスをちょっとずつズレて捉えられてるなーと思う。
まあそれは仕方ない。こっちの言葉足らずなせいもあるだろう。だからってここでギリギリ認識をすり合わせようとやりとり重ねても空中戦にしかならんし、あるていど言いっ放しで終わっとけばいいのだが。
よくある「寄り添い論」と勘違いされてるんだよなあ。その危惧はよ〜くわかる。東北震災の時の反省として盛んに言われたことだし。
俺のスタンスは全く逆で
「他人事だからこそ可能な醒めた頭で、具体的な(かたちのある)問題について質の高い支援をすることで、間接的に精神的負担を減らすことを目指すべき」というもの。
というのはセットでなければならない。
人助けとはテクニカルな実務課題の複合体なんだ。そこが抜けていると現地で共依存みたいな「寄り添い」に陥ったり
安全圏から当事者不在の「正論」や箸にも棒にもかからない机上の空論を投げつけるだけになってしまう。
「移住」とかを視野に入れた話がおいおい必要だとして、その議論を進めるにあたっては支援側の外の人間との平熱の信頼関係(精神的依存関係ではない)が必要。その信頼関係はどこから?といえば、そこまでの雑多な問題を一緒に的確に片付けてきた実績が裏打ちになるだろう。
避難所の映像が映えるからって被災=避難所みたいな意識を行政も被災者も支援者も刷り込まれ過ぎたツケ。
ギリギリ気を張っている被災当事者の心を折らないためには、子供扱いしてあやすのでもなく上から従わせるのでもなく対等にフェアに扱わなければならない。
信頼できる随伴者がいるのだという、寄り添い型の支援、それが基本だっていうのは意見は理解できる。
そして今のこの発災直後1ヵ月未満というタイミングで必要なマインドだろう。
罹災証明手伝います、とか公的支援がこんなのあります~とか、支援者側が見えているものをわーわーと情報洪水で押し付ける、とか避けるべきだし
そこはそろりそろりと小出しに情報提供してみて被災者が腰を上げるかどうか様子をみるしかない。
ただ、「対等にフェアに扱わなければならない。」という、その気の使い方、その言葉の端々に、当事者から離れた立場がそもそも出発点だというジレンマもあろうね。すでに知らず知らずに上から目線がにじんでいるよね。
ただ大切だっていうのはわかるんだけど、でも長い目でみて、寄り添いってそこまで大事かな、そうかな?とおもうとこもある。どちらかというと、つかず離れずなのかな、と。
今後の人生を決めるのは支援者じゃないしね。彼らの人生の何がわかるって、結局何もわかってないところからスタートするわけじゃない。
支援者としては突き放した部分というのも重要じゃないかと思う。
よく災害復興は発災直後からスタートするっていうように、これから少しずつ復興の話をしなければならないなかで
は極論だとしても、それに幾分かでも近づくニュアンスの主張というのはどうしたって誰か彼かから出てくるもの。
そのときに、信頼関係というのがむしろ邪魔になることもあると思う。
信頼関係ができて人間関係が密になると、知らず知らずに同じ人、仲間内の人としか話をしなくなるってことがある。
話し合いの場で、いろいろな人がいろんな考えを持っている、ということを排除するムードが自然とうまれていく、といってもいいんだけど。
そとからみると、内輪で鉄壁のなわばりがつくられてしまって、はたからみて何かいいたいことがあっても声をかけにくくなってしまう。
ちょっとでも被災者の心情に傷をつけるようなことをいうと、お前は被災者に真に寄り添っていない、と断罪の目線をむけてられてしまう。
支援者同士の分裂や被災者の分断ってそういうダイナミズムで生まれることが多い気がするね。共産党的マインドっていうか。
強い信頼関係が知らず知らずに、他者との温度差にかわっていくのって案外自分では気が付きにくいもの。
連中がどんだけ何もわかってないか
恐らく敵が増えていくプロセスって自分じゃなかなか、わからないだろうな。気が付かないだろうなと思ってしまう。
それは逆に、本当にあるべき地域の姿を考えようとするときに足かせになる。
むしろその地域を全然知らないような無礼にも乱暴にもみえる支援者がわーっと闖入しては去って行ったり、そういうことが許されるような、
ゆるゆるなオープンな空間のなかで、自由な発想が開花する、ということがあるかもしれない。
それは苦労して信頼関係を築いた先行者にとっては不快な雑音かもしれないのだけれど、案外そこに突破口やら解決の糸口がみつかるってこともある。
信頼関係はもちろん大切だけれども、それと同時に、多様性を受け入れる下地を作っておくことって大事だと思うね。
言うは易しで、空気が乱れ、不協和音があることこそが強みだという、そこまで突き抜けて達観することはもちろん自分でもできないけれども。
ドラレコが捉えた震度6強 目の前で家屋倒壊 発生から3週間も被災者「何も変わらん」 能登半島地震 https://youtu.be/gR2j06AHwCA?si=hE3iJF6xNZyE6HiE @YouTubeより
この動画の自動車の目の前で倒壊した家屋、10年以上空き家だったと。
………これに新しい知識が加わったってことね。
ブクマカ視点では読売新聞にハシゴを外された!?と思って逆恨みしてるんだと思うよー。
まあネットの空騒ぎの内容が今の段階で避難所の年寄りに直接伝わってはいなさそうだけど。
よく「心のケア」という言葉が使われるが「戦力の逐次投入」と同じように意味わかってないのに言いたいだけの奴が多い。
DPATみたいな専門家の仕事だけでなく災害時の「心のケア」において大きなウェイトを占めるのはこの先の身の振り方について見通しが立つかどうかということだ。
と言っても被災者のいうがままに迎合するのはむしろ子供扱いしてるのと同じ。ギリギリ気を張っている被災当事者の心を折らないためには、子供扱いしてあやすのでもなく上から従わせるのでもなく対等にフェアに扱わなければならない。
いますぐ先々の具体的なロードマップが見えてなくても、それを模索・策定していく上で信頼できる随伴者がいるのだという、支援側との信頼構築が重要。
という基本ラインをふまえたうえで再びくだんの空騒ぎを見ると、連中がどんだけ何もわかってないかということがいっそう明確になる。
今回の震災では、2次避難と被災地域への継続的な支援の難しさが浮き彫りになっているが、
たかだか輪島、珠洲、能登町、穴水あわせて6万人くらいしかいないなかで大変だと言っているが、首都直下地震が起きたら一体どうなるんだと不安になった。
被災者に2次避難を促すことに苦労している、という状況がもし首都直下地震で繰り返されるなら、目を覆いたくなる被害になると想像できる。
首都直下地震では、被害拡大の大きな原因のひとつに東京にありがちな木造家屋密集地域がある。
木造密集地地域が倒壊+火災で壊滅する可能性があるわけでしょ。300万世帯くらい。
東京都のページにはその死傷者の推計も書いてある。だけど、生き残った人の生活再建が十分に書かれていないのがかなり不安だ。
試しに荒川区など、一次避難所のリストを開いてみてみると、ほぼ半数以上が多数の木造家屋密集地域に点在する小中学校だ。
これでは、関東大震災の二の舞だ。取り急ぎの家財道具を抱えて当時空き地だった陸軍被服廠に逃げ込んで火災旋風に巻き込まれて3万8千人が犠牲になったのが関東大震災の悲劇。これを繰り返すのではなかろうか。
またトイレも水も十分にない一次避難所など都会の利便性に慣れ切った東京の人間には一時間も滞在できないだろう。
いるだけで苦痛以外の何物でもないだろうから、速攻で二次避難を各々考え始めることになる。
しかし、自治体の二次避難についてみてみると、さらに想定が乏しい。
例えばさきほどチェックした荒川区。域外避難の文字はなく、そもそも二次避難対象者は要介護者、障碍者など一般的にイメージされる災害弱者のみだ。
東京都の想定は域外避難がきちんと想定されていないなど近隣県との協力体制が希薄だと感じる。
恐らく一次避難所が火災で最悪な結果になった場合、二次避難所が果たすべき役割は物量としても質的にも格段に大きい。その受け皿は想定されていそうにない。
つまり一般の市民は一次避難所で命拾いをしたあとは自活を迫られる。仮に二次避難所が一般市民向けに拡充したとしても遅かれ早かれ追い出されるのも間違いない。
さらに、一次、二次避難とすすみ、次の復旧のステップとしては仮設住宅だ。輪島でも仮設住宅をつくる場所が今後の喫緊の課題となっているが場所があまりないのがネックだ。
東京都の文書をみても木造家屋密集地域が焼け出されたあとに、大量にあふれ出る難民と化した都民の仮住まいの場所をいったいどこに設けようとしているのかさっぱりわからない。まさかほんとに公助ってこれくらいしか想定していないのかと思うが、恐らくそうなのだろう。
https://tokyo-bosai-dev.web.app/chart/
そして、遅かれ早かれ二次避難所はキャパオーバーになって出ていけ、という話になり、あとは自分で「自助で」住まいを探してください、防災は自助共助ですよ、わかってますね、てなことに結果としてなる。そのとき、人々は数日東京の電車が止まったくらいで帰宅困難者気どりをしていた時代を懐かしく思い出すかもしれない。
運よくたどり着けた仮設とて通常は期限は一年間だ。案外、印西や成田あたりの限界ニュータウン化した郊外の住宅地が空き地が多いことが功を奏したり、震災の被害を免れているかもしれない。そうすれば復興住宅が今まで忘れ去れたような地域にバンバンと建ち始める、ということもありえなくはない。
東京が住めなくなったら、ほんと、どこに住もうかな。
想像でしかないが、避難所の現場リーダー的な人(声が大きい人とも言う)に
「緊急だから壊すぞ」と声を掛けた程度なんじゃないだろうか。
現場リーダー的な人は「お、おう」とか言ってる間に破壊が始まってしまって何も言えなかったかもしれないし
「仕方ないな」と言い合って勢いで壊してしまったかもしれない。
死ぬほど見かけるんだけど能登半島地震の被災者と万博になんの関係があんの?どんなオカルト理論で万博中止って騒いでんの?
仮に万博のパビリオン建設で職人が取られていて復興が進まないとか、ボランティアが集まらないとかいう影響が出ている、あるいは明確に予想されるとかならその影響によっては万博を中止ないしは延期して被災地を助けようってなるかもしれない。でも現状君らの妄想でしかないし、被災地以外は通常通り経済を回そうって流れとの整合性がとれないよね。
万博気に入らないのは好きにすれば良いと思うけど、関係の無い被災地や被災者を引き合いに出すのは政治利用だし議論の軽視だよね。大体、被災者にだって万博を楽しみにしてる人は結構居るんじゃないかな。
今回の能登地震、手間取ってる感があるのは、自治体職員が被災者になってる、基礎自治体の弱体化とかが原因なんだろうけど、それ以外にも雪国の過疎地の事情がわかる人がいない、そこの地域の事情に合わせて支援できる人がいないっていうのも大きな要因なんだろうなと思う
※ちなみに増田は過疎地出身だが、雪降らない地域かつ近くに大きい自治体あるので、多分純然たる過疎地ではない、だから能登の感覚が全くわからないなと思う
国が支援しろというのはもっともなんだけど、都市部の事情しかわからない人が支援に来ても足引っ張る結果になると思うのよね
今回もカウンターパート支援ということでいろんな自治体が支援に入ってて、それ自体はとても素晴らしいことなんだけど、大きな被害があったにもかかわらず、支援する側に雪国の自治体が入ってなさそうなところが多い
人員とか金に余裕がある、大都市を抱える自治体が支援に入ってるから、雪国の自治体は支援に入りにくいというのが現状と思う
https://news.infoseek.co.jp/amp/article/kanaloco_1118273741218021803/
そうなると、雪国の感覚がわかるひとがいなくて、どうやったら住民に理解して動いてもらえるかとかの感覚がとてもわかりにくく、難航することが多いのかなと思う
例えば、二次避難を!と訴えかけること自体は、雪のリスク、凍死のリスク、感染症リスクを考えると的確な判断と思う
でも、その土地に執着ある人たちをどう説得して安全なところに逃げてもらうかって考えた時、上のリスクを訴えかけてもおそらくお年寄りには響いてなくて、それが二次避難の難航につながってるのだと思う
増田で、
●この時期に地震のダメージ受けた家を見過ごすと積雪で倒壊してしまうから離れられない
●逃げてしまうと2度と自分の住んでるところが復興されないと思ってるのでは
という書き込みがあったけど、それはその通りだなと思ったし、書き込みがないと気づかないことであった
二次避難するにしても、加賀地区の自治体に二次避難が正解ではないのかなぁと思うけど、自分も感覚がないからどうしたらいいかよくわからない
だから国で防災庁作って、その上で雪国のエキスパートを育成しておかないとダメなんだと思うし、これは今回の地震の大きな教訓なのではと思った
だいたい「故郷を離れたくない」とか言ってるのも支援の設計ミスと被災者とのコミュニケーション不全によるものだからな。
「故郷に居続けた場合、手厚い支援は不可能であり、死ぬ可能性が避難するより高いから避難してほしい」
と明言してりゃその通りだが、そういう責任取らされそうな事は言わずに「被災者に寄り添ってできうる限りのゴニョゴニョ」みたいな事言ってリスクを明言してなきゃ行政のせいではある。
「ボランティア」という、世間的に輪郭のあやふやな概念が邪魔にしかなってないな。
何も知らずにわけもわからず称賛したり叩いたりするネットの空中戦が現場の疲弊に拍車をかける。
個人か団体か社協仕切りの個人の集団か、どういうニーズがあるのか、そもそもニーズが集約されてるのかプッシュ型支援が必要な状態か、要素掛け合わせで全部事情は違うのに「ボランティアは是か非か」のワーワーに一元化されてしまう。
当然ながらいまは人海戦術のニーズも受け入れ体制もなく、しかし人手が足りてるのでもなく「被災者でもあるエッセンシャルワーカー」に限界が来てると。
そういうピンポイントのニーズはボランティアの枠組みはなじまないだろう。
被災地以外で現にその仕事をしてる人が十分な手当を得て一時的にスライドするしかない。
ああ、でも被災者とかも避難が長期になると毎日そうやって援助に対する「心からの感謝」「もうしわけなさそうな仕草」を強要されつづけることに疲れたっていう話きいて印象的だったね
どうしてもギリギリのとこで支え切れないと思うなら一生二度とつきあわないとして社会に託すしかないわな
ただここに相談してるってことは元増田はまだ踏みとどまれるかもしれないとおもってるわけだよね
1 彼女は気づいて最初に謝罪または感謝してるけど「心がこもってない」とかで忘れられてるケース これは元増田が悪い
2 彼女はそういう言葉を本当に一切口に出していない(録音してみればいいとおもう)←これは彼女が悪いし、たぶん自覚もない。
発達障害者には「無くした」「見つかった」などというサプライズに対応する力が弱い人が多い。
「見つけた人の気持ち」まで気が回らない、完全に余裕がない場合も多い。
「いっしょに録音をききなおしてもけっこう対応がひどいよね、こういうときは落ち着いた後でいいから謝罪か感謝して。
他でもそうしたほうがあなたの印象もよくなるよ」といってみよう。
ご苦労様。
自治体同士は、災害時の支援協定などが地域防災計画に明記されていることが多いから
増田みたいに派遣されたり、という活動は、特に四の五の考えるまでもなく、自動的に動き始めることができる。
一方、社協はどうなんだろうね。社協のネットワークはやっぱり期待されるべきだろうかね。
集団移転をすべきなのか、
なんとかならないのだろうか。
本来は、こういう起こるべき事態を想定して、地域防災計画に事前に災害対応と復旧のシナリオが描かれてないといけない。
その場で答えを考えようとする余裕は、発災直後の現場のリーダーや行政職員にはないと考えるべきで、
その前提で、いざというときに自動的に決まったことを運用できるよう、ありとあらゆる判断基準を決めておくことが本当は計画で一番大切だった。
いざというときの現場の判断にかける負担を少しでも減らすのが計画というものの本質だから。
まるで老々介護だし、このままで持つとは思えない。
事前にこんなことがわかっていれば、何をやったかを考えると、、
例えば、保健師や介護士の派遣とか、そのテーマで考えてみても、
孤立した地域に踏み止まっている老健施設や老人福祉施設に一人や二人派遣してもほとんど力にならず、意味ないってわかる。チームを派遣する余裕もない。
支援によってベーシックニーズを満たすという優先目標が達成できるかどうかを先に考えるべき。
神戸の行政の方々が、能登の現実をみて、都市型の集中管理型が通用しないといって、くじけてしまった、というのはわかるんだけど、
でもだからといって「送る」「派遣」型の支援は無理ありすぎじゃないか?
やっぱり山古志式の全村民避難や三宅島全島民避難のやり方が安全だし、時間や人のリソースをきちんと生かせる。
一般ボラの立場からみても、支援したい人が陸の孤島と化している能登の奥のほうにいけない、という状況を打開するには、支援されるべき人を連れてくるほうがまし。
地域コミュニティごと、施設ごと、まるごとその単位で連れてくる、ということを最初から地域防災計画に予定しておいて、
平素から地域住民とコミュニケーションをとっておく、ということになるんだろう。
ただ、かつての山古志式のリーダーシップは、平成の大合併前の小さな自治体で首長が地域住民と顔の見える関係を築いていたからできた、ということも改めて思う。
だからこそ国は市という今となっては大きくなりすぎた行政単位でなく、地区防災計画という形での防災も平行して進めてきたところだったが、北陸では果たしてどうだったか。
*被災者に寄り添う支援であるべきだ、という意見がトラバであった。ただ、その支援によってベーシックヒューマンニーズが満たされないなら、そうあるべきだという理想にうっとりしたいだけの単なる自己満足じゃないかい?
→嫌味な言い方だったかもしれないが、そうも言いたくなる。
https://anond.hatelabo.jp/20240121103729
eternal_reflection なんと言うか国家公務員的な意見だなぁって。計画に集団避難を記載して平時にコンセンサスを得るってのもかなり理想論だと思う。結局そこで集落と調整する事をやらない人の意見だよね。人間相手だから難しいんだよ…
というブコメもあった。そうだね。頭でっかちだとは思ってるよ。
高齢者の2次避難は実際のところ、実は解決のしやすいタスクの部類。もっと難しいのは生計をもつ世代。生活者。地域の人間関係が社会的にも経済的にもより強い世代。
高齢者は生計の切断を無視してでも対処しうるけれども、働く世代はそうはいかない。例えば、地元の取引先があるのに、それを差し置いて自分だけ避難できない、といって車中避難を続ける被災者の言葉を紹介するニュースを目にしたとする。イメージとしては漁港の箱詰工場のひとだとか、除雪作業員でもなんでもいいんだけど、自分が逃げたら他の関係する取引先に影響を及ぼしたり、地域の状況がより悪化したりするひとってたくさんいるよね。