はてなキーワード: 疎開とは
記事タイトルは
・「原発」爆発放射性物質の大量飛散… 「福島」で起きつつあるのは、何か。
・「被曝」誰も知らなかった福島第一原発から「脱出住民」怒りの告白
・東京電力 崩れる組織最悪のシナリオへと突き進む原発事故、計画停電……
・国民には「データ隠蔽」「放射能拡散予測」、IAEAには詳細報告しているのに
・「放射能疎開」が始まった外国人が続々日本出国、春休みを前に悩ましい
・全54基「原発列島」マップ大地震で直下型誘発も? 「見逃し活断層」も危ない
などなど
さすが朝日だぜ!
http://omasoku.blog90.fc2.com/blog-entry-366.html
ジワリジワリと互いの首を絞めてしってるって事に
周辺業種は気がつけば取引先がどんどん潰れる
http://anond.hatelabo.jp/20110319172127
「都市伝説だ」とか「ネタだ」とか「自分の周りにはいない」とか
いろいろ言われているようなので、
東海道新幹線は、大体1日に15万人を輸送する能力がある、と聞いたことがある。
メチャ乱暴な仮定だが、輸送力15万人のうち半分、7.5万人が「疎開民」だったと仮定し、
かつ疎開輸送が先週末から、延べ7日間なされていたと大胆に仮定して、
7.5万人×7日間≒50万人
その他、航空便による疎開組、自家用車による疎開組もいるので、
これまたメチャ乱暴な仮定で「航空機疎開組と自家用車疎開組の合計が新幹線疎開組と同数」と割り切っちゃうと、
「えらい疎開したなあ」とも思うが、首都圏の人口が3,500万人だか3,700万人だか4,000万人だか
(人により首都圏の範囲が違う)とも言われているから、「2~3%の人が疎開した」ということになる。
これを、多いと見るか、少ないと見るか。
実際には、この「2~3%」という数値は、属しているコミュニティーによって大幅にズレるだろう。
「仕事放ったらかして逃げられない」ということで、疎開率は1%もないんじゃないか?
だから、自分の周りが社畜だらけ、というコミュニティー内の人は、
一方、ヒマしているフリーター、学生だったら、逆に3~4%はあるんじゃないかな?
乳幼児連れ、もしくは妊婦という場合が一番確率が高いと推察される。
毎日新聞に「幼稚園の卒園式をブッチして・・・」という家庭が紹介されていたし、
「幼稚園・小学生を家庭内に抱えている場合」は、それらのしがらみがあるから、
2~3%に留まっていると思う。
しかし、そういうしがらみがない場合、例えば第一子が2歳以下で、幼稚園にも行ってない、という場合、
あるいは第一子妊娠中、というような場合は、それこそ5%超えているんじゃないかと推察される。
ということで、「1~2歳児のママ友」とか「妊婦教室友達」というコミュニティーに属している場合は、
「疎開率=5%以上」となるので、「ちょくちょく聞く話」ということになる。
ただ、この妊婦の疎開率も、多分5%強で打ち止めじゃないかな?
「西日本に実家があったり、お金に余裕がなければ」誰でも疎開できるわけじゃないので、
俺も、この人とほぼ同じ条件で、全く同じこと考えてた。
子供を救急にかつぎこんだ経験のあるひとは分かってくれるだろうが、
理由は、西日本にいる親類の不都合だとか、
当座、食って行けそうなだけの見通しがついたとか、
ある程度の被爆は仕方ないとあきらめたとか、いくつかあるのだけれど、
ふだんから「男らしく!」とか、「逃げるな!」とか
人より先に尻に帆をかけて逃がすわけにはいかないじゃないの。
やっぱり逃げてたんじゃないか、とも思う。
福島の小学校は、ふつうに授業を続けているのだろうか? とても信じられない。
何日かたって後悔するかもしれない。
おなじく小学生の子供を名古屋の親のところに疎開させたものとしてひとこと。
これなんだよね。いまのところ疎開の一番の効用は親の精神安定だよね。
しかし木曜日の東京駅は同じ事考えてる人間だらけだったのには笑った。平日の昼の新幹線なんか、普段はサラリーマンしかいないのに、大量の子供連れがいた。妻子を見送りに来たらしい父親もたくさんみた。こんな段階で疎開させるバカはうちくらいかと思ってたのに。
これを書くと「情弱」「ヘタレ」「デマを流すな」といろいろ書かれそうだが、備忘録の意味で書いておく。
23区でも割と都心寄りに住んでいるので計画停電の影響は殆どないし、
にもかかわらず疎開させたのは、ひとえに「放射能対策」、それ以外に理由はない。
文系ではあるが、もともと原子力についてはいくつか本は読んでいる。(推進派・反対派いずれも)
なので多少の予備知識はあるつもりなのだが、
結局「ワーストシナリオの場合でも、23区内は(乳幼児にとっても)大丈夫」という確たるクレジットが、
自分が探した範囲内で得られなかったから、疎開の理由はそれに尽きる。
恐らく、「ワーストシナリオで、23区内に放射性物質が飛来し、健康被害が生じる」確率は、
1%あるかないかだろう。
なので、通常であれば、99%の確率を信じて、都内に留まるということになるだろう。
それは「99%に掛ける責任を、自己責任で負ってもいい」と自己判断したからである。
(自分もいわば「中年メタボ」なので、「ガンで死ぬ前に、脳卒中とか心臓病で死ぬワイ」という
開き直りの気持ちもある)
親が判断を代理行使しなければいけないのだが、不幸にして「1%」の事態に陥ったときに、
自分は、自己決定できない子供に成り代わって、「1%であっても、回避できるのであれば、回避する」
のが親の務めと思って、回避させた。
もともと13日の水素爆発の時点で、「事態の収拾が難航しそうだ、最悪の場合は避難しなければ・・・」と
妻と話していて、妻の実家にも下話はしていた。
その後様子を見ていたのだが、
「2号機の圧力容器破損」
「4号機で火災」などのトラブルが相次ぎ、「どうも事態収拾ができなさそうだ」と判断した。
特に「高レベルの放射線量が計測された」というニュースが決定打になった。
※その日、新宿でも低レベルの放射線量が計測されたが、それは疎開の理由ではない。
医学的知識が少ない人の場合、少量の放射線に怯えて疎開している向きもあるようだが、自分の場合は
「自然放射能」とかも知っているので、低レベル放射線自身はこわく無かった。
「(放射線防護しながらの)現地作業員の回復作業が困難、というより不可能になる」と判断したからである。
単機のトラブルだと兎も角、複数機のトラブルなので、現地作業員による事態収拾は「まず絶望的」と思ったのである。
恐らく、このあと数日は、「放射能を避けながらの最大限」の作業が行われるだろう。
しかし、それは通常の「放射線を気にしないで行う作業」の、10分の1、100分の1の作業効率しか上がらないと予想された。
(実際、15日以降、今日までの事態はそのように推移している)
となると、遅かれ早かれ、「事態収拾困難」で白旗を上げる時期が来る。
その後はメルトダウンなのか再臨界なのか「神のみぞ知る」状態になる。
そういうワーストシナリオであっても、風向きが南風だったり北西風であれば、
しかし自分は「関東は、時々北東~北北東の風が吹いて、天気がぐづつく」という気象現象があるのも知っていた。
恐らく1年365日のうち20日程度だろうか、全国的に晴天なのに、関東だけ曇りや小雨という気象条件の時があり、
そういう場合は関東東側に小さな低気圧があって北北東の風が吹いているのである。
※茨城福島沖の湿気を含んだ空気が、北北東の風に乗って関東山地(箱根など)にぶつかり、弱い雨が降る。
冬型気圧配置で、日本海側、それも日本海側の内陸で降雪があるのと同じ理屈
となると、折悪しくこういう気象条件の場合にワーストシナリオが発生した場合、
汚染された気流が関東に流れ込む形になり、しかも悪いことに「降水」する危険性が高い。
今回の原発事故以降、毎日数時間は原発関連テレビを見て、かつ「はてな」で情報収集しているのだが、
この関東特有の気象条件について言及している学者が一人もいないのが不思議である。
※希望的観測を言えば、福島茨城県境に山地(八溝山など)があるので、そこである程度放射性物質が
落下してくれるかもしれないが・・・
で、「ワーストシナリオ」発生時に「あわてて家族一緒に避難する」という選択肢もある。
15日の放射線量データを見てもわかるように、関東山地以西、山梨や静岡は、
北北東気流が遮られるので、格段と影響が小さくなる。
関東4,000万人が一斉に避難行動を開始した場合、様々なパニックが予想される。
実際に避難できる方向は静岡方面と山梨方面だと思うが、自分がラフに計算したところ、
「東名高速と中央道が徒歩避難者に開放されたとしても、両高速道路で関東脱出できる人数は32万人/時、
関東全員が県境を越えるのに125時間かかる」という結果になった。
要は東京マラソン状態になって、「125時間の大渋滞」が県境で発生するのである。
「徒歩」という前提で計算したが、自家用車とかだともっと悲惨な結果になる。
要は「ワーストシナリオ発生後に関東脱出できる」人は「関東全人口のせいぜい10%もいない」のである。
事実上、ワーストシナリオ発生後の脱出は「不可能」と言ってよい。
「ワーストシナリオ発生する前に、事前に疎開させる」というのが親として取るべき行動、という結論になった。
勿論、個々の事情はあって、自分の場合は「妻の実家が関西」という有利な条件がある。
※親類が西日本に居なければ、「1%のリスクを甘受して、東京に留まる」という選択肢を取ったと思う。
唯一のネックは「上の子が小学1年生で、まだ終業式を迎えていない」ことである。
春休みまでの数日間、学校を「ズル休みする」格好になり、この点を妻はさんざん抵抗した。
「終業式以降じゃダメなの?」
「A=今避難して、その後何もなくて、「取り越し苦労だった」と嘆く。
B=今避難せずに、その後万一のことが起こって、「あの時避難しておけば・・」と後悔する。
Aの嘆きなんて、所詮「後になれば笑い話」だし、子供の長い人生の中で、1週間の休みなんて、どうということはない。
「Aの嘆き」と「Bの後悔」では、全然質が違う」
それでも渋る妻に、奥の手も使った。
大学時代の友人で、今は某私大の准教授(専門は化学)に、「疎開を考えているがどうだろう?」と
で、その准教授の肩書きとともにメールを見せて、いわば「権威付け」して、妻も納得した。
(後日その准教授は自身のツイッターで「西日本へ疎開できる家庭環境の人は、疎開していいのでは?」と書き込んだようだ)
「今ワーストシナリオになってないだろうか?子供は大丈夫だろうか?」と
15日以前は、常に原発が気になり、正直仕事が手につかなかった。
その点、16日以降は「後方の憂えがない」状態なので、仕事がはかどる、はかどる。
「自分はワーストシナリオでも、まあガン化確率がちょっと上がるだけじゃん、んなもん気にしてられっか!」と
自分なりに「事態が収拾され、ワーストシナリオが回避される」時点を見極める必要があるから。
早期に事態収拾されるなら、終業式くらいは出席させよう、というハラである。
私見だが、冷却電源が確保され冷却(原子炉&使用済み燃料プール)に成功すれば、
事態収拾と判断していいと思うのだが・・
http://www.asahi.com/national/update/0317/OSK201103160089.html
しょうがないから、僕はネットで安全な西日本などへの「疎開」を呼びかけている。とりあえず、妊婦や幼児や病人、児童生徒たちは、用がなければ被災地と救援の活動拠点となる都市部を避けた方がいい。
政府は可能な人には「疎開」を呼びかけるべきだろう。東北・関東から100万でも200万でも人口が少なくなれば、資源への負荷も軽くなり、救援の資材や人員の搬送も円滑になる。
100万人をどうやって運ぶのか、どこに住まわすのか、親と子供が離れると言うこと、それぞれその現実的な姿を想像したことがあるのだろうか。
その上で、お友達の『大阪市長が市営住宅500戸を提供する』と。
500戸に何人住めるか知ってるんだろうか。
ほんと、冷静に考えろよ。
新聞テレビで、「新宿の放射線レベルは●マイクロシーベルトで、これは健康的に問題がないレベル」的な解説がなされている。
それはそれでいいのだが、ここで想定されている対象者は「成人」じゃないのか?
「妊婦、乳幼児だと、1年間(あるいは1時間)に●マイクロシーベルトだと安全範囲なのか?」という点について、
「妊婦乳幼児にとって安全かどうか、の情報がないから、安全サイドに考えて、西日本に避難しよう」という動きが加速している。
ここ数日、下り新幹線は「ママ+乳幼児」で「遠足列車状態」である。
なので、朝日新聞でもNHKでもいいから、ほんの少しだけでいい、
「妊婦や乳幼児の場合の許容量は●マイクロシーベルトなので、心配ありません」とアナウンスする必要があるのではないか?
確か英国大使館かどこかが、「東京の放射線レベルは、妊婦乳幼児にも安全なレベルです、だからインターナショナルスクールを
休校させる必要ありません」と発表していた、と聞いたのだが、こういう情報こそ、大マスコミは開示すべきだろう。
なんで君達は原発を無くそうとしていつも極論ばかり言うの?訳が判らないよ。
「東京に原発を!」とか「通常時のx倍も!」とか「爆発するぞ!」とか「疎開だ疎開仕事なんかしてる場合か!」とかさ。
揚げ足ばかり取って、代案も出さない、自分達の言葉だけが真実とがなりたてて、それで本当に原発がなくなると思っているの?
もっと狡猾にやれよ。
世間を味方に付けろよ。
言葉の使い方、表情の出し方1つで印象は変わるんだよ。
古臭い活動家的な運動したって、一般人は冷ややかな目しか送らないんだよ。
(共産党がソコソコまともな路線に移行して、それまでやってきた事のツケを20年30年払っても、未だ信用されないんだぜ?)
今「ホウシャノーガー」とか「ホアンイガー」とか「セイジカガー」とかやっても、そんな中電車に揺られ出勤し働いてる奴らに届くわけがねぇだろ。
ありえないような理想論を振りまかず、冷静に事実だけを伝え、現実的な代案を出して、既存の原発の処置を提案してみろよ。
実際に今浴びる放射線の影響を、むやみに拡大解釈せずに、どんな可能性があるのかを指摘してみろよ。
炉が爆発するだのチェルノブイリだの、ちょっと調べれば判ることまで嘘ついてまで味方を作ろうったって、今の時代無理なんだよ。
・・・ああそうか、ごめん。
そりゃ、原発に本当になくなってもらっちゃ、生きがいが無くなるよな。
ドイツも比較的分散してると思います。
ご指摘の通り、連邦制を採っているドイツはイタリアと並んで、ヨーロッパでもっとも一極集中から縁遠い国です。
但しこれはあくまで「例外の無い都市への人口集中」の範疇に含まれる話です。経済発展に伴う必然なのはあくまで「都市化」。都市化=一極集中ではないので、そこは区別してください。
都市化の受け皿がある一つの都市になるか、幾つかの都市になるか、とういうのは国土の広さや地方分権の政治的歴史的状況によって差があるというだけことです。近代における都市化のトレンドには原則として例外はなく、トレンドとは言い難い範囲まで視野を広げても、都市から田園への人口拡散として挙げられる例外は、
といった異常事態時くらいになっちゃいます。一国一都市圏とは限りませんが、経済が発展する限り、田舎は衰退するものなのです。
国家規模、面積で一極集中してる例ってあるんでしょうか?
欧州の典型はフランス。連邦制国家でありながらイギリスも一極集中が強く、実は欧州の大半の国が一極集中型の国家です。欧州33カ国で一極集中していない国は独伊蘭瑞(西が微妙?)くらいでしょうか。さらに言えば、実は先進国の多い欧州諸国より、急激に経済成長を遂げているアフリカ、アジア、中南米といった発展途上国の多い地域の方が、一般に一極集中の度合いが激しい国が多いです。コートジボワール、メキシコ、韓国、バングラなんかの一極集中度合いは凄まじいです。世界では一極集中している国の方が圧倒的多数派で、その度合いからすれば、日本は決して一極集中が激しい方の国ではないですよ。日本は世界有数の人口と比較的広い国土を持つ国なので、その割には一極集中具合が大きいと言えるかもしれませんが。
「都市化」は近代国家、特に全体主義的な強力な統制を行わない国家では必然で、一極集中の程度については、日本のような
・特別に広大な国土を持っているわけではない
という条件の国では「一極集中しつつも、他にも数個の有力な都市圏が生き残る」という方向に進むのが自然でしょう。今後の日本について言えば、東京圏、中京圏以外はかなり地位が低下していく、と予測されていて、関西圏でも安泰とは言い難い感じです。道州制等を実施すれば、福岡、仙台等発展する都市圏がもうちょっと増えることになるでしょうけど、都市化の受け皿となるような都市圏の数を増やすには、かなり思い切った地方分権政策を採る必要があると思われます。
経済原理が何を指すのかよくわかりませんが、
大雑把には「経済成長を高めるための原則」という意味で使用しています。
物流、自動車関連、インフラ整備、農業、これらがほとんど死滅するんですけど、経済原理を日本に当てはめてこれが本当に望ましいんですか?
特定産業があまり急激に崩壊すると、問題が大きくなりすぎることも考えられますが、経済原理上は、基本的には「死滅OK」です。
建設土木(特にインフラ需要が大きい土木)と農業は日本で最も生産性の低い産業に分類されます。この産業の規模縮小は原則的には経済にプラスです。物流については人口集積が進めば効率化が進む産業です。自動車産業は日本で最も生産性の高い産業の一つで、これが滅ぶのは困った話なのですが、田舎が滅んでも自動車需要は若干へこむ程度。そもそも少数派の非都市住民が減ったからといって
「(非都市住民が自動車にかけるお金-都市住民の自動車にかけるお金)*非都市住民の人口減少数」
分が減るだけですので死滅には程遠いです。自動者産業は基本的に輸出産業ですし。
以上、先進国の経済成長において重要なのは「雇用」より「生産性」であるのが通常だ、という経済学の見解を知らないと、なかなか納得しがたい話ではあるのですが、それが経済成長における経済原理です。
周囲の国家から出稼ぎにくる労働者があって成り立つようなモデルを日本に持ってきていいんですか。
「周辺国からの出稼ぎ」を「(国内)農村部からの『移民』」に置き換えていただければ、成り立つのはおわかり頂けるかと。まあ、本質はそこではなく、現在地方経済を支えている一次産業と建設土木の低生産性(特に資本投下比のリターン)なんで、そんなことにお金使ったら資本の浪費ですよ、ってことなんですけどね。
気がつけば82歳
ttp://thoughts.asablo.jp/blog/2010/03/11/4938054
大きな木造の三面しか壁のない ガランとした建物だった。
中は照明も無く薄暗かった。
やがて奥の方から 黒い大きな牛が 鼻面に通された綱を曳かれて現れて、中央まで来た途端に、屈強な男性が歩み寄って、長い柄のついた斧のようなものを振り上げ 牛の眉間を撃った。
その一撃だけで 牛は膝を折り 崩れるように倒れた。
部外者以外に見ていたのは案内してくださった方と私だけ。
その夜、村の方々からすき焼きをご馳走になり、昼間の光景を忘れたように美味しく食べてる自分がいた。
戦争で死と隣り合わせの生活をしてきて鈍感になっていたのかもしれない。
又は、若い時は衝撃的であるはずの事もあまり抵抗なく受け入れてしまうのだろうか。
しかし、60年昔見た光景がずーっと心の奥に潜んでいて時折現れて色んな事を考えるのだ。
人間は 牛や 豚や 鶏や 諸々の魚介類などの命を貰って生きている。
「ダーウィンが来た」を見るまでもなく、弱肉強食は世の常、生態系に人間も組み込まれているのは解っている。
疎開していたころは、その辺を歩いている鶏を小父さんが捕まえ首を捻って、羽を毟りとり 解体して夜の鶏鍋になったのを見た。
今はスーパーで綺麗にパッケージされてるから食材として抵抗なく買える。
年齢かなあ
殺生が応える気分になった。 水槽で泳いでいる魚を コレって選ぶの辛いな。
せめて 貰った命は絶対無駄にしたくない。
私の命の一部に再生させてもらうことで納得したい。
朝鮮進駐軍 ※Weblio辞書にて削除予定の為、全文コピー。
http://www.weblio.jp/content/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%B2%E9%A7%90%E8%BB%8D
概要
一般に朝鮮進駐軍と言ったときは、おおむね1945年昭和20年以後に現在特別永住権を持つ在日一世(朝鮮人・韓国人)、もしくは現在日本に帰化または半島に帰国した朝鮮民族によって作られた犯罪組織を指す。 戦後、日本がポツダム宣言を受け入れると日本各地で、婦女暴行、窃盗、暴行、殺人、略奪、警察署の襲撃、公的機関への襲撃、土地建物の不法占拠、鉄道や飲食店での不法行為等様ざまな朝鮮人による犯罪が多発した。 自称「戦勝国民」(正しくは戦勝国民ではない)であると主張し、自らを「朝鮮進駐軍」と名乗り各地で徒党組んで暴れ事件を起こした。GHQの資料にあるだけでも最低4000人の日本人市民が朝鮮進駐軍の犠牲となり殺害されたとされている。
戦後の混乱を利用し、日本刀等の刃物・鈍器以外に多くの銃火器を使用した。銃は三八式歩兵銃や機関銃など盗んだ旧日本軍の武器で武装し組織化を行った。朝鮮進駐軍では旧日本陸軍のパイロットの軍服を好んで着用したが、これは日本兵に対するあてつけとも、日本人(皇民)に対するあてつけとも言わた。 組織ではいくつかの本部設けたが、実際は各地域ごとに部隊名をつけその部隊が、個別に日本人を狙った犯罪行為を繰り返しすことが多かった。 朝鮮進駐軍総本部(在日朝鮮人連盟総本部)はのちの在日本朝鮮人連盟。更にこれが在日本大韓民国民団(略称「民団」)と在日本朝鮮人総聯合会に分かれ、これが現在の民団と朝鮮総連となる。
時代背景
当時の日本では戦場に男手が駆り出され極度の男手不足に陥っており、また都市部においても疎開や空爆による被害で人手が足りない状況が長く続いていた。 また警察組織においても、武器の使用が認められないなど戦後特有の制限があり。戦後朝鮮人犯罪が増加の一途をとどった背景には、このような犯罪に対する抑止力の空白化が背景にあったとされている。いまでは考えられないことではあるが、当時はヤクザ(現在の指定暴力団)が朝鮮人から、日本人の生活を守る役割を一部果たしていた。 この当時は朝鮮人の殆どが実名で暮らしており、通名を使用しだすのは朝鮮の姓に対して嫌悪感や犯罪者といったイメージを日本人が抱くようになってからである。ただしこれは、朝鮮人側からはもともと差別があったからとされている。
朝鮮人による犯罪
朝鮮進駐軍による犯罪は全国に及んだ。特に川崎・大阪・神戸・都心等当時朝鮮人が比較的多かった地域で多発した。特に東京では、原宿等を中心に三八式歩兵銃や拳銃・日本刀等で武装した朝鮮人によって占拠されており、のちに警察やGHQにより鎮圧された。
市民を狙ったものとして白昼に堂々と集団で婦女子に暴行を加えるなど、多数の犯罪行為を行った。拳銃や刃物で武装しており一般市民は無力であり繰り返し行われることも多かったため被害が拡大した。またGHQの調べでは少なくとも4000人の日本人市民が殺害されており、多い説では1万人以上であったとも言われている。
略奪・窃盗・密売・土地の強奪等においても組織的に関与していた。一般の露天商からの強奪や農作物・家畜の強奪(利根川水系の牛の強奪などが有名)等、さまざまな方法で集められた商品が朝鮮人によって売買され、その後の朝鮮人社会の資金源として利用されてきた。その他に、戦後土地建物の所有に関する書類の損失や強引な立ち退きにより土地・建物の収奪も相次いだ。
1945年12月翌1月におきた生田警察署襲撃事件では武装した朝鮮人50人が襲撃し警察署を占拠。翌46年には長崎県警察本部で、在日朝鮮人連盟と名乗る総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせうち1名は死亡にいたらしめた。46年には国会議事堂前でも集まった2000人の朝鮮人と応援出動した武装警官358名・進駐軍憲兵20名とが銃撃戦に発展。首謀者は軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。1948年4月には阪神教育事件では数千人の朝鮮人によって庁舎が占拠された。これに対して3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除し1800名の朝鮮人が検挙された。戦後はこのような事件が日本各地で続発した。
第八軍司令官ロバート・アイケルバーガー中将は、正規の大部隊を治安確保のため朝鮮人に対して街中に簡易陣地を引くなどして配備した。GHQダグラス・マッカーサー最高司令官は「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」と発表するなど朝鮮人に対する取り締まりにおわれた。 昭和26年に浅草で朝鮮進駐軍と思われる朝鮮人が起こした集団暴力事件では、米兵一名が死亡、二名が負傷した。
主な事件一覧
朝鮮進駐軍及びその後の在日本朝鮮人連盟が関わる事件の一覧である。
生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日)
大村収容所脱走企図事件(1952年5月12日~25日、11月9日~12日)
参考文献
横幕胤行、富久公、船越信勝『吹田・枚方事件について』1954年
宮城県警察史編さん委員会編『宮城県警察史 第2巻』1972年
警視庁富坂警察署編『富坂警察署100年史―新庁舎落成記念―』1975年
兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史 昭和編』1975年
仙台市警察史編纂委員会編『仙台市警察史―仙台市における自治体警察の記録―』1978年
李瑜煥『日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実―』1980年
福岡県警察史編さん委員会編『福岡県警察史 昭和前編』1980年
竹前栄治、中村隆英監修『GHQ日本占領史 第16巻 外国人の取り扱い』1996年
コピー終わり。
増田に書くのは初めてです。これ本当に匿名で表示されるんだよな・・・と不安になるUIですね。
以下はある夫婦の朝のやり取り(実話)です。私は夫です。いつも良くある夫婦喧嘩なのですが、本気で妻の怒るタイミングとその思考ロジックと対処方法が分かりません。
妻の悪い点はいらないので、私の悪かった点、妻の気持ち、どうすればうまくいきそうかなどアドバイスをもらいたいです。特に既婚女性の意見が聞きたいです。(はてなにはあまりいない気もしますが)
1.朝食中に娘が咳をして喉が痛いと泣き出す(咳は1~2週前から少しだけしている、熱はない)
2.私が病院にいくか?と娘に聞いたら娘は「うん」と言う
3.私が病院に電話する。(残念ながらすでに予約はできなかったのだけれども。)
4.妻が怒って「そんなに喉が痛いんだったら幼稚園休むか?」と娘にきつく言う。
5.私が娘をかばって、病院にいってから決めれば良いと妻に言う
6.俺が病院に連れていくと言う
7.「そうしたらいいよ、どうせあんたは自分のしたいようにしないと納得しないんだから」と妻が怒って言う
8.じゃあどうしたいんだ、と聞くと、「病院にいくくらいなら幼稚園をやすませる、そうでなければ幼稚園にいかせる」と妻が言う
9.娘に聞くと、「幼稚園にいく」というので幼稚園にいかせる事にする
10.着替えなどできる範囲の準備をしたあといつもどおりに出社しようとすると妻が「自分で連れて行くんじゃなかったのか」と怒る
11.「時間がない」と妻が言うので、準備だけしてくれたら俺が幼稚園まで送っていくよというと「ああ、そうしたら優しいお父さんだねって言われていいでしょうよ」と妻が言う
おおよそこんなやり取りでした。ここまで細かく書くと妻が見ると完全に特定できてしまうのですが、まぁ、それはいいことにします。でも、人間の記憶はあいまいなものですね、かなり正確性が失われている気がします。6で私が病院に連れて行く、と言ったのも、妻がなにか喧嘩口調で言ってきたのでそれに対する反応だったのですが、どういう会話をしたのか忘れてしまいました。
ほかにも色々話はしましたが、妻としては「勝手に物事を決めて進めるのが気に食わない」という事を言っていました。3の部分の行動をする前に相談するべきだろうと。でも、同じ食卓についていたのであり、普通に話は聞こえているし、診察券は妻のかばんから出してもらったし、その場で言えば良いわけで私としては「え!そんなことで怒ってたの!」という感じです。
根本的には、このようなことがおきるような夫婦間の人間関係、下地があるから・・・という事だとは思います。ですが、毎日機嫌を損ねないように本気で気をつけていても予期せぬタイミングで怒り出してしまうので本当に悩んでたりします。本気でどこに地雷があるのかわからないんです。日々の生活を普通に送るのがちょっとした恐怖です。
「妻がなぜ怒るのか理解できない夫」に対して何か夫婦関係改善のためのアドバイスなどあればください。
(追記)
色々とコメント、アドバイス等ありがとうございます。普段はあまり反応をもらえない日記、ブログ等を書いているので、反応を沢山もらえて嬉しいです。勉強になります。
より適切なアドバイスがもらえるように、不足していた(かもしれない)情報を付け加えておきます。
「仕事よりも何よりも自分の人生にとって大事なのは家庭、そのなかでも育児というのは人生の中でももっとも大事な仕事」そういう風に思って日々頑張っています(いるつもりです)。でも妻はそういう私を否定します。「自分がなんでもできるとおもってるんじゃないのか、そういうのが傲慢なんだ」「自分がやりたくてやってるならそのことで偉そうな態度をするな」と。
もらったコメントに関してそれぞれ追加で聞きたい事があったり感謝の言葉を述べたりしたいのですが、今は時間がないので、今夜にでも時間があるときにさせてもらおうと思います。
引き続きアドバイスあればお願いします。可能であれば自分の状況(既婚女性であるとか、独身男性であるとか)をコメントに書いてもらえると参考になりうれしいです。
(さらに追記)
「妻に病院に行くことについて相談すべきだった」という意見が多く、私も思い返せば全くその通りだと思います。それに関しては完全に私が悪いと思います。妻にはこの点は非を認めて謝りました。でも、今回の件は分かりやすいのですが、他の件ではもっと微妙なこともありますし、そもそも私がその時にそれに対して思い当れないのです。この点についての改善方法、あるいはそれをしてしまった時の対処方法、アプローチの仕方などについてアドバイスがあればほしいです。
全く悪意なく、思いもつかず、妻にとってひどいことをしてしまうのです。それはたいていの場合私が逆の立場なら全く問題にしないことなのです。今回の件でも「普通にそう言えばいいじゃん?悪気はないんだから、それを指摘してあげればいいじゃん?」と思ってしまうのです。だから気が付けないのだと思います。これはどうしたらいいんでしょうか…。
(もうひとつ追記)
先ほどまで妻と話をしていました。今回の件については私から謝り、妻もちょっと落ち着いて話をしてくれて妻の気持ちをもうちょっと聞くことができました。おおよそ以下のような感じでした。
娘、息子が早く寝てくれて、家事もひと段落ついていたので気持ちに余裕があったから話ができたと言ってました。
数人から指摘をしてもらった「妻に確認せずに病院に行くことに決めて手続きを始めたこと」自体に関してはそれほど怒りを感じなかったそうです。私の経緯の書き方がそういう意見に行きやすいような書き方になっていたのだと思います・・・。
妻の今日の話を聞くと「たしかになるほど」と思いました。私が考えていなかった発想もあります。私の理想としては喧嘩するのではなく、このように思うんだけど・・・ということをお互いに話し合って物事を平和に進めていけたらと思います。「怒らないでそういってもらえたら良いのに」というように今でも思いますが、怒ってくれるだけ幸せなのだと思わないといけないのかな・・・と思います。
妻としては気持ち、直感、感情はあっても、それを言語化することができないことが多々あり、言語レベルでの話では私のいうことの方が説得力があって筋も通っていて、話してもわかってもらえないと思うからそもそも話さないのだそうです。
自分が怒り出したときに無視されるのはしてほしくない悪い対応だそうです。でも、だからといって、怒っているときに「どうして?」「理由を教えて」と聞き出して理解しようとすることも、してほしくない悪い対応だそうです。その間のどこかに適当な対応があるはずですが、それがどういったレベルなのかは自分でもわからないそうです。
このような話を妻と落ち着いてできると、一時解決したように思います。ここまで読むと「解決してよかったですね。」と思う人もいるかもしれません。でも、間違いなくまた同じように喧嘩、あるいは妻が一人で怒ってしまい(自分の何かがいけないのだとは思いますが)、「なぜなんだろう?」と苦悩することになります。これはもう7,8年繰り返されてきました。本気で事前に、あるいは渦中に気づけないのです。
もしもあれば、引き続きアドバイスいただければと・・・。
(さらにもうひとつ追記)
皆さん色々沢山のコメントを頂き本当にありがとうございます。あんまり沢山反応をいただいているので、返事がまったくできておらずすみません。
トラックバックツリーを上から眺めて、いただいた回答や自分がした返信を何度もできるだけ客観的に読み返したり、妻のつもりになって読み直して見たりをくりかえしています。ツリーを見てもらえばわかると思うのですが、返信は上から順番にしています。でも、せっかくいただいたコメントにずっと返信できていないものが多くなってしまったので、ツリーが深くなってしまったところは後に回すこともしようと思います。時間はかかると思いますが全部に返信します。今後の夫婦生活で何度も同じことがあると思うので、そのときに読み返しては反省できるように、今回は徹底的にやろうと思っています。(非常にうざいと感じる方も多いと思いますが、増田ですので、増田くらいでしかこのようなことはできませんので、どうか本気で悩んでるんだな、と思って許してやってください。すいません。)
「アスペルガー症候群ではないか、病院にいったほうが良いのではないか」というアドバイスもいただいておりますが、すでにマルチに対して思い悩んだ時に精神科に一度行っています(人生初)。マルチの問題に焦点を当てて話をしたからということもあるかもしれませんが、「それはもう周りの環境の問題だから、それを取り除かなければ精神科でどうこうできる問題ではない」と言われただけでした。カウンセリングも希望したのですが、「必要ないだろう」ということでした。よくない医者だったのでしょうか?そうではないと思っていますが・・・。ただ、自分自身も「こういった部分はアスペルガー症候群っぽいよな」と思うところは昔からあります。だれでも多かれ少なかれそういった面があるのでは?と思ったりしますが、皆さんそうでもないんでしょうかね・・・。
現在の状況も報告しておきます。幸い一度仲直りしてからは妻を怒らせることなくすごしています。ここ数日はかなり平和です。これは皆さんからいただいたアドバイスのおかげだと感謝しています。本当にありがとうございます。
娘はまだ毎日咳をしています。1日中ずっとではないですが、朝、夜はそれなりに(1分~2分くらい連続で)。嫁はやはり病院にいく必要性を認めていないようなので、私からは言わないように今はしています。「こう思うんだけど、どう思う?」と聞きたいのですが我慢しています。本心では「病院に連れて行って医者に見てもらって、なんでもないならなんでもないと言ってほしい」と思っています。夜娘が寝ているときに咳き込んだりしているのを聞くと心苦しいですが・・・。明日土曜日なので、寝室の掃除をがんばってして、それでも改善なければ、嫁の機嫌がいいときに相談しようと思っています。
嫁はちょっと前から幼稚園のイベントのために手作りの品を作っており、その作成が前から気にかかっていたようなのですが、先日完成し、ほっと一息ついているところのようです。毎日の朝の「おはよう」の声が元気です。機嫌が悪い日は朝起きたら挨拶もまともにしてくれない日もあるので凄く嬉しいです。
(10月19日追記)
また今日の朝も妻を怒らせてしまいました。これだけ毎日夫婦のことについて考えて、関係を改善しようとしているのに、です。想いばかりでまだまだ行動が伴っていません。悔しいですが、またがんばります。仕事から帰ってきたら機嫌が直っていたのが救いです。
先日妻から、「ここまで咳が継続しているから私もこの新型インフルエンザの状況じゃなければ病院に連れて行きたいんだけど・・・」という話がありました。ただ近所のいきつけの小児科が今新型インフルエンザの影響で患者があふれているらしく、素人判断ながら「今はやめておこう」という話になりました。娘の咳はちょっとよくなったようです。気合を入れて掃除したのがよかったのか、以前に比べれば夫婦喧嘩の頻度が少なくなったのがよかったのか。
(2011/04/06追記)
ものすごく久しぶりに更新します。ここの事は妻を怒らせるたびに思い出して自分の未熟さを再認識するために、数か月に一度程度読み返してました。色々トラックバックをいただいた皆様、本当にありがとうございました。きちんとお礼も言わずすいませんでした。おかげさまで家族一緒に山あり谷ありながら楽しく毎日暮らしています。そして、妻のお腹の中には3人目の子供がいます。あいかわらず妻が怒り出すことはよくあるのですが、この日記を書いたときよりも、妻の気持ちがわかるようになっていると思います。
震災があって、原発の問題があって。あまりの惨状にまだ日常生活を取り戻し切れていません。被害に合われた方に心からお見舞い申し上げます。
我が家は原発から200Kmほどのところに住んでいます。一連の流れを読んだ方なら想像に難くないと思いますが、私は放射能の影響をすごく心配しています。本当は妻と子供には親戚のところに疎開してほしいです。一方、嫁は楽天的で意見が合わないです。そしてやっぱり喧嘩にもなりました。妻は「乳児は飲んではいけない」という水道水ですら妊婦の自分ものみ、2歳と5歳の子供にも飲ませ、最悪子供が癌になっても構わないと言います。やはり私はまったく理解できず戸惑う日々です。が、なんとかお互いの許容できる範囲で行動のすり合わせを行っているところです。
「海の向こうでは今『せんそう』(湾岸戦争)が起こってます。
なんで人は殺し合うんでしょうね・・・」
というようなことを言ったのがそれで、その時はとにかく
「遠くで何やらすごく恐ろしいことが起こってるんだ・・・。」
くらいにしか感じなかった。
「平和そのものの天気」と「遠くにあるおそろしいもの」がひどく対照的で違和感を感じた。
父はある日「すごいお土産だぞ」と、
灰色でかわいくて格好いい形をした機械を持ってきた。
あの頃、飛行機を巧く操縦できる奴は神だと思った。
機体を傾け、緑の輪をくぐる。静かな着地。
少し経ち、マリオカートやぷよぷよを持った友達の家に皆が遊びに行くようになる。
スト2はみんな持ってた。↓R↑LYBXA。
おれらはもっぱら「ファミコン」。
もう、昔何やってたなんてそのくらいしか思い出せない。
信号機を自在に操れる熊の親父とか。
クラスで元気のいい女子が「スナックがかっこいい」だの同級生を
テレビでは米不足米不足うるさかった。
小3か小4の頃。そーりだいじんは
「名前の読みにくい徳川家康の子孫」や「眉毛ぼーぼーの爺さん」で、
なんとなく面白く感じていた気がする。
暗闇の中、ベッドから飛び起きて「何事か」と
この頃の記憶は割とある。
「バブルが・・・」「バブルのせいで・・・」と大人がよく言っていた。
なんか今苦しんでる(ように大人が見える)原因のようなものなのかなあ、
と漠然とした理解しかなかった。
バブルなんかよりも目先のジーンダイバーとか恐竜惑星の方が重要だった。
フルハウスとかアルフの方が大切だった。
横取り40万とか嘘つき四択とかヤングチームとかNGワードとかの方が
自分で自分を褒めたいアトランタオリンピックはよくわからんまま終わった。
男子は全員ポケモン。「ミュウの出し方分かった・・・!!!」と、
どこかで聞いた情報を興奮気味に話す奴とか。
ペラペラのキャラがラップするゲームをやっていてすごくおしゃれに見えた。
6年時、その「機械」を持っていること自体がある種のステータスだった。
田舎だったから特に。
余談だが、「1984年度」生まれは1991年=小1、1992年=小2、
と一の位が学年なので西暦を言われると何年生だったかがすぐ分かって便利。
そして俺たちは人生の中で最もださく恥ずかしい時代を迎えた。
例のあれの時は「赤い実はじけた」中1だったが
「あんたと年が近いのにあんな残酷なことするなんてねえ・・・怖い時代だねえ」
なんてよく大人から言われた。一方おれらは、
ナイフで生きた屍を切り裂いたり脳天をショットガンで撃ち抜くことに夢中だった。
気が付けばクラスの男子のほとんどがあの「うすっぺらでCDを入れて遊ぶ機械」を持っていた。
一時期、どこでも買えなくてイライラしていた。
一番強かった奴(モンスター系統図の完全な情報を持っている奴)は
と言われていて羨ましかった。学校では出来なかった。
ていうか誰もパソコンなんて持ってなかった。
グレイとかラルクとか、「なんとなく格好いい」ものが増えてきた。
あの日までカウントダウンしておびえていた。
結局あの日(月)はなにもなかった。
地域振興券使わしてくれ使わしてくれとずっと言っていた。
卒業間近、学校で「インターネット(PC)」の学習をするための教室が出来た。
家のボロパソがメモリ64MBだったからか「超」最先端に感じた。
数回しかなった情報の授業中、
好きなバンドを検索すると掲示板のようなものが結果の上位に出てきたのでクリックした。
口汚く罵倒されていて身が震えて泣きそうになった。
ハンドルネームを誰もいれていないのが非常に不気味だった。
俺たちは何かを得たし、間違いなく楽しく生きていた。
ミレニアムだの新世紀だので盛り上がっていたころからだ。
どこに行ってもカチカチやってる奴が増えたのは。
最初、ちらほらと増えていく「カチカチ病」に違和感を持っていたが
田舎なのに、7??8割は所持していた様に思う。
auじゃないやつが心底羨ましかった。
小遣いが多かったのか料金親持ちだったのか知らんが、
docomoってだけで「裕福な家庭死ね」なんて思ったものだ。
高2の運動会前日。遠くで何やらすごく恐ろしいことが起こってるようだった。
開会式でも全くふれなかったのが今思うと印象的だった。
「CDを小さいデータに変換してパソコンにたくさん詰めこんで、
ということを説明するのは当時、骨が折れた(今もあまり変わってない気がするが・・・w)。
マッキントッシュを作っている会社が白色でかわいくて格好いい形をした機械を世に出した。
全く流行らなかったし、説明しても誰も興味を持ってくれなかった。
「MDの方が格好いい」「“えむぴーさん”だっけ?オタクくさいね」
なんて言われたり。俺は流行らないと思った。
「パソコンに音楽を取り込む」こと自体が一般人にとって非常に抵抗のある行為だという感覚は理解出来たから。
W杯。休み時間の談話室(テレビがある部屋)の盛り上がりがすごかった。
「複素数を知らないこどもたち」
「常時接続が安く使える時代突入」+「工学部・情報系学科の知人との出会い」で、
その知人は「本名出して私生活を晒しまくる」ウェブサービスを教えてくれた。
本名・顔写真・所属している(していた)集団と私生活全部暴露。
今でこそ「知人以外には非公開」が多いけど、
当時はとにかく誰も彼も晒しまくり。俺は使うのに気が引けた。
携帯さえあれば、とりあえずコミュニケーションには事欠かない。
そのころ「文中にやたらと下線が引いてあるブログ」
を目にすることが多いのに気付いた(それまで気付いてなかっただけかもしれんが)。
シンプルで、どことなくおしゃれなデザインだが書いている内容は気持ち悪いものが多い気がした。
その頃大学内で「それっぽい」奴は「萌えってどういう意味?w」だの
「お前の時代来たぞw」とかからかわれていた。
ホリエモンだの球団再編だの買収だのヒルズだのセレブだの勝ち組だの負け組だの格差だの、
なんとなくカオス。
いつの間に「無職」の状態を「ニートやってるんでw」なんて明るく言えるようになったんだろうか。
就活は、売り手市場なんて実感はなかったが内定先は大手メーカー。
「ブラックを避ける」という消去法で選んだ。
家ではリモコンで遊ぶ奴が急増。
ファミ通の売上チャートを見て(10年前から毎週見てるが)頭がくらくらした。
他はサブプライムローンがどうこう、原油高がどうこう、環境が、民主党が、
・・・食品会社に行った知人はえらくストレスを抱えている様子だった。
相変わらずの原油高は鬱陶しい。台湾もなんか変。
そう言えばちょっと前は、遠くで何やらすごく恐ろしいことが起こっていたようだ。
傍観していた人がその動画を撮ってアップしたりそれが罵倒されたり。派遣がどうこう。
俺はこんな感じだが、他の俺「たち」はどうか知らない。
俺は約150万人いる「1984年生まれ」の中の一人に過ぎない。
大学ではADSLになってブログだのmixiだのでどうでもいい自分語りをしていた人間だ。
それだけだ。
>単純に金持ち=雇用者が海外へ行ってしまうと、日本の雇用が危うくなるって話。
金持ちといっても個人投資家のインパクトなんてたいしたことないからなぁ。
自社ビルの比喩でいいたかったのは、資本輸出自体は簡単にできても、
企業に重税をかける、のもっとも極端な場合は企業の国有化となります。
1950年代の英国でやって(あと共産圏の諸国でもっと過激にやって)、
少なくとも最初のうちはうまくいっているようにみえました。
世の中が進歩せず、実物資産のリプレースが必要なければうまくいくのです。
要するに社会主義化というのは「株主を追い出し、従業員が会社を所有する」
マネジメント・バイアウトを国単位でやることなので。
追記:今は資本輸出はほとんど自由ですけど、昭和の頃は外為法が厳しくて
外国の株や債券はおろか、海外旅行でぜいたく品を買うことさえ制限されてました。
もし日本が社会主義的になるとしたら、このへんの法律が厳しくなることに
なります。実際、金商法にはそういう側面があるわけです
両親と私、弟二人は、昭和十年に移民団として南洋群島パラオ本島に行き、ここから私の人生が始まりました。
北海道から汽車で揺られ、横浜へ港から一週間の船旅で、小笠原諸島を通過する時は大シケで、全員が船酔いでぐったりして、ココール港に入港して下船し、旅館に落ち着き、二日後に連絡船で私たちの永住する朝日村へと三時間の旅で、ここから一時間歩いて草と小枝を切って前日区分した場所に着き、まわりを見渡すと大樹が多く、先ずは伐採から始め、そして草を刈り、住む所にバラックの小屋を建て、火をたける場所を作り、原始的な生活から始まる。
入植をして半年を過ぎる頃には、どうにか農作物が作れるようになり、パイナップル畑を作り、苗を植え、次々と入植者も入り開けてきて、パイナップル工場も出来る。野菜は波止場までかついで出荷をする。そのうちにリヤカを買い、運搬は楽になり、農家も安定をして、家畜を飼い堆肥を作り、私たちの住む住宅を建て、安定したのもつかの間で、昭和十八年、大東亜戦争が始まり、三月二十八日から三十日の三日間は大空襲で、ココールの町は火の海と化して、食糧及び燃料は壊滅状態で、これからが大変な生活で、内地からの定期船が入らず、自給自足で半年くらいまでは良かったのですが、その後は米が不足して、大人はどうにか我慢が出来るのですが、子どもたちが可哀想で見られず、毎日の空襲で農作業も思うように出来ず、結局は夜の仕事と変り、月夜は良いのですが、闇夜は手探りで作業を続けました。
ますます戦火も激しくなり、この最中に婦人と未成年は疎開で本国に引揚げることになり、私は十五歳で引揚げることが出来ずに残り、父は兵隊へ入隊をする。私は軍属として志願兵で入隊しました。この時に始めての体験、軍隊生活で親の有難さを痛感しました。夜は毛布の中で泣いた事が何度かわかりませんでした。
戦争は激しくなるばかりで、私の立ちは兵事部で。伝令でした。空襲の合間に書く分隊に情報を届けるのですが、木のあるところは良いのですが、またま平野で空襲に出合い、何度か命拾いをしてきました。
その内に食糧の不足と共に栄養失調で亡くなる人が出始め、兵隊と一般の人と次々と亡くなり、いても立っても居られない気持ちでした。兵隊でも上官は米のご飯ですが、部下はご飯が当たらず、死ぬ兵隊などは米の飯を食いたいといわれた。言葉は、耳の奥にこびりついています。
食事の方も、兵隊はサツマイモの葉のオジヤに、サツマイモ、そして米つぶが数えるほどしか入ってなくて、お腹だけがふくれて、髪の毛は抜け、痩せて可哀想でした。又、夜はサツマイモ畑を荒らす人が多くなり、夜警で取締りが始まり、私も夜警に出たが、婦人と子どもたちは逃がしてやったことが記憶に残っております。
戦争は激しさを増して、引揚げたオフクロと弟たちの船が魚雷でやられたと聞いたので、あきらめていましたが、生きて帰りたい気持ちで一杯でした。
ある日、私と上官は、農民との集会の最中に空襲に合い、私とひざを合わせていて、討たれ戦死をしましたが、人間とは運、不運があると思いました。人間的に立派な方で、私を弟の様に可愛がってくれ、この時だけは替われるものであれば替わってあげたい気持ちでした。その後に来た上官も良い方で、私の面倒を良く見てくれ有難かったので、感謝で胸が一杯です。
その内に終戦となり、引揚げる時まで一緒で、食糧が不足をして、栄養のあるものは口に入らず、上官と山鳩を取って食べ、命をつなぐことが出来ました。私は人との出会いの運が良く、引揚げる時は別でしたが、本籍が増毛町で、父と一緒に帰り、父の妹を頼りに行くことが、常夏の所から北海道の真冬には勝てずにネコのようにまるくなり、一ヵ月後には死んだはずのオフクロ、弟妹、全員無事に再会できる事は、この上ない幸せでした。
この頃はニシンが大漁で、浜はごった返しで景気も良く、このまま世話になることは出来ず、私は一足先に赤平の炭鉱に居る伯父を頼って行く。すぐに採用してもらえなくて、組で働き、半年後に本採用になり、家族全員が来て生活をする。このときも食糧に苦しみ、買出しに農家に米を買いに行き、随分足を運びどうにか生き延びることが出来ました。
その後父と母、弟妹たちも来て、開拓農家を始めて開墾をして農業をする。私も日曜日には手伝いに行き、苦労した甲斐があり作物がとれ、希望がわきました。
炭鉱も景気が良く、父は二、三年辛抱をしてくれ、身の振り方を考えると言われましたが、とうとう定年まで勤務をし、人生の半分が過ぎ、昭和四十九年八月十三日の運搬事故では九死に一生を得たことは、生涯忘れることはできません。今考えると運が良かったと感激で一杯です。闘病生活を振り返り、リハビリーの苦しみは忘れることは出来ません。人の三倍も努力を続け、玉の脂汗を流したことが良くてどうにかもとの体に戻り、所信をして長生きをしていきたいと肝に命じている今日この頃です。
このように体験したことは、私にとってはプラスとなり、今後は日本は二度と繰り返してほしくない戦争を、息子を始め、孫、ヒコの代まで続けてほしいと願っております。
主題はスルーしとく。ちなみに地方生まれ地方育ちの地方住まい。
あと、こんなに地震について怖がっている人がいて吹いた。
確率的にはわからないけれど、いざ起きた時がやばすぎる気がするんだ。
よそなら国他自治体の援助が当てになるけれど、東京で大地震があると、国も地方自治体も企業もそれどころじゃなくなると思うんだよね。
とりあえず、国がどの程度動けるのかが疑問だし、地方自治体がどの程度カバーできるのかも疑問だし、来年度の予算とか考えると絶望的な状況になるし、企業も本社と連絡付かないと支社単位の物資移動じゃ限界あるだろうし、とりあえず株は暴落するだろうし。
あとは海外援助を待つわけだが、短期は良いとしても復興となると、とりあえず予算が必要だけれど企業はばたばた潰れてるだろうし、人は疎開先がなくて方々で困ってるだろうし、省庁の機能がどの程度維持できるか疑問だし。
つーか、日本全体が被災したようなものだから、援助はあてにしないでね。
地方の豪農の妾の子として生まれる。
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母と一緒に東京で育つ。
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第2次世界大戦。地方の父の元に疎開することは出来ず、東京大空襲などを生き延びる。
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終戦と同時に跡継ぎが死に絶えた本家に無理やり呼び出される。詳しくは知らないけど空襲かこのあたりで実母とは別れたらしい。
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本家の跡取り娘として、本家の老人たちが決めた男と婿取り結婚させられる。
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当然本家の義理の母(父の本妻)には意地悪される。
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本家の奥としてせめて豊かな暮らしが出来るかと思いきや、農地改革で土地をほとんど取られ一気に貧乏生活に。
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二男一女をもうける。
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創価学会にはまって元気になる。
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本家の義理の母(父の本妻)もやっと亡くなり、ますます元気になる。
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選挙前にはもっともっと元気になるようになり、子供や孫たちに選挙活動で電話をかけてくる。←今ここ
なんだかんだいって、うちのおばあちゃんにとっては創価学会は救いだったんだろうな。
http://anond.hatelabo.jp/20070403154329