夏に海外旅行しようと思って航空券の価格調べてたらサーチャージが高くて萎えた。
特に日系はボリすぎ。
普段飛行機乗らないし、ガソリンも使わないし、自炊もしなかったから
原油価格が上がって問題になってても「あっ、そう」くらいな感じだったが、
ヨーロッパまでサーチャージだけで5??6万とは……。
さすがにこれはまずくないか。
依存か。自覚があればいいんじゃね?
前立腺のくだり広げたほうがよかったですかw
ウンコのほうかな・・・。
もういいですwwww
これ読んだ増田ども。「○○まで読んだ」とか書くなよ。許さないからな。
自ブログからコピペした。
増田には「増田でブクマ数を稼ぐ文章はひょっとしたら転載かも」と思っている人間がいるのか?
あと、ブクマ米で「震災に言及してない」て言われてるけど言及してる。
全体的にぼかして書いたのは「1984年生まれならなんのことか分かってくれるだろう」
という期待から。
ポケモンは本当に小六だけの遊びだったな。
中一の時は「会話には出てくる」程度のものだったな。
あと、言及し忘れたがFF。
FFの5,6とあとクロトリは「やってない男子」を見つける方が難しい。
(ドラクエは案外「みんなやってる」わけではなかったりする)
まあこの年だとそういう会話になることは少ないんだけどね。
何かの機会で昔のゲーム話になったとき、たいがいそれらのゲームをやってて
「あーやっぱ同世代だ」と認識する。
痛いニュースあたりにたむろってる馬鹿がオタクのすべてと勘違いしているとか?それなら一般人はスイーツとか言ってる奴と同レベル。
そーいうこと。結局は同レベル。
オタクどもは「一般人は俺ら賢いオタクと違って流行に乗りまくって踊らされてるアホどもだ」って言ってるけど、お前らも同じですよってこと。
それを分からせる為敢えてカウンターを強めただけ。実際誘導につられて今までは「一般人の方がアホ」だったのについつい「じゃあ、同レベルじゃん!」って一般人のレベル上げちゃったっしょ?これが最初から控えめに「同じレベルなんだよ」だと大抵「そんなことはない、一般人の方が踊らされてる」て言うからねオタは。
長いので、興味ない人は1行くらいでスルーしてください。
「疎外論」批判というのが一部でちょっと盛り上がっていたみたいですが。
なぜ「疎外論」という発想が生まれたのかと言えば、それはたぶん、他人を説得する時にそういう方法しか思いつかなかったからじゃないかと思います。「本来の人間の姿」と「本来的じゃない現在の人間の姿」とを対比させて、その差異を見せ付けることで「ほら、現在はこのような問題があるんだから」と問題のありかを指し示すというのは、他人に自分の意見を示す上でも非常にわかりやすくなりますし。
じゃあ逆に、疎外論抜きで「私は社会に対してこのような問題意識を持っている」ことを指し示すとしたら、どうなるでしょうか。
「見ろ、このような社会のあり方は問題だ」
「なんで? 人間の生活はあるようにある、ただそれだけじゃん」
「なんでだよ、こんな社会のあり方は人間にとって生き難いだろうに」
「生き難いって、何と比べて言ってるのよ」
「そりゃあもちろん……いけね、“あるべき仮想的な理念像”はここでは使えないんだっけ。えーっと、それじゃあ社会の上層のあの人や中層のあの人と比べてだね」
「おいおい、そうやって万人を万人といちいち一対一マッチングさせる気か。地球シミュレータをフル回転させても無理だと思うぞ」
「いやだから、技術的な問題じゃなくて社会構築の原理的な問題をだね」
「そうやってすぐ空想的な原理原則を持ち出す、君は本当にどうしようもないほど形而上的だな」
「うがー。目の前で死にかかっているこんなに人がいるのに放っておく気か」
「その人を手当てすりゃいいじゃん」
……話はどこまでも噛み合わないまま終わりそうですが。
「あるべき理想的な人間像」とか「あるべき理想的な社会像」の提示(による疎外論の提唱)をどこまでも徹底的に否定していくと、実は現行の国家や行政機構の役割が限りなくゼロに近づいていったりするんですな。
例えば教育。そもそも公教育制度って、政治や社会活動(経済活動を含む)に参加する上で必要最低限の知識を万人に保証するために行うものですから、教育の意義そのものが「あるべき“教育された国民像”」と「教育されていない国民像」との差分に基づいて、まさに疎外論的に「あるべき理想像を国民に保証する」ことにあるわけです。
だから、指を折って数えられる以上の数字を知らなかったり漢数字以外の漢字が読めない国民がいたって、それを「あるべき“教育された国民像”から疎外された、非本来的な国民のあり方」と捉えることは出来ないのです。そもそも「“教育された人間”の本来的な姿」が棄却されているわけですから。その人については、それはそういうものとして「まあそんな人もいるよね」と受け取っておくしかありません。学力比較がしたければ、無理に一般的な学力基準を作らなくたって、めいめいが勝手に「あいつ俺より頭よさそうだなー」「奴は俺よりバカだ」とかって思っておけばいいんです。
警察組織も必要なくなりますよね。別に治安がいいことをもって「社会の本来的なあるべき姿」とする必要は無いんですから、もし199X年に地球が核の炎に包まれた後のような暴力の時代が到来しても、またそこで弱者を救う世紀末救世主みたいなのが出現しなくても、「これは人間が生きていく本来の社会のあり方じゃない」と嘆くことは出来ないのです。それはそういうものなのですから。
他にも、現状を維持したり向上させたりする政策を立案・実施するためには、そもそもの発想の根源に、現状がそのまま維持された延長線上に想定される未来像や現状から何らかの意味で改善された未来像が、「本来そうあるべき像」として時系列的未来に投影されていなければなりません。もしそうしなければ、「本来あるべき未来」と、「現在」ないしは「メンテナンスを何も行わないという条件下で現在からの延長線上に出現しうる未来」との差分を検出することが、まったく不可能になってしまうからです。比較対照としての「あるべき像」が無いのに何と比較しろってのさ。
だから、さっきの199X年に、ミスミじいさんが種モミを必死に抱え込んで「明日がー明日がー」と叫んでいるところに割り込んで、明日の収穫のためではなく今日の俺の腹の足しのために種モミを食ってしまっても、何の問題もありません。そもそも比較すべき「明日=あるべき社会像」が存在しないんですから。「明日の収穫」なんてものは、勝手に「本来あるべき社会像」を未来に投影してこしらえた幻影なのです。その幻影と現在とを比較して「人間は本来的にあるべき“明日の収穫”から疎外されている」などというのは形而上学もいいとこです。厳然として存在するのは、目の前の「種モミ」だけなんですから。これがやがて稲穂の波へと弁証法的に発展していくなんてまだ見ぬ未来を夢想するのはヘーゲルやマルクスの読みすぎというものです。さあ、種モミなんて食ってしまいましょう。え、将来の人間が飢えてしまう? 何言ってるんですか、将来の人間なんてここにはいないじゃないですか。いたら今すぐここに連れてきて「飢えた人の発生」を実証してくださいよ。だいたい飢えたところでせいぜい死んで人口がちょっとばかり減るだけですから、むしろ上手い具合に人口の調節が図れていいんじゃないですか。それとも何ですか、まさかあなた、年がら年中腕に止まった蚊を叩き潰したり肉を食ったりして他の生物をどんどん殺しているくせに、ホモ・サピエンスは他の生物種とは異なって神に祝福された特別な存在だから常に生き残る価値があるだなんて、今のご時世に信じていたりするんですか?
いやー、しっかしそう考えると、なんでよど号ハイジャック犯が『あしたのジョー』を引き合いに出したのかがよく判るなー。あれってきっと、連中にとっては「擬人化された疎外論」だったんですよ。ほら、「あしたのために」とか「泪橋を逆に渡る」とか、本来性の掛け声がビシバシ響いてるじゃないですか。ジョーの本来あるべき姿って、段平オヤジにとっては「ボクシングのチャンピオン」、ジョー自身にとっては「憎いあんちくしょうをリング上で叩きのめしている自分」なのであって、そうじゃない現状のジョーはあるべき理想的ジョー像から「疎外」されているわけですよ。だからこそ段平はあるべき姿の「あした」を目指して、「あしたのために その1・フォイエルバッハテーゼ」「あしたのために その2・資本論」「あしたのために その3・共産党宣言」とかってのをせっせと書き綴るし、ジョーはジョーで欠かさずトレーニングして「内臓をえぐるように(カラシニコフを)撃つべし!撃つべし!」なんてやってるし。こんなふうに「あるべき姿」を必死に目指したって碌なことにならないのは、「ジョーをバンタム級のリングの上でぶちのめす自分」を「あるべき自己像」に据えて、「だめだ、この体重では俺はバンタム級のリングから疎外されたままだ」とばかりにむちゃくちゃな減量を行った力石徹が、自らの死をもって示しているのにねえ。
だから、庵野監督も大月Pも角川の偉い人も、エヴァンゲリオンをテレビ版の最終回でさっさと終わらせておけば、「僕はここにいてもいいんだ」→「おめでとう」パチパチパチで「そのままの姿でここにいる自分の全肯定」として話がきれいに収まったんですよ。それをよしゃあいいのに、劇場版(97年の)なんか作って「あるべきコミュニケーションのあり方」に話を膨らませちゃったりするから、「あれ、本当はこんなコミュニケーションのあり方はいけないんじゃないかな? 本来のコミュニケーションのあり方ってどんなのかな? 今の僕たちは本来のコミュニケーションのあり方から疎外されてるんじゃないかな?」みたいな方向に考えを向かせる契機を作っちゃうわけで。もう「そのままの自分まるごと全肯定」でいいじゃん。マルクス先生が「宗教はアヘンだ」って言ってるってことは、マルクスが失効した時代には文化的アヘンで疎外感を麻痺させて心の安寧を得ることもOKってわけですよ。アヘン超OK、全能感超OK!(ちょっと古いか。)
なに、そんなのはまやかしだって? おいおい、「現実」に目を見開いて「本来のあり方から疎外されたこの社会を何とかしなくっちゃ」なんて操作主義的な観点に目覚めた人がこれ以上増えたら、一億総ポルポト化ですよ。日本全国隅から隅まで「ドキッ!ポルポトだらけの粛清大会 ──(頭蓋骨)ゴロリもあるよ!」になっちゃいますよー。
ポルポトや文化大革命を呼び込みたくなければ、そんな疎外論チックな発想はさっさと捨てちゃって、身の回りの小さなことに幸せを見つけていきましょう。そうすればほら、きっと水さんだってきれいな結晶を作ってあなたの心の美しさを祝福してくれますよ。おっと、非科学的だなんてツッコミは無しですよ。「科学的に正しい世界観を持った国民」というのだってやっぱり“本来的なあるべき像”なんですから、そんなものを持ち出したら途端に「君の世界観はあるべき科学的世界観から“疎外”されている、再教育しなければ!」なんてことになってポルポト化ですよー。
……結局のところ、何かしら広義の「啓蒙」的なこと、つまり人々の精神や知的要素が無知蒙昧の「闇」に閉ざされているところへ「光」をもたらそうという時系列的進歩の考え方は、どうしても「光」の比較対照物として「闇」を必要とするし、また「闇」の比較対照物として「光」を必要とします。社会のよりよき状態を想定するところでは、その対照物として「よりよくない現在=闇」が、「光から疎外された状態」として持ち出されますし、現状を批判する場合には、それの比較対照物として仮定された「よりよき未来=光」が、一種のイデアとして持ち出されるわけです。「啓蒙」と「疎外」は、そういう意味でコインの裏表のように、切っても切り離せない関係にあります。
「疎外論」を完全に回避しようとすれば、結局のところはよりよき方向への変化という考えを完全に捨てて、「あるべき姿など無い、世はただあるがままにある」という考えに徹するしかないのでしょう。税制改正の提言は「よりよき税制度から人々が疎外されている」という現状認識の現われだし、著作権を巡る議論は「よりよき(ry」だし、そういうのを全部回避するとしたらもう、時系列的に制度などが変化した部分については「ああそう、変わったのね、まあそんなもんでしょ」、変化しない部分については「ああそう、変わらないのね、まあそんなもんでしょ」と等閑視するくらいしか手はなくなります。スピノザあたりがそんなことを言っていたような気がしますが。ニーチェの運命愛もちょっと似てるかも。
……でもこれって、
「“人はあるべき姿から疎外されている”なんてことを考えて現実を直視しようとしない連中の世界観は、人が本来的に持つべき物の見方から疎外されている!」
という主張にはならないのかな? それとも、「“あるべき姿”の主張がマルクスの論点に基づいていればそれは疎外論でありポルポトだが、マルクスに基づいていなければ疎外論やポルポトではない」という前提でもあるのかな。もしそうだとしたら、悪の大魔王マルクスの「悪のカリスマ」性の長命ぶりには驚くべきものがありますな。それとも、冷戦終結によって魔王バラモス(=マルクス)が死んだと思ったら、その背後で真の黒幕である大魔王ゾーマ(=真・マルクス)はしっかり生きていたという、ドラクエ3型のオチなのかしら。早乙女のジジイ!
例えば、
「やい臨獣殿! “強い者が世界を統べることこそ本来の姿、その本来の姿から疎外されたこの世界を変えてやる”なんて言って人々を苦しめるなんて、このゾワゾワのポロポロ野郎!」
「なーに言ってるのよ、あんたたちこそ“本来の獣拳は正義の拳、いまはそこから疎外されている状態だから臨獣殿を倒してあるべき姿に戻す”なんて言って、力ずくで正義を押し通すポルポトじゃないの。文句があるなら実力であたしたちをねじ伏せてみなさい、このカクシターズ!」
とか、
「おばあちゃんが言っていた、俺は天の道を往き総てを司るってな」
「天の道という“本来あるべき道”のイデアを前提して、万人をそこから疎外された者として見下すとは、君も愚かな男だな。社会においてもっとも重要なこと、それはパーフェクトハーモニー……完全調和だ」
「そう言いながら俺をつけ狙うのも、おまえの言う中和だか調和だかのうちか」
「ライダーは二人も要らない」
「一人のライダーに率いられた組織の完全調和……そこからはみ出した俺は疎外された存在ということか。おばあちゃん、いやポルポトは言っていた、そういう存在は完全調和のイデア世界には不要だとな」
「貴様、俺を疎外論者に仕立て上げるつもりか……だが俺は貴様を倒す。そうしなければ、俺が俺でなくなってしまう!」
「やはり“本来の俺”か……おまえは天の道を外れた」
「!……待ってくれザビーゼクター、戻れ、戻れ……戻れぇーーーー!」
(半年後)
とか。
う、うれしい、けど変に期待しちゃって依存しそうです。
さみしがりなだけにカマッテが激しくて、カマッテくれるとベタベタなついてしまいそうです。
気をつけますが、気をつけて・・・。汗
「他の突っ込み」
前立腺のくだり広げたほうがよかったですかw
ウンコのほうかな・・・。
なんで?なんで?
僕は煙草を吸ったことはないし、酒もたいして好きじゃない。
だからニコチン中毒とかアルコール中毒の気持ちは分からないけど、なんだか僕のネットに対するこれは既に「中毒」な気がする。
その理由。
・でもやりだすと止まらない
・止まらないほど楽しいのかっていったら別に全くそんなことはなく寧ろムカついたり気分悪くしたりすることの方が多い
・しかも終わった後必ずと言っていい程「なんでこんな気分悪くしてまでネットなんか長時間やってたんだろう」と後悔する
・それだけ激しく後悔し、反省したわりに、次の日普通にまた「少しだけ。20分だけ!」とかやり始める
中毒じゃね。これ中毒じゃね。
いやだって本当楽しくないんだもの。これ。
全部が楽しくないわけじゃないよ。調べたり、好きなサイト巡ったり、そういうのはやっぱ楽しいし「ネット役立つわー」と実感するけどさ。そういうなんていうか、目的がちゃんとあるときはネットしても後悔はしないんだよね。「必要な時間だった」って思える感じ。でもこの増田とか、2chとかさ……そういうとこ見た後って必ずといっていいほど後悔するんだよね。うん。だからネットっていうか正確に言うとはてなとか2chのことだった。
なんか増田には絶対常時最低一人は気持ち悪い発言してる奴がいるしさ。気分悪くなるだけだし。といって、有益な情報が落ちてるわけでもないしさ。2chだってそう。基本的にタチの悪い井戸端会議以上のものじゃないからさ、当たり前っちゃ当たり前なんだけどさ。まあ時にいいエントリに出会うこともあるよ。んでもほとんどの場合、胸糞悪いエントリとか見ちゃってウゲー、ってなって、中途半端に反論などしてみるものの途中「ていうか無駄じゃね」って気付いて取りやめて消化不良のまま終了ってなったりするだけで。はてブとかも、盛り上がってるのは暗いニュースばかり。たまに生活に役立つアイデア的な、おばあちゃんの知恵袋的なものがあったりはするけどさー。そういえば洋菓子をスイーツと言い換えるが如く、「おばあちゃんの知恵袋」や「生活に役立つちょっとしたアイデア」も最近「ライフハック」なんてカッケー横文字になってるよねー。ほんと皆欧米好きな。欧米ってまとめ方もどうよ。欧と米、全然違うっつーの。イギリス人怒るぞ。
で話それたけどさー、たいていなんかやーなかーんじーなエントリ見て噴き上がったり、噴き上がらなかったりしてみてさ……コメントなんかつけちゃったりもしてみてさ……でも別に何が得られるわけでもなくさ……後に残るのは「また理解できない相手が増えてしまった」チン!というフラストレーションばかりというさ……日々敵や憎しみをコツコツと増やしてるだけな気がすんだよね。スパゲッティの美味しい食べ方とかゴキブリのいない部屋とかそんなエントリを数個見たところでその敵の増加率には到底敵わない!追いつかない!もっと人生が幸せになるよーなライフハックプリーズ!
ってな感じで要はまあ「増田とか2chとかはてブとかみてても全然面白くないどころかムカムカするばかりなのに、でも僕は毎日のようにここにきて、刺激的なエントリを、絶対これ、自分が見たら不快になるよぉーと分かっていながら見てしまうという愚行を犯し、実際そのようになり、後悔し、反省するが、再びまた来てしまう、つまんねーのに!不快なのに!」ってことなんですよ。全然要しきれてねぇし。
何なんだろねこれ。どうやったらやめられるのかな。もう何度もアカウント消してるんだけどそのたびにまた数日したら作っちゃうんだよ。これ重症じゃね?PC自体やめろってのはちょいとムズい。調べ物はあるし。
僕は一体何を求めているんだろう?怒りたいのかな、僕は?不快になりたいのかな、僕は?わざわざ不快になるためにはてなや2chに来ているとしか思えない。本当。うーん。とりあえず食ってウンコして寝るかぁ?
もしかしたら、なにか、人生が変わる何かがないか、漠然と求めちゃってるのかな。自分の人生が余りに不安で怖くて。
確かに怖いや。怖いものだらけ。あーあっ。
で、その呆れをわざわざ文字に起こすことで自尊心は満たされた?
それも一部のオタクだけを拡大して騒ぎたてているだけでないのか?
趣味に使う金額の割合は一般人に比べて高いだろうけど、それは定義みたいなもんだし。自分の欲しいもんだけ買うだけでもかなりの出費になるのに、いちいちアニメやゲームの流行にまでつき合う金はないって。東方でも初音でも、名前は知っててネタは知ってても実際に持ってる率は低い。
というか、回りにオタクがある程度いれば、「流行を知ってるだけで、実際に買うことはしない」という一般人にとっての流行と同じ接しかたのオタクが多くを占めると理解できると思うのだが。
痛いニュースあたりにたむろってる馬鹿がオタクのすべてと勘違いしているとか?それなら一般人はスイーツとか言ってる奴と同レベル。
それとも、どさくさにまぎれて、最後の一文でオタク叩きの先鞭を付けたいだけか?