はてなキーワード: 必然性とは
柄も肌触りも良い、パンティーの代替品が工場で生産されるようになる。
実際マチュピチュではそのような商品は生を嫌がる人達に浸透してきている。
実物と遜色ないのであれば、パンティーを穿く必然性が無くなる。
今は大義名分があるものの、パンティーを穿かなくても良いならば、パンツの色をきく意味がない。
原料となる蚕を養殖するなど、一定の生殖は行われるかも知れないが、規模は大幅に縮小するのではないだろうか。
パンティーは文化だから、技術が発達してもすぐに切り替わることはない。自分が生きているうちにはそんな事にはならないだろうが、数百年もしないうちにそういう時代が来るだろう。
いつの日か、「昔の人はパンティーを穿いていた」ことが驚きをもって知られることになる。
タイトル本当は「生理ちゃんのパラレル同窓会はなぜ称賛され、神様になった日の天国からのビデオレターはただのパチモノ扱いで終わったのか」なんだけど入らなかった。
どっちもアイディアとしては割と陳腐なので誰が最初に出したかにそこまで価値を重んじたり特許的なものを見出す必要まではないと思う。
でも明らかに二番手以降なのに同じネタをただやるだけじゃ世の中に新しい価値は生み出してない無価値の作品って扱いは受けうるようね。
芸人が他の人とネタ被りしてそのままやったら、お前なんのためにいんのってなるのと同じ。
生理ちゃんはパラレル同窓会と同じことをやってはいるけど、それがどの人生を選んでも普遍的についてくる生理、そしてそれは生理であって生理以上でも以下でもないのは同じで、それはきっと時代を問わず多くの人にとってそうであるんじゃねえかなって話に繋げてる。
これは明確に新しい価値を世の中に生み出してるよね。
塞ぎ込んでた所から復活させることに物語上の必然性も今の所感じないしね。
霊界との交信って行為が何らかのメタファーや伏線として今後物語に関わるのだとしても、この話を単体で見たならただパクっただけの虚無回なわけで。
あと、1話限りの捨て設定で魔法という概念を絡ませてきたのが、この作品が元々持ってるファンタジーなのか騙りなのか分からないっていう立ち位置と変に混ざり合ってノイズが酷い。
同じテーマを扱うにしても自分なりに加工して扱ってない稚拙さが、やたらパクりって言われる大きな原因かなと思う。
とにかく細部の作りが粗いんだよね。
神様になった日という作品の中の1話として上手く固まってなくて、換骨奪胎しきれずにそのまま元をなぞっただけになってる。
大学生のコピペつきばき丸見えレポートみたいな歪さがあって、作品としてのクオリティが単純に低い。
結局ここだよね。
他の作品参考にするのが悪いんじゃなくて、それに引きづられて駄目な回になってるのが駄目なんだよね。
ちょっと前の話だが、とある仕事で江戸しぐさをキーワードにしたいんだと上司に言われて慌てたことがあるのを思い出した。
露出量も多いからなるべく早く止めないとやべーと思って「江戸しぐさの正体」を購入して、あといくつかの江戸しぐさの界隈のまとめとかWIkipediaとか、江戸しぐさ屋のNPOとか本出してるオバハンの色んなネットの噂とかとかをURLをずらっと沢山ならべて、クリーンかどうか以前にぐずぐずくすぶってる界隈だから、手を突っ込む必然性がないならやめましょう、メリットもありませんし、と説得した。逆らうのは割と得策ではないとも思ったが馬鹿にされたり炎上して責任を取らせされるのももっとイヤだったのだ。とにかく量を沢山用意したので「何だか分からないが面倒なことになりそうだ」というのは何とか伝わって、そちらのプランは止めようということになった。
もともとアレにうっかり引っかかる緩い、鈍いオッサンだったから成功した方法だが、あとで同僚や先輩の何人かからは、俺も言い出せなかったんだスマン、と言われ、別の同僚や先輩の何人かからは、何だかよく分からない面倒な奴だなアイツは、と思われて少し遠巻きにされるようになった。
「理解」をどう考えているか、これについての私の根幹(基礎)はオートポイエーシスに準じている。
オートポイエーシスの詳しい説明は省くが、神経細胞が情報伝達を行う際、シナプスは行為を理解しない。ひとつの作業を行うのみであり、結果のための行為を連想しない。シナプスにとっては、「物質を伝達する」という行為が目的であり結果となり、それらが組み合わさって何が起こるかを理解しない。
つまり、最終的に現れるもの(たとえば人体の中で起こりうる結果反応など)はすべて、「行為の副産物」としてしか存在し得ないということ。これは非常に重要な事実である。
本来「理解」というものもそのように行われるべきである。一番重要なことは「わからない」ことである。わからない、を通過しない限り、「理解(と呼びたくなるようなもの、それに準ずる、付随する周辺のものもの)」を得ることはできない。
これについては同授業を受け持っていた河本英雄の「飽きる力」なんかを読めば少しわかると思う。
この文を書き始めた当初は、この前提を元に本文を整理していこうと最初は考えていたのだが、結局本文に「哲学は哲学をしている瞬間にしか浮上しない」とはっきり銘打たれていた。だからもはや、一文を取り上げて「ここの箇所は〜」などと言語化することは意味を持たない。それ(ここでは〈哲学〉とする)が"それ"たらしめるやり方でのみ、発見できることであるならば、そう(そのやり方で)やる他ないと思うので、それに倣おう。
あとあちこちに書くのも煩わしいので、一度に留めるが、わたしが書いている内容について読み違えや相当しない批判(等)があれば、気づいた場合指摘してほしい。(それこそがきっと哲学なのだろうし。)
はじめに(5p)、から問いの合間に(125p)までを読んで
本文にあるようなやり方の〈哲学〉については実感がある。実感はあるが、しかしそれは子どもの時からすでに最初から「青年の」〈哲学〉であったように思う。少なくとも、目の前に与えられた課題は年端のいかない子どもには大きすぎたし、それについて、しかし取り組む以外の選択肢を(子どもながらの純粋性ゆえに)持つことができなかった。だから最初から、なぜ〈他者〉がいるのか、という疑問は生じずに、〈他者〉と対峙するにはどうすべきか、をひたすら〈哲学〉し続ける時間が幼少期〜思春期であった。
だからなるほど、やはり「疑念」が問いを生むのであり、疑念を持たないものは問いに遭遇しない。よく感じる違和感は、「問いを持たない人間」と(「問いを持つもの」と)の世界の断絶である。世界には大きな断絶があるということを改めて実感したのだった。(断絶の是非はここでは問わない)
・〈ぼく〉という特別さの有無について
さて、書いたようにわたしは「なぜ〈ぼく〉が存在するのか」という疑念を持たなかったのでその問いに衝突していないし、そして付随する「〈ぼく〉という存在の特別さとはいかなるものか」という問いにも当たっていない。しかし読み進めていくと、「特別さ」を論じれば論じるほどそれは「一般性」に落とし込められていくという矛盾が現れ、結局「言語での言い換えを繰り返すよりほかない」という結論(?)に達している。とりあえず本文の結論についてはさておき、わたしの感想を書いておく。結果から述べると永井均の認識論的傾向(95p)とは真逆であり、非存在論的(本文に即して使う)立場にいると言わざるを得ない。
まず78pに自分が二人に分裂した際に、もう片方をどう「認識」するかという問題。少なくとも、それが「〈ぼく〉であるか、でないかは、ワカラナイ」というのがわたしの意見である。つまり、意識としての〈ぼく〉が2地点に存在して、それぞれの思考でそれぞれを〈ぼく〉としない、という前提にどうしても立つことができない。
「特別さの証明」からは少し離れるが、「攻殻機動隊」という作品はこの独我論的観点なしには見ることができない。登場人物たちは車を買い換えるようにボディ(身体)を換えることができ、脳(アニメ内では脳核と呼ぶ)に宿った意識(アニメ内ではゴースト)はそのままで、新しい肉体を得る。しかしそれは本当に連続性を伴った自己なのか?確認するすべはない。
まあ結局、「確認(認識)できるとしたら」という前提で論じている内容において、反駁することはない(できない)。なので、真逆の認識論にたった時に、どのようにしてその「特別さ」を得るかというのを考えてみるとこうである。他者を認識できている限り、その「特別さ」を論じることはできない。理由はなんでもいいのだが、例えば「論理は他者に向かって開かれている」ことは明白である。少なくとも、本書のように、本は他者が読むことを前提として書かれている。おそらく永井均としては「普遍化できない偶然性の問題」を「論理」立てることこそが〈哲学〉である、ということを言いたいのではないか、と思う。しかし、わたしの知る範囲ではそれは矛盾する。であればやはり(今の所は)前提を変えてみるしかないのである。
ないことの確認はできない。つまりそれを鑑賞する他者がいないことを確認できない位置に移動して、ようやく「特別さ」が浮上するのではないか。そしてそれはすなわち、99pで引用されているウィトゲンシュタインの一節に他ならない。結局は「理解されない」ということを目指さなければ、少なくとも「特別さ」を論じることにはならない、ということだろう。
(余談だが99p9lの永井の解説についてはまだ理解が追いついていない。いずれ何度か読み直してみよう)
ウィトゲンシュタインの本を読んだことはないが、ウィトゲンシュタインが友達をつくらず、本当に人里を離れてたった一人で暮らしていたという逸話を知っていて、勝手に親近感を寄せているのであるが、それはともかく彼の主題(命題)に「言語」があったというのは興味深い。
わたしは〈哲学〉についての興味をある時点である程度(完全にではないが)喪失した。それはそもそも、わたしが最初に向き合った命題が「他者」であり、自己ではなかったことなんかも関係していると思う。そして、「他者」を自分なりに〈哲学〉して18年くらいたったころに、自分なりの「納得」(102p)に到達してしまった。本来、〈哲学〉のみならず、人生だとか生きるだとかいうことは「満足」を永遠に避けることだと考えている。「得て」しまったらそこはゴールなのだ。ゴールっていうのは何にもない場所だ。しかし、「他者」に限っては、(とにかくわたしがそれを生きる上で最も苦手としているがゆえになおさら)結論を得てしまった。そしてわたしは〈哲学〉する目的(あるいは理由)を喪失したのだ。
しかし言語に関する関心が残った(に関する関心は重言だろうか)。本文でも「読み換えが無限になされる場所(98p)」について書かれているが、この点に関してわたしは非常に興味がある。物事の表現が、「言語分野」に大きく偏っている人間社会(面白いことに動物社会とは全く異なるらしい)において、その役割は異常なほどである。言語をどのように理解し、駆使するか(論理的思考など)、これを〈哲学〉とどう関連づけるか、というのも面白い命題である。例えば思考についていうと言語以外の役割が大きい。つまり「頭の中で考えたことを文章にする」というのは、その時点で「考えたこと」から抽出が起きているのである。おそらく永井のいう〈哲学〉は「考えたことまで全部」を含むはずであるから、抽出された、アウトプットされた結果のみを受け入れる(ざるを得ない)という現状には実は即していなかったりするのではないか。わたしは今の本業は言語(ちょっとだけ"学")なのであるが、こういった観点を与えられるのは、やはり読書(時には他者を自分の内側に入れてみること)もいいなあと思った。
なんにしても、とにかく、「無駄」が必要である(115~116p)という、それこそが本質であるという点にはその通りなのでその通りとしか言いようがないし、やはりそうであった、という安心を再び得る。結局資本主義的な世界にいると、いつ何時も、寝ても覚めても視界に入ったものから、耳に入ったものから、全てにおいてから常に四六時中見張られ、「資本主義的な価値観に即して生きているか」を刷り込みをされ続ける(そしてこれはきっと死ぬまで終わらない)。おそらく、これは想像でしかないが、哲学をやろうとアカデミーのなかに駆け込んで、その中で安息を得たとしても、その「刷り込み」から逃れることはできないのではないか。(数学者の望月先生のように「数学を生きる」ことができるレベルまで達せられていればもしかしたら、刷り込みから逃れられているのかもしれないが、これもまた憶測の域を出ない)
〈ぼく〉という特別さの有無を求めるより圧倒的に明快で単純で本質的なこと(無駄を生きるということは)なのに、たまたま、悲しいことに、全くもって信じられないほどの不運な状況であるがゆえに、それが通用しない(しづらい)世界にいるのだ。それを嘆くことは10年くらいやって飽きたが、時折(残念なことに恒常的な機会を得ていない)こうして「本質」に触れることで「正気」を取り戻すというのは大事な作業である。
さて本文の(前半部分の)感想は異常であるが、2点反駁したい箇所があるのでそれも書いておく。
1箇所目(17p,9l)
あっさりと「哲学し続ける内的必然性をなくした」などと書いてあるから吃驚仰天である。内的必然性と引き換えに得ることができるものほど「瑣末な」ものはない。これでは魂を売ったのと同義ではないか。何度か他の場所でも書いているが、「価値観を他者に阿るのは心臓を他者に預けているのと同じことだ」とわたしは思う。他者は自己の存在理由にはなり得ない。少し引用を用いるが「心の哲学まとめWiki」より、一文。「〈私〉とは世界を開闢する場であり、そこから世界が開けている唯一の原点である」と考える(『〈魂〉に対する態度』p.123,p.187) 。
その原点である自己をなぜ切り売りできるのだろう?「欠陥を売り物にする方法で得た救い」なんていうチンケなものはさっさと捨てるべきである。世界とつながる唯一の原点=〈私〉をもっと大事にしなさい。
2箇所目(111p,11l)
この人は政治と政治的議論をなんだと考えているのだろう。そもそも、少なくとも望むと望まざると関わらずに(生まれた時からすでに資本主義社会に生きているように)、法治国家に生まれてしまったのだから、その国家の参画者である限り「政治を避けて」は生きれない。自ら国籍を捨て(例えばスノーデンのような)、亡命を図るなどの意図画策があれば別であるが、生きていれば必ず住民税がかかり、ものを買えば必ず消費税を払っているのと同様に、政治をせずに生きることはできない。酸素をなくして呼吸ができないのと同義だ。なのにこの人はまるで自分が政治、または政治的議論をしたことがないかのように宣う。しかし指摘したいのはそのアティテュードではなく、政治的議論の方法についてである。
「自分と同じ主張を別の論拠から擁護してくれる人は、最もたのもしい協力者だろう」とは一体、どうしたらこんな思想にたどり着けるのだろうか。圧倒的に間違っている。(これだから日本の左派は無様なんだ)
はっきり言っておくが、政治的議論はその主張の是非ではなく、その論拠にある。だから全く異なる人間(政治家)を支持していても、その論拠次第によっては戦友となりうるし、同様に全く同じ政治家を支持していても論拠によっては一線を画する必要があるのだ。当たり前の話である。タイムリーに話題にしたことだが、「マスクをつけないということは、マスクをつけたくないという人間を擁護する態度を含意しない」。これは明白で、結果(マスクをつけない)が同じだからと言って論拠が異なる場合、それは全くもって「たのもしい協力者」なんかではあり得ない。
5000字も書いてしまった。後半は気が向いたらかく。
アイマス15周年。765プロの本家は既に事業規模を縮小して久しい。新作ゲームを単独で出す体力すら無くなったのに、自分たちをあくまで主役にして後輩たちを呼び集めて「越境」と称して新作ゲームを出す有様。
ドームツアーをするデレ、ツアーやSSAで単独ライブするミリ、単独ドームライブ開催予定だったM、今まさに成長中のシャニ。
確かに先駆者として道を切り開いた功績は大きい。それ相応のリスペクトは必要だろう。だが、なぜ後続のコンテンツ達が先輩の太鼓持ちをし続けなければならないのか。
2014年にSSAに立っていた時は偉大だったし、2015年に西武ドームに立っていた時もまだそうだった。でも今はもう2020年も終わろうとしているのである。
芸歴がものをいう声優の方々が、先輩を敬うのは当然だろう。正直さすが先輩みたいなムーブメントを合同生放送等で毎回のように見てるのも個人的には嫌気がさしてきたが、業界のしきたり等々もあるし、それこそオレンジ色の責任者の前で反感を買うのは得策ではなかろう。
だが、スタマス。どうして、越境作品なのに765を主軸に置くのか。フラットな関係性を築けないのか。越境合同ユニットを765主導にする必然性がどこにあるのか。どこの事務所からも独立したユニットと担当者という関係に何故できないのか。それ以外のストーリーは書けないライターの責任なのか。そういう展開以外作りたくない製作者の責任なのか。私にはバンナムの気持ちがわからない。オレンジ色の責任者がいる限りはこれからも765プロ第一ですよ、第一!なんだろうなと諦めてるが。13人で単独ドーム公出来ると良いですね、恐らくシャニの方が期待値高いと思うが。
「キャラがぶれるなんてパラレルなんだから受け流せよ、それができないなんてPとして青いな」というアイマスPしぐさを平気で振舞える人間がそこそこ大勢いるから公式もきっと変わらないだろうなと諦めざるを得ない。
コンテンツが生きてるのか死んでるのか曖昧なままひたすら進み続けて老人ホームでよろしくやってれば良いと思うが、何事も終わりがあるべきだと思うので私が好きなコンテンツには衰えたらきちっと畳んで欲しいものである。
さて、私は地球から何万光年も離れた惑星からやって来たいわゆる宇宙人である。とは言っても、外見だけから私をそうだと言い当てることは出来ない。なぜなら、私は地球上では地球人の肉体を用いて生活しているからである。
私の故郷の惑星における文明は、地球の人類文明が持つのとは異なる文化を持つ。そのため、地球で暮らし始めた当初は戸惑うことの連続であった。私の出身惑星で自然であることはこの地球と呼ばれる惑星においては自然であるとは限らず、その逆もまた然りだからである。具体的に述べよう。まず、私の惑星では衣服を着用するという文化がない。裸の状態でも性器が露出しておらず、また、非常に高度な体温調節の機能が我々の肉体には備わっているので衣服を着用するという必然性が生じなかったからである。しかし地球人類はそうではなく、そのために衣服の着用を必要とし、それがいつしか社会的規範、ひいては明文法に組み込まれるようになった。私は地球に来てただちに地球上の法執行機関による直接指導を受けるという形でそれを学ぶことになった。(私の姿を見た地球人が「露出狂!」と叫び、私は気づけば拘束されていた。)
私にとって衣服を着用するということはいたって自然ではない。しかしながら私は地球人類と区別できない肉体を用いて生活をしている以上、他の地球人が私を地球人と誤認し、地球人が従うところの社会的規範に服従するよう私にも要求することは自然であるから、彼らを責めることは出来ない。私も不必要な面倒ごとは避けたいから、地球人の期待に添うために衣服を着用することを選択している。しかし、付言しておきたいのは、私の故郷の惑星では文明が地球と比較すれば数世紀程度進んでおり、私のような状態は「出身惑星同一性障害」として認識され、必要なケアが受けられるという事実である。どうやら地球においても近年「性同一性障害」という状態の認知が進みつつあるようだが、「男の肉体を持ちながら男として振る舞うことに苦痛を感じる」という状態が障害であるとみなされるのであれば、「地球人の肉体を持ちながら地球人として振る舞うことに苦痛を感じる」という状態が障害であるという認識も持ってもらいたいところである。地球人類の進歩には期待している。
随分お気楽なんですね、まぁ、作者側でなければその位の認識でしょうね。
「これがこの表現である必然性」「批判されても変えるべきでない理由」を説明できても潰されてしまう可能性
「誠意ある対応」などというものが実際に存在するかどうか、それが空想上のものでないか
誰かを傷付けるとわかっていても表現すべきだと思ったこと、その時に創作者としてどうすべきか
「傷付ける」の程度、グラデーション、あらゆる傷付きが「傷付ける」一つの言葉にまとめられてしまう事に伴う危険
何も考えた事が無いんでしょうね。よく分かります。
あなたが「きちんと」「誠意ある」という、具体的内容に言及せずに正しさを纏える言葉を何故使いたがるか、分かりますか?
その具体的な内容は考えた事が無いし、実際にその場面がどのように動くかも、その細部も考えたくないからですよ。
「きちんと」も「誠意ある」も、細部も具体的な内容も考えず、無根拠に「きちんと」「誠意ある」対応なるものが存在すると(勿論そんな前提は無いにもかかわらず)前提してしまえる言葉なんですよ。