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はてなキーワード: 学問とは

2021-01-31

anond:20210131233101

専門の分野がある他の縦割り型の学問と違って、社会に関連するっていうテーマで纏めた横断的な学問社会学みたいな所があるもんね。

真理を追求するよりは、いろんな学問分野の知識を踏まえた上でそのいい使い方を模索する学問なんで、そんなの学問じゃないって気持ちもわからなくもない。

社会学部教授って他学部の掛け持ちとか専門分野が別にある人も多いし、学部新設の際に移ってきたって人もいるからどれが社会学だというのもはっきりしないし。

anond:20210131232628

社会学社会学会という学問にあって権威を有する集団の体質の問題であれば、一部とはいえ、そこは属人的ではないと思います

anond:20210131185600

それは全くその通り。社会学である必要はないというか、現にさまざまな学問社会についてやっている。

 

社会学内部でその問題は、各学問と各学問の間に必ず発生するスキマを埋めるための学問社会学だとされているな。

心理学が「それは個人心の問題ではないとで考えないことにする」とか、経済学が「それは金の問題ではないので考えないことにする」とか、政治学が「それは政治問題ではないので考えないことにする」とか。その全部から零れ落ちる部分を含めて、社会全体を研究したいね、ということになっている。

anond:20210131190558

そもそも大半の日本人学問など理解できないか科学的に物を考えるのではなく善悪で物を考える。

からどうやらこいつは悪党だと思った相手を叩きのめすくらいしかやることがない。

anond:20210131185208

一部の社会学者グループ学問的に仮説を立てて調査したりフィールドワークをするより、社会運動理屈をつけて他者学者権威を持って、自己の支持する価値観啓蒙主義政治的正しさの名の下、押し付けていたり、他人価値観糾弾して排除する、活動家まがいの行動をしている問題について全く触れられていないのですが。

政治活動自由言論表現の自由はあるとは言え、やり方が高圧的でかつアンフェアに見えるために反発されているのではないでしょうか?

そもそも学問って、徹底的に批判されて残ったものけが、とりあえずの学問事実として残るものでしょ?

社会学者が、それを怠って、学問権威が地に落ちたのだから、その問題学問全体で取り組まなければいけない。

その前で取り組んでいればよかったけれど、全然学問で取り組まなかったでしょ?

から学問権威が地に落ちたんだよね。

学問の信頼が砂漠化した。

ニセ社会学者を徹底して批判しなかったことが現状の悲劇なので、偽物を駆逐しないといつまで経っても信頼は回復しないよね。

ニセ科学として生きるか、それとも本物の学問に戻るのか、社会学は岐路に立ってるわけで、ぜひ偽物と戦ってほしい。

批判者を黙らせるぐらいの真実を見せない限り、信頼は回復しないよ。

どうするの?

anond:20210131214334

科学になりづらいからな。

科学は、明証ができるまで対象を小さくして、明証、分析総合枚挙を積み重ねて、批判に耐えうるものが正しいという考え。(デカルト

個体差が少ない物理数学化学実験したりして証明さえすればよい。

個体差が多いがサンプルが多い生物医学対象をしぼった心理学経済学などは統計処理有意性が見いだせればよい。

個体差が多いがサンプル数が少ないような学問分野は明証の時点でつまずいてしまう。心理学経済学もそういう物はちらほらあるが、社会学経営学あたりになってくると特異な一例を紹介しましたーみたいになってしまう。

anond:20210131185208

まあ無理だわな

科学的にどっちが正しいかよりも、どっちの支持者が多いか正義が決まるから

理系学問でも、STAP細胞が本当に無いのかなんて一般人は何も説明できない

偉い学者大勢が無いと言ってるから多分ないんだろう程度のことしか分からん

Wikipedia引用した上でマトモな論文にする思考実験

Wikipedia引用した論文は全て無価値」みたいな言説を見て、どうにかしてWikipedia引用してるのにマトモな論文を構築したくなったので考えてみた。

前提:Wikipedia引用するのは何故論文として良くないのか

ひとえに、Wikipedia記事自体には新奇性がない、あるべきではないから。記述根拠が示されていても、それは元となる論文か何かがあるはずで、その論文にあたるべき。孫引きNG。仮に記述に新奇性がある部分があったとして、それは独自研究個人見解であって、引用元として信頼性がない。そして独自研究個人見解Wikipediaルール的にも注意書きが付与、または根拠不明として削除される。つまりWikipedia記事は「引用元として不適当なのだ

さて、前提でかなり高いハードルをこさえてしまったが、飛び越えられるだろうか。

案1:Wikipedia自体研究

Wikipediaという誰もが編集できるweb百科事典の最大手しかも多言語研究対象としては価値があるものだろう。しらんけど。Wikipedia自体研究Wikipediaのページを全く引用しないというのは現実的ではない。少なくとも「Wikipedia:五本の柱」は間違いなく引用されるだろう。

ただ、これは反則技に近いので、Wikipedia自体研究以外で、Wikipedia引用したい!というゴミみたいなモチベーションで考えていく。

案2:誤解伝搬に対する研究

クソみたいな例えで申し訳ないが、例えば「明らかに間違ってるのに10年間訂正されずにWikipedia記事に残り続け、その誤りが割と浸透してしまった」みたいなパターンに対する研究。これならWikipediaは少なくとも誤りが広まった要因の一つとして考察に入るだろう。考察に入るなら引用される。これは情報伝達に関する学問的な面白さもあって、良い論文になる可能性がある。

案3:一般的意見としての引用

これは多分きびしい。ある事象に対して「一般的にこういうふうに捉えられている」という根拠として、Wikipedia引用することはできるだろうか。自分編集できちゃうから厳しそう。

面倒くさくなってきたかおしまい

(一部修正)社会学者のすべてがおかしいわけじゃないって、それおかし

社会学者界隈が炎上している。

真面目に研究している人にとっては迷惑なことだと思う。

こんな状況で社会学研究しているのはつらいという気持ちはよく分かる。

思うが、同時に、それは社会学自業自得だとも言える。

だって、偽物が跳梁跋扈している現状は今に始まったことじゃない。

1990年から学問としてはボロボロだったわけでしょ?

それから20年経って、状況は改善たかと言ったら全くしてない。

2018年には、ナチスのわが闘争をもじったりしたバカ論文フェミニズム論文誌に送ったら7本も通ったって第2ソーカル事件が起きて、何一つ状況は改善してなかった。

それら状況をきちんと学問界隈として総括したかと言えば、何もしてない。

偽物は社会運動に耽溺し、アカデミズム看板社会運動うつつを抜かし、何一つ学問としての堕落改善されていない。

学問でございって顔して、なんの根拠もなく世界中他人悪人扱いしている学者集団がほかにいるか

こんなに素人バカにされてて、ネット素人に誰からも分かる形で論破されてる学問が他にあるか?

学問としてのソースを出せずに、根拠を問われて「私の気持ち」なんていう学問が他にあるのかよ。

積もりに積もった疑念があらゆる界隈から向けられてる。こういうときに「我々の社会学には純然たる研究に裏打ちされたがあり、こういう理由で我々の理論は正しいのだ」といえない時点で、学問としては敗北で、「まともな学者もいるんだって」なんていいわけみっともねえと思わねえのかな?

だって、そう言ってる人たちも、「偽物ばっかりの世界だ」って認めてるわけでしょ?

そレは偽物の研究で、俺たちの理論こそ本物だって駆逐たか? してねえだろ。

偽物の糞活動家みたいな学者連中と戦ってないでしょ。

全力で戦えよ。そのためならいくらでもエンパワーメントしてやるよ。

でも、そんな戦いすらせずに、「俺だけは別です」みたいな顔してるんじゃねえよ。

野放しにし続けてるだろ。学者としてのキャリアを賭けて戦いを挑めよ。

親の借銭背負うみたいな話で大変だと思うが、それでも戦えよ。偽物ばかりの世界真実で切り込まないで何が学者だよ。

とりあえず、「自分は正しい。自分たちは間違えてない」と思うのなら偽物に戦いを挑めよ。

とても状況を見るに、偽物と全力でぶつかってるとは思えない。

偽物ばかりの世界で、偽物が嘘をばらまいてるなら、その嘘と戦え。

医学感染症学会も、偽物のトンデモ医師が出てきたら戦ってる。社会学キャリアを賭けて戦え。

それが学者としての使命だろ。社会学者が信頼されてないということは偽物の跳梁跋扈を食い止められてないってことだ。

から戦え。

それが学者としての使命だろ。

anond:20210131185208

社会学も大きくいえば自然科学ではないほうの科学のサブカテゴリなんで日本問題を扱っていても日本しか読む値打ちのない論文なんてあってはいかんはずなんだけど、日本語でしか論文書いてない社会学者すごく多いうえに、論文すら書かずに一般向けの本出して業績だって開き直ってて、海外学会にも参加しているひと本当少なくて、海外社会学者に引用される日本社会学者の論文って本当に少ない。

アカデミズム軽視もここまでくるともはや日本社会学学問であるか怪しいよね。

もちろん地道に論文を書いて研究発表して業績を積み上げてる学者もいるので全員が全員学者もどきみたいな人ばかりってわけじゃないけど、メディア出たがりで論文書かない社会学者たちが社会学者の代表として社会認知されてる状況って終わってるよね。

文系であっても論文書かない研究発表しないキャリア10年以上でも国際的評価皆無の学者から科研費引き上げるべきだと思うよ。

anond:20210131185208

結局、学問としての是非は問わないのね

anond:20210131185113

なるほど、勉強になった。全体的には納得できる。

とはいえ研究の強さと偏差値の高低が一致してないのはままあることだし、一部の学問分野ではかなりの意外性があるのもあるし、

偏差値云々に関してはそこまで言われるべきことなのかはよくわからん

追記🐈追記😸社会学へのバッシングが凄まじい

https://togetter.com/li/1660066#comment

コメント欄があまりにもひどい。「社会学学問ではない」「イデオロギーだ」という主張を非科学的な手法で、感情論に任せて行う。まさに社会学叩きこそがイデオロギーと化している。自己矛盾しか言いようもない。

社会学学問としての是非はともかく、叩き方があまりに雑すぎるのではないか

心理学系の論文再現性検証した論文が何年か前に話題になっていたが、学問科学手法をとった批判とはあのようにあるべきだろう。

研究者人格が気に食わない

研究者思想が気に食わない

研究者Twitter上の発言が酷い

としても、そうした属人的事情学問まり研究結果や論文とは分けて考えるべきだ。仮に社会学者に人格破綻者が多かったとしても、学問自体問題ではない(雇用である大学側としては問題かもしれないが)。

社会学査読システムが酷い

これは社会学批判としては真っ当だ(実際にどうなってるかは知らない)。

が、『「査読システムが酷い」から社会学系の査読論文全てに価値がない(ひいては社会学者の主張は全てクソ)』とするのは間違っている。そもそも査読システムがひどい」自体エビデンスがなく定性的主観的意見であるからだ。この方向性批判するのならば、社会学査読システムに関してきちんと研究し、研究内容を論文にまとめて査読に出すべきだろう。そうして初めて主張に価値が出るのが科学の筈だ。

『個々の論文に関しての評価には、査読必要』という前提条件から査読システムがひどい社会学」をバッシングしているのにもかかわらず、「社会学査読システムが酷くてクソだから社会学系の論文は全て価値がない」とするのは論理破綻している。

社会学には自浄作用がない

自浄作用というのが、いったい何かわからないので何もいえない。ある社会学者の主張を批判するような内容の論文が出せないということだろうか?それならば確かに問題だ。が、「こいつを批判しないならあいつも敵」という風潮を取り入れろという話ならば、そちらの方が問題があると思われる。なんにせよ自浄作用という言葉抽象的すぎる。

ネット上の社会学批判はあまりにも雑だ。エビデンスに基づいていない、社会学個人発言問題社会学全体に拡大して批判する、批判する人々のうち誰一人論文を読んでいない……このようなバッシングで、社会学という学問自体が潰れるのはイデオロギーに対する科学の敗北だ。

もし社会学非科学であったとしても、社会学構造上の問題点は科学的に検証されてから潰されるべきである。(個人的には、社会研究することは絶対必要だと思うので問題点があるのなら解消して欲しいと思う。)

追記

書き捨てのつもりで投稿したのだが、ひとつ

n4b 社会学一部の人って自らの研究対象に対するイデオロギーが非常に強いと思うんだけど、それって研究者スタンスとしてどうかな、とは思う。本来はフェアな立場批判的にデータと向き合うんだけど

これはもうご個人的な意見に過ぎないけど、研究者研究対象に対するイデオロギーの強さはどの分野においても仕方ないものだと思うよ。

研究者人間だしね。北極グマが大好きだから北極グマを守るために科学者になるし、地球温暖化環境問題に関する研究をするようになる。気候変動による生態系崩壊を目の当たりにすれば、当然それを防がなくてはならないと政治的意見を持つようになる。

社会学者も(会ったことないから知らんが)社会問題意識を持ったからこそ社会学を専攻したんだろうし、そこでイデオロギー動機になるのも、結果的特定イデオロギーを持つようになるのも当たり前と言えば当たり前じゃないかな。社会という研究対象特性上、他の学問よりもそうなりやすいだろうし。

それに、研究者自身思想はなくとも研究者研究資金必要とする以上、どこかからバックアップを受けなきゃならない。企業研究者企業営利のための研究をしなきゃならないし、国の研究機関だって国益のために金を出している。研究者が完全にフェアな立場に立つのは無理だ。

タバコ会社タバコを無害を示す研究資金援助したり、石油会社気候変動とCO2排出量の関係否定する論文資金援助したりだとかは、今更無くそうと思ってなくせるものだとは思えないしこれからも増えて行くだろう。

でも、タバコの無害を示す研究も、気候変動はウソだとする研究もあっていい筈だ。むしろ無くちゃ困るものだ。問題利益のために研究を歪めていないかであって、イデオロギーに基づくかではない※1。

フェアな立場批判的にデータと向き合う

研究者として本当に重要なことであるし、特定イデオロギーに肩入れし、恣意的データを示す研究者研究者と言えないと思う。が、やはりそれは研究手法統計解析方法などから批判されるべきであって、「研究者立場がフェアでないからこの論文は信用に値しない」とすることは非科学だろう。

研究者イデオロギーフリーであることもフェアな立場であることも難しいが、データ批判的に向き合うことは出来る。論文の著者は批判的にデータに向き合い、思想によって歪められていない研究結果を示すべきだし、読み手(査読者も含む)もまた思想に囚われずに研究結果に向き合うべきだと思う。

自分も(知ってる範囲の)社会学者のスタンスが好きか嫌いかというと、嫌い※2。だが、著者のスタンスではなく論文を読んで批判するのが、批判者としてのあるべきスタンスだと思う※3。科学科学たらしめるのは論文ではくて、論文評価する人間存在だろう。

※1「利益のために研究を歪めていないか」なんかをチェックするために医学系の論文なんかだと、〇〇製薬に援助を受けました、と書いて利益相反をはっきりさせているが、社会学にそれが必要だとは思わない。

※2 一応論文を書いてる社会学者よりも、雑な理由社会学全体をバッシングする奴のほうが嫌いである。単なる好き嫌いだがメディア露出の多い研究者基本的に嫌いだ。社会学含め人文科学には興味がない。

※3 興味がないので論文を読みたくないし研究もしたくないか社会学という学問の在り方について批判肯定もしたくない。

追記

伝わらない文章申し訳ない。

babelap 追記イデオロギーについて「ほかでもやってるし」で免責すんなや。学問についての取り組みがイデオロギーで歪められてたら批判されるのはどの分野でも当たり前だ。社会学が影響されやすいならなおさら言われるわ

どの分野においてもイデオロギー科学は切り離しようがない。社会学のような実社会対象にした分野(※)では殊更イデオロギーフリーになることは難しいだろう。だからイデオロギーフリーかどうかを研究結果の価値判断基準にするのは無理がある。「この学者は〇〇思想から、この論文ゴミ」というスタンスを取るのはそれこそ、イデオロギーであり非科学だ。

研究結果、研究で得たデータイデオロギーによって歪められ、異なる結論が出されるのは無論問題だ。それはどの分野でも問題になることであるが、「データが歪められていないか」というのは利益相反の有無からではなく研究手法検証再現実験などによって判断されるべきだろう。それが科学だ。


自分の専攻が不幸にも政治的意味を持ってしまうことはままある。環境系などは特に顕著だが、最近では感染症系がいい例だろう。「コロナ危険性」だとか「〇〇な活動コロナ感染拡大に及ぼす影響」だとかを研究し始めると、右のだ左だのがそれを政治的意見エビデンスとして使用し始める。専門家としての見解を少し喋れば、それが政治的な表明として受け取られる。メディアでの身の振り方に不慣れな自然科学者がうっかりテレビに出て無知大衆バッシングされるのは見ていて痛ましかった。左/右にとって都合がいい意見から、こいつが言ってることだから判断せず、疑念を抱いたのならクリティカルソースとなる論文から検証すべきだろう。新型コロナ新参が多くて論文が読みやすいそうだから、これを機に物おじせずにGoogle翻訳機片手に読むといいんじゃなかろうか。論文を読む側も検証者として、科学構成員である。(そういう意味で、「私は感染症素人ですが、皆さんと一緒にコロナについて勉強したいと思います」とサイトを開設した山中教授の行動は素晴らしかったと思う。)

日本社会学クローズドだというが、我々一般市民も、(金のために書かれた)出版社の本を盲信するのではなく、思想に基づいて雑に叩くのではなく、社会学を学び論文を読むことで、学問裾野を広げ、日本社会学をこじ開けていけるといいかもしれない。

(また余談が長くなったので終わる)

「さる先生」の件で、なんか仏教を学んだ人間なのに仏教精神に反するなんてみたいなコメントが見られたんだけど、なんかおかしくない?

研究者としてけしからんはわかるけど、なんで仏教精神に則らないかけしからんになるんだろう。

仏教学問として研究するのと、宗教として信仰したり思想として信奉したりするのは別の話では?

じゃあ歴史学先生で、アカ人物研究してるタイプの人とかどう扱われることになるんだろうかと。

勿論、自分仏教学?界隈のセオリーとか知らんから的はずれなのかもしれんが。

ネットウォッチャーネット社会学者の違い

踊り子に触らないでくださいというのがネットウォッチャー

踊り子干渉して踊り子に踊りを教えたり自分舞台に上がって踊り出すのが

ネット社会学者

正直ネットウォッチャーの方が学究としては社会学者より学問的だよなあ

2021-01-30

理系の男は性格が悪い

端的にやな奴が多い

今のところ10人くらい知り合い百発百中なんだよな

理論的にあっていれば相手感情や周囲の状況は汲まず喋って良いと思っており、かつそれを批判されると周囲が馬鹿から苦労していると更に相手を見下げてくる

自分価値観フィールドしか話せないのに、それが至上だと思ってるからふんぞり返り方がすごい

いやコミュニケーションにも方法論とかあるんだからそこを学んで身に付けてくれんか?フォローする方の身にもなれよ……

そして文系学問馬鹿にしたい意欲に満ち溢れているので、自殺者まで出してる理系学問問題完全スルー今日他所文句を言っている。

すごい、すごい性格が悪い……

自然数」という言葉を2つに分解するべきではないか

高校数学まで、「自然数」は正の整数を指すものとされているが、

大学に入ると、フォンノイマンによる自然数構成からの流れで、「自然数」は0を含む正の整数として扱われることが多い。

から論文で「自然数」という言葉を使うとき(そして、花文字の「N」を使うとき)は、

序文かどこかで、この論文ではどちらの定義で行くのか予め述べておかなくてはいけない。

これって面倒なことだと思う。本文を抜粋していきなり読むと、「自然数」の定義を間違えてけつまずく可能性がある。

そもそも論理性が大事数学という学問において、なんでこんな曖昧単語が残っているのか不思議だ。

なので、境界となる数を含むかどうかで「0を超える」「0以上」と言い分けるように、「自然数」という言葉自体も2つの言葉に分けるべきだと思う。

しかし、「0を超える整数」は「正の数」と呼べばわかるのに対し、「0以上の整数」は「自然数」以外の、それこそ自然呼び方が思い付かない。

あと、数学用語で気になるのは「モニック」という言葉

最高次係数が1である多項式のことを「モニック多項式」と呼ぶのだが、

この「モニック」に対応する日本語訳をいまだに見たことがない。いまだに、外来語漢字組合せで呼ばれている。

ちなみに、「最高次係数が1である場合特別に扱うのはn次方程式からの流れ。

最高次係数で左辺・右辺を割ってしまえば、方程式では最高次係数が1の場合だけ考えれば十分であるため。

そんな中学生でも理解できる単純な概念なのに、しっくり来る日本語訳が無いのが不思議だ。

でも、係数が1なのは単純化のためだから、「単純」って呼ぼうとすると、その言葉群論で使われてるし、

「単項式」だとそもそも意味が変わってくるし、やはりこちらも良い訳が思い付かない。

2021-01-28

anond:20210128162856

雑な救済策でぬか喜びさせてから緊急事態宣言からな。

政権担当能力が高いはずの政権に振り回されて苦しめられる旅行業界はホントにかわいそう。

まぁ、その旅行業界が支持した政権なんだから自業自得な部分もあるだろうけどな

学問馬鹿にして、経済に強いと自称しながら雑な策で経済をぶち壊す連中を「ほかに選択肢がない」って支持するのがすごい。

まっとうな判断能力のある被選挙権のある大人は一体何やってんだろうな?と思ったが

今の自民党の失敗の尻拭いなんて、まっとうな判断能力があればやりたがるヤツなんかいるわけ無いか

anond:20210128095128

それが理想ですが、現実にはなかなか難しいでしょう。他のTVゲームより授業が面白いのであれば、授業が「娯楽」になってくれると思いますが、一般学問的な内容はエンターテインメントには「なり難い」ものでしょう。

2021-01-26

anond:20210126212502

価値自由学問などというのは排撃すべきブルジョア主義である

人民のための学問のみが真なる学問なのだ

知を持って資本主義怪物を討ち滅ぼそう

anond:20210126191943

実はそこって穴場というか

明らかに存在する概念なのに学問的にちゃんと扱われてないか

オリジナリティはあるしいけそうな気はするんだよね

KKOだけど社会への不満がない

不満があるKKOとそうでないKKOの違いはなにか

やはりKKO化した理由がどの程度自己責任と言えるかだろう

増田で不満を撒き散らしているKKOはよく聞くとかなり同情の余地はある

毒親とか学生時代いじめられたとか

しかKKO人間関係上の市場価値が低く、同情してもらえないので歪むのだ


逆に俺はそういった同情の余地がある理由がない

家は都内、親は高学歴で過干渉ネグレクトもなく、わりとどこに出しても恥ずかしくない立派な親だ

俺も特に挫折せず高学歴になり、学問にも金を出してもらい好き勝手に生きてきた

発達障害ではないし、いじめも受けてない

特にほしいとも思わず何の努力もしていないのでパートナーも子もいない

将来への不安も薄いし金の使いみちもそこまで無いので仕事に打ち込むインセンティブもない、貯蓄もほぼしてない

ただ普通に生きていたら選択自明帰結としてKKOになっていたのだ

から社会を憎むKKOたちの気持ち理屈としては理解はできても共感はできない

政治的に団結もできないのだ



そう考えるとKKO概念というのは微妙に的を外しているのだろう

KKOにもう一つ要素を足した集団言語化できれば

ちゃんとした社会問題として認識されるのかもしれない

同情の余地もあるKKO的なね

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