はてなキーワード: 詐欺とは
ホストにハマって大金貢ぐ為にパパ活だの詐欺だのやって大金稼いでる女性を税金で救済する必要があるらしいね
実質女性専用生活保護制度である困難女性支援法といい、母子家庭のみが享受出来る行政サービスの圧倒的女尊男卑といい
最早女性というのは「いくつになっても女子供のままで自分のやらかした不始末も好き勝手やった贅沢放題の責任も一切取らなくて良い側の性」であると国公認になりつつある。
それにしてもホスト立法に対し反対の声が女性らからは殆ど聞こえず、圧倒的賛成~消極的賛成の意見が大半な様で絶望している。
もし仮にこの法律が制定されるとなると、キャバにハマって金貢ぐキモおっさんレベルの女性ですら税金で保護しなければならない程度に
女性とは責任能力も無く知性にも欠けた存在である事を、女性自身が認める事に等しいんですよね。
ここまで国に政治家に活動家に愚弄されても、抗議の声を上げるどころか「はい待ってました~」と言わんばかりに歓迎しちゃう日本の女性って
もう女性というだけで責任能力の無い幼稚な人種として見なさなければいけないよね。
悲しいなぁ。
推し活云々
有名人と一緒に写真撮るのとか昔からの伝統だし、そのために会費募るのも伝統だし
政治家の政治資金パーティー、基本的にチェキ会だし。会費3000円からはじまって、朝食会とかだんだんお値段の高い会費に誘われてく
ステータス高い奥様方とおともだちに、みたいな触れ込みで、月謝からはじまって免状やらなんやら払う上納金システム
ホストクラブの仕組みにしたって方法論自体は別に発明でもなんでもなく、夜の店の昔からのやり方を男女入れ替えてシステマティックにやってるだけ
水商売に限った話じゃなく、どんな仕事でも、何かあるとすぐ親睦団体作って囲いこみたがる
仕事の付き合いだと思って会費払っても、会費に見合う見返りはまず期待できない
高度成長期なら期待値高かったかもしれないけど、成長分野でもない業界ではよくてプラマイゼロ、悪くすりゃマイナス
(先日増田に書いた親父が40万のネックレス買わされたトラブルは、その手の金持ち付き合いに付いて行って知り合った相手に誘われ口頭で頷いた結果です)
金払った上に人づきあいの心労を抱え込むの当たり前
そっちに金吸われるぐらいならソシャゲに吸われたほうがはるかにマシだね
他人と競争させるといったって、直接会って付き合う心労ほどじゃないし、すぐ飽きて手放しても誰も文句言わないし
サイゲならアニメ業界にしこたまバラまいて良作アニメ量産してくれるし
神バハ、グラブル、プリコネのアニメ化、ゾンビランドサガ、ウマ娘、アキバ冥途戦争、
サイゲコミック発でならバ美肉おじさんやシートン学園も良かった
FGOはあんま見返りいい気はしないがラストアンコール出してくれたから許す
追記:そもそも「何故もっと批判されるべきなのか」については、【最後に】の後に追記した(2023/11/15)。
東京大学と東京芸術大学では、鮎川ぱて氏(以後、ぱて講師)による「ボーカロイド音楽論」という講義が開講されている。東京大学の方の講義はぱて講師による著書『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』においてその過去の内容が公開されている。このダイアリーの筆者(以後、「筆者」)は「ボーカロイド音楽論」の元受講生であり、書籍を購入し一読した。同講義はTwitter(現X)での実況が推奨されておりTwitter上で一つの活発な動きを毎年見せているが、「ぱてゼミ 批判」「ボーカロイド音楽論 批判」などと検索しても同講義に対する明確な批判のツイートはヒットしない(Twitterの検索システムが悪いという可能性は保留する)。書籍についても、これに批判的な書評はAmazonのレビューやブックメーターにわずかに存在するのみである。講義内容全体のレビューはそれらに譲るとして、本ダイアリーは、この「批判の少なさ」の原因について仮説を立てることを目的とする。
本ダイアリーは直接の筆者の特定を避けるため匿名の形式をとっている。内容について「そんなの当たり前じゃん」「その仮説は的外れだ」と思う読者もいるかもしれないが、このように書き残さなければ何も始まらないということでご容赦願いたい。また、筆者は全ての年度や東京芸術大学の講義を聴講したわけではないこと、このダイアリーの内容は主に『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』の初版第一刷(以下、書籍)に基づいていることを断っておく。
まず結論として、 「ボーカロイド音楽論」に対する批判の少なさの原因として、筆者は次の4点を提唱する。
1. 媒体:現地で行う音声形式の講義では記録に基づく批判が困難であるという点。
2. 受け手の資質:講義の対象となる学生や読者のほとんどはその議題についての非専門家であり、しかも批判に割くだけのリソースを持っていないという点。
3. 内容:この講義の内容が批判を先んじて封じてしまうように作られている点。
4. コミュニティ:この講義はボーカロイド音楽が好きな東大生のうち一部を迎え入れるコミュニティを形成する役割を同時に担っており、コミュニティと批判との相性が悪いという点。
以下、これらの点を順に見ていく。
書籍が発売される前、「ボーカロイド音楽論」(以下、この講義)は大学の構内の教室で開講されているのみであった(初回の何回かこそニコニコ動画で配信されたが)。そこではぱて講師の口頭でのみ内容が話され、レジュメは一枚も配られることなく、板書も最低限であった。言われたこと全てを紙に書きとるのはほとんど誰にもできないだろう。従って口頭の講義に基づく批判は、言った言わないの水掛け論になってしまいやすい。現に筆者がこのようなダイアリーを書くことができるのも書籍が発売され、何を書いてあり何を書いていないかを把握し見直すことが可能になったからである。
この講義は主として東京大学の教養学部の学生に対して開講されたものである。その多くはこの講義で取り扱った多くの思想や概念の(多くとも)全てについて専門家であるというわけではない。またぱて講師自身もそれら全ての専門家でないことは講義中に明言している(85ページ脚注5など)。従ってぱて講師によるそれらの援用が妥当でない可能性は常にあるが、そのような観点からの検討をすることは学生にとって難しいだろう(勿論専門家のみがそれらを扱うべきだという立場をとることは避けなければならないが)。さらに言えば、進振りのための勉強で忙しい学生にはわざわざこの講義を批判するためだけに捧げる時間も体力も残っていないということ(そしてこの講義そのものが大学が門を閉める時間まで延長していることもそれらのリソースを奪う一端となっていること)を指摘しなければならない。これは書籍の読者の多くについても同じである。
ここでは書籍でぱて講師が用いた概念の内容が批判を先んじて封じる性質を持つことと、ぱて講師が「論じるべき内容を論じなかった」ことが批判すべき点を覆い隠す機能を持っていることを指摘する。
まず、ぱて講師はテマティスム(テーマ批評)に則ってボカロ曲を評論するとしている。ぱて講師の言うテマティスムとは、以下に抜粋する通りである。
「テマティスムは、作家のメッセージをその意図の通りに読み取るということではありません。そうではなくて、むしろ、作家と作品の細部から、作家自身も気づいていなかったかもしれないテーマを抽出し、作品の価値を読み替えていく。それがテーマ批評という手法です。」(40ページ14行目-41ページ1行目)
さらに、この講義の鍵となる概念の一つとして「アンチ・セクシュアル」をぱて講師は提唱している。以下に書籍の抜粋を示す。
「本講義の当面のキーワードは『アンチ・セクシュアル』です。性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱う感性が、ボカロシーンには多く見られ、そして支持されました。なにに比してかというと、いわゆるふつうのJポップに比してです。Jポップのチャートを見れば瞭然でしょう。ラブソングばかりです。」(42ページ8-12行目)
「『アンチ』といっても、それは必ずしも単純な否定のことだけを指しません。性愛を疑ってみたり、気持ち悪いもののように言ってみたり、ときにそれは、米津玄師において見られたように、アンビヴァレントな愛憎を差し向けるというかたちをとることもあるでしょう。」(43ページ2-4行目)
つまるところ、「テマティスムを用いれば、性や愛をめぐる通念を自明とせずに扱う感性(単なる否定に限らない)をボーカロイド音楽から読み取ることができ、そのような音楽がシーンの人気を博した。一方で「いわゆるふつうのJポップ」からはそのような読み取り方のできない曲が人気を博している。」という主張をぱて講師はしているということになる。この主張に当たって用いた「テマティスム」と「アンチ・セクシュアル」の二つの概念は、この主張に対する批判として想定される「作者はそこまで考えていないと思う」型の主張や「この曲は性や愛めぐる通念を否定しているとまでは言い切れない」型の主張を先んじて封じる機能を持つ。このため、読者がすぐに思いつく形での批判ができず、ぱて講師の主張に対する批判が少ないことに寄与していると考えられる。
もう一つ批判封じに寄与しているのは、「論じるべきところを論じていない」ということである。「いわゆるふつうのJポップ」についての記述に注目すると、ここでぱて講師が行わなければならないのは、
①「いわゆるふつうのJポップ」を「『アンチ・セクシュアル』な感性を持たないJポップ」以外の形で定義すること
②個別の楽曲評論を通じて「いわゆるふつうのJポップ」に該当する曲に「アンチ・セクシュアル」な感性が備わっていないことを論じること
③それが「Jポップのチャート」に非常に多く見られることを指摘すること
である。しかし書籍の中で「いわゆるふつうのJポップ」についての言及があるのはここのみで、上記3つ全てを行っていない(ぱて講師の言葉を借りれば、「瞭然」という「感覚を思考の俎上に載せ」ていない)。それもそのはず、「テマティスム」と「アンチ・セクシュアルな感性」を用いた読解だけではこのようなことは到底不可能だからである。「テマティスム」は確かに「作者の意図」に縛られない自由な評論の基礎であるが、それは同時に評論者次第でどうとでも言えてしまうことを意味する。同じ曲が違う評論家によって「アンチ・セクシュアル」であったりそうでなかったりする。もし「そうは言ってもこじつけってものがあるでしょ」と思うのであればそれは「良い評論」の基準として「テマティスム」以外の何かを想定していることになる。さらに言えば、「アンチ・セクシュアル」という概念の幅も広い。同じ言葉が賞賛にも皮肉にもなる世界で、「性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱」っているかどうかを「テマティスム」のみで確定させるのは不可能だ。つまるところ、ぱて講師が「いわゆるふつうのJポップ」を論じないことは「テマティスム」の持つ脆弱性、あるいは、「何でも言えてしまうが故に何も言うことができない」性を(本人の意図とは無関係に)覆い隠し、批判を予防することに寄与していると言える。
現地での講義に付随する活動として、コンピレーションアルバムの作成やちょっとした食事会など、ボーカロイド文化が好きな東大生のためのコミュニティを積極的に提供する姿勢をぱて講師は見せている。それ自体はマイノリティたる若者を鼓舞するという目的からすれば妥当であるが、評論の面ではこれが裏目に出ている。余程肝が据わっていない限り人間は、自分を匿ってくれるコミュニティの発起人の言うことに盾突いたその先を恐れる。発起人自身が何とも思っていなくても、同じコミュニティの仲間から邪険に扱われるかもしれない。仲間が何とも思っていなくても、内なる自分が責め立てる...。こうなれば講義を批判するのは難しい(批判したとて有耶無耶に言いくるめられるだけだ、という疑念もあろうが)。「肝を据わらせろ」という主張はマッチョイズムなのでしないが、しかしコミュニティを形成するとはそういうことなのである。
「ボーカロイド音楽論」の講義が書籍化されたことは、この講義自身にとって、そしてボカロシーンにとっての大きな一歩であると筆者は考える。内容の巧拙や政治的立場はともかく、書籍化されたことによってこの講義は「亡くなったボカロPを悼み、内輪でボカロ曲をべた褒めする会」になってしまう未来を脱して、元受講者やボカロ関係者を含む全ての人の衆目に晒され、批判され、検討され、洗練され、時に新たな論を生み出していくことができるようになった。後は実際にそうしていくだけである。筆者よりもっと優れた批判をできる人は多くいるはずなので、後は彼らに託してこのダイアリーの締めとする。
強い言葉で言えば、
「『ボーカロイド音楽論』などと大層な看板を出しながら、その実著名な学者の業績を形だけ借り"正しい"思想を添えた類推だらけの持論を『教養』と称し、[『教養』]と[『教養』を並べ立てた個別の楽曲評論]を弱い脈絡の下で繋げただけの、部分を詳細に語っただけで全体を語った気になっている、評論と呼ぶべきなのかもわからないものが、まともに批判されずに学生の間や世の中に広まることが許せないから」
である(「まともに批判されずに学生の間や世の中に広まる」という心配は杞憂であってほしいが)。
筆者がこの講義や書籍の内容が批判されるべきであると考えている理由は3つあり、これらを以下に簡潔に説明することで追記とする(注あり)。
1. タイトル詐欺:「ボーカロイド音楽論」を名乗りながら、その大部分は個別の作品の読解に費やされている上、それらを踏まえて「ボーカロイド音楽とはなにか」をまとめて論じている内容が存在しないこと。
2. 「思考の俎上」に載せる「感覚」の選び方の恣意性:本論で述べたように、思考が必要なぱて講師の感覚があるにも拘わらずそれを思考した形跡が存在しない箇所が見られること。
3. 「思考」の粗雑さ:「感覚」を正当化する目的でしか「思考」が用いられていないこと。「思考」に用いた「教養」の内容もそれぞれの分野を専攻した読者から見れば的外れなものになっていること(注1)。「類推」や「テーマ批評」などのいくらでもこじつけることが可能な手法を用いているのに、何故その手法を用いるべきなのか、その手法の限界はどこにあるのか、といった説明がされていないこと。
注1:少なくとも一つの例として、筆者が専攻していた生物学に関連した部分を挙げる。リチャード・ドーキンスの書籍『利己的な遺伝子』に言及した後、「しかしこれらのような個体の利他行動も、種や遺伝子を主語にすると、自らを温存するための利他行動にすぎない。」(54ページ8-9行目)と段落を結び、その後「性はこのように、種の都合のための機能主義的なプログラムであるという言い方もできるわけです。」(54ページ18-19行目)と主張している。結論から言えば、この言い方はできない。生物学を学んだことがある人物なら絶対にこのような主張はしない。進化の結果としてある個体Aが(同種とは限らない)他個体Bに利他行動をする形質を獲得する条件はあくまで「それが後に個体A自身の生存や繁殖に有利となる可能性が十分高い」あるいは「個体Aと個体Bで利他行動に関連する遺伝子を共有している」であり、そこに「種」の概念は一切関係しないからである。(遺伝子は自然選択の対象となり得るのに対して)「種」という概念は観察者が生物を分類する際の線引きのツールであって、自然選択の対象として観察可能なものではない以上、「性は種の都合のためのプログラムである」ということを(観察によって)事実として得ることもできない。つまり「種」を全体と見立て「個体」を部分と見立てるような類推は成立しない。百歩譲って「利他行動に関連する(種を問わず)同じ遺伝子を持つ全ての個体」を全体とみなす形で類推を成立させるとしても、それは「類推を成立させるためだけに拵えた全体」であることを指摘しておく。
あなたの愛する息子のために人生を捨てて結婚し、文字通り命懸けで孫を産んでくれたお嫁さんのものじゃないの?
詐欺する奴が悪いのは当然だけど、息子のために命を懸けた嫁に相談なく何百万、何三万ものお金を勝手に決済することがそもそも間違いだよ。
最近共働き詐欺で結婚に持ち込んだ女の行く末をウォッチしている
ここでいう共働き詐欺とは結婚後おおむね1,2ヶ月以内に黙ってもしくは反対されて退職した女のことだ
こういう女の特徴は決まっている
その特徴とは
Xに「会社負担分の社会保険料とそれを含む総支給額」とかいうトンチを書いて煽ってる人が居るな
これをどう受け取るかは人それぞれだが
んじゃ、「会社負担分の社会保険料を含む総支給額」とはどういうことかと言うと
という視点から、会社は社員に総支給56万を払っていると言ってしまうわけよね
んで、あなたは会社から56万貰っているのに、手取りは35万になると嘯くわけだけど
この差額の10万は何?と言ったら、「企業が裏で負担している保険料」となるのね
ぶっちゃけ、これを総支給額と言ってしまうと、もろもろの税金も上がるんだけど、それは言わない
で、この話のヤバさは
実は、これで声を上げて、保険料が下がると、直撃するのは声を上げた世代って所な
今のような保険料が出なくなって、皆保険が無くなるかもしれない
それは、今の老人世代ではなくて、声を上げたオレラが被るんだよ
これを話してるような連中は
金に余裕がある層
そして「人を使う側」だ
はてさて、ではなんでこんな煽りをするのか?
お前ら損してるよーって
それが「会社負担分の社会保険料とそれを含む総支給額」のカラクリ
これで、おれが負担させられている(実際は企業が負担している)保険料を下げろ-と同調する奴は
騙されてる事にも気付かない体の良い資本主義の犬だし
これ「ここはアメリカじゃない」「EUでもない」という絶望感に負けずに、まともに一度でも国会で取り上げられれば一発だと思うんで、着信詐欺という格好の材料を助け船に、なんとか盛り上げていってもらいたい。
やはり馬鹿なんだな
6億って言葉を繰り返しているけど、こっちがテキトーに作った数値にこだわるのは凄い気持ち悪いな
そういう所が馬鹿なんだよ
そもそもインフラやそれに準ずるエッセンシャルワーカーなどは残さないといけないだろ
6億って数字が人口って考えたとして(どこの国だよ)、そこの人全員が働かないってことあるか?
子育てを優先するならそういう部分は絶対に外せないが、なんでそういう人も仕事しないと思うわけ?君が勝手にいってるだけだろ?
君がしていることなんて、せいぜい詐欺の受け子やビックモーターや地方の無くなってもいい会社の車磨く程度だろ?農業でも道路工事でもいいから、とりあえず人類を生き残らせるために働けよ
普通メッセージをタップしたら着信履歴一覧に飛ぶと思うじゃん?
さっきなんてカナダからの詐欺電話番号の着信履歴をタップして発信してしまいそうになったよ
これで掛け直してしまって詐欺に引っかかって被害にあってしまった年寄りのiPhoneユーザーも少なくないと思うよ
知らない「国際電話番号」に注意、「+1」の着信詐欺が急増…「支払わないと民事訴訟を」:地域ニュース : 読売新聞
https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/news/20231006-OYO1T50035/