はてなキーワード: 無謬とは
いやナチ全体が福祉国家的で無かったら、慰安婦制度が福祉国家に基づくものって発想どっからでてきたん?
って全然間違いなくないよ。綱紀粛正や性病予防はどの軍隊も気を使ってて、慰安婦制度はその一形態でしかないんだから。
勝手にずっこけてりゃいいけど別に全体主義でも説明できると思うよ。あるいは権威主義体制は民主主義体制よりも統治者の無謬性が求められるから、と説明してもいい。
もっと個別の話をするなら、日独両国は大規模な侵略を仕掛けてその統治が長期間に及んだからだね。
そういう状況では兵士の不満が蓄積し、被支配民を見下すので乱暴狼藉が多くなる。一方軍上層部は民心離反を恐れるので兵士の性管理を始める動機ができる。
で、軍政下っていうのは緩やかな無政府状態だからね。本国では法と体面を気にしてできない「軍による管理売春」ができてしまう。
日独の慰安所があったのは基本的に占領地だけ。朝鮮台湾から連れていかれた慰安婦はいても、朝鮮台湾に慰安所はなかった。そこは占領地ではなく、一応法の支配が及ぶ場所だからね。
https://font-da.hatenablog.jp/entry/2022/01/18/223359 より引用
直接のきっかけは、例の「オープンレター」です。はてなもやはり、その話題で持ちきりのようですし、見るたびに精神状態が悪くなるので距離を置こうと思いました。また、今も私が書いた記事に反応がありますし、揶揄的なコメントがつけられたりすることもありました。誰を責めたいわけでもなく、コップに注がれていった溜まりに溜まって水が溢れてしまったように、「やめよう」と思ったに至ります。これまで何度も炎上してきた私が、なぜ、この件に関してだけひどく落ち込むのかは、大学外の方にはわかりにくいと思います。とにかく、私にとってはこの件は受け止めきれない出来事でした。女性が研究者として日本のアカデミアで生きていくことの困難を突きつけられたからです。
また、これまで個人的に関わったセクハラの問題でも、同じようなことを目にしてきたことがあります。みな、最初は被害者に同情的ですが、だんだんと被害者の行動を咎め始め、そのうち「加害者こそが〈本当の被害者〉なのだ」と言う人が現れます。最初は両手をあげて被害者を支持すると言っていた人たちが、次々と沈む船から逃げるネズミのごとく離脱していきます。「被害者に寄り添う」というのは美しい言葉ですが、最後までそれを完遂する人はほとんどいません。いつも同じことが起きます。みんな、「声をあげてほしい」と被害者に言うのに、いざ、自分に火の粉がかかるとわかれば手のひらを返すのです。わかっていても、それを目にするのはしんどいことです。
いったいどこの誰が火の粉が降りかかるとわかれば手のひらを返したのか。
沈む船を沈めたのは誰のどういった行いだったか、本当に理解できているのか。
セクシャルハラスメントの被害者であればいついかなる時も無謬を永久保証されるのか。
自分の思い通りにいかなかったから、自分の間違いを指摘されたからといってすべてをセクシャルハラスメントに結びつけるのはおかしい。
呉座勇一氏のセクシャルハラスメントはそれ相応の非難をされてしかるべきだが、北村紗衣氏やid:font-da のオープンレター無断名義使用問題に対する態度も非常に度し難い。
東大クイズ王が集まるQuizKnockの動画だって、ミスや知識のなさをお互い弄って笑いをとってる。コメント欄では道化を演じるメンバーが「こんな風にプライド捨てて笑いに変えられるなんてすごい」と賞賛される。仲のいい人だからこその「イジり」っていうのは、誰でもごく普通に行うコミュニケーションの一つだし、とりわけ配信なんかをやるならそれなりに派手なコミュニケーションが必要不可欠なのは当たり前だろう。もちろんその副作用に目を向けてはいけないわけではないが。
結局「Vtuberはキャバクラ」という結論が先にあって、その結論に向かって理屈をこじつけているだけなんだよな。少しでも実情を知っていれば実態にそぐわないことはすぐにわかるのだが、こういう人々は「俺が知る必要なんてない」と言い訳するための根拠を探しているんだから、まあ実情を知ろうとするわけがないよね。「見ればわかる」ものをいくら言葉で説明しても無駄。
Vtuber界隈が全くの無垢無謬だとは思ってないよ。例えば「キャラの固定化」というのはかなり問題があると思ってる。それぞれに演じたいキャラがあるはずなのに、不特定多数が関わる文脈の中で「この人はこういうキャラ」というレッテルが既成事実化してしまう。例えば、月ノ美兎と喋る時は「先輩」として謙るというのが「鉄板ネタ」になっているけど、月ノ美兎自身はそういう扱いをあまり好んでいなさそうに私は思う。樋口楓のことは恐怖の対象としてとりあえず怯えておく、とかね。樋口楓自身は調子いいお気楽な人だから、そういうネタにも乗っかってくれるけど。黛灰とかがその辺気を使って「あえて弄る」一幕なんかもあったけど、あれは必要な一幕だったと思う。
「この人には(この形式の)セクハラをしていい」みたいなのが暴走することもあるけどな。
Vtuber界隈自体が発展途上で、いい所も悪い所もたくさんあるけど。よく知らん奴が適当なこと言ってるのはすぐわかるもんだよ。本当に批判すべき、悪しき風潮というのは、実際にその内部で生きている人々にしかわからない。
今度も棘で
「彼女ができる前に知れてよかった」性行為における"嫌と言えない場合"って、実際どんな場合なの?
https://togetter.com/li/1827624
とか話題になってたけど、そりゃ酷いのもいるからちょっとは合意できるけど、大部分で合意を阻んでいる点が
「「そのために女性はこう変わっていきます」とか「こう変わっていこう」とかいうのが一切ない」
という点である。
何だよ女は無謬の存在か?各種調査で「男に引っ張って欲しい」だの「意気地なし」だの散々言っておいてこれか?
あと「女に言い訳できる状況を作れるのが男の優しさ」とかいうのもあったな。
女は暗黙のコミュニケーションが楽しいかもしれんが、エスパー行為を要求される男は全然楽しくない。
普段のそれをSEXのときにもやって、と言っているだけで全然進歩がない。
なら普段から「黙示のコミュニケーションや駆け引きをやめて、自分からしっかり意思表示します」
というのが筋ってもんだろ。
日本女性はいい加減コミュニケーションコストを男に負わせるのから卒業しろ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1625314
b:id:houyhnhm 代理出産の最も厄介な所は、男女の問題からエスタブリッシュメント層と貧困層の対立になる所で。
ぜんっぜん ちっっっっっっっっげーーー馬鹿か一番厄介な点はそんな簡単なとこにねえよ!
b:id:lacucaracha ここまで徹底して、産まれてくる子供の立場にたった話が出てこないのは中々すごい(まとめから外されてるだけかもしれんが)
最も厄介な点はこのコメントの通りで子供を引き取らねーゴミクズが出る事だよ
曰く障害児だった、曰く精子提供者のような金髪碧眼ではなかった、曰く男児/女児は育てたくないから引き取り拒否
曰く10ヶ月の間に離婚した、曰く育ててみたら発達障害だったので返品する、曰く、曰く
あ?法律?国を跨いだ代理母ビジネスにどうやって法の網と執行機関が手を出せると?
b:id:kerokimu 代理出産じゃなくて人工子宮で出産できるまでテクノロジーが進んでほしい。
人口子宮なんてなんの解決にもならねーーーよ!!初めに思いつくコメントがこれかよ!
それにスター集めてるお前らも同罪だ、まじではてな村のやつらはクソバカ揃いか!
こうやってスター集めてるコメント見てるだけでよくわかる、女性は無謬でもなきゃ無辜でもねえよ原罪抱えすぎだお前ら
赤ん坊だけはどうやったって無謬で無辜だがな、その事に言及しているコメントの少なさを見ると
本当ブクマカは自分本位でクソしかいねえ、おいそこで聳え立つ一本グソども、地球のために今から10分間地球の空気吸うのやめてくれまじで
b:id:Hate6752na774 当事者間できちんと了解が取れてるんなら良いのでは。他人がオキモチであーだこーだ言うことでもないと思う。
ブクマカってこういう、子供の事を何も考えれないくせに「ぼくちゃんは中立の立場とれてすごいでちゅぅぅぅぅぅぅ」って自己評価してるウンコ野郎は夫婦別姓の時にもたくさんいるね
お前らは聳え立つこともできないヘタレグソだな
まず全体的な所感ですが、性的指向(セクシュアル・オリエンテーション)と"ふるまう性"(ジェンダー・エクスプレッション)の議論を混同されているように思います。フィクトセクシュアルという言葉自体が新興的なもので、まだなかなか定義の定まらないものですが、おそらくは性的指向に近い概念を指す言葉ではあるのでしょう。そこには実際のところ多様なあり方が共存しているものだとは思います。ただ、ここで私が述べたかったのは、フィクトセクシュアル(として概ね括れる文化圏)の人々が持つ、"ふるまう性"に関する独特の文化のことです。
「アバターの格好を否定されたら、主体性を持って自分のあり方を選択した中の人が悲しむ」
こんな風に言っているブックマーカーがかなり多く、いた。それはフィクトセクシャル的な分離の考え方ではありえない判断ですよね?
これは全く誤解していると言わざるを得ません。むしろ、「アバターの格好を否定されたら、主体性を持って自分のあり方を選択した中の人が悲しむ」という言説こそがまさに、フィクトセクシュアル的な"ふるまう性"のあり方に即したものであると私は思います。フィクトセクシュアルの性のあり方は、単なる「分離」とは異なると思います。私はしばしば「漂白」という言葉を使います。私が以前に書いたエントリが参考になるかもしれません。→anond:20210925104708)
Vチューバを採用する問題と、職場の水着ポスターの問題は、前者が「私たちの論理」で後者が対人性愛者の論理で捉えられるべき範疇にある。現実の水着ポスターの問題を解決した対人性愛者の論理を空想のキャラクターに当たり前のように適用するのはフェアじゃない。そうして生じた問題はそもそも、野蛮さも危険さもないVチューバとしての自己表現を歓迎するフィクトセクシャルの常識では起こらないのだ。
「私たちの論理」も、対人性愛者の論理も、適用可能範囲自体には特に制限はありません。私が言いたいのは、その論理が「誰のためのものか」ということです。「AかつBが原因」であるとき、「Aを排除すれば、Bだけでは問題は起こらないのだから、Aこそが真の原因である」と強弁するのは、Bにとっては非常に都合の良い論理でしょう。しかし、Aの立場からすれば「Bを排除すれば、Aだけでは問題は起こらないのだから、Bこそが真の原因である」と強弁することも可能なはずです。そこをフェアに議論して欲しいと言っているのです。
ならば、「助かる」はどうなる。
そこはまず、私が既に述べている
とした議論の射程範囲でもありますが、全く擁護できないわけでもありません。くしゃみやせきに関しては基本的に「忌避すべきもの」という慣わしがあり、「うっかりミュートできなかった」場合には配信者側が謝るということもしばしばありました。(今もあると思います。)それに対して、「気にしないで」という意味で「助かる」という言葉をかける人も大勢いると思います。そこは一概に括れないところだと思います。
そのような話ではありません。「問題を起こすのは対人性愛者なのだから、非対人性愛者に迷惑をかけない範囲で、対人性愛者同士で解決する」のが筋ではありませんか?有無を言わさず巻き込まれることになる、本来は無関係である非対人性愛者の声を「些末なもの」として排除することを、「必要悪」として肯定することをやめてほしいのです。
取り急ぎ追記するが、排除とか多様性とか言っている人がいるが、では職場や居酒屋から水着のグラビアポスターがなぜなくなったのか教えてもらいたい。あれははてブでもセクハラだとして、なくなったことを喜ぶ声が大半だった筈だ。
さらには「私作る人、僕食べる人」以降、「ブレンディ 卒牛式」「志布志市 うな子」「サントリー コックゥ~ん!」「アフロヘア黒人女性 ツヤッツヤのサラッサラになりたい」「リカちゃん 個人情報暴露」など不適切として取り消された広告はいくつもあるのだが、それらは一切取り消す必要はなかったという認識で良いだろうか。もちろん今回の「仕事は、楽しみですか」も含む
それら全てが、本件とは全く問題が異なる事例ですね。(これらはこれらで個別に論点が異なりますが。)
私はこれらに全く興味が無いので、肯定的でも否定的でも、そちらは勝手に論じてくれれば良いと思います。
フィクトセクシュアルという言葉が社会学の論文に現れるようになったのも最近の話ですし、フィクションやキャラクターを性的対象としたり、イラスト・創作表現やアバターを介してファッションやジェンダー・エクスプレッションを表現する人々が確かに存在するということが発見されたのは、つい最近のことなんですよね。
それまでの間、私たちの存在はずっと周縁化され続けてきたわけです。対人性愛者の、対人性愛者による、対人性愛者のための論理によって、一方的かつ不当に断罪され続けてきたわけです。
私はフィクトセクシュアルですが、私にとって「私はフィクトセクシュアルである」というアイデンティティの中心は、「二次元キャラクターを性的対象としている」ことよりも、むしろ「人間を性的対象としない」ところにあります。空想のキャラクターを人間の人格と同様、あるいはそこに紐付ける論理、バーチャルなアバターを物理的な身体と同様、あるいはそこに紐付ける論理は、対人性愛を自明視した論理でしかありません。私たちは、キャラクターがキャラクターだから性的対象とできるし、アバターがアバターだからファッションとして消費できるのです。あなた方対人性愛者とは、全く異なる常識、文化圏に生きていることをまずは認めてください。「私たちの論理」を尊重してください。
そして、「私たちの論理」は、必ずしも、私のように対人性愛を一切持たないフィクトセクシュアルのみが共有しているものでもないでしょう。セクシュアリティはスペクトラム状の広がりを持ちます。実際のところ、譬えばバイセクシュアルのように、対人性愛と二次元性愛を両立させている人が大半でしょう。しかし、彼らがキャラクターやアバターを消費する時もまた、「私たちの論理」に即した消費が行われているように私には見えます。対人性愛者の論理と、「私たちの論理」が、ある程度適切に使い分けられているように見えます。(完全に無垢無謬とまでは言いませんが。)
あの程度の表現が、許容できないほどに「性犯罪を誘発する」「ジェンダーバイアスを強化する」と言うならば、「異性と結婚する」ことや「自身のジェンダー・アイデンティティに一致する服装・メイク」などの方が、よほど「性犯罪を誘発」し「ジェンダーバイアスを強化」するでしょう。このようなミラーリングは、先程述べたようなスペクトラムにいる人々にも受け入れ難いもののようですが。
対人性愛者の論理と、「私たちの論理」の使い分けは、時に未熟なこともあるかもしれません。だからと言って、その責任を私たちに押し付けるのはいい加減やめてください。「対人性愛者の論理に一括すれば、問題は起こらない」と、民族浄化しようとするのをやめてください。「私たちの論理」に一括するのではいけないのですか?野蛮で危険な対人性愛を一刻も早く卒業して、誰もがキャラクターのみをパートナーとし、誰もがアバターのみで自己表現を行うようになればいいと私は思います。「(俺たちの)常識に合わせろ」と言うなら、逆に、「私たちの常識」に合わせてくれてもよいのではないですか?