はてなキーワード: 無垢とは
彼女は若い頃に、妻子ある男と付き合っていた。つまり不倫だ。「すぐに妻とは離婚するから、一緒になろうね」などと吹き込まれながら甘い時間を過ごしていたようだが、そんな計画は永遠に実行されなかった。
そして、10年くらいの月日が経ってようやく結婚した。相手は会社の同僚。親族、友人みんな泣いていたが、俺はこの女は一つの家庭を破滅させようとしてたんだよなと考えるとどうしても乗れなかった。
彼女に説教するつもりは毛頭ないが、ただただ不思議なのだ。なぜ、そんな純真無垢な顔をし続けられるのか。俺が知らないだけでそれ相応のペナルティを払って清算が完了したからなのか、生まれ持っての厚顔なのか。ちなみに彼女は外見や友人に向ける態度からは不倫をしたことがあるようには見えないため、我々サイドの誰かが密告しない限り新郎側の人間は絶対に気づかない。
ネタバレしてる
映画を鑑賞したのはだいぶ前。原作者と監督のアフタートークがセットになってたやつ。
今は本編はDICE+というサイトでレンタル配信中らしい。トークはここから動画と書き起こしが読める。
https://diceplus.online/feature/94
映画見た後に原作小説読んだけどけっこ〜違うのね!ってなった。
原作は平山夢明『独白するユニバーサル横メルカトル』収録の短編小説「無垢の祈り」
とにかくインパクトが凄まじかった。虐待のシーンは全面的に恐ろしく、特に性的虐待のシーンは人形を使っているとはいえ気持ち悪い。曇りしかない世界には陰鬱な雰囲気が漂っていて、どこにも救いが見い出せない。音楽も雰囲気作りもクオリティが高く、90分があっと言う間だった。
スラッシャー映画における「殺人鬼」はある種のかっこよさを備えている。悪魔のいけにえのレザーフェイスしかり、エルム街の悪夢のフレディしかり。バッタバッタと人を殺していく様はワクワクとドキドキを呼び起こすし、時には「嫌いな奴を殺してくれる/自分を殺してくれる」存在として胸を躍らせることもある。
あらすじを読んだ時にはそういう文脈の、「殺人鬼に嫌いな奴を殺してほしい/自分が殺されたい」という祈りとそれが叶う展開を想像していた。ちなみにざっくり言うと映画の祈りは「自分を殺して欲しい」がメインで原作の祈りは「嫌いな奴を殺して欲しい」がメインだと思う。
でもこの映画には救いがなかった。最後の「殺してください」の絶叫、殺人鬼が握りしめる鉈から、画面に映されてはいないものの殺人鬼は少女を殺してあげたんだ、救いはあったんだ、と思いたくなる。だけど恐らくこの作品は時系列をごちゃまぜにしている。着けたり外したりする眼帯、西暦の違うラジオと謎の首吊り現場、すれ違う2人などを考えるに、祈りは届いていないし救いはなかった。
時系列はどう考えても良いと監督が言ったらしいが、恐らく殺人鬼に殺してもらえなかった主人公は犯罪者になって殺人鬼の死刑と同時に首吊り自殺?してると認識した。一度見ただけなので間違ってるかもだけど。ここらへんの徹底的な救いのなさが、原作と一番異なる部分だ。
なんとなくだけど、短編集の一連のテーマ、書かれているものは「グロテスクな閉鎖空間でうつくしく光る小さな何か」だと思った。
ざっくり言うと映画は児童虐待下にある少女の状況を深く掘り下げるのがメインで(もちろん暴力を受ける子供をただ写すだけではない前提で)、原作は酷い状況下にもどこかにある輝くもの(この場合は祈ることそのものや救いへの希望)を表現するのがメインなんじゃないか。
あと、映画で刑事役をした原作者が改変に積極的に見えた。刑事の台詞が原作とは正反対だから。原作の刑事は「ああいう人間は誰かがそばにいてやらなくちゃいけない。/本人も苦しんでいるはずだ」と言っているが、映画では「キチガイは早く捕まえないと繰り返す」である。
かなりニュアンスが違うし、刑事にとって殺人鬼が単なる悪なのか助けるべき者なのかは作品のテーマに大きく関わってくるはず。個人的には原作と映画でやろうとしていることが違う、のを原作者が分かっていて台詞を変えたと思う。
そもそも主人公(虐待といじめを受けてる少女)の性格や考え方からして違う。
原作は殺人鬼が喋るし救いとして機能してるし主人公も未来に希望を持っているけど、映画は殺人鬼に対する祈りを「嫌なやつを殺して欲しい」から「自分を殺して欲しい」に変えてる上に殺人鬼が救ってくれない、主人公も希望を持ってないので後味がキツくなったし「胸糞悪い」と言われているんだろう。
「救い」という意味では、例え原作で主人公がこの先幸せになれずに死んでも、人生の内に優しく手を差し伸べてくれた人は確かにいたんだ、ということが「救い」になる。トークショーでの原作者コメント「たった一人でも理解者がいれば」も合わせて考えるとおかしくない。
それに原作は、社会から排除され、必要とされてない者同士が互いを必要とすることによって生きる目的になる、そういう希望がある終わりだった。
原作ファンはこの映画版を見てどんな感想持ったのかすごく知りたい。
〜
何と言うか…日頃の行いやろなあ、としか。
中学三年生でカラオケか雀荘か漫喫でオールするんやろ?そこに至るまでに、親もニコニコで「あなたの好きなようにやりなさい」ってしてたわけじゃないだろうに。
さんざんぶつかって、親を騙して、「もうこいつはそういう奴やししゃーない。」ってなってるうえでの中学三年生なわけよ。
目の前の無垢な赤ちゃんとは全然違う。自分をさんざん裏切り、嘘をついてきた相手なわけで。そいつを信じろっていうのは無理がある。
そして「だって人間ってウソつくし。」と言って自分のウソは許容するのに、後輩のウソは許容しない偏狭さ。ワルを気取るなら「次はもっとうまくやろうぜ」くらい言えないものか。
事態が収束した後に謝罪しない親を責める声があったが、こんなやつに謝罪したらつけ上がること間違いなしだよ。
親は良くがんばったと思う。
ジャニーズ事務所所属のタレントたちが11日、同事務所のジャニー喜多川社長が9日に87歳で亡くなったことについてファクスでコメントを寄せた。
「ジャニーさんへ この世の中にある すべての言葉と想いで綴っても 僕の胸の中は伝えることが出来ないよ あなたが命尽きるまでの 最後の最後までの時間を使って
出逢ったすべての人へと宛てた 無垢な愛に胸が熱くなったよ これからは 住む世界が変わってしまうけれど あなたが想えば… 僕が想えば… いつだって繋がれるよ
あなたが その命の色彩を惜しみなく 捧げてくれたことを いつまでも抱き締めて生きていくよ 涙は流さずにこの体と心へと彩って あなたを愛しているという
「生き辛さを抱えている人への応援」としてパッケージングされ、製作者からもそのように作ったと付記されたとある作品に触れた。社会が求める"普通"とのずれに思い悩む主人公の描写は真に迫るものがあった。『寛容のパラドックス』を用いて怜悧かつ明快に"世間"に迎合できない人間の存在を肯定していた。ああ、確かにこの作品は"普通"になれない人間に寄り添ってくれる作品なのだと、この作品を生み出すことのできた時代の流れと共に感嘆を覚えた。
しかし、結果として主人公が自らの居場所を見つけ、生き辛さを抱えながらも人生を歩み続けると決めることのできた要因に『無自覚ながらも生まれつきの愛らしい容姿を持ち、ひたむきで庇護欲をそそる無垢な若い女性であったから』が含まれていたことで急に突き放された気分となり、戻って来れないまま作品は幕を閉じた。まあ理解はできる。人を応援する為に描かれた物語の中くらいはハッピーエンドだっていいじゃないか、と思う。それでも、正直納得は出来なかった。結局、寄り添ってくれた訳じゃないのか、と勝手に期待して勝手に裏切られた気分になった。
インターネット上の感想には「勇気を貰えた」「感動した」との文字列が並んでいる"傑作"に対し、こんな事しか感じられない自分の貧困な感性が心底疎ましく思った。ありもしない他意を深読みしてしまうほど精神的に疲弊しているのかな、とも思った。「生き辛さを抱えている人への応援」すら素直に受け取れない人間は自身をどう癒せばいいのかの答えなど出るはずも無かったが。
○ご飯
朝:なし。昼:玉ねぎ炒め。焼きそば。夜:だし豆腐納豆。ピーマンとシメジと玉ねぎのスープ。魚肉ソーセージ。ブルーベリーヨーグルト。間食:オーザック。豆菓子。ハチミツ味のポテチ。ばかうけ。(お菓子食べ過ぎ)
○調子
まあ休日だし許して欲しい。いや内臓に休日の概念はないし、許してくれないのだけれど。
・はじめに
陰気で友達が少ない女子高生のスバルと、その数少ない友人で正反対な陽気な性格のミスカの友情と断言しがたい歪な関係が、お人形さんの様と評される美少女転校生ルウの登場で変化していく様を楽しむノベルゲーム。
だけでなく、混沌が蔓延ってきて日常を侵略するホラー要素もあるのだけど、そちらは元ネタありきの展開が多くそういうものとしてふんわりとしか理解できる読んだので感想が特にないためこの一行以降はふれないことにする。
学校という閉じた人間関係と、思春期らしい自己の有りように悩む様とが、ある場面では丁寧に、別の場面では幻想的に描かれていて、この二点が文量の多くを占めている。
甘い恋愛的なイチャイチャする読んでいて楽しい気分になるシーンよりも、関係性に悩み他人を気遣うがあまり自傷的に自己言及を繰り返す辛くて悲しいエピソードが多め。
そんなこと一人で考えても答えは出ないし一生悩んだり楽観的になったりを繰り返すしかないよ、と大人になった今でこそ思うものの、自己と他者の関係性の有り様を悩む様は読んでていて共感する場面が多かった。
そんな辛い中でも食事のシーンは彼女達の悩みも何処へやらで舌鼓を打ってくれるので、夕飯の時間が待ち遠しくなったりもした。
陽気で友人が多く、テストの成績こそ悪いものの教師からの覚えもよく、容姿も可愛いと褒められ、前向きで良い子なミスカ。
しかし、スバルの方はミスカから向けられる好意を素直に受け止めない。
それどころか、些細な表現や物言いをどんどん悪意を膨らませてしまうスバルの生き方は苦しそうだった。
ミスカの一人称と、スバルの一人称を行き来することになるのだけれど、二人はすれ違い続ける。
ミスカは衒いがあるわけでなく、本当にただの根明で、楽しいことが好きなだけの普通の子。
ところがスバルはどこからでも悪意を見つけ、彼女の好意を受け取ろうとしない。
この関係値の噛み合わなさは読んでいて本当に辛かった。
ミスカが友情でなく恋愛としても惹かれていて、その理由もスバルの言う悪意のあるものでないにも関わらず、それが本当に一切伝わらない。
誕生日にケーキをご馳走するという、善意100しか考えられない行為ですら、スバルは穿ったものの見方をし、ミスカからの気持ちを真っ直ぐ受け止めない。
ペットボトルの回し飲みでミスカが間接キスにドキドキするも、スバルは喉が渇いたとしか思っていないシーンなんかは、もう読んでて可哀想だった。
空回りするミスカの好意が、物語的な意味でも何も前進させないのも読んでいてしんどかった。
献身的にスバルに尽くすミスカと、自分の内面世界のことでいっぱいなスバルのすれ違い。
スバルが素直になれば、開幕5分でハッピーエンドまっしぐらなぐらい、ミスカの好きは真っ直ぐで一貫してるのがもどかしい。
そして何よりスバルの素直な気持ちはミスカではなく、転校生のルウに向けられてしまう。
そんな端的に言ってしまうと性格が悪いスバルが、海外から転校してきたルウと交流することで変わっていく。
ルウは箸の使い方を知らず、麻婆豆腐や唐揚げやメロンパンを食べたことがない程に無垢な存在。
危うげというわけではなく思慮深いのだが、学校という枠組みからは大きく外れたような物言いもする。
そんな無垢さがスバルの悪意増幅センサーを回避するのか、ミスカからの好意を悪意に変換し距離を置こうとしていたのとは対象的に、ルウとはドンドン距離を詰める。
ミスカの好意が一方的なものだったのに対して、スバルの好意はルウに受け止められ、スバルとルウはドンドンと関係を深めていく。
ルウの方も、スバルのことを深く知りたい、会話したいと甘えるように距離を詰める。
手繋ぎデート、夕飯を一緒に作るなどの高校生らしいそれもあれば、添い寝や過激なスキンシップなどもあり、CERO Cとしてはそれなりに攻めたシーンも。
ルウとスバルがイチャイチャすればイチャイチャするほどに、ミスカは空回り続ける。
こうなっても客観的にはミスカはオカシイことをするわけではなく、ひたすらに良い子なのが可哀想さが増す。
ミスカは僕が先に好きになったのにと反転するでもなく、転校生の面倒を見れるスバルの成長を喜ぶ良い子なのだ。
ミスカからの好意は悪意に変換するのに、ルウからの好意はそのまま受け止めるのか。
ということは、スバルの精神世界を幻想的に描くシーンで抽象的に描かれる。
まだ人権の概念が無く子供を産むことだけが女性の価値であった時代を生きていたとある女性のエピソード、他人がおらず四季の移ろいをただ楽しむだけの世界などの、夢のエピソードと共にスバルの内面がゆっくりと掘り起こされていく。
一人で無限に牛乳と果実を食べ続ける生活が示唆するスバルの本音は、納得できるところもあったが、だからと言ってミスカの可哀想な空回りが救われるわけではない。
ここが本作の賛否別れる大きな箇所だろう。
スバルにはスバルなりの理由があるとはいえ、ミスカの気持ちはどうにもならないのは、正直僕はあまり好みではなかった。
あんなにも根っからスバルのことが好きで純粋にそのために良いことだけをして来たミスカが、フラれるとか、恋愛対象として見れないとかじゃなく、嫌われるのは、辛い。
ただこのミスカの好意の空回りの先が知りたい気持ちの牽引力は凄く、楽しいとか面白いではない、マイナス方面の感情で読ませる物語はよく出来ていた。
・さいごに
スバルを好きだけど見向きもされないミスカの空回りと、スバルとルウのイチャイチャという三角形の一辺が欠けた歪な関係に着目して感想を書いた。
ミスカの一人称ではスバルのことが大好きで一生懸命善意で良いことをする前向きさが、
ルウの無垢さに惚れていく展開は、辛いけど読み進める手が止まらなかった。
ミステリやコメディといったわかりやすいハッピーエンドが好きなので、好みとは大きく異なっていたが、終わってみるとコレはコレで好きな作品だった。