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はてなキーワード: 付言とは

2014-06-09

悪い意味での「統治者目線」について

先日、このようなブックマークコメントを見かけた。

D_Amon 被害者が被害の声をあげること自体への反感は見慣れた風景ではある。公害でも戦争犯罪でも出自差別でも。その反感は自らを加害の主体側に置いての責任逃れ思想によるのではないかとも思う。悪い意味で「統治者目線

http://b.hatena.ne.jp/D_Amon/20140608#bookmark-198655330

私自身、彼のいう「悪い意味」での「統治者目線」を感じる機会は多く、この指摘に直観的には同意したく思う。

一方で気にかかるのは、民主政における治者と被治者の自同性である

民主主義採用する日本において、我々は「統治される者(被統治者)」であると同時に「統治する者(統治者)」でもある。

そうであるとすれば、我々は「被統治者目線」と同時に「統治者目線」も持たねばならないことになる。

もちろんid:D_Amonもそのことは認識しており、だからこそ「悪い意味で」という限定をつけたのだろう。

そして、その「悪い意味」での「統治者目線」の内容として、「自らを加害の主体側に置いての責任逃れ思想」と規定しているものだと私は理解した。

このうち「自らを加害の主体側に置」くことは、悪いことではない、というよりはむしろ当然そうすべきことなのだろうと思う。

なぜならば、我々は「統治者である以上、常に加害の主体側であって、望むと望まざるとにかかわらずその立場から逃れることはできないからだ。

そうすると、問題は残る「責任逃れ思想」にあるということになるが、これがいまひとつよく分からない。

いったいどのような態度が「責任逃れ思想」として批判されるべきであるのだろうか。

たとえば、経済的合理性観点から弱者や少数者の要望を拒絶するような場合要望の内容によることはもちろんであるが、ときにはそれがやむを得ず、正「統」性が認められるということも十分に考えられるだろう。

そうした場合に、要望を拒絶する見解を主張する者を、それだけで「責任逃れ思想であるとして批判することはできまい。

その見解の根拠が「責任逃れ思想」に基づくものであることは、少なくとも主張そのものの上には現れてはいないからだ。

他方で、要望を拒絶するにとどまらず、要望を出す者を非難する程度にまで至った場合、それは「責任逃れ思想」に基づくものであることが強く疑われるように思う。

それは、要望を容れられない自己責任を、要望を出す者に転嫁しようとする態度であるからだ。

しかし、このように解するならば、それは結局「表現の問題」「言い方が悪い」という議論に収斂してしまうことになりはしないか。

我々は、下手に弱者・少数者を非難せず、淡々と彼らの要望を拒絶し続けていれば、それによって「責任逃れ思想」を免れることになるのだろうか。

もちろん理論上はそうではない。「責任逃れ思想」は内面の問題である以上、究極的には外形上一切の瑕疵がなくとも問題となり得る。

しかし、我々は他人の内面を直接観察することはできないから、外形的な徴表からそれを推知するよりない。

現実的な批判方法としては、ある者の態度等、客観的に観察可能な事実を捉えて、「責任逃れ思想」であり「悪い意味」で「統治者目線であるという論理構成を採らざるを得ないのである

こうした前提をふまえたうえで、「責任逃れ思想」、「悪い意味」で「統治者目線」として批判されるべき態度は、「要望者に対する非難」に限られるのだろうか、限られないとすればどのような態度が「責任逃れ思想」、「悪い意味」で「統治者目線」として批判されるべきであるのか、というのが私の問いである。

前者の問いに対する答え自体は、明らかに否であろうと思う。「統治者目線」の議論は単なる表現上の論点に落としこむべきものではないし、批判されるべき態度についてのいくつかの具体例ならば私にもおそらく挙げることが可能である

しかし、否であるとしてではいかなる態度が「責任逃れ思想」、「悪い意味」での「統治者目線」に該当するかという後者の問いに対して、一般的な判断基準を提示することは、少なくとも私には片手間にこなせる仕事ではないし、これまでのはてなにおける議論を見ていてもこの点については十分に考えが深められておらず、未だ適切な判断基準は示されていないように思える。

そこで、この点について、D_Amonをはじめとする諸賢に示唆を頂戴したく、こうして記事を書いた次第である




増田からはおそらくコールが飛ばないと思うので、セルクマの上コールさせていただく。

なお、私は増田以外のはてなのサービスを利用しておらず、このセルクマが初ブックマークとなるが、m8138761718z80-deainfoが私のメインアカウントであり、いわゆるサブアカからの闇討ちの類ではないことを付言しておく。

2014-05-26

就寝前にトラックバックを確認して

わず嘆息。

不適切な考え方であることは百も承知のうえで、

これはやはり日本国語教育が私の考えている以上に

機能していないということかもしれない、

との思いを禁じ得なかった。

http://anond.hatelabo.jp/20140525234507

http://anond.hatelabo.jp/20140525235001

まず前者について。

意見を言いたい、という名のものとに誹謗中傷を繰り返す御仁wwww

本文では触れなかった(正確にはあまり自明と思い「人格批判云々については論じるまでもなかろう。」と述べるにとどめた)が、

他者意見の否定や批判が直ちに誹謗中傷となると解することは民主主義の否定であり、

我が国の社会においては一般にとられていない考え方である、ということは、

本文を読んでいれば当然分かるはずのことである

後者について。

ということを匿名の場でかく卑怯

私は実名匿名論争などしていないので、関連性がない。

あの本文を読んでこの感想が出てくるということが理解しがたい。

なお、実名匿名論争との絡みで言うと、

件の記事のブログ主は、自らの実名は明かさない(tyokorataというidを用いる)一方で、

投書者の氏名が分かる形で投書の全文の画像をアップしていることを付言しておく。




蛇足ながら。上記のとおり件の記事は投書の全文の画像をアップしているため、

引用の範囲を超えているものと思われ、著作権上も問題が大きい。

2014-02-04

http://anond.hatelabo.jp/20140204162500

本当にLisperなんだったら静的型付言語で書くと圧倒的に煩雑になるけど、Lispならサクっと書ける例を見せてみな

2013-12-16

酔客の転落とタクシー運転手の救護義務についての交通整理

“自らドア開け転落”の車内映像、タクシー客が転落後ひかれ死亡(TBS系(JNN)) - Yahoo!ニュース

某県某市で、7X歳の男性タクシーから転落し、その後、ひき逃げされ死亡した事件で、タクシーの車内映像には、男性が自らドアを開け、車外に落ちる様子が映っていました。

(略)

警察はこの事故で、タクシーを運転していたA容疑者が、Vさんに気づかず、救助処置を怠ったとして逮捕しました。警察によりますと、Vさんは酒を飲んだ帰りで、A容疑者は「気がついたらお客さんがいなかった」と容疑を否認しているということです。

(※引用者におい匿名化した。)

道路交通法

交通事故場合の措置)

第七十二条  交通事故があつたときは、当該交通事故に係る車両等の運転者その他の乗務員(以下この節において「運転者等」という。)は、直ちに車両等の運転を停止して、負傷者を救護し、道路における危険を防止する等必要な措置を講じなければならない。この場合おいて、当該車両等の運転者(運転者が死亡し、又は負傷したためやむを得ないときは、その他の乗務員。以下次項において同じ。)は、警察官現場にいるときは当該警察官に、警察官現場にいないとき直ちに最寄りの警察署派出所又は駐在所を含む。以下次項において同じ。)の警察官に当該交通事故が発生した日時及び場所、当該交通事故における死傷者の数及び負傷者の負傷の程度並びに損壊した物及びその損壊の程度、当該交通事故に係る車両等の積載物並びに当該交通事故について講じた措置を報告しなければならない。

(2〜4項 略)

第百十七条  車両等(軽車両を除く。以下この項において同じ。)の運転者が、当該車両等の交通による人の死傷があつた場合おいて、第七十二条交通事故場合の措置)第一項前段の規定違反したときは、五年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。

(2項 略)

交通事故」の定義は下記の通り。要するに (1)人の死傷若しくは物の損壊という結果が発生し,(2)それが車両等の交通によること,が,要件となる。

道路交通法

危険防止の措置)

第六十七条

(1項 略)

2  前項に定めるもののほか、警察官は、車両等の運転者が車両等の運転に関しこの法律(第六十四条、第六十五条第一項、第六十六条、第七十一条の四第三項から第六項まで並びに第八十五条第五項及び第六項を除く。)若しくはこの法律に基づく命令の規定若しくはこの法律規定に基づく処分に違反し、又は車両等の交通による人の死傷若しくは物の損壊(以下「交通事故」という。)を起こした場合おいて、当該車両等の運転者に引き続き当該車両等を運転させることができるかどうかを確認するため必要があると認めるときは、当該車両等の運転者に対し、第九十二条第一項の運転免許証又は第百七条の二の国際運転免許証若しくは外国運転免許証の提示を求めることができる。

(3,4項 略)

高速道路を走行中に70代の酔客という運動能力の優れない者が車外に転落すれば,十中八九,怪我したと言えるように思われる。

そして,この怪我は高速走行という「車両等の交通」があって初めて生じるものであることからすれば,「車両等の交通による」と言えるように思われる。

(他方,後続車に轢かれたことによる死傷結果については,因果関係が切断されるであろう。)

(なお,これはあくまで救護義務発生の前提の話をしているのであって,Aが上記交通事故それ自体について刑事責任を負うという話ではない。)

 

もっとも,故意刑法38条1項)が無ければ犯罪は成立しない。記事に「容疑者は『気がついたらお客さんがいなかった』と容疑を否認している」とあるのは,故意の否認を言うものと考えられる。(あるいは,交通事故認識が救護義務発生の前提となると考えれば,故意主観的構成要件または責任)ではなく救護義務客観的構成要件)の問題とも捉えうる。いずれにせよ,交通事故発生(≒V転落)についてのAの認識の有無が問題となる。)

これを本件について見るに,Vの転落直後にAが「大丈夫大丈夫?」と発問していることからすれば,AはVが転落した直後には転落を認識していなかったであろう。

もっとも,上記発問への応答が無かった時点(イメージとしては転落の10秒後頃か)に転落に気付いたならば,Aはその時点で救護措置を採らなければならなかった,とも考えられる。

他方,救護の余地のない時点で初めて気付いたのであれば,救護義務ないし故意が否定されよう。

 

ところで本件の警察の行動を論評する際に注意しなければならないのは,ドラレコ映像は,いつ,誰が入手したものか,という点である

逮捕前に捜査機関が入手していた場合には,逮捕必要は小さい。

これに対し,逮捕後に捜査機関が入手したとすれば,現時点で身柄を開放するかどうかはともかく,逮捕の時点では,逮捕必要はそれなりであろう。

さらに,捜査機関が入手しておらず,ただマスコミが独自に入手したのだとすれば,捜査機関としてはこの映像を入手するための捜査継続する必要があり,逮捕必要もそれなりであろう。

(ここで「小さい」「それなり」というのは,逮捕の当否に直結するものではない事を念のため付言しておく。)

2013-10-11

http://anond.hatelabo.jp/20131011004226

腐女子が作品を語るとき腐女子目線で話をし過ぎて何言っているのか(なぜ盛り上がっているのか)よくわからないという体験をしたことがある。

書いてある通り、腐女子界でのイベントやいざこざ・事件は、腐女子でない人でも知りたいor知っておきたい人は多くいるだろう。需要があるはずだ。

だがその時に、腐女子じゃない人に対してもわかるように、しっかり翻訳して話をしてほしい。

その作品に、なぜ萌えるのか?なぜそこにグッとくるのか?

どうせ腐じゃない人にはわからん!なんて姿勢は採らずに、丹念に解説いしてもらえれば、おもしれーなと思う。

それと腐女子一人称問題に付言しておくと、だいたい腐女子をみてると、一人称が「俺」に限らずなんか変なチョイスする傾向にあると思う。

中村桃子『〈性〉の日本語』(NHKブックス、2007)に「なぜ少女自分を「ぼく」とよぶのか」という文章がある。

高度経済成長期の女性人生の流れ、すなわち「こども」から専業主婦代表される「おとな(婦人)」へと進展する際に「○○ちゃん(自分名前一人称にする)」を用いるこどもから、「私(わたし、わたくし)」を用いるおとな(婦人)への、単線一人称のみが用意されている。しか人生多様化現代おいてはそう簡単にはいかない。子供でもなく、専業主婦代表される婦人でもない身分が発生する。少女などがそうだ。そうした既成の枠組みにとどまらない女性自己表現するためには、「私」ではダメなのだそうだ。だから「俺」や「うち」を用いる少女、男のような言葉遣いをする少女が現れるのだという。

ここから私が想像するに、一人称が「俺」とか「拙僧」とか変なのをチョイス(「私」以外をチョイス)するってのは、腐女子サブカルチャー担い手としての、一種の気概なのかと思う。

2013-06-25

炎上問題点をきちんと把握しよう

県議自殺を契機として、「炎上に加担した者は反省を」という声が上がっている。

これに対し「いや、県議の言動は批判されて当然」という反論が見られるが、これは問題の所在を見誤っている。

炎上の問題は多数が一人を吊るし上げるという構図にあるのであって、そこでなされている批判が妥当ものであるか否かはあまり関係がない。

自分一言いいたい」という欲求は自然ものだ。しかし批判を受ける側からすれば、一人からのそれと百人から一斉になされるそれとでは衝撃の度合いはまるで違う。そのことを自覚し、「これはわざわざコメントするほどのことか」を自問することが、大事なのだと思う。

特にはてブではスターによって先行のコメントに対する同意を示すことができる。わざわざコメントを残して袋叩きに加担しなくてすむケースは多いはずなのだから、おおいにスターを利用してもらいたい。


ただし今回の件に限るならば、公人に対する批判として公共の利害に関する面もあるため、炎上を問題視できるかどうかは微妙であると考えていることを付言しておく。

2013-03-23

つの時代ソフトウェア工学の話だよ

http://d.hatena.ne.jp/nowokay/20130322#1363969460

以下の記述のまとめ:

お前の言っているソフトウェア工学は今のソフトウェア工学じゃねえよ.

端的に言うとそんだけ.

で,本題.

まず,書いてる内容が古すぎて救いがたい.iPS細胞研究ノーベル賞取った現状で,「実験材料に受精卵を使う万能細胞研究なんて許されませんよ!」と主張されても,その何だ,困る,とかそういうの.

1999年、なにがあったかというと、XPエクストリーム・プログラミング入門という本が発行されたのです。リンク先は2版ですが、日本語版でも初版2000年12月になっています

ここからソフトウェア工学ガラガラ崩れた気がしています

で,何?2000年以降ソフトウェア工学が何も進んでないと主張したいの?

特に学術的にソフトウェア工学に触れたことはない

って最初に書いてあんのに,そこから崩れて何も出てきてないって主張はどっから出てきたの?自分が知らないことが分かってるのにドヤ顔提言とか大丈夫か?

しかし、結局統一設計手法は完成せず、UMLけが残りました。実際に使われているのはその一部です。CORBAも普及せず、WebプロトコルにあわせてSOAPが出てきたものの、結局単純なRESTが定着しました。XMLはいまは毛嫌いされています大成功したはずのオブジェクト指向も、Webアプリではうまく適用できませんでした。

から何だ.提案されても使いにくかったり,状況自体が変化したら無用になるに決まってる.まさかソフトウェア工学分野で提案された手法はどれだけ開発環境が変わっても生き延びていなければならない」とかい寝言じみた主張でもしたいのか?言語流行廃りがあるように,手法にも流行廃りはあるに決まってるだろ.

あとSOAPXMLに関しては,その衰退過程自体がよくある話すぎて話にならん.一番最初に厳格な重量級の様式が定められて,それをベース運用レベル考慮した軽量級の様式が定義されて駆動するってのはよくある話.言い換えると,学術から出てきた理論的に正しい手法が,産業界必要なところだけつまみ食いされる形で運用されるとか,サンプルは死ぬほどそこらじゅうに転がってねえか?

ああ,CORBAはまあ,うん,そのなんだ.アレはフォローできない.

実際のところ,UMLが残っただけで十分じゃねえの?最初に提案された時の理念さえブレてなければ,つまみ食いしたモノがはやってても提案者的には本望だろ.

そしてCMMもいま特に話題になることもありません。

今はCMMIだ.CMM2000年CMMI統合されてる.今更XPの本出してくるところといい,真面目に2000年より前で知識止まってんだな.

また、動的型付言語の普及も、ソフトウェア工学離れのひとつであると言う事ができるかもしれません。

はぁ?動的型付言語が普及したらなんでソフトウェア工学と離れんのよ?静的型付言語で使えて,動的型付で使えなくなる研究分野なんぞ,完全にソースコードに寄り添った研究だけじゃねえか.

「この手法C言語を対象としている」って書いてある研究は他の全ての言語には一切適用できないと主張してんのと一緒だ.はじめてのCあたりからやり直せ.

ここで、やはりCMMの失敗がソフトウェア工学にとっての痛手だったように見えます

もちろん、プロセスを規定することが難しいということは当時からも言われていました。それであるからCMMプロセスのものを規定するのではなく、プロセスの規定方法を規定するというメタプロセスになっていたのです。

そして、すべての組織で同じプロセス採用することはできないということから、5段階のレベルを設けました。また、プロセスは変化し続けなければいけないということからCMM成熟レベル5では「最適化している」という成熟度になっていました。

これはなかなかいいかもしれないということで、期待は大きかったと思います

でも、とにかく運用が大変だとか、CMM成熟レベル5でも品質いいわけじゃないとか、そういう話がきこえてくるようになりました。

まず失敗を定義しろ.で,失敗したってんなら,CMMIで未だに新たな認定がなされてる(http://cmmiinstitute.com/assets/presentations/2012SepCMMI.pdf)理由を説明しろ

で,運用が大変?当たり前だ.品質確保すんのに運用が楽とかあり得んだろ.従業員に好きにやらせてもアウトプットが高品質ならそもそもCMMIなんぞ必要無い.順序が逆だ.「CMM成熟レベル5でも品質いいわけじゃない」ってのも当然だ.アレは組織成熟度を評価する指標であって,中で働く人間能力を評価してるわけじゃない.というか流動すんのに評価なんぞできねえけど.

そもそも,CMMIレベル5ってのはおおむね高品質ものが出てくるだけで,人間が関わっている以上ある程度のばらつきは存在する.つーかさー,CMMIレベル5なら必ず高品質のモノが出てくるとか思ってんの?まさかまだ銀の弾丸存在を信じてんの?「ISO9001に準拠してればリコールなんて発生しない!」と思い込むくらい残念すぎねえか,その思考回路

ああ,「CMMI」じゃなくて本気で「CMM」の話をしてるんなら申し訳ない.もう無いんだからCMMの話を最近全く聞かないのは当然で,勘違いしても仕方ない.悪いもしくは古いのはアンタの頭だ.

そこにXPですよ。アジャイルですよ。

もともとソフトウェア工学に対しては「がっこーで現場しらない人が研究してる手法なんて使えない」のような声があったのですが、XPアジャイルによって「現場から生まれた手法のほうが使えるよねー」というのが決定的になりました。

前半は正しい.ソフトウェア工学最初からずっとその手の意見はあって,未だに言われてる.が,後半は話にならん.

真面目に聞くんだけど,アジャイルソフトウェア開発宣言に名前が入ってる17人のうち,何人知ってる?何人が開発寄りで,何人が研究寄りか分かる?まさかKent Beck1人を見て「アジャイル現場から!」とか寝言垂れて無いよな?そもそもKent Beckコンピュータサイエンス博士号持ってるし,開発寄りと主張していいのかどうかすら微妙なんだけど.

あとアジャイルも突発的に出てきたわけじゃなくて,プロトタイピングとかあの辺(とそれ以前)からの流れがあると思うんだけどなあ.

ソフトウェア工学が何を失敗しているかというと、その学問自体の認知度が低すぎることです。

ソフトウェア工学がどのような問題を扱う学問かが知られていない。どのような問題を扱う学問か知られていないので、その問題に直面している人がソフトウェア工学の成果を積極的には利用できない。

ああ,まあ,うん,認知の低さは同意します.

問題に直面してる人がソフトウェア工学の成果を積極的に利用できないうんぬんについては,最近の国際会議でもその辺を扱った研究が出てきてたりする.ICSE2012のDistingished paperのうちの1本がそんなん.Eclipse検索ツール使わずに,テキストエディタコピペしてCtrl+F使ってる人の話とか出てきてた覚えが.

ただ,ソフトウェア工学認知度なんぞどうでもいいと思うんだけどなあ,別に.そっから出てきたモノが使われさえしてりゃあ.ソフトウェア工学研究の成果が,それと分からずに使われてるんならそれ以上に望むべきモノは無いだろうに.「これがソフトウェア工学様の研究成果でござーい」と大上段に振りかぶって,「ありがたや」の言葉と共に使われることを望んでる研究者なんぞいねえだろ.

就職活動で「半年プログラムは覚えれるし専門は必要ない」のようなことを言われるという話があります。たしかアルゴリズムなど実装技術研究をしていた人をSIの開発現場で生かすのは難しいと思います。でも、ソフトウェア工学の専門知識は、半年で覚えれるものではないし、SIでの開発現場必要になるはずです。

うん,そうですね.だがそれを学術側を知ろうともしてない人間が言うな.

ソフトウェア開発がある限り、ソフトウェア工学必要なので、XPアジャイルを織り込んで再構築して、認知度を高めていってほしいなーと思います。再構築とかは他力本願になってしまうけど。

ソフトウェア工学を再構築しよう,という動きとしては http://semat.org/ あたりがあるのでそっち参照.

あとさー,そもそも論として,ソフトウェア工学研究内容を「現場」と「学術」に2分することが不可能だって分かってる?工学ってそういうもんだろ?その2分は「工学」と「理学」というレベルでは可能なのであって,既に工学カテゴライズされてるソフトウェア工学を分けるのは不可能だ.それくらいは語の定義レベルの話なんで,分かっててくれ,頼む.

まあ暇ならトップ会議であるところのICSEプログラムhttps://files.ifi.uzh.ch/icseweb/fileadmin/downloads/ICSE2012_conference_program.pdf)でも眺めてみて,ソフトウェア工学定義について悩んでみるのもいいかと思います

実際のところトピックは割と流動的.最近OSS周りが流行gitのおかげで開発者の行動とか取りやすくなってる関係もあって.

まりさー,なんでか知らんけど,この人の頭ん中では「ソフトウェア工学は静的型付言語を利用したウォーターフォール型開発でしか使えない」てことになってんだよな.

あと,なんか無理矢理にでもソフトウェア工学disりたくてしょうがないってことは分かった.

釣りにしても書いた人間の知識が足りる足りない以前のレベル過ぎて話にならん.

2013-03-10

動的言語」の本当の意味の分からない半可通は静的型付言語をつかえ

プロダクトマネージャーの親父がとおりますよ。

最近、型不要とか言っている半可通がいるけど

それを書いている人より、それを見て型不要とかを真に受ける連中のほうが心配なんだよね。

とりあえず99%の庶民は静的型付言語を使ったほうがいいよ。

昔とくらべて、使える敷居は低くなってきているけど、実際に

きちんとした教育を受けていない半可通が、動的言語がきちんと

使えこなせるわけないから。

一般庶民は

コンパイル時にきちんと型エラーにしてくれる「TypeSafe」な言語を使ったほうが幸せだし

遅延評価なんかの動作がきちんと理解できない、職業プログラマIT土方)は多いんだよ。

一般庶民がそれなりに、一定品質を確保するために、「TypeSafe」な言語必要なの。

教養として、動的言語勉強するのはいいよ。

だけど、普通仕事に使うのはやめとけ。ろくな品質にならないから。

2012-09-24

http://anond.hatelabo.jp/20120921000553

http://www8.cao.go.jp/koutu/taisaku/h17kou_haku/genkyo3.pdf

古いデータだが、30代男性であれば約98%は普免を所有している。所有していない者は2%内外である

割合として概ねこれに等しいのは以下のものである

 

学力偏差値30未満

身長159cm未満

●中卒

年収320万円未満

 

おのずと、どのような扱いを受けるか分かるであろう。

なお、「所持・不所持は0か1だから云々」「分布が云々」等の野暮なツッコミを真っ先に思いつく者のモテ具合も下から2%であろうことを付言しておく。

そういえば童貞率にも近いかもなー、この割合

2012-07-05

http://anond.hatelabo.jp/20120705160352

ニコニコ動画ランキング社会の一部でありながらIがmeとならずに垂れ流しになる場所で、恐らくそういった意味ランキング自体は別にI垂れ流しの状況でいいんじゃないか。ただ、その内容を見ていると、全体的な傾向としてmeであることに嫌気が差しているように見える。「傷を舐めあった結果化膿してる」=このままmeが放棄されてIに埋没すると「ぐずぐずとした破滅」を迎える=社会自体が(個人的に付言するとすれば「主体の上には」)成り立たなくなるのではないか=これってマズいんじゃないの?

ミード社会学に照らしてIとmeに置き換えてみたんですが、なんかちょっと違うような。一般論としても公共の場で鬱々としたことを言うなって感じですが、音楽という暗示効果のある媒体でそれが発信されて、しかもそれが(かなり熱気を持って)評価されているというのは、けっこう危ない状況だと思います。繰り返しになりますけど、meが放棄されてIに埋没する問題とか、そうやって社会的役割放棄している以上、社会総体コントロールしてる側のやりたい放題ってことにもなりますし。

ポスト現代の歌については、古典的なロック流行らないのはわかってるし、だからと言って今のままIを受け入れてmeを放棄するユートピア提供し続けると間違いなく「ぐずぐずとした破滅」を迎えることになるから、前代よりIに依った形で再びIをmeたらしめる作業が出来るほどの活力を生み出せるようなあり方って無いんですかね、という議論です。ponponponは私の持っているイメージに近いと思いました。こういうのがボカロ曲と同じ土俵(ありていに言えば無料でフルで聞ける状況)でもっと対等な状況になるといいんですけどね。ボカロ曲がIに埋没してるのと同じくらいその他の場所でmeたる活力を得るような曲が流行ってるわけでなし。

http://anond.hatelabo.jp/20120705072302

暴論だと仰るのは最もだし、世間的にその意見が大勢だろうとも思いますが、私はオーバースペックというのが本当に生理的ダメで、そういう背景を以って「歌にする必要は無い」と考えているので、この点については謝罪も撤回しません。他人の自己承認欲求を満たす、あるいは自身のそれを満たすためのプラットフォームに、音楽は明らかにオーバースペックだと思います

さらに、話を私の最初投稿で述べたミクロマクロの話に戻すのですが、私自身(当然)日本は変わらないし(てゆーか変えられないように歴史上できてるし)、もっと言えば日本は暫くの内に高度経済成長を成し遂げた歴々の偉人様方々の為に倒れると思ってます現代厭世観が少し具体像を持った感じです。マニュアルに沿ってれば自分人生は問題なく円滑に進むんだと学校で教えられました。実際に生活実感としてその通りだったし、あるいは今教育政策策定しているのはそれが大事だと思っている人々だから義務教育を修了している身としては当然の思想を持っていると思っています。だから、今ボカロ流行りの曲を作る人々は、公教育上大変優秀な産物だと思います。それがミクロな私の偽りない意見です。

ではマクロな私の偽りない意見は何かというと、それじゃマズいでしょ、というものです。一国が過去の人間の為に滅びるなんてマジでやってられないし、そんな歴史上の汚点を以って自分の国が滅びるなんてことになれば、全国に神社が建つぐらいの怨霊になる自信があります大事なのは今現状が改善されて何か変わることじゃなくて(そんなことありえないし)、今まさにその過去の人間に現代人間が飼い慣らされて下を向いてることで、どーせ倒れるんなら誇りの中で上を向いて倒れたいなーというものです。

それは当然ミクロ自分にも反映されてて、厭世的で近々日本は滅ぶと思ってるけど、別に日本が滅んでも自分は滅びないし、生きていたいと思うから、厭世的で前向きな曲が好きだし、マクロ自分としては、日本が生きにくいことと自分が生きていることは別の問題で、もっといろいろ無視して生きてほしいなぁと思います

結局、死んだら元も子もないし、それを歌にして発するってのは、どっちかってーと日本という国から美味い汁吸い続けて今まさに日本を枯れ木にしようとしている人々による印象操作ではないかとさえ思えます

あんまり文中にうまく表現できなかったので付言するしかないんですけど、この前向きに生きるってのは、従来のロックパンクのような「(よくない社会に対して)相対的に反発する」のではなくて「(社会が良くないのは最早仕方ない問題だけど、それでも自分自身は、自分のやりたいことに対して)絶対的に前向きである」といった意味合いで、結局’00年代辺りのロックポップなんかそうですけど、スキマスイッチゴールデンタイムラバーとかちょうどピンポイントでそんな感じじゃないかと思うんです。

こういうのがあまり供給されないのは、文脈の上では公教育批判とか作曲者の手抜きの指摘とかいう形で行われているとおりで、それが供給されて消費者が消費しないのは、現代厭世観の問題で、私や元増田は、それがミクロではなくマクロになっていることに問題意識を持っています

2011-10-01

トラウマについて

私は所謂嫌煙家であるタバコの煙、あまり好きではない。そして、出来れば煙から遠くに居たいと思う。

と書くと、愛煙家の方あるいはヒステリック禁煙を求めるような人の姿を思い浮かべてしまった方は、ありがちな自分意見発表だろうと思ってしまたかもしれない。だが、ここでの主題はタバコそのものにあるわけではなく、その背景だということを付言しておきたい。私はタバコを吸う事自体は、個人によりけりだと思っており、殊更に禁煙を求めるようなことを言いたいのではない。

むしろこの場で少し言いたいのは、人間の奥底に抑圧されているようなトラウマチックなものが見せる反応のことであるトラウマというとセンセーショナルなことを思い浮かべる諸氏もいらっしゃることと思うが、そんなものでもない。私の奥底にある、そして最近その存在にはっきりと気づき始めたトラウマというのは、あくまで大事件というものでもなく、日常の中ですこしずつ蓄積されていったものだ。人には、どうしても譲れなかったり、頭ではわかっていてもどうしても受け入れられないようなことがあるという経験を身をもってしたということをを理解していただきたい。

そのルーツは、やはり親なのだろう。上手くいかなかった時、親の仕事がはかどらない時、そこには、いつもタバコの煙があった。ただし、昔から普通の時も吸っていたので、特に悪い状況=タバコという思考回路が形成される積極的な理由には成り得ない。ただ、健康のためと禁煙しながらやっぱり吸ってしまい、そして家でぐうたらしながらタバコをくゆらせる姿が、この人生の中で記憶として残ってしまっている。そんな経験もあったので、私にとっては、タバコ堕落、怠慢の象徴に映るのである。かくして、私にタバコの臭いはそんな苦い思い出と共にこの頭にインプットされた。これが、私のトラウマの元ではある。

同じ体をこわすと言うか、体を削って快楽を求める依存性のある物質として、酒とタバコ本質的な違いは感じない。依存性の大きさとか、副煙流とかは私にとってはどうでもいい。だから、私は自他ともに認めるくらい酒を飲むときは飲むが、その原因はやっぱり普段のストレスだと思うし、普通に考えれば、意志の弱い私はこんな経験があれば結果としてタバコにも手を出しかねなかったのである

だが、現に私は人生これまで副煙流にあずかることも多く明らかに1本でも吸えばニコチン中毒になるであろう体を持ちながら、未だにタバコを吸ったことがない。むしろ、タバコを吸う姿を一瞥するだけで、こう体に虫酸が走るような感覚と言いようのない嫌悪感が込み上げてくるのである。これはもはや理屈ではない。

私にとって、これまでの人生での最大の敵は思春期以来怠惰であり、堕落である現在進行形で、自堕落さを戒め、低い位置に甘んずることはせず、茨の道ながら自分自分の道は開拓しなければと思いこれまでやってきた。だから怠惰ほど憎むこともない。私は、ほとんどのことに対して、許せるとは思うが、これだけは許すことはできない。理性からこう言うのではない。理性が働いていたら、これほどまでに激しい感情を持つこともあるまい。そう言えるくらいには、普段の自分はいたって感情を顕にすることもないし、それほどの激しい感情を持つこともない。

こうして、私の深層心理の奥に刻み込まれた、怠惰の象徴としてのタバコというのは、私にとって抑えがたきまでの嫌悪を呼び起こすのである。もはや、生理的ものであり、本能的なものであり、私の理性で抑えることもできない。これは、しょうがない。勘違いして欲しくないのは、繰り返しになるが個人の喫煙に関してあれやこれや言うつもりはないということであり、私が勝手にそう思ってしまうだけだという話がしたいのである。(もちろん自分に近い人々なら話は別である

要するに、このように人によっては、私のようなものよりはるかに激烈な記憶としてトラウマが蓄積されている場合もあるのである。この記憶が呼び起こされる感覚は、その人にしかからないものだし、ひどい例の場合パニックという形としてフラッシュバックされるのだろう。とにかく、こうして人には触れてはいけないポイントというのがある人もいる。それは他人にはもちろんわからいから、間違ってその人のトラウマに触れても極端な例でなければちょっと嫌な顔をされるものの許してはくれるだろう。しかし、「〇〇は絶対にいやだ」と言われたら、それは本当にダメものなのかもしれないということは配慮して欲しいと思うのである

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