はてなキーワード: キリトとは
「京アニは麻薬の売人」という発言は、たくさんの人の心に刺さったかもしれないが、理屈は通っているところもあるし、何よりどこかに実害がある話では全くない。同意しなくても「私はそう思わない」で済む話。
「かんぽがノルマかけまくって詐欺同然の大量契約」というのは、何十億という莫大な損害と、大量の被害者を全国で生んだ社会悪。被害者が高齢者である組織的構造的である点でも悪質で素早い対応が必要。「そんなこと今の世の中によくある」としても、それは「よくある悪」であるに過ぎず、看過できる問題ではない。組織的構造的な悪。
「事業仕分け」は、当時として必要なことであり、そもそも今も毎年「秋のレビュー」などの形で実施されている。にもかかわらず、「二位じゃだめなんですか」というセリフと共に(この発言も元の文脈を無視したキリトリ方をされているが)民主党の悪事のように扱われている。
「統計不正」は、国の政策の根幹に関わる不正であり、国家の根幹を揺るがす悪事である。官僚の一存で行ったのならば明らかに危険な行為だし、内閣の指示が入っているなら、明らかに総辞職し関係大臣が逮捕されてもおかしくない案件。内乱罪や外患誘致罪と同じく国家転覆に関わる犯罪だ。だが、メディアの追究も人々の関心もそこまででない。「今回の統計のごまかしは大したレベルのことではないから」と言う人は、物事の「質」というものを見失っているのではないか。国家の根幹を揺るがす行為は、未然防がれたとしても、その質それ自体が許されるものではない。
「ハムスターの虐待」について、5chの動物苦手板の廃止を訴えた署名活動をしている人がいるそうだ。確かに、例に挙げられているのは動物虐待動画だし、それが社会的によいものではないのは言う通りだろう。だが、問題はそこだろうか? 政治家を動かし、一民間掲示板の板を封鎖する、という事例を作るようなことをしたところで、こんな虐待をする人々の数は一人でも減るのだろうか? せいぜい、より見えにくい所に活動の場を移すだけで、こんな活動ただの自己満足に過ぎないのでは? と誰も指摘はしないのか。更に言えば、これが通れば同様の手法を用いて政治的な表現活動の弾圧などもたやすくできるような気がするのだが、そのことへの危惧はないのだろうか。
「外国人技能実習生の待遇問題」は、生きている人間に対する現在進行形の、しかも、この社会の根幹に関わる問題で誰にとっても無視できない問題であるわけだけど、ハムスターの運命に同情する多くの人々は、30万人にのぼる技能実習生の現状と運命にどのくらいの同情を寄せているのだろうか。
これが誰かの陰謀だ、とか言うつもりはない。前三つは「分かりやすい」悪であり、後三つは「少しむつかしい」悪だから、それが原因かもしれない。別に政権批判をしたいわけでもないし、現代社会論を唱えたいわけでもない。ただ「怒るポイントがおかしいんじゃないかなあ」と思うだけだ。そんなことにイライラする自分も「おかしい」部類に入るのかもしれないね。
13話までみた
アイドルものに昼ドラをぶち込んだロボットアニメと教えてくれた増田がいたが、その通りだな
そう思ってみると、「なんだこれ」感はだいぶ軽減されて「そういうものか」と思いながら見れた
しかし、巨人さんの内乱をランカちゃんの歌で鎮めるみたいなシーンは唐突すぎてびっくりした。流石にもうすこし伏線というか序章というか、何かこちら側に受け入れる準備をしてからああいうシーンを入れてほしい。
ランカちゃんは可愛いが、ポニテ男はイマイチ受け付けない。女性受けしそうな設定背負わせたラノベ主人公感は否めない。ポニテ男の後輩と同級生はどちらもなんか気持ち悪い。特に後輩はぶりぶりしてて無理。アレを受け入れられる人は素直に尊敬。
あと、シェリルかランカがピンチ→主人公男が助ける、のパターン多すぎ。そんなに要らない。飽きた。キリトくん的なウザさを感じ始めている。
歌はたしかにとても良い。ランカも可愛い。それ以外は要らなくね。SF世界を背景に歌で戦う女の子の話でいいじゃん。ロボとか飛行士とかゴジラみたいなのとか巨人とか、詰め込めすぎや。特に恋愛要素はセンスを感じないので抜いてほしい。
SAOのアニメを見ていて、ユージオが致命傷を負ったのになかなか息をひきとらなくてキリトとけっこうおしゃべりをしていて、ちょっと残念だと思った。迫力のある美しい作画で声優さんの演技もすばらしくて感動したんだけどね。物語の展開は原作で知っていたので、私が好きな子供のアリスとユージオが手を繋ぐシーンをアニメで見れて嬉しかった。が、
ユージオの場合、傷ついてから死ぬシーンがアニメだと2週に分かれているので余計「重傷なのに長く生きていますね」という印象になった。アニメの尺的に2週に渡るのはしょうがないと思ったけど弱りきってるんだからユージオにあんまりしゃべらせないで欲しかった。
そう言えばこんな感情前にもあったなあと思った。
フィクションの物語の中で、登場人物が攻撃されて致命傷を負ったのになかなか死ななくて、フィクションだとはわかっているけど「死にかけなのに痛いはずなのに、こんなに長々と喋れるなんてあり得ないよー」と思うことがたびたびある。
物語を作る側としては重要なキャラクターが命を失うシーンを大切に劇的に演出したいのは分かるんだけども、死にかけているのにあまりにもダラダラしゃべられると冷めてしまうんだ。でも、物語の都合上死ぬ間際に重要事項をしゃべらなきゃいけないことはわかる。ダラダラ話すのではなく必要最低限のことを話してさっさと息をひきとってほしい。文豪ストレイドッグスの織田作が死ぬシーンが丁度いいと思った。感動したし。
「致命傷を負えばどんなに強いキャラでもあっけなく死ぬ」というのは一種の美学だと思う。
こういうのキリトやらお兄様から言われだしたと思うんだけど、少なくともキリトに関してはそんなふうに言われる謂れは全くないんだよなあ
そもそもチート貰ってブイブイ言わせるのがさ、たまたま酒場にあった悪魔の実食うのと何の違いがあるのかわからないんだよね
主人公がその作品中である程度強いのは、ある種の作品のパターンとして昔から当然にあったよね
ハリーポッターだって学園内だと相当強い部類でしょ?クィディッチでブイブイ言わせてるシーンなんてなろう系そのものじゃん
俺TSUEEEじゃなくて敵が弱いのが駄目なんだって?
悪名高いあのスマホ太郎ですら最強を誇ってるのは普通の人間内だけで、フレイズ戦だと下位種にすら手こずるレベル
あの世界でスマホ太郎より強い相手、フレイズ、エンデ、バビロン、神といっぱいいたからね(だんだん勝てるようにはなるけど)
主人公がなよっとして強そうにないのが気に食わない?
筋骨隆々のおっさんが跋扈してるのしか許さないわけ?そんな主人公おるか?VRMMOなら外見と強さなんてマッチしてなくて当然だし
なんか最近って萌・エロコンテンツが好き=オタクって思ってるよね。
そういう意味なら、例えば「資格オタク」「鉄道オタク」って言ったらどういう意味になんの。
言うまでもなく簿記にデレマスの新田さんがアピールする前から資格オタクはいるし、駅メモとかがでるよりも前に鉄道オタクは存在してるのよ。
そう考えたら、オタクって没頭してしまう事だと思うわけよ。それこそ周囲の空気なんてわからずに。
周囲の空気なんてなりふり構わず語り出すから「オタクきもい!」ってなるんだろ。それが本来の「オタクきもい!」のハズだろ。
今のフェミがいってる「オタクきもい!」はなんか違うんだよな。まだ駅乃みちかとかで周りのこと考えてない萌コンテンツキモい!と思ってた頃は理解できたけどな。
最近のアニメ視聴者、スマホゲープレイヤーをTwitterで見てても思うわけ。
イナゴという存在がなんでオタク界隈で忌避されているかって、まさにコンテンツの大きさによって熱意を変えるクソが嫌いなわけで、
FGOやってたらオタクだとか、グラブルやってたらオタクだと、ラブライブだとかアイマスだとか、キリトだとかエレンだとか、推しだとかママだとかえちえちだとか、二次創作だとかロリポルノだとか自由の表現だとか、そういう事いってればオタクだってわけじゃないだろ。
「オタクは空気なんて読まずに、周りなんて気にせずに、好きなことを貫くべきだ」と思っている。だから迫害されたって好きなものを見てれば心が癒えるんじゃねーのか。
それがおまえら「アニメは今の中高生は当たり前にみてる」とか「ヤンキーでみてるやつもいる」とか言いやがって。
そんなに世間に認められたいのか。
一生周りの意見に流されて、好きの感情を周りから押し付けられて、必死になって周りと歩調を合わせて、メインストリームを歩み続けるのか。
俺はゴメンだね。
唐突だが、変なこと語りだすよ。
次元の壁を超えて2次元へ行きたいというのは割とコモディティな願望だと思う。
一斉を風靡したセカンドライフ的なもの、現代でわかりやすくいえばSAOのアインクラッドのような場所に(デスゲームは勘弁してほしいが)行きたい訳だ。
で、叶うなら男性ならアスナ、女性の場合はキリトみたいな男女とイチャコラしたいみたいな話である。
もちろん、LGBTの方でも思い思いの相手がいることでしょう。
それを現実で叶えるのは難しいので、せめて仮想世界で実現したいのである。
それは逃避といえば逃避であろう。
でも、現実では自由度が低いが故に、別の世界で自由に過ごしたいというのは至極当然の発想ではある。
それゆえの逃避を誰が責めることができるだろうか。現実で辛い目にあったことがないものだけが石を投げよという話だ。
だがしかし、やはり仮想世界には制限が発生する。現実が仮想世界を侵略するのである。
例えば誰かを嫁に娶りたいとする。
まず、その仮想世界でセックスし子を成すとするなら、その時点でそれがエロゲーとして扱われる。
それくらいならまぁ成人指定であってもいい。実際に結婚だって成人がするものであるから。
だが、婚姻を成したいキャラはまずそんな世界に呼べないのである。
権利者というお父様が、そんなエロいことをさせるために産んだのではないというのである。
これも現実に近いといえば近い。
だが、現実世界では、いつかは嫁に送り出さなければならないと考えているだけまし。
2次元では誰もそのように考えていない。ずっと箱入り娘でいさせればいいと考えているものである。
そもそも結婚というシステムは現実では共同生活を送り、次の世代へ子孫を残すためのものである。
しかし仮想世界ではそんな制約はない。だからどれだけ請い恋い焦がれていたとしても、叶わないのである。
なんということだ。仮想世界は現実世界の侵略により現実よりも不自由になることが確定しているのである。
現実世界が仮想世界を尊重し、第二の現実世界であるという共通認識がされない限り、この制約は覆ることはない。
茅場晶彦は、何よりも現実の侵略から反逆し、別世界へ移住することを強く望んだんだなと思う。
彼の場合、それがデスゲームという形で表れてしまったのは少し残念ではあるが。
倫理コードを解除するとセックスができるというのも、単にエロいことをしたいという話だけでなく、
そもそも生活の延長として当たり前のことが当たり前にできるようにしたいという一環で実装されていたに過ぎないと考える。
決して川原礫が物語を紡ぐための都合として存在している機能ではない。実現しておくべき機能だから実装されていたのである。
あと、アスナはNPCじゃなくPCであるから倫理規定が必要だが、高度なAIを搭載したNPCの場合、同じように倫理規定が必要なのだろうか。
その場合、願望は叶わず、NCPには婚姻を拒否され、共に暮らすことは叶わない。
そんな現実を突きつける仮想世界にダイブしつづける意味がない。
仮想世界に於いても何者にもなれない。運命の果実は独りで食べるしかない。
そんな訳で、仮想世界へ逃避すれば妄想が実現すると考えがちであるが、現実世界の認識が変わらぬ限り、
プレイヤーはエロゲーしたいだけの奴に成り下がる上、本当に過ごしたい相手はその世界に呼べず、
今の暮らしで抑圧を感じている人への代替世界を提案してみたいと考えてみたが、このような理由により今のままでは代替不可能であるとの結論に至ってしまったのである。
たまに声優のドキュメンタリーとか見ると普段自分が見ている作品の背後にこんな壮絶な世界が広がっているのかと感嘆、いや畏怖を覚える。
声優たちが「現場」と呼ぶ場所のあの張り詰めた空気。人から寄せられる期待の嵐。プロとしての責任。そういうのを見ているだけで苦しくなってくる。ぼくはあの場で正気を保っていられないだろう。立っていることすらままならないかもしれない。
いまぼくが生きているのは、彼らの仕事にかける情熱のおかげであると言っても過言ではない。極限まで洗練され磨き上げられた声は人の心を揺り動かすのに十分に過ぎると思う。それは芸術を見る目がなくこの上なく鈍感であるぼくですらもだ。アニメというのは声優の声に膨大な情報がのっている。文体だけでは決してのせられないような情報。それによって、作品によっては、難しく高尚な概念とされるものもなんというかその雰囲気というか、境地に達したものの醸し出す覇気のようなものを現実よりも誇張して増幅して見せるのである。それの尊さというものをなんとなく感じさせてくれる。人がそれへと向かっていくためにとても大切なもの。心暖まる気持ち。
例えば最近でいえば、SAO のアリシゼーション編などはとても良い。ユージオとキリトの関係の美しさとか、キリトが花を踏みにじられて流す涙とか、カーディナルをキリトが抱きしめて「報われた」場面とか、そういうところにふと「いいなあ」と思う。誇張なく尊いものを感じる。心暖まる気持ち。これこそがもっとも重要なのである。これこそがぼくがアニメに求め、救われたものなのである。それは自信を持って言える。これが一般にアニメが表現したい本質の一端であると信ずる。この気持ちを闇に沈めて、世間の荒波に飲まれて醜悪の限りを尽くしている人間もいる。そういったものへの一種の反抗なのではないかと思っている。SAO は最初ラノベ風のセリフに辟易としていたし、ユイに「パパ、ママ」などと言わせた時は「これだからラノベは・・・」などと思ったものだが、アリシゼーション編はそれとは "重み" の違うものを感じる。それこそ、描写の "重み" が比較にならないのである。アニメ関係者はもちろん、著者は腕をあげられたのかなあなどと思う。ぼくはああいうアニメの本質を析出した透明に輝くものが好きである。
いままで実に様々なアニメを見てきたが、やはり肝要なところはそこだと思う。そして、巷では (全てとは言わないが) ラノベ原作の内容の薄い、現実とのギャップを面白さと勘違いしているような、アニメ審美眼のない人々のために作られたアニメというのも跋扈している。
しかしその中で、余計の要素のない純度の高い美しいものがいくつかある。中には哲学的な思想を描き出しているものもある。
そういった凄まじい表現力の影には、声優たちの熱き "願い" があるのだなあと感嘆した。セリフ一つに徹底的にこだわる彼らのその魂の叫びこそこの "重み" を作っているのだと、忘れてはならないと思う。