はてなキーワード: カーディナルとは
ソードアート・オンラインの全裸さん――アドミニストレータは、
人の理から半ば外れ、神にも等しい力を持った、冷酷かつ妖艶な女性であって、
そのキャラクター性を裸体によって表現しようというのは、特におかしな発想ではない。
彼女は別に露出好きというわけではなく、カーディナル同様アンダーワールドが外界の人間に造られた仮想世界だと知っているので、アバターの裸を晒そうがどうでもいい、むしろ恥ずかしがるのは滑稽だと思っているわけです。つまり矜持とかそういうやつです!— 川原礫;2/17コミティア《あ13a》 (@kunori) 2019年3月9日
原作者もこのようにツイートしているように、他人の視線など意に介さない、彼女の超越的な立場を強調しているのである。
いや、賢明なる皆さんは「それは口実でしょ?」と思われるかもしれない。「本当はエロを描きたいだけなんでしょ?」と。
原作において、アドミニストレータの容姿について描写されているところを引用すると、こんな感じになる。
横たわっているのは、ひとりの女性だった。
銀糸の縁取りがついた淡い紫――《ステイシアの窓》とまったく同じ色――の薄物をまとい、身体の上で、白く華奢な両手を組み合わせている。腕や指は人形のように細いが、そのすぐ上で薄い布を押し上げるふたつの膨らみは豊かで、慌てて視線を通過させる。広く開いた襟ぐりから覗く胸元もまた、輝くように白い。
――13巻『アリシゼーション・ディバインディング』
ここから怒涛の勢いでアドミニストレータの美貌が称賛されていくのだが、身体の部分に言及しているのはこの箇所だけである。
また、この直後のユージオが誘惑される場面はなかなかにエロティックであるものの、それは精神汚染のようなものであって、アドミニストレータの淫靡な姿態が描写されるわけではない。
さすがに紫の薄衣は爆風に絶えられなかったのか、引きちぎられて消滅してしまったようだが、一糸まとわぬ己の姿をまるで意に介さず、アドミニストレータは右手を持ち上げると長い銀髪の乱れを直した。
この部分は先日のアニメで放送された箇所にあたる。元増田が言っているのもこの部分だろう。
読んでのとおり、全裸であることがさらりと示されるだけで、卑猥さは特に感じられない。
【マイリスト】SAOアリシゼーション21話 アドミニストレータのみ https://t.co/Ef7Si5Q8FU #sm34753890— ヨナ (@ExtraAteriaru) 2019年3月11日
小説だと「彼女は一糸まとわぬ姿をしている」と書けばそれだけで済むが、
アニメでは「一糸まとわぬ姿の彼女」を描き続け、映し続け、動かし続けなければいけないのである。
今回の件については、以上のような媒体の違いが原因としてある。
たまに声優のドキュメンタリーとか見ると普段自分が見ている作品の背後にこんな壮絶な世界が広がっているのかと感嘆、いや畏怖を覚える。
声優たちが「現場」と呼ぶ場所のあの張り詰めた空気。人から寄せられる期待の嵐。プロとしての責任。そういうのを見ているだけで苦しくなってくる。ぼくはあの場で正気を保っていられないだろう。立っていることすらままならないかもしれない。
いまぼくが生きているのは、彼らの仕事にかける情熱のおかげであると言っても過言ではない。極限まで洗練され磨き上げられた声は人の心を揺り動かすのに十分に過ぎると思う。それは芸術を見る目がなくこの上なく鈍感であるぼくですらもだ。アニメというのは声優の声に膨大な情報がのっている。文体だけでは決してのせられないような情報。それによって、作品によっては、難しく高尚な概念とされるものもなんというかその雰囲気というか、境地に達したものの醸し出す覇気のようなものを現実よりも誇張して増幅して見せるのである。それの尊さというものをなんとなく感じさせてくれる。人がそれへと向かっていくためにとても大切なもの。心暖まる気持ち。
例えば最近でいえば、SAO のアリシゼーション編などはとても良い。ユージオとキリトの関係の美しさとか、キリトが花を踏みにじられて流す涙とか、カーディナルをキリトが抱きしめて「報われた」場面とか、そういうところにふと「いいなあ」と思う。誇張なく尊いものを感じる。心暖まる気持ち。これこそがもっとも重要なのである。これこそがぼくがアニメに求め、救われたものなのである。それは自信を持って言える。これが一般にアニメが表現したい本質の一端であると信ずる。この気持ちを闇に沈めて、世間の荒波に飲まれて醜悪の限りを尽くしている人間もいる。そういったものへの一種の反抗なのではないかと思っている。SAO は最初ラノベ風のセリフに辟易としていたし、ユイに「パパ、ママ」などと言わせた時は「これだからラノベは・・・」などと思ったものだが、アリシゼーション編はそれとは "重み" の違うものを感じる。それこそ、描写の "重み" が比較にならないのである。アニメ関係者はもちろん、著者は腕をあげられたのかなあなどと思う。ぼくはああいうアニメの本質を析出した透明に輝くものが好きである。
いままで実に様々なアニメを見てきたが、やはり肝要なところはそこだと思う。そして、巷では (全てとは言わないが) ラノベ原作の内容の薄い、現実とのギャップを面白さと勘違いしているような、アニメ審美眼のない人々のために作られたアニメというのも跋扈している。
しかしその中で、余計の要素のない純度の高い美しいものがいくつかある。中には哲学的な思想を描き出しているものもある。
そういった凄まじい表現力の影には、声優たちの熱き "願い" があるのだなあと感嘆した。セリフ一つに徹底的にこだわる彼らのその魂の叫びこそこの "重み" を作っているのだと、忘れてはならないと思う。