はてなキーワード: とんねるずとは
これだが、何度も国語力でブクマカ揶揄するエントリ書いてる国語増田だろうが、この件では元増田の方が頭が悪い。これは国語の問題じゃない。
https://anond.hatelabo.jp/20211006074457
この反応見て「また引っかかってる、頂きだ」と思ったのだろうが、そもそも麻生がやってる事って一般的な国家の政治家と記者の質疑応答じゃない。
映画の真似なんだよ。
「菅は顔が悪くて人気が無い。俺達喧嘩上等のワルだからな(ニヤリ)」っていうのをやってる。
確かに論われてるブクマカは文章を最後まで読んで(ニヤリ)の辺りで意味が転換されているのを読み取れていない。
だがそれより重要なのは、高校以上の国語の小説読解問題みたいな文章が新聞に載っているという事だ。
それはつまり、なんで麻生氏が新聞記者の前でクライム映画やピカレスクロマンの真似をしてそれが新聞に掲載されているかって事だ。
「早稲田一文の文章みたいなのが新聞に載っててブクマカが読み取れてない!」で喜んでいたらそこで読解終了なんだよ。
新聞の記事というのは「見出し-結論-本文-結論」と書かなければならない文章の筆頭だ。会社でこの記事のフォーマットで報告書を書いたらどうなるか考えてみたらいい。そこにはそもそも映画の真似をして良いという合意すらない。
一方、ルポルタージュなどはこの記事のような釣りタイトル→後半で意味の転換が許される。これは最初から腰を据えて読む長文だからだ。
だがこのような短文記事ではそんな余地があるはずがない。見出しは結論を要約する惹句である必要がある。
なぜ麻生氏が映画等の真似をして答え、コメントの最後で意味が転換されるという構造のままに記事にされるかというと、そこに記者と政治家の合意があるからだ。
これが海外メディアであれば、「クライム映画のノリで最後の台詞で意味が転換されるよ」「麻生氏はマフィアのような服を好む人物だよ」という文脈で記事を書いてくれただろうか?そのまま「顔が悪いと言った」でお仕舞だ。
紙幅があれば説明を付けるだろうが、それは「麻生氏はワルぶる事を好むナルシストとして有名だ」「日本には記者クラブ制度があり政治家は顔馴染みの記者とツーカーのぬるま湯の風土にいる」「日本の政治部記者は映画のワルのようなコメントをするとその舞台装置のままに記事を書いてくれる」というものになるだろう。
だからあの記事を読んで得る情報というのは、「麻生氏は年の割には洒落た事が出来る」という事のほかに「癒着で舞台装置作ってそれを公器に載せてやがる」「朝日の政治部はバカ」というものだ。それがメディアリテラシーだ。
だが元増田は早稲田一文現代文問題の構造を見つけて喜んでしまっているのでそこで情報処理が遮断されているのだ。馬鹿者である。
日本は移民社会に舵を切ったので、日本語の機智を持たない話者というものを考えていかねばならない。出版産業や新聞というのは国民意識、国民国家という想像の共同体の基盤である。
「リンガ・フランカとしての日本語」というのを意識していかないと永住権を持つ人間でも「ガイジン」のままなのだ。
それなのに政治記事でこんな内輪ネタやっててどうすんだってことだ。結論要旨-本文-結論の順で書けよ。とんねるずの業界ネタが今の若者に受けてるかとか類推しろよってことだ。
だからこの記事はある問題意識を惹起させる。それは「麻生と朝日新聞政治部に冷や水ぶっかけろ」だ。
上演されるべきでない場面で上演された舞台に疑問を抱かないでどうする。
サンデルのトロッコ問題への回答で「そんな問題を提起する者を殺す」というソリューションがあっただろう。それでいいんだ。
それなのに早稲田一文入試問題構造を見つけてそこに固執してしまいマウントを取ったつもりで情報処理停止してしまう元増田は愚鈍の極みである。
そう。俺も違和感があったんだけど、とんねるずとかが流行っていじめするヤツのほうが上の方にいるみたいな風潮があったのはむしろ80年代だったと思う。田舎だったから都会とは事情が違うかも知れないが。ともかくちょっと悪ぶるくらいがもてはやされたんだけど、その条件がまた特殊で、都会からドチビの転校生が来てからその歪んだ不良像にみんな当てられちゃってそうなったんだよな。俺はもう本当にそれが嫌で。
【追記 7月23日 18:10頃】あまりの衝撃に封印していた言葉を解禁してしまったのですが(anond:20210722183137、anond:20210722183851)
『クズ』も伝えたいニュアンスは含むので『クズ』に変更しました
普通の日本人は、
ラーメンズは普通の人なら仕事をクビになる(少なくとも外資は契約書にサインするので確実にクビになる)レベルの
けれど日本には表現の自由があり、放った作品に対して責任を生涯負うのであれば、
小山田氏も近々フジロックがあるけどそれは今まで通り理解あるファンたちと楽しんでください
けれど、まさかの、NHK・オリンピック!!!!!!の仕事をするとな
そして平然と、
b:Id:triggerhappysundaymorningラーメンズの不謹慎に関してはお山田で例えるとお山田の行為を不謹慎ジョークのネタに使ったレベルなので怒られるべき話だが「謝れば済む話」.
ただのクズですよね?
クズが不適切だと言うならクズも改めますけど、こう言う人物にどう言った表現が適切だと思います?
b:Id:omega314「私は他人をいじめたことはない」と言い切れる奴とか一番の警戒対象でしかない。
b:Id:omega314「悪いことしてないだけの人たち」は本当に厄介
ブクマカが様々なインフラ・スーパー・コンビニ・外食産業が使えるのもみんな悪いことしてないのが当たり前だからだし
他人をいじめない・悪いことしないのが当たり前だからケガする事なく街を歩けるんです
小山田氏やラーメンズ庇う人はこの当たり前がおさえられなくて本当に恐ろしい
社会性動物は、不平等に敏感だし共感性を持ってるし利他的な集団の方が強いので "いじめは当たり前じゃないよ"
> 個人間の争いでは利己的な個体の方が有利だが、集団になった場合、利他の精神を持つ個体の集団の方が有利
> 個人間の争いでは利己的な個体の方が強いので遺伝子を残し続けるが、蟻🐜と同じく常に利他的な個体が増える速度の方が速い
「利他的行動は戦闘で進化」:コンピューターモデルで分析
日本語記事:『裏切り蟻』が増えるとコロニーは過労死で滅ぶが利他的な蟻の増える速度の方が常に速いので滅ばない
https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-212621.html?a_aid=3598aabf
[Psychology] Anxiolytic Treatment Impairs Helping Behavior in Rats
https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fpsyg.2016.00850/full
[Current Biology] Harm to Others Acts as a Negative Reinforcer in Rats
https://www.cell.com/current-biology/fulltext/S0960-9822(20)30017-8
日本語記事:「誰かを助ける」のに理由はいらない(哺乳類なら):研究結果 (WIRED)
https://wired.jp/2016/07/01/rats-empathy/
日本語記事:ラットも他者を傷つける行為を嫌がることが判明:研究結果(WIRED)
https://wired.jp/2020/04/08/rats-harm-aversion/
日本語記事:イヌのジェラシーを検証(ナショナルジオグラフィック)
▼増田やブクマカでいじめ逆張りしてるバカって自分自身が自称小心者()のクズだっていうことから逃げたい+クズ共感が欲しいだけだよな
▼嘘だろ逆張りクズどもはニュース出て解任になった事にキレてんの?
▼あまりの衝撃に宗教的理由で封印してたガイジを解禁しちゃったけどやっぱ良く無いので
▼東京オリンピックで生まれた「一般国民」「上級国民」は皮肉でも何でなかった。あとベンチャー
▼ヤンジャンでやっている『スタンドUPスタート』ってマンガと現実の『ベンチャー』と『500万』
▼彼・彼女らには自分がポリコレで"配慮される側"の人間である自覚がない
anond:20210722164318 anond:20210722184856 anond:20210722191747 anond:20210723013624 anond:20210723012449
正直、なぜ「当時はこうだった」という視点を拒否する人がこんなに多いのかに困惑している。
「当時はこうだった」ということを考えないと、今の自分がどういう時代に生きているのかがわからなくなる。つまり、今やっていることが、ひょっとしたら将来は「いじめ」「差別」と非難されることなんじゃないか、無自覚に弱者を傷つけいるんじゃないか、ということへの想像力もはたらかなくなる。
その時代で「いじめ」「差別」と言われているものは微妙に異なっている。しかし、そうしたその時代の意味するで「いじめ」「差別」に器用に避けているだけで、やられている相手からすれば「いじめ」「差別」と同じだと言うことはよくある。とんねるずのバラエティも、当時は「いじめではない」という意味が共有されていたと思うが、今はおそらく変わっているだろう。そうした可能性を少しでも恐れて反省しようとする人は、「当時はこうだったのではないか」という思考は不可欠だ。
「かつてとんねるずのバラエティで笑っていた自分」をなかったことにしないでほしい。「なかったこと」にしている人は、自分から言わせれば「ああいう時代だから仕方なかった」と開き直っている奴と同じレベルでしかない。
1990年代にいじめがひどい中高時代を過ごした人間にとって、「小山田のしたことは時代背景は関係なく悪」とされることには強い抵抗感がある。
「あの時代も許されていなかった」などという人も多いが、それも納得できない。小山田があのインタビュー記事の後も長らく「アーティスト」として第一線で活躍し続けている事実は、「許されていた」ことの証拠ではないのだろうか。世間の多数派は知らなかったにしても、一緒に仕事をしている近い関係の(当然日本社会で上位のポジションを占めている側の)人たちは当然知らなかったわけがない。
自分はあの時代、テレビで毎日のように流れているとんねるずのバラエティが怖くて見れなかった。自分には当時からとんねるずのやっていることは、悪質ないじめや暴行、セクハラにしか見えなかった。とんねるずの笑いが全くわからないことは、自分が学校で落ちこぼれているという現実を、ぶん殴るように突きつけるものだった。
5年ぐらい前に小山田圭吾の悪質ないじめ記事をネットではじめて知った時、過去のトラウマがフラッシュバックした。まさにあのとんねるずの悪ふざけのノリと、それを学校で再現する連中を思い起こさせるものだった。
現在40代の多数派(とくに男子)は、あのとんねるずの番組で笑っていた側だったはずだ。「小山田のしたことは時代背景に関係なく悪」という言説を流している人は、自分と同じようにとんねるずの番組に全く笑えてなかったのだろうか。
若者の見るメディアといえばテレビ以外にほとんどなかった時代、そうは考えにくい。おそらく当時一緒になって笑っていたのを、都合よく忘れているだけだろうと思う。だから、「小山田のしたことは時代背景は関係なく悪」は、それ自体は正論だとしても、そういうことを簡単に言えてしまう人はあまり信用できない。
それは、スタンド・バイ・ミーのメガネに向かっててめえの父親はクズで母は売女だ、みたいな罵倒を浴びせた男がいて、それも後のセピア色の思い出に変わる、みたいなことなんだろうが、話の見せ方と分かっていても、許容できない層がどうしてもいるんだよ。この話は先日のルックバックの統失の話とも関係はあるけど、あっちは明示はされてない。明示された差別表現を美化して語るってことは難しい。とんねるずにいじられていた定岡正二が例えば裏では別に仲が悪くないとか、電気グルーブでいじられていたまりんと石野らの関係性が別にわだかまりがないとしても、なんとなく良い気分にならない。力関係が完全に見えてきて嫌な気分になる。
こういう関係は割とちょいワルな連中に結構多く、ボス気取りのやつに子分みたいな友達が群がるという構図が現実にもよく見られた。それはもうまったく友達という概念ではなく、友達だとうっすら思ってるのは脳天気なボスだけという構図だった。大体の配下は顔色を伺ってて、傍から見てもプレッシャーを感じる力関係がそこにあった。セピア色になるのは立場が上のやつだけで、虐げられたものの色合いがセピアになることはない。思い出す度に灰色になるだけだ。
いじめが話題になるたびに納得できないことは、みんなが一斉に「自分はいじめなんてしたことありません」的な顔でいじめを非難すること。日本の小中高を経験して、そこでいじめをやったり、やられたり、傍観したりしたということが一切ないなんて、絶対にありえない。いま有名人で学校時代のいじめを丁寧に調査されたら、小山田と同様に社会的地位を失う人は何人もいるはずだ。それをやれと言っているのではなく、小山田を非難するにしても、ちゃんと「自分ごと」として語ってほしいのである。
特にお笑い芸人は、かつてダウンタウンやとんねるずのいじめ風バラティを熱心に見て、それが好きで憧れたからこの世界に入っているわけで、そういう連中からいじめを一方的に非難する発言がでてくると、なんか「嘘つけよ」と怒鳴りつけたくなる。その意味で、いま少し叩かれているけど「日本のお笑いなんて所詮はいじめ」と言い切っている爆笑問題・太田は潔いと思う。「やられているほうも納得済みだからいじめではない」という詭弁を弄している他のお笑い芸人のほうがはるかに悪質だ。