はてなキーワード: 紫陽花とは
人はいつから梅雨を嫌悪するようになったのか。ただ歴史に盲目的に従い、社会の流れに迎合して、晴天をこそ善とみなし、梅雨空を悪いものと決めつけてきたのではないか。
しとしとと響く雨音、紫陽花の花の色、照りつける容赦無い陽の光を和らげてくれる雲、湿度の高さは肌の感想を防ぎ潤してくれ、降りしきる雨は水源を潤して乾いた夏を凌ぐ力を与えてくれる。
「I'm looking for a perfect sky」そう主張するのも一つの生き方かもしれない。
しかし晴れのみを求める世界は、強きものの存在だけを許し、弱き者を排除する世界に他ならないのではないか。
どんな天気も受け入れる強さを教えてくれた人がいる。晴れには晴れの、梅雨には梅雨の良さがあると。それを見出し受け入れることこそが本当の力なのだ、と。
ですので、仮に報道の通り、100Vのコンセントに400Vに電圧上げるためのトランスが直結されていたとしても、本当なら30÷4や15÷4で7.5mAや3.75mAの漏電で作動する、はずです。
ここがそもそもおかしい。
失礼ながら元増田はトランスの2次側の事故を1次側で検出できないことを知らないのでは?
仮に昇圧トランスの2次側が接地されていたとしても、1次側の漏電遮断機は動作しない。
この事件の焦点は”どうして漏電遮断機を設置していなかったか?”だけど
おそらく漏電遮断機を設置できなかったんだと思う。
現場がどういう状況か知らないが、
この状態だと漏電遮断機なんておいたらすぐ動作して使い物にならない。
だから夜に通電して朝落とすといった使い方をしていたんだと思う。
『さんかれあ』という漫画がある。とても面白かった。面白い物を読んだら、その面白さについて語り合いたい。だけど俺にはそんな気の利いた友達は居ないから、いつもはネットで他の人の感想文を読んで満足することにしている。だけど、『さんかれあ』については、ちょっと検索した程度では語っている人が見つからない。だから俺が書くことにした。増田に。この感想文を読んで、一人でも多くの人が、この作品を手に取ってくれたらいいな。
では早速『さんかれあ』の魅力を語って行きたいのだが、ネタバレなしで語ることはできないので、そういうのが気になる人は先に『さんかれあ』を読み終わってから続きを読んで欲しい。
などと言うだけで本当に本が売れるなら苦労はないので、まずは立ち読み感覚でこの物語を紹介をしようと思う。
主人公はゾンビが大好きな男子高校生。死んだ飼い猫を生き返らせようと、廃墟で夜な夜な怪しい書物を元に蘇生薬を調合していた。その夜も薬の調合に精を出していると、同じく人に言えない秘密を抱えたヒロインと出くわす。ヒロインは良家のお嬢様なのだが、父親の偏狭的な愛から来る過度な束縛と、性的虐待ともとれる行為に打ちひしがれ、しかし誰にも相談できずに、ただ古井戸に向かって内心を叫ぶことで心のバランスを保っていた。彼女も主人公の作っている蘇生薬に惹かれ、二人は薬を作るため深夜に密会するようになる。それを知ったヒロインの父は二人の仲を引き裂こうとするが、逆に不慮の事故から彼女を死なせてしまう。だがなんと、主人公の作った蘇生薬を飲んでいたおかげで、彼女はゾンビとして生き返ったのだった。これは人の道を外れ、やがて腐り果てる体となりながらも、ゾンビとして刹那の人生を楽しもうとするヒロインと、その期望を叶えながらも、彼女を救う道を模索する主人公が織りなす、ボーイ・ミーツ・ガールな、ちょっとラブコメで、だいたい妖艶にエロくて、けどちょっと物悲しい、そんな青春物語──
さあ、続きが気になるなら即Amazonでポチろう! アニメにもなってるからDVDもいいぞ!
では、以降は『さんかれあ』を読み終わったことを前提にして語っていこうか。この物語は難病系の一種である。サナトリウム文学って奴である。俺は『世界の中心で、愛をさけぶ』とか『イリヤの空、UFOの夏』とかも好きだ。我ながら分かりやすい消費傾向である。パターン一緒じゃん。けど好きなのだから仕方がない。
しかしその二つと違って、『さんかれあ』は読んで号泣してしまうような物語ではなかった。端的な表現をするならば、読めば自然に目に涙が滲んで、でも流れない。そんな物語だった。思うに、これは登場人物に感情移入できないことが理由ではないか。だって俺はゾンビっ娘に萌えないし、好きな人を食いたくなって葛藤することもないし、千紘にも礼弥にも感情移入は難しい。だから、自分事ではなく他人事として物語を眺めることになるし、きっとどこか遠い世界でこんな美しい物語があったのだろうかと思うと、憧れや寂しさが複雑に混ざり合って、心臓の裏側と背骨の間にシンシンとした冷たい痛みを感じるのである。ああ、たまらない。
ひとまずは物語の全体の流れを振り返ってみることにする。『さんかれあ』は全11巻の物語で、展開はわりとはっきりしている。序盤はヒロインの家庭関係における悩みが原動力になって物語が進み、一応の決着を得る。中盤はいよいよ難病物の顔が現れてきて、主人公たちの奔走も虚しく終盤に悲劇が訪れる。
各巻ごとにもうちょっと詳しく展開を追うと、1巻目は起承転結の起で、千紘と礼弥の出会い、礼弥のゾンビ化という物語の中核を担う事件が起こり、暗に陽に物語の今後の方向性が示される。2巻目ではこの作品におけるゾンビの設定を読者に紹介しつつ、ヒロインの父親と対決し、勝利する。3巻目ではダリンからゾンビの運命が告知される。4巻目で礼弥に症状が発症し、5巻目で奇跡的な回復から小康状態を楽しみ、呑気にラブコメなんてやって、ずっとこのままでいられるかと思わせておきながら、6巻目ではばーぶを使って、千紘に生な体験としてゾンビの宿命と礼弥の未来の姿を見せつける。7巻目から8巻目でZoMAに出向いて謎の巨大な組織との戦いを経験しつつ、新たな希望を提示して、9巻目から10巻目で残っていた謎に説明を着け、その間にも礼弥の病状は深刻化し、ついに日常は崩壊し、11巻目でバッド・エンドかと思わせながら、どんでん返しでハッピー過ぎないハッピーエンド、となっている。
俺は何かと戦う姿を書いた物語が好きである。戦うとは、今の自分の境遇を少しでも良くしようともがき苦しむことである。結果として自分も人も傷つくかもしれない。だが止めるわけにはいかない。そういう、どうしようもない衝動の事である。
『さんかれあ』には主に二種類の戦いを描いた物語である。一つは自分を取り巻く周囲の人間関係との戦い、そしてもう一つは死別という生命にとって避けられない運命との戦いである。物語の始めから終わりまで、一貫して千紘は死別と戦っている。普通の難病物では、死にゆく人を死なせないために戦うのであるが、この物語では既に死んだ人を取り戻すために戦うのが、オリジナリティであり哀愁を誘う仕掛けである。一度死んだ者に仮初の生を与え、やがて失う事の決まっている仮初を、どうにか逃すまいともがくのである。生きる者は全て死ぬ。その絶対的な運命を一度回避してしまった代償に、二度目の死別はより悲劇的で凄惨な物として描かれている。
この戦いの周囲を彩るように登場人物の様々な戦いが描かれる。礼弥は父の強すぎる愛情と戦い、わんこは恋敵と戦い、ダリンは父の気を引くために戦い、じーちゃんはあらゆる死別と戦い、戦い、戦い疲れて引退している。
面白いのはこの物語に描かれたぞれぞれの戦いは、全部バラバラに並列に起こっている戦いであり、基本的に全員が自分の戦いは自分でケリを着けているところである。千紘は他の登場人物の戦いに巻き込まれはするものの、せいぜい手を貸すといった程度で、最終的な幕引きは必ず本人が行っている。例えば序盤に大きなウェイトを占める礼弥とその父との戦いだが、千紘は父側に拉致されたために巻き込まれる形になったが、本人が積極的に散華邸に乗り込むようなことは無かった上に、父の妄執を断ち切ったのは礼弥自身である。千紘が能動的に行動するのは、自分がゾンビにしてしまったばーぶや礼弥に関してのみである。これらの戦いがその時々で出たり引っ込んだりして、作品全体の緊張感を一定に保ちながら物語は進行する。
分析してみると、俺はこういう、死別と戦う話が好きなんだなぁと改めて思った。
さて、物語の骨格を分析してみたけれど、ちょっと理屈っぽくて退屈な感じになってしまったから、今度は物語の肉にあたる部分を見ていこう。いくらご大層なテーマがあっても、作品に魅力が無ければ読まれやしない。この物語を読者に読み進めさせる魅力は、やはりヒロイン、散華礼弥がとびっきりかわいいからだ。壮絶に色気を醸している。まじやべえ。
彼女は死のメタファーである。第1話の1ページ目からして腹から腸はみ出させている。まじやべえ。次の登校中の登場シーンではありきたりな、つまらない美少女キャラかな? と思うが、千紘が蘇生薬の調合なんつー怪しい作業をしている雰囲気の中で再び現れ、傘から死んだような顔をのぞかせて、何をするのかと思えば井戸に向かって大声で愚痴を叫びだす。この落差にくらくらする。静から動の変化。死から生への変化でもある。しかも、実の父親に裸の写真を撮られているらしい。アブノーマルで背徳的で、ひたすらエロい。エロいが見た目は清純キャラだ。というか彼女はエロくない、ただの被害者だ。同情すべきだ。だがしかし、劣情をかきたてられるのは、いたしかたない。
そんで、胸チラしながら千紘と一緒に蘇生薬を作りたいとか言い出す。死体をゾンビとして生き返らせる薬なんて、イケナイ物を作る作業を、一緒にやりたいとか言うわけだ。背徳的だ。こんなの絶対に二人だけの秘密だ。美少女と誰にも言えない秘密を共有? たまらんがな。優越感と自己肯定感をかきたてられる。羨ましいな!
そしてこの短いやり取りの中に「死んで別の人間に生まれ変わりたい」「実験台になってくれよ」「私がゾンビになったら」などと不穏なセリフが散りばめられている。第1話の最後のページも、可憐な笑顔と不吉なモノローグが対比して、どえらい色気なのである。なぜだろう。スイカに塩をかけると甘くなるのと似た原理かもしれない。うん、やっぱ影のある美少女っていいよね!
もーこれだけでもノックアウトなのに、第2話もエロかわいい姿を見せてくれる。特に千紘にゾンビとして生き返らせてくれと頼む時の表情はたまらない。何かを思いつめているわけだが、一度死んでゾンビとして生き返る、なんて眉唾であまり気分の良い話じゃないものを真剣に頼む様子に、やはり死のイメージを感じる。紫陽花で作った蘇生薬をばーぶに飲ませるが、生き返らなかった。そこには静かな、ただただ静かな死が表現されている。そして夜出歩いていたのを父に見つかり、自宅での軟禁生活が決まった彼女は、その夜、涙を流しながら紫陽花の毒で自殺を試みるのだ。なんともいじらしい。
そしてついに事は起こり、彼女は崖から転落死する。そのシーンがまた凄い。彼女は落下の途中に腹部を木の枝に引き裂かれ、血まみれになりながらも立ち上がり「責任取って…下さいね…」と来るのである。言うまでもなくこれはセックスを暗示する。しかも処女喪失である。暗示されているのはセックスなのに、しかし実際に描写されているのは腸のはみ出た死体である。ここで脳の認識野が多少の混乱をきたす。この混乱の結果生まれるのが、ゾクゾクするような壮絶な色気である。今まで丁寧に積み上げられてきた描写が、この血まみれの満面の笑みに集約して、散華礼弥というキャラクターを固定する。読者は完全に恋に落ち、もはや彼女から目が離せなくなる。
こうして『さんかれあ』という作品の最大の魅力が作られたというわけである。ゾンビになった彼女はむしろ生き生きとして、短くてもいいからささやかな幸せを楽しみたいと言う。いい娘すぎる。いじらしい。かわいい。それでいて、意識の混濁したゾンビとして、欲求に素直な妖艶な姿を見せたりする。たまらない。また、この表現は楽しい時間が限られている事を否応なく読者に思い知らせ、切なさを一層かきたてる。この思いは彼女の体に、癒えることのない傷が増えていくに従って強くなる。彼女は必ず失われるのだ。ああ、悲しい。切ない。彼女と一緒にいる、今この時が尊い。
もちろん魅力的なキャラクターは彼女だけではない。千紘の幼なじみにして姉さん女房役のわんこは、生のメタファーである。ゾンビとなった礼弥とは対称的な存在である。生きた生身の女なのだから当然である。それだけでなく彼女は千紘や礼弥が落ち込んでいたり、物語の分岐点で、彼らを引っ張り上げる役割をする。死の世界から救い出してくれるのである。
ダリンは患者に病状をつきつける医者の役割をする。甘い事を一切言わない恨まれ役でもある。だが間違った事も言わない筋の通った人間である。
じーちゃんもまた、いい味を出すキャラクターである。最初に蘇生丸を調合し、全ての物語の元凶となった人物。一番最初に礼弥を見た時、彼女を貞と呼び、「わしが悪かった」と謝っているが、後になってこのような細かな伏線がきちんと回収されるのが心地よい。普段はボケているのに時折見せる鋭い視線にも魅せられる。いくつもの死別を乗り越え、傷つかなくなっているのではなく、傷を飲み込み共に生きる事を覚えた成熟した男を思わせる。最期に元妻のゾンビと一緒に逝くシーンは思わず涙ぐむ。
書ききれないが他にも魅力的なキャラクターが満載である。このキャラクター達が魅力的な物語を作っているのである。
さて、長々と語ってかなり満足した。『さんかれあ』面白いからみんな読むといいよ! ああきっと、紫陽花を見る度にこの物語思い出すんだろうなぁ。
話さ、あくまでも仮の話だ。
美しいままのその花もいつか/少しずつ乾いてゆくことになる
いつまでもこうして眺めているさ/嬉しいやら哀しいやら
いつかの僕は彼女の寝顔を見ながら「嬉しいやら、哀しいやら」と、悦に入った。
彼女のことを本当に愛していたとか、その想いの程度を説明するのが難しい。不毛とさえ。
誰かに認めてもらう必要がないぐらい、彼女のことが大切だった。
大切というか、……彼女は僕自身だった。言葉にしづらいけど、他の人とは違ったということ。
若かった僕は、彼女の大切さを気付かずに、自分の人生さえも軽く考えていた。
「なんとかなるだろうし、彼女よりいい女とも付き合えるさ」なんて、若気の至りどころじゃない。
あっという間に。とても、幼いままに。ままごとのように。
幸か不幸か、共通の友人が多かった僕と彼女は別れた後も会うことがあって。
割りと仲は良い。勿論、セックスやそういった類いのことは何もない。一線。
彼女は僕が知らない人と結婚したし、……セックスとか、そういうのって安易で退屈すぎる。
僕はといえば、たまに若い子と付き合ったり、すぐに別れたり。結婚願望もない。
子供がおらず、旦那さんが単身赴任な彼女と、たまに会う。1ヶ月に1回ぐらい。
食事して、少し呑んで、くだらない話しで笑ったり。
元々の相性が良かったんだろう、2人でいると会話は尽きない。一線を残して。
可愛くて、美しくて、綺麗で、気立てが良かった彼女も、40歳を過ぎたらオバさんだ。
自由奔放だった性格は、肌のシミとして残された。
少しずつ乾いていく彼女を、ゆっくりゆっくり見ているのがとても幸せで。
「この前、紫陽花を見てきたの」と、彼女のiPhoneにある写真を見せてくれた。
決して、iPhoneを僕には渡さずに。
たくさんの紫陽花の後の方に、同じぐらい多くの旦那さんとの写真があった。
夫として、彼女のことを看取るんだろうと思っていた。そんな未来はこなかった。
それでも幸せだよ。僕らは今の距離感がちょうど良かったんだろう。この、一線が。
乾いていく彼女が、僕だけが知っている、その乾き具合が、そこや、そこや。ああ。
僕のとなりで無邪気に喋ってる彼女に、唯一の秘めごと。
老いていく君が、とても愛おしい。
決して枯れない花をそのまま/そっと記憶の庭に埋めた
いつまでもこうして眺めていたい
はじめに、桜宮高校による過度の体罰によって亡くなられた方には、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
また、トラウマとなるような体罰を受けたことのある方々にも、深くお詫び申し上げます。
その中で、「何を言っても本当に言うことをきかない生徒」を何人か目にしました。
こう言うと、「言ってもきかないのは、教師の力量不足だ」と言われそうですね。
その通りです。異論はありません。多くの教師は、間違いなく力量不足です。
よく言われる、「社会に出たことも無いのに”先生”ぶってる」のが大半の教師ですから。
そもそも、1対40という圧倒的数的不利状況、多数の事務作業、、、この先は本意では無いので、止めておきます。
どうしても変な方向に生える歯があるから、正しい方向に矯正する。
どうしても言うことをきかない生徒がいるから、正しい方向に矯正する。
でも、正しいって何でしょう。誰にとって、正しいのか。
ところで、日本社会の新卒信仰に対する異常さは、様々なところで耳にします。
それについての是非は今は置いておきますが、そこには「新人の矯正」という観点が見え隠れしているように思います。
日本人は、どうやら規格通りの、正しい製品を作るのにかけては、ほぼ世界一のようです。
ただ、それが得意すぎて、どうやら人間に対しても―学生であれ、新入社員であれ―規格にはめようとする傾向がありそうです。
日本人の、人間に対する考え方―教育方針―が「そのまま」である限りは、正しく矯正するために、体罰は必要でしょう。
規格に収まってもらわないと、困ることがあるからです。あなたが歯や骨盤にするように。
日本人が、もう少し多様性を認められるようになれば良いな、と思います。
もちろん、他人に過度の迷惑や危害を加えるのは論外です。
また、「自由」と「放縦」は違います。これについては、多くを書かなくても大丈夫でしょう。
多様性を認めるとは、「ありのままを認めること」だと思います。
そう言うと、「子供が努力しなくなる」という声も聞こえてきそうです。
僕は学生時代は、勉強(特に英語と化学)は得意な方で、大して自慢にはなりませんが、その2つは偏差値が70を切ったことはありません。
それだけの勉強も、毎日のようにしていました。でも、それを努力だなんて思ったことはありません。むしろ楽しかったです。
薔薇に向かって、「おいコラ、お前も紫陽花みたいな綺麗な青色を咲かせられるよう努力しろよ」という人がいるでしょうか。
もしいたとしたら、薔薇にとってはとんでもない苦痛でしょう。それこそ遺伝子操作をしてもらうしか無いわけです。
「おい、お前も立派な赤色を咲かせられるよう、頑張れよ」と言えば、本人(本花)は自ら喜んで精進するでしょう。
それが、「自分のまま」だと知っているから。認めてくれて、嬉しいから。
もう少し、もう少しで良いんです。
そして、それを―教育の場でも、会社でも、普段の生活でも―他者に展開する。
そういったことができれば、良いな、と思ったりもします。
みなさんも記憶に新しい、崖の家とガラスの家とが、あまりにも見事な典型例だったため勢いで書く。
まず、そもそもの前提として、普通の場所に普通の家を立てるのは、
小市民的には夢のマイホームであっても、TV的には何のオモシロミも無い。
というわけで、(ドリームハウスでドリームなハウスができあがるのはなぜか http://d.hatena.ne.jp/lastline/20130430/1367305630 )で挙げられているように、ドリームハウスでは概ね3パターンの地獄への道が敷かれている。
崖の家は、典型的な「無茶な立地」だ。
前記のブログでもある通り、コレが一番なんとかなる可能性がある。
実況スレでも概ね「奥さんがビッチっぽいこと以外は良いな」という評価だった。
お宅訪問時の奥さんの満足そうな表情と、旦那の小市民的な挙動が、末永く幸せそうで何よりだと思う。
(尚、2chでは「ビッチ≒俺達とは相容れないタイプの女性」くらいの意味)
完全な布基礎だったらアレだろうが、繋いであるしキッチリ設計されている気配がする。
そしてコレが重要だが、崖の家向かって左側の家は鱗のような壁であり、正面向かいの家の駐車場には薪が積んである。
つまり、この辺り一帯が趣味人の家であり、外壁が杉板でもまったく浮かないことが予想できる。
伝説の「借景の家」とは異なり、この立地で海や日の出を遮るような建物を立てるのは相当に困難だ。
良い家だと思う。
空き地時代には、道路沿いに見事な紫陽花が咲き近所の人の目を楽しませていたと思うので、
拘りがないなら植えといてご近所付き合いのキッカケにすると良いんでないかな。
家は独立して存在するが、地続きの周辺環境との調和で完成する。
(まあ、シーランチ・コンドミニアムを建てたいと望む施主なら、感覚で理解している気もする)
建築家に責を求める声が実況スレにも多かったが、これは責められない。施主に問題がある(断定)
建築家の責としては(「無茶な建築家」要素が関連するが)、設計してしまった事だと思う。
あのガラスの家を酷評する前に、一旦ドリームハウスの事は忘れて、次のような想像をしてみよう。
どうだろうか。施設としては、無くはない形状ではある。
では、これらに共通の要素はなんだろうか?人が定常的に住まない?それはそうだろう。
一番大きいポイントは、「通常、外履きで歩きまわる建物である」というところ。
あれは、「外からやってきて、一時的に滞在して、また出て行くタイプの建物」なのだ。
それがよく分かるのが、床だ。
法律で木造住宅の基礎の立ち上がり(地面から木を置くとこまでの距離だと思いねえ)が30cm以上と決められてるのには理由がある。
基本的には、土台の腐敗を防ぐのが目的だ。木が腐るのは湿気だ。地面からの湿気と雨水な。
床に直接本を重ねて置いとくと、下から波打ってきちゃうタイプの建物だ。
ただまあ、住めないわけじゃない。
普段から靴で生活するとか、ホームパーティーバンバンやったりするタイプの家族が住む可能性はある。
そもそも「床に本をおいておいたら波打った」とか「梅雨時にフローリングがしっとりしてる」とかは、経験ある人も居るだろう。
それが住環境としては致命的だ、ということじゃない。
どういうことかというと、それぞれの要素に対しては回答があるのだ。
外壁のガラスは、ビルなんかでよく見るカーテンウォール(建物を支える壁ではなく、全部とっても家が崩れない壁)だろうし、高層ビルなんてな全面ガラスってのもよくある。
平屋建ても大開口もソコソコたってるし、天井配線だってまあまあある。
それぞれの要素要素で見ていけば、ありえなくはないし、一般家庭以外ではおなじみの作りもある。
じゃあどういうことなのか。
番組を見ていた人は思い出して欲しいのだが、崖の家にも「大開口」は付いている。3m近い巨大な窓だ。
あれに違和感がないのはなぜだろうか。
あの窓に対して、「特注だろうし割れたら高くつく」とか「夏場は暑い」とか「結局カーテンつけっぱになるだろ」なんてのはナンセンスだ。
翻って、ガラスの家はどうだろうか。
何を「見る」為の大開口だろうか。何を楽しむための大開口だろうか。
あの環境下で、あのガラスの家は、周辺の住民にとって完全な罰ゲームだろう。
ビニールハウスでイチゴ栽培始めましたっていうほうがインパクトは小さい。
家は独立して存在するが、周辺環境も込みで完成するのだ。あれは、あの場所に建ててはいけないタイプの建物なのだ。
一族が所有する絶海の孤島に、森を感じられる建物としてあれが建っているのであれば、なんかの賞は取れるかもしれない。
あのガラスの家をどうにかしようと思うと、相当難物だ。
もし自分があの物件をタダで手に入れて、しばらく住もうとするのであれば、レンガの塀を作ると思う。
高さ1.2mのギリギリサイズの赤レンガの塀で周囲グルっと囲み、ツル性の植物を植えて回るだろう。
芝生のままでも良いが、普通に造園業者に入ってもらって、築庭すると思う。
周辺からの視線を完全に遮った上で、庭の緑を楽しむ家としてなら悪くない。
ロール網戸を付けるような建物にはなってないから、エアコン代は屋上に太陽光パネルでも載せて足しにするか。
台風の度に大事になるだろうが、ま、沖縄の店舗なんかも似たようなもんだ。
正直、あの家って、紅花の咲く頃に愛人と一緒に長期滞在する別荘ぐらいしか使用方法が思いつかんのだよな……
まあ、売りに出たら愛人がいる人はご一考を。
傅く かしずく
已己巳己 いこみき
一廉の人物
義捐金 ぎえんきん
娩沢 べんたく 美しくて顔色のつややかなこと
暢遂 ちょうすい 成し遂げる・貫く
兎走烏飛 とそううひ 意味歳月のあわただしく過ぎ去るたとえ。月日の速く過ぎるたとえ。▽「烏」は日(太陽)「兎」は月
烏兎匆匆 うとそうそう
兎烏 とう 20歳
門出・首途 かどで
蛇蝎 だかつ
蠍 さそり
揮毫 きごう
歔欷 きょき むせび泣き
寡・鰥夫 やもめ 未亡人
豪宕 ごうとう 豪放
揖譲 ゆうじょう
吝かでない やぶさかでない 快くする
腕 かいな
蟠り わだかまり
翠黛 すいたい 美人の眉。緑にかすむ山
歩哨 ほしょう
曾遊の地 そうゆうのち
九皐 きゅうこう 幾重にも曲がりくねった奥深い沢
颶風 ぐふう 強く激しい風
鹿砦/鹿柴/鹿寨 ろくさい 敵の侵入を防ぐため、先のとがった竹や枝のある木などを鹿の角の形に立て並べた垣。さかもぎ。
昵懇 じっこん 懇意
頤使・頤指 あごで指図
龕灯 がんどう 中に自由に回転できるろうそく立てを取り付けた提灯。忍び提灯
吐月峰 とげつほう 灰吹き 灰吹きの用材としては、ほとんどが静岡県の吐月峰(静岡県丸子付近の地)の竹が使用される
床机 しょうぎ
そもそも、花を見て「きれいだ」と感じる子どもなんて、いるかな。
いるかも知れないが、それは、大人が感じる「きれい」とは、かなり違うだろうね。
だいたい「きれい」とは何のことだろう。
大人の世界では、「花はきれいだ」ということになっている。
それぞれの咲き乱れる様はきれいなものだと、一般的に言えそうな気がする。
しかし、ラフレシアあたりはどうかというと、あやしい、と思う。
東南アジアの人は、もしかしたら、きれいだと感じるのかも知れない。わからない。
ばぁーっと咲いて、ばぁーっと散る、そういう花じゃないとダメなのだろうか。
だが、ラフレシアが、ばぁーっと咲き乱れるのも、ちょっといただけない。
一輪の花が美しいということもある。
いや、ラフレシアでなくてもいい。向日葵なんかを間近でみたら、アレはきれいなものだろうか。
しかし、個人的にはどう思っても、向日葵には、「きれい」と誰もが認めるような一般的認識が、ある。
誰もが認めるような、一般的認識。
「きれい」を支えているのは、あくまでそういったものだ。
一般的に「きれい」とされるものを知ることによって、
で、一般的認識に即して言えば、「(ある種の)花はきれい」なのだ。
「この花はきれいだとされている」と子どもに教える際に、
「子どもが『この花はきれいだ』と思っていない」とガッカリする人がいますか。
もし「花はきれいだ」という感性を育てたいのであれば、
花がどうきれいなのか、ということを子どもにも伝わるように頑張って教えてやるしかない。
まあ、実際に伝えるのは、とてもむずかしいでしょうが、
それは「この花を見て……」と質問するよりも、よほど教育的なことだと思う。
ただ、そうした内実とは別に、とりあえず「この花はきれいだ」という決まりを覚えることも、役に立つ。
「よくわからないが、この世の中では、この花はきれいだということになってるらしい。」
そう思って、それで文章が読め、話が聞けるようになれば、まあマシじゃないか。
私はNEETである。人の慈悲にすがりながら生きている。そんなのと関係あるようなないような日記だ。
昨日、土曜日のことだ。よく晴れていた。桜は満開だった。街路の花はどれも鮮やかで、目に染みるようだった。
そんな素晴らしい天気とかには関係なく、体力のめっきり衰えている私はバスの座席に腰掛けて揺られながら病院へ向かっていた。脱NEETの為の精神科だ。
土曜日の昼間とあって、中心地に向かうバスには乗客がだんだん増えてきた。バスの座席がすべて埋まった頃、年配の女性が二人乗り込んできた。
一人は杖をついてよろよろしており、あきらかに席を譲った方がよい。もうひとりは矍鑠としているが、白髪で、席を譲ると憤慨するかもしれないお年頃にも見えた。
とりあえず、杖をついてるほうだ。杖をついてる方に席を譲らなきゃ。そう思うが、冷や汗が出て話しかけられない。後頭部も何だかしびれだした。
こういうことを病気のせいにするのはどうかと思う。人としてどうかと思うが、でも結果として他の人が先に杖の婦人にスッと席を譲った。しかも譲った人も50〜60歳に見える。私は落ち込んだ。
でももう一人の老婦人には誰も席を譲る気配がない。断られるのを覚悟で、話しかけてみた。
「あの、おっ、おいやでなければこの席どぅ・・」
めちゃくちゃ噛んだ上に語尾が消えた。キモイ。我ながらキモすぎる。なんだ「どぅ」って。しかもどんだけへりくだってんだ。ちょっとやり過ぎだ。やっぱり私は落ち込んだ。
「ありがとう」と婦人は座った。私のキモイ所作は全部スルーで。立派。立派過ぎ。もしかしたら気を使ってくれたのかもしれない。
思い出しながらまた落ち込んできた。世の中の人はほんとにみんな立派。そして私にはボキャブラリーがない。何回立派って使ってんだマジで。
で、その立派な婦人は、「ほんとにありがとうねえ」と両手いっぱいのキャンディを私の手に押し込んできた。
「いやあのこんな、いや、ありがとうございます」断ろうかどうしようかもごもご言ったあげく結局受け取った。なんか気まずくて、譲った座席のひとつ前に立った。
次のバス停で、二人の子供を連れたお母さんが乗ってきた。どちらも就学前くらいの幼さ。妹の方はちょうど空いたが、お兄ちゃんの方は席が見つからず、なんだかごねていた。
その次のバス停で、私の立つ横の座席の人が降りた。私はその席には座らなかった。
だってもう譲ったりするの面倒すぎたから。耐えきれない耐えきれない。おそと出るだけで怖いのに見知らぬ人と会話とかこれ以上無理。
そしたら、さっきの子供(兄)が座った。よかった。これでもう面倒ごとない。と思ったら、そのお母さんが話しかけてきた。「ありがとうございます」って。
「あ、いや、あの、もともと私の席じゃないです」って答えた。意味が分からん。お母さん律儀すぎだろう。バスの座席は早いもん勝ちだろう。そもそも私譲るみたいなことしてないだろう。私立ってただけ。ぬぼーっと立ってただけ。その子が座れたのは彼の空気読解力が高かったおかげであって、私何にもしてない。「お姉さんにお礼言いなさい」とかそういうのほんと、結構なんで。にも関わらず子供も「ありがとう」って言うの。なんか賢しげな満面の笑みで。引きつった笑顔しか返せなくてごめんね子供。
で、もうなんか、ほうほうのていでバス降りた。なんで病院行く前からキャパオーバーにならねばならんのか。
しかもその状態で病院に行ったら薬が増えた。なんか世の中に適応するどころか悪化してく病状にまた落ち込んだ。
もういっぱいいっぱいだったので、帰りは歩くことにした。なるべく人通りの少ない通りを選んで。そうすると、土曜の昼間の繁華街を歩くことになる。繁華街って書くと賑わってるみたいだけど、ぶっちゃけ風俗街だ。九州最大だ。昼なのに余裕で客引きがいる。暇そうに立ってるケバいおばちゃんは、噂によると、ほんとに天国のお使いらしい。本番天国へのお導きの。噂によると、ってか私が元気だった頃に本人から聞いたんだけど、噂ってことにしとかないと多分怒られる。誰にかは分かんないけど。
で、花壇があったのね、風俗街に。なんか一個だけぽつんとあって、でも華やかに寄せ植えされてたからこりゃ珍しいと思って写メを撮ったら、後ろから話しかけられた。
振り返ったらテンションのたっかい客引きのオッサンがニッコニコしてた。
「あ、いや奇麗だったんd・・・」やっぱり私の語尾はキモく消えた。
「そうですか!僕のポケットマネーでここ植えてるんですよ!イヤー嬉しいなー!」オッサンハイテンション。ハイテンションオッサン。
「ここ、ここだけちょっと寂しくなってるでしょ!」「・・あー、そうかもしれません、ね・・・?」正直オッサンの言ってることよく分からなかった。
「ここにねー、紫陽花を植える予定なんですよ!咲く頃になったら是非また見に来てくださいね」「あ、え、はい、じゃあ・・・」適当に同意してそそくさ逃げようとしたら握手を求められた。人生で初めて、風俗の客引きのオッサンと握手した。きっと二度とない経験だけど、嬉しくなかったし感動もしなかった。握手して今度こそそそくさ逃げた。
一度振り返ったらオッサンこっち見てて、にこやかに小さく手を振ってきた。皇族か。
疲れきって家についてちょっと考えた。こういう類のエピソードが2ちゃんコピペなんかで「和む」って紹介されてるのをよく見るけど、和む受容体がない私のような人間には、ひたすらに疲れる出来事ばかりだったなと。きっとこれらに和めたら、和む記録を蓄積してナゴムレコードになれるのだろう。