はてなキーワード: 友人葬とは
友人葬してもらえるもんな
最近、某襲撃事件の影響か、宗教の話題がホットエントリー入りすることが多く、概してネガティブな内容を目にする。
そうした記事のひとつについたブックマークコメントに、「宗教のネガティブでない側面を知りたい」というものがあった。
日本人の多くは実質的に無宗教であるし、宗教のことで話題になるのはネガティブかつショッキングな事件ばかりだ。
宗教をしながら普通に生活している人とはどのようなものだろうか、気になる人がいるのも当然だと思う。
そこで、タイトルの通り、創価学会の学会員2世である私が、みなさんからブックマークコメントや質問を頂いて、追記する形でいろいろお答えしたいと思う。
何か書いてみようかと思ったけれど、あまりに普通に生活していて事件らしい事件もないので、質問を募集する形にしたい。何か聞きたいことがあればお気軽にコメントしてください。できるだけお答えします。
なお、2世とは書いたが、厳密にいえば3世か4世くらいにはなる。ここでは、生まれたときから学会に属しているという意味で2世と称します。
→特に疑問を感じたことは無いな。生まれたときからそういう環境だから「受け継ぐ」っていう感覚がそもそも無かった。気づいたら学会員という属性を持っていたって感じ。それに対して、別に良い気持ちも嫌な気持ちもなかったから疑問はなかった。そういう家に生まれたんだなってだけ。後々ネットで叩かれていることを知ってちょっとショックを受けたりはして、そのせいで思春期は創価学会に対してマイナスイメージを持っていたりしたけど、今は特にプラスもマイナスも感じてない。俺の家も同じように仏壇があって、子供の頃から座って勤行するように教育されてきたけど、そんなに嫌な気持ちはなかった。ちょっと面倒くさいな~って程度。歯磨きするのめんどうだなーってのと同じ感覚かな。反省を促されたりしてたら嫌になってたかもしれない。自分自身は両親ほど熱心な学会員ではなくて、死後の世界を信じていないから、境遇は近いかもね。
→あんまり歴史得意じゃないから一向一揆の時代に何があったのかわからないんだけど、「他者を攻撃することが是とされる暴力装置として生まれ」たっていうのは私のことを指してる?創価学会は暴力装置ってこと?あんまり賢くないのでもうちょっと嚙み砕いて教えてほしいかも。他者を攻撃しているつもりはないのだけれども、仮に自分が暴力装置なのだとしたら、そのことには自覚的でいたいね。
→それマジ?でも、誰かの知りたいって気持ちにこうして応えられる人生で良かったと思ってるよ。そんなに嫌な目に合ってるわけでもないしね。
→選挙前に公明党に投票よろしくってお願いするやつは実際にやってるね、親がお近所さんを回ってたわ。やめてくれって言われたら素直に引いてるみたいだけど。法的に大丈夫なんか見てて不安になりますわ。ちなみに俺はやったことないし、実を言うと公明党以外の党に投票したりしている。
勧誘っていうのは、創価学会入りなよってやつだよね。やってる人はやってるみたい。でも、そんなにたくさんの人がやってるわけではない気がする。よく聞くのは、人生に悪いことがあって落ち込んでいる人を折伏(学会員に誘うことを折伏と言います)しましたーみたいな話。うまくいったら学会員の集まる大会とかで、感動エピソードとしてスピーチしてたりする。「悪いことがあった→折伏→うまくいくようになりました→宗教最高」みたいなパターンよく聞く。で、折伏は、学会活動の中でも大事な行いだとされているから、熱心な人はがっつり取り組むと思うけど、別にノルマがあるわけではない。俺はひとりも誘ったことない。そういう人が多数派だと思う。けれども熱心な人は熱烈勧誘してるかも。それも、単純な善意でやってると思う。よく効くサプリを人に勧めるみたいな感じかな。悩める他人を救うことが世界平和につながるって考えがあるから、本当に悪意なく救おうとして熱烈勧誘しちゃってると思う。それで、何十人折伏しましたーってスピーチしたりすると褒められるのよ。だから熱烈勧誘しちゃう人ができる。でも、勧誘される側からしたら、かなり嫌な気分になることもあるだろうなと想像つくね。熱烈具合は人によるけど、ダメな勧誘する人もいるんだろうなと思うよ。
→マジでそんなとこあんの?ヤバない?違う看板ってアレか、例えばサッカーサークルみたいに銘打ってるのに、実際は部員たちが部室で勤行してるみたいな感じってこと?そうだとしたらちょっとびっくりですわ。そこが創価大学だったら入学者の殆どが学会員だろうからまだわかるけど、普通の大学でそれやってるんだったらドン引きです。いままで全然そんな話を聞いたことがなかったので、内部的な評価はわからない。けれども、一学会員としては、それは良くないと思う。そういうことすると、ただでさえネガティブな感情を持たれているのに、余計にマイナスイメージ付くし、おっしゃる通り自分たちで首を絞めている感じする。別の看板掲げてるんだったら、それに沿った活動をしなさいよって思うね。
→?どういう意味?
→葬式は形式と居心地が若干違うかな。学会員の友人葬では、坊さん的な人を呼ぶんじゃなくて、集まった皆で題目を唱えて供養をするんだよね。友人が代表になって唱えて、それに皆で唱和する感じ。題目自体は普段から唱えているから馴染みのある文言だし、坊さん的な立ち位置の人が部外者じゃない友人だから終始アットホームな感じがある。もちろん葬儀だから厳かさもあるけどね。坊さん的な人を呼ぶ場合って結構当たり外れがあるじゃない。なんか説教下手だなーとか素人ながら感じる時もあるし、お金もかかる。そういう問題は無いから個人的には友人葬の方が好きかな。ただ、学会員じゃない人が友人葬に出席する場合、周りの出席者が急にお経みたいなのを唱えだすからちょっと驚くことになるかもね。でも、出席者みんなが葬式に参加している実感が得られて不謹慎かもしれないけど面白いと思うよ。
あと、これは非科学的でかなり主観的な話になってしまうから話半分で聞いてほしいんだけれども、信心している人は死に顔が違うってよく言われるんだよね。生前学会員だった人は死に顔が穏やかだって言われるの。そんなもん眉唾だろうって思ってたんだけど、実際に今まで出席してきた葬儀を振り返ると、学会員の故人の顔色が穏やかなのは本当に思える。というか、学会員じゃない人の葬式に出るたびに、棺桶から覗く顔色の悪さに驚くんだよね。単純に経験してきた葬式の数が少ないからそう思うのかもしれないし、化粧の問題も大きいのかもしれないけど、死に顔を穏やかにしたい人は入会するのもありかもねって思う。
→良い部分もたいがい他人事だよ。自分はあんまり積極的に活動してないからね。同じ属性を有しているからといって、他人の行動の責任を負うことはできないでしょ。
→自分はあんまり熱心な学会員じゃないから、毎日は唱えてないのよね。悩み事があったり、神頼みしたくなったりしたときに、思い出したように勤行してるわ。なんとなく頭をすっきりさせたいときとかに唱えると、気持ちが落ち着く感じがある。自分は、最近流行のマインドフルネスの一種みたいな感じで題目を捉えてて、そんなに無駄な時間とは思わないよ。どうせ気持ちが落ち込んでるときなんて、意味もなくYouTubeでだらだら動画見たりしているだけだし、それに代わる行動としてはやる分には無駄の程度は変わらないんじゃないかな。両親はほぼ毎日題目を唱えているけど、瞑想を毎日やる習慣にしてる人もいるだろうし、それと同じ感じだろうと思えて疑問を感じることもないかな。しかも、唱えたら(ざっくり言うと)幸せになれると言われているからお得感あるよね。
→自分の年収は300万程度。まだまだ新米社会人だから薄給ですわ。寄付額は0円。全く寄付していない。学会からも家族からも寄付のお願いはされてないね。されたとしても多分断るかな。薄給なので自分ひとり生きるのに必死なんだよね。将来大金持ちになったら少額寄付したりする可能性あるかもしれんけど、いまのところは余剰金が無いし、あったとしても投資信託とか買うかなー。親の年収は推定だけど1000万無いくらいだと思う。寄付は毎年しているみたいだけど、どのくらいの額かは知らないんだよね。でも、世間で問題になるようなウン千万円の寄付とかでは絶対にない。多分多くても10万円以内じゃないかと思う、少額と言ってるのは聞いたし。寄付によって家庭が壊れたりとかは無いです。自分は大卒なんだけど、奨学金を借りずに親のお金で卒業させてもらえたし、金がないから必要なものを買えなかったとかも無い。自分の住んでいる地域では、高額な寄付によって苦しんでいる人は見たことないかな。ニュースでそういう人たちがいるみたいなこと聞いて、マジでいるんだーって初めて知る感じだ。親が身の丈を超える高額な寄付して苦しんでいる子どもとかって大変やな、可哀想だなと思う。何とか救済されるといいっすね。
https://anond.hatelabo.jp/20220715032108 これの続き
とあるサークルに入ってみたら、カルトタブーをギャグにする俺イケてる! みたいな感じで、部誌に全然似てない池ちゃんの似顔絵を原稿に描いてきた先輩がいて、部誌の編集に携わっていた私は、「これは良識的に考えて載せらせません」と断った。
私は誰にも私が学会員であることを明かしていないながらも、池ちゃんはそんな似顔絵で茶化される存在なのか…と思うとなんだか、ごく普通のことみたいに、胸が痛かった。
その様を隣で見ていた別の先輩(現在の夫)はいまだにその掲載謝絶エピソードを覚えていて、私にたまに話してくる。
非会員とほぼ同じ生活を送っている。
ほぼ、と書くのは、コロナ前まで、年イチ、元旦にある「新年勤行会」だけは親につきあって顔を出していたから。今学会どうなってんのかな? と見に行く感じ。
未だに新入会員とかいて(その場で発表される)「へー」って思ったり。私より若い人たちも意外と頑張ってたり。
私自身が活動しない理由はまあ、面倒くさいから、これにつきる。
背筋を伸ばして顎を上げ、腹から声を出し唱題することで感じる唱題ハイを感じたこともあるけど、毎日決まった時間に仏壇の前に座るのは面倒くさい。仏壇という存在も面倒くさい。
ごろごろしたいから仕事の後会合なんて絶対無理だし、友達も家族もいなくなりそうだから選挙や折伏、新聞啓蒙なんてもってのほか。
多額献金なんて私のまわりではきいたことないが(そういう会員がいてこそ、ヤフドも借り切れ立派な会館も建つってもんだろうから否定してるわけではない)まあそれでも年1くらいは、いくばくかお金もつつまないといけないだろうし。
新興宗教はとにかくマジであらゆることが面倒くさいし、見合うリターンがあるのかっていったら多分ない。
それでも、なんの活動もしてなくて、上のようなことを書くようになった今にいたっても、現金なもので、どこか「ご本尊様」というのは心の支えになってるところは確かにある。
何かピンチの時に心の中で「南無妙法蓮華経」と念じると心が落ち着くところがある。
それは、人によっては別の宗教なのかもしれないし、おいしいパンなのかもしれないし、大事な人なのかもしれないし、野の草花なのかもしれない。
いずれにせよ、あなたの心の中にあるそれと、実際大差ないのではないかと私は思うし、心の中に支柱があるということは、精神の安定に他ならない。
とっさに念じられるものがある心は強いなあと、それだけは思う。
義姉はプロテスタントなのだけど、何か困難があってを祈る時は「主よこの困難を取り除いてください」ではなくて「私にこの困難を乗り越える力をお与えください」と祈るのだという。
どこか通じるところがある考え方なだなと個人的には思っている。
熱心だったうちの母も、往時ほどには活発に活動していないし、「最近の学会は池田教にみたいになっていて嫌だ」とこぼすこともある。
私にこぼすどころか、同じ地区の会員らにはっきり「先生、先生といって、池田教みたいになってることには抵抗を覚える。牧口先生も戸田先生も尊敬しているが、池田先生は私たちの信仰を導く同士であって、信仰の対象ではない。私の信仰の対象は日蓮大聖人であり、南無妙法蓮華経であって、池田先生ではない」ということを伝えて活動している。
だからっつって別にそれでハブられたりすることもなく、仲良くやってるようだ。
今は離れて暮らしてるので、母体のしっかりした、善人の多いコミュニティにいてくれて安心だなーと思ってるところすらある。昔に比べて会自体がマイルドになりつつあることもあるだろう。
母は亡くなったら友人葬(学会員の葬儀スタイル。特段にお金はいらないと記憶している)で送ってほしいということだから、この前帰省した時、地域の取りまとめしてる方にご挨拶をして、実際にことがおこったとき誰に連絡して、どうすればいいのかという話をきいておいた。
葬儀屋の方も心得てるし、我々にも「しょうてんぎ長」(だったかな? 漢字わかんない)っていう係の人がちゃんといて、ネットワークがあるのでまったく心配ないとのことだった。
事前にどうすればいいのかわかんないとアワアワしそうだし、その話はきけてよかった。
公明党については…そもそも新進党がどうのみたいな紆余曲折も幼心に疑問ではあったのだけれど、大学のころくらいは、政党として悪くはないんじゃない、まっとうなんじゃないくらいには思っていた。
でも連立が長引くにつれてそういう気持ちは消えた。
チラッと書いたけど投票もしてない。
親はしてると思ってるけど、私は入れませんとか言って老いた彼女を悲しませるのは本意ではないので、口では「入れてるよ」と言っています。
創価中・高増田はその内容の中身のなさを看破していたが、なんか普通に「キング牧師は言った! ○○と!」みたいな引用でも抑揚のつけ方、話し方がすごくうまくて、声にも不思議な魅力・よさがあると思う。
教えより何より池ちゃんスピーチ(中身がないのに説得力があり魅力的)が一番カルトっぽい。
こういってる私も昔の池ちゃんのスピーチを新年勤行会でプレイバックしてるのきくとなんか感動してしまう。
ただし会館を出るころにはさっぱり忘れてしまうのだが。
やっぱここまででかい宗教になったのはひとえにこの人の力であり、この人を先生先生と言ってる限りはカルトのそしり免れ得ないのだろうな~と感じる。
そこがうちの母なんかが納得いってないとこなんだよな。
一般社会と同じでいろんな人がいるとしか言いようがない気がする。
ヤフコメで、「自分は二世だけど、自分で努力して成し遂げたことも、家族にはすべて「ご本尊様のおかげ」で済まされてしまい、自己肯定感が著しく下がった。今はそんな実家と距離を置いてる。大嫌い」、みたいなことを書いてる人がいて、あーなんかこれ学会の人超言いそう、コメ主の気持ちはなんとなくわかるなと思った。
うちの母も「あんたがこんなにいい子に育ったのは私がご本尊様に祈ったからよっ! 子どもがほしくてほしくて祈ってできた。信心のおかげでさずかった」とよく言っていたから。ていうか今もいってる。
しかし私は、自分のあげた成果(たいしたことはいっこもない)を母に「ご本尊様のおかげ」と横取りされたと感じたことはない。
いつだって私自身をすごく肯定して育ててもらったなーと思っているし、今もほぼ全肯定でいてくれるありがたい存在だから、私も母のことについて、できる限り肯定的でいたいなと思っている。
母が子を授かりたいと思って祈り、さずかり、育てながらやはり絶えず祈ってきたというのはただの事実であって、そこを否定する気持ちはない。
そういう経緯で生まれて育てられてきたこと自体も含めて私なんだろうなと思うし、それが嫌だなと思う気持ちはない。
全然関係ないけど、7年くらい前、長崎旅行で友達に買ってきたお土産のミニよりよりを母が勝手に食べてしまい、わるびれもせずに「あんまりおいしくなかたった」と言い放ったことに対して、めっちゃ怒ってしまったことがあったんだけど、最近それをよく思い出しては胸が痛くなる。
なんであんなに怒っちゃったんだろう…別にいいじゃん、それくらい。
地元の会員さんが絵手紙に凝っていた時期があり、4年くらい前の誕生日に、色紙にあじさいの絵と『御書』の一節を書いてくださったことがあった。
うすあおく、うすむらさきでもあるあじさいの花にかこまれ、こう書いてある。
「鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日あまり歩みを運びて、今一日になリて歩みを差し置きては、何として都の月をば詠め候うべき」
信仰や思想信条にかぎらず、「途中で投げ出すなっつーに」というのは、いつだってどんな局面だってシンプルに心にしみる言葉だなと私は思っていて、いただいてとてもうれしかった。
タイトルを見て何の話か察したひとも多いだろう。ちなみに自分はわからなかった。
「友人葬」とは創価学会特有の葬儀の方式のことである。亡くなった親族は配偶者が熱心な信徒であり、本人も一応入会していたらしく、そのこともあって葬儀も友人葬で執り行われた。そして、実際にそれに参加してみたら、創価学会が一定の信者と、一定の反発を呼び起こす理由を体感することができた。
通常の仏教式の葬儀(といっても増田自身まともに知らないのだけれど)と、友人葬の違いはいくつかある。
一つ目。葬儀は創価学会員が全部仕切る。遺族とか親族とかの意見は特に聞くことなく、葬儀の段取りを全部創価学会のメンバーがやる。
二つ目。前の方で読経するひとが複数人いる。勝手なイメージだけど、仏教式の葬儀はお坊さんが一人で前の方に座るものだと思っていた。友人葬では「導師」が2-3人前に座って読経する。
三つ目。参列者の創価学会員が全員一緒に読経する。よくある葬儀では、お坊さんが一人で読経するだけである。しかし、友人葬は参列する創価学会員全員で読経する。もっと言えば、おそらく物故者本人とそれほど交友があるわけでもない人たちがやってきて、読経して帰る。
四つ目。関係者から弔文とかが届く。たとえば、「導師」の言葉の中で、池田大作名誉会長と原田実会長からの言葉が読み上げられる。あとは国会議員・市議会議員とかからも。
参列する前から、よくある仏教式の葬儀だと思ってたんですよ。それがこれ。色々な思いが脳裡を通りすぎていった。
まず、「意外と普通だな」ということ。基本的に仏教だから、読経の内容自体はただのお経である。あと簡単。「南妙法蓮華経」って三回唱える・あるいは何度も繰り返し読み上げる。方式の簡略化。難しい教義とかなしに同じ言葉唱えていればいいんだからそりゃ信徒獲得するわなと。
その次に思ったのは「なんだこいつら」ってことです。物故者はもうボケてて、友人が遊びにきたりすることはまずなかった。だから参列者とか絶対知らない人なんですよ。なのにいきなり葬儀に集団でやってきて何から何まで仕切り始めるの、はっきりとむかつきますよね。お前ら他人だろ、死ねよ、くらいの気持ちです。
でも、その後に思ったのは、「これはこれでありがたい人もいるんだろうなぁ」ということです。まず、遺族にとっては煩わしい葬儀の手続きを全部学会員がやってくれるの、そりゃ楽ですよ。受付に座ったり、葬儀における各種手続きを全部、本当に全部学会員が勝手にやってくれる。この簡便さは、一つのメリットなんだろう。学会員がいきなり押し寄せてくるのも、見方を変えれば「淋しい葬儀にはならない」という利点がある。みんなで読経するのも一緒だ。見ず知らずという意味では普通の仏教式の葬儀でも別に住職さんとかと普段から仲が良かったり会ってたりするわけでもないのに、それをありがたがるのも不思議な話で、そういった特権的存在一人が読経するより「仲間」(物故者の配偶者の言葉を借りた)が一緒にお経を唱えてくれる方が嬉しい、と感じる人がいるんだろう。
自宅で行われたそれは途中までは基本の葬式の形と同じだと思っていた。
しかし坊さんがこない。増田はああいう宗教の通夜に出るのは初めてだったので戸惑った。
司会は儀典長というスーツの人がとりしきった。地区ごとに割り振られているらしい。
その人は故人が亡くなった日から通夜、葬儀までちょいちょい顔を見せに来ていた。
増田は故人家族とは距離を置いていたので、少し離れたところからその様子を見守った。
故人のことをよく知ら無さそうな人が死んだばかりの顔を見に来る。
故人の兄が、その人から守るように故人の側にずっといた。
増田は故人が学会員ということも知らなかったのだが、どうやら故人は結婚してしばらくたってから嫁家に学会員にさせられたらしい。
熱心なのは嫁ということになる。家の中には池田の本がずらりとそろっている。本屋に売っているようなものでは無いぞ。広辞苑みたいにな分厚さだ。
流れは普通の葬儀と同じだが、儀典長(おっさん)が坊さんがすることをする。
勿論お坊さんと比べればお粗末なものである。正座で足がしびれていたくらいだ。
しかし始まってから、決定的に違うことが起きる。儀典長のお経読みが始まってすぐのことだ。
「なんみょーほーれんげーきょー!なんみょーほーれんげーきょー!!」
地響きがするように大きな声でほぼ全員が読経しはじめたのだ。しかも暗唱だ。
10分くらいだと思うのだが1時間くらいにも思えたその時間、増田はパニックだった。
増田の周りに宇宙人が居る気がした。知っている親戚たちじゃなかった。
増田は、彼らのことを何も知らなかった。
思えば父親に守られて遠ざけられていたのだろう。
どちらかといえば無神論者の増田は、故人の写真を見つめながら「どうしてこうなったんだ故人」と語りかけた。
勿論返事は返ってこない。気付けば泣いていた。怖さよりも、悲しさが優っていた。
儀典長が正座でしびれた足をほぐして立ち上がり、池田大作の生死論を語る。
そして贈られていた盾の話と、「創価学会名誉本部長」の称号を与えることを伝えてきた。
ぐったり疲れたのだが、ここでさっきまで居た親戚たちのパートナーが式自体に参列していないことに気付いた。
逃げたのだ。それは正しい選択だった。しかしきっと自分たちも故人のようにされてしまうかもしれない。
今は逃げていても、もし死ぬと分かった時、彼、彼女たちは果たして学会から逃げることができるのだろうか…。
まぁ…そこでなぜあの一家が揃いも揃って離婚と再婚を繰り返しているのか納得いったのだが…。
翌日行われた葬儀もほぼ同じメンツだった。違うのは南無妙法蓮華経を暗唱する子供たちが居たくらいか。
相変わらず弔問に来る人たちは故人を知っているわけではない。
それもそのはずだ。故人が弱っていくときに無理やり嫁が引っ越したのだ。
地元なら、どれだけ多くの人が来てくれたのだろうと言う話を後々した。可哀想でたまらなかった。
小さな家では足りなかっただろう。大きな会場を借りて、みんなが知っている人で、惜しまれてもらうことができたのではないか。
良い人だったから。口をそろえて言う。優しい人だったと。
増田も故人が好きだった。好きだったけど、もう故人の事が分からない。
どこにお金が行ったのかと考えたが、お金お金とうるさかった嫁が絡んでいるとしか思えない。とすると、そのお金はどこへ消えたのか…?
考えるだけで頭が痛い。
先に言っておくと、擁護でも批判でもありません。ずっと昔から考えてきたことが、まとまりそうな気がしたので書いています。
両親は創価大学で出会って結婚した。二人とも朝晩の勤行を欠かさず、会合にも積極的に参加している。聖教新聞と大白蓮華を取っていて、隅から隅まで読む。
私は正式に抜けたわけではないが、勤行はしない。会合の案内のラインが来ればそれなりに対応するが、行くことはない。公明党には入れるときもあれば入れないときもある。仏壇に手をあわせることが年に2、3回はあるが、自分からすることはない。しかし、御本尊を破れと言われたらかなりためらうだろう。お地蔵様を壊せないのと同じだ。
勤行をしない私、会合に行かない私に、両親はとくになにも言わない。選挙の時だけお願いねと言われる。ありがたい、と思っている。
小学生くらいまでは会合にもそれなりに出ていたし、朝晩に三唱くらいはしていた。中学生のころ、御書の説教臭さがいやになったり、ネットの書き込みを見たりして、だんだんと会合に足を向けなくなった。反抗期を利用して三便もしなくなった。今では、抜けた理由を聞かれたら、「方針が合わないので」「公明党と意見が違うので」と言うだろう。
そういう私だ。
頭がパーンとか、そういうたぐいの書き込みを見ると腹がたつ。強引で失礼な勧誘に合ったと聞いたら、申し訳なくて胸がふさぐ。友人が何気なく言い放った「私宗教ぜんぶ嫌いだから!」という言葉に傷つく。両親のことを愛している。学会がなければ私は生まれなかったと思う。新年勤行会のばんざい三唱はクソ食らえだ。「知ってる?誰それさん創価だって」と言われて苦笑いする。同じ創価二世の友達とため息をつく。池田先生がなにをしてくれたって言うんだよ。会合に参加しているのはいい人たちばっかりだ。いったいいつまで、こういう板挟みに苦しまなければならないのだろう。
東日本大震災のとき、その夜、「宮城沖で数百と推定される遺体発見」というニュースを見て、怖くて眠れなくなった。どうしたらいいのかわからなかった。津波の映像がなんども頭をよぎった。数百人、数え切れない量の人が海で死んだ。その一人一人に人生があった、その恐ろしさに震えた。その人たちを悼みたい、その人たちが死んだことを悲しみたいと思った時、布団の中で丸まって「南無妙法蓮華経」と何度も唱えた。それしか悼む方法がなかった。そしてそういう自分にショックを受けた。私は死者を悼む方法をこれしか知らないのだ。信仰心はなくても、方法だけが自分の中に残っている。
いいとこどりをするんだ、と決めた。信仰心はなくてもいい。都合のいいところだけ使えばいい。オリジナルの祈りの言葉、オリジナルの生きることへの姿勢が見つかるまで、意味なんてなくても唱えていい。熱心な信者だった祖母を、これ以外の方法で弔うことができただろうか。両親が死ぬ時、友人葬以外でやりたくない。でも、公明党に投票しなくったっていい。義理なんて感じなくていい。両親を愛していい。でも信仰を拒否していい。勤行はしない。
わたしはもうすぐ大学を卒業して、親元を出る。大丈夫だと思う。
同じようにしている人に大丈夫だよって言ってもらいたくて書いた。早く大丈夫になって、同じようにしたいと思ってる人たちに、大丈夫だよって言いたい。
でも大丈夫じゃないかもしれない。10年後くらいに信者に戻ってるかもしれない。いやだな。大丈夫だって言ってください。
あとこれだけ言いたかったんですけど、池田大作、短歌下手すぎじゃないですか?誰も何も言わないの?
それだけです。
同居の家族構成はこんな感じ。
嫁
嫁の親父
子供三人(上二人は嫁の連れ子)
俺(マスオ状態)
実は結婚寸前まで知らなかった。というか嫁も嫁の親父も「不真面目学会員」なので、一般人と全く変わらない。だから、結婚する時も最初ウチの親に学会員てだけで眉をひそめられたけど、今はまったく問題なし。ちなみに俺の実家と嫁・嫁親父の関係も極めて良好。
おれが学会嫌いをカミングアウトしたら、池田大作の本も焼かないまでも隠してくれたし、そういう配慮にはホント感謝。嫁の家が学会員てことなんてずっと忘れて暮らしてた。
そんなうちに、ずっと病院生活だった嫁の母親が死んだ。通夜と葬式しなくちゃならない。
おれ遺族にあたるし、めっちゃ我慢してたけど、坊主なしで喪服のオッサンがナンミョーナンミョー連呼して、隣にいる嫁や近所で仲良くしてた義兄とかもナンミョーナンミョー言ってるのに正直ドン引きした。後ろみたら嫁の連れ子の二人も、上の子はサボってたけど真ん中はナンミョー言ってるし。ちなみに、この二人は学会には入れていないとのこと。
普段まじめに宗教活動してなかったらあまり気にしないけど、葬式とかあると強烈に意識するよねこーいうの。ていうかホントは嫁にも学会辞めてほしいし聖教新聞を昔からとってるのも辞めてほしい。でも、嫁の家(嫁親父含む)からしたら前々からこんな感じのユルユル学会員生活できたのに、やってきた新入りに「おれが気に入らんから辞めろ」と言われるのも癪だろう。だから、「おれはイヤだしホントは辞めてほしいけど、強制はしない」というスタンスをとっている。
しかし枕元にある、「今まで存在すら忘れそうになっていた」仏壇が開いて、学会特有の「戒名じゃなくて実名の書いてある」位牌を毎日見てるとどうにも気になってしょうがない。今まで「やっぱ学会はアカンわ。わしゃ目が覚めた」といってた嫁親父が「池田大作」と書かれた香典袋を見て興奮して舞い上がってたのを見て呆れる。嫁に言われたことはなんでもそのまま忠実に実行する真ん中の娘がお供えのご飯をもってきて大声でナンミョー唱えるのも正直ムカムカする。
嫁がおれに気をつかって本を隠したりして譲歩しようとしてくれているのに、おれはムカムカしてるあたり、自分のワガママの方が大きいなぁと自己嫌悪にも陥ってみたり。