はてなキーワード: 言葉遊びとは
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20221218122959
上位ブックマークコメントは「信じたいことを書いただけ」「ひろゆき的な反論ができる」などの言葉遊びが大半
真っ向から「俺は表現の自由戦士だが嫌韓ネトウヨはやったことがない」と反論しているのは一人しかいない
「表現の自由戦士の99%は10年前嫌韓ネトウヨやってた奴ら」に反論しているブクマカが一人しかいないのがもう「答え」だよね
海賊版サイトでfakku等によって原本から翻訳されたものが幅を利かせせているので、本来なら原本を買えば済む話なのだが、とにかく日本人側は翻訳版の再翻訳をしなければならない歪んだ状況に立たされているという話になっていた。
そういう話の流れで出たのが双龍の漫画「こういうのがいい」ってどの言語でも訳せなそうだよねという話だった(あえて言い古された「ちんちん亭」には触れない)。
もちろんこれは「こういうのがいい」の翻訳版を謳うものが出た場合は既に元の台詞回しのニュアンスが壊れているはずなので、また原本の日本語自身が独特なので、元の台詞を復元することは困難であるという含みもある。
台詞回しの一例をあげてみよう。
女:ワキガチェックしてくれたまへ
男:剃り残しがございます
女:うむむ…永久脱毛の金を稼がねば…って違うぞ違うぞぉ?臭いはどうなんじゃ
男:…なんか甘いんだが
女:スイーツだと
文章の随所において終助詞など細かく拘られていて、独特のテンポが形成されている。
ただ何より注目すべきなのは、このピンクの美少女が「違うぞぉ?」とか「どうなんじゃ」とか中性的かあるいはどちらかといえば男性的な口調でものを言っていることだろう。
この言語的倒錯が生むチャーミングさといったら一体どう翻訳すれば保存できるのだろうか。
たとえば英語圏にも男性口調とか女性口調の区別は確かにあるのかもしれないが、ただ女性に男性口調に相当する言葉を言わせる「ずらし」でそれは再現可能なのか。
上記の男口調は、俺妹にも拙者が一人称の男言葉を使う女はいるが、あの口調ともまた、それが放たれたときに読み聞きした側が感じる空気感というか味わいといったものが異なると思う。
つまり同じ言語内における言語的倒錯についても、ずらし元とずらし先の違いによってそうしたニュアンスが異なってくるのに、その各ニュアンスを別言語において再現可能なのかということだ。なかなか難しいものがあると直感される。ちなみに現代の女性が「たまえ」というだけでも面白いがそれが「たまへ」と表記されたときの独特の滑稽味もまた再現し難いだろう。
もう一例あげておこう。場面は風呂場の脱衣所で男女が裸になっているという状況だ。
女:ふいータオル貸してー
男:いいよーっておいそれ昨日使ったやつだぞ洗ったのあるよ
女:いいよ別に乾いてるし
女:むっ雄の香り
男:えっ?酸っぱい?お酢?
女:ちゃうオスメスの雄w
やや育ちの悪そうな自然体の男女カップルの会話が自然に、あるいは少し技巧的過ぎるかもしれないが、素晴らしい具合に再現されている。ちなみにネカマするならこういう本からこそ口調を見習うべきだろうとも思う。
後半の雄とお酢の畳みかけは、男の受け答えが女の意図したいことに対してあながち間違っていない(絶対酸っぱい匂いがするという意図もあったはず)という点も含めて言葉遊びとして面白い。
しかしこうした言葉遊びの翻訳は後述するが映画翻訳業界では十八番のようなもので、比較的なんとかなる類のものかもしれない。
さらに続きを見てみよう。
女:乾かして―
男:なんで至れり尽くせり体制なん
女:頼むぅいいじゃんよぅ
男:だが断る
女:えぇなんでー面白いのになー
女:でも勃起サイズアップするらしい…ってあれあれ~?復活ですかー?
男:いや刺激与えたらそりゃな?
もはや語尾の小文字と長音符の使い分けなど、この作者の文体の妙を説明するうえでは些末な類だろう。
「至れり尽くせり体制」などの日本語母語話者が談話においてしがちな咄嗟な造語はどう訳せばそのニュアンスを海外の読み手にも届けられるのか。
伏字になってない伏字も面白味があるがこれは比較的なんとかなりそうだ(相変わらず女の使う「だぜ口調」が翻訳の難所になろうが)。
男がジョジョの言葉を使っていることも注目しておきたい。誤用であるかもしれないことは作者も承知している可能性があるのであえて触れないとして、こういったものはどう訳せばいいのか。
そもそもこういった台詞は元ネタを知っているかしないかで同じ日本人でも読んだときの感覚は異なっているだろう。
結局ジョジョが世界的に有名な作品なだけあって、その言語圏で出版されているジョジョの該当セリフをそのまま引用してあげれば割とスムーズに我々が感じているニュアンスを届けてあげられるのかもしれない。
・
ある言葉が翻訳可能かについては、そもそも出版や映画の世界の翻訳技術の長年の蓄積があるのだから、薄っぺらなのは承知でこれらにも触れておく。
先述したが言葉遊びの部分を別の言語に落とし込むことは映画翻訳が得意とするところである。
その言語の音韻体系でしか成立しないだろというものもうまく落とし込まれているものである。ぴんと来ないなら参考にtedの生音声と字幕を比較してみることをおすすめする。
「ぼくのワンダフルジャーニー」の原題は"the dog"である(the objectを「遊星からの物体X」と訳すのとは似て非なる事情だと思う)。
素人目にはどうしてこんなアクロバティックな翻訳な成立するのだろうと思わずにはいられない。
逆に向こうの人にとって"the dog"という訳はどういう印象を持っているのか?個人的にはお堅い文学的な味わいすらも感じられるが、それを母語とする人にはひらがなで「いぬ」と書いた程度のニュアンスまで幅広くカバーしているのかもしれない。
「いぬ」と「ぼくのワンダフルジャーニー」なら、まずまず対応していると言えなくもない…か?
あるいは端からニュアンスを丸ごと保存しようとは翻訳家も考えないものなのかもしれない。
その文章の文体やテンポが、鑑賞者にとってのニュアンスや味わいに対して重要な要素としてどれだけ影響を与えているか、支配しているかということは弁えているものなのかもしれない。
たとえば注意書きの文章をテクニカルライターとして翻訳するにあたって、日本語の注意書き、特に箇条書きが持つ淡泊さを独特のニュアンスとして捉えその存在性を肯定することはできるかもしれないが、日本人が注意書きを読むにあたってそのニュアンスを重要としていないのと同様、そのニュアンスが保存されているかどうかにまで気配りする必要はないだろう、という具合だ。
とっくの昔に源氏物語が様々な言語に翻訳されていることも押さえておくべき事実だろう。
これもまた古文が持つ独特の味わいをどう翻訳しているのか、あるいは翻訳を放棄しているのかという話になる。
日本人の心には中等高等教育を経て古文単語に対して、仰々しさをはじめとした独特の感性が培われている。
その感性を通してこそ「変態糞中納言」は独特のギャグとして成立するわけだ。
しかし源氏物語にはギャグの要素はあったとしても重要ではないだろうし、結局助動詞とか係り結びに使う助詞が持つあのニュアンスは全部放棄しているのだろうか。
アーサー王物語時代の古英語でも使えばあるいは教養ある英語話者に似た味わいを感じてもらえるかもしれないが、これは英語圏の人間に限られる手法となってしまう。汎用的な手法を見出せないものか。
ところで海外の人が日本のアニメを字幕付きで見るということが大いに行われている。
主観になるが吹き替え版は可愛くない。仮に可愛いのだとしても、少なくともそれは日本人声優の演技とは別質のものである気がする。そのあたりにもなにがしかのニュアンスが宿っているかもしれない。
そのニュアンスは非言語的な要素が持つものであって話がずれていると言われればそれまでだし、因果関係上は先に生の動画があってその日本語が分からないから字幕をつけているというものに過ぎないわけだが、とにかく日本人声優の演技というのも、字幕の持つニュアンスを補うための日本語の音声という側面があると私は解釈している。
私なりに長々語って来たわけだが、私の関心はあくまでこうした「多言語に訳せない言語」が日本以外に諸言語にあるか、それにはどういった事情があるかなどといったことであって、巷で言われるような「日本語は難しい」的な自言語を特別視する態度は持ち合わせていない。
むしろ浅学でわずかな日本語と英語の例で比較したり考察したりすることしかできないのが嘆かわしいぐらいである。
戸田奈津子や村上春樹や、最近だと東大に40言語話せるハイパーグロットがいるらしいが、彼らに自分が「訳せない言葉」と思うものを持ち込んで翻訳をお願いし、その翻訳作業をじっくり見学したいものである。知見も深まるというものだろう。
言葉遊びで誤魔化している様な気がする。
問い合わせへ対し説明すると確かに相手は説明内容を承り知るだろうけれど、それを指して相手が承知したと判定するのは無茶だ。
もしそんな言葉遊びで一旦先延ばししようとしているのであれば相手は「そのような説明を受けましたが我々は認知したのは先日の説明時であり不正かどうか関係各所と共に調査をし判断をしている最中です」と梯子外されると一気に形勢悪くなる。
もちろん言葉遊びなんかしているのであれば今後にあるだろう裁判でも心象が悪くなる。曖昧な姿勢は本当に良くないからしっかり明確な返答をして自分たちは間違っていないんだと証明してくれ。こっちは応援してるんだから。
お前が間違っている個所を俺はさんざん指摘してるわけだけどさ。
お前は上から目線で「まあまあな論証だな」とかなんとか言ってるけど、こっちからすると1個とて専門家かそこそこ詳しい人ならあり得なさ過ぎて絶対に犯さないレベルの間違いなんだよな。誤解と語弊を含みまくった詭弁だらけのもともと全然まともな主張をできていない人が、さらなる議論において専門家がするとは到底思えない小学生レベルの詭弁を用いているわけで、逆にお前の素人意見のどこに「専門的な議論に足り得る」要素があると信じたらいいんだ?
下っ端の俺レベルでここまでズタボロに指摘するポイントが山のように見つかるのよ?自己認識が現実と乖離しすぎてるけど、自分の実力を客観視する機会がなかったんかな?専門家と会話したことある?
これとか悲しいほどに詭弁だろ?お前が個人的に信じているお前が作った超定義的なルールを議論や会話に独自適用しようとしてるわけだ。日本語の会話や議論のルールは個人が自由に決めて作ってるという発想が小学生並みにファンキーだ。アウトオブ秩序だな。根拠に基づく学術的議論どころじゃねえ、日常会話でも成立するか怪しいんじゃね?俺も、会話において独自解釈で独自適用するルール作ろうかな?小学生の言葉遊びなのか?これで専門家と議論するって、分数わからないのに大学の数学教授と数学的議論ができるって言い張ってるレベルなんだが?
むしろお前が自分を意味のある議論ができる奇跡の素人だと信じれる根拠を教えてくれよ、すげえよお前。客観視する能力がなくて。
黙ってろっていうけど俺が言ったのは「非専門の人間は専門分野で専門家と議論するに足る知識レベルにない、専門家と議論できる知識レベルってそれもう専門家」って話だぞ。この会話はどう見ても専門的な議論じゃないし黙る理由が読めないんだけどどういうこと?このレベルの会話でもお前にとっては専門的議論なの?詭弁でしょ
専門家ならこんな指摘1個たりともされるわけねえのよ。詭弁だらけのちょっとだけ詳しい断片的な知識のある人ってつまり、専門知識がなくて専門的議論ができない素人ってことじゃねえかよ。なんだお前。
要求についての話なんだから選択出来るのは明らかという自明な部分を後出しで言葉遊びとするの読解力やば過ぎる。
自分の体を自分で選択して決める権利があるのは人権というコンセプトの根幹なのにそれについて他人がどうこうしろと「要求」していいという考えは人権という概念に真っ向から反すると思うんだが、倫理的にそれが正しいという主張?
今までなら、どうもありがとうと言っていた所で「ドーモ君です〜」とか言う。
どうも→ドーモ君というように、言葉遊びというかダジャレみたいな冗談が多い。たとえばいつもなら寝る、というところを「ネルケル・アンゲラ」とか言う。(メルケル元首相にかけてるっぽい)
昔、精神分裂病の患者が好んでこのようなこと言うとか、口癖があると見たので怖い。しかし口癖以外はふつうなので、病院に連れて行くべきか迷う。でも突然こんなことを言い出すのって脳に何かあったんじゃ……って感じでさ。
俺の専門分野にも哲学者が入ってきたことあったんだけど、なんかそれっぽい単語をただ置き換える遊びを永遠にやっていてあぁこの人たち本当に居る意味ないなぁ~って思った
言葉遊びしかしてないし、その言葉遊びにしても専門用語を語感で解釈して曲解しては「こうとも解釈できる」とか言い始めて的外れな連想ゲームを始めるし
せめて専門語を一般人にわかる言葉に翻訳してくれるとかなら少しは価値あるけど、小難しい言葉を並べて元の言葉より難解にして曖昧にするだけだし、あの体験で俺は哲学者というものを完全に見限った
一人一人が複数の専門分野を持てたくらい学術が発展してなかった昔には、哲学っていろんな分野を統合する学際的な枠組みとして役立ったのかもしれないけど、
今更この時代に哲学をやろうっていう人間に他の分野のことが理解できるだけの頭がついてないから、なんかよくわからん小難しそうな枠組みを提示して煙に巻こうとするだけ
あえて書く場合は「一般的」にそうではないことが多いからですよ。
「普通なら」こうであるはずであるということを「客観的に」分析した結果を語っている場合に使われることが「多い」文法や文脈の中で、「特例的に」個人的な感想を語っているから付け足しているのですよ?
そんなことも理解できないのですか?
たとえば、
という言葉に対して「いやいや俺たちここに通ってるんだからわざわざ「この学校」ってつける意味ないじゃん」と貴方が言って、
実際に「ソフトボール部では女子が男子よりも強い」って形にしたらどうなりますか?
きっと貴方こそが「え?でもそれってこの学校だけじゃないの?」と答える人なんでしょうね。
ハハハハハ
笑えねえ話だ。
テメーは自分の使ってる言葉の意味が本当はよくわかってねえからそんな無価値な言葉遊びしてんだよ。
バーか
ときどき、「体育教師は運動得意だから体育苦手な奴の気持ちがわからない」というのを見かける。
中学の時の走り幅跳びの授業で、自分の実力別に練習のやり方を変えていたんだが、実力が低かった俺のメニューは・・・
「空中に放り出される感覚を養う」
とにかく飛んだだけ。何もわからん。
https://togetter.com/li/1231847
ここに書かれているようなフォームのチェックだとかは一切なかった。
サッカーもちょちょいと蹴る練習パーっとやって試合。柔道は最初からしっかりやってくれたかな。でも柔道はやったことないやつばっかだから当たり前か。
「体育教師は運動得意だから体育苦手な奴の気持ちがわからない」というのは、まったく間違っているというものでもないと思う。
https://twitter.com/koichi_kawakami/status/1511583109116198917
ある研究者の人が、指数関数や微積を義務教育に含めろとおっしゃる。
一般の人間は働き始めたら、「微分?そんなのやったねぇ。」で終わりだ。
「x^nを微分するとnx^(n-1)になる」を覚えている奴が優秀レベルになる。
働き始めたら学校で覚えていたこととは別のことを覚えなくちゃいけない。
何かを忘れて覚えていかないといけないんだ。
微積とお客さんのことを覚えること、大多数の人間にとってどっちが大切だ?
「微積は我々の生活に密着していて~」とかそういう言葉遊びしているんじゃないぞ。
考えてみろ。微積とお客さんのことを覚えること、大多数の人間にとってどっちが大切だ?
言い方悪いけど、ぶっちゃけブラック企業の研修のほうがよっぽど役に立つ。
諸先生方の反応したら、ものの見事に「無駄!!」と断じていたけど。
でも、あそこでぶち込まれるマナーやら仕事術のほうが大多数の人間にとっては大切なんだ。
あんなとこで微積や指数関数が~なんて言ってたら「なに甘ったれてんだゴラ!」ってぶっ飛ばされるだろう。
学問を4年、6年、長くて10年ぐらいかじってきた人間が一般企業で使おうとしても使えない。
それに、今の中学のカリキュラムに微積ぶち込んだら超詰め込み教育になる。
多分だけどこの手の先生は「もっと学問を大切にしろ!」だからさ、ほかの教科も増やせとかいうんじゃないか?
超詰め込みが超超超詰め込みになる。
ぽやーっと理解した中学生が高校行って、中学で増えた分高校では難しいことやって…
今より「あ、俺勉強向いてねぇ」って学問あきらめるやつ増えるんじゃないか?
まさかまさかまさか先生方「微積・指数関数も理解できないのか!」とか言わないだろうな。
一般人には厳しい。