はてなキーワード: 本質とは
田舎は田舎で、そこにしか無いものに文化を見出して欲しいなと思うわ。
単なる田んぼとかカニとかロードサイドのスーパーとかは日本全国同じで独自性がない。
東京の文化だって、最新の流行り物とか美術館だとかコンサートだとかはまあそれはそれでいいけど本質ではないと思うんだよ。
東京の歴史は地形に記憶されている。皇居を境にした低地と武蔵野台地とで町民と武家とが分けられていた江戸時代の記憶が今でも残っている。そこから明治・大正を経て戦争を経験し、それぞれの時代に各地域が持っていた意味が連続的に現代の街並みに繋がっている。
そう思えば鶯谷のクソ汚ねえラブホ街を見ても土地の歴史とそこに生きていた人々へ思いを馳せることができる。
地方や田舎だってそういうものは当然沢山ある。歴史を通じてマジでなんもなかったけど人口ボーナス期に勢い余って開発しちゃっただけみたいなところもあるだろうけど。カニもいいけど、その土地の意味を個々人の視点で解釈して発信して欲しいと思うね。
某中古車販売店の恫喝LINEなんかを見ると、またこのパターンだなと思う。
あらゆる洗脳によって身近な人間が何人も姿を消していった増田なりに考えた洗脳についての話です。
洗脳と聞くと誰か特定のターゲットに行うものと思われがちだけど、実はそうでもなかったりする。
例えばカルト宗教を思い浮かべてもらえるとわかりやすいのだけど、来た人間全員を洗脳しようとは思ってはおらず、間口は広くしておいて洗脳に引っかかった人間だけが残るような仕組みになっている場合の方が多い。
つまり、「Aを洗脳しよう!」ではなくて、「A、B、C、D、E、Fにそれぞれ洗脳を試してみて、B、Eが洗脳に引っかかったから次はより強い洗脳を試そう。」といって絞り込んでいくような感じだ。
なので、洗脳というのは割りと結果論的な側面が強いパターンが多いよというか、むしろほとんどですよということをまず知ってもらいたい。
言い換えれば、誰にでも効果が期待できる洗脳を追い求めるよりも、洗脳にかかりやすい人を探したほうが早いよということ。
某中古車販売となんの関係があるの?と思うかもしれないけど、恫喝は典型的な洗脳の手段だと思ってください。
洗脳とは、簡単に言えば相手を自分の意のままに言うことを聞くようにすること。
逆を返すと、どのような状況であれ自分の意のままに言うことを聞くようになっていれば、それは洗脳が成功しているとも言える。
この違いは何かというと、そこに本人の納得は必要ないという点。
宗教のように心から相手を信頼してしまうパターンもあれば、自分は納得していないけど大きな借金があるから言うことを聞かざるを得ない状況というのも、等しく洗脳されている状況といえてしまうのだ。
手段や関係性はどうであれ言うことを聞く状況になってさえいれば、それは洗脳において成功と考えてなんの差支えもない。
恫喝というのは世間一般で考えればどう見ても間違ってる行動だ。
それによって離れる人間もいれば、自分が悪かったと受け入れる人間が出てくる。
さらに言えば、恫喝された他の人間の反応を見て自分も恫喝する側に回れば支配する側に回れると考える人間だっている。
一度くらいなら自分が悪かったと思ってこらえる人間がいるかも知れないが、それが当たり前に何度も続けば結局は残った人間は恫喝を受け入れた人間だけということになる。
つまりこの状況は、恫喝という非常識的な行為を繰り返すことによって、それでも言うことを聞く人間だけに絞り込めた状況と考えて差し支えがない。
そこに言うことを聞くようになった理由は必要ない。言うことを聞くという事実こそが重要なのだ。
洗脳する側にしてみれば言うことを聞く人間だけ残ればいいのだから、まともな判断力を持った人間はむしろ不要で、恫喝を受け入れた人間だけでなくそれを理解した上で利用する側に立った人間だって必要な人間だと言える。
この点も、信仰の強い信者だけでは宗教が広がっていかないのと同じで、同じような手段を理解した上で行使できる宣教師も必要だということと非常に近しい。
なぜ恫喝を受け入れざるを得なかったのか、その部分を説得や集団心理などを利用して騙していくことを洗脳だと考えている人も多いだろう。
しかし、それが最初にいった洗脳に対する誤解が多い部分でもある。
そこを自分たちで説得するよりも、注文の多い料理店しかり、正常性バイアスで受け入れてしまう人間を探したほうが早いと言うのが現実だ。
それならば、まずは相手がどのような考えを持っているかを知るよりもさっさと恫喝してしまったほうが結果は早いのだ。
某中古車販売店で言えば、その点において用意したものと言えば高い報酬と人間的成長くらいであろう。
ただし、人間的成長は逆説的に行なえない側を幼稚とするものだったと思われるが。
それでも納得しない人間たちを説得するよりは、ついてきた人間だけを選んでいったほうが遥かに効率がよいのだ。
今回はたまたまトリガーになったわかりやすい例が恫喝だったが、増田自身は勝手にそれを裸踊り的儀式と呼んでいる。
しかし、洗脳されている人間にしてみればありとあらゆる理由をもって裸踊りをする自分を肯定できてしまう状況にある。
つまり裸踊り的儀式とは、洗脳の手段ではなく洗脳度合いの効果測定を目的としている。
はじめから裸踊りをさせるわけではなく、最初はもっと小さなことから行われる。
人前で大声を出すとか、駅前を掃除させるだとか、普通ならやらないようなことに何かと理由をつけてやらせてみるのだ。
それでもし言うことを聞くようであれば、次のステップへと進む。
離脱してしまえば仕方ないし、迷っているようであれば背中を押すような理由を用意する。
そうして少しずつ洗脳の効果測定をしては、思い通りに動く人間を選別していくことが洗脳の本質であると考えている。
そういう意味では、落ち葉掃除のために誰もが犯罪だとわかるような枯葉剤をまいてしまうという行動も、すっかり洗脳が浸透している状況だったとも言えよう。
裸踊りには、周囲から奇異の目を向けられることによる社会的孤立という副次効果もある。
社会的孤立によってその2つから遠ざけることができれば、より洗脳をしやすくなるのだから選ばない手はない。
つまりは、ここが洗脳から助け出せる最後の分水嶺だとも言える。
もし何か怪しい方向に進んでいる近しい人がいるならば、突然社会的孤立につながるような行動が増えたときは要注意だ。
それが公序良俗に反していないだけであって、誰もが最初はおかしいと思うようなことでも、いつかは望んでするようになるし人に勧めたりもするものだ。
一部の体育会系運動部が好んで行う人前での奇行なんかはまさにこれだ。
過去に体育会系大学出身の人材が就職に好まれたのも、すでに洗脳されやすい土壌が学生生活の中で作られていたことが理由であろう。
そして何もこの話は対岸の火事ではない。
むしろワンマン経営者の中小企業に多いし大手学習塾でも当たり前のように見られる。
それ自体を悪だとは言わないが、仮にこの裸踊り的儀式の兆候が見られたときはそれより先に進むべきかどうかは必死で悩むべきだろう。
人間が自分の意志だけですべてを決定できるとは思っていないが、誰かの欲を満たすための道具にされることを望んでいる人なんていないはずだからだ。
プログラムも一種の文章であり、他人の日記を読めば意味不明な記述ばかりで読みづらいのと同じで、仕方ないことなのだ。
と周りに伝えたら、共感してもらえなかった。
私の職場はプログラミング専業じゃないわけで、そこで書かれるプログラムなんて、やりたいことを実現するための念仏でしかない。
その記述方法に気を払う余裕なんてなくて、だからこそ個人的には、プログラムは自意識が無意識に溢れる「日記」なんだと思っているのだが。
ちなみに、周りの人間は「正しいプログラムの書き方」みたいなものを語っていたが、そんなものは「正しい日本語」くらい、どうでもいい概念だ。
車輪の再生産なコードだから、プログラムの本質が失われるとでもいうのか?
こういう暴走機関車みたいな家事おばさんがいるとしたらたぶん家庭は崩壊するよ。
いついっても窓口に人がいる苦情窓口は苦情がたいして大きくならずにすむが、
家人がもどってくる夕方に台所で揚げ物ばっかりしてて聞く耳持たない苦情窓口には苦情や苦痛がたまっていくんだよ。
メシが「揚げたての熱々」かどうかなんかより大事な話が子供にも夫にもたくさんあるんだよ。
あとまいにちおせち食いたい日本人っているか?甘くてマズいよおせちって。おなじ保存食なら早くカレー出してくれレトルトでいいから。
まあ釣りだとおもうけどみごとなフックに一応つられておいてやる。
今の日本人は自家用車か居酒屋かラインでしか腹を割った話ができないんだよ。
もちろん自分語りなんかじゃなくて聞き手に徹しろよな。いわゆるカウンセリングだよ。
ここまでやってようやく家事やったっていえるんだよ。
もし事実じゃないなら選挙でも街宣車とか一切使わなくても主義主張が正しければ受かるはずだもんな
そもそも「ケーキを三等分する」とはどういう行為を指すのだろうか。
面積を三等分すればよいだけなら、縦に2度ナイフを入れて面積を合わせても問題は無いはずだ。
形も合わせなければならないとしても、中心から円周に向かって渦を描くように切り目を入れることもできる。
しかし、「ケーキを切れない非行少年たち」で議論されている問題意識では、そうした「別解」は正解とは見なされていないように見える。
つまり、「ケーキを正確に三等分できるかどうか」という「知能」の問題ではなく、「ケーキを三等分する時に、いつの間にか社会で共有されている”普通”の切り方を選択できるかどうか」という、「社会性」の問題こそが、ここで発見された問題の本質ではないか。
この記事の内容。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/264951
これが障害者差別になるのであれば、もうこの手のキャンペーンは全滅する。
ブコメ内にもあるが、キャンペーン用に用意できた席が一般席だっただけの話。一般席だったから、応募要項にしっかりその旨書いたんだろ。
それなら車椅子席を確保しろという声があるが、じゃあ一席だけでも確保してたらそれで良かったのか?
そしたら車椅子席の割合が少なすぎるってまた差別だーって騒ぐだろ。
今回セブンが確保した、試合観戦ペアチケットは総計175組350名分。だいぶ太っ腹だと思うが、その数半々にする?
そもそも会場に車椅子席が約340席あると書いてあるけど、キャンペーンの車椅子席の割合増やしたら(別に半々まで増やさなくても)、その分一般購入の枠(車椅子席の)が減るんだよ?
一企業のキャンペーンのためにそこを消費する、それこそだめだと思うんだけど。
あと当日の対応云々言ってる人いるけど、そもそもセブンってただのスポンサーだよ?
試合や会場の運営に携わってないだろ。一昔前だったら対応してた?いやいやそれって結局現場の人(別企業)が対応してたんだよ?
スポンサーだったら現場に押し付けていいの?その分本来車椅子席で対応するスタッフの数減らすの?やばすぎん?
書き方が悪いって人もいるけど、記事の本質が「障害者の排除」だから、応募要項どう丁寧に書いても解決になってない。
(今回のように記事にされる可能性を下げることには繋がるかもね)
もう一度言うけど、セブンはただのスポンサーで、確保できた席(チケット)を宣伝のためにキャンペーンとして配布しようとしただけで、何も悪くない。少し考えたらわかるだろ。これでダメならスポーツ観戦系のキャンペーンは全滅させたいのね。
これで叩かれれるのは可哀想すぎる。。
※ここまで読んでまだ「だから車椅子の席も確保しろ」とか言うんだったら、当選割合とその分の一般購入枠の消費についてしっかり意見してくれ。
「当選割合とその分の一般購入枠の消費についてしっかり意見してくれ。」
※以下他のトラバにも書いたやつ
こういう系の仕事やったことある人なピンとくると思うけど、こういうキャンペーンってまず簡単に応募させて、当選後にチケットの送付先等の個人情報入力のフォーム送ったりする。応募者の属性わかんない。
理由は個人情報の取り扱いが大変だから。こういう系のキャンペーンで応募者全員の個人情報抱えるなんて、正気の沙汰ではない。
この後は少し考えたらフローが大変なのわかるよね?
一企業がお気軽にキャンペーンなんてやらなくなる→全滅させたいの?って思ってる。
(全滅は言葉が強すぎるかもしれん…)
じゃあ応募する時点で一般と車椅子で分けるってなると、一般が350組に対して割合的に車椅子が4組とかで大丈夫だと思う?ダメなら割合は?どんどん増やすなら一般購入枠の消費とのバランスは?
車椅子じゃない人が当選確率高そうだと邪推して車椅子枠に応募する可能性は?
考えれば考えるほどめんどくさくて、リスクが残って、こういう系のキャンペーンやり辛い世の中になっていくでしょ?
””今後はそういう社会にしていかないといけないんだよ。増田はセブンを不憫に思ってるんじゃないだろ?「仕方ない」で合法的に障碍者差別がしたいだけだろ?名古屋城のエレベーターにも反対してるんだろ?””
残念すぎるコメントついてた…。
名古屋城のエレベーターとか知らんわ。バリアフリーになってないならつけたらええやん…。誰にでも差別主義のレッテルを貼りたいだけやんけ。
「今後はそういう社会にしていかないといけない」と書いているが、一般販売の話ではなくてキャンペーンの話だよ?
キャンペーンなんだから、仕様上特定の層に絞らないといけない/意図があって絞りたい、があってもいいと思う。ないと成り立たないことも出てくる。
不必要にマイノリティに対して線を引くのは差別だと思う。ただ、確保できた席という仕様がある以上、差別だとは思わない。(今後考慮していこうはわかる)
そもそもセブンやキャンペーン以前に、今回の試合車椅子の方は入れるが、寝たきり要介護の人って入れないよね。仕様上線を引いているよね。
色盲の方に配慮していないwebサイト全滅してる?「仕方ない」で線を引いたら差別になるんだよな。
俺には同じことだが、表面上話題になったコトモノしか見ず、強い反応をしたがる人が多い。
マンガとネットにハマり、自分のHPを作って絵を載せ、お絵描き掲示板に入り浸っていた。
中学も私立に通いながら、あるときから休みがちになり、中2の途中から高1まで不登校だった。
体調が悪かったのもある。太っているのに性格が悪く、嫌われていたのもある。
側湾症という背骨の病気でコルセットをしていたのも地味につらかった。
休んだ日はネット小説を読んだりして過ごし、家族とは最低限の会話しかしなかった。
親に反抗し、都合が悪くなると黙り込んだり当たり散らしていた。
普通の生活を送っていなかったのでお小遣いがなかったというのもあるが、財布に3千円入っていれば千円など、バレないようにして漫画やお菓子を買っていた。(バレていた気はする)
祖父の引き出しから蒐集していた500円玉をくすねたこともある。
親は不登校児の親があつまる支援会に行ったり、私を美術館や公園に連れ出したりした。
姉は同じ学校だったので、妹の担任からプリントをもらう係をしてくれていた。
友人も連絡をくれたりをして、高校1年生の秋から、本格的に学校に復帰した。
休むのも、嘘ではなく「○○が痛い」という正当な理由になった。(相変わらず怠け癖はあるが)
それともあれは私の本質で、今は理性という仮面をかぶっているのだろうか。
盗んだお金のことはついに謝れなかった。
親にも、多分、言えないまま墓場まで持っていくだろう。
この出来損ないの人生を助けてくれた家族に、どうにか孝行したい思うのだが、今は一人暮らしをしていて自由になるお金はあまりない……。
300万はあるけど、老後のことも考えると手をつけられないし、親の方が何倍も稼いでいる。
どんな家族孝行をしたらいいんだろうか。
詐欺や詐欺まがいのビジネスで荒稼ぎしてドバイに移住して幸せに生きていたり、犯罪や法的にギリギリなことをやって稼いで、その後に有名インフルエンサーになっている奴多すぎるだろ
「人にされて嫌なことはしてはいけません」「人に迷惑を掛けてはいけません」「人を傷つけてはいけません」
こんなの全部嘘じゃねぇかよ。だったら最初から嘘教えんなよ。十代から詐欺やりまくっとけばよかったわ
捕まっても更生しましたー!とか言えばいいしな。今だったらブレイキングダウンに出て有名インフルエンサーになれるし
俺は二十代で世の中の本質に気づいてグレーな業界で稼ぎまくるようになったから良かったけどさ