2023-07-28

洗脳には必ず裸踊り儀式がある

中古車販売店の恫喝LINEなんかを見ると、またこパターンだなと思う。

あらゆる洗脳によって身近な人間が何人も姿を消していった増田なりに考えた洗脳についての話です。

洗脳と聞くと誰か特定ターゲットに行うものと思われがちだけど、実はそうでもなかったりする。

例えばカルト宗教を思い浮かべてもらえるとわかりやすいのだけど、来た人間全員を洗脳しようとは思ってはおらず、間口は広くしておいて洗脳に引っかかった人間けが残るような仕組みになっている場合の方が多い。

まり、「Aを洗脳しよう!」ではなくて、「A、B、C、D、E、Fにそれぞれ洗脳を試してみて、B、Eが洗脳に引っかかったから次はより強い洗脳を試そう。」といって絞り込んでいくような感じだ。

なので、洗脳というのは割りと結果論的な側面が強いパターンが多いよというか、むしろほとんどですよということをまず知ってもらいたい。

言い換えれば、誰にでも効果が期待できる洗脳を追い求めるよりも、洗脳にかかりやすい人を探したほうが早いよということ。

中古車販売となんの関係があるの?と思うかもしれないけど、恫喝典型的洗脳手段だと思ってください。

洗脳とは、簡単に言えば相手自分の意のままに言うことを聞くようにすること。

逆を返すと、どのような状況であれ自分の意のままに言うことを聞くようになっていれば、それは洗脳成功しているとも言える。

この違いは何かというと、そこに本人の納得は必要ないという点。

宗教のように心から相手を信頼してしまパターンもあれば、自分は納得していないけど大きな借金があるから言うことを聞かざるを得ない状況というのも、等しく洗脳されている状況といえてしまうのだ。

手段関係性はどうであれ言うことを聞く状況になってさえいれば、それは洗脳において成功と考えてなんの差支えもない。

恫喝というのは世間一般で考えればどう見ても間違ってる行動だ。

なのにあえて大勢社員の前で恫喝をしてみるとどうなるか。

それによって離れる人間もいれば、自分が悪かったと受け入れる人間が出てくる。

さらに言えば、恫喝された他の人間の反応を見て自分恫喝する側に回れば支配する側に回れると考える人だっている。

一度くらいなら自分が悪かったと思ってこらえる人間いるかも知れないが、それが当たり前に何度も続けば結局は残った人間恫喝を受け入れた人間だけということになる。

まりこの状況は、恫喝という非常識的な行為を繰り返すことによって、それでも言うことを聞く人間だけに絞り込めた状況と考えて差し支えがない。

そこに言うことを聞くようになった理由必要ない。言うことを聞くという事実こそが重要なのだ

洗脳する側にしてみれば言うことを聞く人間だけ残ればいいのだから、まともな判断力を持った人間はむしろ不要で、恫喝を受け入れた人間だけでなくそれを理解した上で利用する側に立った人間だって必要人間だと言える。

この点も、信仰の強い信者だけでは宗教が広がっていかないのと同じで、同じような手段理解した上で行使できる宣教師必要だということと非常に近しい。

当然、ただ恫喝をするだけで人を洗脳できるわけではない。

なぜ恫喝を受け入れざるを得なかったのか、その部分を説得や集団心理などを利用して騙していくことを洗脳だと考えている人も多いだろう。

しかし、それが最初にいった洗脳に対する誤解が多い部分でもある。

そこを自分たちで説得するよりも、注文の多い料理店しかり、正常性バイアスで受け入れてしま人間を探したほうが早いと言うのが現実だ。

それならば、まずは相手がどのような考えを持っているかを知るよりもさっさと恫喝してしまったほうが結果は早いのだ。

中古車販売店で言えば、その点において用意したものと言えば高い報酬人間的成長くらいであろう。

ただし、人間的成長は逆説的に行なえない側を幼稚とするものだったと思われるが。

それでも納得しない人間たちを説得するよりは、ついてきた人間だけを選んでいったほうが遥かに効率がよいのだ。

今回はたまたまトリガーになったわかりやすい例が恫喝だったが、増田自身勝手にそれを裸踊り儀式と呼んでいる。

裸踊りは、普通人間なら人前ですることはない。

しかし、洗脳されている人間にしてみればありとあらゆる理由をもって裸踊りをする自分肯定できてしまう状況にある。

まり裸踊り儀式とは、洗脳手段ではなく洗脳度合いの効果測定を目的としている。

はじめから裸踊りをさせるわけではなく、最初もっとさなことから行われる。

人前で大声を出すとか、駅前掃除させるだとか、普通ならやらないようなことに何かと理由をつけてやらせてみるのだ。

それでもし言うことを聞くようであれば、次のステップへと進む。

離脱してしまえば仕方ないし、迷っているようであれば背中を押すような理由を用意する。

そうして少しずつ洗脳効果測定をしては、思い通りに動く人間を選別していくことが洗脳本質であると考えている。

そういう意味では、落ち葉掃除のために誰もが犯罪だとわかるような枯葉剤をまいてしまうという行動も、すっかり洗脳が浸透している状況だったとも言えよう。

裸踊りには、周囲から奇異の目を向けられることによる社会的孤立という副次効果もある。

洗脳したい側にしてみれば、邪魔もの良識ライバルだ。

社会的孤立によってその2つから遠ざけることができれば、より洗脳をしやすくなるのだから選ばない手はない。

まりは、ここが洗脳から助け出せる最後分水嶺だとも言える。

もし何か怪しい方向に進んでいる近しい人がいるならば、突然社会的孤立につながるような行動が増えたときは要注意だ。

距離をおいたが最後、助け出すことは不可能だろう。

おわかりかもしれないが、教育とは洗脳である

それが公序良俗に反していないだけであって、誰もが最初おかしいと思うようなことでも、いつかは望んでするようになるし人に勧めたりもするものだ。

一部の体育会系運動部が好んで行う人前での奇行なんかはまさにこれだ。

過去体育会系大学出身人材就職に好まれたのも、すでに洗脳されやすい土壌が学生生活の中で作られていたことが理由であろう。

そして何もこの話は対岸の火事ではない。

しろワンマン経営者中小企業に多いし大手学習塾でも当たり前のように見られる。

それ自体を悪だとは言わないが、仮にこの裸踊り儀式兆候が見られたときはそれより先に進むべきかどうかは必死で悩むべきだろう。

人間自分意志だけですべてを決定できるとは思っていないが、誰かの欲を満たすための道具にされることを望んでいる人なんていないはずだからだ。

洗脳を行った側をいくら責めても何も帰ってはこない。近寄らない、近寄らせないことが最も効果なのだ

  • なるほどねえ だからJTCは飲み会で裸踊りさせたりビール瓶をケツに入れたりということを新卒にやらせるわけか

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