はてなキーワード: 地獄とは
他は「国政でやれ」って言うような話か、そもそも話にすらなってないのばっかり。
そびえ立つクソの中かから、一番マシなクソを選ぶのが民主主義とは言うけど、
クソはクソでも限度があるだろ。
私が欲しくないのにね!!!
結婚して約半年、旦那に「子どもが欲しい」と言われた。正確には、私に対して「子どもが欲しい?」という問いかけだったけど。
これを聞かれたとき、わたしはめちゃくちゃ驚いた。というのも、旦那は子どもが欲しくない派だったからだ。
結婚をする前、付き合っていたときにも、「子どもが欲しい?」と聞かれたことがある。私は「相手が欲しいなら欲しいけど、欲しくないなら別にいらないしそこまでではない」と答えた。これは私の本心だった。私の答えに対して、旦那は「自分は欲しくないかな〜」と言った。なので、私たちは子どもを作らず、二人で暮らしていくものだと思っていた。
旦那に「子どもが欲しい」と聞かれたとき、私はびっくりして「〇〇(旦那)は欲しい?」と聞き返してしまった。質問に質問で返すな。
旦那の答えは「いてもいいかな、楽しいと思う」的なものだった。それに対して、私は「〇〇が子育てをできる気がしない」と最悪な返事をしてしまった。でもこれも私の本心だった。
旦那は絶対に子育てができないと思う。旦那は私からすると良い男だし良い夫だ。でも、良い父親にはなれない。
私の中の親のイメージは、子どもが最優先だ。実際私はそうやって育ってきて、両親は私たち子どものためにあらゆることを犠牲にしてきたと思う。お金や時間、趣味、仕事、そういったものを全て子どもに合わせられるかどうか。旦那がどうかはともかく、私にはその覚悟や気概はない。
旦那に子どもが欲しい話をされて一番驚いた理由は、私に選択肢があると思っていたからだ。本当に最悪、最悪な女。
旦那は子どもがいらないと思っていたから、ずっと一人で悩んでいた。私が欲しいと思えば産むだろうし、私がいらないと判断したら二人で暮らしていく。勝手にそう思っていたし、結局「いらない」という結論に至って、子どもがいない人生を歩もうとしていた。
当たり前だけど、子どもの有無は一人で決めるものではない。それが分かっていなかった。あまりにも愚か。そして、旦那に子どもが欲しいという話をされてから1ヶ月以上経った今も、結論を出せずにいる。
子どもが欲しくない理由は大量にある。一方、欲しい理由は片手で数えられるほどしかない。この時点で、私は子育てができないと思う。
私の人生において、父親の存在はかなり大きい。父親は、常に私たち家族のために過ごしていた。
だから、昔から漠然と、もし私が子どもを産むとしたら子どものために人生を捧げられる人が父親であってほしいと思っていた。時間やお金、生活、趣味の全てを捨ててでも子どもを優先できる人。子どもが大好きで、子どものために生きられる人。
後述するけど、私は子ども自体がそこまで好きではなくて、多分普通の母親にはなれるだろうけど、並以上の愛情を注ぐことはできない。せいぜい一人分が限界だ。だから、私以上、せめて私と同じぐらいには愛情と手間を注げる相手でないと子どもは作れない。愛情が足りなくて子どもを不幸にしてしまうという強迫観念を持っている。
それでも、私は幸せに生きてきた。家族からの無尽蔵の愛情と、友人に恵まれたのと、勉強が得意だったことが主な理由だ。
子どもに遺伝した場合、子どもは幸せに生きていけるのかという不安がある。家族からの愛情は私たちで頑張るとしても、友人をはじめとした人間関係や学習能力はほとんど運だ。もし子どもが「産まれてこなければよかった」と言ったら、私にはかける言葉がない。私が原因だからだ。
私はとても自己中で、自分がしたいときにしたいことをできない状況が許せない。眠いときに寝たいし、お腹が空いたときに食べたいし、出かけたいときに外出をしたい。仕事は気分が乗ったときに取り組みたいし、お金は自分のためだけに使いたい。
幸いなことに、今は上記の願いが全て叶っている。自分の努力で望む仕事に就いたのと旦那の理解の賜物だ。
子どもができるとこれら全てが失われる、と思っている。子ども中心になって、子どものための生活サイクル、外出、出費。きっと私は耐えられない。私はまだまだ自分の人生を楽しみたいと強く思う。子どもの人生を優先させる未来が想像できない。よく「子育ては自分の人生の追体験」と聞くけど、私は自己中だしまだまだ自分が主役で生きていきたい。この座は譲れない。
そもそも子どもが嫌いという大きな理由がある。特に中学生以下が嫌い。
私はかなり器が小さくて、子どもだからという理由で許せることが少ない。子どもに手をあげそうな気すらしている。イヤイヤ期や反抗期を耐えられるわけがないと思っている。
「子どもが嫌い」というと「自分も子どもだった時期があるのに?」と言われることがある。そう言われてもと感じる。おじさんは、自分がおじさんだからという理由でこの世のおじさん全員を好きになれるのか?
あと「自分の子どもは可愛いから大丈夫」とも言われる。そう感じる人もいるだろうけど、じゃあ仮にそう感じなかったときはどうすればいいんだろう。やっぱいらない、ができるわけもないのに。
これが一番大きな理由かもしれない。とにかく産みたくない。自分のお腹の中に別の命がいるのが気持ち悪くて本当に無理だ。しかも1−2ヶ月ならまだしも10ヶ月も…?
私は痛みにかなり弱い。少しでも頭痛がするとすぐに痛み止めを飲むし、病院での治療や検査は全て麻酔ありを選択する。でも、出産は痛みありきの行為だ。無痛分娩も痛みはあるし、妊娠中も不調や痛みがつきまとう。
妊娠の何もかもが嫌で、自分が子どもを産む可能性を想像すると、まず妊娠への嫌悪感でつまずく。
本当に最悪な話なんだけど、正直自分が男で相手が産んでくれるなら、子どもは欲しい。最低!このわがまま女!
私は自分の精神を安定させたいという気持ちが人一倍強い。自分の努力と行動の結果、今の生活は最高に幸せ。嫌なことを排除して排除してやっとこの状況に辿り着いたのに、子どもができると全てが崩れ去る。そうなったときに、自分の精神が安定しているわけがない。不安定でぐちゃぐちゃで、死にたいと思うだろう。
子どもを産むと、もう後戻りはできない。絶対に今の生活には戻れない。まだまだ今を満喫していたい。
あと、仕事を休みたくない。仕事が好きというより稼いでいる自分が好き。私の精神の安定には十分なお金が必要で、旦那の給料に頼って暮らす生活をするときっと自分を嫌いになる。100歩譲って、産んだあとに相手が育休を取って私が変わらず働くなら、もしかしたら子どもが欲しいと思えるのかもしれない。
子どもが欲しい気持ちも少しだけある。理由は、親に孫を見せたいという気持ちと楽しいと思える可能性があるという気持ち、これだけだ。
親は、孫を楽しみにしている。私に直接言うことはないけど、薄々伝わってくる。
兄弟が結婚して子どもができれば、私が子どもを欲しいと思うことはなくなる気がする。もちろん、兄弟には絶対に言わないけど。結婚するもしないも、子どもを作るも作らないも本人の自由で、周りが触れることではない。
子どもができると、なんやかんや「子どもがいて楽しい」と思うんだろう。
でもそれは、子どもがいる自分を無理やり肯定したいだけではないか。今が不幸1・幸せ10の人生とすると、自分は子どもができると不幸100・幸せ60になる気がする。幸せも増えるけど、それ以上に不幸が増える。
絶対量ではなく相対量で判断する価値観を持っているから、増えた幸せよりも増えた不幸に執着してしまいそう。
ただの予想だけど、本当は旦那も子どもが欲しくないのではないか、と思う。
旦那からすると、人と暮らすようになり自分の人生に他人が入ってきた。その結果、年収が増えたり生活が整ったり部屋が綺麗になったり食事が出てきたり風邪を引かなくなったりなどのメリットが手に入った。お互い完全別家計、趣味は不干渉で暮らしているから、ある程度の自由もある。
子どもができたら、もっと良い生活、楽しい生活になる、そう思っている気がする。
でも実際は、お金が減るし部屋は汚くなるし子どもの風邪が移るし自由も無くなるし、デメリットがたくさんある。あくまでも私から見てだけど、それを理解していないように感じる。
デメリットをちゃんと知ると、結局子どもが欲しくないと思うのではないだろうか、と勝手に予測している。本当にどこまでも勝手な女。
私の努力もあり、今の人生には辛いことがない。例えるなら、毎日海を見てのどかに暮らすような生活。定年後のような暮らしをしている。
子どもを持つことは山を登るようなものだと思う。厳しい道でしんどいこともあるけど、時折見える絶景や頂上という目標への道のりに楽しさややりがいを感じるのだろう。大変だけど喜びも多い、そんな日々。
普通の人の生活は、私からするとマラソンのように見える。コツコツと走って、辛いときもあれば楽しい瞬間もある。会社の人に怒られたり失敗したり、目標を達成したり褒められたり。
どうせ走るなら山を登りたい、と山登りに惹かれるのかもしれない。
私は海辺をのんびりと歩いているような日常だ。気分でなければ歩く必要もなくて、座って綺麗な景色を見ている。周りには誰もいなくてこの過ごし方に対して嫌なことを言われることもない。
そんな状態で山に登ろうと言われても、なんで?と感じる。もちろん山にもいいところだろうけど、わざわざ登ろうとは思えない。
それに、一度登ると今の生活には戻れない。息を切らして山を登りながら、「海に戻りたい」と二度と戻れない生活に想いを馳せ続ける人生は、私からするととてつもない地獄に思えてしまう。
まとめると、私には何も覚悟がないのだと気づいた。これを書きながら子どもが欲しくない理由ばかり思い浮かぶし、頭の中にはマイナスの考えばかり漂っている。
子どもが欲しくない理由も、全てが幼い。自分自身が成熟しきれていなくて、本質的には子どもだから、大人側になりたくないのだと思う。自分の人生を子どもに捧げる覚悟がない。子どもを幸せにする力も、自分が子育てで幸せになる未来も見えない。
私は考えがコロコロ変わるから、今はここまで欲しくないと思っても、いつかは欲しいと思うのかもしれない。今の考えを忘れないためにこれを書いたけど、後から見て嫌になってすぐ消す可能性もある。
てか、こんなところで勝手につらつらと書かれている旦那が一番可哀想だよ。ごめんね旦那。あなたは何も悪くなくてただただ私の幼稚性が悪い。
「地底の果てで聞こえる
コロンブスの高揚」
このフレーズがあるだけでも、この曲をコロンブスを肯定してる歌と解釈することはできないと思うんだけど。
地底に行ったことがないコロンブスの声が地底で聞こえるということは、ようするに地獄に落ちたってことでしょ。
それ以外に解釈できる?
これが映画であれば、登場人物が悪いことをしたにもかかわらず、その報いを受けなっかたら、
その作品はその悪いことを肯定しているという解釈になるかもしれないけど、
だったら、
コロンブスは地獄に落ちたという歌が主で映像が従なのであれば、
地方では基本男尊女卑であり、女性は子供を産む機械扱いされる。
では女性は地方から都会に出てくればハッピーになれるかどうか、といえば甘くない。
都会は基本的に男女平等であり、女性も男性並みに稼ぐことを求められる。
10~30代の若い男性の6割が専業主夫志向であり、それは女性も年収600万以上でなければ子供は持てないことを意味している。
おわかり頂けただろうか!
キャンセルカルチャーへの批判も突き詰めるとキャンセルカルチャーそのものになるという事を!
批判とキャンセルカルチャーは本質的に同じ物であるという事を!
誰かが気に入らないキャンセルカルチャーや批判も言論の一つとして罰せずに受け入れなければその先には地獄が待っているのである
ためになったねぇ~
6歳の誕生日、親に買ってもらったゲーム機で遊んで俺は衝撃を受けた。
その前からゲーム付き電卓みたいのはやらせてもらっていたがレベルが違った。
画面の向こうには別世界が広がっていて、俺はその世界のヒーローだった。
それから俺はゲームにのめり込んで、ゲームのために生きてきた。
ゲームをやるために飯を食って寝て学校に行き、ゲームを禁止されないために勉強をした。
ゲームクリエイターになりたいから教養を身に着け、情報を集め、ゲームをひたすらやった。
プログラミングは正直クソつまんねーと思ったけどゲームを作るためだからと頑張って覚えた。
そして会社に入って、ゲームを作って、趣味でも勉強して、順調な人生だ。
他人が同じように人生を語ったら順調すぎてウゼーと思ったろうな。
でもゲーム作ってるうちに気付くんだな、俺如きが関わってもゲームなんて面白くならねえって。俺の中に面白いゲームを作る才能がねえ。
人生を乗り換えるのが面倒だから乗り続けた電車は俺を帰り道の分からない知らん所へ運んじまった。
マネタイズの仕組み化がやらしいとか、バグを取るのが面倒とかそういう複雑な話じゃねえ。
単純にゲームを作るのは遊ぶのと比べてコスパが悪すぎるってだけのことだ。
一人で作ったしょーもないゲームを作り上げたときにあるのは虚しさだ。
なんでこんな遊んだ人間の時間を無駄にするだけの存在を作ったのかと。
多少のダウンロードはされる。
レビューはつかない。
★1が投げられる所までもやってないのかも知れん。
虚無だ。
会社で作ったゲームに対しての虚しさはその何倍もの強さがある。
俺が関わった部分が全体の足を引っ張ってるような気がしてならない。
エゴサして面白いと褒められてる部分は俺が関わってないような所だらけだ。
実際には影響を及ぼせるような仕事はしてないから単なる妄想だ。
ただの一部分でしかねえ。
合奏コンクールで口パクしてる奴らと俺の立ち位置に違いなんてねえ。
世界に必要のねえ贅沢品でしかなく、しかもデジタルデータだからいくらでも量産できる。
そんな中でしょーもないものがいくら増えても世の中は豊かにならねえ。
食い物なら不味くても腹の足しにはなる。
掃除とか工事とかも人出が増えれば荷物持ちぐらいにはなって世の中が少し回りやすくなる。
工場の従業員が増えて休みやすくなれば事故は減るし、流通の人間は全然足りてない。
ゲームなんてのはクソゲー掴んだらただ金ドブなんじゃなくて時間も無駄になる。
観葉植物や変な洗剤を高値で売りつけるヤクザやねずみ講と同じような社会にとってマイナスの労働だ。
虚無しかねえ。
俺はただの寄生虫だ。
水商売に手を出すなってのはこういう話なんだな。
縁日でペンキ塗ったひよこ売って生計立ててる詐欺師みてえなもんだ。
なんでこんな人生になったんだろう。
そこでなら、俺のほうが幸せになれる。
ああ、俺って負けず嫌いなだけかなあ。
某🍏PVの話題の中に「誰かこれをアウトだと言える人はいなかったのか」って意見が散見されたんだけど、現実問題としては指摘したところでよくて煙たがられる、指摘内容によっては知ってる事自体が品性を疑われる原因になりかねないのがハードルなのが判明したよね
とすれば、コンプラ研修みたいなのの一環でミームについて教育すればいいんじゃね?と思ったわけです
具体的には野獣先輩語録とかをリスト化したものを配布して、そこに載ってる表現は使ってはいけないとルール化する、みたいな
いや、実施したら地獄みたいな空気になるのは分かってるんだけどさ、でもこれからの時代必要だと思うんだよね
ミームに反応して「まずいですよ!」って言える空気が社内で醸成されれば、コロンブスとかそういうミーム外の教養的な部分でのまずさも指摘しやすい土壌が生まれるんじゃない?
安定施行の人とよくマッチするような気がするんだが、2年おきの全国転勤に加えて月80時間の残業と聞くと「あっ、この人と子育ては無理だな」と去っていく。
単に自分が人間として魅力がないだけな気はするが、マッチングが最後まで行かなかった理由の欄には人間的な部分よりもそういった空間・時間的制約の部分についてのアンマッチを何度も指摘されている。
当時まだ残っていた圧迫気味の面接風土に苦しめられた俺は、面接から逃げ出し公務員浪人の道を選んだ。
今更誤魔化しようのないガクチカと比べれば、レンタルルームに籠もってひたすら勉強すれば積み上がっていく一般教養知識には救いがあった。
あの時代であっても、理系なのに公務員になるという選択をするのは同じような負け犬だらけで、案外スルスルと受かってしまった。
受からなければよかった。人生について考え直すチャンスがまだあったのに。今はそう思う。
2年転勤というのが曲者だった。
ツギハギを繰り返した非公式の引き継ぎ(引き継ぎやマニュアル作成は業務計画に入れられない(国民の益になる行為ではないから(でもなぜかレクリエーションは計画で決まっているから必ず実施している)ので、あらゆるマニュアルが非公式となる)と関連する法規を比較してなんとかかんとか仕事をやっていく。
効率が悪い。現状なんて全くわからない所に放り込まれて、まともな引き継ぎ資料もないままで働き、1年・2年で転勤するのを皆で繰り返しているから全てがグチャグチャだ。そのくせして責任を取りたくないトップはすぐに完璧を求めたがる。
残業時間の上限とやらのせいで時給換算すればバイト以下になる給料でずっと働いていた。
さっさと辞めれば良かったのだが、初っ端から地元を遠く離れた場所に飛ばされたせいで就活の身動きがかなりやりにくくなっていた。
そうこうするうちに世間では就職氷河期が少しずつ過去の話になっていき、いっそ地元で適当にバイトでもしてから就活をやり直していればとも考えてしまう。
年1000時間の残業に加えて慣れない土地での生活2年おきに来る転勤のための手続き、とてもではないがこの上で面接のために新幹線で地元近くまで戻るような就活は不可能だった。
全部言い訳だ。さっさと辞めてとにかく他を受けまくるのが正解だったんだろう。だけど、辞めたはいいけど結局どこも受からないのでは大失敗だ。辞めることなく働きながら転職活動を続ける地獄のような二重生活だけが正解だったのか。無理だ。詰んでいたんだ。
婚活で「なんで公務員になったんですか?」と聞かれると、こういったことが頭をよぎって目が泳いでしまう。
生活を安定させたかったら公務員に鳴りました。とにかく受かればどこでも良かったけど、面接を受けまくる気力がなかったので試験勉強で点を稼いでなんとかしようとしました。そう素直に言ったこともあった。
そのあとに残業時間だとかについて指摘され、今度は「なんで公務員を辞めないんですか?」と質問される。聞かれても困る。根性がなかったからですとしか言えない。
婚活なんてする前に転職活動をするべきなんだろうな。俺自身がそう思っているのがにじみ出ているのだろうか。