はてなキーワード: 20世紀とは
https://mond.how/ja/topics/8ppjwtgys23ut68/ywfh3pbdu405jwh
佐々木さんはここ数年、左派のメディアや言論人に対して、時には名指しで厳しい言葉を投げかけておられる印象で、
私も佐々木さんの意見に共感することが多いですが、一方で右派(特に日本保守党のような極右)の方々の発言や行動に対しては沈黙されている印象があります。
ただ佐々木さんの発言を聞いている限り、右派の意見に賛同されている訳ではないと思うのですが、実際はどう思われているのでしょうか。
右派左派に限らず、中道で穏健な意見には耳を傾けるべきだというのが私の姿勢です。そして議論の余地のない極端な意見には、きちんと批判していくべきだとも。
私は基本的にはリベラリズムの立場であり、同時にリベラリズムの限界を乗り越えるためにコミュニタリアニズム(共同体主義)も考えていかなければならないとも考えています。
保守主義者ではありません。なので保守・右派とは思想をまったく異にしていますが、議論の余地があるのなら議論したいとつねに思っています。
呼ばれれば誰とでも対話するようにしているのは、そのためです。
さて、おっしゃるように左派に対しては私がより厳しい姿勢となっているのはその通りです。その理由は、日本のマスコミ空間では極端な左派に寄った意見が非常に多く見受けられるため。
言い換えれば、20世紀終わりから21世紀にかけての日本のマスコミはあまりにも左に寄りすぎているという危惧があります。
その日本の状況は、欧州や米国とはまったく異なるところです。欧州ではアフリカや中東からの移民・難民の問題をきっかけに右派が台頭し、大きな政治勢力になってきているのはご存じの通りです。
また米国ではトランプがまたも今年の大統領選をうかがう状況になってきています。それに対して日本では、右派はたいした影響力を持っていません。
こういうことを言うと「日本会議が」「統一教会が」などと言う人もいますが、実態としてそれらの団体は自民政権に対してもそれほどの影響力を持っていません。
逆に近年の自民党は、LGBT理解増進法が右派から激しく攻撃されたのを見てもわかるとおり、世代交代もあってかなりリベラリズムに寄ってきているのが現状ではないでしょうか。
いっぽうでマスコミ業界では、たとえば報道による福島への風評加害が放置され何の問題にもされなかったり、安倍元首相暗殺犯を称賛する著名人になんら批判の矢が向かわなかったり、
どう考えても左にあまりにも偏りすぎている状況が放置されています。この状況を改善し、マスコミ業界が正常化されない限り、日本社会にはよき公共圏が育っていかないという危機感が私にはあります。
東浩紀氏も「Jリベラル」なる言葉を作ってリベラル左翼を馬鹿にしていたが、佐々木氏や東氏のように、右も左も駄目だと言いながら左翼叩きばかり繰り返す人々を
くくる言葉も必要ではないだろうか。ちなみにこの手の人々は国民民主党に投票している印象があり、知識人としては無責任に感じる。
コスパ論は排除の論理である。そしてコスパ・排除論者に言いたいのは、君らミクロしか見えてなくてマクロで物を考えるってことが全然できてないってことだ。その結果、社会全体やひいては世界を亡ぼす。部分最適の総和は全体最適にならない、なんてことはもう一世紀以上前から常識だ。君らの論は、放置すると以下のような言説になる。
……
その結果、人は障碍を得たり年をとったり社会的に弱い立場に立っただけで簡単に人権を失い、強者が権力を振りかざす、安全・安心からほど遠いディストピアに住むことになるんだけど、それがコスパの果てに待つ社会だということを「コスパコスパ」唱える連中は理解もしない。自分がそういう主張をしているということを認めないばかりか、「そんなのはほかの誰かが対策すること」で「自分たちは目の前の問題についてだけ冷静に意見を言ってる」と思っている。その結果、20世紀から21世紀の現在、どういう社会が訪れたか、
コスパと排除の論理を突き詰めれば、すぐそこまで行く。歴史や世界情勢を見れば、一目瞭然である。
だから、コスパ論者は、自分に全体を見る目がないという認識があるならせめて黙っていた方がいい。とはいえ、自分の理解の及ばないことについては沈黙する、というのは意外と高い知性が必要な行為なので、人類そこまで頭良くない、っていうのも悲しい現実だ。その結果やがて、そういう「普通の人々」からの人気を当て込んで極論を振りかざすデマゴーグが現れて、多くの人が進んでその養分になり、社会や国家は破滅的な被害を受ける。なのに、喜んで養分になった人々は、全てが終わった後口をそろえて「知らなかった、騙されていた」と言い出して、自分には非がないと言い立てる。そうして数十年後、また同じことを繰り返す。世界のあちこちで。
人間の一員として生きるということは、そういう愚かさと共に歩む覚悟をもつということでもある。言い換えれば、その愚かさと共に歩む覚悟がない者は、政治についても社会についても何も実のあることを語ることができない。理念だけのリベラルが常にデマゴーグに敗北する理由がこれだ(それは数や勢力というだけの意味でなく、リベラル寄りの思想の持主もまた、たやすくコスパ論にからめとられて排除論者に闇落ちするということでもある)。
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さて、以下は、上記を踏まえた愚考である。ぶっちゃけ読まなくていい。けど、少し暇があり、与太話に付き合ってもいいというなら、読んでいただければ幸いだ。
民主主義には「少数意見の尊重」という、コスパ論に堕しないための重要な楔が打たれているのに、民主主義を標榜しながら人は安易に「多数決」を持ち出して、少数意見を無効化しようとする。少数意見を顧みず議論も廃した「多数決」は、現実主義でなく単なる数の暴力なのだが、近視眼的なコスパ論者にはその違いが分からない。そうして、コスパ論者、すなわち民主主義者と自認する「多数による独裁」主義者は、「諸外国の脅威に対抗するため」「緊急事態に対応するため」などの言い訳をつけて、やがて民主主義を独裁主義で蚕食しようとし始める。「その方がコスパいいと思う」から。
人間の脳のバグ、たとえば、動物的に振舞いたいというバグは、2000~3000年前ごろから「宗教・道徳」というパッチが発明されたことで世界的にデバッグが進んだ。結果、社会や文化は大きく進展した。宗教や道徳が整えば、人と人、国と国の協力が可能になり、交通が利便に、経済が発達し、国はうるおい文化が発達する。しきりに法が作られたのも、こうした理由である。道徳や法が国を栄えさせるという実例を見て、またほかの国もそれを真似るようになる。こうして急速にパッチは普及した。
だがその後、宗教パッチを当てると人は神秘主義に陥り、ある一定のレベルで文化の発達が止まるという新たなバグが見えてくるようになった。それに対して一般に「科学・哲学」パッチが発明され適用されるようになったのは、割と最近のことだ。科学が宗教に優越する地位を占めるようになったのは、近世になってからのことだ。科学は実証によって宗教に優越する効果を示した。ただ、同時に道徳を破壊することになる危険性についても、パッチ適用当初から危惧されてはいた。ただし、宗教パッチの害悪の方が重くなっていた当時の時代から見れば、それはまだ些細な問題に過ぎなかった。「科学・哲学」パッチによって、停滞していた文化は学問となって更に発展し、国の規模は拡大して強大な国家が生まれた。人は世界の果てまで到達し、文化の発達を謳歌した。
ところがその先に生まれたのが、狭くなった世界における衝突と排除の論理である。特に、宗教パッチの効果を低下させたことによる道徳性低下の影響はやはり無視できなかった。文化の発達によって世界は狭くなり、道徳性の低い強者がより一層大きくなることで、弱者が「合理的」に使い潰される状況が起きてきた。道徳性が高いと思われる者でさえ、「善意」と「合理性」により、異文化を侵略・排除する帝国主義が世界を支配した。つまり、コスパ論の時代である。
これに対し20世紀後半になってようやく、これではまずいという判断の下、「民主主義・人権」パッチが発明され普及を始めた。そのために人類は、数度にわたる世界大戦という苦い代償を払うことになったが、その教訓とともに適用されたパッチで、世界大戦の脅威をいくらか遠ざけることができるようになった。だが、何度もこれを無視した戦争が引き起こされ止まらないように、依然としてこのパッチは十分適用されていない。劣化版のパッチ(ポリコレ棒)やパッチに対抗する新たなウィルス(多数決万能論)さえ出てくる始末であり、パッチの普及にも暗雲が垂れ込めている。
それだけではない。狭くなった世界、拡大を続ける資本主義の下(拡大し続けることは資本主義の仕組自体の問題で、本質的には解消不能である)、環境問題といった新たに別のパッチが必要な問題が生まれてきた。それに対する「SDGsパッチ」はまだ発明されたばかりで、その有効性も不透明だ(このパッチ自体にバグがある可能性もまだ否定できない)。これが21世紀の現状である。
これらのデバッグが完了し、人類が「戦争」と「環境問題」という2つの危機を乗り越えるのは、一体いつになるのか。いや、そもそも乗り越えられるのか。優秀なデバッガーや啓蒙家の数がどれほどになれば、人類は生き延びられるのだろうか。
先日のことだ。
Deviantartのこちらの記事を読み返していた。二列目の写真に、チェコの女の子のブルマー姿の写真がある。
また、ヤフー知恵袋の次のページも見返していた。
ttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11230851566
欧米では、子どもが親元を離れて何日か自然の中で過ごすサマーキャンプが盛んだ。では、そこでもブルマー姿だったのではないか。そこで、チェコ語で「Letní tábor. dívka. vintage fotografie」と検索した。「サマーキャンプ、女の子、ヴィンテージ写真」という意味だ。
すると、上の写真とは違って白黒写真なので色はわからないが、実際にブルマー姿で過ごす女の子が見つかった。
https://rohozna.net/akce/1983/letni-pionyrsky-tabor-zalesak/
https://zelenabara.cz/na-nocni-bojovky-se-nezapomina/
二番目のリンクでは、どうも男の子がブルマーをはいているらしい。
個人的に興味深かったのは、以前書いたアメリカでのサマーキャンプとの関連だ。
公共の場では女性はスカートで過ごすべしという規範から自由だったのが、アメリカではサマーキャンプだったのだ。だからそこで彼女たちは体操服で過ごしていた。
なお、ポーランドについても調べてみたが、特にヒットしなかった。
今までグーグルやツイッターの検索でブルマーについて調べていたのだが、そういえばFacebookはどうだろうと思って検索してみた。すると「gym knickers」「navy knickers」「basketball scungies」のキーワードで「60年代あるある」「昔の学校」みたいなアカウントがヒットした。実は今までフェイスブックの検索はアカウントを探す機能しかないと思い込んでいた。それぞれの記事を検索できるのね。
そこで自分は、今までグーグルでは見つけられなかったドイツのブルマー「Turnslips」を検索してみた。すると次の画像がヒットした。
ttps://scontent-nrt1-2.xx.fbcdn.net/v/t31.18172-8/13662363_1141951349213276_7500798634715242075_o.jpg?_nc_cat=110&ccb=1-7&_nc_sid=9da984&_nc_ohc=jmFgDFiNFfQAX_KJ31x&_nc_oc=AQn6SurxKJjLpIYzl0MgNdO7jgOmONz98MfbxkeqgJkz2mwIyCMrZe2f2EUuaMCYdS0G0gob9A6s_p2zFtMkC90W&_nc_ht=scontent-nrt1-2.xx&oh=00_AfBOSUR3LqK8Q3kTGK7UmaFsFuNOxa1RrId-KlfcIQSwLA&oe=65C63680
→リンク切れ https://www.facebook.com/photo/?fbid=1141951349213276&set=o.299357643521861&locale=ja_JP
こちらは当時のドイツのカタログだ。図のように、Knabつまり少年用のところに、ショーツ型のブルマーが描かれている。自動翻訳すると次のような個所がある。
当時私たちがスポーツのためにドレスアップしたものです。 10歳までは男の子と女の子のトレーナーと半ズボンがあり、その後スウェットではなく男の子のトレーナーを手に入れました。
これは、自分が以前投稿した次の証言と一致する。
女性、女の子、男の子の場合(ただし、男の子の場合は約10歳まで)、1960年から1990年の間にパンティーの形のジムショーツがありました。これは通称ジムブリーフと呼ばれていましたが、カタログにはジムショーツとして記載されていました。当初、使用された素材は黒いダブルリブとヘランカでした。それに合うジムシャツもありました。
このように、ドイツでは男の子も10歳まではブルマーをはいていたのだ。
「turnsilp」で検索すると、実際にブルマーをはいている写真もヒットする。
https://www.facebook.com/groups/wisstihrnoch/permalink/2153063888287153/
上下黒なので、今までレオタードだと思っていたのも、こういうセパレートタイプだったのかもしれない。それにしても、数年越しに画像が見つかって謎が解けるとすっきりする。
ところで、これはドイツだけのことではない。日本の一部地域でも少年がブルマーをはいていた時期もある。
ttps://www.at-s.com/news/article/shizuoka/907768.html
ttp://www.tsv-radeburg-handball.de/verein/geschichte.html
バルト三国は当時はソ連の支配下だったため、どのみちロシアと同じようにブルマーが採用されていたのだろうと思っていた。しかし、証拠がないので念のため検索してみた。
「kehalise kasvatuse tund. tüdruk. 1970」つまり「体育の授業 女の子 1970」で検索。
https://www.facebook.com/groups/916933231650615/posts/2272210679456190/
https://www.sporto.lv/sporta-veidi/komandu-sporta-speles/kombinaciju-kamola-tineja/
体育学校の様子。
https://www.ventasbalss.lv/zinas/sports/43673-sporta-skolai-jubileja-70
体育学校の写真。「Lietuvos kūno kultūra. mergina」つまり「リトアニア、体育、女の子」で探した。
ちなみに、ブルマーをリトアニア語で探そうとしたのだが、出力された「žydintys」は「咲く」という意味だった。「ブルマー」を英語経由で「bloom」と解釈したらしい。言語によってはブルマーがうまく翻訳されないので、やはり自動翻訳に頼りっぱなしなのは危険だ。
学校の体育も体育大学も一緒くたなので、ブルマーの存在を確かめたにすぎず、どの程度普及していたかは不明だ。ブルマーの各言語での名称も不明。
なお、バルト三国では今でもナチスの鍵十字だけでなく、共産主義のシンボルである槌と鎌を公共の場に掲げることは禁止されていると聞いた。
また、今までは昔の写真や文章だけを検索していたが、当時のカタログの存在は盲点だった。これは素材や色合いなども細かく載っているだろう。
一方で、フェイスブックを使った調査はもやもやするものがある。もちろん、基本的には本人や関係者がアップロードしているのだろうが、すべてがそうではないだろうし、本来の意図と違って歴史の調査として使うのは何となく後ろめたい。
僕はネットとは危険なもの、個人情報を安易に出してはならないものとして育ってきた世代で、facebookに始まりTikTokに続く顔出しの文化にはいまだになじめない。
少なくとも自分は子どもを授かったとしても、写真をSNSに載せることは決してしないだろう。
また、ブルマーが男の子のものでもあったということも知らなかった。
衣服や露出の強制は女性同様、男性でも問題になりうる。実際、20世紀の欧米の体育は、男性が上半身裸でやっている写真もある。
今の学校での水泳の授業は、男性も上半身を覆える。いい傾向だ。
あと、最近は「ポーランド ブルマ」「チェコ ブルマー」と検索すると、自分の記事が上位に出てくることが多く、照れくさい。
以上。
みたいな記事が出ていた
グラフを見ると2015年あたりから悪化のスピードが上がっている(1990年代から徐々に悪化はしていっていた)
この現象が何かといえば「SNSと炎上の影響」でしかないと思う
証拠はないけどね
フェミニズムもそうだし、LGBTの話も、人種の話も、差別の話も、環境問題の話も、ここ10年で加速的に話題になったと思わないだろうか
別に元々フェミニズムも環境問題も何もかも20世紀から話はあったんだ
ただここ10年くらい、人々がそれを脅威に感じ、怯え始めた
結局理由の大部分は「炎上するから」「社会的制裁を受けるから」だろう
いわゆる「ポリコレ棒で叩かれる」というやつ
民衆は大メディアの影響を強く受けやすい、というのは20世紀に散々学んだと思うが
SNSで悪いとされていることは悪いし、良いとされていることは良い、民衆は多かれ少なかれそう学習してしまう
行いを常に監視されて、指摘され、炎上する恐怖を現代人は常に感じている
なぜ炎上するかと言えば、「その行いが悪かったからだ」と叩く側は言うだろうが、それは違う
「そのネタが議論を呼ぶから」でしかない、賛否両論で、陣営が明確に分かれているシーンで炎上は発生する
「だれにとっても悪いこと」は特に炎上しない、よく観察してみてほしい
(例外として「嫌悪感が大きいもの」「身近に有り共感が得られるもの」がある)
結果的に、「この行為はアウトかどうか」のボーダーラインが炎上(バズ)しがちになる
また、炎上の特徴として気をつけたいのが、賛成vs反対が1:1で拮抗していたとしても、反対の数は絶対的であるというものがある
たとえば3人賛成してくれて、3人反対してくれる状況だと平和だろうが
3万人賛成してくれて、3万人反対してくる状況だと、これは3万人から否定されるわけで、当然精神が削れる
もっと、たとえば賛成:反対=3:1くらいだとしても、攻撃的な反対者が大勢いる時点でマイナスなんだ
だから今の大メディアたるSNSの有名人たちは「SNSで炎上した時点で負け」というゲームをしている
そしてそれを見ている視聴者も「何がセーフで何が怒られるか」のラインが少しずつ厳しくなっていくわけだ
PV数や広告で商売をしている人たちだ、古くは週刊誌やテレビや新聞であり、今ならWebメディアやまとめブログ、Youtuberもそうだ
そういう人たちは「注目度」が大事なので、より賛否両論巻き起こるネタを好んで提供する
賛否両論あるネタはユーザーがSNSでコメント付きでシェアしてくれる、いわゆる拡散をこの手の人たちは狙っているわけだ(バイラルマーケティング)
これが行きすぎるといわゆる対立煽りというものに発展するわけだが、これがSNSと共に顕著になってきて、色んな対立構造のあるテーマでポリコレ現象が発生し始めた
例えるなら20世紀のようなワイドショーをSNSでやりはじめ、それが成功しているということだ
これらの潮流は、「文春砲」や「暴露系Youtuber」「私人逮捕系Youtuber」などという、更に次の形に顕在化し始めた
(ちなみに文春砲と言われ始めたのが2016年頃、ドイツの言論の自由が減少し始めたのが2017年頃で、似ている)
そのことに気づいている人はどのくらい居るだろうか?
今後このポリコレ現象(メディアと野次馬が主導する行き過ぎた対立煽りによるルール濫造現象)がどうなるか?だけど
一旦揺り戻しはするもののもう少し悪化するのではないかと予想している
揺り戻しの例もたくさんある、例えば
・開示請求の流れ
・プラスチック悪玉論が鳴りを潜める
・一部スポーツ大会における性転換者の参加が抑止される
などのように、性急な理想化をした結果、矛盾など生じ地に足がつかなくなるケース
そしてSNS疲れなど、多々あるわけだが
「注目度」に依存したインターネットビジネスはおそらくあと10年くらいは伸びるだろうから、依然ポリコレ現象は残るし
週刊誌なんかも最近はうまく対立構造ができるように情報を小出しにしてバズ連鎖を狙ったり、絶妙に言い方を工夫することでバズを生み出そうとしている
ポリコレ違反を監視するまとめブログがあったり、他方で反ポリコレを掲げる個人メディアやYoutubeチャンネルも沢山発生していて対立は煽られ続けている
これはSNSが完全にオワコンになるでもない限り、いやインターネットが無くならない限り、当分この息苦しさは進むのではないだろうか?
もうこれはどうしようもない
せめてゴシップに飛び込んで「一見正しそうなこと」を曰うだけの野次馬にならないことだけは意識したいものである
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参考:
https://ictr.co.jp/report/20220517-2.html/
https://www.moba-ken.jp/project/mobile/20230410.html
(他の調査でも、大体85%以上)
※インターネットに慣れ親しんだ者からすると意外かもしれないが
この5年くらいで老人や子供にまで個人インターネットとSNSが普及した
インターネットの新参はリテラシーが低いため、ゴシップサイトには良い鴨である
参考:
https://itsumo365.co.jp/lab/14112/
まだまだ伸びそう
____
今回改めて考え直したんだけど
「メディアと野次馬が主導する行き過ぎた対立煽りによるルール濫造現象」の中で、ポリコレとは呼ばれてないけど似ているものをいくつか発見した
・嫌韓(つまり、この現象はポリコレでも発生するし、逆にヘイトでも発生する、結果曖昧なことしか言えなくなる。というかヘイトで起きたほうが怖い)
・すしペロ、バイトテロ問題(これはボーダーラインというより、嫌悪感でバズった印象がある)
・痴漢問題(これは犯罪を憎む者と、冤罪を憎む者で対立が起きている。構造としては珍しい)
・エスカレーター片側空け問題(ルールを作るかどうかで言えばポリコレ問題似ている。ただ炎上するほどではないのでライトなネタに留まっている)
と考えるとSNSが後押しにはなってるだろうけど、ロビーイングの変化もここ10年くらいであったんだろうか?
昔の化学者のエピソードを見ると「合成した物質を舐めた」みたいな話がたまに出てくる
1965年、アメリカの製薬会社G.D.サール社の化学者ジェームズ・M・シュラッターが、ガストリンの合成に取り組んでいたときに偶然発見した[113]。シュラッターは、抗潰瘍薬の研究をして、ホルモンであるガストリンのテトラペプチドを生成する中間段階としてアスパルテームを合成した[113]。シュラッターは、薬包紙を持ち上げようとして、アスパルテームがついた指をなめて、その甘味を発見した[8][114][115]。トルン・アテラス・ガリンは、アスパルテームの開発を監督した[116]。
うん年前は私も大学で学生実験をやっていたわけだが、生成物を舐めるなんて発想はとてもじゃないが出てこなかった
まあ、私の場合は重金属を扱ってたので舐めたらヤバいと知っていたわけだが
アスパルテームの場合は製薬会社内の出来事、つまり薬学系なのでそこらへんの肌感覚が異なるのだろうか?そんなことないと思うがな……
Sucralose was discovered in 1976 by scientists from Tate & Lyle, working with researchers Leslie Hough and Shashikant Phadnis at Queen Elizabeth College (now part of King's College London).[21] While researching novel uses of sucrose and its synthetic derivatives, Phadnis was told to "test" a chlorinated sugar compound. According to an anecdotal account, Phadnis thought Hough asked him to "taste" it, so he did and found the compound to be exceptionally sweet.[22]
スクラロースは1976年、テート&ライルの科学者が、クィーン・エリザベス・カレッジ(現在はキングス・カレッジ・ロンドンの一部)の研究者レスリー・ハフ(Leslie Hough)とシャシカント・ファドニス(Shashikant Phadnis)と共同で発見した[21]。スクロースとその合成誘導体の新規用途を研究していたとき、ファドニスは塩素化された糖化合物を「テスト」するように言われた。逸話によると、ファドニスはハフから「味見」するように言われたと思い、実際に味見をしてみたところ、その化合物は非常に甘かったという[22]。
testをtasteと聞き間違えたからといって舐めるか?そうか、舐めたのか……
スクロースのヒドロキシ基を塩素で置換したものなので、まあ舐めても危険ではないくらいの認識はあったってことなんだろうか
Tate and Lyleは食品系の会社でそこの研究室での出来事なのか、なら味を確かめろって言われたら舐めるか……
科学者の倫理感の移り変わりが気になるので『世にも奇妙な人体実験の歴史』という本を買って読んでいる
少なくとも20世紀初頭くらい最近になっても現代基準で見ると危険な実験やりまくっていたようだ
自己実験とは違う話になるがデーモンコアの実験も1945年くらいか
前述の本を読んでいると「申請すると許可が下りるわけないので自分の体で実験して事後報告した」みたいなエピソードが出てきて笑う(笑えない)
シェーレが若死にしたのは同時代の化学者の例に漏れず、危険な実験条件のもとで研究を進めたためだと考えられている。また彼には物質を舐める癖があったため、毒性のある物質の毒にあたったのではともされる。
18世紀とかだと「まあ舐めて確認する人がいても不思議じゃないわな」と思うのだが
イギリスのとある医師がニトログリセリン舐めて心臓止まりそうになって死にかけたのが19世紀の出来事
舐めて死んだとか、舐めて大発見に気付いたみたいになっていないから記録に残らないだけで
有機系をやってた大学の頃の同期に「実験生成物を舐めるって発想あった?」と聞いてみたが「ありえん」の一言が返ってきた
現代日本の大学の研究室で、教授が学生に向けて「生成物を舐めて確認してみよう」なんて指導するところなんてありえるのだろうか?
流石にないだろう……あるのか?生成物がアミノ酸とかならありえるのか?有毒なものだってもちろんあるが生成物はだいたいこんな感じの物質って元素の内訳も構造もある程度予想ついてるなら舐めても多分大丈夫みたいな肌感覚が育つのだろうか?わからん世界だ
でも薬学系とか食品会社の研究所でも一度動物に摂取させるとかやると思ってたんだがな、きっと普通はやるのかもしれないが一部の人がいきなり舐めたのかもな……
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医学者による自己犠牲的とも勇敢ともいえる自分の体を使った研究ではなく
ある種の迂闊さでペロッと舐める科学者が今でも一定の割合でいるんじゃないか?という疑問を書いた日記
ペトリ皿に鼻水垂らしたのがきっかけでペニシリンを発見したという出来事は幸運な結果に終わった迂闊な出来事だったわけで
そういった種類のおおらかさは現代だとあまり許されないはずなんだよな~
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耳寄りな心臓の話(第2話)『爆薬が心臓病を癒す』 |はあと文庫|心日本心臓財団刊行物|公益財団法人 日本心臓財団
なぜニトログリセリンを舐めようという発想が出てきたのか?を伺い知ることが出来そうなエピソードもぐぐったらでてきた
20世紀初頭にイギリスの火薬工場で、週日の作業中は何も起こらないのに休みが終わって月曜日の仕事が始まると決まって胸痛を訴える工員が何人もいることが話題になりました。最初は工場で扱っている爆薬が原因で起こる病気を疑ったのですが、もともと持病に狭心症のあることがわかりました。
それというのも、原料であるニトログリセリンの粉塵が工場内に舞い、露出した皮膚や粘膜からある成分が吸収されて狭心症が抑えられていたものが、週末に休みをとることで粉塵にふれることもなく薬がきれて、月曜日に力仕事を始めることで狭心痛が起こったと推理されたのです。
痛む胸を押さえて、それこそ青息吐息の月曜日になったことから、「ブルーマンディ」という言葉が生まれたようです。今日では休日明けで、仕事や学校に行くのが億劫になる月曜日の憂鬱、月曜病の走りとなりました。
blue Mondayの語源がニトログリセリン説はかなーり怪しい気がする、勘だけど
これを調べるのも面白そうだ
『世にも奇妙な人体実験の歴史』によると1858年にフィールドという名のイギリスの医師がニトロを舐めたとある
その後1878年にウィリアム・マレルという医師が再度ニトロを舐めて効果を確認し、狭心症の治療薬として自分の患者に試した
火薬工場のエピソードは20世紀初頭……1901年頃ということになる
それくらいなら全然耐えられそう。どうしてこうならなかったのか…
https://gendai.media/articles/-/121235
【1】1930年、ジョン・メイナード・ケインズは、20世紀末までに、イギリスやアメリカのような国々では、テクノロジーの進歩によって週15時間労働が達成されるだろう、と予測した。テクノロジーの観点からすれば、これは完全に達成可能だ。ところが、その達成は起こらなかった。かわりに、テクノロジーはむしろ、わたしたちすべてをよりいっそう働かせるための方法を考案するために活用されてきた。いっそう働かせるために、実質的に無意味(ポイントレス)な仕事がつくりだされねばならなかった。とりわけヨーロッパや北アメリカでは、膨大な数の人間が、本当は必要ないと内心かんがえている業務の遂行に、その就業時間のすべてを費やしている。こうした状況によってもたらされる道徳的・精神的な被害は深刻なものだ。それは、わたしたちの集団的な魂(コレクティヴ・ソウル)を毀損している傷なのである。けれども、そのことについて語っている人間は、事実上、ひとりもいない。
俺も「my new gear」とか言いたい。
YAMAZEN YLRX-AMD302(W)
yamazenbizcom.jp/client_info/YAMAZEN/itemimage/cabinet/main-img/012/main-76010.jpg
ばらせる所ばらして徹底的に掃除して動くようになったものの、動きが渋いと言うか鈍いような。
モーター使った家電は無理して長く使い続けないほうが良い、というのもあり買い替えを決める。
どうせ買い換えるなら左右だけじゃなく上下にも首振りするのがほしい。
「360°」で絞り込むとサーキュレータばかり表示される。いや欲しいのは扇風機。
その中で目に付いたのが上記の機種。
が、公式サイト見てもどうやって360°首振りするのかよく分からん。
なるほど。この動画とそこからリンク貼ってあるブログが大いに参考になった。
3年以上前に書かれたブログ記事の時点で公式に動画ないから作動の様子が分からんと指摘されてる。
普通の扇風機はポールの上に乗ったモータと羽付いたヘッドが水平に首を振る。
この扇風機はポールとヘッドの接触面が45度傾いてて、その45度傾いた面の上でヘッドが360度回転し、360度回転したらまた逆方向に回転する。なので羽は水平方向から真上にまで向く。まあ動画見たほうが早い。
さらに、普通の扇風機はヘッドが水平回転するが、この扇風機は水平回転はポール自体が回転する。上の動画はポールは回転させてない。
ヘッドの360度回転とポールの回転を同時作動させるとぐるんぐるん回る感じ。
わかる。子供というのはセックスの結果自然に生まれるか、あるいは働き手を増やすという目的で生まれるかしかない。20世紀半ば以降、すべての目的がなくなってしまった。今はなんとなく惰性と慣例と感傷で生んでる。
是非は置いといてコスパだけで言うなら今は有史以来最も悪いね。戦後までは少なくとも5年育てれば使える一家の労働資源だった。その後も介護担当の役割はあった。今は何も無い純粋な金食い虫。日本はそれを選んだ。
自由を求めて社会を発展させてきたのにいざ自由になったら産まなくなって滅びようとしてるの最高に矛盾だな
社会的な圧力がなくなって産む動機がなくなり、それでも「可愛いから産みたい」という本能的な動機はあるものの、それも教育費の増大などで相殺されつつある
要するに、人間の行動の裏には常に「社会的な動機」と「感情的な動機」があるわけだが、そのどちらもが失われてしまうと、人は行動しなくなる
社会的な動機というのは社会からの圧力のことだが、忘れてはいけないのが感情も「圧力」だということ
「可愛いから産みたい」というのは自分で主体的に選択した感情ではなく、本能的に湧き出てきて私たちに行動を強制する一種の「圧力」
つまり感情を持っているということ自体が「強いられている」不自由な状況だといえる
だから、逆説的だが、本当の自由は「感情がない」状態ということになる
そう考えると、ほんとうの自由とは、社会的な圧力が存在せず、一切の感情が存在しない状態
要するに、「無」である
友達の草野球見に行ったんだけど、隣の面のグラウンドで地元少年軟式野球チームが練習してたのでそっちのほうも見てた。
大声出す時もあるけどフレンドリーな調子(頭抱えながら「〇〇~!!お前それだとランナーセーフなっちゃうよー!!!www」みたいな)。
俺子供のときに一瞬だけ野球やってたことあるんだけど、それと全然違いすぎて衝撃受けた。
20世紀がほぼ終わるような時代だったので、さすがに指導者による子供への暴力はほぼなかった。
でも、例えば警察24時とかあるいは夕方のニュースなんかでたまに流れるような、交通トラブルのドラレコ映像さながらの狂ったような大声で罵詈雑言を怒鳴り散らされるってのは毎日のようにあった。
拡声器を常に手放さずに精神疾患を疑ってしまうほど狂い散らかしてるのがデフォの指導者すらいた(周りの野球ガチ勢から聞くに、中学軟式の指導者のキチガイ率は格段に高いようだ。強くもないそこらへんの中学でも関係なしにキチガイ監督が当たり前に君臨してるような世界なんだと)。
俺はもう35歳になるけど、野球辞めて以降、リアルの生活において30代40代のオッサンが当時の少年野球レベルに発狂キレ散らかしてる場面に遭遇したことはない。
彼らはどう考えても異常者だったと思う。
それだけに、少年野球の現場から耳をつんざくようなボリュームの怒声や罵倒雑言がすっかり消え失せている現実を目の当たりにして隔世の感があった。
野球って競技はまあとにかく選手がチームメイトに対して攻撃的で容赦ないのが(中の上~上の上レベルのチームに関しては)ごくごく当たり前で、
「下手はいじめられるよね。仕方ないよね。ダサいよね。あー野球上手くて良かった!」
が界隈の"あるある"だったんだけど、その動物界チックな感じは今の時代でも変わってなかった。
まだ声変わりもしていない身長140cmくらいの少年が、練習中にミスをしたチームメイトの背中に向かって守備位置から
「おめえ、前もそれやったせいで負けたんだろ死ねよコラ」
この記事、最終的な結論の部分の是非はともかくとして、日本を社会主義国家だとしているのが本当に無理。
この人に限らず、日本を社会主義だと言い張る人って後を立たないんだけど一体どうしてそう思うんだろう?
日本が社会主義?先進国有数の公務員の少なさなのに?教育への国家支出の少なさなのに?
新卒至上主義で一度就活に失敗したら人生終了、年齢制限に引っ掛かって中途就職も出来ない国が?
失業したら失業手当の額も期間も極小で、空白期間なく次を見付けないとアウトな国が?
日本の充実した給与や賞与、退職金や福利厚生は全て、新卒で大企業に正社員就職した者やその配偶者の特権に過ぎない
厚生年金と国民年金の支給額の差を見ても、生活に足る年金は大企業や公務員の安定雇用で長期間働いて初めて得られるものだし
雇用を前提としない直接的な給付は餓死水準レベルの生活保護くらいしかない。
日本は強いて言うなら会社主義。殆どは安定雇用の正社員就職して初めて得られる恩恵なんだから
ほんの一時期だけ社会党の議員が首相になった事はあれど、その時だって連立内閣だったし、けして国家として社会主義になった訳ではない。
ましてや小泉改革以降はますます新自由主義が対等し、さらに苛烈な格差社会になっているしその傾向は震災やコロナでさらに強まっているというのに。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20231110/1699622160
日本って、20世紀から「理想の社会主義国家はソビエト連邦ではない。理想の社会主義国家は日本だ」って言われてたじゃないですか。それで言うなら、現在の日本は理想の社会主義国家、ですよね。で、未来においても理想の社会主義国家のはず。以下のツイートのように。