はてなキーワード: 大発見とは
驚いたよ。
「だが待って欲しい。やはり少年は有罪だったのではないか?」だよ。
バカか?
そんなの分かりきった上で、現代的な裁判をする上で推定有罪はありえないという話だろ。
「疑わしきは罰せず」
「コレは賭けになる」
劇中で散々こういったフレーズで語られているのに、それが理解できないのか?
凄い……感動的だ……本当にすごい映画だ。
この感想を持って完成なんだ……。
劇中に登場しない13人目の陪審員がひょっこり現実世界からやってきて「だが待ってくれ。もしかしたら本当に少年が犯人かも知れないだろ?じゃあ念のため殺しちまおうぜ!推定無罪の原則?知ったこっちゃねえよ!」と抜かした所で、作品が完成するんだ。
劇中の人間はなんだかんだで最低限頭がいいっていうか……証拠があって事実があって推理があってそれがひっくり返る話についていけて、そして大前提に推定無罪の原則があるってことが理解出来るわけだ。
でも現実はそうじゃない。
現実には、推定無罪ってことを理解せず、疑われた時点で有罪って原始時代の魔女裁判を今でも続けたがっている間抜けがワンサカいるんだ。
12人の陪審員は最初のうちはそういう原始人に見えたが、実際には偏見のメガネをかけていただけであって、頭の中身は立派に現代人だった。
でも世の中には、偏見を取っ払おうが何をしようが説得できないウホウホギャートルズがいくらでも潜んでいるんだよな。
そしてソイツらは自分が今生きている時代がまだ現代じゃなくて、せいぜいが中世っていう自覚が微塵もない。
映画がきれいに終わり、それでも現実はクソッタレなままで今日も続く。
そこまでをきっちり見終えて完成するんだな。
封切りした後の映画館でもきっと同じように劇場から出ていく人間の中で「でもさ、本当に少年が犯人って可能性はあるんだろ?」「半々じゃねえの」「じゃあやっぱ死刑の方が良かったじゃん!」「でも証拠も不確かなのに殺されたら溜まったもんじゃねえよ」「そもそも人を殺さなきゃいいだけじゃん?」「殺してなくても捕まったら終わりじゃん」「殺さなきゃ捕まらなくね?」「あーもういいわ」「まあつまりさ、殺しておくのが正解だったってことだよな」「もうそれでいいって言ってるじゃん」みたいな会話があって、それを耳にすることで映画が完成する形だったんだろうなあ。
面白い仕組みだ。
最近はあまり見なくなったけど、少し前は発達障碍当事者の自己語りをネット上でよく見かけた。
自分にはどういう特性があり、どういう問題を抱えてきて、何が困難で、といったような語りだ。
これはかつてネット上の色んな場所で見られ、時に煙たがられてきたようなものだが、当人にとってこれは自分を理解し次の段階に進むために必要なステップである。
このような語りをするのは、大人になってから初めて診断を受けたような人が多い。そういう人は、子供の頃から様々な理不尽に曝されて生きてきている。
人と全く合わなかったり、馴染めなかったり、いじめられたり。自分は普通にしているだけなのに、その原因が分からない。
それが発達障碍という概念を知って、自分を散々苦しめてきた原因はこれだったのか!と天啓を受けたような気分になる。
あの時の理不尽も、この時の違和感も、すべてはこれが原因だった。人生の伏線回収だ。
そして、この大発見を皆に知らせたいという気持ちになり、このことを知ればみんなが自分を見る目も変わるかもしれないと期待をも抱き、語らずにはいられなくなってしまうのだ。
俺自身もそうだった。俺はネット上ではなく精神科医に対して自己語りをしたのであるが、A4用紙に20ページぐらい、自分の半生の出来事を一心不乱に書き続け、病院に持参したものである。
そのような「大発見」は、当人にとっては生き方を左右するレベルの出来事だが、赤の他人にとってはどうでもいいようなことである。
しかし発達障碍の当事者は、発達障碍を持つがゆえに、それが他人にとってどうでもいいことであるとは気づかない。
そのため、まるで数学の新しい定理を発見したかのような気持ちで、その発見は他人にとっても価値があるものだと確信し、自己語りを公開するのである。
そのように自己語りをしても、周りからの反応はほとんどない。しかし、そうして言葉を紡ぐプロセスを経ることで、当事者は自分自身を深く理解し、次のステップに進むことができる。
また自己語りに関する反応が薄いことで、ああこれは他人にとって価値のない情報なんだと、当人もやっと理解することができる。自己語りは、当事者自身のために必要なことなのだ。
最近、こうした自己語りが少ないのは幼少期から診断を受ける人が増えてきたためだと思う。子供の頃から発達障碍の自覚があれば、大人になって急に天啓を受けることもないのだろう。
また発達障碍の概念が十分に知れ渡ったために、他人に知らせたいという動機も薄くなっているのだと思う。
しかし今でもそうした語りをまったく見ないわけではない。もしそのような自己語りを見かけたら、それは当人にとって必要なステップなのだと理解してほしい。
田代(2017) 政府債務と投資の低迷の関係性(クラウディングアウト)
Reinhart and Rogoff(2010) 政府債務GDP比率が90%を超えていない国は平均3-4%の経済成長だが、超えると経済成長率が平均-0.1%へ急落する
Herdon Ash and Pollin(2013) Reinhart(2010)の計算誤りを指摘、政府債務比率が高まると経済成長率が低迷するのは確かだが閾値で急落するのではない
Eberhardt and Presbitero (2015) 政府債務比率と経済成長率に負の相関があることを示す、しかし何らかの閾値が存在することは否定
だいたいこんな感じ
重要なのは反証可能な根拠を論文で公開し、それが多くの学者の目で検証され、さらに改善されていくこと
MMTにはそれがない
昔の化学者のエピソードを見ると「合成した物質を舐めた」みたいな話がたまに出てくる
1965年、アメリカの製薬会社G.D.サール社の化学者ジェームズ・M・シュラッターが、ガストリンの合成に取り組んでいたときに偶然発見した[113]。シュラッターは、抗潰瘍薬の研究をして、ホルモンであるガストリンのテトラペプチドを生成する中間段階としてアスパルテームを合成した[113]。シュラッターは、薬包紙を持ち上げようとして、アスパルテームがついた指をなめて、その甘味を発見した[8][114][115]。トルン・アテラス・ガリンは、アスパルテームの開発を監督した[116]。
うん年前は私も大学で学生実験をやっていたわけだが、生成物を舐めるなんて発想はとてもじゃないが出てこなかった
まあ、私の場合は重金属を扱ってたので舐めたらヤバいと知っていたわけだが
アスパルテームの場合は製薬会社内の出来事、つまり薬学系なのでそこらへんの肌感覚が異なるのだろうか?そんなことないと思うがな……
Sucralose was discovered in 1976 by scientists from Tate & Lyle, working with researchers Leslie Hough and Shashikant Phadnis at Queen Elizabeth College (now part of King's College London).[21] While researching novel uses of sucrose and its synthetic derivatives, Phadnis was told to "test" a chlorinated sugar compound. According to an anecdotal account, Phadnis thought Hough asked him to "taste" it, so he did and found the compound to be exceptionally sweet.[22]
スクラロースは1976年、テート&ライルの科学者が、クィーン・エリザベス・カレッジ(現在はキングス・カレッジ・ロンドンの一部)の研究者レスリー・ハフ(Leslie Hough)とシャシカント・ファドニス(Shashikant Phadnis)と共同で発見した[21]。スクロースとその合成誘導体の新規用途を研究していたとき、ファドニスは塩素化された糖化合物を「テスト」するように言われた。逸話によると、ファドニスはハフから「味見」するように言われたと思い、実際に味見をしてみたところ、その化合物は非常に甘かったという[22]。
testをtasteと聞き間違えたからといって舐めるか?そうか、舐めたのか……
スクロースのヒドロキシ基を塩素で置換したものなので、まあ舐めても危険ではないくらいの認識はあったってことなんだろうか
Tate and Lyleは食品系の会社でそこの研究室での出来事なのか、なら味を確かめろって言われたら舐めるか……
科学者の倫理感の移り変わりが気になるので『世にも奇妙な人体実験の歴史』という本を買って読んでいる
少なくとも20世紀初頭くらい最近になっても現代基準で見ると危険な実験やりまくっていたようだ
自己実験とは違う話になるがデーモンコアの実験も1945年くらいか
前述の本を読んでいると「申請すると許可が下りるわけないので自分の体で実験して事後報告した」みたいなエピソードが出てきて笑う(笑えない)
シェーレが若死にしたのは同時代の化学者の例に漏れず、危険な実験条件のもとで研究を進めたためだと考えられている。また彼には物質を舐める癖があったため、毒性のある物質の毒にあたったのではともされる。
18世紀とかだと「まあ舐めて確認する人がいても不思議じゃないわな」と思うのだが
イギリスのとある医師がニトログリセリン舐めて心臓止まりそうになって死にかけたのが19世紀の出来事
舐めて死んだとか、舐めて大発見に気付いたみたいになっていないから記録に残らないだけで
有機系をやってた大学の頃の同期に「実験生成物を舐めるって発想あった?」と聞いてみたが「ありえん」の一言が返ってきた
現代日本の大学の研究室で、教授が学生に向けて「生成物を舐めて確認してみよう」なんて指導するところなんてありえるのだろうか?
流石にないだろう……あるのか?生成物がアミノ酸とかならありえるのか?有毒なものだってもちろんあるが生成物はだいたいこんな感じの物質って元素の内訳も構造もある程度予想ついてるなら舐めても多分大丈夫みたいな肌感覚が育つのだろうか?わからん世界だ
でも薬学系とか食品会社の研究所でも一度動物に摂取させるとかやると思ってたんだがな、きっと普通はやるのかもしれないが一部の人がいきなり舐めたのかもな……
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医学者による自己犠牲的とも勇敢ともいえる自分の体を使った研究ではなく
ある種の迂闊さでペロッと舐める科学者が今でも一定の割合でいるんじゃないか?という疑問を書いた日記
ペトリ皿に鼻水垂らしたのがきっかけでペニシリンを発見したという出来事は幸運な結果に終わった迂闊な出来事だったわけで
そういった種類のおおらかさは現代だとあまり許されないはずなんだよな~
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耳寄りな心臓の話(第2話)『爆薬が心臓病を癒す』 |はあと文庫|心日本心臓財団刊行物|公益財団法人 日本心臓財団
なぜニトログリセリンを舐めようという発想が出てきたのか?を伺い知ることが出来そうなエピソードもぐぐったらでてきた
20世紀初頭にイギリスの火薬工場で、週日の作業中は何も起こらないのに休みが終わって月曜日の仕事が始まると決まって胸痛を訴える工員が何人もいることが話題になりました。最初は工場で扱っている爆薬が原因で起こる病気を疑ったのですが、もともと持病に狭心症のあることがわかりました。
それというのも、原料であるニトログリセリンの粉塵が工場内に舞い、露出した皮膚や粘膜からある成分が吸収されて狭心症が抑えられていたものが、週末に休みをとることで粉塵にふれることもなく薬がきれて、月曜日に力仕事を始めることで狭心痛が起こったと推理されたのです。
痛む胸を押さえて、それこそ青息吐息の月曜日になったことから、「ブルーマンディ」という言葉が生まれたようです。今日では休日明けで、仕事や学校に行くのが億劫になる月曜日の憂鬱、月曜病の走りとなりました。
blue Mondayの語源がニトログリセリン説はかなーり怪しい気がする、勘だけど
これを調べるのも面白そうだ
『世にも奇妙な人体実験の歴史』によると1858年にフィールドという名のイギリスの医師がニトロを舐めたとある
その後1878年にウィリアム・マレルという医師が再度ニトロを舐めて効果を確認し、狭心症の治療薬として自分の患者に試した
火薬工場のエピソードは20世紀初頭……1901年頃ということになる
こういうのも典型的なやつで、
「基本的には絵を買ってくれる(可能性含む)人だから相手をする」とか
そういう当たり前の暗黙の了解が皆目わからない昆虫みたいな人間が社会には一定数いて、
「わあお得、無料でキャバクラみたいに若い女の子と交流できるぞ!大発見!」と考えてうろつくようになり
ついこのあいだ、撮り鉄の高校生が「いい写真を撮りたいから」つって停止ボタン押しちゃった事件もあったじゃん。
ボタン押したら他の人がどれほど迷惑するか、社会的にどうなんだ、
みたいなことが全く判断付かない。
発達の問題に見えるのは俺だけか?
最終的に激昂して刺しまくって逮捕されて懲役15年くらいついた男も、
そんなもん本当にただのモンスターって言うか虫じゃん?
多くの問題について
我々は社会的な原因や社会的なソリューションを考えてしまうけど、
他の人間が感じることを一切感じない察知しない昆虫みたいな人間であった
という方がよほど事実に近いことは多いんじゃないのか?
ギャラストの話を見ても全く自分のことだとわからないギャラストが実在する。
人間の振りしてるけどほとんど人間の感性や思考じゃない昆虫人間がいるんだ。実在するんだ。
ギャラスト対策にマナー周知が含まれてたらもうおかしいんだよ。
虫の対策は「餌の除去」「通り道の閉鎖」「嫌がる物質の散布」だろ?
そういうことなんだよ。
なんか流行ってるらしいので元ネタを知らないが、「当時は斬新だったが後に主流になったもの」の意で囲碁のゾルトラークを挙げてみる
要はコロンブスの卵だろう
江戸時代~大正期までの囲碁において隅に打つ手といえば小目だった
ヒカルの碁でも「一手目が星など秀策の時代には考えられなかった」というセリフがある通り、江戸時代の棋譜を見れば笑っちゃうくらい猫も杓子も小目しか打っていない
昭和期に入ってそこに大変革をもたらしたのが木谷實と呉清源という二人の天才である
木谷と呉は『新布石』を宣言し、星や三々、天元など今までの囲碁の常識を覆す変則的な布石を打ち始めた
昭和期までの囲碁といえばコミがなく、黒は比較的ゆっくり構え、白は黒の先手分の有利を崩すために積極的に隅に攻撃をしかけていくのが主流だった
それが白番にコミが与えられるようになり、黒もスピード展開を求められるようになった
隅を一手で済ませる星、三々が現れたのはこのためと思われる(小目はシマリと二手セットで地になる)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B8%83%E7%9F%B3
星の弱点は地に甘いことであり、三々にもぐられるとまるごと隅をとられてしまう
しかしあまりに早く入ると相手に厚みを与えてしまう、三々に入った側が得られる地に対し相手の厚みが強大で入るタイミングが重要とされた
そんな風潮の中忽然と現れたのがAlphaGoによるダイレクト三々である
開始早々に星へ三々入りするAIの手はおおいに注目を集めた
元々この手が悪いとされた原因に、「二線は敗戦」と呼ばれるくらい、二線を這う手と三線をノビる手では二線を這った側の損が大きく、出来るだけ二線を這って生きる手を打ちたくないという思い込みがあった
そのため二線を這う手ではなく、ハネツギを打つことで生きるのだが、それが相手に強大な厚みを与えるので序盤早々に入るのは不利だったのである
二線を1本多く這って生きてハネツギを省略することで、相手の厚みが緩和されるので互角の分かれになるという大発見をもたらした
この囲碁界の常識を覆したAlphaGoによる「ダイレクト三々」はいまや囲碁界の主流となっている
https://www.youtube.com/watch?v=mmK1_5bxblI
本来、隅を重視するのが囲碁のセオリーだが、そのセオリーに反して中央を重視する「宇宙流」の使い手・武宮正樹が得意とした布石
地に甘いとされる星を隅、隅、辺に三連打して悠然と構え中央に大勢力を築く
武宮はこの三連星と宇宙流を武器に本因坊5連覇、および国際棋戦の富士通杯、TVアジア杯の連覇を果たし一時代を築いた
または道策流とも。本格的な中国流の開祖は安永一とされ、中国には陳祖徳が広めたとされる。
1965年の日中囲碁交流の際に非常に注目され、日本に逆輸入された
一種のハメ手的な要素があり、相手が対策を知らずに隅にかかってきたら挟み、予め辺に開いていた石を活用して相手の石を圧迫していく
攻防を兼ねた手堅い一手で、江戸時代に流行したがコミのある現代碁では足が遅く、甘いとされた
しかしAIがこの手を示すようになってプロの間でも再評価され復権。再び打たれるようになった
厳密に言うなら、日本人がようやくパクチーの魅力に気づいて広まってくれて良かった。
一時期はタイ料理やメキシコ料理の店に行ってもパクチーが抜かれていることがあって本当にショックだったな。
カレーライスみたいな日本人向け加工の過程なんだろうけど、そこまでやったらもう別物過ぎないって疑問が凄かったよ。
今は色んな店が気軽にパクチー入れるようになってくれて助かってる。
スーパーの生春巻きやサラダなんかにも入ってきてくれるし、料理が苦手な自分でも日常的にパクチーが食べれて幸せだ。
美味しいのに食わず嫌いする人が多いんだよね。
自分も最初に食べたときはちょっとだけ違和感あったけど、二度目にはスッカリはまったよ。
」
こうするとどうなるか?
「パクチーが広まるとか辞めてくれよ……」
「好きだったタイ料理の店がパクチーバカバカ入れるようになって食えなくなったわ。お前らのせいで好きな店が潰れたようなもの」
「パクチーはアレルギー物質みたいなもんなんだから商品の警告欄に入れろ」
これを見て「やっぱ皆嫌いだよね😀」と人知れずほくそ笑むわけですよ。
わざと半分だけ間違っていることを言って完璧な正解を探すテクニックの応用ですかね。
これ特に相手が人格や法人格を持っていて誹謗中傷から起訴に発展しかねないときに有用なんすわ。
だって傍目には自分は単にチョット過剰なファンに過ぎないわけで、通報すべきアンチはそれに載っかってアンチコメ書き込んだ人でしょ?
扇動するだけしておいて無関係を装える無敵パターンの完成ってこと。
漁夫の利猟法みたいな感じですかね。
コロッセオの観客みたいな気分ですよ。