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2020-06-25

anond:20200625165425

オレも最近知ったんやが、リベラルにも2系統あるんやで。

 権力からの」リベラル自由)……ヨーロッパ自由主義、「小さな政府」論、リバタリアンネオリベ

 権力「による」リベラル自由)……アメリカ民主党など、社会自由主義とも

前者は、原則として規制の反対側におるけど、後者は「ワシらが安心して『自由』に暮らせるように、権力は●●を規制すべし」と主張するんやで。一緒にするから混乱するんやわ。経済学で言えばハイエクvsケインズ水と油関係なんよ。

2019-06-19

anond:20190619214853

派遣法、解雇規制給料に直接響くし、給与アップの法人に減税という政策もある

直接的に操作は出来なくても、いくらでもやりようがある

政府役割市場に委ねるだけなら、ケインズハイエク新古典派も何もかもないわな

2017-06-27

初恋女の子が家の近くに越してきた

最近といってもおそらく2年くらい前から、家の近くに初恋女の子引っ越してきた。

彼女社会人なので、通勤のために実家から通っている。僕の方は取りこぼした単位を拾う為に今期から真面目に1限に出席するようになって、そのおかげで朝の電車が同じになることがたまにある。今までは1限なんかにとてもじゃないけど出席することもなかったから、まさか1限に出ることで同じ電車のしかも同じ車両になることがあるなんて思いもしなかった。

確かに地元は一緒だったし、なんだったらどの辺に住んでいるのかも知っていたから、僕の最寄り駅にも自転車を使えば通えないこともない。彼女大学高田馬場から東西線で一駅のところだったか車両の一番後ろに乗ることを知っていて、僕の方は西武新宿で乗り換えて中央線に乗っているので、一号車に乗る。だから思いもしなかったっていうのはさすがに言いすぎかもしれない。ただ同じ車両になるというのはひどく窮屈だ。緊張しさえする。こちらとしては彼女の姿をこの目に収めておきたいのに、羞恥心邪魔をしてしまう。職場青山にあるというので大江戸線に乗りたいのだろう、彼女中井で降りる気配を感じる。夏目漱石こころiPhoneインストールしているkindleで読み直しているけど、様子が気になって内容がちっとも入ってこない。

こんなことになるなら、引っ越すとしても元の家から徒歩で15分くらいのところじゃなくて、もっとこう"シティ"な感じのところにしてくれたら良かったのに。パパが僕たちの地元を大変お気に召しているのだろうけど、大したもんはココにはない。ジョギング中の夫婦が「ヨーロッパに来たみたい」なんて言っていたのを聞いたことがあるけど、僕は地元に"ヨーロッパらしさ"を感じたことは一度もない。ヨーロッパらしいってしかアフリカっぽいと同じレベル感なのがグッとくる。フランスドイツスイスフィンランドも"ヨーロッパっぽい"のだろうか。

それにしたって彼女は気まずくないのだろうか。もしかしたら彼女の方は全く気にしていないどころか、僕なんかに微塵も興味を感じていないのかもしれないけど、それにしたって不都合だ。朝の通勤時間小説ビジネス本を読むような彼女には東横線か、あるいは田園都市線がお似合いだと思う。青山広告代理店パリッとクリエイティブ仕事をしているのなら、意外と二子玉川武蔵小杉なんかも良いかもしれない。トレンディがある。そんな彼女住まいが閑静なローカル線住宅街で僕の家から走って2分だなんて。


初恋女の子が僕の通っている小学校引っ越してきたのは4年生の時だ。

学芸会の準備で役を決める際に視聴覚室か何かに学年で集まる機会があって、僕はその時三組だったから、二組に転校してきたその子を見かけるのはそれがはじめてのことだった。僕は一目惚れをした。

控えめにいって、ものすごく可愛かった。もしかしたら可愛くないのかもしれないとかそういうことを思うことなんか一切ない。疑いのない可愛さ。とにかくものすごく可愛かったのだ。広末涼子のような清涼感にしかしどこか影のある、もしかしたら深田恭子かもしれないようなミステリアスさ、とまではいかないけど、こう、幸の薄そうな、アンニュイな佇まい。目が合っているようでどこか僕よりも遠くを見ているようなそういう雰囲気のある女の子。きっと心臓に包帯を巻いているに違いない。

そんな少女の横顔を偶然にもあの場で拝んでしまったその日から、僕の好みの女性タイプ確立してしまった。確実に言える。初恋というのは実に恐ろしいものだ。

僕は地元の公立中学に進学することを決めていたし、彼女が日◯研かどこかの塾に通っていてそれで女子中学校受験するというのは友達から聞いていたから、中学に上がったらこの思いも終わってしまうんだなと思っていた。金輪際のお別れになるんだろうなって思った。なんでかわからないけど、また会えることを期待したお別れであったり、悲しさのようなものを感じないまま中学生になった。今思えば、そういう感情が終わってしまうということが当時の僕にはよくわからなかったのだと思う。小学生の頃の僕たちはただ誰が好きだ誰と両思いだとかそういう秘密を"バクリョー会"と名付けたなんだかよくわからないグループでこっそり共有しあって、それでその子廊下ですれ違うたびに肘で突き合うといった交友関係を楽しんでいただけだったのかもしれない。一度も話したことのないにも関わらず、これは初恋なんだって確実に言えるそれは小学校卒業と共にお別れしたかのように見えた。


高校1年生のとき、僕たちの間で前略プロフィール流行った。

僕もその当時ノリノリでプリクラプロフィール写真に設定し、好きな異性のタイプのところに「幸薄い子」って書くくらいにはエンジョイしていた。

今でいうTwitterのようなタイムラインは「リアル」と呼ばれていて、幼稚園同級生だったモデル女の子は「りさのりある」とかいって人気を博していた。

「ぼくのりある」もささやかな人気を誇っていて、"ねっとりとした"自分語りますだおかだ岡田のような芸風がウケて意外にもいろんな人に見てもらえていた。

ゲストブックというのが前略プロフの中の機能にあって、そこに知人がコメントを残すことが出来るようになっている。そのときに現れた nさんが話題になった。彼女は僕のゲストブック=足跡ミルクキャラメルが欲しいと言った。

僕が高校にあまりいかず(行ってなかったことはしらないだろうけど)近くのコンビニバイトをしていたことを彼女は知っていた。

彼女の言うミルクキャラメルがうちのお店にあるかどうかの話を聞かれて、多分あるとかい適当な返信をしていたのを覚えている。そのうちみんなが僕とnさんのやりとりに興味を持つようになって、学校に行くと「あのn ってだれ!?ww」とか言われるようになった。

僕とnさんとのやりとりが130件を越えたあたりで、nさんはバイト先に来た。

僕は度肝を抜いた。まさかこんなことがあるのだろうか。あの女の子だった。

バイト中にも関わらず連絡先をその場で交換した。夜勤のお兄さんと一緒に夕勤に入っていたのだけど、事情説明したら怒られなかった。むしろ茶化された。

そこから僕たちは小学校卒業してから今までの4年弱を埋めるかのようにメールをした。

当時の携帯は文字数制限というのがあり、1万字を越えると入力ができなくなるのだけど、僕たちは文字数いっぱいになるメールを1時間半かけて50~100つのトピックを会話した。

たとえばニコ動面白いとか、彼女御三家クラス女子校に通っていたので、自然とヲタ趣味を持ちやすいのだと思うけど(偏見)、時かけMADがあーだとか、あるいは東京事変だどうだとか、そういう話もした。彼女軽音部で、家にはドラムセットが置いてあって、透明人間コピーしたりしていたらしい。椎名林檎が好きな女の子だった。高校1年生にしては早熟しているという感想がある。


次第に僕達の仲は縮まっていき、バイトから上がって、電話がかかってきて。僕は彼女から気持ちを伝えられた。僕はそれには返事をしないままデートに誘った。





正直にいって、僕は彼女に対して劣等感があった。先程も言ったとおり、羞恥心なのだ彼女は1時間半かかるメールをしながら、僕が必死入力している時間勉強をしていたのだ。大学入学に向けて自主的勉強をしているような子だった。

僕は偏差値が50もない都立高校に進学して、あまつさえ学年ワースト10の人間だったから、そういう天上人の姿を目の当たりにして惨めな思いがした。

勉強なんて、くだらない」

「どうせやったって役にたたない」

学校先生馬鹿に見えて仕方がない」

僕はみんなが僕と同じようにそう思っているに違いないと思っていたから、ボイコットと言えるような授業態度を取ることもあったし、それがきっかけで停学になることもあった。そういう人間なのだ。そういう貧困家庭文化資本の微塵もない人間が彼女のような幸福に溢れる少女と関わるなんてこと、あってよかったのか。

僕は気持ちに応えたかった。けど、自分の無様な境遇を誰よりも理解していたからこそ、彼女気持ちに応えることもなく、返信を止めてしまった。


「あの時いったこと、なかったことにしてください」

これが彼女から送られてきた最期言葉だった。







そういう経緯もあって、高校二年生にあがって、ひょんなことで自分大学進学ができることを知ってから、たまら勉強をしてみたくなった。

早大学院が家の近くにあって、その高校に幼馴染が進学していたこともあって、高校に行っていなかった時はもっぱら学院の子たちと遊ぶようになった。

もう一人、学院にいったバスケ部の友人が僕に言ったことがある。

「ココにはお前みたいなやつがいっぱいいるぞ!」

僕の居場所はきっとこっちなんだろうなって思った。

僕は変に尖っていたから、東大は無理だけど早慶ならやればイケると思っていた。だから学校で受けることになっている模試志望校には早稲田法学部慶應法学部を必ず書いた。当時の僕は文系最難関は法学部だと思っていた。偏差値は30台だった。

僕が勉強に対してひどいコンプレックスを抱えていたのは、進学した環境へのミスマッチもあったけど、それよりも大きかったのはきっと彼女へのコンプレックス勉強に向いていたからだと思っている。僕はそうやってここまでやってきたのだ。

幼馴染いわく、彼女はAO推薦で早稲田国際政治学科に入学したと聞いた。

ものすごくモテるけど、性格が奇抜らしく、恋愛に発展することはそう多くなかったらしい。

彼女は3年生になって、イェール大学に1年間留学した。留学費用は親から借りて、社会人になった今、親に返しているって言っていた。

そして今、外資系広告代理店に努めている。

彼女はきっと大学ケインズハイエク勉強するような感じではなかっただろう。

きっとホロコーストに関心を持って西欧政治史勉強していたのだろう。ハンナ・アーレントのようなそんなイメージがある。"アンシュルス"という響きが彼女形容する。留学ではどんなことを学んだのだろう。

僕の方はどうだっただろう。

見えない格差に悩まされないことはなかったし、この断層をどうにかして上り詰めてやろうと思った。もしかしたら届かなかったかもしれないし、もしかしたら届いたかもしれない。

でも、ある種の上流に来て思った。僕は平面的な世界しか見ていなかった。ここには奥行きがあって、階層が同じになったように見えても、生きる世界が交わることがないのだと。

彼女の生きてきた歴史を僕が覗くことが出来ないことが、たまらない不安となる。彼女の見える世界と僕の見える世界ブラウン管に映るカサブランカと最新液晶で見る君の名はくらい違うに決まっている。


努力というのは貧しいもの必要とされるものであってほしい。

まれた家庭に生まれ、愛され、そうして社会になんの疑問を抱くことなく生きてきたのであれば、どうかそのまま幸せになってほしい。

社会人になって、通勤中にビジネス本を読んだり、コピー勉強をする必要なんてきっとない。いつかきっと、おそらく今も付き合っているであろう彼氏や職場の人と結ばれて、2児の母になって、幸せになっていってほしい。

彼女のそれはエリートに他ならないではないか

彼女政治経済学部に進学したように、僕も政治経済学を学んできた。

彼女広告代理店就職したように、僕も卒業したらネット広告生業とするだろう。

どこかで交わってもよかったはずの世界が、どんなに類似共通する点があっても交わることのないこの世界の片隅で僕はまこと勝手に息苦しさを感じている。



おそらく10月までに引っ越すことになるだろう。

僕が24年間生きてきた思い出深い地元を出た時、僕と彼女を結ぶ共通点がついに無くなる。

それは小学生ときにはわからなかった別れのような感情を僕に芽生えさせるのか。

あるいは僕の眼前を照らす原動力として、ずっとこころのどこかに仕舞われたまま生きていくことになるのだろうか。

国境の南、太陽の西という小説がある。あの主人公気持ちが分かるような気がしてしまう。もし30歳とかそのくらいの年齢になって、島本さんのように現れてしまったら、僕はどうすれば良いのだろう。

一度空いた穴が塞がることはないのだろう。

僕も彼女に穴を空けてしまったこと、もう一度ゆっくり話してみたい。

2015-11-13

「今、民主主義について考える49冊」から除外された本

書名著者
SEALDs 民主主義ってこれだ!SEALDs
時代の正体神奈川新聞時代の正体」取材班
右傾化する日本政治中野晃一
社会を変えるには小熊英二
デモいこ!TwitNoNukes
私達は"99%"だ「オキュパイガゼット編集部
革命のつくり方港千尋
デモ!オキュパイ未来のための直接行動三一書房編集部
希望政治学布施
日本人民主主義を捨てたがっているのか?想田和弘
立憲主義について佐藤幸治
ぼくらの瀕死のデモクラシー枝川公一
政治はなぜ嫌われるのかコリン・ヘイ
日本国憲法新装学術文庫編集部
法とは何か長谷部恭男
憲法とは何か長谷部恭男
読むための日本国憲法東京新聞政治部
タカ派改憲論者はなぜ自説を変えたのか小林節
憲法は、政府に対する命令であるC.ダグラス・ラミス
国家暴走古賀茂明
検証法治国家崩壊吉田敏浩、新原昭治、末浪靖司
ソフトパワージョセフ・S・ナイ
リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください井上達夫
キング牧師辻内鏡人、中條献
I Have A Dream!マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
隷属への道F.A.ハイエク
世界を動かした21の演説クリスアボット
戦争プロパガンダ10法則アンヌ・モレリ
精読アレント全体主義起源牧野雅彦
ヒトラー演説高田博行
劇画ヒットラー 復刻版水木しげる
悪あがきのすすめ辛淑玉
独裁者のためのハンドブックブルース・ブエノ・デ・メスキータアラスター・スミス
輿論世論佐藤卓己
永遠平和のために 啓蒙とは何か 他3篇カント
アメリカデモクラシー(1上下・2上下トクヴィル
国家上下プラトン
自由ミル
一九八四年[新訳版]ジョージ・オーウェル
動物農場ジョージ・オーウェル
イェルサレムアイヒマンハンナ・アーレント
人間の条件ハンナアレント

ソース

http://pbs.twimg.com/media/CSmpHEIUwAAOfO2.jpg

http://www.junkudo.co.jp/mj/store/event_detail.php?fair_id=10696

2015-11-01

肖像文句言ったら1984が道連れになったのか

一方日本では

オーウェルの「1984」、「動物農場」やハイエクの「隷従への道」を含むブックフェアが不適切だと指摘されて中止になってる

こっちは道連れっていうか

身に覚えのある方面から圧力かな?

なるほどこういう考え方をすればネトウヨと疑われずに済むのか よく覚えておこう

2014-07-05

http://anond.hatelabo.jp/20140705092111

あーまあヒュームだのハイエクだの太宰と三島メンヘラぶりだのが「生きるために絶対に必要だ」と思えてしま人生現実にはそこそこあるわけでして(あまり幸福ではないかもしれないが)、

云千円するような厚い本でも電気工具のように実際の必要(焦燥)に駆られて読むということがある。

座椅子で高いワイン傾けながらフランスポモ談義みたいなのは自分も正直よくわからない。

2014-01-13

定義」は個人的なものではない 社会科学を駄目にするイケダハヤト

http://www.ikedahayato.com/20140110/2218423.html

この記事に至る経緯として

1. イケダハヤト氏が「区のサイトメールをするのも、立派なロビイングですよ」とツイート

2. 楠正憲氏が「それはロビイングとは言わないのではないか」と指摘

3. イケダハヤト氏は「ではあなたロビイングをなんと定義しているのか」と反論(?)

4. 楠正憲氏は「Wikipedia百科事典を読んでみたらどうだろう」と再反論

という流れがあり、上を踏まえての記事である

氏は「そういうことじゃないんですけどね…」と結んでいる。

色々と問題の多いこの記事だが、この記事の最大の問題点は、氏が個人の解釈定義に優先させていることである

凡そ社会科学の大半の用語は定義と個人の解釈が混同されて、統一された定義がなされてこなかった。

定義の不統一は「役不足」「気の置けない」といった慣用句からモラルハザード」といった学術用語にまで及び、

さらにはハイエクが「自由の条件」で指摘したように、「自由」という言葉に至っては学術レベルでその定義は大きく異なる。

論文を書くにしても、自然科学ならば定理や公式で自明となっているところが

社会科学だとまず定義を明らかにしていくところから始めていかなければならない。

議論の前提としてその場にいる全員が用語を同じ意味認識していること重要であるが、

自然科学の用語と違い、社会科学の用語は定義が人によって大きく異なるため、

議論をするにも論点が合わず有効な議論がなされないことが多かった。

それでも現代においては抽象的な概念はともかく比較的具体的な事象については先人の努力により

ある程度統一された定義がなされ、議論の場が出来上がりつつある。

そしてこの「ロビイング問題」である

氏はロビイングを「区にメールを送ること」と定義づけた。当然辞書にはそのような定義はない。

氏がただの素人ならば間違いを指摘されて終わりである。そもそも間違いを指摘されることすらないだろう。

だが氏はある程度の影響力を持つ人間である。ファンも一定数いる。

彼らがロビイングという言葉を間違えて覚えてしまい、また彼らが社会的にある程度の影響力を

持ちはじめたら、ロビイングという言葉定義はどうなるのだろうか。

そうやって間違えた意味で覚えた言葉を発する人間有益な議論を進めることが出来るのだろうか。

これはロビイングに限ったことではない。

というより、個人の解釈定義に優先させるその姿勢が問題なのである

先達の智恵の集合により確立された知識が個人の勝手解釈によって改竄されようとしているのだ。

または侮辱されていると言い換えてもいい。その現場を私は目撃してしまったのである

氏は、専門的な知識もなく遮二無二「僕の考えた○○」を発表できる立場にはもうない。分からないなら口を噤んで欲しい。

2013-06-14

共産主義が駄目な経済理論的な理由

と書いていてなんだが、実のところ、完全競争市場において資源配分計画を行う主体が情報を十分に持っていて合理的ならば

共産主義経済パフォーマンス市場義経済のパフォーマンスは同じ。

これは1920年代から1940年代で「経済計算論争」というのが行われて、その中でオスカル・ランゲって人が証明してしまったものなのです

数学的に完全な説明がついたとされるのは別の人たちの登場を待つけど)。市場経済こそが最高の効率だっていう所に、共産主義も同じだよ?っていわれたときの衝撃は、

ガンダムでいうなら、ダカール演説でクワトロ・バジーナことジオン・ダイクンの遺児であるシャア・アズナブルアンチ地球連邦政府だけど

地球人類を粛清しようとは思っていないと知らされた時の地球人の衝撃みたいなものかと思われる(どちらも、ま、そうだよね派もいたかと思うけど)。


ということでこの衝撃は、市場を重視する経済学者達の思想を根底からさぶったんだけど、これについて有効な反論を行ったのが

池田信夫大先生でおなじみのフリードリヒ・ハイエク。彼は「資源配分計画を行う主体が情報を十分に持っている」という点があり得ないと述べ、

分権的なメカニズムである市場でなければ効率的資源配分が行えないと述べた。ハイエクは、そのような情報を一握にしようとする組織文明をも破壊する

と述べるんだけど、アムロダカール演説を知って、あ、このキャスバル地球隕石落とすに違いないと思ったはずなのと似ている(そんな描写ありません)。


さて、この論争どう決着がついたかというと、新訳版にダカール演説が消えたようになかったことになりました。結局、ランゲはこの後、どうやって情報を集めるかってことに

力を入れ、ハイエクは30年くらい冬眠させられる。戦後の2~30年主流となるのは第三の道である介入型市場経済を掲げるケインズ経済学で、それも冬眠からさめた

ハイエクに批判されるのはご存じのとおり。やっぱり重要な論点は政府情報を集約しきれないところにある。


総括すると、共産主義が駄目な経済理論的な理由は計算不可能性に帰せられ、常識的にはやはり駄目そうということになる。

はいえ、じゃ、計算できるようになればいいんじゃねと夢を膨らませることは可能である。うん、けど、情報処理能力を高めるのは無理そう。

じゃ情報処理量を抑えればいいんじゃね?人も資源もさ!なら、隕石落とせば…



追記

トラバついたこと、また、トラバついている最中に書き直した点があるので返信します。

まず、十分な情報という点を数学的にという点ですが、残念ながらこの論争はそこまで深い話に行きませんでした。

というより、私の書き方がまずく、数学証明というのは完全競争市場においてすべての財の受給を一致させるある価格存在するという

一般均衡存在数学的に証明されたことを指しています(角谷の不動点定理とかおなじみの奴ですね。院レベルの話は下段で)。

これが証明されることは、すなわちランゲの主張するように計画主体がすべての財の受給を一致させるある価格を決めることが出来るのであれば

完全競争市場で実現されるような財の配分が共産主義経済にても実現されることを指しました。

さて、本来であれば、その価格決めにおいて計画者と市場どちらがロスが少なく決められるかの論争が行われるべきでした。

しかし、上記のごとく、ランゲはその価格決めの調整過程研究に入りましたが市場との比較を行うことはありませんでした。

また、アメリカ経済学では(同じように!?市場一般均衡解が決まるまでの動学的過程への関心が1970年代以降強まりますが、

調整方法市場であるか計画であるか言及する人はいませんでした。そうしている間に、1991年ソ連崩壊し、経済学アメリカ経済学に収斂します。

残ったのは市場経済と動学的一般均衡モデル。もはや、計画者と市場という論点は消滅しました。

ということでトラバの方には、学部上級レベル齊藤先生には飽き足らずもっと深い(己の数学的才能のなさに絶望する多分一番経済学の分野でできつい)世界へ進んでもらいたいと思います

2012-12-30

http://anond.hatelabo.jp/20121230064021#tb

生産性の低い伝統芸能予算エリート私学にばらまくのは新自由主義者としては非常に正しい政策で、

橋下はそれにのっとっているに過ぎないんだけど、

橋の下」なんて回りくどい差別心むきだしの言い方してないで、

共産党志位委員長みたいに新自由主義親玉であるハイエクフリードマン理論に正面から対峙しなよ。

2012-08-15

法学部生の必読書50

 法学部生が読むべきと思われる本を50冊選んでみました。

プラトン法律

アリストテレス政治学

キケロ『義務について』

トマス・アクィナス神学大全

マキャヴェッリディスコルシ』

ボダン『国家論』

スアレス法律についての、そして立法者たる神についての論究』

グロティウス『自由海論』

ホッブズ哲学者法学徒の対話』

スピノザ神学政治論』

ロック『統治二論』

ヴィーコ自伝

モンテスキュー『法の精神

ヒューム人間本性論』

ルソー社会契約論』

スミス法学講義

ベッカリーア『犯罪と刑罰』

バークフランス革命省察

ハミルトン他『ザ・フェデラリスト

カント人倫形而上学

ヘーゲル『法の哲学

ベンサム道徳立法の諸原理序説』

ミル『自由論』

トクヴィルアメリカデモクラシー

バジョット『イギリス憲政論』

イェーリング権利のための闘争』

モムゼンローマ国法』

ウェーバー『法社会学

カフカ『法の前』

モース『贈与論』

ケルゼン『純粋法学

シュミット憲法理論

ベンヤミン暴力批判論』

カントロヴィチ王の二つの身体

コジェーヴ『法の現象学

ハート『法の概念

ハイエク『法と立法と自由』

フーコー『監獄の誕生

ドゥルーズ記号と事件』

デリダ『法の力』

ルジャンドルドグマ人類学総説』

アガンベンホモ・サケル

ハーバーマス事実性と妥当性』

ルーマン社会の法』

ポーコック『徳・商業歴史

パトナム『事実価値二分法の崩壊

ロールズ『公正としての正義 再説』

ドゥオーキン『法の帝国

ヌスバウム感情と法』

レッシグ『CODE』

2010-10-14

自らの正しさを確信すること自体は問題ないのだが、それを「他者に強制する」ことから問題が生じる

ナチスの「25カ条綱領」は日本人必読では

自由 リバタリアニズム 政治 多様性 社会主義 日本 考え パターナリズム

bradexさんが、ナチスの「25か条綱領」というのを紹介している。

ウィキペディア - 25か条綱領

http://ja.wikipedia.org/wiki/25%E3%82..

<25か条綱領(独: 25-Punkte-Programm)はナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)の党綱領。1920年2月24日ミュンヘンビアホールホフブロイハウスで採択された>。

その25か条綱領には、次のようなものが含まれている。

不労所得の撤廃、寄生地主の打倒。

・我々は、大企業利益の分配を要求する。

・我々は、老齢保障制度の大幅な強化を要求する。

・我々は、健全中産階級の育成とその維持、および大規模小売店の即時公有化、小規模経営者に対するその安価賃貸、全小規模経営者に対して最大限考慮した国家・州または市町村に対する納品を要求する。

・我々は、我が国民の要求に適した土地改革、公益目的のための土地の無償収用を定める法の制定、地代徴収の禁止と土地投機の制限を要求する。

・我々は、公共の利益を害する活動に対する容赦ない闘争を要求する。高利貸し、闇商人等の民族に対する犯罪者は、宗派人種にかかわらず全て容赦なく処罰される。

・我々の要求をすべて実行するために:国家の強力な中央権力確立。中央議会国家全体および組織一般に対する絶対的な権威公布された国家の大綱的法規を連邦各州において実施するための階級職業別の団体の形成。

これを大雑把に言い直せば、「大企業は儲けすぎだからもっと税金を取れ」「老人への保障をもっと手厚くしろ」「大きな店は潰して、小さな店だけにしろ」「不動産を貸したり転売して儲けることは許さない」「高金利の金貸しは許さない」といった話だから、いまの日本でもよく言われているような話である。

これがナチスの綱領であることを隠して、「このような政党があったら支持するか?」というアンケートをもし日本でやったら、支持する人はかなりいるのではないか。「立派な考えだ」「なかなかいいことを言っている」といった反応がおそらく続出すると思う。

ナチスについて少し調べればわかることだが、ヒトラーは「ただの極悪人」ではない。ユダヤ人への弾圧虐殺などがひどいのは言うまでもないが、上記のように、政策の方向性としては「左翼的な正義」が基調である。いわゆる「悪人」というよりもむしろ、「使命感に燃えた善人」に近いといってもいい部分がある。

実際、ヒトラー自分が「善」だと強く確信していたからこそ、権力を握ることで「悪」を撲滅しようとしたのだろう。そして、それに一定の説得力があったからこそ、支持を集めて、権力を得ることができたわけだ。

もちろん、ナチスの政策だから全部間違っているということにはならないし、ナチスの政策にも正しいものはあるかもしれない。重要なのは、ナチスの政策が正しいか間違っているかというよりも、「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方そのものが危険だ、ということなのだ。

正誤・善悪によらず、何かを他人に「強制」するという考え方にこそ、全体主義ファシズムへの萌芽がある。何かを他人に「強制」してもいいと考えている人は、自らの無謬性(誤りがないこと)をまったく疑っていない。自らの正しさを確信すること自体は問題ないのだが、それを「他者に強制する」ことから問題が生じる。

自由主義リバタリアニズムがこの「強制」を嫌うのは、何が正しいのか、何が善なのかということに関して、唯一の絶対的な基準があるということを疑っているからだ。自由主義者リバタリアンは、つねに異なる意見、異なる価値観を共存させ、多様性を認めることで、社会は発展するし、また社会は安定する、と考える。

自由主義者政府より市場を好むのも、政府は「強制」するものであり、市場は「自由」な取引で成り立つものだからだ。

私の見たところ、日本というのは「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方がわりと強い国だと思う。そういう考え方の人は、たいてい「悪人」ではなく、むしろ「善人」だったりする。「いい人」なわけだ。しかし、他人に「強制」すべきでないということや、異なる考え方をあえて共存させる「多様性」の重要性については、あまり理解されていないように感じる。

菅首相なども、「善人」なんだけど、「強制」することが問題だとわかっていない人の典型である。左翼的な考えの持ち主はわりとこのパターンが多くて、弱者を思いやる「善人」なんだけど、「強制」することでどういう問題が生じるかがわかっていない、と感じられる場合が多い。こういう人は、弱者を思いやるのはいいのだが、その一方で、金持ち経営者を「悪」だと決めつけてしまいがちだ。

「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方は、まさに「パターナリズム」である。それは、親が子供に対しておこなう場合であれば許されるだろうが、社会のなかで他者に対して「強制」をおこなうことは許されない。しかし、この「強制」が唯一、合法的に許されているのが政府である。

よって、政府は「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方の危険性や副作用をよく理解して、どうしても「強制」を行使しなければならない場合にのみ、きわめて慎重に行使すべきなのだが、日本政府はそれをあまり理解しているようには見えない。最近また大店法の話が出てきたりしているのを見ても、「これは善なのだから、他人に強制してもいい」ということを、むしろ無邪気に信じているかのようだ(特に民主党は、以前からこの傾向が目につく)。その規制経済をブチ壊すことを理解できないのだろう。それも経済産業相が、である。

民間人は「ゲームプレイヤー」であり、政府は「ゲームデザイナー」である。企業民間人は、政府のような「強制」力を一切持っていないのだから、社会問題になるような「構造」問題に対しては、企業民間人には責任が生じようがない。これは「システム」の問題なのであり、よって責任があるのはもっぱら、「強制」力によって制度設計をおこなった政府である。それなのに、民間の企業を「ワルモノ」扱いして、その行動をさらに規制すれば問題が解決すると考えているのだから、まるで逆だ。セーフティネットは必要だが、市場規制してもセーフティネットにはならない。

http://mojix.org/2010/10/11/national-socialist-program

関連エントリ

リバタリアニズムキモは「強制しない」こと

http://mojix.org/2010/01/23/libertarianism_kimo

どんなに素晴らしい価値観であっても、価値観の「強制」には反対する

http://mojix.org/2009/08/01/kachikan_kyousei

地獄への道は善意で敷き詰められている(The road to hell is paved with good intentions)

http://mojix.org/2009/03/20/the_road_to_hell

マンガでわかるハイエク『隷属への道』

http://mojix.org/2008/10/22/serfdom_manga

2010-08-26

[]新・福沢諭吉

雇用の流動化が必要だというと、「人々の不安が増す」とか「モチベーションが下がって生産性が落ちる」いった批判がよくある。たしかに会社という繭にくるんで、すべての人をやさしく守ることができれば理想だろう。戦後の一時期には、それが実現したと錯覚された時代もあった。しかし残念ながら、もはやそういうユートピアは失われたのだ。

今われわれが直面しているのは、福沢諭吉以来の「個の自立」という問題である。『福翁自伝』などを読むと、100年以上前の本なのに不思議単純明快でわかりやすい。本書は、その「新しさ」をハイエクなどオーストリア学派リバタリアンに重ねて解釈したものだ(絶版)。

ハイエクは福沢の死んだ年に生まれたので、福沢が影響を受けるはずはないが、両者には共通点がある。それは若いとき、ヒュームミルなどの古典自由主義の影響を強く受けたことだ。そしてハイエクにとって社会主義との闘いが個人の自由への信頼を生んだように、福沢の場合も「門閥制度は親の敵」という儒教的秩序との闘いが生涯のテーマだった。

福沢以来、丸山眞男大塚久雄に至るまで、個の自立は日本知識人見果てぬ夢だった。しかし今われわれの見ているのは、福沢が生涯をかけて闘った封建的秩序が自壊し、ゾンビ化した状態である。そこに出てきたのは自立した個人ではなく、帰属する集団を失って自殺する失業者と、家族にも見捨てられた「消えた老人」だ。雇用が流動化すると、こうしたストレスはさらに増えるだろう。

本書も指摘するように、福沢のいう「情愛」を排除して論理のみによって人々が結びつく社会は、彼のような強靱な知性の持ち主でなければ耐えられない。テイラーのような北米の人々が近代に築き上げた人工的コミュニティが崩壊して個人主義が強まることを危惧するのとは逆に、日本では近代以前から継承してきた「強い中間集団」が有効性を失う一方、人々は北米型の「強い個人」にはなれないのだ。

しかし福沢以外の道はあるのだろうか。北一輝個人主義を超克する国家社会主義提唱し、日本浪漫派は近代自我を否定して「近代の超克」の道をさぐったが、それは破滅への道だった。戦後日本的コーポラティズムの意外な成功は、欧米的な個人主義を経なくても繁栄できる「東アジアモデル」を示したように見えたが、それも幻想だった。

いま日本の陥っている袋小路を脱却する道は、おそらく福沢のいう「独立自尊」しかないだろう。われわれは市場経済によって得た富を捨てることができないからだ。そして組織を守ることによって個人を守るのではなく、古い組織を淘汰して社会によって個人を守るシステムに変えるしかない。福沢は、今なお新しいのである。

2010-05-23

大人になって読み返したらスゴかった 「英文標準問題精講」

「英文標準問題精講」(原仙作 著)。第5訂版。初版はなんと戦前の1933年。今も本屋大学受験コーナーに行けば売られている、参考書古典中の古典である

 10年くらい前だろうか。大学受験する時に買ってはみたのだけれど、さっぱりわからんと放り投げたこの参考書を、なぜだか分からないがふと思い出し、本棚の奥からひっぱり出してふむふむと読み進めてみたら面白くて止まらなくなってしまった。今では、寝る前に2、3本の例文を読むことが最近の日課になってしまってすらいる。

 アマゾンでの散々な評価[amazon:英文標準問題精講]で見れるように,この本は確かに受験参考書としては使えない。より解説が豊富で効率的に要点を学べる本が山ほど出ており、純粋受験生の実用性でのみ評価した場合、もう役目を終えていると言っていいかもしれない。

 しかしそれでも本書の魅力自体は色あせていない。「英文標準問題精講」が持つ最大の魅力は、その全例文が近現代史に名を残した偉人たちの言葉で綴られていることにある。例えばこんな具合に。

 Contemporary events differ from history in that we do not know the results they will produce. Looking back, we can assess the significances of past occurrences and trace the consequences they have brought in their train.But while history runs its course, it is not history to us.(隷属の道より)

 改めて読み直した時、私は経済学者フリードリヒ・フォン・ハイエクによるこんな論考が受験参考書の「例文」して、ごく当たり前のように取り上げられていたことに、まず何より驚愕した。なんていうハイレベル自己満足をするのだろう!そりゃあ今時の高校生が読んでもわからないはずだと思った。とは言え、ハイエクの他にもラッセルアインシュタインスタインベックなど一級の知性がしたためた文章が載っており、英文エッセイ集としての魅力は廃れるどころかむしろもっと再評価がなされるべきではないか

 本書の内容は多岐にわたり、しか普遍的なものだ。幼少時代についた嘘についての体験談から、「知識は人間幸せにするのか」「芸術や詩歌の意義」といった哲学的なテーマまで。かつての知識人達がいったいどのように感じ、考えてきたか、その一端を垣間見ることができてとても興味深い。

 私の場合、読んでいて特にハッとしたエッセイが、ヘンリー・ミラーの一文だ。

 What makes a book live? How often this question arises! The answer, in my opinion, is simple. A book lives through the passionate recommendation of one reader to another.Nothing can throttle this basic impulse in the human being.

 すぐ忘れ去られる本がある一方で、何十年と長く読みつがれる本があるが、その違いは何か。長生きする本は、その当時最も売れた本でもないし、一方で最も正しいことを書いた本でもない。それはただ、その本に気をとめ、大きな声で推薦する声が途切れなかったから長く、生き続けてきたのである成熟された、いい考え方だと思う。

 私もヘンリー・ミラーに習って推薦してみたい。これは大人のための英語学習書だ、と。せっかちな受験生が読むような中身の薄い例文ではなく、じっくりと反芻できる重みのある文章を読む。そんなクール英文学習ができる本なんてちょっと見当たらない。ビジネス書とTOEICについ目移りするサラリーマンにこそ、今、「英文標準問題精講」が求められていると思う。

http://twitter.com/zaway/status/14500420105

2009-11-06

http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20091030/1256911673

コメントに爆笑w

確かにキチガイサヨクでもない普通人間がこの文章読んだら笑うしかないわなw

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これはひどい

・ なんだ?バカなのか?

・ 既に日本は「失敗した大きな政府」と言ってもよいのでは?赤字国債を積み上げて、尚大きくするつもりなのかな?

・ とりあえず経済哲学を部分部分かじった知識で駄文を書いてるようにしか見えない。自由主義個人主義の違いについてはまずはハイエクあたりをおすすめします。

・ 気にくわない人間に「新自由主義者」のレッテルを貼って叩くという ベーシックな手法だけでここまで盛り上がれるのが正直うらやましい。

新古典派経済学も「新自由主義者」も、その意味(規制ルール無用)での「市場原理主義」を主張したことは一度もない。「市場原理主義」批判者の批判はまったくの見当違い

・ 「小泉・竹中コンビやらかしたこと」とは具体的にはどの政策がどのような悪影響があったということなのだろうか?

自分の都合の良いように言葉定義するのは止めませんか?

小さな政府志向する人は、不適切な関与を減らせと主張しているだけで、適切な関与を否定する人なんていないよ。

小さな政府=無政府って馬鹿な発想はどこから来たんだろうな。究極は夜警国家ってのは否定しないが。

・ 久しぶりに藁人形を見た。

・ このブログ主公務員を信頼している。そこが僕と意見が異なる理由のようだ。僕は民間人であり公務員仕事ぶりに批判がある。効率が悪いということだ。だからブログ主公務員生産性についての意見を聞きたく思う

・ で、政府による再分配がうまくいった実例は?ちなみに健康保険は再分配じゃない。政府が適切・不適切を判断できるなんて過大評価もいいところ(w小さな政府は審判。大きな政府プレイヤーと審判の両方を行う。

竹中平蔵氏ですら「経済学者市場原理主義者ではありえません。なぜなら市場の失敗を認めるからです」とか言ってたよ。市場の失敗のあるところに政府が介入することまで否定する小さな政府主義者って何処にいる?

日本の公的セクター労働生産性の数値をどこかで見たと思うけど、民間に比べてかなり低かったような。そういう議論は抜け落ちてるね

新自由主義による負の所得税とかベーシックインカムなどの再分配政策についての見解も併せて聞きたいね/小さな政府と再分配政策は矛盾しないと思う

特許のような競争原理を働かせるための政府規制を事例としてあげるセンスに驚く。←kojitaken100回読んでごらん?政府規制競争を促進させることを否定しているかい?更に独禁法小さな政府無意味論理破綻してる。

2009-10-18

[][][]効率的市場仮説(EMH)

クルーグマンは効率的市場仮説(EMH)を批判しているが、それを理解してないようだ。彼は「経済学者バブル崩壊を予想できなかった」というが、誰も市場の動きを正確に予想することはできないというのがEMHの基本命題で、今回の事件はそれを証明したのだ。いっておくが、市場が「効率的」だというのは「安定している」という意味じゃないよ。

市場経済本質はそれが完全だということじゃなく、ハイエクが言ったように、それが不完全な知識でもどうにか動くということだ。クルーグマン政府市場より賢明だと想定しているが、超低金利を続けて資金過剰を作り出し、ファニー・フレディーに事実上債務保証を与えて住宅バブルを生み出した政府が、市場より賢いと信じている経済学者は彼ぐらいのものだろう。人々が不合理だという行動経済学の主張は正しいが、同様に政府も不合理なのだ。

特に支離滅裂なのは、彼が70年前のケインズ理論を擁護している部分だ。ケインズが書いたように穴を掘って埋めようともGDPさえふくらめばいいというのなら、マドフは英雄だ。彼は投資家の余剰資金を預かって、それを派手に使う人々(彼自身を含む)に与え、「有効需要」の増加に貢献した。この理論によれば、政府財政資金がすべて盗まれるのがいちばん簡単で効果的だ。泥棒の限界消費性向はきわめて高いからだ。

経済学の現状についてのクルーグマンの理解は、30年前で止まっている。われわれはKydland-Prescott1982年理論を復唱しているわけではなく、現在研究の主眼はどのような不完全性や摩擦があるかを実証的に検証することだ。クルーグマンは実証には関心がないようだが、「真水理論」は実証研究ベンチマークにすぎない。彼は「経済学数学的に複雑になりすぎた」というが、問題は逆だ。今のマクロ経済学は、この複雑な経済を扱うには単純すぎるんだよ。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/3ede6e5d0f50b3c5138da2ce6e9e1d3b

2009-09-19

民主主義社会主義価値

この国では、知識人には一般人よりも全体主義的傾向がみられるというハイエク教授はおそらく正しい。しかし、彼は、大多数の人々にとって、「自由」競争への回帰とは国家と比べて無責任なものであり、それは専制より悪しきものであるということから目を背けている。または、そのことを決して認めようとはしない。

[ハイエク、『隷従への道』に対するオーウェル書評1944年)より]

出典:バーナードクリック(Bernard Crick)、『社会主義(Socialism)』、(ミネソタMinnesota、1987年)。78ページ。

2009-01-29

アーキテクチャと思考の場所

仕事がはやく終わったんで、掲題のシンポジウムに行ってきた。

開始時刻に少し遅れて着いたんですが、600人収容の講堂はすでに立錐の余地もない状態。

中継会場も立見席しかない状態。

こんな「ウルトラ怪獣大行進」というか「フェラーリVS朝青龍VSミトコンドリアVS標題音楽」のような異種格闘技企画にこれだけの人があつまるなんて驚き。

まるで興味のなさそうな大学生カポーが座席でいちゃついててむかついた。

シンポジウムあずまんがひととおり趣旨を語った後に、『アーキテクチャ生態系』で名をあげた濱野智史基調講演その1で幕開。

この手の議論になじみのない人に配慮したせいか、ネットに広がるアーキテクチャ(地平)はリアル世界建築アーキテクチャと違って無限だよ、という話とある意味アーキテクト(設計者)がないネットは「人工」でありながら「自然」だよというベーシックな話を平易に語ってた。

すかさずあずまんが「ようは自然に見えるから人工のアーキテクチャに対して批判ができなくなってるのが問題なんだよね」とそんなこと濱野氏はひとこともいってないのに強引にまとめる。

まぁ、彼らの議論はそういうところにあるんだからいいかと思うけど、会場から微妙失笑も。

つぎはうのたんの基調講演。

白いスーツで登壇した宇野タンですが、緊張してるのかビビッてるのか異常な早口でまくし立てる。

挙動不審といってもいいくらい。

内容は「ゼロ年代の想像力」をふまえつつ、アーキテクチャもいいけど、倫理的実存的な問いも大切だからその両輪でいこうよという話にきこえた。相変わらず「母性ディストピア」がどうとか「悪い場所」がどうとかマッチョ説教がうざかった。

だんだんわけわかんない話になってきて、会場が「空気嫁よ」というふいんきに満たされる。

これもすかさずあずまんが強引うまくまとめる。

あずまん頭いいよ!!

ウノたんのえらく冗長な話を一発で簡潔にまとめる力。おそるべきプレゼン力。

で、これを受けて浅田彰コメント

つまんなかったのか「だいたい今日趣旨とか聞いてない。宇野とか濱野とかよくしらねーし。

いろいろ言ってるけど、あんまり新しいことを語っているように思えない。だいたい今も昔も批

評の場所もないんだよ。マルクス主義が失敗した時点で!」とツン発言。

なんかこのシンポジウムはどこに行くんだろうと思ってたら中継画像が切れる。

復旧の見込みがないので、立錐の余地のない本会場に突入

しかし、全般的にこのシンポジウムはロジが最低だった。

ついたときには磯崎新が「アーキテクチャアーキテクチャってうるさいよ。なんでもアーキテクチャ

ていうな。定義汁」といい、続いて宮台も「俺も今日趣旨は聞いていない」と切り出してあとはハイエ

クがどうこうと好き勝手しゃべり、「今日シンポジウムは失敗なんじゃないの」とまでいう始末。

たしかにそれぞれが好き勝手なことしゃべって論点がまったくぼけてしまい失敗したようにみえたけど、が一番悪いようにも見えた。

宮台の散漫で冗長な話をいっしょうけんめいあずまんがまとめては一本の論点に集約させようとしていた。

結局、あずまんがいうところの「アーキテクチャ」に関してそれぞれがひとつにまとまった問題意識をもっていたわけではないので、あ

まり議論はかみあわず、お題に対してそれぞれが好き勝手にしゃべる場になっていたのは残念だけど、それなりに「アーキテクチャ

をめぐる「論点」が総花的に提示されたようにも見えて有意義だった。

なぜか「ひろゆき(2チャンネル管理人のね)と公共性」が途中からメインイシューになってたけど、これも「アーキテクチャ」を

語る上ではずせない要素なのかもね。

あと、ウノタンは最初の基調講演と1回しょうもない発言をしたあとはずっと黙ってた。

どうも場違いだったようにも見えた。うのたんの最後のコメントは聞かずに帰った。

時間立ち見だったので腰が痛い。

付記

うのたんは最後に「6割はどうでもいい話だった」といいはなち、「大文字の公共性はある」と叫んで行ったらしい。

うのたんのいう公共性って「ジャニーズドラマ仮面ライダー純文学アニメも語れる俺こそが島宇宙を越境した公

共性の司祭だ。みんな俺になれ」っていう程度のことでしかなくね。

うのたんは会社員はやめないほうがいいと思う。

批評家としては早晩寿命がつきると思うから。6割どうでもいいというけど、ついていけなかっただけなんじゃない?

メルロ・ポンティフーコーハイエクも読んでなさそうだし。ぼくも読んでないけど。

2008-03-15

anond:20080315145308

本当だ。消えないうちにグーグルキャッシュからサルベージしておこう。

グーグルキャッシュ初版なので違うところがあるかも。

プラトン国家』 

アリストテレス形而上学』 

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』 

ヘーゲル精神現象学』 

デカルト省察』 

パスカル『パンセ』 

ライプニッツ『単子論』 

カント純粋理性批判』 

キルケゴール『不安の概念』 

スピノザエチカ』 

ルソー社会契約論』 

バークフランス革命省察』 

ジェイムズ『宗教経験の諸相』 

ニーチェ権力への意志』 

フッサール論理学研究』 

ハイデガー存在と時間』 

サルトル存在と無』 

ベルグソン時間と自由』

レヴィナス『全体性と無限』 

フロイト快感原則の彼岸』 

ラカン精神分析の四つの基本概念』 

レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』 

フーコー言葉と物』 

ソシュール『一般言語学講義』 

チョムスキー『文法理論の諸相』 

ヴェイユ重力と恩寵』 

アーレント精神の生活』 

ブーバー『我と汝・対話』 

ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』 

ミンスキー『心の社会』 

ライル『心の概念』 

アドルノホルクハイマー啓蒙弁証法』 

ドゥルーズガタリアンチ・オイディプス』 

ウェーバープロテスタンティズム倫理資本主義精神』 

デュルケム『自殺論』 

バタイユエロティシズム』 

モース『社会学人類学』 

キャンベル『千の顔をもつ英雄』 

マクルーハンメディア論』 

ブローデル地中海』 

ウォーラステイン『近代世界システム』 

アダム・スミス国富論』 

ゾンバルト恋愛と贅沢と資本主義』 

ベンタム『道徳立法の原理序説』

ミル『自由論』 マルクス資本論』 

アルチュセール資本論を読む』 

シュンペーター経済発展の理論』 

ケインズ雇用・利子および貨幣の一般理論』 

ヴェブレン『有閑階級理論』 

ポランニー『大転換』

ボードリャール消費社会神話と構造』 

オルテガ『大衆の反逆』 

ミルズ『パワーエリート

リースマン『孤独な群衆』  

イリイチシャドウ・ワーク』 

ベル資本主義の文化的矛盾』 

ネグリ『構成的権力』 

バーマス『晩期資本主義における正統化の諸問題』 

アンダーソン『想像共同体』 

バレーラマトゥラーナ知恵の樹』 

ルーマン社会システム理論』 

ロールズ正義論』 

ハイエク『法・立法・自由』 

ブルデュー資本主義ハビトゥス』 

オング『声の文化と文字の文化』  

M・ポランニー『暗黙知次元』 

クーン科学革命の構造』 

ポパー『推測と反駁』 

サイードオリエンタリズム』 

メルロ=ポンティ知覚現象学』 

フッサール論理学研究』 

ラッセル西洋哲学史』 

フロム『自由からの逃走』 

ベイトソン精神生態学』 

ベンヤミンパサージュ論』

デリダ『グラマトロジーについて』 

クール時間物語』 

ペンフィールド『脳と心の正体』 

スローターダイクシニカル理性批判』 

フレイザー金枝篇』 

シュミット政治神学』 

クラウゼヴィッツ戦争論』

ドラッカー『「経済人」の終わり』 

リップマン『世論』 

マンハイムイデオロギーユートピア』 

ブルームアメリカンマインドの終焉』 

ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトライス』 

パノフスキー『イコノロジー研究』 

クーン科学革命の構造』 

ホワイトヘッド科学と近代世界』 

ソンタグ『反解釈』 

ドーキンス 『利己的な遺伝子』 

ギブソン生態学的視覚論』 

フランシス・フクヤマ歴史の終わり』 

ケストラー『機械の中の幽霊』 

ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』 

ホーキング『ホーキング宇宙を語る』 

イーザー『行為としての読書』 

イーグルトン『文学とは何か』 

ホフスタッター『ゲーデルエッシャーバッハ』 

ド・マン『ロマン主義レトリック』 

シオラン歴史ユートピア』 

ブランショ文学空間』 

ガダマー『真理と方法』 

ローティ哲学自然の鏡』 

セラーズ『経験論と心の哲学』 

パーソンズ社会的行為の構造』 

ジジェクイデオロギーの崇高な対象』 

アガンベンホモ・サケル』 

ダマシオ『生存する脳』 

クワイン『ことばと対象』 

マッキンタイア『美徳なき時代』

こういう時、トラバツリーが各所に残る今の仕様は便利だ。

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