はてなキーワード: 1982年とは
「オチが救われない話」というまとめサイトを読んでいたら、こんな救われない話を知った。
『フランダースの犬』は、アニメとして日本人によく知られている。
もとは1872年発表のイギリスの童話だが、原作者の女性がベルギーの風俗をイギリス人の目で偏見的に描いている。
イギリス人の心の奥底には、ヨーロッパに対するかすかな敵意が潜んでいる。
「この地方は荒れ果て、人々は不親切で、しかも愛すべき犬を何代にもわたって、激しい労働に不当にこき使っている」
こんなことをずらずらと書いているのだ。
その上、本家イギリスでは、運命に抗わずに教会で死ぬという内容がアングロ・サクソン的に受け付けられなかったようだ。
結局欧米では、誰も見向きもしなくなったというわけだ。
ところが日本では、1975年に感動的なアニメが作られたために爆発的な人気を獲得する。
80年代からの海外旅行ブームでは、ベルギーのフランドル地方観光が定番コースの一つとなったほど。
もっとも、ルーベンスの絵を観ることはできても、『フランダースの犬』にまつわるものがそこには何一つない。
日本人がガッカリして帰国するのが、当時のツアーのお決まりのパターンだったとか。
ところが、1982年、大きな転機がやってくる。
ベルギー・アントワープの観光局で働いていたヤン・コルテールという男性が、運命を変えた。
日本人観光客から『フランダースの犬』という物語の存在を聞いたことが発端である。
生真面目な性格で、面白みのない変わり者と思われていた彼には浮いた噂もなく、恋人はおらず、友達も少なかった。
そんなオタク青年の彼は、地元に関係する噂話を聞き逃さなかった。
「アニメをやってたんだけど、もしかしたら原作があったのかもなぁ」
というだけで『フランダースの犬』について、はっきりとしたことが分からない。
街の誰に尋ねても、何もわからなかった。
しかし彼はあきらめない。
「この地方を舞台にしているのなら、図書館にヒントがあるかもしれない」
図書館であらゆる資料をあさり、……そしてとうとう、60年の間、二、三度しか借りられていなかった原作を見つけたのだ。
欣喜雀躍たる、彼の喜びが想像できるだろう。
……だが、読み終えた彼はがっかりした。
実は原作には、最後にネロが天使に救われて天国へと召される……というシーンはない。
ただただ暗いだけの作品なのだ。
原作者は夫に捨てられた後、犬の保護に尽力していたが周囲に相手にされなくなり、晩年は30匹の犬に見守られて亡くなっていた。
(この原作と日本人の感動との間の乖離は、いったいなんなのだろう?)
もしかしたら、それがヒントになるのかも?
彼は、日本語を学び、日本人観光客の友だちを作り、帰国した彼らからアニメビデオや童話集を取り寄せてみた。
その結果……感動したのだった。
情熱は、いよいよ膨らむ。
一年半かけて調査を行ない、原作の舞台が近くのホボケン村だと突き止めた。
当時の日本なんて、極東の島国で、ドイツに加担して負けた挙句に少々景気を持ち直しただけの国、というイメージだったから、仕方ないだろう。
だが、彼の熱意は次第に周囲を突き動かしはじめた。
ルーベンス以外にこれといって観光資源のないこの街に、もう一つの観光シンボルが生まれるかも知れない。
そういった周囲の思惑も重なり、ついには1985年、ネロとパトラッシュの小さな像が、ホボケン情報センターの前に立てられた。
除幕式にはアントワープ州知事、市長、在ベルギー日本大使らも参席、盛大なパーティーが開かれたという。
ネロとパトラッシュが共に埋められた(ことになっている)街の教会は、観光コースとなった。
ルーベンスの作品を観るためにアントワープを訪れていた日本人観光客がホボケン村にも立ち寄るようになった。
その地域は観光収入でおおいにうるおい、観光局勤めの彼の名声も次第に上がった。
フランダースの犬はベルギーで放送され、80%近い視聴率をとったという。
ヤン・コルテールは『フランダースの犬』研究家として知られるようになる。
その地域では日本通として知られ、日本との橋渡し役としても活躍するようになった。
研究のために日本へ何十回となく訪れるようになり、大の親日家となった彼は、日本人女性の石井ヨシエと結婚した。
彼は妻と共に、今でも地元でつつましやかに幸せに暮らしている。
……はずだった。
なぜなのか?
コルテールが日本人の妻をもらい、日本とベルギーの架け橋として活躍していることまでは、いろいろなサイトで詳しく取り上げられていた。
ところが、彼が犯した殺人についての続報をいくら調べても、日本語のサイトでは何一つその理由が分からないのだ。
英語のサイトで調べても、アメリカ人などが『フランダースの犬』に関心がないためか、まったくヒットしない。
仕方ないのでグーグル先生の力を借りて、オランダ語のサイトを日本語に訳したり英語に訳したりしながら調べた。
その結果、驚くべきことがわかった。
コルテールとヨシエが結婚して数年は、大変幸せそうだったそうだ。
だが、次第にヨシエは旦那の拘束がうとましくなってきたらしい。
もっと自由にさせて欲しい、自由にいろいろな場所に行きたい、というのがヨシエの欲求だったそうだが、コルテールはそれを許さない。
異国の地にやってきて、海外でしか味わえない自由を満喫したい日本人女性。
彼女を大切にするあまりに、彼女の全てを管理したいと願うベルギー人男性。
だんだんと、二人の間には溝が生まれるようになった。
二人の間はギクシャクし始める。
その時に彼女の前に現れたのが、口が堅いという噂のピエールだった。
「夫とは長いこと話してないの。夫は頑固でさ」
秘密を守れるピエールへの心安さからか、ヨシエは彼へ愚痴をこぼすようになった。
「彼は変わり者だからね。我慢さ」
愚痴を聞いてもらううちに、ヨシエがピエールに親しみを感じ、やがて二人が愛しあうようになるまでに時間はかからなかった。
ピエールの口は固かったが、ヨシエの下の口はゆるかった。
二人がバスルームで愛し合っているところを、コルテールが発見してしまったのだ。
口がゆるい上に、脇も甘かったというわけだ。
だが、そのときヨシエは豹変した。
日本女性のおしとやかさはどこへやら、情事を発見したコルテールを怒鳴りつけたという。
「あんたさぁ、男としての魅力がないんだよ!!」
彼女の口は、悪かった。
その時に、コルテールは、彼女のことを深く深く愛していたことに改めて気づく。
何があろうと、彼女の気持ちが戻ってくればそれでいい、というのがコルテールの偽らざる気持ちだった。
彼は、離婚を迫るヨシエに対して、仲を修復したいと取りすがった。
しかし、彼と別れてピエールと一緒になりたい、というヨシエの気持ちは変わらない。
それは、最後のお願いとして、彼女と日本を一緒に旅行することだった。
二人が出会った日本で過ごせば、彼女の気持ちも戻ると思ったからだ。
……これ、男にありがち。
男の浮気は「名前をつけて保存」だが、女の浮気は「上書きして保存」
他の男に気持ちが移った以上、振り向くわけなんてないのだ。
日本でヨシエは、両親にコルテールを引きあわせたという(この辺りは女性特有の図太さといえよう)。
それでいながら、彼女の気持ちが変わることはついぞなかった。
それを拒むコルテールを、ヨシエは罵った。
そして、決して犯してはならないラインを越えてしまった。
彼女は、職場のベルギー人の同僚達と彼とを一人ひとり比較して、いかにコルテールが劣ったオタク野郎なのか、痛罵したのだ。
……こと、ここにいたっては、どうしようもない。
その時の衝撃は、彼の行動が示している。
コルテールは逆上し、ヨシエをナイフで22ヶ所切りつけて、殺害したのだ。
リアルは、『フランダースの犬』以上に救いようのない話だった。
ものごころつくかつかないかの頃にチェルノブイリ事故があった。恐ろしい事故だという話は聞いていた。何千人、何万人、ともかく想像もつかない数の人が命を落としたと聞いた。
俺は当時高校生だったが、そんな話は聞いたことないぞ。お前の記憶違いか、当時の短絡による勘違いか、本当にそう聞かされたとしたら周りがおかしいのだろう。
そもそも「絶対安全」を喧伝されてきた、とか言われてるけど、そんな覚えなんて全然ないんだよね。
理系ならば「絶対」はありえないというのが常識だから、すべてをその色眼鏡で見る。しかし普通のおっちゃんやおばちゃんたちは「事故が起こるということはないんですね」と質問して「ありません」と言われたら、それを「絶対安全」と解釈する。それが「普通」なんだ。
それと、「喧伝」の実例な。
http://amano.blog.so-net.ne.jp/2011-07-08
原発の安全性をアピールするものの中からほんの一部を選びました。
……
これを「絶対安全」と読み変えることへの異議を唱えてみても、神学論争になるだけだからやめておけ。認識されるべき現実は、これが「絶対安全」と解釈される、ということだ。そこからスタートしなければならない。
以上、元増田が皮肉を意図していることは最初に読んだときにわかったが、知り合いが元増田の文章を間に受けて「自分も反原発派にだまされていた」と鼻息を荒くしていたので、一応、マジレスしておく。元増田、気を悪くしないでほしい。
人はそれを、「監督の才能欠如」と呼ぶと思う。
wikipedia参照↓
ところが打ち切りが決まった直後から人気が上昇。最終回でアムロは死ぬ予定だったが関岡が人気の盛り上がりから再放送や続編制作が期待できるため反対して取りやめになった。
また、放送当時からアニメ雑誌がたびたび熱意ある特集記事を組むなど、中高生、特に女子を中心に口コミで徐々に評判が高まった。
本放送終了後もアニメファンによる再放送要請嘆願署名が行われるなど熱意は衰えず、これらを受けてクローバーは再放送を決定した。
こうして再放送、再々放送が重ねられ、世間一般へ本作が浸透していった。再放送では平均視聴率も10%を超え、1982年における再放送では名古屋地区で25.7%(最高視聴率29.1%)を記録した。
特集が組まれても人気がない作品が、ガンダムを例に出しても、みじめになるだけ。
オサマ・ビン・ラディンは自分の手に視線を落とすのが常だった。
通訳を好まない彼がインタビューで伝えたのは、その顔と裏腹な言葉だった。
2001年9月11日「ゴミのように」空を舞う不信心者を見て自分は心から愉悦を覚えた。
自らの手を血に染めることはほとんどなかったが、
愛用のカラシニコフはアフガニスタンの戦闘でロシア兵から奪ったものだという。
サウジアラビアのアメリカ基地、イエメンのアメリカ軍駆逐艦、ケニアとタンザニアのアメリカ大使館。
いずれの場合も「子供たち」の攻撃を遠方から見届けるのが彼の常だった。
賞賛されるテロリズムも批判されるテロリズムもある、と認めながら、
これは「聖なるテロ」だとしてイスラムを擁護した。これはイスラムを守る「聖なるテロ」だとした。
9/11について当初は関与を否定したが、誇る気持ちが強くなったのか、
同胞19人を指揮したことをのちに認めた。
建設業こそが50億ドルといわれる富をビン・ラディン家にもたらし、2500万ドルの遺産を彼に残したのだ。
1980年代に購入した掘削機、ダンプカー、ブルドーザーをときには自ら運転しながら、
アフガニスタンでソビエトと戦うムジャヒディンのための塹壕を掘り、
それは1989年の不信心者らの撤退まで続いた。
1990年代に逗留したスーダンでは、道路を作ったこともある。
アフガニスタンでゲストハウスを作り、武器を提供した際に作ったのが、マクタブ・アル・キダマト(「サービス部局」)、
この仕事の大半を支えたのはアブドラ・アッザム、彼の宗教的恩師だった。
そのネットワークは以後、アイマン・アル・ザワヒリらによって引き継がれたが、
個々の人員登用、到着期日、戦いの大義などを多数の文書に残したのはまぎれもなく彼だった。
彼は自らが行った非道を伝えるメディアに目を配り、世界の報道機関を手玉にとった。
ブランドを作り、組織を世界規模のフランチャイズに育て上げた。
「アル・カイダ」の旗を持つ兵士が二人いればアメリカの将軍が押し寄せてくる、と彼は誇らしげに語った。
電話もインターネットも時計すらも追跡の恐れがあるとして触れるのを避け、
それは、成功を収めた堅実な投資に現れていたのと同じ注意深さだった。
沈思黙考して夜を明かし、一日を読書に費やすこともあった。
礼儀正しく敬虔な御曹司が到達したのは、知識人でも夢想家でもなかった。
それをもたらしたのは、1982年レバノンに侵攻したイスラエルと、
1990年、サウジアラビアの聖なるメッカとメディアに到着したアメリカ軍だった。
不信心者を追い払い、
パレスチナを成立させ、
それが彼の望みだった。
一言に洗練させるとすれば、暴力に訴えるジハドと言えただろう。
彼の言い方では、目には目を、の「相互主義」を実現させること。
五人の妻のうちの一人によれば、彼にはこんな一面もあったという。
BBCワールドサービスが好きで、毎週金曜には友人とハンティングに行く。
ときには、預言者ムハンマドのように、白い馬にまたがって行く。
彼は、そうなぞらえられるのが好きだった。
人生で最高のできごとは全能の超大国という神話をジハドによって打ち砕いたことだと、彼は言ったという。
十年以上に渡ってその首にかけられた賞金が彼を縛ることはなかった。
トラボラの隠れ家や山々を渡る護送車への爆撃も、
アラーによって御される彼には届かない。
アメリカ人が生を愛するのに対し、ムスリムは死を愛するのだと彼は言った。
十字軍の特殊部隊に対して彼が抵抗したかどうかはさだかではない。
いずれにしろ、その弾丸は彼を讃えるものでしかなかった。
最重要指名手配のテロリスト、オサマ・ビン・ラディン、5月2日、54歳で死す。
Obituary: Osama bin Laden, the world’s most wanted terrorist, died on May 2nd, aged 54
May 5th, 2011, The Economist
聖子ちゃんの「赤いスイートピー」が1982年で、安室ちゃんの初期「Chase the Chance」あたりが1995年。
この2つを聴いてみると、歌詞の内容の違いがすごい。13年も経てば当たり前なのかもしれないけど、あまりにも
(女性目線の)世界観が違うというか、びっくりするくらい差があるね。こういうのって面白いなー
恋愛とか生き方なんて大枠で見ればいつの時代もそんなにやることは変わらないのに、それに向かう姿勢とか
方法は、10年でこんなにも変わってくるんだね。時代が大きく変わったってことか!
聖子ちゃんの時代に安室ちゃんの曲が生まれてたら、PTAあたりがだまっちゃいなかっただろうけど、
いまの時代に赤いスイートピーが出てもそこそこ売れそうな気がするよね。
貞操感たっぷりの慎ましさがウケた80年代から、強く自立した女性像が主張しはじめた90年代を経て、このへんは
わかりやすいんだけど、00年代からいまの10年代は、なぜかあまりこれといった特徴がない気がする
文化やブームについては女性が社会を牽引している、これは相変わらず続いていて、むしろどんどん色濃くなっているけど
歌謡曲から(特に女性の)世界観の差を見てとろうとすると、ちょっと掴みにくい。。。
~80年代と90年代~ ここってまさにバブル期で、たしかに世相は大きく変わった。聖子ちゃんと安室ちゃんの例を見てもわかるけど、
女性の(支持される)考え方も変わったってことだろう。
~90年代と00年代~ でもここもものすごく違いがあるはずだよね、携帯とかネットが一気に普及して、それこそ
本気で世界が変わったっていう実感がある。なのになんで世相を表すヒット曲にはそんなに特徴がないのだろう?
歌詞にケータイとかカフェとかそのへんの文言が出てきたりするけど、その程度?
ライフスタイルは大きく変化したのに、この年代はなぜそれに比例して女性の世界観にそこまで大きな変化がないのか。
あゆとか倖田來未とか、安室ちゃんと大差ないしむしろ二番煎じ。なんでだ??実際に特徴が無いのか、それとも気づいてないだけなのかな?
教えてgoo - 本物に匹敵する人工ダイヤモンドは作れますか?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1933431.html
できるでしょう。
1982年に住友電工ですでに1.2カラットのヤツを作ってる。
おそらく、ブレークスルーの話は、気相成長法(気相合成法)じゃないかと思うけど、あれは1990年ころじゃなかったっけ?他にもあるのかな。高校生のときに感心した記憶があるな。
ダイヤモンドの市場というのは、驚くほど閉鎖的だし、政治も絡んでいるし、値崩れを起こすととんでもないことになるので人工ではでかいものを作らないようにしている雰囲気があると思う。
宝飾品レベルのダイヤモンドは人工的に作成可能だが、これが普及していないのは、デビアス社等供給サイドの圧力があるからだと言われている。
デビアスは『ダイヤモンドは永遠と愛の象徴』として、婚約・結婚指輪の理想であると宣伝した。この非常に成功したキャンペーン活動は以下が有名である。
* 有名人を使い、雑誌や新聞中にダイヤモンドのロマンチックな面を想起させるストーリーを掲載する
* ファッションデザイナーや流行仕掛け人を雇い、ラジオやテレビで流行を広める
このデビアスのPR機関N.W.アイレ親子商会によって立案されたキャンペーンは、人々にブランド名を植え付けることなく、ただダイヤモンドの理想的な永遠の価値を表現するという点で、後年長く模倣される新しい広告形式(イメージ広告)であった。日本でも黒バックに「ダイヤモンドは永遠の輝き De Beers」とだけ銀文字で大書されたCMが知られる。
また、アイレによって作成されたスローガン『A Diamond is Forever(ダイヤモンドは永遠の輝き)』はマーケティングの歴史の中で最も成功したスローガンである(直訳では「ダイヤモンドは永遠に」。偶然なのか007シリーズにも全く同じタイトルの作品がある)。このスローガンの目的は、受け取ったダイヤモンドを転売しないよう女性を説得し、中古品による市場価格の下落を防ぐことにある。この結果、ダイヤモンド市場からは競争が排除され、小売業者は高値でダイヤモンドを売ることが可能になった。またそれは、デビアスが大規模にダイヤモンドの流通を操作することを可能にした。
下村早苗容疑者、どうして実家に頼らんかったんかなーと疑問に思ってたところ、なんと親父さんは地元四日市の有名人、花園常連校である四日市農芸高校のラグビー部監督・大介氏(49)なんだってね。27年の勤務の間に、花園出場15回、東海大会で三重県勢として初めて優勝、何より、あまりレベルが高いと言えない、これといった目玉のない学校で、ラグビー初心者を一から鍛える熱血指導で、県下有数の強豪校を作り上げた手腕で、地元では教育者の鑑のようにみなされているらしい。
で、ここまではオープンな情報で、このあとは真偽怪しい情報。でも信ぴょう性はそれなり。
容疑者のお母さんはどうしたんかな、と思ったら、大介氏は二度離婚しているとか。一番目の奥さんは、長女の早苗容疑者含め三姉妹の母親で、二番目の奥さんとの間には子供はいないらしい。3回目の結婚をしているのかどうかは不明。容疑者の母親(=最初の奥さん)が出て行った原因はDVとも。
そして、これがちょっと不確定情報なんだが、一番目の奥さんも二番目の奥さんも、ラグビー部のマネージャーだったとか。一応卒業後に正式に交際始めての結婚だったとしても、1982年か83年に勤め始めて、87年生まれの早苗容疑者を産ませたとしても、年齢的には辻褄は合う。
しかしこの状況では、実家は頼れんわなあ。「レベルの高くない学校でラグビーの熱血指導」って、要するに暴力指導だからねえ。家でもその調子だったんかなあ。厳格な教育者の表看板を持つ有名人の娘が風俗嬢やってるなんて言った日にゃあ、カミナリが落ちるだけで何の助けにもなりそうにない。
もし、DVで出て行ったとされる早苗容疑者の母親がラグビー部のマネージャーってのが本当だとしたら、オレと同世代やわ(オレは85年に高校卒44歳)。出て行ったあとは、連絡とってなかったんかなあ。その時は早苗はまだ幼かったんかなあ。とはいえ母親の方も、高校出たてで世間も知らずに教師と結婚して、DVで離婚して出て行ったとしたら、今頼られても自分が生きていくのに精一杯で、孫の面倒まで見れんわなあ。あるいは再婚して別の家庭を築いているのか。
早苗は元夫と別れるとき、なんで自分で親権とったんかなあ。自分が母親と離れ離れになったのが辛かったんで、意地になって親権取ったんかなあ。元夫の母親は亡くなった孫たちの面倒をよく見てたみたいだし、離婚後も面倒みる覚悟があったっぽいから、早苗はそれなりに意思を示さないと親権は取れなかったはず。(まあ、示すだけでいいんだけどね、実際) 離婚後母子だけで暮らし始めて、自分ひとりでは育てられないとの自覚があれば、拘りを捨てて親権を元夫に返上するだけでよかったんだけどねえ。判断を鈍らせたのは、父親との確執か、あるいは、離婚時の言い争いの内容か。
一番頼りにすべき人(この場合は本人の父親、または元夫)との間にイザコザを残すと、人生のピンチのときに、ドツボにはまるっちゅうことやね。
追記
上を書き込んだあと、2ch のラグビー板見てたんだが、早苗の母親を直に知っていると称する人が数人、書き込みをしていた。ラグビー部マネージャーではなかったが、85年卒業の大介氏の教え子らしい。息子が欲しかった大介氏に、「女腹」と責められ殴る蹴るの暴行を受けたんだとか。家を出たのは早苗が小学校低学年のとき、今はおそらく再婚しているようで、早苗にとっては頼れんかったんだろうなあ。
で、大介氏は昨年3回目の結婚、お相手は卒業したてのラグビー部マネージャー! 自分の年下の後妻なんかがおりゃあ頼れんわなあ。
「suteacco 単なる偶然かもしれないが「この世代」にある何かをまじめに考えた人いるのだろうか。いるなら話を聞いてみたい。」
ネット右翼的ルサンチマンだと感じるかもしれないけど。たんなる自伝(?)にすぎないかな。
・実質的な「ゆとり教育」最盛期。否定する論者はほぼ皆無(むしろ、「ゆとり教育」という言葉が出たときには、反発する層が活発化し、かなりこの思想は相対化された)
・ニューアカ的左翼思想の全盛期、朝日新聞的意見が社会の主流。
・住専問題だの、ノーパンしゃぶしゃぶだの、とりあえず政府や官僚、役人を叩きまくる風潮が強かった気がする。
特にそういうワイドショーの視聴率が高かった。あと芸能人叩きもひどかった。「○○が付き合った」「別れた」どーのこーの。
・個人的には、すごく窮屈で息苦しい時代だった。子供ながら、建前的な正義(≒朝日新聞的正義)に嫌気が差していた。でも、それが唯一の正義だとも思っていた。
□中学生……1995年=阪神大震災、地下鉄オウム、そして「エヴァ」
・被災者はともかく、個人的には「(ほぼ)中二でエヴァ」が圧倒的影響力を持つ。
当時の中学校では同学年の男子は9割、女子でも5割程度は見た感触。(再放送時に録画したビデオテープの貸し回しが凄かった)
・高校や大学等で色んな人に聞いてみたが、この世代へのエヴァの影響力はものすごい。「エヴァなら全校生徒観ていた」と断言されたこともある。
もちろん、エヴァは時代の風潮を反映してつくられた作品である。
しかし、「この世代」にそれをダイレクトに、強烈に、過剰に伝える媒介を果たしたのが「エヴァ」だった。
それ以前の「建前の世界」を全て取り剥がして、「本音」を初めて自分たちにぶつけてくれた、と感じた。(今でも感じているよ)
・小6か中1で酒鬼薔薇事件が起こった。多分同年齢だけど、当時はその社会的意義をよく理解できなかった。「同じ年なのにすごいなぁ」とか程度の感想しか出ない。
たぶん、あの子は僕らの中でもとりわけ世相の雰囲気に敏感だったのだと思う。単なる精神異常者ではなかった
……と大澤真幸前京大教授(セクハラにより引退、でも個人的にはまだ崇拝してる)の授業を受けて気づいた。
□高校生
(・エロゲーの隆盛 『To Heart』 『ONE』 『加奈』など)
・「ネオ麦茶事件」・・・酒鬼薔薇よりネオ麦茶のほうがよっぽど親近感を持った。「あーあ、やっちゃったよ…」みたいな。
・世相の右傾化。今まで「正義」とされてきたことがことごとく否定される。個人的にも従来の「正義」には違和感を覚えいたので大きく賛同する。
☆分かりやすい図式でいえば、バブル崩壊とネットの進行によって価値相対化が起こり、虚無感が広がる。ニヒリズム化。
これは今までもよく言われていたこと。
低所得層にモノが飛ぶように売れる?
ttp://diamond.jp/articles/-/5306
日本の大手食品・日用品メーカーが、世界を視野に入れた「世界ブランド」に経営資源を集中させ始めている――という記事が、日本経済新聞で大きく紹介された(2009年12月20日付け朝刊)。
ロッテはタイに工場を建設し、菓子の「コアラのマーチ」を東南アジアで広く販売。花王は衣料用洗剤「アタック」やヘアケア商品「アジエンス」など7ブランドをアジア戦略商品に据えている。
いずれも、国内市場の冷え込みと縮小を受け、新興国を睨んだ海外生産の増強を目論むものだ。
しかし現在、さらに一歩先を行く市場展開が活発になっている。それは、これまでビジネスの対象とされなかった世界の低所得者層だ。
この世界で約40億人と推定される「新・新興国」のボリュームゾーンを相手とするビジネスは、「BOP」(ボトム・オブ・ピラミッド)ビジネスと呼ばれ、主に欧米の大手企業で注目されている。
このボトムとは、「1人当たりの年間所得が3000ドル以下の世帯」と定義づけられている(世界資源研究所と国際金融公社による)。また、BOPを最初に提唱したのは、ミシガン大学ビジネススクール教授のC.K.プラハラード氏とされ、1997年に「貧困層は援助の対象ではなく消費者。ビジネスで所得や生活水準を向上させるべき」と発表している。
BOPビジネスの成功例として模範とされる日用品大手のユニリーバ(英蘭)では、売上の実に36%をアジア・アフリカ地域が占めているという。
インドでは、小分けしたシャンプーや石鹸を約4万5000人以上の現地女性たちが農村部で戸別販売し、多くの世帯の経済的自立を実現させた。
日本企業もこれに追随している。味の素は現在、世界約100ヵ国に進出。インドネシアでは全土に約400組の営業チームを組織し、週に約10万店の飲食店を巡回訪問する。
フィリピンやペルー、ナイジェリアでも同様のモデルを展開し、同社の利益率は海外比率が半分に達しているそうだ。
また、スズキは1982年に参入したインドで、自動車会社「マルチ」と国営企業「マルチ・スズキ・インディア」を設立。同社はインド自動車市場でシェアの半分を占めるまでになった。
これらの成功のカギは、徹底した「現地化」を図り、市場に合った商品を作り、現地の人々と共に発展しようとする互恵関係を構築したことにある。成長性と収益性だけでなく、社会貢献性をも備えた新しいビジネスモデルと言えるだろう。
CSR(企業の社会的責任)の観点からも、企業ブランディングに非常に有効となるBOPビジネス、2010年以降の動向に注目していきたい。
朝鮮進駐軍 ※Weblio辞書にて削除予定の為、全文コピー。
http://www.weblio.jp/content/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%B2%E9%A7%90%E8%BB%8D
概要
一般に朝鮮進駐軍と言ったときは、おおむね1945年昭和20年以後に現在特別永住権を持つ在日一世(朝鮮人・韓国人)、もしくは現在日本に帰化または半島に帰国した朝鮮民族によって作られた犯罪組織を指す。 戦後、日本がポツダム宣言を受け入れると日本各地で、婦女暴行、窃盗、暴行、殺人、略奪、警察署の襲撃、公的機関への襲撃、土地建物の不法占拠、鉄道や飲食店での不法行為等様ざまな朝鮮人による犯罪が多発した。 自称「戦勝国民」(正しくは戦勝国民ではない)であると主張し、自らを「朝鮮進駐軍」と名乗り各地で徒党組んで暴れ事件を起こした。GHQの資料にあるだけでも最低4000人の日本人市民が朝鮮進駐軍の犠牲となり殺害されたとされている。
戦後の混乱を利用し、日本刀等の刃物・鈍器以外に多くの銃火器を使用した。銃は三八式歩兵銃や機関銃など盗んだ旧日本軍の武器で武装し組織化を行った。朝鮮進駐軍では旧日本陸軍のパイロットの軍服を好んで着用したが、これは日本兵に対するあてつけとも、日本人(皇民)に対するあてつけとも言わた。 組織ではいくつかの本部設けたが、実際は各地域ごとに部隊名をつけその部隊が、個別に日本人を狙った犯罪行為を繰り返しすことが多かった。 朝鮮進駐軍総本部(在日朝鮮人連盟総本部)はのちの在日本朝鮮人連盟。更にこれが在日本大韓民国民団(略称「民団」)と在日本朝鮮人総聯合会に分かれ、これが現在の民団と朝鮮総連となる。
時代背景
当時の日本では戦場に男手が駆り出され極度の男手不足に陥っており、また都市部においても疎開や空爆による被害で人手が足りない状況が長く続いていた。 また警察組織においても、武器の使用が認められないなど戦後特有の制限があり。戦後朝鮮人犯罪が増加の一途をとどった背景には、このような犯罪に対する抑止力の空白化が背景にあったとされている。いまでは考えられないことではあるが、当時はヤクザ(現在の指定暴力団)が朝鮮人から、日本人の生活を守る役割を一部果たしていた。 この当時は朝鮮人の殆どが実名で暮らしており、通名を使用しだすのは朝鮮の姓に対して嫌悪感や犯罪者といったイメージを日本人が抱くようになってからである。ただしこれは、朝鮮人側からはもともと差別があったからとされている。
朝鮮人による犯罪
朝鮮進駐軍による犯罪は全国に及んだ。特に川崎・大阪・神戸・都心等当時朝鮮人が比較的多かった地域で多発した。特に東京では、原宿等を中心に三八式歩兵銃や拳銃・日本刀等で武装した朝鮮人によって占拠されており、のちに警察やGHQにより鎮圧された。
市民を狙ったものとして白昼に堂々と集団で婦女子に暴行を加えるなど、多数の犯罪行為を行った。拳銃や刃物で武装しており一般市民は無力であり繰り返し行われることも多かったため被害が拡大した。またGHQの調べでは少なくとも4000人の日本人市民が殺害されており、多い説では1万人以上であったとも言われている。
略奪・窃盗・密売・土地の強奪等においても組織的に関与していた。一般の露天商からの強奪や農作物・家畜の強奪(利根川水系の牛の強奪などが有名)等、さまざまな方法で集められた商品が朝鮮人によって売買され、その後の朝鮮人社会の資金源として利用されてきた。その他に、戦後土地建物の所有に関する書類の損失や強引な立ち退きにより土地・建物の収奪も相次いだ。
1945年12月翌1月におきた生田警察署襲撃事件では武装した朝鮮人50人が襲撃し警察署を占拠。翌46年には長崎県警察本部で、在日朝鮮人連盟と名乗る総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせうち1名は死亡にいたらしめた。46年には国会議事堂前でも集まった2000人の朝鮮人と応援出動した武装警官358名・進駐軍憲兵20名とが銃撃戦に発展。首謀者は軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。1948年4月には阪神教育事件では数千人の朝鮮人によって庁舎が占拠された。これに対して3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除し1800名の朝鮮人が検挙された。戦後はこのような事件が日本各地で続発した。
第八軍司令官ロバート・アイケルバーガー中将は、正規の大部隊を治安確保のため朝鮮人に対して街中に簡易陣地を引くなどして配備した。GHQダグラス・マッカーサー最高司令官は「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」と発表するなど朝鮮人に対する取り締まりにおわれた。 昭和26年に浅草で朝鮮進駐軍と思われる朝鮮人が起こした集団暴力事件では、米兵一名が死亡、二名が負傷した。
主な事件一覧
朝鮮進駐軍及びその後の在日本朝鮮人連盟が関わる事件の一覧である。
生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日)
大村収容所脱走企図事件(1952年5月12日~25日、11月9日~12日)
参考文献
横幕胤行、富久公、船越信勝『吹田・枚方事件について』1954年
宮城県警察史編さん委員会編『宮城県警察史 第2巻』1972年
警視庁富坂警察署編『富坂警察署100年史―新庁舎落成記念―』1975年
兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史 昭和編』1975年
仙台市警察史編纂委員会編『仙台市警察史―仙台市における自治体警察の記録―』1978年
李瑜煥『日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実―』1980年
福岡県警察史編さん委員会編『福岡県警察史 昭和前編』1980年
竹前栄治、中村隆英監修『GHQ日本占領史 第16巻 外国人の取り扱い』1996年
コピー終わり。
ネットで公開されていたので「トップをねらえ!」(1988年制作)というアニメを視聴した。
ガイナックスと庵野監督ということでよく聞くけど、見たことなかったので。
内容書いちゃうから注意。序盤はスポコンものとロボットものとがごっちゃになったような変な感じで、ロボットで校庭を50週ランニングとか意味わからん、ロボットに人工筋肉でも付いていて鍛えているのかななどと思った。
話が進むにつれてのスケールアップがすごいとか聞いていたけど、確かにそうだった。ロボットも武器も戦場の規模もスケールアップしていく。
スケールアップといえばグレンラガンも宇宙規模まで拡大してすごかったし、まあエヴァンゲリオンも少年の話から地球規模・(精神)世界規模にスケールアップするし、ガイナックスの伝統なのかなあ。
終盤になるにつれて強調されるテーマは、宇宙での高速航法による時差の話だった。つまり宇宙で戦ってた主人公たちの何百倍何千倍以上も地球で時がたっているということだけど想像力を刺激された。
戦いから帰還して1万2千年たってたなんて、どんな気分だろうか。だって、縄文時代から現代くらいの時が流れたっていうことだよ。人間の外見も違ってくるだろう。科学技術も桁違いの発達を見せているだろう。ひょっとして一度文明崩壊してやり直していたりして。しかしまあ、そんなに経っているのに地上の人々が主人公たちのことを語り継いでいるとは!
そういや、正義であり善であると思い込んでいた我らこそ宇宙の悪玉菌見たいな発想は、このころからあるんだなあ。ナウシカのポスターが主人公の部屋にはってあったけど・・・Wikipediaによるとナウシカはアニメージュ誌上で1982年に連載が開始されたそうだから、それもそうか。
休日、彼女から、「お昼は家でうどん茹でて食べる。お金ないからw」みたいなメールが来た。あまり深く考えることもなく、「俺も貧乏だから昼はカップラーメンだよw」と返した。
すると、急に真顔になったような感じで彼女は、「増田くんは慰めようとしてそういう返事をしてくれたのかもしれないけど、正直、増田くんが貧乏とか言うと、笑えない」というメールを送ってきた。
え? 俺、今、そんな変なこと言った? と慌てて電話で話を聞いたところ、次のようなところだった。
彼女は今資格試験の勉強中であり、仕事に就いてはいるものの、将来への展望が明確に見えているわけではない。だから、(結婚とかを考える上でも)増田の収入面を頼りにしているところがある。その増田が金がないとか言い出すと、将来がすごく不安になる。
うーむ、と僕は思った。
大した意味があって「貧乏だから」と発言したわけではなかった。男同士で話す時に「いやー、俺、金ないからw」とか言うのとおなじノリだった。
実際のところ、金はありますよ。なくはない。ただ、所詮中流階級、本当の金持ちではない。そんな程度の男が粋がって金があるというのもみっともないから言わないだけで。
そもそも、女が男の収入を頼りにする、というのがあまりぴんとこない。今の世の中、女性でも一生仕事をしようと思えば、(ある程度職業の限定はあるにせよ)できなくはないはずだ。特に彼女は資格を必要とするような専門職であるわけだし。にも関わらず男の収入に頼るなんて、例えば、年取った時、「離婚したいけど自分一人では食っていけないからしかたなく夫と暮らす」みたいな状態になりかねんぞ、と思う(さすがに、僕が彼女に言うのはハイパー余計なお世話なので言わないけど)。
なんとなくもやもやしたまま、翌日、職場の後輩女子に顛末を話してみた。
「……というようなことがあったんだけど、○○さんだったらどうよ?」
すると、後輩女子はこう答えた。
「うーん、私が彼氏にそんなこと言われたら、やっぱ不安になりますね」
「そうなの? 今のこの職場だとさ、うなるほど金があるわけではないけれど暮らしていく分には、まあ、困らなくて、急にクビになるってこともないと思うけど……それでも不安になるの?」
「なりますね」
と後輩女子は少し考えながら頷く。
「そうなのかあ。男女共同参画社会はある程度実現したと思っていたのだが……」
「うちが、母親が専業主婦ってのもあるかもしれないです。親がそうだと、やっぱそういう意識が刷り込まれてるっていうか。すぱっと変えられるもんでもないです」
「なるほど……」
本音を言えば、自分の彼女も、後輩女子も、自立志向が強い人間だと思っていたので、このような発言はショックだった。しかし、特に利害関係のない二人がおなじようなことを言うのだから、たぶん、多数の女子がおなじような価値観をもっているのだろう(もちろん、二人とも、首都圏出身で、四大卒で、専門職に就く、あるいは目指していて、1982年生まれ、という偏りはあるのだけど)。
「俺は心を入れ替えた。これからは金持ちぶる。ばんばん金を使う。俺に任せろ」
トラバ、ブコメありがとう。一通り目を通させていただきました。
全レスすると必死っぽいので、これはリアクションした方がいいぞ! と思ったところに。
gouk 男女 子ども産むつもりなら、女は1年近く無収入の上に病院は実費。保育園NGだったら産んだ後も働けない。育児にも金はかかるし、復職しても結婚前と同等の給料が得られるなんて限らない←という現実、男はわかってる?
oya03 男女, 社会 ネタにマジレス致しますが、相手の収入に不安を覚えるって「本音は自立したくない」んじゃなくて「例え自立出来たとしても人生設計を考えると頼らざるを得ない」現実が未だ横たわっているってことです。
orangevtr 増田, ジェンダー 男女共同参画に対する考えが甘いと思う。でも独身時代ならこれくらいで普通なのかもね。
hanapeko gender, 労働 マジレスすんぜ!自立志向ということと、現実に自立するための障壁がないということは同じではないし、自立志向の強い女ほどガラスの天井に心が折れて保守回帰っぽい言動をしちゃったりするんだぜ!
マジレスウェルカムです。正直言って、自分はそういう現実をあまり認識してないと思う。男が稼いで女が家を守るとか、そういう価値観は大嫌いだけど、そうせざるを得ない現実があるのだとしたら、今は社会に合わせていくしかないですね……
まず、僕自身、まだ社会人経験が数年なので、結婚→妊娠→休職→出産→職場復帰、というサイクルを最初から最後まで見たことがないのです。この辺が自分の視野の狭さだなと、改めて思いました。
ただ、子供がいても総合職的に働いている女性の方は何名か知っています。
それは彼女も言ってました。受かったらあんま不安じゃなくなるかも、とか。
kiku-chan しかし、この増田はどう考えても優良物権だと思うんだぜ(安定した収入と、女性の就労への理解、他者の意見を聞こうとする姿勢)
tora_17 増田, 恋愛 良い文章。思慮深くわかりやすいしオチまでつけてる。増田の人柄が滲み出てるね。/彼女が資格を取って軌道に乗ったらまた変わると思うけど。
褒められると素直に嬉しいです。超ありがとうッ!!
クルーグマンは効率的市場仮説(EMH)を批判しているが、それを理解してないようだ。彼は「経済学者がバブル崩壊を予想できなかった」というが、誰も市場の動きを正確に予想することはできないというのがEMHの基本命題で、今回の事件はそれを証明したのだ。いっておくが、市場が「効率的」だというのは「安定している」という意味じゃないよ。
市場経済の本質はそれが完全だということじゃなく、ハイエクが言ったように、それが不完全な知識でもどうにか動くということだ。クルーグマンは政府が市場より賢明だと想定しているが、超低金利を続けて資金過剰を作り出し、ファニー・フレディーに事実上の債務保証を与えて住宅バブルを生み出した政府が、市場より賢いと信じている経済学者は彼ぐらいのものだろう。人々が不合理だという行動経済学の主張は正しいが、同様に政府も不合理なのだ。
特に支離滅裂なのは、彼が70年前のケインズ理論を擁護している部分だ。ケインズが書いたように穴を掘って埋めようともGDPさえふくらめばいいというのなら、マドフは英雄だ。彼は投資家の余剰資金を預かって、それを派手に使う人々(彼自身を含む)に与え、「有効需要」の増加に貢献した。この理論によれば、政府の財政資金がすべて盗まれるのがいちばん簡単で効果的だ。泥棒の限界消費性向はきわめて高いからだ。
経済学の現状についてのクルーグマンの理解は、30年前で止まっている。われわれはKydland-Prescottの1982年の理論を復唱しているわけではなく、現在の研究の主眼はどのような不完全性や摩擦があるかを実証的に検証することだ。クルーグマンは実証には関心がないようだが、「真水理論」は実証研究のベンチマークにすぎない。彼は「経済学は数学的に複雑になりすぎた」というが、問題は逆だ。今のマクロ経済学は、この複雑な経済を扱うには単純すぎるんだよ。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/3ede6e5d0f50b3c5138da2ce6e9e1d3b
1982年に国籍条項が撤廃され、それから6年間の特例期間があった。
その間に納付を開始していれば所定の年数に達していなくても給付OKだったはず。
現に大半の在日はそうやって年金を納付して、65歳になったら受給が始まっているんだしね。
つまり、年金をよこせと言ってる連中の大半は年金未納状態という事になる。これは国籍関係なく日本人だってあり得る事態だよな。
じゃあどうして今まで納付してこなかったの?という点について、まず彼ら自身が語る必要がある。
本来はこういう問題は韓国政府が主体的にやるべき事なんだけど、当時の在日は棄民扱いなので救済の必要なしとみなされてたっぽい。
「社会の木鐸」宣言
ラジオ関東は開局以来『洋楽のラジ関』の通称で親しまれ、横浜らしさの漂う洒脱な雰囲気、また港町ならではの輸入レコード盤[4]による洋楽に関する情報の速さやオンエアー数から、団塊世代の若年層を中心に人気を博していた。
その後も女性アイドル番組など幅広く扱っていたが創業に尽力した河野一郎の意を受けて経営にあたった遠山景久社長(当時)は、巨人戦ホームゲーム独占中継権獲得(1977年)を笠に着て、ワンマン体制を強化していたが、1982年に「社会の木鐸」宣言を行い、若者向け番組を敵視し大幅に削減。反共色の濃い論説や演歌を多く流す、中高齢層対象番組中心に編成を一変させ、職業運転手や一部保守的リスナー層に浸透した一方で、全体的には大幅な聴取率低下を招いたため、多くのスポンサーが撤退し、経営悪化が深刻になる。
(中略)
遠山は、意に沿わぬ局員を徹底的に左遷・解雇し、アナウンサーをキーパンチャーに異動して告訴されたり、管理職研修を自衛隊で行ったり、最盛期には150名以上居た社員を30数名まで減じるなど、恐怖政治的な人事・労務策を敢行したが、長年の遠山独裁に不満を募らせていた遠山以外の同局幹部連が諮って、1993年12月21日に取締役会全会一致で遠山を「公共の電波を預かる放送会社の代表として相応しくない」という理由で電撃解任し、ワンマン体制に終止符が打たれた。本人が遅刻するにも関わらず、取締役会は定時に開催すべしとの遠山からの連絡を受け、その間に緊急発議で実現した解任劇だった。これに先立つ同年3月、同局は巨人戦ホームゲーム独占中継権を失って、遠山は主要提携先の読売新聞社から見放された形になっており、経営破綻は時間の問題だった。後任社長には、外部から解任劇を筋書きした小林與三次と同様に、読売新聞・日本テレビ出身の外山四郎が就いた。外山は遠山の負の遺産の整理を進め、翌年2月には乱脈経営で会社に損害を与えた廉で遠山を告訴し、遠山の家屋敷を差し押さえて一族所有の同局株を日テレに譲渡させ、事実上日テレの傘下に納めたことで、混乱に一応の終息を見た。
ネット上において「メディアは左よりだ」と言う意見が散見されるけど一時期のRFラジオ日本や最近のチャンネル桜の末路、そして保守系論壇誌の休刊ラッシュを見るとメディアが右寄りすぎるのも経営という観点でみれば問題ではあるよなあ。
昨年度おおくの反対意見を押しきって強行された全国一斉学力テストが、はたしていかなる結果を生じたかを検討する慎重さを持つことなく、文部省は今年七月ふたたびテストをおこなう準備をすすめている。それは全教育の体系を国家権力に従属させようとする意図がますますあらわになって来たことである。
私たち日本文学協会は、前回の場合にも、教育の問題は一行政的見地から取り上げられるべきではなく、教師をはじめとする自由で民主的な国民的教育の場において推進されなければならぬことを主張して来た。
いったい学力とは何か、いかに伸ばされるべきかということは、子どもたちの自主的な判断力・活動力と、全国民の未来への望みの上に具体化されるはずのものである。一片の答案を、それも機械的にあらかじめ思考の範疇を限定した回答を選択するといった、受動的・偶然的そして知識偏重の結果のみを拠りどころとする学力の判定は、いかに子どもの未来をあやまるものであるかは明らかであろう。
私たちは日々の教室の現場で、教師の主体的な活動力が働くとき、子どもたちは生き生きと学力を伸ばすことを身をもって知っている。この方向こそが学力向上の唯一の進路である。
だから学力の問題は、学者・実践者がその総意をもって築き上げ、慎重に進められるべきものである。しかるにふたたび学力テストを強行しようとするのは、こうした国民の真の要求をいささかも取り入れず、行政権力を教育内容にまで介入させようとすることにほかならない。
私たちの態度はおのずと明らかである。今回の学力テストに反対し、その撤回に向かって働きかけ、もって未来の教育をその基盤から築いていこうとするものである。
「老後の備えがっ!」「年取ったら医療費が!不安だからためなきゃ!」「老後を考えないのは愚か!甘い!」といわれたのでちょっと調べてみた。
http://www.ajha.or.jp/guide/3.html
この辺がよくまとまってる。65歳〜85歳ぐらいで、ざっくり年75万ぐらいかかる。ファンタスティック。
まあ、自己負担額は途中から1割になる(75歳以上でも3割になるのは、世帯収入が520万以上の人ら)だろうから、実質2割負担ってところ。
だから、年間15万ぐらい。
「ガンがっ!」保険入れよ。でも癌と心臓と脳出血で死因の5割超えるよ
「高度先進医療って」あー、死ぬまでの最後の一ヶ月が一番高いけど、効果薄いって
「ベッドとか長期入院だと」半年の寿命が一ヶ月になっても、好きなことして死にたいだろ?
「高額療養費って一度3割分を」最近、適用認定証制度ができたし、4万ぐらいですむみたいよ?
「で、でも所得があったら負担額が」金持ってたら払えよ。渋るな。
日本は老人に甘い。それは良いことだと思う。
つうことで、喪男喪女のみなさまにおかれましては、15万x30年=450万くらい貯めとくと余裕を持って人生使いつぶせることと存じます。
健康に過ごせたら次の年は15万のボーナスが!って感じだと独り身も寂しくないはず。
(あ、「肺炎」は死因で無視できない割合。年とったら風邪やインフルエンザは棺桶コース。即病院へ行こう!)
なんてことを話すと「でも万が一のことがあったら」一万分の一の確率だと、だいたい0.01%だね。「火事で」10万人あたり6人くらい死ぬみたいね。たしかに50年だとたった99.7%しか無事じゃないね。「地震が」1982年以降のは頑丈みたいよ?阪神淡路でも無事だって。
「でもなんかあるかもしれないじゃないか!」
山口登(やまぐち のぼる)。明治35年(1902年)、兵庫県神戸市兵庫区で生まれた。父は、初代山口組・山口春吉組長だった。山口組事務所は、神戸市兵庫区西出町にあった。大正14年(1925年)、山口春吉の引退により、山口組二代目を継承した。この時、山口組はまだ、大島組・大島秀吉組長の系列組織だった。同年、神戸市須磨の料亭で、山口組二代目相続披露宴が行われた。跡目相続の儀式は、大島組幹部・浦安五助の仲人で行われた。披露宴には、大島秀吉、大島組幹部・川端勝次、大島組幹部・本多仁介、その他の大島組幹部、大島秀吉の舎弟、大島秀吉の若衆、兵庫県県議会議員、神戸市市議会議員などが出席した。山口春吉の手から離れ、新しく山口登の子分となった者は、34人だった。難波島之助は、山口登の舎弟となり、参謀格となった。その後、山口組組員と大島組組員の喧嘩が多発した。山口登は、大島組組員との喧嘩を諌めることはしなかった。昭和2年(1927年)1月、大島秀吉宅に年賀に行った。大島秀吉は、山口登に、山口組組員と大島組組員の喧嘩が多発していることを咎めた。山口登が詫びを入れると、川端勝次が山口登に本心で詫びを入れているのかを詰問した。山口登は激怒した。本多仁介が、川端勝次と山口登をなだめた。昭和3年(1928年)3月、金融恐慌が発生した。山口組は、神戸市兵庫区古湊通りの鮮魚・塩干物の朝市を縄張りとし、仲買人の魚を小売店に運搬する利権を独占していた。そのため、経済的な打撃が限定的だった。同年、山口登は大島組への上納金をやめた。昭和4年(1929年)1月、山口登は、大島組への上納金をやめたために、大島秀吉から破門された。昭和5年(1930年)3月、神戸市は、失業者対策として、兵庫区浜新町に神戸中央卸売市場の建設を計画した。新浜町は、大島組の縄張りだった。この利権を巡り、山口組は大島組と対立した。同年7月、神戸市新開地で、山口登の若衆・田尻春吉が川端勝次を射殺した。同年8月6日夜、山口登は、山口組組員に拳銃や日本刀を持たせて、5台の荷馬車に、神戸市兵庫区西出町の山口組事務所の家財道具全部を載せて、山口組事務所を出発し、同区切戸町に向かった。一部の山口組組員は、切戸町の新しい山口組事務所で待機していた。他の山口組組員は、大島組本家を監視していた。同年8月7日午前3時、山口登は山口組事務所を、兵庫区西出町から同区切戸町に移した。ここは大島組の縄張りで、神戸市中央卸売市場建設予定地の近所だった。同年8月7日、神戸中央卸売市場の杭打ちが始まった。山口組組員は武器を持参して、工事現場に寝泊りした。同年10月、、田岡一雄(通称はクマ。後の山口組三代目)が、新開地本通りの剣劇小屋「湊座」で、料金を支払わずに入場したため、木戸番から咎められた。田岡一雄は木戸番を殴り倒し、湊座の舞台に上がって暴れた。山口組が湊座の用心棒を務めていた。その後のいきさつには2説ある。
溝口敦・笠井和弘・ももなり高『実録・山口組武闘史 血と抗争! 菱の男たち1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4や正延哲士・天龍寺弦・池田鷹一『実録 鬼頭良之助と山口組二代目 激動ヤクザ伝』竹書房、2006年、ISBN 4-8124-6362-9では「田岡一雄は山口組舎弟・古川松太郎(山口登の娘婿)や山口組若衆・山田久一(通称はトラ。後の三代目山口組初代若頭)に捕まった。田岡一雄は神戸市切戸町の山口組事務所に連行され、暴行を受けたが、根をあげなかった。山口登は田岡を古川松太郎に行儀見習いとして預けた。田岡は古川の自宅に居候した」となっている。飯干晃一『山口組三代目 1野望篇』徳間書店<徳間文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9では「数日後、田岡一雄は、山口組組員に捕まり、山口登の舎弟・灘波島之介の自宅に連行された。灘波島之介は、山口組組員が田岡を暴行しようとするのを止めて、田岡の身柄を預かった。田岡一雄は、灘波島之介の家に寄宿した。その後、灘波島之介は、田岡を古川松太郎に預けた。古川松太郎が田岡に行儀を仕込んだ」となっている。昭和6年(1931年)1月、須磨の料亭で、宴会を開き、馴染みの花隈の芸妓・ぽん太を呼んだ。その後、月に2、3度、ぽん太と逢引した。昭和7年(1932年)5月、山口登が後援会長を努める大関・玉錦(後に横綱)が、前頭の宝川と揉めた。田岡一雄は、日本刀を持ち、山田久一や玉錦、山口組舎弟・西田幸一らに連れられて、宝川の元に押しかけた。田岡は、日本刀で、宝川の指を切り落とした。同年7月7日、須磨の待合で、山口登はぽん太と会った。同日午後10時すぎ、大島組の刺客・守屋謙造に襲撃された。山口登の若衆・村上常吉が1ヶ月の重傷を負ったが、山口登は待合から逃げた。同年7月8日、守屋謙造は、山口登殺害に失敗したため、大島組を去った。その後、本多仁介は、「日本が軍国調になっていくときに、抗争事件を起こすのはまずい」と大島秀吉に進言した。大島秀吉は、本多仁介の進言を容れて、大島組から山口組への殴り込みを禁止した。それから、山口登は、山口組の新しい資金源として、浪曲興行に着目した。神戸市議会議員・福森庄太郎に相談すると、福森から浪曲師・松風軒栄楽と鬼頭良之助(本名は森田良吉。父・山口春吉の兄弟分)を紹介された。同年7月、山口登は四国で、松風軒栄楽の花興行を催した。興行は赤字だった。庄村吉之助(通称はホラ吉)が、松風軒栄楽のマネージャーだった。山口登は、庄村吉之助を引き抜き、山口組興行部を作って、庄村を山口組興行部支配人に据えた。また、庄村吉之助の側に、山口登の若衆・笠種次を付けた。同年12月、神戸中央卸売市場が開業した。山口組は中央卸売市場の利権を獲得し、市場に賭場を開いた。同年、もしくは昭和11年(1936年)1月20日[1]、山口登は田岡一雄を若衆とした。昭和8年(1933年)4月、山口組興行部は、神戸市湊川神社前の「八千代座」で、鼈甲斎虎丸、東家楽燕、初代天中軒雲月らによる浪曲大会を開いた。昭和9年(1934年)4月、山口組興行部は、八千代座で、ディック・ミネ、美ち奴、楠繁夫、東海林太郎らによる興行を行った。同年 8月、海員争議が起こり、会社側から山口登に、紛争解決の調停役を依頼された。山口組舎弟の西田幸一と田尻春吉が、山口登の代理人として会議に出席した。西田と田尻は、組合と話し合いを持ったが、組合側の右翼や総会屋とこじれて、乱闘となった。西田幸一は殺害され、田尻春吉は意識不明の重体に陥った。田岡一雄と、田岡の親友・岡精義は、西田幸一死亡の知らせを受け、海員組合争議本部に乗り込んだ。田岡が、日本刀で組合長を斬りつけ、重傷を負わせた。田岡一雄 は傷害罪で懲役1年の実刑判決を受け、神戸刑務所に服役した。同年9月3日夜、山口登は、庄村吉之助と笠種次を伴って、法善寺横町近くの料亭で、吉本興業社長・吉本せいと会い、吉本興業の東京進出に尽力することを約束した。同年10月13日から、吉本せいが東京・新橋演舞場で大阪漫才公演を開催すると、この東京興行の応援に駆け付けた。翌日、吉本せいから「自分が東京にいる間は、浪曲師・広沢虎造を吉本興業の専属にしたい」と云う相談を受け、快諾した。その日の公演が終わった後に、吉本せいと共に、東京浅草の浪花家金蔵宅を訪ねた。浪花家金蔵との話し合いの結果、広沢虎造を吉本興業の専属にすることと、広沢虎造のマネージャーを引き続き浪花家金蔵が行うことがを取り決められた。昭和10年(1935年)、山口登は、藤田仙太郎(元関脇・山錦善治郎。本名は山田善治郎)を若衆とした。同年10月、田岡一雄は神戸刑務所から出所した。昭和11年(1936年)1月20日、もしくは昭和7年(1932年)[3]、山口登は田岡一雄を若衆とした。同年2月、不二拳倶楽部主催者・岡本不二夫から、国技館で、チャンピオン・ピストン堀口と挑戦者・ジョー・イーグルの東洋フェザー級タイトルマッチ開催の依頼を受けた。岡本不二夫は、日本拳闘倶楽部の協力を得て、国技館に、東洋フェザー級タイトルマッチ開催を打診した。国技館は「西洋のスポーツであるボクシングの試合を開催させることはできない」として、岡本の要望をはねつけていた。山口登は、岡本の依頼を引き受けた。同日、嘉納健治(通称はピス健。嘉納治五郎の弟。大日拳創立者)に会い、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催の了承を得た。その後、上京して、相撲協会と会談し、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催の了承を得た。翌日、右翼団体40、50人が、山口登の宿に押しかけ、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催に抗議した。山口登は、頭山満と会い、右翼団体を抑えてくれるように依頼した。頭山満は、山口登の依頼を快諾した。同年7月、田岡は、昼夜2回の浪曲師広沢虎造の花興行を行った。昼席は福原の「大正座」で行い、夜席は兵庫県県会議事堂で行った。昼の興行の利益は全て、山口登に上納された。同月、田岡一雄が口答えをしたために、怒った。田岡は山口の怒りが収まるまで、東京の玉錦の元に身を寄せた。その後、若衆の大長政吉(通称:悪漢政。二代目山口組若衆頭・大長一雄の弟)を破門にした。大長政吉が新開地で酔って大暴れし、堅気の人間3人を傷付けたためであった。昭和12年(1937年)1月27日、国技館で、ピストン堀口とジョー・イーグルの東洋フェザー級タイトルマッチが行われ、山口組は国技館の警護に当たった。ジョー・イーグルの判定勝ちが決まると、田岡一雄がリングに上がり、審判に詰め寄った。田岡は警官に取り押さえられ、拘留された。同年2月、玉錦のとりなしで、田岡を許した。田岡は神戸市に戻った。同年2月25日、大長政吉が、新開地の菊水館で、支配人(元、山口春吉の舎弟)を殴打し、売上金を勝手に持ち出した。菊水館の用心棒だった山口組の若衆・山田久一は、田岡一雄とともに、大長政吉を探し、福原遊郭の「大阪楼」にいることを突き止めた。2人は大阪楼を急襲した。田岡が大長政吉を鉄瓶で殴打し、大怪我を負わせた。これに激高した大長政吉の弟・大長八郎(二代目山口組若衆)が、その日のうちに、切戸町の山口組事務所に殴り込んできた。田岡が大長八郎を日本刀で斬り殺した。同日、田岡は警察に自首した。同年2月27日、田岡は懲役8年の実刑判決を受け、服役した。同年、神戸市の荷役業者の鶴井組・広田寿太郎組長、酒井組・酒井新太郎組長、藤原組・藤原光次郎組長が兄弟分の盃を交わし、「鶴酒藤」を結成した。昭和13年(1938年)、山口登の舎弟・新居利治は、徳島県小松島市で、小天竜組を結成した。まもなく、大長一雄は山口組を去った。昭和15年(1940年)、山口登は、広田寿太郎、酒井新太郎、藤原光次郎と兄弟分の盃を交わした。広田寿太郎、酒井新太郎、藤原光次郎が拠点を横浜港に移すと、山口登は鶴酒藤神戸支部長となった。同年7月、広沢虎造が吉本興業に無断で下関・籠寅組(組長は保良浅之助)の企画による映画出演の誓約書を書いた。これに、吉本せいは立腹し、山口登に調停を依頼した。山口登は、下関で保良浅之助と交渉し、映画出演を白紙に戻させた。同年7月28日、浅草の浪花家金蔵は籠寅組幹部・山村周平の訪問を受け、「籠寅組で映画を作りたいのだが、広沢虎造を出演させたい」という申し出を受けた。翌日、浪花家金蔵は神戸に行き、山口登に相談した。山口登は「8月2日に、浪花家金蔵宅で、籠寅組と話し合いをしたい」と云う旨の電報を保良浅之助に打った。同年8月2日、山口登は東京・浅草の浪花家金蔵宅で籠寅組と話し合いを持った。このとき、ボディーガードに客分の中島武雄を連れていた。和解金として用意した、十円札で1000円の札束を胴巻に入れていた。籠寅組からは5人が臨席した。山口登は「広沢虎造を籠寅組には貸さない」と云う旨を伝えたが、籠寅組の5人に襲われた。中島武雄が日本刀で刺殺された。山口登は庭に出たが、日本刀やあいくちで18ヶ所の傷を受けた。ただ、胴巻の札束が刃を止め、一命を取り留めた。浪花家金蔵が浅草の地回りの一団を連れてきたために、籠寅組の刺客たちは退散した。昭和17年(1942年)10月4日、山口登は、この傷がもとで、死亡した。享年、41。
>病院には知り合いにもぐりこませてもらってる。
その時点でおかしいんですよ。普通にユダヤ人であろうと診療は受けられてたのは自明の理なのに、「知り合いの好意でもぐりこませてもらってた」て。
>Solomon Radaskyは人体実験なんかされてないよ?
Solomon Radaskyの件でなく、全体として公式文書(ナチス側の)があるかないかの違いです。他にも治療記録ならアウシュビッツに大量にある。
http://www.vho.org/GB/Books/dth/Image24.jpg
全く労働力のない子供も収容所にいたこと、この質問もまだちゃんと答えられていませんね?解放後の写真にあるような子供達です。
>到着後の選別に関しては目撃証言はあるよ?
選別と言っても、殺されるかどうかの選別かはわからないですよね。「選別」自体ならあった。すぐ働けるかどうか、等の。
選別された後ガス室送りになって殺されたという一部始終を見た人がいないという意味です。
一度読んでみるといいですよ。
http://revisionist.jp/holocaust_trial.htm
ああ、そう移送でした。前の文章で「アウシュビッツがパンクせず収容者を受け入れられたのは何故か」という問いに対して「他収容所への移送があったから」「絶滅収容所なら他へ移送するのはおかしい」とも答えたはずですが、それはどうなんですか?
>浅学にして、そんな話は知らんなぁ。誰と誰のどんな論争なんですかね?
私の提示したリンク先全然読んでないんですね。
http://wissen.spiegel.de/wissen/dokument/dokument.html?id=21411069&top=SPIEGEL (ドイツ語)
デア・シュピーゲル誌による文書の発見に関わった連合国スタッフへのインタビュー記事。記者が「ヴァンゼー会議録が本物かどうかで何十年もの間、疑問が投げかけられているが、本物だと思うか?」とスタッフに尋ねている。
そしてこれらが偽造だったとしても、内容はユダヤ絶滅を示していないという、正史派の意見。
1982年、イェルサレムのヘブライ大学教授イェフダ・バウアーは、すでにこう説明していました[2]。
「1月20日、「ヴァンゼー会議」と呼ばれる会議がベルリンで開かれた。ユダヤ人を東部地区に移送するという作戦が計画され、そこでは、労働によって幾分かのユダヤ人が『自然に』清算される可能性が含まれていたとしても、工業的な大量清算について語った者は誰もいなかった。この会議に続く日々、週、アウシュヴィッツ建設局は、工業的な大量清算という目的のための施設を計画することを要請する呼び出し、電報、書簡をまったく受け取っていない。」
発言者は有名なプレサックです。
淀川長治がキネマ旬報年間ベスト10で最高点をつけた洋画のリスト
1950年 自転車泥棒(ヴィットリオ・デ・シーカ)
1958年 白夜(ルキノ・ヴィスコンティ)
1961年 素晴らしい風船旅行(アルベール・ラモリス)
1965年 81/2(フェデリコ・フェリーニ)
1967年 欲望(ミケランジェロ・アントニオーニ)
1968年 2001年宇宙の旅(スタンリー・キューブリック)
1974年 フェリーニのアマルコルド(フェデリコ・フェリーニ)
1975年 ザッツ・エンターテインメント(ジャック・ヘイリー・Jr)
1976年 トリュフォーの思春期(フランソワ・トリュフォー)
1978年 家族の肖像(ルキノ・ヴィスコンティ)
1980年 ルードウィヒ/神々の黄昏(ルキノ・ヴィスコンティ)
1987年 グッドモーニング・バビロン!(タヴィアーニ兄弟)
1988年 ザ・デッド(ジョン・ヒューストン)
1989年 生きるべきか死ぬべきか(エルンスト・ルビッチ)
1990年 フィールド・オブ・ドリームス(フィル・アルデン・ロビンソン)
1991年 シェルタリング・スカイ(ベルナルド・ベルトルッチ)
1994年 オリーブの林をぬけて(アッバス・キアロスタミ)
前回↓が途中で切れたため、その段落から改めてつづきを貼ります。
http://anond.hatelabo.jp/20081101232814
さて日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争に突入し3 百万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、日本は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。しかしこれも今では、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。実はアメリカもコミンテルンに動かされていた。ヴェノナファイルというアメリカの公式文書がある。米国国家安全保障局(NSA)のホームページに載っている。膨大な文書であるが、月刊正論平成18年5月号に青山学院大学の福井助教授(当時)が内容をかいつまんで紹介してくれている。ヴェノナファイルとは、コミンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカは1940年から1948年までの8年間これをモニターしていた。当時ソ連は1回限りの暗号書を使用していたためアメリカはこれを解読できなかった。そこでアメリカは、日米戦争の最中である1943 年から解読作業を開始した。そしてなんと37年もかかって、レーガン政権が出来る直前の1980年に至って解読作業を終えたというから驚きである。しかし当時は冷戦の真っ只中であったためにアメリカはこれを機密文書とした。その後冷戦が終了し1995年に機密が解除され一般に公開されることになった。これによれば1933年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権の中には3百人のコミンテルンのスパイがいたという。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー2の財務次官ハリー・ホワイトであった。ハリー・ホワイトは日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であると言われている。彼はルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。当時ルーズベルトは共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリー・ホワイトらを通じてコミンテルンの工作を受け、戦闘機100機からなるフライイングタイガースを派遣するなど、日本と戦う蒋介石を、陰で強力に支援していた。真珠湾攻撃に先立つ1ヶ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し、隠密に航空攻撃を開始していたのである。
「ホームページに載っている」と、また典拠をあいまいになさっていますね。アクセス日時を明記して、該当のURLを示すことも論文のルールとして確立しています。典拠となる論文の題名も該当ページも省略されていますが明記するのが普通です。先行研究の要約と著者の意見の区別がつかないのも問題です。先行研究の要約にオリジナリティはありません。先行研究について論じたいのであれば別でしょうが、先行研究を手がかりに、何かを主張したいのであれば、引用でも注でも根拠となる史料(この場合は「機密資料」)の該当部分を明記するのが論文のルールです。ちなみに孫引きは基本的にしてはいけません。原典にあたらずに引用元の編集が正確であるとは言えないからです。つまり、読む側からすると、根拠が示されていないがために、その主張を認めることはできません(学問のルールにおいては、主張する側に立証責任があります)。
ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第1撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。さて日米戦争は避けることが出来たのだろうか。日本がアメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば一時的にせよ日米戦争を避けることは出来たかもしれない。しかし一時的に戦争を避けることが出来たとしても、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第2,第3の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として現在に生きる私たちは白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは放っておけばいつかは誰かが造る。しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。
繰り返しますが、根拠のない推測は論文の中では無価値です。さて、戦った結果、無条件降伏して占領(=支配)されました。その後、戦争をせずとも、サンフランシスコ講和条約を結んで独立できましたし、奄美諸島も小笠原諸島も沖縄も返還されました。
さて大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ。
しつこく繰り返しますが、風が吹けば桶屋が儲かる式の主張に説得力はありません。「国家間の問題も話し合いによって解決」とのことですが、イラク戦争やグルジア戦争は話し合いではありません。「百年、2百年」の根拠も示されていません。「人種平等」を推進した国際連合を結成したのは、勝った「強者」の国々でした。
一方で大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。しかし人類の歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことが解る。現在においてさえ一度決定された国際関係を覆すことは極めて困難である。日米安保条約に基づきアメリカは日本の首都圏にも立派な基地を保有している。これを日本が返してくれと言ってもそう簡単には返
また、「・・・・・・という人」、さらに「・・・・・・と思っているのであろう」ですが、藁人形を叩いても論文に説得力は生まれません。論文で心情の吐露をしても説得力は増しません。私の立場を表明しておきますが、人の生を無益だとする考え方には賛同しないことと、批判的検討を行うことは両立すると考えています。
東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後63年を経てもなお日本人を惑わせている。日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこうというものである。自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。日本国民は20年前と今とではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。
自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。
国を主語にしたのですから、そのように表明している公式見解くらい示してください。個々の語りについても、他者が参照できる形で提示されないものは論拠になりません。最後まで「侵略」の定義がなされないままでしたね。
戦時中のアジア諸国と日本との関わりについては以下の諸論文を参照。
吉川利治「タイ国ピブーン政権と太平洋戦争」『東南アジア研究』19(4)、1982年、363-387ページ。http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/56071/1/KJ00000133800.pdf
大野徹「ビルマ国軍史(その2)」『東南アジア研究』8(3)、1970、347-377ページ。http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/55632/1/KJ00000134014.pdf
中里成章「日本軍の南方作戦とインド」『東洋文化研究所紀要(東京大学)』151、2007年、149-217ページ。http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/5716/1/ioc151004.pdf
黒田展之・小林裕一郎「シンガポール華僑粛清事件裁判記録(1)」『法と政治(関西学院大学)』49(2/3)、1998年、327-337ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0001061933
同「シンガポール華僑粛清事件裁判記録(2・完)」『法と政治(関西学院大学)』49(4)、1998年、575-614ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0000592111
谷川榮彦「太平洋戦争と東南アジア民族独立運動」『法政研究(九州大学)』53(3)、1987年、361-398ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0008279870
日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいことであることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。
「事実を丹念に」見せるのが実証的研究です。この「論文」はそうではありません。
「嘘やねつ造は全く必要がない」心の底から同意します。
以上、お目汚し失礼しました。もっと勉強しなければ……
(追記)日本の新聞記事へのリンクを貼り忘れていたので追加します。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081031-00000123-jij-soci
http://www.asahi.com/politics/update/1031/TKY200810310298.html
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2008110102000087.html
データはこちらから借りてます。何人か増やしてますが。
誕生日データベースhttp://thebirthday.net/y/1982
自分も82年でデータベースを見てたらなんかすごいなと思ったので取り上げてみました。
結構すごいと思うんですがどうですかねw?まあ他の世代も充分すごいんですがw
これ以外にも居ると思うし知らない有名人もいっぱい居ると思いますw
あと有名な犯罪者も入れてます。
自分はソニンと加藤あいと藤原竜也などが同学年なのに驚きました。
年下と思ってたのでw
まあ興味あったら見てください。
1982年 4月21日生まれ 安田美沙子 タレント・グラビアアイドル
1982年 4月24日生まれ イリーナ・チャシナ 新体操選手
1982年 5月22日生まれ アポロ・アントン・オーノ ショートトラックスピードスケート選手
1982年 6月21日生まれ ウィリアム王子 英国・チャールズ皇太子の長男
1982年 6月29日生まれ 矢嶋佑 映画監督・演出家・プロデューサー・実業家
1982年 8月13日生まれ シャーニー・デービス ショートトラック/スピードスケート選手
1982年 9月9日生まれ 大塚愛 シンガーソングライター
1982年 9月13日生まれ 出雲阿国 (お笑い) お笑いタレント
1982年 9月15日生まれ エジミウソン・ドス・サントス・シルバ サッカー選手
1982年 9月27日生まれ 中田敦彦 お笑いタレント(オリエンタルラジオ)
1982年 9月28日生まれ 加藤智大 秋葉原通り魔殺人事件容疑者
1982年 10月5日生まれ 吉田 沙保里 レスリング 金メダリスト
1982年 10月6日生まれ 伊調 千春 レスリング 銀メダリスト
1982年 10月10日生まれ 中野大輔 体操選手 アテネ団体金メダル
1982年 11月10日生まれ ザ・たっち角田拓也・角田和也 双子お笑いコンビ
1982年 11月22日生まれ たかし ミュージシャン(R.O.B)
1982年 12月13日生まれ 恩田美栄 フィギュアスケート選手
1982年 不明 伊藤ちひろ 脚本家 美術スタッフ スカイクロラなど
1983年 1月4日生まれ 植村花奈 シンガーソングライター
1983年 1月14日生まれ 上原多香子 歌手 | 元SPEEDメンバー
1983年 1月19日生まれ 宇多田ヒカル シンガーソングライター
1983年 1月20日生まれ 矢口真里 歌手 | 元モーニング娘。メンバー
1983年 2月8日生まれ 篠宮暁(オジンオズボーン) お笑い芸人
1983年 2月23日生まれ 近藤春菜(ハリセンボン) お笑い芸人
1983年 3月13日生まれ 桜井良太 バスケットボール選手
1983年 3月17日生まれ 藤森慎吾(オリエンタルラジオ) お笑い芸人
一通り見て思ったけど男性歌手少ないねwてかいなくね?もっと頑張れよww