はてなキーワード: ロマン主義とは
この間もちょっと孤独や閉塞感で胸がいっぱいになってた時に
ジムで知らないおっさんが話しかけてきてフォームとかいろいろ教えてくれた。
それではっきり自覚を得たんだけど
おっさんに親切にされたりすると些細なことでも本当に嬉しかったり胸が温かくなったりする。
美術系じゃない大学で進路や毎日に悩みながら美術室で絵を描いてたときにも
初めて見かけた40ぐらいの無愛想な教授か講師が急に本を見せたり指導したりしてくれて
帰り道に誇張じゃなく涙ぐみながら歩いた。
辛い時に励ましてくれたり力になってくれたりしたのはみんな
知己のおっさんや見ず知らずのおっさんだった。
人生から得たフィードバックとして、自分は女の人よりおっさんが好きだ。
おっさんに励まされたりおっさんに感謝したりする話は少ないというか、ほとんど無い。
男が苦境や悩んだ時に支えてくれるのは女の人、と決まっている。
これまで女の人から受け取った励ましのようなものは心のこもっていない社交辞令である。だから心に響かなかった。
おっさんからは心のこもった励ましを受け取ることがあった。
本当は若い男に親切なのはおっさんなのであって
お話の中で女の人の言葉が男の励みになるのはただの恋愛商業的な広告会社の陰謀である。
おっさんと若い男の心の交流なんてものはむさ苦しく商品にならないので黙殺されている。
心理学的な穴埋めの何とかかんとか。
ただ、一応自分は父親が健在だし仲も悪くない。
ジム行ってるぐらいだから筋肉には関心あるけど肉体美的な意味ではやはり若い方が美しいし。
何か心理分析してくれる人は居ますか。
本気でそう思うんやったら、こんなわかったようなわからんような文章書いてる暇があったら来年は自分がやったらええやん。
その気がないんやったら、要するに君は自分が言うたことを別に本気で信じてへんいうことやろ。
そういう、「小さなものに大きなものを無理矢理象徴させて嘆いてみせる」みたいなんは2回生ぐらいまでの間に卒業しときや。
その手の深刻趣味いうかロマン主義も青春の一齣としては悪ないけど、あんまり無理に引きずると学業の邪魔いうか、自分が何がやりたいんかもわからんようになって、不完全燃焼な学生生活になってまうで。
いやほんまに。これは俺自身の反省と後悔もこもってるんで、単なるオヤジの説教やと思わんと聞いてもらえるとありがたいねんけどな。
元記事はたいしたこと言ってない、別に排除しろとかそういうことでもなく、
「アングラなことを自覚しろ」というような内容で、私には至極まっとうに思えたのだけど、
そんな内容じゃないよ。そう読めたなら読解力不足、というかちゃんと目を通してないせいだと思うからもう一回落ち着いて読んでみて。
犯罪として弾圧するべきという内容。
一般的な日本語では排除というと思う。
それにこれはあの記事だけをぱっと読んだだけじゃわかりにくいだろうけど、犯罪として弾圧しろって言う理由も
見えるところから追い払いたい的な、あなたが感じるような怖さとかとは違うんじゃないかと思う。
朝起きてとても気持ち悪い。
僕には拒食症がある。というか自殺企図なので、本当に拒食症と呼ばれるのかはわからないけれど。餓死できたらいい。死を恐怖していない、むしろ歓迎すべきものだ。おかしいのは自分の死に何ら恐れていないくせに、他人の死には驚くほど敏感なこと。この間の中国での地震とかで人が死んだ、と聞くのはとても堪え難い苦痛だった。
社会的に惨めな姿をさらすのは僕の本望ではないので、(これもひどい矛盾に聞こえるけど)生きていくために必要なことはしている。社会性を保つことに何か意味があるのか、僕にはわからないけれど、『ゲーム』に参加するものの義務、という意味で、身なりは整えているし、仕事はちゃんとしている。仕事をちゃんとするために必要なことはみんなしている。だから多くの人は、最近ダイエットに著しく成功した人だと思っているだろう。髪の毛は抜けていないし黄疸や不整脈なども無い、と思う。極度に摂取カロリーが低く、体重だけが減り続けている。いわば現代医学という名の黒魔法(比喩)で容姿は保っている。なんというか、悪魔(比喩)に心を売り渡している、という気がする。
異常に健康だけれどカロリー不足で死ぬ。甘美な響きに聞こえる。昔から僕はロマン主義者だったのは間違いない。
なぜそうなったか、というと人に裏切られたからだ。恋人(だった人)は僕ではない男と寝て、それをある日突然告白して、僕のもとを去った、というか僕を追い出した。僕らは強烈な共依存関係だった。だからその恋人だった人も、その自分の行為にひどく混乱して、意味が分からないことをたくさんしたし、今でもしている。新しい男のことを愛している、といいながら僕に会いたがっている。僕はなんとなく、自分たちの関係を冷静に見直すことができるようになった。しかし僕はその痛みに依存している。しばらくこの状態が続いていて、だんだん痛みを感じなくなってくる時がある。それはとても寂しいことだったから、なんとかして痛みを思い出そうとした。そうすることが僕が生きている証のような気がした。痛みを感じなくなったら、(外見など気にせず)もっと積極的に死ねる気がした。
今日は、朝起きてとても気持ちが悪かった。なんでか知ってる。それは僕が恋に落ちているから。
とても恐ろしいことだ。また恋に落ちるなんて。僕はそれをとても恐れている。恐怖、という感情は肉体による未知の積極的な表現だ。僕が傷つけられることには、もう何の感情も抱かない。でも彼女を傷つけるのはとても堪え難いことだ。好きな人が好きだということに適切に応えてあげることが出来ないのがこれほどつらいことだったなんて。僕はまだその恋人のことを愛しているのは間違いない。だからその関係性の中にある不公平にも吐き気がする。
もし神がいるなら、もっと素直に僕を壊してください。
本当だ。消えないうちにグーグルキャッシュからサルベージしておこう。
パスカル『パンセ』
ライプニッツ『単子論』
ジェイムズ『宗教経験の諸相』
レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』
ブーバー『我と汝・対話』
ライル『心の概念』
デュルケム『自殺論』
キャンベル『千の顔をもつ英雄』
ポランニー『大転換』
オルテガ『大衆の反逆』
オング『声の文化と文字の文化』
ポパー『推測と反駁』
フロム『自由からの逃走』
デリダ『グラマトロジーについて』
ペンフィールド『脳と心の正体』
ソンタグ『反解釈』
フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』
ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』
イーグルトン『文学とは何か』
ガダマー『真理と方法』
ダマシオ『生存する脳』
クワイン『ことばと対象』
マッキンタイア『美徳なき時代』
ツリー内主要エントリ
http://blog.tatsuru.com/2007/11/06_1021.php
現実を知らない人に勝手にかわいそうな人扱いされるのでむかついたので書くが、こっちはマッチングなんて求めてない。求めてるのは企業、特に人事部。就職活動をしたが、現状では自分の適性にあった仕事であるように見せかける必要がある。だって企業の人事が自分の適性にあった仕事をしなさいというから、立場の弱いこっちとしては面接なんかで自分の適性にあっているというしかない。これは戦略であって、ロマン主義ではない。企業の人事部が勝手に自分の適性にあった仕事をしろといってるだけで、現場の人間はそう思ってないのかもしれない。しかしそれがわからない以上リスク回避の観点から、自分の適性にあっていると思ったからその企業を受けているというストーリを書かなくてはならない。裏ではしっかり有価証券報告書なんかみたり、OB訪問とかしてきちんと残業の度合いや将来性なんかを考えて極めて現実的に企業を選んでいる。ほとんどみんな表と裏をわけて就職活動をしている。裏ではあまりのくだらなさにため息をついて企業とそんなことをしている自分をバカにしてるよ。「研究者」としてはどうかしらないが、学生から本音を聞けない時点で「教師」としては失格だな。
マイクロフィルムのリールを操作して百年前の海外の新聞を読んだり
埃をかぶった分厚い外交文書集を読んだりした薄暗い資料室で
「ああ、おもしろいなぁ。これが学者のロマンなんだろなぁ」なんて思いに浸ったことがあったが
昨日、グーグルのarchive searchを今更知って心底驚いた。
これがあれば研究なんてすぐだろう、
先生方はこの状況を見て「方法論こそが大事」とか言い出すだろうけど、どうせ方法論確立できてる人なんて滅多にいないよ。
いままでのロマン溢れた人文系の研究はなんだったんだと少し虚しく寂しく思った。
まぁ、僕はたいした勉強はしてないけどさ。読売新聞のデータベースとやらもあるらしい。
ちょうど昨日読んでいた硫黄島従軍記
アメリカで捕虜生活をはじめた頃の著者の驚きに共感すること多々。今の僕の驚きと同じ思いだ。
ちっぽけなロマン主義的感情なぞ圧倒的な物量の前には、そうそうかなうもんじゃない。
やはり頼るべきは理性なのかな。現実を知り、ちっぽけな自分の身の回りの現実だけでもうまく裁いていくしかないんだろなぁ。
さて、明日が始まる。
取り上げている題材、着眼点が面白い本なのは確かなのだけれど、第二部においてメタフィクション論を展開するにあたって、既存の批評理論をほとんど参照していないのが気になってしょうがない。『ファウスト』に掲載された上遠野浩平論で佐藤俊樹がドイツ・ロマン主義文学を東の議論に接続していたはずだし、東のひとつのホームグラウンドであるSFにおいても、平行世界論や可能世界論については繊細な議論が行われてきたのではなかったのか。新しい概念を創造するのが哲学者の仕事なのだ、と東はどこかで発言していたように思うが、既存の理論との格闘がないままにいきなり概念が提出されるのは、どうにも知的緊張感を欠いているように感じられてしまう(その意味で、第一部の大塚、新城、稲葉らの緒論との接合までは面白いのだけれど)。また東の昔の発言を参照するが、東は「アカデミズム/ジャーナリズム」という対比を日本の論壇を分析する際に言説に持ち込んでいて、その中間で仕事をすることが大切だ、と以前どこかで述べていた。その対比をそのまま用いるとするなら、ちょっと今の東は「ジャーナリズム」に近寄りすぎてはいないか。在野の一ファンとしてはちょっと残念だ。とはいえ、我ながら無責任な期待だと思うので、こうして匿名ダイアリーに書いておく。お目汚し失礼。