はてなキーワード: ウィキペディアとは
土曜日になってようやくまともな食事をとったばかりです。
メールボックスは、たぶん読むことはないだろうメッセージでいっぱいになっています。
疲れましたが、私は幸せです。
読者の皆さんが自分の声を政治家に伝えられるようにすることであり、
どちらも成功裏に終わりました。
私たちが用意したツールを使って800万人もの人が自分の地域の議員の連絡先を確認し、
ソーシャルメディアではさらに何百万人もの人が自分の意見を発言しました。
何千人ものジャーナリストがウィキペディアの黒い画面をはりだして記事を書きました。
ここで一度、何が起こったのかをちゃんと理解しておくことが重要だと思います。
私たちの立つ足元が、大きく揺れ動いたのですから。
ジャーナリストは古いメディアと新しいメディアの衝突としてこの出来事を見ていますが、それは間違いです。
彼らがそういう見方をするのは、ふつうの出来事はそうやって動くからです。
元Sunlight財団のClay Johnson氏は、
「こんにち、自分の業界にとって有効な法案を通しワシントンから旅立たせるためには、適切なロビイストに金を払い、適切なキャンペーンをはり、適切な法案を適切なときに書かなければならない」
と言っています。
ちょうど同じように、アメリカ映画協会会長で元上院議員のChris Dodd氏は、ウィキペディアのブラックアウトを評して
「権力の濫用。IT業界の利益を守るため、ユーザを痛めつけ企業の駒として使う行為」と呼びました。
彼にとってこの問題は金と利益に関わる衝突にしか見えないようです。
NPR、 Associated Press、Fox Newsといった報道機関がすべて、この闘いを、
ハリウッド対シリコンバレーと銘打って伝えたのも、そのためです。
Bloomberg が、テレビ・映画・音楽業界がワシントンで使っているお金と、Google と Facebook の支出とを比べているのも、そのためです。
このブラックアウトはプレイヤーを増やしただけであって、また同じゲームが続くのだろうと想像しているのです。
そうではないのです。
インターネットで流れてきたClay Shirky 氏の講演をご紹介しましょう。発言を引用します。
SOPAとPIPAで危機に瀕するのは、ウェブサイトだけでもその所有者だけでもない。私たちが、一人の人間として、他の誰かとものごとを共有してよいという保証がおびやかされているのです。
私たちこそが、SOPAとPIPAに監視される対象になります。インターネット上で最大のコンテンツ生産者は Google でも Yahoo でもなく、私たちだからです。
私たちはそれが本当だと知っています。
ブラックアウトを主導したのは、 GoogleやYahooやFacebookやTwitterのCEOでもなく、ウィキメディア財団でもなかったからです。
ブラックアウトを主導したのは、普通のインターネットユーザでした。
その中心にいたのは、Osarius さん、 SiPlus さん、 FT2 さん、 Titoxd さん、 Fluffernutter さんといった人たちでした。
ウィキペディアがSOPAとの闘いに加わったのは、巨大な利益のためでも、資金のためでもはありません。
ウィキペディアは非営利組織によって(コントロールされているのではなく)運営されています。
そこには守るべき企業利益はなく、著作権侵害で資金を得ることはありません。
Reddit は、リンクを共有しコメントを付けあう人々の集まりです。
Metafilter も Tumblr も Craigslist も Cheesburger network も Oatmeal も 4chan も identi.ca も同じです。
どれも巨大企業ではありません。
15年以上にわたって、インターネットは普通の人々にコンテンツ製作の手段を提供してきました。
私たちがインターネットを使って作るのは、時にはかわいい猫の写真であったり、時には世界最大の百科事典であったりします。
時には腐敗した体制を倒すために使ったりもします。
昨日起こったのは、世界中のインターネットユーザが自分の声を見つけたということです。
自分たちの自由をおびやかす人たちに対して闘うための声を。
著作権侵害が問題であることは確かであり、被害を受ける人たちが自分の問題を解決したいと思うのは当然のことです。
しかし、彼らの問題は、普通の人々が自分を表現し、共有し、学ぶ力を守ることほどに重要ではありません。
聞くところでは、議会はIT企業とユーザに意見を尋ねに来るようです。
何が欲しいのか。
SOPAとPIPAをどう変えれば満足するのか。
OPENにすればいいのか。
新しい法案を作るべきか。
ウィキペディアがブラックアウトで伝えたかったこと、そして他の対SOPA・PIPAの行動が伝えたかったのは、
「ネット上の著作権侵害を撲滅する方法について話し合おう」ではありません。
「これだけ大事なインターネットを壊すな。私たちがこれまでどおり働けるようにしろ。学び、作り、共有できるようにしろ」です。
ここで、ブラックアウトに関わった皆様に感謝したいと思います。
下記に並べた人たちは、私が一緒に働いた、または働くのを見た人たちです。
関わっていたのにご自分の名前がなかったとしても、感謝をお届けしたものとお考えください :-)
無作為な順序で: Luke Faraone, Jan Ainali, Puki, André Savik, Dcoetzee, Vituzzu, Stacey Merrick, Dan Rosenthal, Michael Snow, Sumana Harihareswara, Wikitanvir, Jim Redmond, Kaganer, PeterSymonds, Mikołka, ZeaForUs, Spiritia, Iliev, Anubhab91, Ali, Haidar Khan, Joan manel, Davidpar, Cameta, Mormegil, Okino, Sir48, Giftpflanze, Rbmj, Tecsie, BreadMaker, Antonorsi, Mariadelcarmenpatricia, Huji, Tommikovala, Nikerabbit, Lamiot, Seb35, Zetud, Amire80, Rekp, איש המרק, Eranb, עידן ד, Trần Nguyễn Minh Huy, Itzike, Vibhijain, Ruy Pugliesi, Roberta F., Tgr, Kelly Kay, Pagony, Alensha, William Surya Permana, Gombang, Gregorovius, Civvì, Gnumarcoo, Austroungarika, Miya, Whym, Takot, Melberg, Omshivaprakash, Idh0854, Freebiekr, Diagramma Della Verita, RajeshPandey, Mathonius, Romaine, Mwpnl, Whaledad, Wpedzich, Sp5uhe, Przemub, Ency, Przykuta, Teles, Vitor Mazuco, Lvova, OC Ripper, Euriditi, Maduixa, Wikiwind, Јованвб, A1, Олег-літред, Violetbonmua, Prenn, Cheers!, Sameboat, Tbayer (WMF), OhanaUnited, Tom Morris, Wdchk, Sarah Stierch, Risker, Billinghurst, NuclearWarfare, Jimmy Wales, Orionist, Ryan Kaldari, John Du Hart, Aaron Schulz, Kat Walsh, Cherian Tinu, Mike Godwin, Jim Burger, David Gerard, Johnuniq, James Forrester, Prodego, Fluffernutter, Dana Isokawa, Fae, Andrew Lih, Brandon Harris, Jeremyb, Michelle Paulson, DeltaQuad, Pete Forsyth, Fetchcomms, Heather Walls, Rachel Farrand, CMBJ, Erik Moeller, Fifelfoo, James Alexander, Itzik Edri, Katie Horn, Iván Martínez, Matthias Schindler, Ben Hartshorne, Jon Davies, Anthere, Slobodan Jakoski, Victorgrigas, Dimce, Jerry-Yuyu, Patricia Morales, Stephen LaPorte, Varnent, Lennart Guldbrandsson, Neil Kandalgaonkar, Greg Maxwell, Ian Baker, Jeandré, Howie Fung, Ryan Faulkner, Beatriz Busaniche, Philippe Beaudette, Ziko van Dijk, Oliver Keyes, Dimce Grozdanoski, Keegan, André, Guillaume Paumier, Maggie Dennis, Mentifisto, Phoebe Ayers, Arne Klempert, Mike Peel, Gorilla Warfare, Geoff Brigham, Swarm, Peter Gehres, Megan Hernandez, Leslie Harms, Tomasz Finc, Pretzels, Jay Walsh, Whenaxis, Liberaler Humanist, Sam Klein, Andrew Gray, Fifelfoo, Zack Exley, Katie Filbert, Victor Vasiliev, Guy Chapman, Avi, Kenneth/MD, Stu West, Harry, Ryan Lane, Josh Lim, Matthew Roth, Richard Symons, Gayle Karen Young, Yuvaraj Pandian, Evangeline Han, Milos Rancic, James Hare, Adrienne Alix, Samat, Tomasz Ganicz, FT2, Alessio Guidetti, Galileo Vidoni, David Richfield, Alison Wheeler, Siska Doviana, Erlend Bjoertvedt, Анастасия Львова, Steven Walling, Casey Brown, Tim Starling, Patrick Reilly, Arthur Richards, Asaf Bartov, Alolita Sharma, CT Woo – そしてもちろん、ブラックアウトの決定をした、1800人の英語版ウィキペディアンの皆さん。
enWPのブラックアウトを支援するために抗議行動をしてくださった、次の姉妹プロジェクトにもお礼申し上げます:アルバニア語版ウィキペディア、アラビア語版ウィキペディア、ブルガリア語版ウィキペディア、カタルーニャ語版ウィキペディア、中国語版ウィキペディア、クロアチア語版ウィキペディア、オランダ語版ウィキペディア、グルジア語版ウィキペディア、ドイツ語版ウィキペディア、ギリシア語版ウィキペディア、日本語版ウィキペディア、韓国語版ウィキペディア、インドネシア語版ウィキペディア、イタリア語版ウィキペディア、ノルウェイ語版ウィキペディア、ポルトガル語版ウィキペディア、ロシア語版ウィキペディア、セルビア語版ウィキペディア、スペイン語版ウィキペディア、スウェーデン語版ウィキペディア、ウクライナ語版ウィキペディア、ベトナム語版ウィキペディア、ウィキメディアコモンズ。
今年のはじめの大ニュースはアラブの春。その流れに乗って、思いがけず拡散された記事です。今年はこれに味をしめて翻訳を続けたという感があります。
次は東日本大震災。エコノミストはこの時点でなかなかバランスのとれたことを言っていました。
そしてオサマ・ビン・ラディンが殺される。ちょっと珍しい感傷的なエコノミストの記事でした。
ジャーナル購読料高すぎというアレ。初版では注を省略して公開してしまったことを反省しております。
これを含め Omegle ネタは個人的には面白かったのがいくつもあるのですが、なかなかうまく紹介できてないです。
ウィキペディアが言論統制と戦う。いまは英語版が似たようなことになろうとしてるようです。
ジャーナル購読料高すぎというアレ・第2弾。こちらはちょっと煽りが濃い。
妹さんから見たスティーブ・ジョブズの人生。"We all — in the end — die in medias res."(私たちはみな、最後には、途中で死にます)にはハッとさせられました。申し訳ないことに初版では誤訳が多かった(当社比)ので、あとで色々直しました。
急にdsbdに流れてきたので。
来年はネタ探しに力を入れ、月1くらいでで何かご紹介できればと思っております。
また、今年はあちらこちらに誤訳が目立ったことを反省しております。来年は、辞書や用例にあたることと背景調査を心がけたいと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。
ウィキペディアのプログラマ、ブランドン・ハリスからのお願いをお読みください
ブランドン・ハリス (Brandon Harris, 1973-) はウィキメディア財団のシニアデザイナー。2010年からウィキペディアのユーザーインターフェイスの改良に携わる。ウィキメディア財団に入る以前には、 コンピュータエンタテイメント産業の Electronic Arts 社 に所属。独立プログラマとしては、ブラウザベースの MMOである Nexus War を単独で開発・運営した[1]。
ウィキメディア財団での主な仕事は、新規編集者獲得を目的とした一連のMediaWikiプラグイン開発、モバイル機器に焦点を当てた新しいウィキペディア用スキンの設計など[2]。
個人で開発運営した Nexus War は設備維持の費用がかさんだため2009年に閉鎖を余儀なくされたが、現在、有志によって後継ゲーム Nexus Clash [3]が運営されている。
幼少期からヘビーメタルを愛好しており、少なくとも10歳の時点でクワイエット・ライオットのMetal Healthがお気に入りだったという[4]。現在でもスレイヤー、ブラック・サバス、メタリカなどを好んで聴く[5]。
ウィキペディアなどのウィキメディアウィキ[2]やTwitter[6]、IRCでのハンドルネームは Jorm 。 北欧神話に登場する蛇、ヨルムンガンドにちなんで名づけたもの[7]。
定期的にはてなに上がる英語学習法だが、どうせなら受験勉強の時に使った教材でやればいいのに……といつも思ってしまう。
理由は簡単で、一般向け教材と受験向け教材では作り込みのレベルが全く違うから。
とくに単語関係では受験向け教材の方がずっと「覚える」ことに特化している。(アルクあたりの教材を買って失望したのは自分だけではないはずだ)
学生の時にはCDなんて買えなかったかもしれないが社会人ならその辺やりたい放題なのではないか。
おススメは
・DUO
あたりか。体力や集中力がないときでもなんとなくCDを聞いていれば勉強した気になれるが、実はあまり意味はない。
教材は書店に行けばもっと見つかるかも。あとはヒマな時に英語版ウィキペディアを読んだりすればいい。
最近話題のフィリピン英会話だが英作文の添削をやってくれる親切な先生に当たることが少なくなってきたように感じる。
なお「よい教材」を選ぶ基準だが、「覚えよう」と思ってやった時にどれだけストレスなく進められるか、だと思っている
ウィキペディア日本語版では、ユーザーの世代交代が進みつつあるという感じがある。
特に今年4月くらいから、それを象徴するような出来事がいくつかあった。
まず一つ目は、管理者二人がアカウントを不正に共有しているのではないか、という疑惑に端を発する、管理者辞任の騒動。
詳細は「Wikipedia:コメント依頼/婚姻・それに準じる場合のCU権限について」あたりから。
そもそもの始まりは、荒らし目的の多重アカウントに対抗するためにルールが厳格化されたことだった。
「荒らしが何かやらかす→それを見つけた管理者が荒らしを投稿禁止にする→荒らしが新しいアカウントを作ってまた同じことをする」とか、
「荒らしが複数のアカウントを使ってあたかも別人のように議論に参加し、特定の意見を多数派に見せかける」とかがそれにあたる。
古いルールでは、「悪いことをしないなら、非公開の多重アカウントを持っていてもいい」となっていた。
要するに、普段は歴史系のお堅い記事ばかり書いてる人が、
アニメの記事を書くときは恥ずかしいから別アカウントにしたい、というようなことが許容されていた。
新しいルールでは、非公開にしてはいけない(つまり同一人物だと明記しないといけない)、ということになった。
それだけではなく、同一人物でなくても同一世帯に住んでいてIPアドレスが同じであるなら、
事実上見分けがつかないので、その場合も「同一世帯にいるよ」と言っておかないといけないことになった。
ウィキペディアでは、アカウント持ちユーザーの接続元IPアドレスは、
ごく限定された管理者数名(チェックユーザー権限が必要)にしか見られない秘密情報だし、
よほど露骨に互いを持ち上げ合ったりしていなければ、疑いをかけられることもない。
ことが公になり始めたのは、本人たちが同居を臭わせる発言をしたところからだった。
片割れが、エイプリルフールの冗談の一環として、相手の人と「新婚旅行のため」ウィキペディアを休みます、という発言をした。
これと前後して、チェックユーザー権限持ちの管理者がIPアドレスをチェックし、
「接続元を共有しているにもかかわらずそのことを明言していない」という点でルール違反の状態にあることを公表した。
明言していないのが問題なら明言すればいいんじゃないの、となるだろうけれど、
なかなかそうは行かなかった。
まず、同居というのは(少なくともこの二人にとっては)けっこうプライベートな情報で、積極的に公開したいものじゃない。
おそらくそれに加えて始まりがうっかりした失言だったこともあって、本人たちは対応を1ヶ月近く渋った。
他のユーザーからは、問題の二人自身がチェックユーザー権限持ち、ということが深刻に受け止められた。
非公開のIPアドレスの記録からIPアドレスの一致を確認して、多重アカウントを摘発する立場である人たち自身が、
しかもそれを指摘されてから長い間、何も対応しようとしないのは明らかにまずい、と考える人が多く出た。
一方で、「特に悪いことはしてないし、ルールの精神に照らし合わせれば問題はない」という意見もあった。
「同一人物なのに複数の人物を装って議論に参加していた」わけがない。
あくまで形式的には抵触するというだけのことだから、目くじらを立てることはないという意見。
特にベテランで、当人たちと親しくしていると見受けられる人からは同情論が目立った。
その後の顛末は「Wikipedia:コメント依頼/婚姻・それに準じる場合のCU権限について」からたどれるけれど、
結果としては本人たちが管理者やチェックユーザーの権限をすべて返上することで収束した。
状況説明が長くなったけれど、この一件から読み取れると思うのは、
古いユーザーには、
「実質的に問題でないのなら神経質にルール違反をとがめる必要はない」
という傾向が強い。
新しいユーザーは、
「ルールは守るために作ってるのだから、形式的に守って当たり前」
「チェックユーザーや管理者ならなおさら厳密に守らないと、示しがつかずルールが形骸化してしまう」
と考える傾向が強い。
ウィキペディアの古い時代には、そもそも活発なユーザーは互いの活動を知っていて、
誰が信用できる人なのかは分かっていた。
だからルールはそもそも少なかったし、形式的なことで細かくとがめる人もあまりいなかった。
最近ではそれが、個人個人の信頼と裁量に任せたやり方を、形式化されたルールで置き換えていこうという風になっている。
というのも、信頼ベースでやっていると、それ自体が新しい人に対する参加障壁になってしまうからだ。
新しくウィキペディアに来た人から見ると、誰が常連で信頼されているのかというのはすぐには分からない。
そこで「この人は常連さんだから、例外的に大目に見られてるんですよ」などと言われても困惑するだろう。
「昔は活動的で信頼されていたけれど長い間休んでいる」というような人の扱いにもややこしくなりがち。
久しぶりに戻ってきて昔の感覚で自由にやると今はルール違反、みたいなこともよく起こる。
今回の場合、二人が古い意識でいて、ことを大きくせずに終わらせたいと考えていたところ、
本人たちにとって不本意な結果に終わってしまった、というように見える。
形式化されたルールを重視する人が多数派になっている、という意味で、
この出来事はユーザーの世代交代を象徴する出来事だったように思う。
もう一つは「秀逸な記事」からいくつかの記事が除去されたという話、だったんだけど、
http://it.wikipedia.org/ (http://it.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:Comunicato_4_ottobre_2011) より
読者の皆様
ウィキペディア・イタリア語版は長年に渡って有用なサービスを提供してきました。
皆様もそれを期待してここに来られたことと思いますが、
このたびウィキペディア・イタリア語版は閉鎖を余儀なくされる可能性がでてきました。
現在のところは、お求めのページは隠蔽されているだけの状態にあります。
この10年間、ウィキペディアは中立的で自由で、そして独立した知識源として、
数百万人のインターネットユーザーの皆様の生活の一部となってきました。
本日、誠に残念ながら、ウィキペディアを支える柱である中立性・自由・検証可能性が大きく損なわれる懸念が強くなりました。
その原因はDDL intercettazioni、通称「通信傍受法」として知られる法案の第29段落にあります。
この法案に関して、イタリア議会は現在様々な観点から議論をしていますが、
なかでももっとも重要なのは、当事者が自らの名誉を傷つけると判断したコンテンツについて、
どんなウェブサイトも48時間以内に訂正を公表しなければならない、という事項です。
法案では、当事者の主張を第三者が検証することは残念ながら求められておらず、
名誉が傷つけられるという意見さえあれば、訂正が強要されることになっています。
したがって、ブログ、ネットニュース、ウィキペディアで公表されたコンテンツから不快感を感じた人は誰でも、
問題のコンテンツおよびその情報源の内容が真実であったとしても、
「訂正版」の公表を要求することができるようになります。
ウィキペディアの利用者(ご存知のとおり、ウィキペディアには編集責任者はいません)たちは、長年に渡って、
コンテンツへの異論があったとき、プロジェクトの中立性と独立性を尊重しながらも、必要に応じて調査と修正を続けてきました。
ごくまれに、意見を踏まえて項目として成立させられなくなった場合にページそのものを削除することもありました。
訂正要求を議論と検証なしにそのままサイト上に掲載しなければならないという第29段落の要請は、
ウィキペディアの自由と独立性にとって受け入れがたい制約となります。
自由な百科事典としての基本原則を曲げることになり、
私たちが知る「水平」な編集の仕組みを停止させることになります。
あらゆる当事者の名誉と名声を守ることは私たちにとって言うまでもなく重要なことです。
しかし、イタリア市民はすでに刑法595条によって名誉毀損から守られていることも事実です。
今回の声明で、私たちは読者の皆様に対して、あらゆる当事者が自らの名誉についての性急な保護をみだりに強要できるようになることから生まれる危険について、注意を喚起したいと思います。
そうした制約を受ければ、「面倒を回避する」ため、インターネットユーザーは特定の話題や人々に触れることを控えるようになるでしょう。
私たちは、自由で誰にでも開かれた百科事典を提供し続けたいと思います。
私たちの記事は皆さまの記事でもあり、だからこそウィキペディアは中立です。
なぜそれを止めなければならないのでしょうか?
ウィキペディア利用者一同
関連リンク:
ウィキペディア「変態性欲」の項の、「性対象、性的興味の逸脱」部分にそれらしいものがちょこっと載っている。
変態性欲というと言葉は悪いが、犯罪に走ったら不幸な人間だけが増えるよ。
思春期の性欲みたいにとにかく強いだけかと思っていたんだが、そうじゃないんだな。
だいぶ思いつめてるみたいだし。
もし、セックス大好き、あなたの肉便器になりたい!な女性と付き合ってお互い合意の上でセックスにふけっても満たされないと思う? 襲うんじゃないと駄目?
※ ja=日本語版ウィキペディア、en=英語版ウィキペディア、ru=ロシア語版ウィキペディア
ウィキペディアによると、軽度の知能障害は、知能指数は50~70程度。
中度の知的障害は35~50程度。
知能偏差値でいえば、25~35が軽度の知能障害、17~25が中度の知的障害、
ということになる。
ところで、50が平均なので、25~35や17~25に対応する高いほうの知能偏差は、
それぞれ65~75と75~83。
つまり、偏差値50の人たちにとって偏差値30が知的障害ということになると、
偏差値70の人たちも逆の意味である種の障害とみなして良いということになる。
仮にそうだとすれば、東大や京大、東工大や一橋大の偏差値は概ね70だが、
母集団に補正をかければ、さらに偏差値は高くなる。りっぱな障害者だ。
逆に、この人たちの集団の中に偏差値50の標準的な知能の人がごく少数入り込んだら、
その集団の中では、標準的な知能の人は立派な知的障害だ。
何を言いたいかというと、自分は普通だ、と思っている人たちは、単に自分が含まれている集団に
庇護されているだけだということだ。
横だけど。
マンション敷地内のゴミ捨て場は共用部分に含まれるので、物件管理者側に管理責任が生じるのが普通。
もちろんゴミ捨て場の利用方法とかを詳細に決めて周知する必要はあるので、「ゴミ捨てボックスが使えないときどうするか」が決めてあったかが鍵なのでは。
実際の状況を見るにそういう想定はなされていなかったようだが。
不法投棄(ふほうとうき)とは、廃棄物の処理及び清掃に関する法律(主に、廃棄物処理法、廃掃法と略される)に違反して、同法に定めた処分場以外に廃棄物を投棄することをいう。by.wikipedia
で、廃棄物処理法を見てみると、ゴミの積み替えや保管には廃棄物の処理及び清掃に関する法律施行令っていう法律が関係あって、その第三条第一号の「リ」を見ると一般廃棄物の保管はこれこれこうしなさいってなってる。リンク貼るけどこれアドレス有効なのかな…
これらを見てると、まず管理側が一般廃棄物の保管にあたって「必要な措置」を講ずる義務があるように思える。(不法投棄というのはそういう対策を取ると決め、また実際に取られた場所以外に投棄されたものを指すのでは?)
でもボックスの破損は放っておかれた(修理は間に合ってないし貼り紙等の対応をしていない)わけだから、管理をあらためなさいね、となるのが流れだと思われる。
たった一箇所のゴミ置き場が一時的に壊れただけなので、不法投棄による罰則は適応されない可能性は高いのではないかな。その意味で「不法投棄(という判断)の正当化」は無理かも。
っていうか「ナポリみたいならともかく」って、例の意味が分からない。あれも管理側の機能不全が問題なのではないの?
それともナポリほどゴミが積み上がっていれば一個くらい加わってもわからないので関係ない、みんなで渡れば怖くないってことですか?
08/09 7:45追記:
「ポイ捨て」に準ずる行為扱いで軽犯罪法にひっかかる可能性はありそう。でも拘留とか科料までいくのかわからん。
「27:公共の利益に反してみだりにごみ、鳥獣の死体その他の汚物又は廃物を棄てた者」by.wikipedia。ウィキペディア便利ですねー。
ポスティングチラシの散乱はポイ捨てにカウントされるっぽいが、ゴミの体裁を整えて指定日に出してるものでもあたるのかな。
「みだりに」捨ててるかどうかも判断割れそう。
余談だけどこれ項目4で遠回しにホームレスを軽犯罪と規定しているけどその文面が凄い。
「生計の途がないのに」って、本人だけの責任かつすごい罪悪かのように書いててこわい。
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクLAライブについて、各所で話題になっていたマサチューセッツ工科大サイトの感想も翻訳してみた。初音ミク現象を基に、情報を巡る様々な活動の基盤となるメディア・プラットフォームのあり方について考えたもので、書き手はミクが市民主導のメディア作りをするうえで参考になると考えているようだ。残念ながら一ヶ所、fro-ducerなる意味の分からない用語があったのでそこは翻訳していない。意味を知っている人がいたらご教授願いたい。
urlは以下の通り。
http://civic.mit.edu/blog/condry/miku-japans-virtual-idol-and-media-platform
7月2日土曜日、私は普通じゃないライブショー、日本から来たヴァーチャル・アイドルの米国デビューを見に行った。彼女は市民メディアについて私たちに何かを伝えられる存在だと思う。
初音ミクはアニメ・エキスポにおける催しの一つとして、ロサンゼルスのノキア・シアターで公演した。完売したコンサートには、多くがコスチュームに身を包んだ4000人を超えるファンが訪れ、ステージ上で生の演奏家の横に投影された「人間サイズ」の映像であるミクが床からせり出してくると、彼らは叫びケミカルライトを振った。
ミクは甘く歌い、幅20フィートある放物線状の鏡に沿って跳びはね、大半は熱狂的なテクノダンス・ポップな曲目を駆け抜ける間、決して汗をかかなかった。ステージの脇には彼女と他のバンドメンバーをクローズアップした映像がスクリーンに映し出されていた。彼女はちょっとしたおしゃべりもした。「はじめまして、初音ミクです」。そしてバンド(ギター、ベース、キーボード、ドラム)と6人の弦楽器奏者たちを紹介した。私たちは彼女に拍手を送り続けた。
「あたしたちは歴史を作っているのよ」と、私の隣に座った若い女性が友達に話しかけていた。たしかにそんな気がした。そして政治とポピュラー音楽について私が知っていると考えていることについて、改めて考え直した。
誰もが喝采しているが、何に対して? ステージ上、私たちの注目が集まる場所には誰もいない。単に仮想アバターが存在するだけだ。何のアバター? 一体誰の? それは私たちの。
大衆文化は政治と同様、しばしばステージ上の(あるいはスクリーンに映された)リーダーを前提としているように見えるが、その影響力や、しばしば創造性そのものが、どう転んでもより幅広い分散型の集団行動から生まれてくることを、ミクは示している。ミクは未開拓の可能性を孕む世界、クラウドソースな動員モデル、そして一部はソフト技術(ボーカロイド)、一部は文化的なアイデア(ミクというキャラ)からなるメディア・プラットフォームに関する有益な事例について、言外にほのめかしているのだ。
ミクはYAMAHAが開発し2004年から販売を始めたボーカロイドと呼ばれる音楽合成ソフトウエア・パッケージの声として作られた。ボーカロイドはガレージバンド[音楽制作ソフト]同様、演奏用の道具として音楽を作ることができるが、その際にメロディーと同じく歌詞を書けるという特徴も持っている。別の企業、クリプトン・フューチャー・エンターテインメント[ママ]が2007年、漫画風の画像と経歴設定(16歳、身長、体重、その他)と一緒に、追加音声であるミクを発売した。
http://www.crypton.co.jp/mp/pages/prod/vocaloid/cv01_us.jsp
重要なことに、クリプトンは画像に対する著作権を強く主張しない方針を定め、キャラクターが彼女自身の生命、より正確に言えば私たち自身の生命を持てるよう制限を解いた。いわば私たち誰もがレディー・ガガのために音楽を作り、それを彼女が私たちのために演じてくれるようなものだ。ミクがリアルじゃないってことが問題だって? それじゃレディー・ガガはどのくらい「リアル」なんだい?
ファンはそれにこたえ、さまざまな共通の服装及び像(たとえばネギ)を共有しながら数百数千の音楽ビデオをオンライン投稿した。以来、日本の動画シェアサイト、ニコニコ動画への投稿及びコメントを通じて増幅されたファンの取り組みのおかげで、ミクはスターの座へ駆け上がった。いわゆる「Nicodo」[ニコ動]はユーチューブと似ているが、動画を見ていると利用者のコメントがスクロールしていくところが違っており、それによって参加者の視点というレイヤーが追加されている。
今日ではミクのP(『プロデューサー』)は彼らの作品をオンラインで販売し、日本のカラオケスポットでは好きなミクの歌をダウンロードして歌うことができる。クリプトンは、彼ら曰くクリエイティブ・コモンズの模倣であるPiaproというオンライン・サイトを持ち、連携促進とライセンス供与をするシステムを作っている。ファンの作品は他の販売経路を通じても売られている。2010年11月、東京・池袋で開かれ私を含めた7000人の参加者を集めた完売のファン・コンベンションでは、集められた500のファングループがボーカロイド関連の音楽、ポスター、DVD、イラスト本、テレビゲーム、装飾品その他を販売した。
こうしたファンの興奮ぶりを踏まえると、ビッグ・ビジネスが仲間に加わろうとするのも不思議はない。2009年以来、SEGAはProject Divaというタイトル名でミクの携帯機及びアーケード向けゲームを作成している。トヨタも今や広告シリーズでミクを使っており、彼らはミクのロサンゼルス・デビューの前にCMを公開したほどだ(いくらかの非難も浴びたが、おそらくは善意に基づいて作られていた)。とはいえ究極のところミクはファンの取り組みによって命を吹き込まれており、ミクが商業主義の世界に足を踏み入れるのを見るのが興味深いのもそれこそが理由だろう。
ミクは、以前から知られていた市民メディアのための教訓のいくつかを補強する存在だ。人々が参加するには本当の開放性が感じられることが必要であり、共有と対話がコミュニティー形成のカギになる。管理された知的財産権システムよりも自由な文化の方がより何かを生み出す力があり、新規参入と商業主義化は、特に人気が高まった場合は常にリスクとなる。
だがミクは分散型の創造性について、ウィキペディアとも人間のセレブとも異なる特殊な図式を提示している。ミクにはバックグラウンドが欠けている。彼女には予め定められた人格はない。彼女は唯一の完成した空想世界に存在しているのではない。このウィキ=セレブは、将来がプラットフォームに在る時代において、昔ながらの人間のセレブを白物家電のように見せてしまう。
この事実は民主主義と参加についての考え方にも別の道筋を提供するのだろうか? 行動と人気を生み出すのがリーダーたち以外の社会的現実だとしたら、メディアに関する問いは表現される内容よりも、プラットフォームのあり方、それがどれほど開放的であり、それが許す創造性の形式がどんなものであるかに振り向けられるだろう。
クリプトン社長の伊藤博之は2011年10月、ミクと計画されている英語版を含む関連プロジェクトについて議論するため[MITの]比較メディア論を訪れる。彼はこの現象を、エンターテインメント産業について再考する機会だとみている。「これは普通ではない形の創造性です」と、コンサート前にLAで短時間出会った際に彼は言った。「私たちはコンテンツを作成する過程を作り変えているのです」。ミクが機能するのは分散型のファン=製作者グループの関与があるからだ。おそらくこれはプロ=シューマー[生産消費者]の終焉であり、fro-ducer[残念ながら意味不明]の台頭なのだ。
大衆文化は、市民メディアを分析・設計する際に利用できる社会的力学を照らし出すものだ、と私は信じている。大衆文化は政治的参加のための媒体になり得るのみならず、特に人々に行動を促すという観点からどのようにアイデアが流れ影響をもたらすかについて把握するモデルも提供してくれる。
アニメに関する研究において、私は仮想のキャラクターがそれ独自で生成力のある創造性のプラットフォームになっているとの結論に達した。そこからより多くの種類のプラットフォームが出てきそうであり、創造され、築かれ、共有され、分配され、リミックスされ拡張されるのを待っていることを、ミクは明白に示した。ミクについて考えることで、私たちが未来において行動するコミュニティーを創造するための新たなアプローチについて思い描けるようになること、それが私の望みだ。
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクLAライブ、外国人感想その2「再生の約束」フリーダム訳
http://anond.hatelabo.jp/20110708223459
初音ミクLAライブ、外国人感想その3「ミクノポリスのボカレタリアートたちよ、団結せよ!」
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初音ミクLAライブ、外国人感想その4「仮想の歌姫:初音ミクの人気と未来の音色」
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初音ミクLAライブ、外国人感想その5「オレはAXには行ってないけど、まあとにかく……」
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初音ミクLAライブ、外国人感想その6「ミクノポリス:7月のクリスマスと世界征服」
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初音ミクLAライブ、外国人感想その7「AX11:ミクノポリスの印象」
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初音ミクLAライブ、外国人感想その8「ミクノポリス:コンサート・リポート」
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初音ミクLAライブ、外国人感想その9「アニメ・エキスポ:初音ミク」
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初音ミクLAライブ、外国人感想その10「アニメ・エキスポ2011(抄訳)」
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初音ミクLAライブ、外国人感想その11「世界は彼女のもの:初音ミクはいかにして全てを変えたのか」
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初音ミクLAライブ、外国人感想その12「アニメ・エキスポ2011でのボーカロイド体験」
どうして理解出来ないものごとを排他するように動くんだろう。そんなに気に入らないなら無視してしまえばいいのに。
やっぱりあれかな、場の空気感とか、一体感とかそういったことから得られる一種の興奮が心地いいのかもしれないなあ。
赤信号をみんなで渡るって行為は、それが何かしらの抵抗を意味することであり、同時に大きなうねりとか攻撃性というものへの帰属を促してくれる。
自分の外側も内側も同じ方向性に偏って、どんどんどんどん加速していくと、たぶんすごく楽しくて満ち溢れた気分になれるんだろう。
アドレナリンが分泌されて、脳が冴え渡って。そことわたしとが同調してしまって無限の広がりを持つようになるのだろう。
それらの主成分はおおよそ喜怒哀楽であり、感情的になることによって意図されたパニック状態に突き進むのだ、きっと。
わたしなんて主観はとっても儚いもので、いとも容易くわたしの中にある、わたしの外にある感情に、衝撃に、絶えず揺り動かされてしまっている。
フィードバックは間断なく行われており、なるほどこのような視点で見る限り、わたしというもの、ないしは人格というものがとても精巧に組み上げられたソフトのように感じられる。
そのソフトの動かすために必要なハードこそ肉体であり、人類はいまその主要な部品であるものどもを子細にいたるまで検分創成しようと試みているわけだ。
だから人間でない人間は、いつの日か創り出すことができるのかもしれない。神様じゃなくても、大丈夫なのかもしれない。
遺伝子って何なんだろう。どうしてあんな四つの塩基に支縛られなくちゃ駄目なんだろう。
先天的に結果が生じている問題に原因を求めるなんて愚の骨頂だけど、どうして生命は子孫を残そうとしているのか、次世代に種の存在を繋げようとしているのか解せなくなる時がある。
どうして進化なんてしたんだろう。どうして生命は死ななければならないんだろう。最初から死なんていう絶対的な区切りがなかったよかったのに。
そうすれば今にいたるまでふよふよとした蛋白質の塊のまま海中を漂っていたはずなのに。どうして死なんてものが存在しているんだろう。どうしてわたしは死ななければならないのだろう。
いや、わたしは死なないのではないだろうか。この世の中にあまた存在しているわたしというソフトウェアには、死というものから解放されているのではないか。
だって、ソフトウェアは途切れることしかしないから。強制的にシャットダウンすることしか無いから。それが死というものなのらしいけど、いまいちパッとしない。
死ってなんだ。そして気がついたけど、肉体って本当にハードウェアと換地して考えていいのだろうか。筐体は一体何と互換されるべきなんだろう。筐体こそが肉体を指しているんじゃないのかな。
ふむ。筐体が血肉で、遺伝子の並びがハードウェアで、わたしというものがソフトウェアなんだろう。
でも、そうだとするならば、人間ではない人間の血肉は後天的に生まれたことになり、何よりも先ずハードが揃っていなければならないということになる。
それが人間だ、機械とは違うのだというのならば、そのとおりだと首肯せざるを得ない。
ウィキペディアによると、軽度の知能障害は、知能指数は50~70程度。
中度の知的障害は35~50程度。
知能偏差値でいえば、25~35が軽度の知能障害、17~25が中度の知的障害、
ということになる。
ところで、50が平均なので、25~35や17~25に対応する高いほうの知能偏差は、
それぞれ65~75と75~83。
つまり、偏差値50の人たちにとって偏差値30が知的障害ということになると、
偏差値70の人たちも逆の意味である種の障害とみなして良いということになる。
仮にそうだとすれば、東大や京大、東工大や一橋大の偏差値は概ね70だが、
母集団に補正をかければ、さらに偏差値は高くなる。りっぱな障害者だ。
逆に、この人たちの集団の中に偏差値50の標準的な知能の人がごく少数入り込んだら、
その集団の中では、標準的な知能の人は立派な知的障害だ。
何を言いたいかというと、自分は普通だ、と思っている人たちは、単に自分が含まれている集団に
庇護されているだけだということだ。
というより響きが気持ち悪い。
どうしてこんな下品な言葉を乱用するようになってしまったのだろう。
とかで、いままで生きてきた中では前向きな使われ方を見てきたことがない。むしろ不吉なものを暗示する言葉の響きなのだ。
三つめに至っては「注意を拡散する」とかは、要は陽動であり、扇動であり、相手を出し抜くということだ。
だから、今回特に震災でツイートを「拡散希望」とかが大量に流れてくるのを目にして、これって用法違うんじゃないのとずっと違和感を感じていた。
とある。
つまり、それ自体が自律的な運動をともなっているということらしい。
これは、それを発した「者」の意図や意志に依存することなく、好き勝手に一人歩きすることを示してもいる。
コンピューターウィスルが自身のコピーを増やしていくことのみを目的とし、相手を選ばず様々な宿主を媒介にするように。
相手を選ばないという意味においてはデマもウィルスと相似している。
「拡散」という響きはその発した本人の意図に関わらず、言葉そのものが自己増殖していく運命を伴っている。
そこには発せられたソースの真偽の確度や意図された目的や意図の紐付けは後回しにされる、ということだ。
拡散自体がコピーは新たなコピーを量産するという自己目的化が強く作用するため、簡単に収束する術をもたない。
これね、例えば自分が信頼しているフォローした人が、「拡散希望」なんてリツイートしていて、もし自分にリテラシーが無かったら何も考えずにリツイートしちゃうかもしれない。内容なんて全く興味なくても。だってコピーしてくれって信頼している人から言われたら誰も断らんでしょ。思考停止の世界へようこそ、ですよ。
シェアはもう半分日本語と言っても差し支えないほど浸透してきているけれど、この言葉がもつ響きは拡散のそれとは真逆かもしれない。
拡散がまき散らして放置しているに対し、シェアは単に「分け合う」という意味だけでなく、「分かち合う」という意味も含んでいる。
つまりそこには発せられた者の強い肯定的な感情や意志、意図が働いている。決して発した言葉を放置しない。
そしてこれは常に同様の工程を相手に架してもいる。
つまり発したソースに紐付けされている意志を「分け合った」相手にも「分かち合う」作業を意図的に行わせる、ということだ。単なるリライトではなく、自分のフィルターを通すという所作を意図しているため、情報の確度が無意識に求められる。拡げて放置することのみを目的とせず、一人ひとりの情報精査が前提としてあるということだ。
信頼ある人から来たリツイートでも、その前にシェアするべきか否か自分のフィルターを通すという判断や作業が無意識に働くから、「拡散」のように無闇なリツイートというのは減るだろう。なぜなら「シェア」としてリツイートした情報というのは、自分という名のタグ付けがされた情報だからだ。逆に言えばタグ付けしたくない情報は「シェア」をしない。言葉の使い方ひとつで、不用意な拡散の抑止になるはずだ。
「拡散」という言葉を使っていながら「デマ」に注意しろという人は、車で練炭焚きながら一酸化炭素中毒には注意しろといっているようなもんで、なんかマッチポンプだ。拡散という言葉もにちゃんねらーから来たのをそのまま流用してしまってそのまま放置されているんだろうけれど、界隈の人も自己補正はちゃんとしてほしいよね。特に、言葉を使うプロ達が何も考えず「拡散希望」のリツイートを連発しているのは見ていてちょっと恥ずかしい。
俺のアンテナが、
「計画停電は原子力の必要性の見直しの気運が高まらないようにするための 東電の小賢しい悪知恵」
だと言っているので調べてみた。
ウィキペディアによると
これを額面通り受け取るなら、概ね現在の発電量は
前年度と比較すれば、地震発生前より、今はかなり供給量に余裕をもっていることが分かる。
あとは、東電との大口需要者との間で結ばれている「需要調整契約」に基づいて供給量を調整すれば、
契約者は、電力需要が逼迫した時に、「電力利用を削減する義務を負う代わりに、割引料金が適用される」らしい。
割引適用は平常時も含まれるとのこと。
つまり、これらの状況をまとめた俺の結論としては
「実は計画停電なんかしなくても余裕だし詭弁なんだよね、バカ騙すのにはこれが効くんだよねー!フヒヒヒーっ」
とゆこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/東京電力
http://www.tepco.co.jp/forecast/index-j.html
http://www.taro.org/2011/03/post-962.php
いわゆる「ウィキペディアン」がウィキペディアで何やってるか、
っていうのがあまり知られてない気がしたので、まとめておく。
みてるだけの人。いうまでもなく最大勢力。
感覚でいって、ウィキペディアにアクセスする人のうち少なくとも99.9%はここに入ると思う。
いわゆる「ウィキペディアン」ではないとは思うけど、一応明示のために書いておく。
ウィキペディアンのなかで多分6~8割くらい。
参加する頻度や執筆量はおいといて、もっぱら記事に書き込みをする人。
など色々。
統計によると、300回以上書きこみしたことがある人が大体5000人いるらしい。
http://stats.wikimedia.org/EN/TablesWikipediaJA.htm#editdistribution
歴史、地理、交通には書き下ろしが多く、化学、工学、数学は翻訳が多いイメージ。
サブカル系はライトな(たぶん若年層の)参加者が多く、その分ピリピリしながら管理活動をする人も多い。
基本的には、分野ごとによく出てくる常連というのが決まっている。
「内容間違ってる!」といって入ってくる人がにノートページで出会うのは、だいたいこの辺の人たち。
ほんとに管理系(後述)をぜんぜんやらない人も多いので、
全体コミュニティとは別の独自基準で動いてる人もいたりする。
いたずらや不適切な内容のページの削除、利用者のアカウントのロックとかを、やったり議論したりする人。
実行するための管理者権限を持ってる人もいるし、持たずに議論するだけの人もいる。
人数としてはそんなに多くない。大目に見ても400人は行かないと思う。
で、その人たちがコミュニティの中核になってる。
「ウィキペディアは自治厨がうるさくて困る」とか言われるのはこの人たち。
「自治厨」というのはある意味ウィキペディアの中でも冷遇されていて、
削除議論とかばかりに参加する人は「お前は何しにウィキペディアに来てるんだ?」
という批判に耐えなければならない。
作業中に目についた範囲内で議論に参加する。
管理者権限を持ってる人は、人数が少ないのもあって、
週数回~数十回の活動の大半を削除とかに使ってる。
居場所としては「井戸端」や「削除依頼」や、その他「コミュニティポータル」からたどれるあたり。
コンテンツの分野にはあまりこだわらない人が多いけど、
著作権関係とかウィキペディア関連のソフトウェア関係とかになんとなく分かれてるかんじ。
コンテンツは書かず、誤字脱字とか書式間違いとかをせっせと直す人。
比較的単純作業で編集履歴をかせげる(管理以外でウィキペディアに貢献してることを示せる)ので、
管理系中心、ときどき草取り、という人はソックパペット(複垢)じゃないかという疑惑をもたれたりもする。
人数としては管理系よりはたぶん多いんだろうな、という印象。
執筆系と同様、地味な活動をしてる人ほど目につきにくいので、
それってさ、クリック先の情報がどのくらい正確でどのくらい詳細に書かれていてどのくらい理解しやすいかと関係してる気がするんだけど。
自分の力で問題を解く、ことはナンセンスで時間の無駄だということはネットの普及で証明された。
ネット上では分からない問題は分かる人に聞く。みんなで答えを考えあう。それが普通。自分一人でひたすら考えるのはアナログで、ネット時代ではなんだか妙な姿になってしまう。
ウィキペディアコピペ問題もそうだけど、アナログ時代ですら行われていたことが、ネット時代ではさらに容易になったというだけなんだよな。
宝くじと同じじゃないかと思える。運よくエリート・高収入への切符を手に入れるためのくじ。当選者=合格者。
答えが出てくるような問題を考える必要はない。答えが出てくるならそこは全てグーグルなり頭のいい人間なりに頼ればいい。
しかしそうなると、答えがないので問題文には出来ない。しかし定員は限られてるからふるいにかけないといけない。どうするのか。
そもそも大学とは?大学では一体何を学ぶのか。大学に本当に入る価値があるのか。大学が単なる就活を有利にする大卒切符を発券する場所だとしたら、金さえあれば切符をもらえるようにすればいい。切符はお金を出して買うものだ。それ以外に何もいらない。
本当に学びたいこと、学ばなくてはならないことは、今まさに問題となっていること、まだ解明されていないこと、まだ誰も知らないことだ。
これらを学ぶために必要なのは考える力、そして必要な時に必要な知識を引き出すことが出来る検索力とでも言うべきもの。
前者は1人でも出来るし、後者はちょっとしたネット教育があれば出来る。
本当に必要なのはこの二つだけなのではないか?そうすれば、たくさんの教師は必要ないし、子供たちには専用のコンピュータとネット環境を用意する資金があればいい。たぶん、今よりずっと安上がりだ。
重要なのは人間関係やコミュニケーション能力というが本当か?物理空間に囚われている頭の古い人間たちの戯言ではないのか?
そもそもコミュニケーションとは必要な時に必要なだけ行うもののはず。街を歩いている他人といちいち仲良くならなければならない理由はないし、四六時中誰かと意気投合し話し続けなければならないわけではない。
好きな時に好きなだけ、合意のもとに。それはネット上での一般的なコミュニケーションと言える。嫌いになったらアクセスを遮断すればいい。
必要なのは?今人類にとっての問題を解決する力である。どうでもいいコミュニケーションに時間をかけたい人はそもそもいない。
受験問題をネット投稿した人間は素晴らしい。彼は新しい視点を提供した。
受験問題だってそもそもはただの問題だ。なら、ネット上にいる「答えを教えたい人々」に問題を提供してもいいではないか。
そもそも答えがある問題を解くことは単なる確認作業にすぎない。そんなことを真面目くさって解いてなんになる?こんなものが解けるか解けないかだけで、年収が全く違ってしまう、人生の勝者と敗者がはっきりと分かれてしまう、そんなことは許せない。そんな気持ちかもしれない。
大学生よ、ウィキペディアはどんどんコピーしよう。受験生よ、受験問題はネットに教えてもらおう。
新しい時代はもう始まってる。
なんだそれ?その発言に意味があると思うか?
「一般的な(ウィキペディアに書かれているような)定義で使われているところを見た事ないけど…」
と俺が言ったらどうするの?