はてなキーワード: 批評家とは
(訳注:長文注意。誤訳あったらごめんなさい。教えてもらえたらあとで直します)
村上春樹の作品世界にほぼ浸りきってやろうというつもりだった。
ところがその目論見は外れることになる。
期待していたのは、バルセロナやパリやベルリンのような街だった。
そこでは、市民はみな英語が達者で、さらにはジャズ、劇場、文学、シットコム、フィルム・ノワール、オペラ、ロックといった、
西洋文化のあらゆる枝葉に通じている……そんなコスモポリタンな世界都市を私は期待していた。
誰かに聞いておけば分かっていたはずなのだが、実際の日本はまったくそんな場所ではなかった。
実際に足を踏み入れることができる日本は、どこまでも頑固に、日本的だった。
そう思い知らされたのが地下だったというのは、我ながらよくできていたと思う。
アイロン掛けたてのシャツに包まれ、なんの躊躇もなく地下鉄の駅へと降りて行くや否や、
私は迷子になり、助けを求めようにも英語話者を見つけることができなかった。
最終的には(電車を乗り間違え、馬鹿げた値段の切符を買ってしまい、必死のジェスチャーで通勤客を怖がらせたあと)、
どうにか地上に出てはみたものの、もはやインタビューの時刻はとうに過ぎている。
私は絶望して、目的もなくあちらこちらへとさまよい歩いた(東京にはほとんど標識がないのである)。
そして蜂の巣状のガラス製ピラミッドのような建物の前で途方に暮れていたとき、
ついにユキという村上のアシスタントに見つけてもらうことができた。
あまりにもうかつな、アメリカ人的な私は、村上のことを現代日本文化を忠実に代表する人物として考えていた。
実際には彼は私が思っていたような作家ではなく、日本は私が思っていたような場所ではなかった。
そして両者の関係の複雑さは、翻訳を介して遠くから眺めていたときには想像しえないものであることが明らかになっていった。
村上の新作『1Q84』の主人公の一人は、自らの人生最初の記憶に苛まれており、誰に会ったときにも、あなたの最初の記憶はなにかと尋ねる。
それは3歳のとき、初めて家の門の外に歩き出したときのことだという。
彼は道をてくてくと渡り、溝に落ちた。
流されていく先にあるのは、暗く恐ろしいトンネル。
そこに差し掛かろうかというとき、母が手を差し伸べ、彼は助かった。
「明確に覚えている」と彼は言う。
「水の冷たさ、トンネルの闇、その闇のかたち。怖かった。僕が闇に魅かれているのはそのせいだと思う」
村上がこの記憶を語るとき、私は既視感とともに心の中でくしゃみをするような気持ちを覚えた。
その記憶には聞いた覚えがある、いや、不思議なことにその記憶は自分の中にある、と感じた。
ずっとあとになって分かったことだが、私は確かにその記憶を持っていた。
村上は『ねじまき鳥クロニクル』の冒頭の脇役に自分の記憶を写し込んでいたのだ。
村上を初めて訪問したのは、日本にしてもありえない夏の厳しさの最中、
週の真ん中、蒸し蒸しする午前中のことだった。
その結果、電力、公衆衛生、メディア、政治にも危機が到来した(当時の首相の辞職によって、5年間に5人目の首相が生まれることになった)。
大作『1Q84』の英語訳(そしてフランス語訳、スペイン語訳、ヘブライ語訳、ラトビア語訳、トルコ語訳、ドイツ語訳、ポルトガル語訳、スウェーデン語訳、チェコ語訳、ロシア語訳、カタルーニャ語訳)について話すためだった。
この本はアジアで数百万部を売り上げ、
まだ翻訳が出ていない言語圏ですらノーベル文学賞の噂が囁かれていた。
62歳にして30年のキャリアを持つ村上は、日本文学の最高峰としての地位を確かなものにしている。
疑いなく、彼は母国の表層とかたちを世界に伝える、想像世界の大使となった。
そのことは、関係者には非常に大きな驚きだったと言われている。
アメリカによる戦後占領を受けた1949年の京都、日本の前首都である。
「これ以上の文化混交の瞬間を見つけるのは難しい」と John W. Dower は1940年代後半の日本について書いている。
「これほど深く、予測不能で、曖昧で、混乱していて、刺激的なものは他にない」という。
「瞬間」を「フィクション」に置き換えてみれば、村上の作品を完璧に説明することができる。
彼の物語の基本構造は、互換性のない複数の世界に根を下ろした普通の人生であり、
そこは、さまざまな言語の喧騒に包まれた国際的な港湾都市である。
彼はアメリカ文化、とくにハードボイルド探偵小説とジャズに没頭して十代を過ごした。
二十代のはじめには大企業の序列に入り込む代わりに、髪を伸ばしヒゲを生やして、両親のすすめを押し切って結婚し、借金をして「ピーターキャット」というジャズクラブを東京で開いた。
掃除をして、音楽を聞いて、サンドイッチを作って、酒を注いで、
作家としての村上のキャリアの始まり方は、彼のあの作品スタイルそのものだった。
どこまでも普通の設定で始まり、どこからともなく神秘的な真実が主人公に降りかかり、その人生を根底から変えてしまう。
29歳の村上は地元の野球場の芝生でビールを飲みながら、デイヴ・ヒルトンというアメリカ人助っ人バッターが二塁打を打つのを見ていた。
平凡なヒットだったが、ボールが飛んでいくのを見て村上は天啓に打たれた。
そんな望みはそれまでなかったが、いまや圧倒的なまでだった。
そして彼は書いた。
数ヶ月のちに『風の歌を聞け』を書き上げた。
それは名もなき21歳の話し手が語る小さく凝縮された作品だったが、冒頭から村上らしさが見えていた。
アンニュイとエキゾチシズムの奇妙な混合。
わずか130ページで、その本は西洋文化をぶつ切りにして引用してみせた。
『名犬ラッシー』、『ミッキーマウス・クラブ』、『熱いトタン屋根の猫』、『カリフォルニア・ガールズ』、ベートーベン第三ピアノ交響曲、フランスの映画監督ロジェ・ヴァディム、ボブ・ディラン、マーヴィン・ゲイ、エルヴィス・プレスリー、『ピーナッツ』のウッドストック、サム・ペキンパー、ピーター・ポール&マリー。
以上はごく一部に過ぎない。
そしてその本には(少なくとも英語訳には)日本の芸術の引用がまったくない。
村上作品のこうした傾向は日本の批評家をしばしば苛立たせている。
そして一年後、ピンボール機を取り上げた次の小説を出したのち、執筆に時間のすべてを費やすため、ジャズクラブを畳んだ。
「時間のすべて」という言葉には、村上にとっては余人とは異なる意味がある。
30年を経て、彼は僧侶のように統制された生活を送っている。
すべてが作品を作り出すのを助けるように調整されている。
彼は毎日のように長距離を走り、泳ぎ、健康的な食生活を送り、夜9時には床につき、朝4時に起きる。
そして起床後5、6時間は机に向かい執筆に集中する(2時に起きることもあるという)。
「集中できないとき、人はあまり幸せではない。僕は考えるのが速くないけれど、何かに興味を持てば、それを何年も続けられる。退屈することはない。僕はヤカンのようなものだ。沸かすのに時間はかかるけれど、いつまでも熱い」
そうした日々の湯沸かしが続いていって、世界でも類まれな作品群ができあがった。
30年の歳月を経て積み重ねられたそれには人を虜にする不思議さがあり、様々なジャンル(SF、ファンタジー、リアリズム、ハードボイルド)と様々な文化(日本、アメリカ)をつなぐ位置にある穴を埋めている。
どんな作家にも、少なくともこれほど深くまでは、埋められなかった穴だ。
そして今、とりわげ激しく長い湯沸かしの結実として、もっとも長く、奇妙で、シリアスな本が上梓された。
彼は翻訳者を通して会話するのが嫌いだという。
なまりは強く、落ち着くべき箇所で動詞の活用が劇的に現れたり消えたりする。
とはいえ相互の理解に支障を来たすことはまずない。
特定の熟語("I guess" 「ではないか」、 "like that"「というような」)が、ときたまおかしな位置で使われることがある。
安全な言葉遣いから逸脱するのを楽しんでいる節が彼にはあった。
私たちは東京にある彼の事務所で席を持った。
数人のスタッフが靴を履かず他の部屋で作業をしている。
彼のキャラクターと同じように、アイロン掛けしたばかりのように見えるシャツだった(彼はアイロン掛けが好きだという)。
靴は履いていない。
彼はペンギンのある本の表紙を模したマグカップでブラックコーヒーを飲んだ。
その本とはレイモンド・チャンドラーの『ビッグスリープ』、彼の昔からのお気に入りの小説であり、今日本語訳をしている小説でもある。
話を始めながら、私はあらかじめ用意していた『1Q84』をテーブルの上に置いた。
その本は932ページあり、ほぼ30センチのその厚みは本格的な法律書を思わせるほどだ。
「大きいな」と村上は言った。
「電話帳みたいだ」
おハロー。
聖おにいさんはオサレというのよりサブカル臭。それも悪いタイプの。
http://anond.hatelabo.jp/20081210172325
とても根が深いサブカルミーハー問題。『このマンガがすごい2010』を読んで。
http://anond.hatelabo.jp/20091216230059
「このマンガがすごい!」は罪深い延命装置。もう犠牲者を増やすな!!
http://anond.hatelabo.jp/20111224192828
を書いたぼくだよ。みなさん自意識丸出しでごちゃごちゃ言ってくるんで、胸焼けするぐらい非常に切ない気持ちになりました。なんというかもう……。
「かわいそうだね?」
って言葉しかでてきません(おっと、つい芥川賞受賞作家ネタが飛び出しちゃったよ。やべー、まさかここで芸術に携われる人間だったら絶対にチェックしておくべき、芸術を理解できないやつは興味ないふりして精神防衛していることでお馴染みの芥川賞のネタが飛び出すとは、俺のセンスパねえ)。
はてなブックマーク、およびツイッターの皆様がたは心のホメオスタシス機能をフル稼働させて自分の殻に閉じこもっちゃっていますね。みなさん図星を突かれたことを必死に隠そうとしていますけど、何で等身大の自分を直視できないのかねえ。
「格好をつけないことで、格好をつけている」
「「ホメればセンスいいと思われる記号」を批判すればセンスいいと見られると思ってる人の典型的批判」
やれやれ。春の熊に全員屠殺してもらいたいよ(センスある村上春樹ネタ)。
ぼくはきみたちの断末魔の叫びで心が汚れちゃったんで、ストラヴィンスキーを聞いて洗い流していました。グッドなアートはエバーグリーンな輝きでディ・モールト・ベネだね。
ということで、本題。反応を見ていると、ぼくが批判したい対象がイマイチ伝わっていないようなんで、ここでまとめて表明してみようと思う。
これ以上、この惨状を放置しているとホント取り返しのつかないことになるからね。砂漠に水を与えるようなものだけど、何もやらないよりはマシ、かな……。
きみらの軽い脳みそでも理解できるように4つに大別してあげているから熟読してほしい。2010年代はこういう奴らをいかにカルチャーシーンから排除するかにかかっているので、宇野常寛さん、荻上チキさん辺りは参考にしてほしいね。東浩紀さんは河原で石でも積んでてください。
では、いきますよー。
「ボンクラ」なんていう安っぽい価値観で連帯して、「中学生マインド」なんていう恥ずかしい心性を至上価値にしちゃっている一派。やっていることはひよこのオスメスの仕分けみたいなもん。ライムスターの宇多丸や町山智浩辺りが「いい」といったものを「味方」と見なして手放しで褒め称えて、けなしたものを一緒になって叩けば、「センスあるポジション」にいられると思っている。
「売れてる邦画はテキトーに叩いておけばおk」みたいな頭からっぽな行動も平気でしちゃう。そんで周りも見てもいないのに賛同しだすから目も当てられない。
中身をまともに分析しないで「大沢たかおが出演しているから、これはクソ映画だ」みたいな論理で動いていて、そんで「バカな大衆」と「審美眼のあるセンス抜群の俺」という謎の対比をしだすんだよね。「なぜこういう内容の邦画がいま売れるのか」なんていう深遠なトピックに触れることは一切ないし、考える頭もない。
自分の物の見方だとか価値観だとかが一切抜け落ちた、ゾンビみたいな奴ら。サブカル年長者の金魚のフンをやることに、羞恥心の欠片もない。「独自な物の見方をする人間」についていけば、「独自な物の見方をする個性的なわたし」が出来上がると思っている。
彼らの反応は非常にわかりやすい。ちょっと宇多丸のラジオを聞いただけで、習性がまるわかりで、「ああ、この映画はこいつら叩くだろうな」ってことがすぐに判別可能になる。その分かりやすさが蔓延の原因だといえよう。映画リテラシーがないのに、センスいいと思われたいやつらの格好の逃げ場になっている。
そんで、こういう奴って美意識がないから恥ずかしげもなく部屋に映画のポスターをべたべた貼って、ダサいバンドTシャツを着ていたりするんだよね。それでいて、オシャレに過剰なコンプレックスを抱いているから、「無理してオシャレしているやつは上辺だけの中身のない単なるカッコつけで、ちょっとダサいくらいの自分が本当は一番センスいいんだ病」にかかっていて非常に厄介。自分のダサさまで理論武装しなきゃ生きていけないなんて、ほんとに可哀想だ。
この病気を完治させるには映画について語りだすたびに「それ、ウィークエンドシャッフルで宇多丸が言っていたことだね」って言い続けるしかないと思う。「あ、その映画、町山智浩がキラキラで紹介してたやつか」、「昔、みうらじゅんがその映画をネタにしているのを見たことあるよ」でも可。
「人生で大切なことは、すべて伊集院光のラジオから教わった」とか真顔で言っちゃう恥ずかしいやつら。
映画秘宝系との違いは、映画を見たりする気力も何もなくて、横になってラジオを聞くぐらいの体力しか残されていないのに、自分が第一線にいることを疑わずに最新のカルチャーを必死に否定してくる。「最近のアニメって萌えばっかりで中身がないよね」って見もしないくせにしたり顔で口を挟んでくるのがこいつら。
自分が中年化し、ついていけないことを認めることができなくて、漫画やアニメは伊集院が褒めるものだけが絶対だと思っている。『わたしは真悟』だとか『アストロ球団』だとかね。
映画秘宝系はまだ自分の足で作品を鑑賞しようっていう根性があるけど、こういう奴らにはそれすらない。平気でCMカットのMP3音源を違法ダウンロードして、「やっぱり伊集院さんって聡明だよなあ」なんてアホ面下げてる。その続きはもちろん「本当に頭が良い人って伊集院さんのことを言うんだよな。やっぱり人は学歴や職業じゃなくて、物の見方で頭の良さが決まるんだよな~」なんて考えいて、「ダメな自分は本当は感性が鋭くて、周りのくだらない奴らよりもずっとずっと頭がいいんだ!」って泣きながら自己肯定をしている。
もうなんでもあり。
こういう奴らのためにはっきり言ってあげるけど、「感性」っていうのは行動で示さなきゃ形にならない。布団のなかで自分を慰めるための感性だなんて、ありゃしないよ。ゴミクズよ、もうよせ、こんな不毛な自己肯定は。
「センスがいい」というタグを貼られた商品を必死に買い集めて、なんにもない空っぽな自分を必死にデコレートしようと頑張っている。ビレバンに下駄を履かせてもらわなきゃ、外を歩くことすらできない可哀想な人。自分がビレバンから与えられる餌を食べているだけの家畜だってことに気づけない。
こういう奴がセンスいいと思われたい一心でカルチャーシーンを引っ掻き回して、むちゃくちゃにしていく。「このマンガがすごい!」で上位に入る漫画が悲惨な犠牲者なのは、前の記事に書いた通り。
なんにも作り出せない、作ろうともしないくせに、必死に消費物で「ぼくちゃん、クリエイティブなんだじょ!」とアッピールしたい厚かましい愚鈍なマリオネットたち。
こういう奴には「お前、ひょっとして浅野いにお漫画の登場人物を気取ってない?」って聞いてみよう。ズレてない眼鏡を何度も押し上げながら、「き、きみぃ、いにお漫画はね、単なるセンチメンタルじゃなくて実験的な手法にも取り組んでいて云々」って聞いてもいない作品論を震えながら語りだすぞ。
さらに「そのボブ、もしかしてつぶやきシローをリスペクトしているの?」って言ったら卒倒しちゃうので注意。
もし友人にこの手合いがいたら適度に自意識を潰してあげて、「やっぱビートルズが一番だよな」ぐらいのレベルに留めさせてあげるのが吉。弾けもしないのに部屋に置いてあるギターは、親切心で河原で燃やそう。
そう、お前らだよ。お・ま・え・ら☆
はてブやツイッターなどの安全圏からお手軽に一言批判して、「ふふ~ん、ぼくちゃん、こいつらよりも頭がいいもんね~。見てみて! ぼくこの人否定しているよ!! こいつより頭いいんだよ!! ほら、見ろよ、もっと! 見ろっ、見ろぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!!!!!!」と汚い欲望を身体中の穴から漏らしている。
文字数制限を盾にして根拠もなにも示さずに、自分の頭で否定できる一文をなんとか見つけ出して、「やれやれ。きみはなんにもわかってないね」とただ否定するだけ。熟議に何の貢献もしない、耳を汚すだけのノイズ。
大抵のバカなネットユーザーは脳の大部分が「最新情報の暴飲暴食」でスカスカになっているため(俗に言う「グルーポンおせち状態」)、比較検証なんていう基本的なこともできない(本人は「できない」とすら気づいていない。そこを突かれると「時間がないから」「忙しいから」と言い訳して、何も届いていないメールボックスをチェックしだす)。だから、「最後に勝利宣言をした人間」に説得力があると思っちゃう。
このような「つぶやき批評家(気取り)」と「情報ジャンキー」はまとめてネット中毒矯正院にぶち込むべきですね! そこで『アルプスの少女ハイジ』でも見せて、少ない情報をいかに咀嚼するかを学ばせたほうがいい。こいつら、醜く太っていることが勲章だと思っているからさ。
以上、今すぐカルチャーシーンから撤退すべき害毒な消費者4タイプでした。こういう奴らが蔓延っちゃったのは「個性が大事」という間違った教育と、「作品の解釈は受け手が決める」なんていう甘やかしの成果だと思う。
確かにある程度の解釈は読者に任されるだろうけど、それを理由に笑っても怒っても何しても構わないなんてことはない。それだとスタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』を見て、原子力礼賛だと思っちゃうようなことを許してしまう。
ぼくのような高い視座に立てているクリエイターって本当に少ない。名前を挙げるとしたら、映画監督の紀里谷和明か、小説家の岩崎夏海くらいか。
特に岩崎夏海の『「小説の読み方」の教科書』は上記であげた連帯のためだけや、センスいいと思われたいだけに消費する行為の解毒剤として最適なので、みんな読みなさい。早く読まないと、時代に取り残されちゃうよ。2010年代のクリエイターズ・バイブルだね、この本は。
みんなもうさ、中身のない自分を無理やり肯定するためにアートを利用するのはやめようよ。空っぽな自分を直視して、中身ある人間になるために努力するべきじゃない? ソクラテスもプラトンも、みんなそうやって大きくなっていったんだよ。
あー書こうと思ってたことを先越された。
http://d.hatena.ne.jp/si-no/20111124/1322144982
「ゲームセンターでは、上級者が初心者を駆逐するような空気を作ったせいで、格闘ゲームというジャンルそのものが縮小した」と聞きましたが、今のインターネットも上級者しかいないゲームセンターみたいな窮屈さを感じるんだ。
まぁそういうことです。
真性さんに端を欲する「俺達のインターネットの終末と最後の希望」だけれど、もうこの手の話は食傷気味だ。
みんな、インターネットにかんする窮屈さや空気の停滞は感じてた。
でも、今まではこの話しを直接するのを避けて、
「俺たちの」ゲームセンターやら「俺たちの」アニメの衰退という少し狭い範囲で代理戦争をやってた。
でも、内容は上で言われている「俺たちのインターネット論」は所詮ゲームセンターについて語るのとほとんど同じなんだ。
それが、ついに真性さんというカリスマの記事によって、インターネット全体の話として持ち上がった。そーいうことだ。
とはいえ、結局は「俺たちの遊び場」の興隆と衰退の話をしているに過ぎない。
同じような問題は、違った場所で、すでに何度も繰り返されている。
ただそれぞれの当事者が、別々のものだと考えて、別々に騒いでいるいるに過ぎない。
何度もくりされる、避けようのない道なのに。
今のインターネットは自分にとって最適ではなくなった。ただそれだけだ。
それに対して、自分たちで自分たちの望む場を作ったり、場を再び盛り上げようという程の気概はない。
所詮そういう奴らは内田樹のいうところの「下流志向」、つまり、「消費者意識」から抜け出せないのだ。
ただ要求するだけなのに建設的な意見を言ったつもりになって満足し、
結局それを作り、与えてくれるものがなければ自分たちには何も出来ない。今度は批判して憂さを晴らすだけだ。
やってることは自分たちにとって最適であった過去を嘆くばかりである。
新しい動きをただ自分にとって最適でないという理由だけでこき下ろし、批判する。若くして老害の出来上がりだ。
老害とは過去にしがみつく亡霊のことであるが、なぜそれが生まれるかというと、
消費者意識から一歩も脱却せず、自分の狭い目線から一歩も離れず、過去を望みつつも過去から何も学ばぼうとしないからだ。
「俺たちが○○を作った」「俺たちが○○だった」
勘違いしてはいけない。自分たちは、たまたま興隆期、全盛期に運良く立ち会っただけに過ぎない。運が良かっただけだ。
自分たちはただのネット団塊世代にすぎないのだ。最初だから無茶が聞いただけだ。それが許されただけだ。
そんなものはインターネットの本来の姿でも何でもない。インターネットでできることはそれだけではない。
嫌ならさっさと逃げ出せばいい。別の対象を見つければ良い。
とにかく、自分が望んでいるものだけは既に無い。自分を肯定してくれる「俺達のインターネット」はない。それだけだ。
っていうかさ。ネット団塊世代として、十分すぎるくらい貯蓄貰ったべ。財産築いただろ?まずその棚卸しようぜ。
もう社会やら世の中が自分を肯定してくれなくたって、十分老後を自活していけるだけの蓄えはあるだろ?
ネットで作った友達とか、そこで得たやり取りが経験になってんだろ?
その財産を元でに、自分たちの遊び場くらい作れるだろ? 自分で何とかしろよ。
なってなかったらそりゃお前のせいだ。 インターネットに生活保護はない。神様もいない。
幸運なネット団塊世代に生まれていながら、何一つ築いて来なかったなら、それはただの怠慢だろ?
サボってた奴が、偉そうになにかいう資格までは「俺たちのインターネット」でさえ許してないと思うぜ。
自分たちより若い世代は、ネット興隆期も全盛期もしらない。そういう幸運な環境を与えられなかった。
その中で、必死に自分たちの生きる道を探そうとしてんだ。俺らよりずっと立派にやってるよ。
ソーシャルゲームやらニコニコなんぞというもので満足しようと自己暗示かけてんだ。
自分たちの欲求を極限まで制限したり変形させたりしてなんとか適応しようとやってんだ。
蓄えがないところから、自分たちの生きる場所をつくろうとやってる連中に対して、邪魔はすんな。
それなりに理解しようと努力するか、それができないならクチをつぐんでただ見てろ。
そいつらのやってることがダメだとか間違いだとか言うなら、自分たちが示してやれよ。
過去の回想とかいう非現実的で、企画力ゼロの妄想垂れ流すんじゃなくてよ。
別に今からでも自分たちに最適な潮流を生み出しても構わないんだぜ?
ただそれは、今までみたいにクレクレ君としてじゃなく、自分らで作り出すべきだろ。
もう俺たちは、社会やインターネットに何かを期待してるだけの幼年期を卒業させられてんだよ。
とっとと与える側、期待させる側、なにか作る側にとりかかれ。いつまでブヒブヒやってんだ。
追記。私もこれについて全く理解できてない。この部分理解してもう一回「俺たちのインターネットの終わり」について考えてみたい。
私も「どうせ終わりなんだから深く考えるな」「全体が終わっても俺は生き残れるからどうでもいい」って乱暴に考えてた。
でもこの衰退はどういう形だったのかってのはもうちょっとまじめに考えたほうがいいのかもしれない。
ttp://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2011/11/post-474d.html
わたしは「危機」について分かっていない。本書では、「危機(crisis)」「暴落(slump)」「バブル崩壊(collapse)」が同じ意味で使われている(ように読めた)。景気循環の下降局面なら「危機」、資本の限界効率が急落し、みんなが現金を欲しがっている状態を「暴落」、さらに過剰投資(=バブル?)が行過ぎて、期待収益がゼロ以下になることを「バブル崩壊」と呼んでるみたい。いわゆる「バブル崩壊」は、そんな景気循環から外れた、日本だけの極端な現象だと思っていたが、ケインズも指摘しているくらい「予見されたこと」なのだろうか
ももクロは今より売れる可能性はあっても、アイドルにおいて覇権を握る、今で言うAKBのポジションに着くことは到底有り得ない。その理由を記述する。
(1)ファンが批評系
もう、これでここで言いたいことの8割は言ったのだが、今のところ”ファン”を自称する人間のその多くが批評的な人間であるということだ。
AKBもかつてはサブカルだった。どサブカルだった。秋葉原に劇場を持ち毎日公演を行い、謎の選挙システムを有する。いかにもである。しかし、このAKBの流れを汲み取り切れなかったのが2000年代後半のサブカルチャー批評だった。かつて文芸批評家の宇野常寛氏は、ニコ生の番組において「2011年に入るまでAKBに注目できなかったのは失態」と語ったことがある。
AKBは上記にあるように、サブカルを代表させるにはうってつけのシステムを持っていた。これを批評的に分析できたとしたら、どれだけ楽しかったことか。そして今の流行を先見の明を持って解き明かせたら、どれだけどや顔できたことか。しかし、その間もなくAKBはサブカルとは呼べないレベルの現象になってしまった。
今更AKBを語るのは、サブカル的には”カッコ悪い”。(前述の宇野氏は、現在ではAKBの批評的分析を、同じく批評家の濱野智史氏と共に行なっている。このあたりは、ポップカルチャーを批評対象とする宇野氏のスタンスに適っている。)
しかし、AKBには一個弱点がある。それはデカくなりすぎたことだ。デカくなればそれの粗探しも容易である。後は、「じゃあ何だったらいいんだよ」と返されたときに持ちだしてこれるモノがあれば良い。
ももクロ以外のモノではダメな理由がある。それは、現在ももクロ以外の各レーベルが売り出すアイドルグループは、方法論やコンセプトがあまりに凡庸、古典的なのだ。
「◯万人の中から選ばれた◯名」「毎日長時間のレッスンを重ね、△△より上手い、歌とダンス」
こんな売り文句に飛びつけるわけがない。
そして、ももクロでなければならない理由もある。
そもそも、AKBのコンセプトとは何だったか。それは「会いに行けるアイドル」である。
対してももクロのコンセプトは。そう、「いま、会いに行けるアイドル」である。
ももクロの結成は2008年。この時、既にAKBは前年に紅白出場を達成、またCDの販売方法が独禁法に触れる恐れがあるとして販売中止、回収騒ぎになった年でもある。
当然ももクロ側にも、メジャー化して「会いに行ける」というコンセプトの維持が難しくなったAKBへの対抗意識があったことは間違いない。
この、売り出し側の「アンチ・AKB」的方法と、買い手側の「アンチ・AKB」的精神の癒着により、現在のももクロ人気は成立している。
そして、この一点のみで自称ももクロ”ファン”は、ももクロ”ファン”を公言している。AKBによって市場規模の大きくなった「アイドル業界」において、敢えての選択としてAKBではないグループを応援するという、サブカル的精神にとって心地よい味を提供してくれるのがももクロというわけである。
そして、この手の”ファン”は、小規模な経済活動である間は良いが、規模の拡大に寄与しない(大量購入などのオタク的消費は行わず、あくまで必要最低限のモノしか買わない)うえに、そもそも規模が拡大していくことを嫌う。
小規模の間は、勝手に”ファン”がももクロのいちいちの行為について言説的補強を行なってくれるので、界隈の巻き込み力がある。しかし、その界隈も一定数を超えると限界が出る。しかもオタク的消費を好まないから、数の飽和イコール売上の飽和ともなる。(ここでは、大量に購入させるような商法(いわゆるAKB商法)が倫理的にどうであるかとの問については答えない。簡単に私見を述べれば、独禁法に触れるようなもの、つまり付録のバリエーションを増やし購買意欲を煽るようなものは問題であると思うが、握手券や投票権を求める購買行動については売り手側の責任は無いと思われる。)
以上が、批評系”ファン”が多数を占めることによる弊害と言える。
(2)可愛くもないし、一生懸命でもない
というのは流石に言いすぎだが、他と比べてそこが際立つわけではないということである。
よく、”ファン”はこの2点を強調する。そして、「だからこそAKBより良いのだ」という。
ただ、言いたいことはわかる。
例えばAKBのファンも「◯◯が可愛い」と言う。この◯◯には、例えば高橋みなみとかが入るわけだが、はっきり言って可愛くはない。「前田敦子が1位である意味が分からない」という声もある。
こういう場合、その対象がAKBであろうとももクロだろうとなんだろうと、ファンたち何も容姿の美しさ単体で「可愛い」という形容詞を付けているわけではない。そこには、それぞれ固有の物語、コンテクストを見出して「可愛い」と言っている。それがAKBで言えば、「エケペディア」に象徴されるデータベースから個人個人のエピソードを上手く消費するという行為であって、そしてそのパブリックなコンテクストに加えて握手会というプライベートなコンテクストを加えることで、ファンのメンバーに対する<愛>は蓄積される。
だから、オタク層以外には「AKBで前田敦子が1位である理由」なんて分かるはずがない。というか必要がない。そのコンテクストを共有していない人間に理解される必要などないからだ。
貴方達は皆、ミス・ユニバースの選考に100%納得しているのか。ミス・ユニバースは、ミス・ユニバース内部のコンセプトに基づいてミス・ユニバースを決定するのである。そこにおいて、容姿というのは評価の1項目に過ぎない。その点を理解している人間がどれだけいるか。
この理解で言えば、「ももクロのメンバーが可愛い」というのも同じ文脈で捉えることは可能である。しかし、ここに一点だけ差異がある。
前田敦子が可愛くないとみんなは言う。なるほど、確かに私もそう思う。(ただ、たまに奇跡的な瞬間があることも知っている)
では、テレビでそれを言ったらどうなるだろうか。本人の目の前で「可愛くないねー」と前田敦子に言ったらどうなるだろうか。Mステでタモさんが前田敦子に「顔のパーツ中心に寄ってるよね」と言った時のスタジオの空気を知らないのか。
著名人のAKBに関する批判的コメントは多数ある。ただし当人がいない所で、である。このことが結構大事であって、それは「そんなに可愛くなくても可愛いものとして扱われること」が究極的なアイドル性だと考えるからだ。
前田敦子はその点で究極的である。一方でコンテクストを持つオタク達による支持を受けAKBのトップとして君臨し、もう一方ではそのコンテクストを持たない一般メディアにおいて「AKBのトップ」であるということを理由に支持される。この時、両者は同じように前田敦子に接しているように見えるが、その内実は異なる。
前者は本当に可愛いと思っており(何故ならコンテクストがあるから)、後者は可愛いことになってるから可愛いとしているだけである。(何故ならコンテクストがないから)
そしてその内に、そのコンテクストを持たない者の間にも「可愛い」という意識は一部に伝染する。あくまでも一部ではある。板野友美が女子高生に人気があるというのが都市伝説かどうかは、私には接点が無い存在である故確認できないが、そういう可能性がありうるのがこのような状況である。
可愛い人に可愛いというのは当たり前だし、ブスにブスというのも当然である。そこを転倒させることができてこそ、真のアイドルではないのか。(筒井康隆「薬菜飯店」収録の「イチゴの日」という短編を見よ)
翻ってももクロを鑑みるに、この点が厳しい。コンテクストを共有する者の間で「可愛い」は流通するかもしれないが、コンテクスト外のメディアにおいては厳しい。(「ゴッドタン」をはじめとするバラエティ番組での扱いが顕著である。ただし自らの冠番組においてMCの芸人にどう弄られようと、それはファンにのみ流通するパブリックなコンテクストを補強するイベントに過ぎないので全く問題はない。)
つまり、ももクロはアイドル性を保つのが困難なほどバラエティ性を現時点で持ってしまっているので、コンテクストを持たない者に「可愛い」が流通しにくい状態となっている。
だから「可愛い」と認識させるためにはコンテクストを持たなければならないわけだが、ここでももクロ”ファン”が批評系であることが弊害になる。
彼らは口うるさい。見る前からあれがいい、これがいいとこれ見よがしに自らの批評眼をアピールする。そしておそらく、この手のももクロ”ファン”はAKBオタクなどよりも、音楽偏差値(というものがあれば)は高いし、現代思想にも詳しく普通の意味での偏差値も平均すると高い。
皮肉にも、このことがももクロを好きと公言するのに、もしくは積極的に見ようとする心に障害となる。
彼らは知りすぎている。目が肥えている。そんな彼らが「良い」と言うのだから、「良い」に違いない。しかし見てもよくわからない。可愛いような気はしないし、踊りもなんだか凄いがとりあえず可愛くはない。けど「良い」らしい。なぜ僕はわからないのか。
対してAKBはどうか。オタクはキモい。なんかオタ芸してるし、CDはめっちゃ買うし。だからあんなものを理解しなくて構わない。仮に少しでも引っかかることがあれば、とりあえずそのままその波に飲まれてしまえばいい。どうせ彼らオタクは周りに新しいファンが増えようがどうでもいい。どうせならもっと売れなくなればチケットも取りやすいのにくらい思ってる。
私は、このコントラストが大雑把にはあると思われる。そしてこのことが、「可愛い」というお札が流通しない/する要因となっている。
もう一つ、「一生懸命」について言えば、この言葉はかなり頻繁にももクロを持ち上げるものとして使われるが、端的に言おう。
そんなのみんな頑張っている。ただそれだけだ。
ダンスや歌のレッスンは、皆どのアイドルグループも一生懸命やっているのだ。所詮、「アイドルなのに顔芸をやる」という点においてのみ「一生懸命の差異」を見出してるにすぎない。
私がここで「自称」とか「ファン」を” ”で括るのは、彼らが本心からの好意ではなく、「AKBというサブカルの隆盛を見抜くことができなかったコンプレックスの解消手段」としてももクロを利用しているように見えるからである。
結局のところ、ももクロを今以上に流行らせ、AKBに取って代わりたいのであれば、自称ももクロ”ファン”達がそれを名乗るのを辞める他ない。
早見あかり頑張れ。
http://anond.hatelabo.jp/20111106092420
大学選びのコツ。
この先、キビしくなっていく世の中で「学歴」っていうのは非常にコスパのいい資格で、その一方ある程度以上の
ものがないと「無いも同然」になりかねないものだと考えた方がいい。具体的にはマーチ-駅弁未満の特色のない大学とか入るだけ無駄。あと、美大・音大に行く奴は夢と心中する覚悟を持っとけ。文系院志望は更にだ。東大でも進路に自殺が見えてくる。
「偏差値」が重要なのではなく、大学名の肩書きが重要だってことは覚えておいた方がいい。
高校生だとピンと来ないだろうけど、最早「まともな暮らしがしたければ学歴は絶対必須」って世の中に突入してる。
「普通の暮らし」って高校生が思う以上にハードルが高い。親世代のようには我々生きてけないだろうから。
①進路が明確な場合
例えば「船乗りになりてえ」とか「教員!」とか言うなら、それぞれベストに近い大学があるのでそこに行こう。出来れば、その界隈最高峰の大学へ行こう。教員なら学芸大、船乗りなら海洋大学みたいな「就職超強い大学」が一個くらいはある。しかし、この場合覚えてほいて欲しいのは「現場作業員」ならそのレベルでも到達できるけど、「日本郵船で新航路を開拓してえ」とか「日本の教育制度を改革してやらあ!」みたいな野望は、この手の大学ではかなわない。自分が現場で働く人になりたいか、それとも指揮をし企画する人になりたいかは、十分考えて進路を決めよう。ぶっちゃけ、進路が決まっていれば大学の段階でそれが叶うか否かは8割くらい決まる。スゲー大事。超悩もう。
②進路があやふやな場合
文系なら、とにかく必死こいて偏差値の高いところ。具体的に言えば、私大なら早慶以上、国立なら旧帝以上に入ろう。
学習コスパが高いのは早慶。三教科で受かる割りには社会的評価が高い。ぶっちゃけ、底辺国立に入る実力があれば早稲田慶応なんて入れちゃう気が俺はしてるんだが、何故こんなに社会的評価が高いんだろうか。その辺りを勘案しても早慶はお得感があるな。デメリットは学費。高すぎだろクソが。
理系の場合は、自分の適性に見合ったところに行こう。若干就職は文系に比べて有利だ。ただ、大学生活が文系に比べてダルいと聞くので、好き嫌いで選んだ方がいいんじゃないかと思う。俺文系だから知らないけど。
大学の価値は「肩書き」以外に、「人脈」っつーものがスゲー多い。例えば、俺は早稲田の出で起業した人間だけど、大学のときの人脈がなければ起業なんてまったく覚束なかっただろうと思う。借金抱えて早稲田に通った甲斐はあったと思ってる。
ただ、貧乏人が私大に行くとカネの面で相応のリスクになることもあるので、そこは自己判断、自己責任。
んで、一定レベル以上の大学は、金持ちの師弟が非常に多く、また一流企業に勤める人間も多いので、人生通してかなり使える。スゲー便利。また、学閥っつーキモチ悪いコネクションも日本社会には蔓延ってるので、これもかなり使える。どこの企業に行っても、東大・早稲田・慶応の門会は大体ある。俺も外資含めて企業3つハシゴしたけど、全部あった。特に早稲田。ゴキブリかおまえら。
たいていの人は初めての就職活動が終わって内定者の学歴を見たときに「うわ…学歴って大事なもんだな・・・」と思うだろう。
東・東・東・ハ・慶・東・東・東…みたいな学歴って大企業だとフツーだからね。「俺低学歴ワロタ」って感覚になる人も多いと思う。俺そうだった。
③学びたいものがあるが、それは進路には特に結びつかない可能性が高い時
「文学やりてー」とか思ってるヤツ。俺もそうだったけど、コレ辛い。
特に、大学でやりたいことをやるには必然的に「院」って選択肢が浮上してくるが、やべーこれ詰むぞ?って感じになるよね。
俺も修士出だから結構怖かった。これ対策は、「やりたいことをとにかく必死にやる」。ことしかないと思う。
だってさ、大学って就職予備校じゃねーんだからやりたいことをきちんとやらないと意味が無い。
じゃあ、どうするかって例えば俺は文学を専攻したんだけど、そーいうの必死でやれば普通語学くらいつくだろってことだよね。
院試で英語使うしさ、TOEIC800とかまで最低でも伸びるだろうと。一生懸命勉強して、結果として付加価値をつけるしかないと思うんだよね。それでも、結構な高確率で就職詰むけどさ。個人的に、就職のことだけ考えて大学を選ぶのは薦めない。おもしろくねーし。大学選びは「やりたいこと」でいいと思う。ただ、その中で自分の付加価値を発見するなり習得するなりしてけないと、この先しんどいだろーな、と思うよ。それでもダメなら公務員試験。あれもやりゃ受かるし。Ⅰ種の難度は過大評価されすぎてると思う。やれば受かるレベル。ただ、その先の面接は「俺低学歴ワロタ」になるから早稲田・慶応辺りだと場所によって辛いが。
なんにせよ、高校生に大事なのは「何がしたいか」「どうなりたいか」の明確なビジョン。
高校一年生なら、とにかくこの将来のビジョンを作ることに専念したらいいと思う。目標が出来上がってれば結果なんてついてくるし。
俺の場合、小説大好き⇒文芸批評家になりてえ⇒早稲田だったけど。こんな冷静になれば「それ食ってけると思ってたん?」って夢でも、大学受かるくらいのモチベーションにはなる。それが大事。今の高校生さんだと、多分大学入試のモチベーションも捻出できないと思う。1年生なら東大まで十分射程距離に入るし、よく考えてよく選んで欲しい。俺この歳になっても「二浪までなら東大目指せばよかったな・・・真面目に数学やってりゃ…」って思うことがある。東大・京大・一橋辺りは入試難度が別格なんで、高校3年の秋から勉強しても受かる時は受かる早慶とは比較にならんほど、早いうちに進路決めたやつが有利。逆に言えば、「三年ありゃ東大は受かるんじゃね?」と俺は思ってる。受かったことねーけど。受けたことはある。落ちた。日本は何やるにせよマジで東大最強伝説なので、東大いけるんなら進路なんて一ミリも考えなくてもOKってフシはあるんだよな。
高校一年生で進路も全く見えてないんなら「とりあえず東大目指す」ってのは戦略としてかなりオススメ。「自分は東大なんてムリだな…」と思うなら、早慶狙いの三教科特化に切り替える手もあるけど、ぶっちゃけオススメしない。旧帝狙いとかなら東大狙いがミスった結果で受かるだろうから、一年生は目標を大きく持った方がいいと思うよ。
現状では「良い批評を落とすのならば、金は落とさなくても良い」という思想は受け入れられない。
そんな思想は初耳だよ。
それ言ってるのは俺でもそのお友達でもなく、君だけだろう。
つーかまず
と
でも金落としてる人間の前で、同じ土俵で批評家気取るのはやめた方が良いと思う。
というかやめてください。
の区別をつけてね。
その上で、
批評の良し悪しというのは
「批評主体がそのコンテンツにどれぐらい金をつぎ込んだか」とは関係しない。
(君がいま語ってるのってもはや「批評」の話ではなく「お布施ランキング」の話になってるよね。)
「たくさんの人に評価される、良いレビュー記事を投下してくれるなら、ゲーム代はタダでいいよ!」ってシステムになったとして、
君のそのお友達は
「たくさんの人に評価される、良いレビュー記事を投下してくれるなら、お代タダでいいよ!」
っていう特別な料金免除のシステムなり論理なりを使ってるから、けいおんに金落とさないの?
違うよね。
そんなシステム無いし。
「けいおんのソフトやグッズを買ってない」「けいおんを語るのは好き」というのが別々にあるだけ。
「けいおんを語るのが好きだからお金を払わないで済んでる」んじゃない。いいよね。
「たくさんの人に評価される、良いレビュー記事を投下してくれるなら、ゲーム代はタダでいいよ!」ってシステムになったとして、お前はお前のレビューを他の誰かに評価されたいかい? そして、劣の評価が出てしまった場合に、ゲーム代を支払うのかい?
なぜかそれを相手の主張のようにすり替えたうえで「それでいいのかい!?」とか言われても
更に話が混乱してるけど
どんな関係や共通点があるんだ?
こないだ友人と話してたら「俺アニメでけいおんが一番好きなんだよね!VIPでSS書いてまとめに載ったりしてんだよね!」とか言われたんで、
趣味に金を惜しまないタイプの私は「へえ~じゃあ今度の映画の前売りとかいっぱい買っちゃったりしてんの?」と質問しました。
そしたら、「え?」と言われてしまいました。
「いや……。俺は無料で提供されてるものだけで満足できるタイプだから……あんまり金とかは使わないかな」
彼はまるでダディクールのNO THANK YOUのAAのような顔をしていました ※けいおんと掛けた高度なギャグ
私は途惑いましたが、まあそういう楽しみ方もあるか、と思って「そうですか」と答えました。
彼はその後ひとしきりけいおん論を語ったあと、同じ席についていた前売りを全種揃えたけいおんファンに向かって
「おまえって貢ぐタイプだよねwww」と言い放って去っていきました。
ほんとにね、好きなもの(コンテンツ産業に限る)に金を落とさない人間のことが信じられない。
いや嘘だ。別にいても良いと思う。
でも金落としてる人間の前で、同じ土俵で批評家気取るのはやめた方が良いと思う。
というかやめてください。
わたしあんまりこの手の本知らないので、おすすめの本あったらおしえてください。
読書について 読書廃人以外が読むと発狂。廃人には解毒作用があるらしい。
<廃人の壁>
よくわからないけど東さんが書いてる本とかはこのあたりなんじゃないかと。脱構築の壁?
<批評家の壁>
批評理論入門 フランケンシュタインを読む
<物語の壁>
本を読む本 ただ読んで終わりではなくてそこからなにかを得たい人
<アウトプットの壁>
読んでない本について堂々と語る本 なんのために本読むかを考える
<ラノベの壁>
打たれ強くなるための読書術入門 ラノベ以外の本を読んだことない人向け
<ハックルの壁>
「アンチ」呼ばわりね。
むしろ今頃気づいたのかよアホかよって言うレベル。
曲がりなりにも作品批評や批判をして
単なる作品批評に対して人格攻撃と受け取る、みたいな反応は少ない。
自分は2chやふたばでアニメ・漫画のスレッドに参加することが多いけど
穏やかな口調での部分的な批判にすら「アンチは出て行け!」と大騒ぎする人の多いこと。
たとえば「今週の作画ちょっと荒れてたね」とか「あの設定と今週の内容は矛盾してない?」ぐらいでも
もう大噴火して怒り狂う人がいるんだよね。それなりの数。というかそれが多数派。
どう見ても作品自体を否定してるんじゃなくても
「アンチ」として扱おう、排除しよう、と強情になるし、
だいたい仮にそのアニメの「アンチ」だとしてもそこまで感情的に対応するのはおかしい。
彼等の特徴は実は2つあって
「批判=作品否定と読み替える」の他に
「作品否定=それを見ている自分達への人格否定と捉える」が備わっている。本気で。
しばらく見ていて彼等の気持ちを理解したんだけど
「すごいイイよね」「みんながイイって思ってるよね」という確認、
だから極端な話、
「語り乙!」とか「批評家乙!」とか言われてる。3行以上はアウト。
推奨されるのはより動物的な、「萌えーーーー!」みたいな、群れ動物の鳴き声みたいなレス。
考えてレスする奴は全部ウザい、っていうのが当今のネットオタクコミュニティの正義。
逆にはてなとか評論クラスタは考えすぎて頭パンパンみたいな人が多いんだけどw
ちょうどいい塩梅の場所が絶無だなw
そもそも対アメリカの貿易摩擦で今こっちの産業がそんなにやられてるのってあるか?
テレビコンテンツはアメリカから買ってるのが結構あるけど、それはもうギブミーチョコレートの頃から戦略的にやられてたことだからほとんどの日本人にとって自然化しちゃってるだろ。それがいいか悪いかは置いといて、新興の韓国コンテンツとは受け止められ方が違うのは当然だと思うが。
その一方で、もちろん、文化的にそういうものを批判する視座はあった。古めの批評家にはそう言う人も多い。
アメリカが対日貿易摩擦でジャパンバッシングをしたことはあったが、それはアメリカの異常なネトウヨの異常な差別思想の現れなのか?
今私は、鬱状態で仕事を休んでいる。フリーランスのアーティストとして10年ほど。その半分以上を海外でくらし、今もヨーロッパの片隅にいる。
カオスラウンジというグループ、全く知らなかったが、なるほど、人々の怒りがよく分かる経緯だった。
面白いので、コラにはコラに対抗ということで、代表藤城嘘の作品や彼の写真をphotoshopで10分ほどやっつけでコラした絵をPixivに投稿。説明なしのアカウント削除→IPアドレス指定拒否→串刺しIPでの再UP→瞬殺アカウント死亡 などを繰り返して遊んだ。
http://www.rupan.net/uploader/download/1311933348.jpg
で、私の意見。
これ、日本の芸術にたいするマーケットのあり方や、芸大における教育とか、そういうことが根本にある。
まずマーケット。
これは日本だけでないけど、マーケットって、ようはお商売の世界。売れればいいの。芸術家も、批評家も、生活あるから、お金にしなくちゃいけない。
で、やっぱり、売れたものはみんな金魚のふんみたいについていくの。それは仕方ないこと、どこでも。
そのために役にたつのが権威(power)。カオスラウンジは村上隆と美術手帖がそのicon。
私は両方とも死ねと思っている。(殺害予告ではありません… 念のため) 正直。
村上隆は売れた。それはいい。オメデト。尊敬。でももともとサブ・カルなのに、権威的にふるまう?どうして?
本流に対してのalternativeなありかたとして出した、その経験の意味は?
美術手帖。いつも売れ線をおっかけ。責任おわない。コンテクストが脆弱(消極的な取材が透けて見える)。しょうがないけど。お商売だし。でももうちょっと、光を見せてよ、せっかく日本のマーケットで権威もっちゃったんだから。
僕は90年代に青春をすごしたから、今の日本の若い人とちょっと感覚ずれてるかもわからないけど、その時の感覚からすれば、分かる。
日本の人って、権威に弱い。テレビとか、どっかの大学の先生とか、批評家とか、マーケットとか、あとは身近な友人や家族なんかの意見にも。
もちろんどこでもそうだけど、日本はちょっと過剰だなーっておもう。
今自分が見てるもの、聴いているもの、食べているもの、感じているものを、どうやって、「いい」か「悪いか」判断できるだろう?
日本の人は、まず周りをみる。周りの様子にノル人、ソル人…
僕が暮らしいるところの人たちは、まず自分のフィーリングを聴く。で、それから周りの人も見る。それから、どうするかと考える。
yap, subjectは結局おなじなんだけど、順番が違うんだよね。僕がくらしている人たちは、まず自分の意見が先にくるんだよ。
例えば、スーパーマーケットにいって、入り口に物ごいがいる。ああ、かわいそうだなって思ったら、こっちの人はお金渡す。
日本の人は、まず、お金わたす自分の姿が周りからみてカッコワルイ、アタマヲカシイ?、ってかんがえて、無視する。
全員がそうでないけど、そういう傾向が、ある。
この順番が、カオスラウンジの人たちの行動にもよく見える。
http://d.hatena.ne.jp/lie_fujishiro/20110625
端的にいうと、ダサい。カッコワルイ。
同じ芸術家として、引用とかサンプリングについての立場はちょっと分かるよ。ちょっと。
でもさ、想像力って彼らは持っているんだろうか?
例えば満員電車の中で私が突然うんこしたら、みんな嫌がるだろーなーって、なんか創造できる、だから私はうんこしない。
やべぇ、うんこもれそう、もうしぬぅーーーーってなっても、みんな嫌がるだろーなーっておもうから、我慢して、次の駅までまって、でダッシュ。
ま、動機はカッコワルくなりたいってのもあるだろうけど、まぁおんなじように。
で、カオスラウンジの人たちは「ウンコしたい」で、すぐウンコしちゃってる。ブリブリ。
ネットのオタク文化いけてる、売れそう、俺好きやし、カッコええやん、よっしゃ、これで俺の作品つくったろ。
一方的。想像してない。それで誰が傷付くか。
みんな同じようなネタをずーっと話してたり、コラしてたり…。純粋だなーって思うのと、あと普通だなーって思う。
世の中の多くの人たちが、文化については保守的。日本をみたら、なんで演歌や歌謡曲が未だに紅白で重要な立ち位置を持っているかということ。
そういう人たち(=普通の人たち)の気持ちに思いを巡らすのが、やっぱり普通の人であるところの、普通の芸術家でないの?
少なくとも、私は自分自身芸術家としてそういうスタンスを譲らない。
あるいは、もし自覚的にそうした『普通』に対する反抗であるなら、最後までヤリきらないと。
炎上したから?ビジネス・パートナーが予定していた商品をキャンセルしたから?周りのエラい批評家にお説教されたから?
本当に反抗したいなら、まず梅沢ナントカという友達の作品を正当化して、ウルセェ、テメエラなんもわかっちゃいねぇんだよっていって、もっともっと同じ手法で作品を創らなくちゃ。で、その路線で別のパートナーをみつける、そこまでいかないと。
この謝罪、カッコワルイよ。
たぶん村上隆が翻ったのも、この日和見的なところ(態度)で、ア、コイツラ、シロウト。ってみやぶったんだと思う。
で、彼らがここまでやってこれたのが、日本の芸大etc.における芸術教育の影響だろうなぁと。
「売れる」ことを考えすぎ。たぶん、日本におけるfine artの伝統の不在が起因なんだろうけど。
自分が、一人の人間が、今思い、考え、感じていること、そしてそれによって目の前にある作品や起きている事象にたいする疑問を素直に「どうして?なぜ?」と問いかけること。こういう当たり前の姿勢がどうして求められないんだろう?
タマタマ自分がやっていることが売れ線だと。で、エラい批評かなり、curatorなりが、ヨイヨイ、といって、金だして、仕事なりコンタクトわたしたりして、ま、同業者として分かるっちゃ分かるけど、それで、自分がやっていることは全肯定できるのだろうか?
酔いが回ってきたので、またそのうち続きを書こう。
カオスラウンジには覚悟が足りない。他者の作品を切り刻んだり水をかけたり踏みつけたりといった具合に破壊しようとする時点で、相当数の作者から少なからぬ反発を受けるであろうことは容易に想像できる。それでも、彼らがその信念に基づき、他者と和睦的対話を取ることなく、その作品を勝手に使うのであれば、作者からの批判に甘んじて受け入れなければならない。それができないのであれば、彼らの(括弧書きの)「アート」活動は児戯にも劣るただの慰みであり、他者=社会からの逃げに等しい。
そして、カオスラウンジの創作物には、言わば「オーラ」がない。たとえ他者の作品を勝手に使おうとも、彼らの創作物が強烈なオーラ、すなわち批評性・メッセージ性・インパクトなどの人の心を動かす力を備えていれば、それは勝手に使われた作品の作者にも受け入れられる可能性がある。しかし、カオスラウンジを賞賛する声は批評家や評論家などから上がるのみで、勝手に使われた作品の作者からは賞賛の言葉は全く聞こえてこない。これは、カオスラウンジの作品がその作者たちに受け入れられなかった、すなわちオーラがなかったことの証左に他ならない。
カオスラウンジが真に取るべきだった態度は「他人の作品は勝手に使うよ。作者からの批判だって? お前ら全員、俺のアートを見てからモノ言いやがれ!(ドヤァ」であった。同時に、その態度に見合うだけの作品を提示するべきであった。現実にはそのような作品はひとつも提示されず、自らは「望まれない存在」だとして活動拠点のひとつであるpixivを退会した。彼らが今回の騒動で初めて自らを「望まれない存在」と自覚したのであれば、勝手に使われた作品の作者に対する想像力に欠けていると言わざるを得ないし、既にその自覚があったのであれば、作者からの批判を甘受することができない、逃げの言葉であると言わざるを得ない。
http://twitter.com/hazuma/status/83734788913111040
東浩紀は若い連中切ったとか、人格に問題があるとか、いまの東は終わったとかいうまえに、東浩紀を超える批評家ひとり出せない自分たちの能力を反省しろよ。バカか。
ちなみにこのツイートの直前の発言はこれ。
http://twitter.com/hazuma/status/83733780975722496
逆にぼくからすれば、この論争はもう行くとこまで行っているから、批評家として介入するときは村上隆かカオスラウンジかどっちかとは付き合えなくなるだろうって覚悟もあって、それでここ数週間頭痛いわけだけど、それに較べると若い自称批評家連中はなんて適当でコウモリなんだと呆れ果てている。
クリリンしてる人が多いけど、上の発言は「若い自称批評家連中」に対するものだよね?
素人に対して「俺は偉いんだ」と威張っているわけじゃない。
宇野常寛「南京大虐殺が捏造か実在か、戦後民主主義が虚妄か否か、 好きなほうを信じればよい」 (宇野常寛『ゼロ年代の想像力』50ページ)
宇野常寛は南京大虐殺について、大きな物語が失墜したから捏造か実在か「好きなほうを信じればよい」と書いた。
意味不明である。大きな物語云々という話と、歴史学における個別の実証研究に、何か関連があるのだろうか?
加えて宇野は、自身の利益に直結する論争ともなれば、東浩紀を「嘘つき」だと批難する、実証主義の立場から反論した。
wakusei2nd:
嘘をついて自分の罪を後輩になすりつけ、それを彼我のフォロアー数の差を利用して論点をずらし、ストーリーをでっちあげてのりきろうとする人には無論ライダーの資格はない。無論会社社長や文学者の資格も。
東浩紀のツイッター論争テクニックは、とにかく自分の捏造したストーリーをフォロアー数の差を利用して喧伝する、というもの。だから今回も読者に証拠まで突きつけられているのに、そこはスルーして全力で別の話題にシフトしようとしている。もう誰もそんな手には乗らないし、呆れてものも言えない。
自身の利益保護についてだけ「実証研究」を求めるのは、明らかにアンフェアだろう。
youtubeに上げられた動画を見れば、宇野は笑いながら東浩紀に相槌を打っている。
東「知ってる?黒瀬が俺に言ったの。カオスラウンジのメンバーの一人は年収7000万なんですよ」
http://www.youtube.com/watch?v=qyV1okRD1rU
よく読めばわかるけど、この文字起こしは「宇野が黒瀬の年収は7000万と語った」などと書いてないよね。
そして東浩紀は、「宇野が黒瀬の年収は7000万と語った」などと責任転嫁していない。
宇野のいう「自分の発言を本気で僕(及びその友人筋)のせいにして押し通すつもりだった」という東浩紀像は、どうみてもフェアじゃない。
それに、あなたもustreamで「7000万ちょっと黒瀬君名言すぎるよそれはw」と参加しているじゃない。
自身も制作と流布に関与しているのに、<東の7000万発言がデマだとは知らなかった>という自分の(法律的な意味での)「善意(・知らなかった)」だけは絶対の前提にする。
しかし東が「善意」から“カオスラウンジのメンバーの一人”の年収を間違ったり忘れていたりしたかもしれない、という可能性は全否定する。
これはフェアな思考じゃないでしょう。
流布における瑣末な間違いを、さも論敵の能動的で極悪非道の悪意のごとく、繰り返し執拗に印象操作するのはどうなんだ?
どうやら、宇野常寛自身の「小さな物語」だけは圧倒的に正しいようだ。
しかも、東浩紀に対してだけではない。これまでも宇野の信じる小さな物語を害する『小さな物語』を語る相手には、高圧的な恫喝をくりかえしている。
「宇野常寛の想像力とかの批評」批判として成り立っているのかいないのか
はあ? そんなこと言った? あなたこそ勝手に人の主張を誇張して批判して悦に入っているだけでしょ?
RT @teramat セカイ系好きな連中はオタクのマザコン野郎でレイプ願望もってる、って冷静に考えるとありえないでしょw
wakusei2nd 2011/01/19 00:09:58
挙句の果てに「トンデモ」認定されました。批判する対象の主張を適当なイメージに基づいて罵倒して、ご満悦の人に。うわー。
RT @teramat 【結論】宇野さんはコンスタティブに読むとトンデモ。しかし「あえて」やってるのだとしたら、つまりパフォーマティブに読めば、これほど影響力のあ
↓こんな雑で恣意的なマッピングで無数の作家や読者を貶めてきた奴が、よく言えるよ。
http://nariyama.sppd.ne.jp/comment0707b.html#070722
これでも宇野常寛の自己イメージは「適当なイメージに基づいて罵倒して、ご満悦の人」ではないんだろうな。
どうやら、宇野常寛自身の「小さな物語」だけは圧倒的に正しいようだ(大切な事だから二回言いました)。
これらの振る舞いって、どうみても彼が批判する「決断主義者」そのものでしょ。
東浩紀氏は、「自分の思い通りにならない玩具は床にたたきつけて壊す」という人で、周囲に対してそんなコミュニケーションを繰り返してきた。しかしそれでは仕事仲間からも、読者からも信頼されない。僕はそのことを彼から反面教師的に学んだ。
wakusei2nd 2011/06/12 13:17:49
その結果が、今の「裸の王様」的な「東浩紀3.0」で、挙句の果てに堂々と嘘をつき、他人を陥れ、それが追求されても誤魔化すようなことを平気でやるようになってしまった。震災以降、言動が以前にも増しておかしくなってきたが、ついにここまで墜ちたか、と思う。
wakusei2nd 2011/06/12 13:19:40
そう思って周囲(僕含む)が、「東さんはそういうキャラだから」と彼の横暴と嘘と卑劣さを結果的に承認してきた。それがこのような事態を招いているのだと思います。RT @soujibucho: @wakusei2nd 東さんが子どもっぽいところがあるのは今に始まったことじゃないし
「結果的に承認してきた」とか言って、宇野は全ての罪悪を東浩紀に押しつけているけど、
例えば↓大澤信亮を東浩紀が批判したとき、宇野は 主体的に大澤バッシングに便乗している。
「責任を仕事で取る方法を探すつもり」)なんて曖昧模糊とした事を言う前に、まず公然と大澤信亮などに謝るのが、
もしも反省しているなら自然な感情だと思う。( http://twitter.com/wakusei2nd/status/79915073577025536 )
吉六会/AZM48による 大澤信亮+文芸誌へのクロスカウンター
大澤信亮: 枝葉末節をつっついて本題をなし崩しにする汚いやり口はよくわかっています。僕はべつにあなたたちを憎んでいない。
ただ、誰かに釣られて振るってしまった暴力をなかったことにせず、内省してほしいと思うだけです。
叩けそうなものを叩いてすっきりする敗北の人生や、子分として忠誠を示し続ける惨めな生き方を克服し、個として生きてほしいだけです。
要するに、全然信頼できないんだよこの人の言動。
決断主義批判していて自分が決断主義者だし、東と宇野というホモソーシャルな関係でとんでもない言葉の暴力の応酬に発展した点で、
同性間の友愛をもちあげてみても説得力が無いし。
宇野氏はまた、
「今回の震災で明らかになったのは、こういう事態が起きたときには、今あるリソースをどう活用するかが問われるということ。そういうときには、原理論ばかりをふりかざして、テンプレ的な批判を繰り返しても話はまったく進まない。中間的なものを考える想像力の不足を感じる」
これもね。
さっさと相反する2つの批評家をつなぐ「中くらいのもの」への想像力とやらを発動してくれよ。
議論における寛容さを。
口だけかよ。
AKBがこれだけ圧倒的な人気(話題・ネタ的な意味で)を誇る理由というのを考えてみた。
今や我々は、それはどのような歌なのか、と尋ねる以前に、それを作ったのは、どんな、いくつの、何をしていた人なのか、と尋ね始める。
新しく登場したアーティストは、やにわに、好みの食べ物、原発について、得意料理について、その他あらゆることを聞かれはじめる。
それがやってくるときには、すでに我々は作者の意図から経歴、批評家の意見、選評にその作者のスキャンダルまで知ってしまっている。
上記は30年前の本「ベストセラーの構造」の序章からの引用だが、
この部分だけから考えるとAKBはマスコミの「30年前のやりかた」に忠実なのかもしれない。先祖帰り的な何かを感じる。
別の言い方をすると「中身を見せると価値が落ちる」「幻想を守り、育てよう」ということである。
今のような、何でもかんでも一瞬で何でも暴き立て、幻想を踏みにじり、笑いものにして価値を貶めずには居られない、それでいて自分たちは謝罪一つ出来ないという、現在のお笑い主権的でうんざりするゴミのようなやり方に対するアンチテーゼ的要素が感じられる。いや、アンチテーゼではないか、単に元に戻ってきてるだけだから。まぁそんな感じ。
(ちなみに今から述べる内容は引用元の「ベストセラーの構造」の主題ではありません。誤解なきようお願いします)
「AKBの話題だったら歌さえ聞いていなくとも共有できる」
「ワイドショーさえ見ておらず、実際はAKBについて全く知らなくて思い込みで語っても許される。」
なぜならコアなファン以外は何も知らないからだ。話題になっているということただそれだけが話題のネタなのである。
いろんな「話題にしやすそうなネタ」だけをこれみよがしに振りまき、肝心の中身についてはコアなファン以外には見せない。
だれも詳しくは知らないんだから、だれもが適当なことをいえる。それがAKBがかたくなに守っている価値ではないだろうか。
この価値を守るためには(必要以上に)中身を見せてはいけないのだ。少なくとも中身で勝負しようという姿勢を見せてはいけないのだ。
むしろ実際はどうあれ「中身ないのに売れてます」というポーズをとったほうが話題になる。
このことをよくわかってるようだ。
これは最近で言うとエルシャダイのことを知ってる人なら同意されるだろう。
エルシャダイは、ムービーだけしか情報がなかった時代が最も流行り、ロケのプレイ動画が公開されたあたりで発売前に急速に鎮火した。
エルシャダイが悪いゲームなのかどうかはわからない。だがこれだけモノが氾濫している状況では、中身を見せてしまうと、中身で勝負しようとすると「凡庸」から先のレベルに進むのは難しい。美麗グラフィックではBattleField3には勝てるわけないし。ストーリーや演出となるとなおさら厳しい。そもそも「中身ではなくネタを消費するためだけに集まった人」に対して、中身を見せてしまうと、面倒くさくなって去ってしまうのだ。
AKBはこれと同じ愚は犯さない。
なぜならAKBは自らが純粋な中身だけでは勝負できないことを自分たちが最もよく理解しているからだ。
いい曲が全くないわけではない。だが、「普通によい」位で特別なな何かがあるわけではない。これに反論できるかたは居ないだろう。
だがAKB的にはそれで全く構わないのだ。コアなファン以外、誰も中身は欲しくないのだ。
ただ気楽に頭を使わずにドヤ顔で語れるネタが欲しいだけなのだ。
何かしらみんな考えなくてはいけなくなってしまうし、何より多様な解釈が生じてしまう。
歌や踊りを売りにしない。個々の女の子さえ売りにしない。「AKBというネタにしやすい何か」だけを売りにする。
いかに頭を使わせないか。いかに中身がユーザーに届かないようにするか、そこに意識を集中させているのだ。
というようなおはなし。
AKBのメンバーとファンとの間で対幻想を成立させるとかそういう形らしいですが
私はAKBインサイダーではないので、実際のところはどうなんでしょうね。
コアなファンにAKBの良さを教えてくれと頼んだらいくらでも教えてくれるし、
余ったCDもたくさん分けてくれると思うので興味があるならそうしてください。
以下は余談。上ではAKBマスコミの作法に忠実だとか書いたのだけれど、
そ~かなーと思うところもあって、上の話をひっくり返すような内容が続きます。
私はAKBを応援したりCDを買う人ってむしろ国民一般から乖離した両極部分にいると考えている。
そういう意味で昔の総中流、マスターゲット狙いとはちょっとやり方が違うと思ってる。
それこそ
・CDを大量に買って選挙に行ってまで誰かに猛烈に肩入れしたい人と
・逆に個性のない女の集まりをそれとなく応援することで、「一応好きなモノは持ってることにしたいけれども、好きなものを表明することによって自分の個性を覗かれるのが嫌」という、他者思考の強い人。
分かりやすく言うと、
・AKBしか好きなモノがない人と、AKBに限らず他に何一つ好きなモノがない人。
一体化するくらいのめり込むか、何も好きなモノを決めない人のモラトリアムとして利用するか。
そういう「使われ方」をしてるような気がする。
んで、一般的なAKB以外にちゃんと好きなモノがある人は、AKBをメッチャ応援してるようなことがないと思う。
AKBを見てると「依存」とか「避難所」って言葉が浮かんでくるんですよね。
その結果、私はAKBそれ自体は好きでも嫌いでもないのだけれど
AKBの周りで盛り上がってる人たちを見ると、やっぱり気持ち悪いし
「とりあえず」でAKBが話題として選択されるのはやっぱり気分が悪い。
AKBの話題になっても、総選挙とかなんだとかの話題になって、
いつまでたっても肝心の歌とか踊りの話にならない、誰それが可愛いという話にさえならない。
みんながみんなしたり顔でいろいろ周辺だけを語ってるのはなんなのだろうと思う。
「なめとんのか、彼女ら自身が好きじゃないなら話題に出すな」って怒りたくなるのだよね。
「とりあえず」とか「みんなが」とか「話題になってる」とかじゃなくて
ちゃんと「自分が」好きなモノをもって、それを語りあえるといいのだけれど。
追記
私もご指摘のとおりだと思います。
本当は私もそうしたかったんですが、下記の事情によりそこをあえて回避しています。
後半部分を読んでいただければわかるかと思いますが
自分の中でそこ(マス部分なのか、両極の部分なのか)を確信することが出来ていないという事情があります。
ゆえに前半にマスメディアおよびマス層の承認を受けているとしたら、という仮定で話を進め、
後半に本当にそうだろうか、という対案を立てる形になっています。
このあたりの迷いのせいで、うまくまとめられてかったり、言葉にオヤ?となるところがあるかもしれません。
結論を決めたつもりではないので、事情をご存じの方がいたらご意見いただければと思います。
追記2&実は結論
本当に言いたかったことまで論理を引っ張ってこれなかったため唐突になりますが私の主張を書いて終りにします。
要は、私自身が、リアルにおいてAKBの話題を拒否する自由が欲しいんですよ。
個人の狭い観測範囲内であることは承知の上で言いますが、私の身の回りではなんとなくAKBの話題が出てきて、なんとなくそれに応じなければいけないという気持ちの悪い状況が多く発生します。AKBの存在は私にとって嫌な空気を作り出している。あるいは以前からあったのかもしれない嫌な空気がAKBによって可視化されて、わたしの所まで届いてきている気がする。それを安易にマスコミの汚さみたいに言ってもよいのかどうかも今のところはわかりません(マスコミ自身でさえ顔をしかめてみせている。アレはプロレスみたいなものなのかなぁ)が、この嫌な空気はなぜ、どこから生じているのかというのが最初に立てた問であり、その暫定的な答えがこの記事です。この空気の仕組みを大まかでいいから理解して、うまく外に逃れる道筋をつけたいというのが私の望みです。そのために、全く興味のないAKBについて数日間ブログやニュースあさりをしてみたわけですが、予想以上に気持ち悪い結果になりそうな気がして今ひとつ踏み込めない感じです。
まだ宇野氏が「善良な市民」というHNを名乗り、ウェブサイトで萌えオタ批判に熱心だった頃、私は彼の言説と2ちゃんねらーの煽りとの区別がつかなかった。批評家っぽい言葉を使う2ちゃんねらーだな、と思っていた。その後、東浩紀批判を展開し、「東浩紀の劣化コピーがうんたらかんたら」と言っているときは単なる喧嘩屋だと思っていた。
今でも彼の言葉選びや論説には意地の悪さを感じるときがある。性格が悪いなあ、と思わず呆れる。
しかし、それでも彼とブログで息巻いているだけのほかの凡百の批評家気取りは違う。彼は「ゼロ年代は決断主義の時代だった」と主張し、その正当性は確かに認められ、コンテンツ批評の刷新に成功した。その際、展開したエロゲー批判、萌えオタ批判はいささか強引ではあったが、デスノートや仮面ライダーなどを俎上に上げ、「数字」という誰の目からも明らかな根拠でもって想像力の主流が変容したことを浸透させた。
また、批評の対象にジャニーズドラマやNHK連続小説を持ってきたことも見逃せない。これらの作品は大勢に受容されながらも、批評家たちのあいだでは「ないもの」とされてきた。コンテンツとしてまともに認識されてなかったのだ。宇野氏の活動が批評の対象を拡げたことは、確かな功績だ。
ほかの批評家気取りが有名な批評家の言葉を真似てしか語らないのと違い、彼は自分の言葉でほかの人間が語っていないことを文章にした。彼の作った言葉には「レイプファンタジー」「サークル貴族」などいまいちなコピーはあるが、「ゼロ年代」「サークルクラッシャー」は、これらの言葉が出てきたことでずいぶんと語りやすくなっただろう。そして、それら自分の言葉、自分の考えを雑誌にしたり、商業媒体に売り込んだりする努力を怠らなかった。
こういう人間って、オタク界隈の批評家もどきに多いんだが、本当にバカバカしい。
「聖職者」や「高校球児」という言葉がどういうイメージを持っているか、それをあてがわれた人間が、どれだけ些末なことで糾弾されるか、いくらでも枚挙に暇がないだろ。
スイーツ?関係ねぇよ。
人間はみんな、誰かに理想を押し付けてるよ。意識的にか無意識かに関わらずな。
彼氏彼女の行動が気に食わないとき、それはなんでなんだ?理想と違うからじゃないのか?
だからって、自分の理想通りの行動をとるロボットで溢れた世の中が良いってか、あり得ないだろ。
それとな。
エンターテイメントをエンターテイメントとして楽しんでる層をすっぱり取っ払って、ガチな異常者だけの話をするの、いい加減ヤメロ。
あるいは、少なくとも批評家をトップに置く序列に対する現状に対する猛烈な反発があるんじゃないだか。
私の書いた文章が頭悪いというのは全面的に正しい。特に批評関係における認識が狭いとか事実誤認はおっしゃるとおり。申し訳ありません。
正直知識不足なのは書く前から自覚しており、叩かれることは覚悟してた。
それでも、文章を書こうとした意図すら理解してもらえないというのは少々不満。
「知識不足であれ」「誤った事実に基づいた認識であれ、書いた本人の意図はちゃんと記述してるでしょ。それを半数以上の人が誤読してるというのは悲しい。
というわけで答え合わせ。
はてなの方々の大好きな敵味方の二分法で説明すると、私はやらおん否定派だよ。そして、批評肯定派だよ。
はてぶ見る限り、これ理解できてた人半数くらいしかいない。
後の人はなんか誤解しているか、よりによって逆に捉えている人がいる。そしてそういう人ほど「自分の意見」を書いてる。なんだかな。
たしかに死ぬほど文章が下手なのは認めるから「わけわからん」って反応はありです。むしろ納得する。
しかし「わかったふりして盛大に誤解して、その誤解を元に適当に批判」ってそれ私と一緒のレベルだって自覚してますかしら。
ついでに私の主張を整理しておくと
「今のところ批評がこういう下の層を全くすくい上げられてない、その結果としてこういうサイトがのさばってきたが大丈夫か?もっと頑張れよ」ですよ。
なんでこれが「書き手は批評が嫌いということはわかった」になるの?批評家に嫌いな人はいるけど批評は嫌いじゃないよ。どこ読んでるの?というか、こんだけ似非批評チックな文章を書いてる奴が批評嫌いな訳ないでしょ常識的に考えて。
私が主張してるのは、ニコ生プラネッツのまどまぎ最低に詰まらなかったよ。あれよりはまだやらおんの方がましだよってそれだけだよ。「やらおん読んでるような下々の層が発言力を増してきている状況って危ういと思うんですが、この状況に対して批評ってどうなるんですか?死ぬんですか?それともなんか頑張るんですか?黒瀬某のいるグループはよりによって内輪に引きこもるって選択をしていましたが、それでいいんですか?」って問いかけが目的ですのでよろしく。