はてなキーワード: ニーチェとは
昔ヨーロッパのあるところに一人の青年がいて、己の罪を深く悔いていた
教会で告解して許しを得、己の身を恩寵で満たさなくてはならないが、自分の罪があまりに深いので司祭さまはお許しにならないだろう、
こんなひどい罪を犯したものはバチカンの大司教でもお許しくださらないだろうと思うと恐ろしくてとても告解に行けなかった
ある日青年は誕生日を翌日に控え「大人の証」として酒を振る舞われた、しかし酔って帰った青年を母はとがめた
青年の父親は稼いだ金をその日に飲んでしまう人間で、一家は飢えと寒さに苦しんできたのに、それを知っていながらその酒をお前も飲むのかと
青年は母に言い返した、母の恥ずべき罪深い秘密を自分が知っているとほのめかし、自分はそれよりマシだと言い、青年は母を打った
最低の気分で翌朝目覚め、坂を登っていくとその先に聖人のまつられている教会があった
聖人は青年の守護聖人だった、彼の名前はその聖人にちなんでつけられた
彼は入り、聖人にむかって恨みごとをぶつけた
あなたは自分を助けてくれなかった、あなたは自分の愛する人を苦しみから救ってくれなかった、
あなたにとってはちっぽけな自分が大罪を犯して地獄に行こうとどうでもよかったのだ
するとその教会の司祭が現れ、涙を流している青年に告解を勧めた
青年はやっとのことで母を打ったことを告げ、司祭は「恐ろしいことだ。しかし主はお許し下さるだろう」と言った
他にも告解することがあると感じた司祭はなおも告解を勧めたが、青年は己の罪深さを恐怖し、高貴なる主がとても自分をお許し下さるとは思えないと言った
司祭は「では聖人さまに告解しなさい、聖人さまになら罪を告白できるだろう、わたしはお前が告解する間そばに居て、主と聖人さまの耳となる。それでよいかな」
告解が終わると司祭は青年に幾種かの祈りを三度ずつ唱えるよう言い、それで神は彼をお許しになるだろうと言った
「主は己の罪を心から悔いている全てのものをお許し下さる。主は今お前をお許しになった。
主がお前をお許しになったのだから、お前もお前を許さなくてはならない。
主がお前を愛してくださるのだから、お前もお前を愛さなくてはならない」…
こんな話を聞くと「神」がステキ装置に見えてきますね。自分がどんなボロカスのクズに思える時も、そこから再起動させてくれる装置。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1679541.html
http://sinseihikikomori.blogspot.com/2011/11/google.html
Sexy Zoneも、Not yetも流行ってないし、会話ですらその単語を聞いたことがない。
多分、会話にそれらの単語を出すときには説明が必要となるだろう。
それは別に流行ってない訳じゃなくて、そういったのに興味がある奴が俺の周りにいないだけだ。知り合いのツイッターで話題になってないだけだ。
結局流行ってるもの、常識とされてるもの、普通とされてるものが、それぞれのクラスターで違うってだけの話だ。
俺は去年帰郷して兄弟と会話したときにRadioheadとか宇多丸とかいう単語自体が通じないことに軽く衝撃を受けたが
そういったことはありふれてる。ちょっとくらい前に話題になった「サイコ2割問題」とそう変わらない話だ。
だから、テレビで「~が流行ってるんですよ」とか聞いても、そりゃどっかで流行ってるのかもしんないなと毎回思う。
ほんとに流行ってんのか知りたくなったら、データをどっかからググって調べるくらいすればいい。
思ったより流行ってたり、流行ってなかったり、意外な層に流行ってたり、やっぱり流行ってなかったりする。
ここ最近、韓国関連のことが流行ってますよとテレビで流れると、脊髄反射のかのように毎回ネットでは反発が起きる。
「そんなの流行ってない!」だとか「そんなの普通じゃない!」とか「そんなの常識ってことにするな!」とか。
で、これはマスコミに対するネットからの批判意識として、3%くらいは評価・共感できるものかもしれないが、97%くらいはうんざりする。
「流行ってますよなんてそもそも謳うからいけないんだ!」なんて言うのかもしれないけど
逆に、結局この人達はマスコミが担っていた「普通」や「流行」や「常識」に対する信頼を持っていた人たちなのかもしれないという気がする。
オーソリティに対する信頼とでもいうべきだろうか。
「普通」も「流行」も「常識」も、クラスターによって違うということがもはや「常識」だってことはちょっとネットを眺めれば分かるだろう。
それに従って、「普通」も「流行」も「常識」も壊れてしまった。
マスコミ、メディアが担保していた共同体幻想みたいなもの、一億総クラスター幻想がそれらを作り上げていたし、それが崩壊してしまったのだから。
じゃあ何がマスコミを殺したのだろう。
一億総中流的なものから格差社会という流れもあるが、当然ネットがマスコミを殺した。
つながりあえる環境、「真実」を知れる環境、簡単に島宇宙を形成できる環境、それが可視化される環境がマスコミを殺した。
かくして、「普通」も「流行」も「常識」も「真実」も、クラスター別に存在することになった。
それに人間は耐えられるだろうか。
「ほんとう」の「普通」も「流行」も「常識」も「真実」も存在しないことに耐えられるだろうか。
だから、クラスター別に存在する「普通」や「流行」や「常識」や「真実」を「ほんとう」のことと信じて生きることになる。
ニーチェは「神は死んだ」といった。
「お前たちに言ってやろう。我々が神を殺したのだ─お前たちと俺が。我々はみんな神の殺害者だ」と。
「我々が信じていた真・善・美なる価値基準や権威を根底において担保していたものは、滅びてしまったのだ」と。
日本人からしたら、「で?www最初から死んでるしwwwつか日本には八百万いるしねwww」ぐらいのもんで
なんで、そんなことに大騒ぎしたのか分からないところがある。
だけど、「メディア・マスコミが死んだ」というのはそれくらいの衝撃が日本人にとってはある。
その影響がじわじわと色んなところで見える。
「みんな」が思ってる一つだけ存在する「普通」や「流行」や「常識」が死んだ。
お前が言ってる「みんな」って「普通」って「流行」って「常識」って何だよってことになる。
それこそ一神教から八百万の神への改宗という衝撃が実は起こったんだということがじわじわとわかってくるだろうと思う。
その過程では、クラスター別に存在する「普通」や「流行」や「常識」や「真実」を「ほんとう」のことと信じることにしたり、
そのクラスターにおける「真実」を盲信して他のクラスターを攻撃したり、クラスター別に違うモードを使い分けたり、
クラスターの中で、あるいは他クラスター同士で「ほんとう」を定めるために対話したり、クラスターを彷徨ったり、
反動として、確固としたオーソリティや序列や権威を求めて、何かに忠誠的になったり、他者に攻撃的になったり
すべてのクラスターに通じるものとして「ほんとう」のことを提唱したりすることが、日常的なこととなるだろうし、すでになりつつある。
表面上は、まとめブログによって、youtubeの再生回数によって、徐々に「大衆」における「普通」や「流行」は担保されていくことになる気はするが
その根底では、価値観を担保していたものの崩壊が徐々に起こっている。
スピリチュアルでも、自己啓発でも、ノマドでも、愛国心でも、ライフハックでも人生の指針となってくれるものを求めている。
これらの価値観でも、宗教でもなんでもそうだが、人生の指針となってくれる価値観を求める欲望は消せないし、否定すべきでない。
すべての価値観をクールじゃないと否定したあとに待っているのは、ニヒリズムか退廃と決まっている。
「ほんとう」の価値観を求めて、匿名のコメントで殴りあうことがこれからもネット上では続くだろう。
それは価値観の衝突とも呼べるかもしれないし、対話とも呼べるのかもしれない。
生物と無生物のあいだ (講談社現代新書) 福岡 伸一
不機嫌な職場 (講談社現代新書) 河合 太介、高橋 克徳、永田 稔、渡部 幹
臆病者のための株入門 (文春新書) 橘 玲
日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか (PHP新書) 竹田 恒泰
わかったつもり (光文社新書) 西林 克彦
いつまでもデブと思うなよ (新潮新書) 岡田 斗司夫
ツイてる! (角川oneテーマ21) 斎藤 一人
日本を貶めた10人の売国政治家 (幻冬舎新書) 小林 よしのり
脳が冴える15の習慣 (生活人新書) 築山 節
「世界征服」は可能か? (ちくまプリマー新書) 岡田 斗司夫
世にも美しい数学入門 (ちくまプリマー新書) 藤原 正彦、 小川 洋子
TPPが日本を壊す (扶桑社新書) 廣宮 孝信、 青木 文鷹
ツイート7だけど、生活保護に関して結構無茶な事あると指摘してあるサイトもあるが、どう思うんだろう?( ツイートは晒されてるようなもんだろうから )
http://www7.ocn.ne.jp/~seiho/FragenundAntworten.html#3
ここに書いてある事が全て正しいかどうかは知らないけどさ、あるにはあるんだけど。
ただ、このユニオン批判聞いてる別ユニオンの人みたいに、まだ自浄力があればいいんだけど、http://www.youtube.com/watch?v=RlF1aisRIvI http://kie.nu/K7 1:05に「ユニオン(労働組合)にも、腐敗の構造、セクハラ・パワハラ・人権侵害がある」と画面に文字で出てるのをスクリーンショットにした画像
今住んでる街のこういう系統の弁護士は、弁護士同士かばうので、アパートの事で法的に間違った事を言った人も、その系統で、その苦情をその電話相談に言っても、ボランティアが電話に出た時は、それはひどいと話を聞く姿勢を見せるんだけど、弁護士だと弁護士をかばったり、全く相手にされなかったり・・・ ボランティアも上の者に伝えるとかまたほかの人とも相談するとか言ってるだけで、そのまま、何の連絡も音沙汰も無い。
ある政党の弁護士たちは、訴訟すると言って、相手方に弁護士がついたら、せっかく弁護士がついたのだから、交渉したいと、訴訟して示談を申し込まれたわけでもないのに、言って嫌ならやめると言われた人が、その政党だったため、全滅wwww みんな断ってくるww 笑えるくらいに。
しかし、あのインパクトあるアパート半壊画像 あの状況が公になった場合、あれを弁護士が関わりがあったり、相談してたり、内容証明まで出したりしたのに、放っておいたじゃ、恥をかいたりスキャンダル的に騒がれるのは、むこうじゃないかと思うが、どうなんだろう?
みんな、この街の民度の低さにあぐらをかいてなめ切ってるか、悪の力の強さを信じきっていて、浅はかだと思う。
朱に交われば赤くなる。
(゚д゚ ) ::: ―ニーチェ曰く丶ノ| キューン < < シュバッ ,,,,, (゚д゚ ) ━━―ニーチェ曰く丶ノ| ''''' < < ∬ (゚д゚ ) ―ニーチェ曰く丶ノ/ < < チューン ━━━━━( ゚д゚ )≡ ―ニーチェ曰く丶ノ| < <
(゚д゚ ) :..::::::: ―ニーチェ曰くヽノ | キューン... < < シュバッ ,,...-:':::":~~ ,,.. .~~""''':::..,,, (゚д゚ ) ━━━━━━━━━━━━━━━━━―ニーチェ曰くヽノ | ~"''-::..,,,. ;;;;;,,,...:::--''''"~ < < ∬ . (゚д゚ ) ―ニーチェ曰くヽノ | < < チューン ━━━━━━━━━━━━━━( ゚д゚ )━━━━三 ―ニーチェ曰くヽノ | < <
http://heno2.com/2ch/v.php?06222
http://riceballman.fc2web.com/AA-Illust/Data/Ni-chehou.html
「怪物と戦う者は、自身も怪物になることのないよう気をつけなくてはならない。 深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている―ニーチェ曰く」
一番上のリンクのサイトには弁護士もいるようだが、そんな事話して大丈夫だろうか?
一番上のリンクは、公務員の酷さは認めていて、生活保護受給者の立場に立っているところはある。
もっと酷い生活保護に関するページだと、どっちのための質問掲示板なのかわからない形相を呈示しているところもある。
医療券止められたという書き込みだけ削除にされたり、実際起こっている事なのに、あなたは次から次へ色々書くとか書かれた(事実を疑っているわけではない) 検索すればわかる程度の事を聞く人を待ってる、基本的人権についても疎そうな人が好きw
http://megalodon.jp/2011-0711-2219-42/www.seiho110.org/member/jsyybbs/yybbs.cgi タイトルしか取れてない ハンドル名「silent」
横にいくつか他に取ったリンクが出てるけど、どこも見れたり見られなかったり http://megalodon.jp/2011-0705-1454-02/www.seiho110.org/member/jsyybbs/yybbs.cgi
最新30件以外はパスワードがないと入れないページになってるから、確認できないけど。
消されたもの
silent さん 未回答 ひみつ 1人 病気で働けない世帯 保護決定後の生活に関する相談です 新着! RES 医療券配布の権限 はじめまして。 ・個別の事例に対する今後の対応方法 のつもりで書かせていただきますが、 ・福祉事務所の個別的な判断へのコメント になってしまうかもしれません。不適切だったらすみません。でも困ってます。 どのあたりからどのように書けば良いかわかりません。事情を書くと長くなりすぎるかもしれません。 医療券について今まではそこまで厳密に言われた事は無いのに、行くその日の前日に言ってくれ発行するからと言われました。 内科と精神科とケースワーカーもいる大きな公立の総合病院に色々な相談もしたいし、内科的治療もずっと受けていないので、それもしたい と担当CWに電話したら 明日行きますか?と聞かれ まだ明日すぐ行けるかどうかはわからない、色々他の相談もあるし と言ったらまた明日行くという日に言って下さいと言われました。 色々な相談に行かなくてはいけないのは、そのCWに言っても、わからない、こっちはお金を出すだけです、と言われ何もしないからです。 自分は過去に医療関係で大変怖い思いをした事があり、その事でも相談や対応をしている団体がある県もありますが、自分の街には適当なところがないので、保健所などにも相談したり色々やってます。 区役所の総務に相談したら、それは困った事ですねと言い、問題として上にあげておきますと言われてはいますが、具体的なサポートはありません。CWにお金を出すだけと言われたと言ったら、それは酷いですね言っておきますと言われましたが、全然改善されてません。 病院に自分で電話してもそういう話はCWからならよく電話があるが...と言われてしまったりしてます。 総務にそんな事を言ったせいなのかどうかはわかりませんが、医療券を発行しないとは言ってないが、出さない状態にされ、それをまた総務に言ったら、今度は民政課の係長が 「一つの症状に一つの病院だから、今薬を貰っている漢方のクリニックを止める」 と言って来ました。漢方薬は処方している病院としてない病院があるから、行く病院になかったら困るではないか、とか 色々話していたら なぜか、その薬は内科のものではないのに、「内科の薬かもしれない」とまで言われました。(処方箋薬局のお薬についてというプリントにも、神経衰弱、精神不安などと書いてあります。桂枝加竜骨牡蠣湯と加味帰脾湯ですから。) 総務に言っても、民生の事はわからない、民生の規約があるのかもしれないと言われましたが、原理原則ではなく実態で今は対応するようになっているから、住民票がない人でも居住地で生活保護を受けられるのだし、自分の場合でも虐待が認められたので、身内に連絡せずに保護を受給できています。 申請した時の人には、CWのサポートがあるとも言われてます。 他の区の民生課にそこの医療券の出し方を聞きに行ったら、この日から行くことができますよ、という事で日付を聞いたり言ったりするが、ピンポイントでこの日!と言う訳ではないと言ってました。今までと言っても漢方クリニックだけですがその時もそうでした。 医療券は発行して24時間以内に使わなくてはいけないとかその日しか行けないというものではないはずだしどうしてこんな事を言うのかわかりません。 違う区に聞きに行った時に生活保護者支援団体の人がいて、その人が市役所や県庁に異議申し立てする事ができると言われました。 その人によると、医者にかかるかどうかは医者が判断するので、まずその診断をするための医療券を出さないのはおかしいと言う見解でした。 そこまで話を大きくして、ちゃんと対応してくれたら良いけど、益々酷くなる可能性もあるし、他にも困った事はあるしで、どうしたらよいかわかりません。 市役所に異議申し立てするべきでしょうか?その前に先に相談できる病院を見つけるべきでしょうか?異議申し立てと言っても口頭なのか文書なのか書式はどうなのかもわかりません。 内科の薬じゃないのに内科の薬かもしれないと言って来たり、病院に行かせないようにしてきたというのは、結構おおごとになる可能性もありますが、病院に行く必要があるのにこのままでは困りますし、こんなおかしな話はないと思います。
タイトルだけ http://backupurl.com/u2rr7h
silent さん 未回答 ひみつ 1人 病気で働けない世帯 保護決定後の生活に関する相談です 新着! RES 壊されたアパートに住み続けなければならないのか? 他の方の相談をみたら引越しがありました。 私は、大家にアパートを住んでいる状態で自分の部屋とその下の部屋以外を壊されてしまいました。家賃滞納はありません。保護を受給する前の話です。 大家と言っても先代大家が亡くなり息子が売却した有限会社の転売屋で不動産業者を名乗っている者ですが。 他の部屋の荷物置き場や倉庫として使っていた人たちは、みな無料で追い出され、倉庫に使っていた店の人は話が通じない昔の地上げ屋のような人だと言って出て行きました。 私には、名義が変わる1,2、週間前に、工事があるから水道が止まるかもしれないと言ってきたので、あまりに急で出るにも出られませんでした。水道が止まるは脅しで実際は止まりませんでした。その後もうあなたには何も言いません、ずっと住んどって下さいと言われ、住んでいる状態で壊すと言って実際にそうされました。(こんな会社が大手と取引しています。元の大家が売りに出したのは大手のしかも財閥系の不動産業者でした。そしてそこでまた転売すべく、大手不動産屋サイトで売りに出してました。) 私の部屋が階段のすぐの部屋なので、壊せば売りたい土地を少し踏んづけているだけの状態になるからだそうでした。京都に同じような事をされて訴え勝訴した判例があるのも知ってますが、当時相談していた弁護士はそうなる前に、アパートの保全もできるのにできないと言ってしませんでした。その人を紹介した電話相談の弁護士はアパートの保全ができると言っていたのに。 その当時はわかりませんでしたが、保全はできたはずです。保全する権利人格権、居住権 困ったこと 生活妨害 などとして、仮処分申請できたはずです。保全する権利がなければ京都の訴訟で負けているはずです。権利侵害があったから損害賠償が通ったのですから。 これを長々書いたのは、この事でショックで神経をすり減らし、その後もいろいろありましたが、この事で人格権居住権についてよくわからなくなっていた傾向があると気づいたからです。 役所が生活保護を出すのは、生存権という基本的人権が憲法で定められていてその権利のために出しているのだと思います。 人権というのは、国家に保障を求めて良いもののはずで、その出先機関である行政にも本来は対応を求めるべきものです。しかし本当に弱い立場の人間がそれをやるとかえってまずい事になったりもします。 私は親の虐待からずっと長い間逃げて生活してきて、部屋も住民票の部屋と住む部屋と二つ作っていた事もありました。これについてDV相談員に1年以上前に区役所は出すと言っていた生活保護を出ないよと言われた事もありました。この事は他地域のNPOの生活相談の電話で確認したら、それは実際に困った状況にあったからそうしてたわけだから、当然勘案されるべきで実体というところで主張して良い筈だから大丈夫、不正にはならないと言われた事もありましたが。2つ合わせても生活保護用の住宅の家賃より安いところでした。 体の調子も悪かったけど、医者で怖い目に合わされそれを信じてもらいにくい状況でした。相談に行ってパトカーに乗せられ、その後野放しという事もありましたし。。。 今回保護申請に行った時にはその事も話してました。受給を受け付けた方はその事や他の事も理解してくれていてほっとしたのですが・・・ アパートについては、その大家は契約書に本籍地入り住民票を取らされ形だけ書いてある保証人欄に親の住所があったので、連絡し鍵を無断で交換し施錠するという事までやり、警察が民事扱いにしてしまったけど、警察署の中で鍵を交渉してやっと手に入れると言うこともありました。 これも警察はおかしいと後でわかりましたが、検察(警察じゃなくてわざわざ検察に行った)に告訴も受け付けてもらえませんでした。同じ事で家賃を払ってない人たちと有名なU弁護士(差し支えなとt思いますが一応伏字)など十人の弁護団が、住居侵入と器物損壊で告訴状を出していると言うのをネット検索で知りました。 検察が告訴させなかった時の録音もあります。 ここまでの事があった場所で住み続けているのは、大変怖いし何かあると眠れないです。今も工事をやっていて怖くて住みづらい状態です。 引越しは公費ではできないと言われましたが、前にアパートを壊される前、電話相談の系統の不動産関係対策弁護士に、生活保護を受けて公費で引越しできると言われた事もありました。 その時は、自分でやっていけていたので、要件を満たしてないから不正受給の恐れもあるし、体の調子が悪いことも話してないし、所得などについて質問もしない状態で、ただ安い物件に住んでいるというだけでそんな事を言われました。そしてその人は私が虐待から逃げていると知ると、「それでは駄目ですね。親に連絡されるから」などとも言ってました。その当時でも虐待は考慮され扶養確認の連絡が無い事も自分は知ってました。 その時は要件を満たしてないし、その時点で受給するつもりもなかったので、わざわざ指摘はしませんでした。 その後アパート破壊や鍵交換施錠という事もあり、大変ショックを受け、警察官が親切なのか何なのかわからない態度で、「この人も商売なんだから」とか「何事も譲り合いが大切」とか、「あんたは親兄弟にもそんな言い方をするのか」(これは親切な言い方ではなかったが)とか 民事不介入なのに、 記録に残そうと思い、それと弁護士事務所(同じ系統だが前述とは別)に電話したら遅かったのに、事務員がまだいて、それは民事とも言えないかも刑事の可能性もある、と言ったから、その前にも住民相談として相談していた交番から署に電話したら、そこに居るように言われ、こちらはショックで呆然としていたし(親の名前で貼り紙がしてあったので余計ショック)、言われるままに勝手に話は進んで、警官が来て大家に電話し大家を呼び出し、警察署で鍵を渡す代わりに、きちっとした話し合いなどと、法的な場以外での面談を強要され、他にもあなたは普通の人ではないとか、侮辱にあたるような事を言われ、家賃という回収するべき債権も無いのに、権利がないのにまるであるかのごとく振舞うと、警官の中には、共感する人もいてしまったりして、みんなで法的な場以外での面談を強要してきたり、立ち退きに関しても、訴訟すると時間がかかるだろ!と怒ってきたりした人もいて大変混乱し、その後もそれらの言葉がフラッシュバックしてくる状態がかなり続き、重篤な抑うつ状態に陥ったりしていました。 警察でこれは何なのか民事なのか刑事なのかきいたら、民事だと言うので、帰ろうとしたらある一人の警官が朗読のようにしゃべりだし、今日は鍵を返すことに協力してくれると思って呼び出しました、協力してくれると思いますが、などと朗々と語ったら、なぜかやっと鍵を渡し立ち去りました。 長くなりすぎましたが、こんな事があったところに住み続けているのは、人間らしい生活と言えるのでしょうか? その後も住み続けていたのは、接近禁止令の親バージョンのような、面談強要禁止の仮処分申請を頼んだのに、不作為だし裁判所が認めにくいから代わりに、内容証明を出しときましょうなどと言った人を信用してしまったからでした。 引越しについて受給する時に、前に要件満たしてない時に言われたがその時だと不正受給だしそれと引越しはまた別のはずで、本来大家に請求すべきもので、弁護士が入っているのにおかしいからあれは不正なのではないかと聞いたら、そうだと言われました。 しかし、それから状態が変わり、また別系統の弁護士が内容証明だけ書いたくせに、ちゃんと仕事してくれなくて、訴える気は無く相手方に弁護士が付いたので交渉したい、交渉でなく訴訟を望むなら辞任する、その場合親から来ている連絡がそちらに行く、という法律的には脅迫ではないが実質の脅しになる事を言われ、居場所がわかり鍵も持たれているかもしれない状態で、住むのは怖すぎるので引越しを望むのはおかしいのでしょうか?そうでなくても大きな地震がきたら確実に倒壊する建物です。これも非常に怖いです。 でも自分で出たら、生活実態がないとして保護を取り消されてしまうのでしょうか? [10948] 2011/07/05(Tue) 14:19 DEL EDIT [TOP]
書き込みはもっとあった、保存してあったのだけ。これらに対し、弁護士に困らせられた話を書いてるのに、弁護士>受給者 なのか 弁護士>一般の人(受給者含む)なのかわからないけど、 せっかく弁護士を選任してるんだから、もっと信じて、とか 他の相談でもそうだったけど、受給者がCWに困らされた話でもなるべくCWをかばったり、時には人権侵害まがいの事でも、それで良いんですよと説明したりしてる。 ””選任””て何のつもりで使ってるんでしょwww 使わない事もないかもしれないけど、個人の民事でで頼む時に使う言葉は、受任だけど。 単純に、選ぶという意味で使ったのかもしれないけど、選んで無いヤン、断ってきたんだからw
何を読んでんだろうな?と思った。
このリンク先http://www7.ocn.ne.jp/~seiho/FragenundAntworten.html#3 では、気にしなくて良い事や、言われる筋合いの無い事を言われた例については、それをちゃんと説明しているのに、恋愛について質問した人が、経済的に関係なければ報告しなくて良いと書かれてるのに、なぜか保護停止されないんですね?だったら言ってみます、とか意味不明なお礼レスをしてたのに、誰も何も言わない。だいたいその人もぐぐればわかる事を聞いている。私が検索して出た質問サイトも貼ったのに、こちらには何も反応しなかった。別にいいんだけど、他質問サイトや他の生活保護関係のもあったのに、興味を示さないのが不思議だった。そのサイトだけを信じてるのかなぁと思った。
回答のあんたはどうのこうのと、こっちをねじってきた回答を出したいなぁ。弁護士サイトでもそんな事されてないのにw あいつら(弁護士)は一応わかってるから、これは公然と責めてはまずいとか、法的におかしくない事を弁護士が公然と責めてるでは恥をかくから。あいつらが責めるのは、やけになって感情的になってる相談者、ある程度品位を保った上から目線というのを、心がけて一応表面的な建前を取り繕うようだが、時々我を忘れて叩きに夢中になったり、某巨大掲示板に晒して、みんなで悦しんだりして、私に魚拓を取られたりしているw サイト管理者や他の弁護士がまずいと思ったのか、削除にしてたけど、その前に2chと弁護士サイトのコラボする瞬間を保存してしまって笑えたw
ああいうところを見たり登録している弁護士というのも、仕事がなくて暇なやつもかなり混じっていると思う。仕事に繋げようと真面目に回答を書いて、実名顔出しでやっているやる気に溢れた人もいるから、見習えばいいのに。匿名弁護士として煽ったりしてる人もいた。大抵は直截的な煽りと感じさせないいじわるが多い。でも、時々見ものもあった。 不思議だったのは、あのサイトは、宣伝やイメージアップより、洗脳に勤しもうとして失敗してるみたいな例が多いことだった。 この人たちって、宣伝したくないのかな?宣伝より洗脳なのかなぁ?と思った。 PVが増えると運営会社としては広告をたくさん見てもらえて嬉しいから、わざと煽らせたり、揉めさせたりしてるのかなぁとも思った。
他にも、今書いた事と直接関係ないけど、資料として
精神病院というところについての動画 http://www.youtube.com/watch?v=ihkqaeDP7ys 読売新聞記者がこんな事言ってる。これが本当だったら報道だけじゃなく刑事告発考えなければいけないんじゃないのだろうか? そういう事もあって院長逮捕され廃院になった病院もあると言ってるけど・・・ まだ氷山の一角とか言っ
そうか。今までの反論で一番胸に刺さった。
俺がニーチェの言う奴隷なのは分かってる。ルサンチマンから出た意見だろう。
奴隷だからこそ、自分の持ってないものを持っていて、自分と交流してくれる人をありがたく思うし、その人のファンであろうと思うし、
自分の持ってないものを持っていて、自分を排除しようとするもの
自分の持っているものを持っていなくて、自分を攻撃しようとするもの
こういう連中を心の底から憎む。行動に移したことはほとんどないけれども。
俺はそういう人間なんだ。
俺にだってその輝かしさを分けて欲しい。
俺だってそういう輝きに加わりたい。
それだけなんだよ、この元増田の原動力は。
どうも。こないだまで就職王って名乗ってましたが、今は無職王です。
で、前回書いたコレhttp://anond.hatelabo.jp/20110429004257に
なんかすごい真面目なトラックバックが来てたので、なんか書かなきゃなーと思いました。
二代目ロストジェネレーションが失ったもの。望み。そして、僕らは何からはじめるべきか
http://d.hatena.ne.jp/thinking-terra/20110529/1306640590
で、これ読んで思ったんだけれども。
ぼくが思うに、現代日本の若者における問題ってのは最早「価値観」の問題ではないと思うのね。
いうなら、それは生存の問題だし、もっと明確に言えばいかにクサレ年寄りから椅子をムシリ獲るかってことなんだと思うんだ。
「既存の価値観に乗ることは出来ない」とテラケイさんは仰る。でも、ぼくはそれは違うと思う。
むしろ、現時点に於いても生存戦略としては「既存の価値観にドップリ漬かる」は限りなくベストに近い。
「世代」のことを考える前に、「自分」のことを考えて、グダグダ言わずに東大を出るべきなんだ。
もちろん、東京大学というのはかなり極端な例だけれども。
ミクロで考えるなら、まだ現代日本は個人の力で「なんとかなる」社会だとぼくは思う。
ぼくの「就職王」コラムは個人化戦略の極地のようなものだけど、実際あの程度でなんとかなってしまう。
でも、もちろんマクロで考えるとこれは明確に間違っている。
だって、椅子の数が限られているなら誰かは必ず負けるんだから。社会には一定水準の競争が必要である、という
命題を真であるとした上でも、社会を構成する一定層はそれなりの職を得て暮らしていけなきゃまずい。
それに、ぼくのような口先だけで逃げ切るやつが評価される企業の土壌というのも、あんまりよくない気がする。
やっぱり、社会は少しずつでも変えていかなきゃならない。ぼくらの世代が楽しく生きるために。
「社会を変える」って言いにくい世代だよね、ぼくらは。上の世代が派手にコケたから。
どうせ社会なんて変わらない、馬鹿どもの轍を踏んでたまるか。そういうところがある。
デモやる?って言われても「それ頭の悪い年寄りが大分前に失敗した」としか思えない。
カウンター・アクションは必要だけれど、それはやはり時代に即したものでなければいけない、と思う。
少なくとも「就職クソッタレ」って言って変わるものがあるなんて考えられない。そうじゃないか?
ウザイ自分語りで申し訳ないけれど。ぼくが就職したのは「箔をつけるため」だった。
今、起業をするために色々じたばたしてるんだけれど、やっぱりカネを出して貰うにはそれなりのものが必要になる。
少なくとも、「真っ当に勤めていれば生涯年収4億近かったですよ」くらいのことは言えないと、
与えられたカネの代わりに差し出すものとしては、とても足りない。実はこれでも全然足りないんだけれど、
それでも何某かのバックボーンにはなる。使えるモノは、使わなきゃ損だ。就職して数年踏ん張るだけで得られる
ステータスって、実は結構お買い得な気がする。ある意味、大学の名前以上に。
この日本社会は実にクソだと思うけれど、使えるものを使わずに戦うのはいかにも勿体無い。
「価値観を変える」なんてのは、ヒッピーになるのと同じだ。ヨガをやってもマリファナやってもロックフェスをやっても、
実はどーにもならない。それは、かつてアホな連中がもうやった。ぼくらがそれをやる必要はない。
ぼくは巷で見る就職活動批判にすごく違和感を感じていて、つまるところそれはどこまで言っても
「負け犬の遠吠え」としか認識されないんじゃないか、ってこと。
かつての頭の悪い年寄りには「世界同時革命」みたいな強烈なイデオロギーがあったから、「就活のバカヤロー」よりは
スケール感もまとまりもあったけれど、ぼくらの世代にはそれもない。あるべき社会のモデルすらない状態で、
「価値観を変えろ」って言われても、それは「解脱しろ」とか言われるのと一緒だ。シャクティーパッドとかポアとか
そういう語感にしかならない。そんなことにはほとんど何の意味もない。
つまりところ、それがミクロの問題であれマクロの問題であれ、既存社会からの断絶というのは不可能なんじゃないかと思う。
テラケイさんは価値基準を語るときに「外部」と「内部」という言葉を使っているけれど、ぼくには価値観に於いて明確な
「外部」ってのがあるとは思えない。テクストに外部はない、みたいな学問を専攻してたせいもあるんだけど
それを差し引いても、既存の価値観を排除して生きていけるなんてとても思えない。そんな強くないからね。
ロストジェネレーション世代にニーチェじみたものを押し付けても、それは「レッツ自殺!」って結果しかもたらなさないのではなかろーか。
我々が目指すべきものは、この社会から乖離したものではなく地続きにものでなければいけない、と思う。
じゃあ、どうすべきかってことなんだけど。
とりあえず、まずは団結すべきだと思うんだ。勝ってる奴も負けてる奴も。
世の中はクソで、なんとかしなきゃ楽しい人生は送れそうもない、って意識を共有することだと思う。
ぼくはかつて、ものすごく貧乏で大学の学費にもメシ代にも汲々としてた時期があったんだけど、
その時、やっぱり同じような奴らと相互扶助的に生きていて、それは例えば部屋を分け合ったりとか
僅かなカネを分け合ったりとか、電気釜を共有したりとかそういう話だったんだけど、そういうところからだと思う。
例えば、イタリアの話。イタリアは、失業率がアホほど高いけど、自殺率は低い。これは何故かっていうと、一説には
一族主義が強く根付いているからだ、と言われている。縁のある誰かが食えてなければ、誰かが食わす。そーいうところがあるらしい。
じゃあ、我々悲惨な現状にいる連中も、そーしとけばいいんでないかな、と思ってる。
とりあえず、屋根とトモダチがいれば死ぬことはない。ぼくはそー思う。
こうすることで何が得られるかといえば、リスクを取るのが非常に容易になる。
「1人が1のリスクをとる」ことと「10人がそれぞれ1のリスクを取り、リターンを分配する」ことは大分違う。
もちろん、10人全員が敗れ去るパターンもありえるけれど、かなりのヘッジが出来ることになる。
そして、何よりだけど精神的にとても楽だ。ぼくは「起業」の道を選んだけれど、他にもロースクールに行ったりとか
そういう道を選ぶことにもやはりリスクはつきまとう。金銭的なリスクもそうだけれど、孤独化してしまうことが何よりヤバイ。
官僚から政治家目指すぜ、みたいな道にしてもやはり同じだ。そういうとき、価値観を共有出来るつながりがあることは
何より強いとぼくは思う。いや、今んとこカネを得て起業に漕ぎ出したところだから、この先なんかわかんないけどね。
仲間にも全部見捨てられて、一人ひっそり首を括るって可能性も全然あるわけだし。
それで、社会批判の話に戻るんだけれど。ぼくが「就職王」でやりたかったことは
「就職活動批判」のちょっとスマートな形を提示するってことなんだ。
確かに、マクロ的に考えると我々は既存の価値観に乗っかることは出来ないかもしれない。
しかし新しいマクロな価値観とライフスタイルを創造することも、おそらく出来ないだろうってこと。
その行き詰まりの中でクリティカルなクリティークを社会にカマすとしたら、
既存の価値観に乗っかって踊り狂いながら、同時にそれ自体を批判として成立させるしかないんじゃないかと思う。。
ダンスパーティーを台無しにしたいなら、まず誰より上手く踊らなきゃいけない。そうでなければ、誰も話を聞いてくれない。
やはり、我々はこのクソみたいな社会で戦っていくしかないし、クソみたいな社会を否定したところで
クソじゃない社会の青写真を描けるわけじゃない。それは、大分昔に失敗した。
だから、このクソだめみたいな社会の集団的蛆虫として既存の価値観と地続きの世界をサバイブしていく以外に多分道はない。
そして、九人がダメでも、一人が生き残れればそいつが他を引き上げればいい。もちろん、現実的にこんなことが上手く行くか?
ってところはあるけれど、独力で社会と隔絶された「価値観」を作り出すよりは、十人で価値観を「共有」するほうがまだ成功率は高い。
「悟りを得た」人はそんなに多くないけど、「宗教にハマって死んだ」人は腐るほどいる。
その程度の価値観共有なら多分できるんでないか、そういう風にして戦っていくしかないんじゃないか、と思ってる。
人間、上手いこと価値観を刷り込まれれば飛行機でビルに突っ込めるんだから、それくらいできるんじゃね?と。
まー、なんというか。
これはぼくの戦略っぽく見せかけた誇大妄想だから、なんのあてにもならないけれど。
とりあえず、若い人間はもーちょい戦略的に生きるべきだと思うし、また同時に団結すべきだと思う。
個人の内面のナイーヴな話に閉じてしまうのは、なんかどーなんだろーな、とぼくは思うんだよね。
これから具体的にどーするか、どのようにして生き残ってリスクを取っていくかを論じるべきじゃないだろうか。
まだまだやれることあると思うんだよね、実際。
ところで、死ぬほどどーでもいいけど、「ロストジェネレーション」って若い頃第一次世界大戦に遭遇して、何か価値観がクラッシュしちゃったよーな世代の作家達を指す言葉で、「二代目」っていうとちょっとおかしいことになるよね。ロスジェネの「二代目」世代ったら、ビートの時代でケルアックとかギンズバーグとかを指すと思う。
不況なんかにぶつかった「貧乏くじ世代」を指す意味で「ロストジェネレーション」って語を使うと、今の世代は何代目になるのか、すごくめんどくさい議論が要るね。個人的に、「ロストジェネレーション」を現代の「失われた世代」に当てはめるのは色々ムリがある気が。字面はいいけど、原義から考えるとスゲービミョーな感じ。ロスジェネ論争とか言われると、今更ヘミングウェイとか論じてんの?って思っちゃうのはぼくだけじゃないと思う。
システムとは何か
人は、自分にとってもっとも優先させるべき物事の前に立ってこそ、様々な物事の中に意味を見出すことができる
たとえば、カフカの『城』において、Kが城の周りをぐるぐると回るしかなかったように
あらゆるものはメタファーに過ぎない
我々は万物を介してにんじんを見る
我々にもっともリアリティを喚起するものとは何だろうか
それは往々にして破滅だ
そのようなものだけが、我々の人生の中で意味を持っていると思われがちなのだ
ツァラトゥストラを通してニーチェは述懐する。「世界は苦痛に満ちた一者の見る夢であるように思われた」
そうかもしれない
しかし、別の道が我々にはあるのかもしれない
それがシステムというものであり、個人意志というものでもあるからだ
それぞれの倫理において、あるいは、意志において
システムの名のもとに
何がおニーチェんだ。ふざきんな。
見てないのに批判すんなと言われたのでフラクタル見た。
1話の設定だけ見たらディスコミュニケーションというか偽りの現実を取り戻すみたいなゼーガペインみたいなのを、ループ使わず、仮想空間も使わず
テクノロジと認識の問題として取り上げるのかと思ってた。というか登場するキャラも全員厨二くさく、特に主人公はテクノロジ社会に適応できずアナログで手触りあるものに憧れるヒキオタ。こりゃどうみてもこっちの方向だろ、と正直オラワクワクしてた。
そういう意味で1話見たときはメッチャ面白いと思ったんだが、3話あたりからわけわからなくなって最後までわけわからんかった。
どう見てもキャラも設定もジブリと全く正反対にあるのに(漫画版ナウシカだけは少しつながりあるけど)、どうしてこれでジブリができると思ったのか全く理解出来ない。
コリン・ウィルソンは「アウトサイダー」の中で、アウトサイダーの意義について書いたが、そのなかで例としてあげられているアウトサイダーたちが、
すべてD・H・ロレンスとか、ニーチェとか、十九世紀的な「精神の巨人」時代の人間か、あるいは疎外の始まった頃の疎外への反抗者であったというのは、
すでにそういうかたちの疎外の消化の仕方が、現代には意味を持たないものになっていることを示している。
自己疎外が自己を拡大するための契機として意味を持ち得たのは、個人の存在というものにまだ何らかの意味があった時代においてだけである。
現代においては、すでに個人のものが存在しなくなりかけているのだ。
個人が存在するのならば、阻害されても疎外された個人として生きられるだろう。しかし、現代にあっては、疎外されたまま生きて行くことは不可能である。
かつてコリン・ウィルソンが「アウトサイダー」をあらわしたとき、まだ社会にはアウトサイダーの生きる場所がそれなりにあった。
いかにアウトサイダーであろうともその事自体が意味を持ちうるくらいにさえ社会には余地があったしパラダイムはまだ決定的ではなかったのだ。
犯罪者であること自体にコリン・ウィルソンがひとつの事故表現としての意味合いを見出すほどに社会のそのものが発展の可能性をまだ持っていた。
だがいまや犯罪者も精神病者もまた社会のアウトサイドでアウトサイダーとして自己表現する余地はない。膨張していく東京がしだいに周辺の村を合併し
埋立地をベイアエリアとし、そしてどこからが東京でどこからが地方であるのか次第に分からなくなってきつつある現状そのままに、
「インサイド」と「アウトサイド」という対立は存在しなくなり、そのかわりに
コミュニケーション不全症候群 p307 コミュニケーション不全症候群のための処方箋
なんらかの公認されない私的な共同幻想(個幻想ではない。共有されない個幻想は単なる狂気で終わってしまう)に拠ることで
社会全体に対してのあアンチの役割を務める人間は、実際に自分がそのアウトサイダーのグループに参加したり、そういう役割を務めることは出来ないけれども、
一見一応は<まとも>に社会に適応している範囲内に居ながらその内側に何らかの欠落を抱いているタイプの個人たちの小規模な共同幻想の作り手となる。
もちろん「それらしきもの」はわかるけど「それ」だけだったとは思いたくないし。
まさか最終話のアレがやりたかったわけじゃないんだよね。
何となく理解した。ニーチェ格言トラバと合わせて読んでみて、多分理解できた。
あなたが言いたいのは「ネット右翼に囚われている」ということなんだろうけど、ニーチェ格言とあわせればそれは実は俺が嫌悪しているネット右翼(像をつけてもいい)と全く同じだった。
つまり、ネット右翼の「強引な思い込みやどこにいっても在日や特定アジアといった問題を出したがる習性」を俺が過度に嫌悪しているうちに、
実は俺自身が批判対象と同じようになってしまっているってことなんだ。
確かに、最近では少しでもそれらしい発言を見かけると有無を言わさず「こいつはネトウヨ」と切り捨てていたからなぁ。
まるで、ネトウヨが天皇を批判する人間を見ただけで「こいつは売国奴」「天皇を批判するのは日本人ではない。よってこいつは在日」とかやってるのと全く同じだわ・・
深淵もまたこちらをのぞいているんだな。まさに
(そもそも私は「鹿島茂(2003)『勝つための論文の書き方』(文藝春秋)」を踏まえてこの日記を描いています。)
まず、先日の日記(◕‿‿◕)ラノべえ「そんなことより僕をテーマにして研究生になってよ!」に対して
・意図に反して論文に対する、あり方や手法という点で反響してしまった
というのが全体的に見て思ったことです。
論文のあり方については多様でいいと思うので、ここでは問題としません。
前回の日記も「テーマの意義」についてでしたので、テーマを決めた時の「どこまで問題点、着眼点を絞るのか」に対する考察でしかありませんでした。(問題と目的(序文)、手法、結果と考察(本文)、今後の課題、といった論文の段取りの全ての「前提」としてテーマを取り巻く要素から「研究意義」を考察しただけです。要するに自分のテーマのみを考えるだけでは社会的な前提や研究意義にはならない可能性が高い、あえてテーマの外部にあるであろう要素から迫る方がテーマの本質は見やすい、ということでした。)
無論、このことは研究に対してのモチベーション維持に関係するだけではなく、実際に調査をする上での注意点や考察を書く上での前提になりえます。
また、よくありがちな「結局何が言いたかったのかがわからなくなる」のを防ぐ役割があると思います。
論点がブレないための論文の前提としての考察に、引用が多すぎることは、深く考えるだけ無駄でしょう。
今回、論文を書く上で問題だと思ったのは「引用の多さが恥に思える」点です。
この考え方の背景には、論文を書く上での前提が「前人未踏であることによる自分らしさ」となっているということだと思います。
なるほど、たしかに自分の考えを誰の考えも前提とせずに書けることは素晴らしいと思います。そんなことをしてのける天才になってみたいものです。
しかし、私は賢い人が論文を書くのではなく、疑問に思った人が論文を書くべきだと思います。
それに、仮に体裁を気にして、できるかぎり自分で考えた結果を主張をしたものの、「それって〇〇といってること同じだよね、どう違うの?」なんて聞かれたら(○○について知っていても、知らなくても)終了してしまうようなシビアな世界でもあります。
未踏であることは前提ではありますが、自分らしくあることに前人がいてはいけないということはないと思います。
というのも、時代によって物事のあり方は変化していくので様々な観点での検証の余地がでてくるものだからです。
例えば、「既存の手法を別の目的に転用する」というブリコラージュという手法もあります。(横井軍平さん風に言うと枯れた技術の水平思考ですね。)
「こんな考え方が認知されているんだから最新の研究である、私のテーマでも適用してみます。」は研究の観点的に未踏なのです。
ところで、内田樹は自分らしさについてこんなことを言っています。
「自分らしく」ふるまうということは、「他人の模倣をしない」ということである。ところが脳科学の知見が教えるとおり、人間というのは他者の模倣を通じて固有性を形成し、他人の思考や感情を模倣することによって人間的な厚みを増してゆくものである。
階層化する社会について (内田樹の研究室)(http://blog.tatsuru.com/2010/11/10_1216.php)
また、欲望とは他者の欲望の模倣であるとする「欲望の三角形」というルネ・ジラールの理論もあります。
つまり、「○○好きな自分」は別の「○○好きな誰か」たちを模倣し、複合した結果になります。
模倣したことを恥ずかしく思うよりは、模倣することによって何か一つでも自分の観点に自分だけの結論が見いだせるならば、
そのプロセスを隠すかどうかは、正直馬鹿らしい事のようにさえ思えます。
(◕‿‿◕)ラノべえ「そんなことより僕を研究にして発表してよ!」http://masuda.livedoor.biz/archives/51603662.html
・読者にとっても作り手にとってもクソの役にも立たない研究ってくだらない
→あくまで、役に立つか、ではなく真剣な問いがあるかで研究は考えるべきだと思います。好きだからでは駄目です。役に立つかどうかは考え方で決まります。
・読者を楽しませようとする=読者にないものを提供するという一面は当たり前だけどラノベの萌えに限った話じゃなくすべて外部性
→セカイ系というジャンルに言及出来ていない点で不完全でした。セカイ系というジャンルの考察と定義を踏まえるとラノベの萌えも包含する範疇です。
→少しでも「女性という存在と外部性とを遊戯的につなげている文学メディア(媒介装置)」であることをまず認識して欲しかったという点で細かな引用をしました。引用があまりにも細部に及んだ場合、拡大解釈に繋がりかねないことは度外視しています。web以外で探せるならば文脈で引用ができますね。その点で浅はかな引用でした。ただし、書籍引用のデリダの読解(「ハイデガーがニーチェを読解したものの」デリダの読解)はフェミニズムという点でデリダの中で一貫していると本人が発言したと書籍内にもありましたので問題ない部分です。
・モテない男は女性性の代償行為としてラノベを読む。代償行為はラノベに限った話ではないが、じゃあラノベを取り上げるのはなぜか。どう違うのか。どう意味が、時代性が。
→まさに批判された指摘部分に焦点を当てて意義を捉え、調査すべきですね。つまりマクロな現代社会の延長としてのオタクの内面を切り分けていくべきだと思います。
私は卒研のテーマに「ゲームをする人」を掲げ、一年間自分のやりたいことを自由にできましたので、非常に幸せでした。ですので、後輩にもぜひ好きなテーマで卒研をして欲しいと思っていました。
私の同じ研究室には、3年生の後輩の一人に、「ライトノベル(以下ラノベ)を読む人」をテーマにして、実際発表した後輩がいました。しかし、後輩に「今の自分の研究テーマをそのまま卒研にするのか?」という旨を尋ねたところ、悩んでいるという回答が帰ってきました。
どうやら、発表の反応が鈍いことで二の足を踏んでいるようでした。
そこで私は思い切って、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NOのwikipediaの考察がいかに素晴らしかったか」という話をしたかったのですが、酒の席であること、他の後輩もいたこと、説得力に欠けていたこともあって、遺憾ながら場は白けて終わってしまいました。
また、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」は「アドベンチャーゲーム」の代表例として実際に卒業研究になっているようです。
これらを編集、記した方々は私よりも遥かな、確かな、達成感・効力感を持っているに違い有りません。(実際、素晴らしい考察だと思いませんか?)
他にもネットを探すとユニークなテーマに出くわせます。例えば「プロ野球選手と結婚するための方法論に関する研究」なんて研究もあります。
卒業研究は、CiNii - NII論文情報ナビゲータ ((http://ci.nii.ac.jp/))で検索しなくても大学生ならば、各々の大学の概要集を捲れば自然と笑みがこぼれるものです。
たしかに、「好きだからテーマにしますたwwwサーセンwww」なんて動機は発表までに、必ず根本的で大きな壁とぶつかり、ツケを払うハメになるでしょう。ですが、学生の本分は研究です。研究について真剣にできるならば、それが真に正しい姿だと思います。
もう一つせっかくですので、私がなぜ「ラノベを読む人」が素晴らしいテーマだと思うかについて書きたいと思います。
論文とは「問い」です。一般的に論文のテーマとなる問い(リサーチクエスチョン)は根源的な、直感的なものが白眉であると知られています。
「ラノベを読む人」で解釈すれば、「ラノベを読む人はなぜラノベが好きか」ということになるのでしょうか?
これはなかなか直感的だと思います。もちろん、大きな欠陥があることも否めません。それは、村上龍のこの箴言に集約されていると思います。
「「好き」は理性ではなくエモーショナルな部分に依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から涌いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、案外どうでもいい場合が多い。」
つまり、「どう好きかは聞き出せない」という点です。聞き出せないならば、研究意義はないのでしょうか?それは違うと思います。つまり、いままで『「説明でき」なかったであろう「好き」の理由』を導ければいいのです。
そのためには、誰よりも人一倍考察が半ば前提的に必要になると思いますが。(私も自分の先輩に研究前にコテンパンに全否定されましたが、それがあっての卒業研究になっています。)私の後輩の考察は活き活きと良く出来ていた分、勿体無いという感情がたしかに私の中にはあるのです。
さて、前提的な考察は、すなわちラノベの「定義」と、研究する「意義」とに、密接に関わっていきます。まず、ラノベの「定義」ですが、混沌としているようですね。
程度で良いと思います。「読む人」に焦点があるならば、よく読む人はおそらく青少年から成人男性(20~30代)でしょうから。(成人男性が青少年対象の小説を読んでいる点は「オタク」で考察・解説すれば重複すると思うので、日記では割愛します。)
また、文学・物語といった点に対する「ラノベ」の遍歴も欠かせないでしょう。ここで、古めかしいものとの接点を設けること、考察をしてるサイト、本から概念を引用することが結果を導く前から既に必要となります。
例えば、物語的に観れば大塚英志が提唱した「物語消費」がありますね。また、ラノベではありませんがアドベンチャーゲームとの類似点があると思います。
ライトノベルにおいてもゲーム的な世界観が必要であり、大きな影響を与えてきたということは言われていますね。
オタクたちのメンタリティには、教養主義や文学性を引きずりながらも、シミュラークルに代表される動物的な消費社会の波に骨の髄まで浸かっているという両義性がある。という指摘をした東の「動物化するポストモダン」(1・2)も取り入れられると思います。
ここで、「外部性」や「キャラ萌え」(この日記では、美少女キャラに限定します。)が「文学としてのラノベ」のキーワード(カテゴリー)として浮かび上がってくるのです。言い換えれば、「外部性」は「社会性」、「キャラ萌え」は「女性性」にあるといえるでしょう。
ところで、先ほどラノベの定義は「混沌」としていると述べましたが、同じく「混沌」とした定義の文学に「SF」がありますね。
サイエンスフィクションもまた、外部性の幅が限界まで拡張されることによって何十年も前から定義は揺らいでいました。
小谷真理の『女性状無意識』に対する松岡の批評です。なお、小谷真里は、SF研究者であり、ラディカル・フェミニストであるそうなので「文学としてみたラノベ」を知る上で意外に検討する必要があると思います。
最初にハーバード大学のフェミニズム文学者アリス・ジャーディンが「ガイネーシス」(女性的なるもの)という言葉を造り出した。 (中略) テクノガイネーシスはそれにもとづいて提案した新概念で、
父権的な社会が蔓延するなかで女性的な無意識の紐帯が結ばれていく可能性を示していた。
長いあいだ、文明の基準や男性覇権社会の価値観のなかでは、普遍的すぎる母性、すべての他者をとりこむ包容力、あるいは基準をいちじるしく逸脱する狂気、説明のつかない無意識などは、しばしば社会の外部に押しやるべき面倒として片付けられてきた。中世の魔女裁判だけでなく、近代以降も「女子供の戯言」として片付けられ、20世紀後半になってもこの傾向と対決するためのウーマンリブ運動やセクハラ問題が噴出してきた。
では、そのように外部に押しやられた意識をつなげたらどうなのか。あるいは、家庭という内部(実は外部的辺境)に押し込められた意識といってもよい。男性から見れば、多くの家庭は基準社会の外部にあたっているからだ。 ジャーディンはこういう問題を引き取って、そこにはそのままこれらを連鎖させるべきメタネットワークがありうるのではないか、それは女性的無意識を象徴するガイネーシスになるのではないかと見た。
それにしてもいつのまに、女性こそが文学の可能性と限界を語るに最もふさわしい発言者だという情勢になっていたのだろうか。
まずはエレイン・ショーターが父権的文学規範の修正を迫ったそうである。ついでパメラ・サージェントが『驚異の女性たち』のなかで、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に始まる女性SF史がありうることを指摘した。他方、これに呼応するかのようにして、陸続とサイエンス・フィクションに挑戦する女性作家が出てきたようだ。 そこで、ヴァージニア工科大学の英文学者マーリーン・バーが「女流SFとフェミニズム理論には相似的な進行があるのではないか」と指摘した。
(中略) なぜこういうことがいえるかといえば、マーリーン・バーによると、多くのSFは“外部の他者”を描くわけだけれど、そこには現実を超えた出来事があまりに現れすぎて、文学的にはサブジャンルに追いやられるようになっていた。
しかし考えてみれば、そのように追いやられる宿命をもっていたのは、実は“外部の他者”の扱いを受けつづけてきた女性なのである。これではSFとフェミニズムとが連関していて、まったく当然だったということなのだ。
ということで、ここでは「外部の他者」たる女性と文学との密接な関連がみえてきました。これは美少女に「キャラ萌え」する「ラノベ」も他人ごとではないのではないでしょうか?
では、そもそも男性にとっての「女性」とはどういうものなのでしょうか?もはや哲学の領域に関連しているように私には思えます。
そこで、デリダにとっての「女性」というものを引用します。ちなみに、「動物化するポストモダン」の著者であり、前述した東は
「【デリダとは】仏哲学者。20世紀のすぐれた哲学者の常として「哲学なんていみなくね?」というのをすごく哲学的に言って、ややこしくなってしまったひと。でも基本の着想はいいので哲学の呪縛から解き放たれればいい仕事できた可能性がある。」
とツイッター上で紹介しています。* ((http://twitter.com/hazuma/status/24868908779446272))
デリダは、「真理が女性であるとすれば」という『善悪の彼岸』冒頭のニーチェの仮定から出発して、「女性というもの(=真理というもの)」は存在せず、したがって「性的差異というものも存在しない」という驚くべき帰結を導き出している。(「性的差異」の問題が重要ではないと言っているわけではない。逆に、デリダは、ハイデガーのニーチェ読解には、「存在論的差異の問題」はあっても「性的差異の問題」がないことを問題にしている。)
ニーチェは『悦ばしき智彗』の中で、「女性たちの最も強力な魅力は、それを遠方性において感じさせること」、つまり「遠隔作用」だとしている。
女性の魅惑を感じるために、「遠隔」が必要なのであり、遠隔のところに身を置くことが必要なのである。
女性というものは、「遠ざけるものであり、自分自身から遠ざかるものなので、女性の本質は存在せず」、「女性の真理は存在しない」。
女性は、真理が存在しないことを知っているのであり、真理の存在を信じない限りにおいて、女性であり、真理であるのだ(女性の本質、真理の本質は、それが存在しないということであり、自分が存在しないということを知っているということである)。
実際のところ、「女性=真理」を信じているのは、「男性」なのである(この意味で、フェミニストの女性たちは「男性」なのであり、「フェミニズムとは、それによって女性が男性に、独断論者の哲学者に似ようとする活動」だということになる。)
ニーチェの『善悪の彼岸』の「序言」の冒頭は、次のように始まっている。
真理は女性であると想定すれば、すべての哲学者たちは、彼らが独断論者であったかぎりにおいて、女性たちをうまく理解できなかったのではないかと疑うべき理由があるのではなかろうか。
そして、これまで彼らが真理を探求してきた際の恐るべきまじめさ、不器用な無遠慮は、女の子をものにするためには、拙速で不適切なやり方だったのではないか。
デリダは女性も真理も、与えることによって所有するのであって、こうして贈与=所有も非弁償法的な決定不可能性は、あらゆる存在論的、現象学的な解釈の試みを失格させてしまう、とした。
つまり、贈与に先立つ固有なものの存在がないのだから、女性(真理)というものはないのであり、性的差異といういものはないということになる。という帰結に至った。
見事にややこしいこの解釈から、女性の振る舞いは虚構的であるという面ががわかってきたのではないでしょうか。
ニーチェは芸術的と指摘しましたが、遊戯的、ゲーム的と捉えても過言ではないでしょう。
であることがわかります。(また、女性性を獲得し、同時に女性に所有されたいという願望を解消するメディアとも解釈できます。)
十数年前に、男性オタク達は「萌える」という言葉を発明した;「萌える」という言葉を使えば「セックスしたい」「愛してる」といったストレートな表現を避けながら、美少女キャラクターへの思慕をオブラートに包んで表現できる
という指摘もあります。
例えば、オタクにとっての現実における外部性にインターネットがあります。
○オタク男性であろうツイッターユーザーのアイコンが、イラストやアニメの美少女アイコンである可能性が高い点はオタクにとっての外部性を無意識に象徴しているのではないでしょうか。
また、ラノベ作家は決して女性が多いというわけではないですが、その必要はなく、いわゆるユングの提唱したアニマ(男性の女性的側面)による手で書かれている点、それがラノベを好む多くの男性読者に受け入れられている点こそ検討すべきでしょう。これはつまり、女性を真理とするのではなくアニマこそを真理とするさらなる「遠隔作用」をもたらしているとも考えられますね。
このアニマを真理とすることによる遠隔作用の効果としての共時性が
先程のツイッターのイラストやアニメの美少女アイコンを無意識的に選択させる要因になっているかどうかを検討することは興味深い対象ではありませんか?
以上より「ラノベ読者はなぜラノベを好むか」という問いの考察を注意しつつ踏まえ、ラノベ読者(男性)の実際に構築しているコミュニティ、家族間の関係、他の好きなメディア媒体等について研究することは簡単には説明できなかったラノベ読者の感性、つまり一つの社会的な側面を知る上で、大いに意義があると思うのです。
○ラノベの本質は-文学であり-女性性であり-外部性であり、それがラノベ読者の実生活と対照的にどう関わるかが重要なのではないでしょうか?
地元では良い高校卒だが、その後、中途半端な大学を卒業したので、「へー・・・で、どこの大学?」という質問には相当劣等感を持っていた。
まぁ、出身大学をズケズケと聞いて来る方の無神経さもどうかと思うけど、話の最後で学歴聞いて、ドヤ顔の奴もいてウンザリする。
最近「大学院卒」でロンダリングした知人がいて、私も真剣に検討した。関西の中堅私大から「京大大学院卒」を手に入れて、正直羨ましかった。
ただ、この年齢で、文系の大学院卒を手にしたところで、就職に役立つ訳でも無いだろうし、「学歴コンプレックス」解消だけを目的とすれば、コストパフォーマンスは非常に悪い。
で方法としては、聞かれた時に「高卒」にした。
反応は、「高卒のわりに頭がいい」だ。
俺が奴隷から抜け出すためには知識を吸収するのが一番だと書いたら、ニーチェだの中二病の治療だの言ってる人間があらわれたようだ。まぁいい。
それより、ルールを破ることは非常に大事。ルールの束縛から抜け出すことで、はじめてこの社会の歪みが分かる。
俺は車が通らない交差点でも信号が青になるまでは横断歩道を渡れないタイプだった。深夜、誰もいない交差点でもそうする。なぜなら、ルールを破らないことが最も生存率を高める方法だと思っていたからだ。
ルールさえ破らなければいいんだ。ルールさえ破らなければ・・そういう思いにとらわれていた。
しかし今、そんな過去の自分は社会の奴隷だったんだなとよくわかる。
ルールを守ったところで何もあるわけではない。重要なのは「ルールを守っているように見せかけること」なのだ。
馬鹿な人間は、どんな時でもルールを破る。だから社会から疎外される。本当に強く生きるためには、ルールを適度に破ることが大事だ。
重要なのはこの社会で「生きさせてもらっている」と思うのではなく、「うまく利用して生きている」との自覚を持つこと。支配者はルールを守るだけの従順な豚であれと求めるが、それは彼らにとって都合のいい奴隷だからだ。ルールを守りさえすればいい、こんな思考が、騙されているとの感覚を鈍らせる。
そもそも普通の人間は適度にルールを破っている。俺は破らなすぎただけだ。俺の両親は馬鹿みたいに真面目に生きているし、お役人なんてそんなもんだろう。安定した生活の代わりに、ルールに束縛されなければならないと叩きこまれる。
俺はもうそろそろそこから抜け出したい。そして、普通の人間よりもさらにルールを破らなければならない。そうすることで、生活が危うくなることは目に見えているが、それでも、新しい世界を垣間見る事の出来る方法はそれだけだ。