はてなキーワード: なうとは
苦痛0の生活で快楽10を享受するのと、努力するコストを払うことで快楽20が得られる状況どちらがよいか、って時に、実は20を得ようとする人は社会的に結構少ないのかな。
立場として、
(これって③と④は20を得る価値を質的に取り扱ってる時点でだめじゃん、とか思ったってのはさておき、)があるとして、自分は③かなーとか。みなさんはいかがでしょうか。
で、考えてみるとそもそも人生ってのは普通に生きているだけど、痛ましい苦境を強いられているわけじゃん。飢えたり、健康管理だったり、そもそも社会にでて他人とつながりを持たないといけないこととかさ。だから、基本、苦痛値がはなから10ぐらいのしかかってるんだよね。
で、たとえば、ニートになってる人とかってどういう真理なんだろーって話をしていたのだけど、社会から自分を切り離すことで、基本苦痛値を5下げれるなら、その結果、快楽が5下がってもいいかなーみたいな感じなのかなって。
とはいっても、人間はまったく楽しくもねーままに生きるってのはちょっと耐えられない話であってね。たぶん、最低快楽欲求値ってのが、一応、あると思うのよ。まあ、10とかさ。
ニートがわりとひょうひょうと生きていけちゃうのって、社会ちょー豊かだからなんかなって。つまり、おれらが人として文化的最低限の暮らしをするための社会的インフラがあれば、その最低快楽欲求値みたいなのは余裕でジャンプできちゃうの。ほら、テレビとか、とくにインターネットのおかげでね。
むかしはさ、といってもおれはそれをしらないんだけど、何か快楽を得ようとするのに支払う対価ってのがけっこーでかかったんだよね。なんか面白い本探すのときには、いろいろ読んで漁るような努力コストを支払わなきゃならんとこを、インターネットは、口コミなんつって、世界中のひとで、その探すコストうすーくシェアしあうことで、努力にともなう苦痛値を下げてくれるし、タダ乗りだって許してくれんの。資本主義は競って価格競争とか技術革新してくれるしさ。
だから、社会と断絶して基本苦痛値みたいなのを0に近づけつつも、最低快楽欲求値はちょーらくしょーで越えてんぜーっていう。
同居人がね、おれは別にサラリーマンになって、適当に働いて、家帰って、インターネットしてるだけで幸せなんだよねーっていうのさ。「さとうプロ(あだ名)にとって生きるってなんですか?」「死なないことだねー」って。
彼にも昔は、あったんだと、承認欲求とか、自分のこのくらいの人間にはなるんだぜ、おれは、みたいなラインが。でも、ほどほどの努力で大学受験してみると、日駒レベルのとこに入学してて、いままでの人生では、自分の望む結果を最低限のコストで得られてきた彼にとってはじめて、ギャップができたんだって。そんで、いまは、そういうのもだいぶ薄れたとか。とはいえ、年々、基本苦痛値ってあがってくるわけじゃんか。25歳なら25歳相応の立場が求められたり、圧力かかったり、そもそも仕事にも就き辛かったりするし。さらにいえば、支払える努力コストの上限も下がってくる。体が動かなくなってきたりとか。このままでいいのーって気になったんだが、そうして、快楽が減っていっても、最低快楽欲求値を割るにはずいぶんあるし、まー、いいだろ、って感じなんだと。
以上、世界っておもしれーなーって思った話でした。(雑)
胃が痛い。今また、あの頃のことを思い出すような状況で胃が痛い。
新卒で正社員として就職した会社は中小だったけど、ひょんなことから経営陣との距離がとても近い部署に配属された。
お偉い上司と二人きり、ほぼマンツーマンのような状態で仕事を行なう。まさにバディ状態。
新入社員が突然お偉方を相手にする訳だから縮み上がった。やっていけるのか自信もなかった。不安で一杯だった。
でもマンツーマンだからこそなのか、上司の人柄か仕事への姿勢の所為か、
何をするにしても報・連・相、それに確認から細かい指示に至るまで、
あれやれこれやれと口頭でギャーギャー言われる。それに答える形で自然とこちらの口数も多くなる。
気付けば上司とは密にコミュニケーションするようになっていた。
上司とはお互いそれなりに心を開けていたのではないか、と思う。
そのうち偉い立場だからこそ苦労している上司の素顔も知った。懐の深い人だった。
上司は何とか改善しようと思いつきで新しい要求を押し付けてくる。
誰も使い方のわからない、機能しない新しい提出書類の種類だけが増えていく。
そんなその場凌ぎの思いつきに応えられるほどこちらの余裕もスキルもなく、
軽口のつもりかもしれないが、上司が自分の同期のことを悪く言うのも許せなかった。
今にして思えば、この時一度きちんと話し合うか、他の部署の上司にでもいいから相談するべきだった。
結局堪忍袋の緒(とはちょっと違うけれど)が音を立てて切れ、
誰にも相談せずに一人会社を離れる決心をして、飛び出すようにして転職した。
でも後悔先に立たず。この会社での仕事の仕方は自分に合っていたのか、染み付いているのか
結局この会社、この上司が自分にとって一番だったのだと後々思うことになった。
転職先は大きな会社の子会社だったが、前の会社に比べるとかなり堅い会社だった。
制服有り、5分前着席。始業時と終業時、休憩時にチャイムがなる。
インターネットも閲覧規制がされていた。トイレ休憩すら気軽に行き辛い雰囲気だった。
そして自分はかつて学校が苦手な、いつも学校から浮いているような生徒だった。
派遣の社員が多かったこともあり、正社員ということも大きな足枷となった。
○○さんは正社員なんだから頑張ってもらわないと、この仕事もやってもらわないと、
引き継ぎは直に辞める派遣社員からだったが、その人から教えてもらった仕事の細かいノウハウは
「貴方は派遣ではなく正社員なのだから」ということで通じないことが多かった。
配属された班はあまり口数が少なく、そもそもこの子会社そのものが親会社に引け目を感じて
小さく小さくなって仕事をしている感じだった。
無論、社内(社内は親会社と繋がっている)での自分の立場も小さくなって過ごさなければならなかった。
上司や周囲からの指示はポストイットでの伝言や、メールで行なわれることも多く
無駄口や世間話一つするのも妙にこそこそとしてしまい、周りの目が気になった。
総じて会話が少ない職場だった。生のコミュニケーションの不足を感じた。
取引先に配布するカレンダーを巻く向きが表裏逆になっていたのだった。
そもそもカレンダーを巻いて取引先に配布すること自体、自分には初めての経験だったので
何度も周りの人にやり方を確認して注意を払ったつもりだった。
でも、何故か表裏の向きを間違えたまま自分一人で山のようなカレンダーを次々に白い筒状に巻いて行った。
「やっと全部巻き終えた!」一仕事終えた次の日、机にメモが載っていた。
隣りの席の営業から、「カレンダーの向きが違うから全部巻き直してほしい」との伝言が書かれていた。
隣りの席の営業とは、それなりに親しくしているつもりだった。
カレンダーの配布も既に始まっていた。
ならば何故、もっと早くに、直接口頭で言ってくれないのだろう。
そう思うと何とか堪えようとしても、どうしても涙が止まらなかった。
途方に暮れながらも、半分泣きながらも、全部のカレンダーを正しい向きに巻き直して行った。
心の中にぽっかり穴が空いたような気がした。
それから。
会社にいても、始終極度の緊張状態にいた。
緊張し過ぎておしっこが近かった。行ってもまたすぐ行きたくなる。
誰かに監視されているような気がして、常に気が抜けなかった。
常に息苦しく、ゼエゼエハアハアと呼吸をしていた。
毎日なんとか耐えて、8時間座りっぱなしの時間をやり過ごした。
そのうち胃にポリープが出来て、身体は極度の緊張状態が毎日続くものだから
背中の筋肉が肉離れを起こしたり、座骨神経痛で夕方まで座っているのが難しくなった。
腰が痛くて、ただベッドから動けず横になっていることしか出来なかった。
もうこの会社にいても自分が出来ることは何もないだろうと思い、結局会社を辞めた。
今。フルタイムでの勤務はもう自分には体力的に出来ないだろうと思い、
けれど、この会社もポストイットやメールでの指示や伝言が多い。
それはそう教わったのだけれど、とかそもそも違う人が作業した部分なのだけれど、と心の中で思う。
そして、何故目の前の席にいるのに面と向かって話をすることが出来ないのだろうか、と思う。
小さなことでも声を掛け合い、コミュニケーションの積み重ねで互いをより理解し、円滑な作業に生かす。
それはそんなに難しいことなんだろうか。嫌がる人の方が多いのだろうか。
いつも賑やかで活気のある職場は夢やフィクションの世界だけなんだろうか。
今は頑張り所なんだろうか、それとも早めに見切りをつけるべきなんだろうか。
連日ごくごく限られた範囲でもめている「ゲーセン少女」問題です。
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4077578.html
私はこの「ゲーセン少女」をみて、はじめて「まおゆう」にたいして憤っていた人が何に腹を立てていたのかと実感した。
フィクションだからではない、実話をフィクションだといったからじゃない、そこに「タチの悪いウソ」を感じた人がいたという話なのだ。
ただ、私は彼らの指摘を呼んだ上で、まおゆうは素晴らしいと思ってる。
彼らの指摘は間違いではないが、些細なこと、後で考えればいいや、という程度に受け止めた。その問題は私にとっては作品の是非を損なうほど重要度が高くなかった。
私にとって重要な部分については許容範囲内、しきい値内に入ってたということだ。
ところが、「ゲーセン少女」に対しては、私はただのウソじゃなくて、「タチの悪い嘘」を感じたわけだ。
ところが、まおゆうにおいては私がそうだったように、「感動したんだからいいじゃん」とその部分を許容出来る人もいるのだ。
このあたり、人によって、作品によって立場が変わる、完全に相対的な話なのだ。だから、肯定する側も否定する側もお互い好きにすればいい。
その前提に経つと、こういう記事は非常に遺憾である。ああもちろん島国大和の記事はこれに輪をかけて不快だけど、不快すぎるので引用しない。
http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20120122#p1
こういうのをハックル的行為と呼ぼう。読みの独占を主張したり、優劣をつけようとする行為のことだ。自分のブログで自著のアフィリエイトまですると芸として昇華されます。
自己の読みを、主張を正当化しようとするあまり、絶対化しようとするあまり、他者に攻撃的になる、他者をバカにしたり憐れむようになる。
僕は最近、「よくできたフィクションを消化し、必要な栄養分だけを自分に取り込む力」が、どんどん失われてきているのではないか、と感じているのです。
fujiponさんは、ハックルさん公認のハックルさん嫌いである。
そのfujiponさんが、よりにもよって自分が散々批判していたハックル的行為をするというところに、読みというものの相対性が伺える。
他人が自分の気に入らないよみをしている。しょうがないじゃないか。相対的なものなんだから。
自分の読みのほうが良いと思うなら、自分の読みを相手に提示してどや、でいいんです。
空中戦はやめよう。直接のよみじゃなくて、こういう「・・・はいかがなものか」ってメタな領域で戦うのはNOTHANKYOU。
そういうのは文学部の人間が文学部の中だけでやってればいいんです。それを極めると内田樹のような人間になるということを覚悟した上でね。
あかん、この話については語ると必ず争いに入り込む仕組みになってる。ブラックホールだ。話切り上げよう
よーするに何がいいたかというと、自分はこういうふうに読みました、だけ書いてりゃいいんです。
結局そのナマの部分の蓄積がモノを言う。最初からメタメタするのはつまらんからやめてくれ、と。
読みに対する批判合戦はやめて、作品と向きあえ、と。
最後にこれ聞いて終わり。「ゲーセン少女」は、その周りの感想記事に向きあうより魅力的な作品だったか?
作品周りの方が面白いのだと思ったら、まぁそういうことだ。
自分はこんなにタブを開いているが読んでいるのだろうか、全て読む必要があるのだろうか、したいことはなんだったんだろうか。
はてブやツイッターを見ながらタブでどんどん開いていき、読むのがめんどくさくなったらブクマをはる。なんのための情報集めだったんだろうか。
有益な情報がたくさん見つけられて、興奮する瞬間もある。
『有益な情報』、特に『ライフハック』と呼ばれるものは”方法論”で、”こうすればうまくいく”とか”これはよんどくべき、やっておくべき”だとか。
そんなこんなで、情報を集めたあと、実際に自分の行動を選択する瞬間がやってくる。
現実に活かす時だ。この時を待っていた。
有益な情報の中から『選択』をする。全てをやる時間はないし、それぞれの情報には齟齬が生じる。そこで取捨選択が必要になってくる。
このときに無意識なうちに心がけてしまうのが、『一番公平で』、『一番万人に通用しそうな』、正しく一番『合理的な』方法や情報はどれであるか。
ここで変なのが、はなっから『自分』が存在しないということである。合理的というのはいかに自分を消すかということであり、万人に通用するような一般則をみいだすかである。自分という文脈を完全に無視している。ある意味自分を否定することから始まる。
もう一つおかしなことがある。選んでいる自分自身は『合理的』・『無私的』かもしれないが、その情報は論理の飛躍があるかもしれないし、誰かの主観が凝り固まったものかもしれない。
ここで言いたいのが、論理の飛躍や、主観の凝り固まりが情報の質を著しく損なうものであるかといえばそうでもない。
むしろ、強烈に面白いと思われる物、人、情報は往々にしてなんらかの論理の飛躍、論理では説明できないなにかを内包している。
面白いというのは価値である。絶対である。面白さ=品質である。
しかし、面白い情報を集めることに意味があるのだろうか。それらを厳選して、凝縮して、合理的に、無私的に。
集めている段階から自分を殺しているのだから、自分の血にも肉にもならないし、なったとしても魅力的ではない。つまり面白くない。
情報の質はそれぞれ高いかもしれないが、それが脈絡なく量となって降りかかって来る頃には無価値となる。
結局人が求めているのは成長と共感である。自分自身の成長を感じる、か、自分自身と照らし合わせる、の2択である。
その情報が嘘かホントか、合理的か非合理的か、が問題になる情報は少ないし、そもそもインターネットという媒体にはそぐわない。
嘘でもいい。自分にフィードバックがあれば。自分にフィードバックを求めるためには、インターネットの中に自分を置かなければならない。虚構の固まりの中に。
発しなければ、返ってこない。今受け取っているものはその他大勢に発せられた無価値なものである。孤独を催させ、自分を否定するだけのものである。
ライフログとしてのインターネット。情報を体験に変えるものと信じて。
いつも何気なく、インターネットを見ていたブラウザ、Internet Explorer。Safari。どれもただブラウズ=閲覧という意味を越えている。
もともとそうなのかもしれない。自分自身が入っていかなければならないのかもしれない。インターネット探検家として。
インターネット探検家。私自身、いつもそうありたいと思っています。
そして今、卒業して新たな人生を踏み出すあなた方にもそうあってほしい。
ありがとうございました。
詳しいやついたら適当に補ってくれ
業務中にやらおんを見ていたアニメ制作会社シャフトのウェブ担当が、やらおんのアフィリエイトリンクを公式通販にコピペ。
↓
制作会社のミスを元に「【速報】シャフト、公式通販のアマゾンにやらおんのアフィ」というスレッドが立ち、ステマ疑惑を煽る。
根拠として「やらおんには該当商品へのリンクがなかった」「Amazonのアフィリエイトリンクは本人以外にはつくれない」などのデマが広がる。
↓
3.シャフトが謝罪
シャフトからウェブ担当のミスに関する謝罪が発表されるが、これといった根拠もなく「ステマ」認定が続行。
↓
「VIPPER速報管理人からのメール」とされるメールが晒され、実名や所属企業が割り出される。VIPPER速報の管理人が逃亡。
↓
5.モペキチがVIPPER速報のtwitterアカウントを乗っ取る
VIPPER速報の管理人が削除したアカウント名をモペキチが取得。ニュー速民を挑発。
↓
「大手アフィリエイトブログ管理人の騒動に対する反応」コピペが出回る(※捏造)。
↓
53 :あひるちゃん ◆z0WvbsWRgg :2012/01/11(水) 21:59:35.59 ID:K6f1TiJn0 >>447 モペキチのいたずらに全員乗っかって移動したんだから 物事の合理性はあまり関係ない。 暫くは嫌儲とかで遊べばいいんじゃないか。 656 :動け動けウゴウゴ2ちゃんねる:2012/01/11(水) 22:48:43.47 ID:sorCz8Fw0 シャフトがやらおんのアフィURLを載せる ↓ 嫌儲、ニュー速で祭りに ↓ 飽き始めた頃に削除神拳がスレスト ↓ 反骨心から再び加速、マジデリが神拳を攻撃し場外乱闘 ↓ LRに転載禁止を入れてもらおうとするもがる★により却下 ↓ シャフト謝罪、神拳が必死の弁明 ↓ ステマ連呼始まる ↓ たまご・停止信号が名前欄をステマ・アフィ仕様に ↓ vipper速報事件 ↓ モペキチがTwitter上でそこの管理人になりすまし挑発 ↓ フォロワーにあひるちゃんなど居たので炎上 ↓ 嫌儲移住へ 止めをさしたオトコは誰だ? 676 :動け動けウゴウゴ2ちゃんねる:2012/01/11(水) 22:55:31.94 ID:EBa/gQta0 >>656 一気に爆発したのはモペツネさんの釣りからなうね それまで嫌儲移住の話なんてひと欠片も出てなかったは
声優の明坂聡美さん、一部フォロワーに苦言「一生懸命作った作品を見てない事を返信してくるのはどうかと」 : はちま起稿
http://blog.esuteru.com/archives/5621373.html
畑亜貴さん『アイドルマスター』用に書き下ろした楽曲タイトルをメーカーに勝手に変更され、Twitterで激怒|やらおん!
http://yaraon.blog109.fc2.com/blog-entry-6169.html
最近目に付いた2件。共通するのは「俺(達)の気持ちを考えろ」というクリエイターの怒り。
これらへの反応は賛否両論ある感じだが、興味のない人は反応しないので、反応してるのは大抵信者かアンチ。まともと思われる意見は殆ど見られない。それに加えて一般消費者ではクリエイターの気持ちや事情がわからないため、的を大きく外している言論が殆ど。
まあそのことはどうでもよく、俺が気になっているのは「クリエイターの怒り」について。これは「クリエイターの思い上がり」から来るものではないかと。
クリエイターという職業は「なるのに努力と才能が必要」「なれる人の数が少ない」「信者がつく」などの要素があるためか、「クリエイターは偉い、俺は偉い」と勘違いする人が後を絶たない、気がする。
明坂さんにしても畑さんにしても今回の根本にあるのは「俺らが苦労して作ったものに敬意を払え、気を遣え」という主張である。これは本人達にとってはもちろんその通りであろうが、それをさも当然のこととし公衆に発信してどうすんだよ。非常に大人気ない、頭が悪いと感じる。
お前らが苦労したから尊いのか?違うだろ、価値は受け手が決めるものであり、世間が判断するものだ。クリエイターの自己満なんかはどうでもよく、世の中に需要があるものを作れたかどうかで、仕事が判断されるのだ。
ライブに行かない、作品を見ないというのは人々にとってそれだけの価値がないからだ。注いだ心血は、少なくとも直接的には関係がない。
タイトルが変えられたのはクライアントが元のタイトルに満足しなかったからだ。相手の望みにかなう納品をすることができなかったのだ。
(ちなみに後者については著作者人格権の同一性保持権の存在によりバンナムがアウト、という中途半端な知識による見解がコメントなどで見られるが、通常買い取り契約では「著作者人格権は行使しない」の一文が添えられていることが多く、もしそうであれば改変は法的に問題ない。通達すべきであるというのはまた別の話)
そもそもクリエイターとは通常、娯楽に関する商品を作る人のことである。娯楽とは、それと同じものがなくても死ぬことはない。現代社会において第一次、第二次産業に従事する人の割合は少なく、殆どの人は「生きるのに不要なサービス」を作ったり売ることで生計を立てている。つまり自分の特技を生かして「好きなこと」をして食ってるクリエイターという職業は、世の中の豊かさを享受することで初めて成り立っている余計な職業なのである。偉くなんかない、むしろ世間に食わしてもらっている立場だ。最近話題になった、自炊に反対する漫画家集団なんかもそうだが、お前らが勝手に作ったものがお前らの望み通りに消費されないからと言って、世間に対して堂々と怒るのは可笑しく、恥ずかしいことだ。作った者としては当然の感情だが、開き直ってさらけ出すべきものとは思えない。
クリエイターは自分の狭い視点以外で、自分の仕事についてよく考えてみるべきだと思う。俺自身もクリエイターとしてそう思う。
文筆は本業ではないので、乱文失礼した。
http://anond.hatelabo.jp/20111230044635
ククク 手当てがないだと・・・どうしてそんなうそをこれ見ろ この勝ち組天国のような手当てを
http://www.city.osaka.lg.jp/somu/cmsfiles/contents/0000005/5217/torikumihonbun.pdf
取締折衝等業務手当 1日500円
ククク 手当てがないだと・・・どうしてそんなうそをこれ見ろ この勝ち組天国のような手当てを
http://www.city.osaka.lg.jp/somu/cmsfiles/contents/0000005/5217/torikumihonbun.pdf
取締折衝等業務手当 1日500円
なんとなくその原因もわかる気がして、それは綱渡りの競争で勝者にならなければならない義務感が全面化していることなのではないかということだ。
職場はもちろん、親、兄弟姉妹、配偶者、恋人、友人、あらゆる人間関係で安心できる場所が少ない。
もちろん、子供でもない限り「無条件に自分自身を受け入れてくれる場所」なんていうものが誰にでも用意されているわけではないのは当り前だけど、
今の日本の社会って「失敗できない」という感覚が強過ぎやしないだろうか?
「あいつは使えない。使えないやつとはつるまない方がいい。いつ自分の評判に響くかわからない」。
実際、中学生あたりの年頃に、いじめる側にまわるかいじめられる側になるのか戦々恐々とする構造とあまり変わらない。
裏で働いているのは利害関係の論理で、この利害の理屈があらゆるところに顔を出している。
でも、個人的な関係まで悪化するかはともかくとして、ビジネスの場ではある程度それは仕方の無いのことだ。
しかし、恋愛関係が損得勘定なのは珍しくないとしても、親兄弟や利害が無いはずの友人関係までもが損得で勘定されかねない今の状況はどうなんだろうか。
いけてるやつとつき合いのあるいけてる自分、いけてないやつとつき合っているいけてない自分。
そして、自分は自分の友人や親兄弟や恋人から見て、いけてるのかいけてないのか?
あるいは実際はそういうわけでもないのかもしれない。
親兄弟・友人同士の関係における損得勘定感覚、利害の論理はもしかするとそれほど前面化しているわけではないのかもしれない。
だけど、ここで重要なのは「そう感じられる」ということだ。不信の種にはそれだけで十分だ。
社会生活を送るにあたって「失敗できない」という緊張を延々と強いられたらどうなるだろう?
誰に対しても「へまをすれば自分は徹底的に見捨てられる。だから決してミスをしてはいけない。この綱を踏み外してはいけない」
という強迫観念を持って日々を生きなければならないとしたらどうなるだろう?
そして、失敗してしまった人間が「自分はへまをしてしまった。綱から落ちてしまった。だから自分は見捨てられても仕方ない存在だ」
と感じているとしたらしたらどうだろうか?
恐れる人間は当然のようにその恐れの原因である自分の物差しを、そのまま他人を評価する物差しとして使う。
この場合「へまをしないようにそこに精力を傾けて努力している私は、へまをした人間を切り捨ててもいいのだ」という感覚だ。
こうして実感された全方向における関係性の「綱渡り感」は社会的現実になり、再生産され、綱から落ちた者への容赦ない冷笑・蔑視・罵倒は正当化される。
とにかく明るく元気で前向きにいることが義務づけられているこの空気の中、
少しでも気鬱な表情を見せれば途端に敗者の匂いが漂い、それだけであらゆる場面で敬遠の対象になってしまう。
今までの日本社会ならば、失敗したとしても、明るく元気で前向きにいることが可能だった。
社会全体が経済的な繁栄を享受する中で一度二度つまづいたとしても、もう一度立ち上がってライフコースを再構築するくらい日本社会の路は太く安定していたからだ。
「なあになんとかなるさ。死ぬわけじゃあるまい。人が人でなくなるわけがあるまい」が現実だったのだ。
だけど、今や日本社会の路は一本の綱になってしまった。誰かがどこかで失敗することは避けられない。
そんな社会で私たちは「一度躓いたら徹底的に孤立する」という「綱渡り感」から逃げられない。
「みんながやっている綱渡りなんだ。敗者が孤立するのは当然だ」という声があらゆるところから聞こえる。
でも果たして本当にそうなんだろうか?本当に失敗した人間は孤立しなければならないんだろうか?
目の前の路は、落ちたらまっさかさまに孤立へと落ちる、一本の綱なんだろうか?
実は、目の前の路を「綱渡り」にしているのは僕たち自身なのではないだろうか?
僕の弟は今大学4年生で、本命ではないけれども、某企業から内定を頂いている。だけど本人はひどく落ち込んでいるようだ。
大企業へ就職する者が多いという周りの友人に比べた時、弟は、既に失敗している、綱から落ちてしまった、という思いがするのだそうだ。
驚いたことに、留年してもう一度本命の企業(某広告代理店)に挑戦したいと言い出す始末。正気の沙汰とは思えない。
挙句の果てに、弟は僕に対しても卑屈な態度をとるようになってしまった。
僕の会社は弟の内定先よりもはるかに知名度の低い会社だというのに、だ。そんな弟を見るのは軽くショックだった。
だけど、自分の周りを見てみても、もしかしたらそういう感覚は、この日本社会ではもう当り前なのかもしれないと思うようになった。
共に氷河期の就職戦線を生き残った大学時代の友人が、弟とまったく同じ卑屈な態度をしていたからだ。
失業をきっかけに鬱になってしまった彼の元を彼の妻は去っていった。幸か不幸か彼らには子供はいなかった。
そして友人は変わった。ひどく自分を卑下し、まるで「まともな人達」と同じ場所で生きていること自体が申し訳ないことかのように振る舞うようになった。
彼の失業や離婚に心を痛める人間は世界で彼ひとりしかおらず、他の誰一人として彼の心痛を共有できるものはいないかのような物言いをするようになってしまった。
氷河期世代の割に比較的のんきに生きてきた僕は、今とても恐ろしくなっている。
今まで考えたこともなかったけれども、もし僕が会社から解雇を告げられたら、あの卑屈な表情を僕に向けてきた弟や友人は僕を嘲るだろうか。
僕の恋人は負け犬を見る様な目で僕を見て、そして僕から離れていくだろうか。何より僕はそんな態度をとり始めた周りの人間を恨まずにいられるだろうか。
人生の苦しい状況で、支え合うことよりも、蜘蛛の糸を奪い合った亡者達と同じように蹴落とし合うことを選び、
ひたすら損得と利害だけで行動するような餓鬼の如きなにかに成り果ててしまうのだろうか。
綱の下に広がる網は、綱の上を歩いている時にははっきりと見えるけれど、一度綱から足を踏み外した瞬間に消えてしまうのかもしれない。
なんという恐ろしさ。徹底的に孤立するから綱から足を踏み外せない、でも誰かは足を踏み外さなければならない。
ならば蹴落とす、自分が落ちない為に。落ちたやつには目もくれない。
こんな緊張があらゆる人間関係で全面化してしまったら、そりゃ狂うわ。
綱をうまく渡れている時でも生きている心地がしないもの。
「もし、お前の一番の希望が通らなかったとしても、その時は僕がどこかにコネをつけてやるから。そのくらいはなんとかなるから。だから後悔の無い様に思いっきって挑戦してください」と。
そして、友人にはこうメールする。「元気?お前が暇なうちに久しぶりにまたオールナイトでも見に行こうぜ」。
彼女にもメールを送る。「お仕事おつかれさん。今度、温泉でも行っておいしいごはんでも食べて一日中ぼーっとしてゆっくりしよう」。
多分、会社の同僚にも送るだろう。今はもうあんまり顔を合わせなくなった大学時代の友人や高校時代の友人にも。父と母にも送ろう。
少なくとも、僕にできる部分だけでも常に網を張っておこうと思う。
きっと今は、そういうひとりを思いつめさせないように気遣う努力がひとりひとりにとって必要な時代なんだと思う。
そうじゃなきゃ、みんな悲惨な気分を内に秘めて、そして隠しきれずに卑屈な顔をしながら生きていかなければならなくなってしまう。
いいことがあれば共に喜び、わるいことがあったら共に悲しみ、そしてまた再スタートを切ることをお互いに後押しし合わなければダメなんだと思う。
これだけ厳しい時代なんだから、経済的な意味でも、人間的な意味でも、そのくらいのことができなければ、僕たちは人間でなくなってしまう。
スマートフォンサイトで上とか下とかに出てきて、スクロールしてもついてくる広告をオーバーレイ広告というのだが、この広告に力を入れている会社が多いようです。
自分には、あんな将来性のない広告方法が流行っている意味がわからない。
あんなうざい広告どう見たって先行き暗いだろ。ただでさえ狭いスマホ画面を広告に、占有されるのはうざいことことのうえない。画面を動かしているときだけ引っ込むタイプもあるが、出てきたり引っ込んだりして余計うざい。
昔、PC広告でよくあったポップアップ広告に近いものがる。自分の意思で消せない分だけもっとウザイかもしれない。
クリック率はそこそこ良いらしい。でも広告掲載商品のサービスの申込みやアプリのダウンロードに結びつく可能性は低いらしい。 大手広告主のR社は、オーバレイ広告への出向は全て止めたらしい。
スマホユーザーにも広告主にも不利益なオーバーレイ広告は即刻やめて欲しい。
http://www.afpbb.com/article/politics/2846317/8208785
この記事だと高齢者の扱い悪いよねってアルカイダに言われちゃってるって話なんだけど、そもそも儒教文化がかつてはあって、老人大切にしようずって教えも親から受けてたはず。なのに何で老人の扱いが悪くなったのか?と。社会に出てお金を稼いで税金納めたりしてるなかでその使い道とか、それを決定している政策や政治やら投票やら諸々見聞き体験して、ギリギリ若者側に位置する30歳男子としては思う所あるんですよ。
老人って大切にしなきゃならんのか?という疑問。
まずこれが生まれちゃってるからそもそも大切にしない。大切にしなければなららないという確信持ってないんだったら迷いが生じる。当たり前の様に助ける行動に躊躇やスルーが選択肢に生じる。この選択肢は自動選択されるので本人が意思決定してるわけではないってところもポイント。だから目の前で倒れてる老人が居ても、普段の思想や行動力から勝手に決定されるので、何で助けなかったの?って聞いてもいや、べつに、とかこれと言って意思決定された形跡がある回答は得られない。
こういう現象の積み重ねがリンクの記事とかに現れてるに過ぎないんだと思うんだな。
俺自身も老人たすけなきゃならんの?とは思ってるけどね。倒れてる人は老人に関わらず助けるよ。そりゃ。こないだも大岡山で倒れた老人介抱した。周囲に東工大生とおぼしき大学生いっぱいいたけど誰も助けないのな。びっくりしたわ。老人だからなのかどうかは分からないけどね。
で、なんで老人大切にしなきゃ成らないの?と思わせてしまったかについては諸説あると思うんだけど、俺が思う老人大切にする必要無い風潮の原因をいくつか挙げてようと思う。
* 投票権に関する問題
この3つ。
一つ目の投票権に関する問題は、20歳以上の日本国民男女に与えられるが、その後、剥奪される事は無い。
15歳くらいには政治に関して関心を抱くし、10代で興味持ったものって凄い勢いで知識を吸収して行くから20歳までは正確な判断できないと断定しちゃうのはちょっと無理がある。まぁ20歳以前までは煽動に乗せられやすいから非知識層に与えるのはどうかとは思う。暴走族やってる輩とかは背後に893だし893は日本国民でないものが多く混じってるっていうから若者を使っていくらでも糞政治家に有利にできてしまうだろうし、まぁこれは20歳以上までって切り捨てておいた方が安全だわ。
一方、引退してあとは老後の生活だけって老人達、たとえば65で引退して80で死ぬとすると、あと15年分は社会の荷物になるわけだ。その間の15年感は年金だとか生活保護とかで確実にお金がもらえる。負担はそれ以下の年代全体で受け持つ。そして投票の歳も残りわずかな人生のための投票を行う。誰のためって自分の為。
49 名前: 名無しさん@涙目です。(東日本) 投稿日:2011/12/17(土) 14:08:10.54 ID:kmN9yLA+0
要は、こういった輩が大半を占めてるし、その結果、若者世代からしたらこいつらのこういう思考には反吐が出る訳で、Hateも溜まるよね。
だからさ、昔の話じゃないけど、税金を一定以上納めてる人間でないと投票すべきじゃないんだよ。
■現状
■理想
とういうわけで20歳以下を切り捨ててるのと同じ理論で、60歳以上の人間からは投票権を剥奪しましょう、というのが一つ目の問題と解決案。
橋本徹がねずみ講って言ってる通りだし、若者から搾取しすぎて疲弊してるじゃん。さっきの投票権の話でも言ってるけど未来ない老人に金使っても何も良くならないわけで、それなのにこれからを作り出す若者を疲弊させてどうすんの?
情報の乖離なんて何処の世代でもあるんだけど、根性論とか精神論ベースにしている老人団塊世代以上は非常に厄介で、事実に基づいた話も可哀想とか主観的感情で無駄な行動に終止するし、その無駄のとばっちりは良く受ける。これは近くは自身の両親との乖離、遠くは現役政治家のネットに対する理解度の低さなど、幅広い所で存在している。
例えば、アパートに一人暮らしの老人がいました。家族は2ヶ月に1度ほど会いに来ます。暑い夏、エアコンを設置する話をしてましたがエアコンは身体に悪いと老人は断りました。家族は本人が我慢するのであればと引き下がりました。老人は熱中症で死にました。熱いので腐敗の進行早いです。部屋には強烈な腐臭がふちゃくしましたとさ。
これ、老人死んでるだけじゃん、と思うかもしれないけどアパートの持ち主はアパートに損害出されてて、価値を定価させられてるわけ。財産を傷物にされてるんだよね。老人の無知が招いた結果なわけです。
他にもね、抱きぐせが付くから赤ん坊は抱きません、という主義の老人は多く居る。これはちょうど今団塊の世代がやっていたことで子供をだっこすると何でもかんでも抱っこしてくれって癖がつくから止めましょう、という理論から発生して、この手の情報が古いままな事に起因する。現役で子育てしてればその手の情報を新しいものに置き換えて行くだろうけど、子育てが完了したらわざわざアップデートはしないから仕方ない。が、孫が生まれてもそのままの知識を適用したがる。
ちなみに現在ではスキンシップによる精神発達と脳の発達に大きな影響があることがわかってるので、積極的におこないましょう、だっこもしておきましょう、という話が主流だ。統計も取られているしぐぐったらかなりの量の情報が出て来る。
これにより老人に育てられた子は発達が遅い可能性があり、社会の一員の能力を著しく損なうわけだ。ちょっと極端だとは思うけど。
まぁ、老人からうける損害によって単純にHateが溜まるよね。という話でかまわない。
これら3つの理由によって溜まるHateの量と、理由1で見られるふんぞり返った老人たちに業を煮やす若者、理由2で疲弊して余裕を失った若者は、老人に敬意をもって摂することなんてあるだろうか?