はてなキーワード: あずまんがとは
世相を反映して、それを日々日々描く4コマ漫画なんだから、我々と同じ世界観が無い方がおかしい。
うーん・・・
戦闘でも、恋愛でも、成長物語でもなく、キャラの掛け合い(キャラにとっての日常)を淡々と描くのが日常系だと思うんだけどな。
この『キャラの掛け合い(キャラにとっての日常)』を、『我々の(現実的な)日常』に近い形で描いているって認識が、私とはずれてるんだと思われ。
なんだか知らないが大富豪がいて、とんでもない天才がいて、狂言回しの大馬鹿がいて、そのなかで没個性ともとれる普通の人が居て。
それらキャラの存在になんら疑問を持つ必要がない世界で、キャラの掛け合いに特化したような話を展開するのが、日常系だと思うんだが。
気持ち悪いなこのスレ。恥を知る心があるなら根拠のない他者への印象批判なんてものは2ちゃんか増田で一人でやれよ。
他人を晒しあげにして共同意識を持つなんていう人間の最もいやらしいところは
2ちゃんかうらぶれた飲み屋以外でやってほしくない。とにかく一人でやれこういうのは。
あずまんがブロックするのが「人の話を聞かないバカ」みたいな扱いをしてる人がいる。
guldeenとか。
馬鹿はお前だろ。
それでも私はブロック云々の行為はごく正当だと思うんだわ。
批判したいなら、やつの発言内容とか、批評の内容について、ちゃんと自分の理論をもって戦えよ。
ぶっちゃけ、言語レベル・思考レベルで会話が出来ない相手をなんで相手にする必要があるのか意味不明。
人の話を聞かないとか批判を相手にしないっていうけど
耳を傾けるに値しない意見が99%以上だろ。
残り1%が巻き添えになってブロックされるのは気の毒だけど、
そこだけ取り上げて東は人の話を聞かないとか、それなんてマスコミ脳だよ。
もともと頭の出来が違う人が、気まぐれで底辺レベルの自分の高さまで降りてきたからって
関係ないけど、「処女好き」な人も、下のどちらを上位に置くかによって、分類されうると思う。
・体は非処女だが、心は一途
まあ、「処女タンは心も処女にきまってるんだい!」という夢を見てる阿呆は置いておくとして、ひろゆきの言う海外の処女好きは「心の処女性」とかはどうでもいいんだと思うんだよね。病気のリスクが低くかつ他の種を孕んでいる心配がない、という。でも、あずまんが批判してるオタクの処女好きが求めてるのは、そういう即物的なことではないんではないか。
いずれにせよ、「学生時代からお互い始めて同士でつきあって卒業後すぐ結婚して、子供できてバタバタして、30過ぎでほーっと生き抜いた瞬間に不倫始めたカップル」とか、そういう例も見てると、処女信仰とかホント意味ねーわと思う今日この頃。
18歳未満をどうやって判断するかなんで、描いてるマンガ家自体ができるんじゃないの?
ランドセルだとか制服だとか設定以前に、小学生ならこれくらいの頭身で顔は丸くてとか、
「小学生らしく見せる」方法論はあるわけでしょ。
もちろん画風によるだろうけど(たとえば個人的にはあずまんがの人なんかは全部小学生に見える)、
マンガ家は小学生として描いてるし、読者もそう認識しているにも関わらず、
「どうやって18歳未満と区別つける」とかっていうのは「どの口がいうの?」と思う。
それに「資料」として実在する児童を撮影した「児童ポルノ」に該当するものを所持してるケースも多いのでは?
ジョークだってジョーク。air/kanonからゼロ年代が始まってる訳ないだろ?oneからに決まってんじゃん。
…ってのも冗談。ゼロ年代のアニメ史において、京アニっていうアイドル的存在の示唆は重要だけど全体からみるとそんなにでかくない。それ以前の存在として「ゆるい萌えラブコメ」を許容するに至った金字塔的作品があったと思われる。個人的には「ラブひな」がそうであったように思うが、実際どうだったかは分からん。ラブひなとあずまんがは同時期だったしな。
が、確実に言えるのが前世紀のエヴァがアニメというジャンルに関して凄く影響を与えてしまったこと、サブカルジャンルが割と一般にも膾炙しちまったことには一定の理解が得られるとは思うよ。
俺は、26歳の彼女いない暦=年齢の男だ。
顔は子供っぽい童顔で今でも20歳くらいに間違えられる。
小学校、中学校と自分は女の子に苛められていた。もともと、社交性があまりなく重要な場面で空気が読めないのが災いしたらしい。
「○○はきもい」「死ね」
などと、頻繁に言われていた。
それは、中学になっても続いた。
こんな自分が、コンプレックスを拭う事ができるのはアニメや漫画、小説などの内向的な趣味でありそれを語ることができる男のオタク友達だった。
このころから、電子工作や自作PCやプログラムに嵌ることになる。
幸い、自分は勉強だけはできたので県下の公立進学校に進学した。
高校に進んでも、付き合うのはオタクタイプの友達ばかりだった。
同級生の中には付き合っているという話も聞くようになったが、はっきり言って興味がそれほどなかった。
好きな女の子とタイプを聞かれたら、あずまんがの大阪と答えるような高校生だった。
好きな勉強ができるというのは辛いながらもそれなりに楽しい。ギャル女やギャル男が大嫌いな自分にとって、基本的に真面目な男しかいないこの環境というは非常に心地いい。
でも、20歳を越えたころから周りの友人に彼女ができ始めた。サークルや合コンで知り合っているらしい。
自分も女の子は好きだ。だが子供のころのトラウマから特に同年代の女の子が怖いのだ。
自分も合コンに参加してみた。私立の女子大生との合コンだった。
だが、そもそも何を話して良いのかわからない。彼女がいたことがないと言うと驚かれた。そんな風には見えないと。
子供っぽい顔も、年齢が高くなってくると悪くない顔に見えるらしい。
だが、共通の話題が一切見つからず、隅でじっと一人で酒を飲んでいた。
このような合コンには何度か参加した。
中にはアプローチと思われる行動をしてくる人もいて
血液型や星座が同じだと「運命感じる」などと言ってくる人もいたり
だが自分はそれに対してどんなリアクションをとったら良いかわからないし、子供のころのコンプレックスからか恐怖を感じてしまう。
決して、女の子が嫌いなわけではないのだが。。。。。
そのうち、研究室配属後はこのようなイベントにも参加しなくなった。
就職は、誰でも名前を知ってる大手の自動車メーカーに決まった。
就職後は忙しい日々を送りながらも、同窓会や合コンに参加してみる。
自分の勤務先を知るやいなや、甘い目線で話しかけてくる元同級生の女の子。はっきり言って気味が悪い。
合コンでも、似たような感触を受ける。
彼女らは自分自身ではなく、自分の年収とボーナスに興味があるのだ。
そんなこんなで、26年たった今でも彼女いない暦=年齢だ。
「俺、萌え系4コマ漫画好きだよ」と言う男に、好きな作品や作家を聞いてアニメ化作品の名前があがってくるとげんなりする。心底がっかりする。アニメ化したのも私も大好きだし、素晴らしい作品だと思うけども、臆面も無くらきすた・けいおんの名を挙げる人のほとんどが、それ以外の萌え系4コマを読んでいないんだもの。それどころか、そのアニメ化作家さんの別の作品も読んでいない。せめて「棺担ぎのクロ。」ぐらい読んでから言ってもらえませんかね。
要するに「萌え系4コマ漫画を理解する心のアレな俺」を演出するために、いちばんてっとり早くて優等生な回答なんですよね。らきすた・けいおんは。あと、あずまんがもこのカテゴリに入る。
確かに男性に人気の萌え系4コマ漫画家として鉄板なことは間違いないけど、本当に萌え系4コマが好きならもっとたくさんの名前が挙がってもいいと思う。もっと読めよ!きらら以外も!エロマンガ雑誌のも!「あずまんが大王」「らき☆すた」「ひだまりスケッチ」「けいおん!」のコンボはもう飽きました。
1度だけむんこという回答が返ってきて、土下座せんばかりに感動したことがあります。あ…この人、本当に萌え系4コマを読んでる人だ…と思ったよ。
(元ネタ古…)
あずまんがは木の股から生まれてきたとでも?
全ては繋がっているのさ。親が漫画じゃない可能性はあるにしろ、な。
それを考えることをせずに「神が齎した奇跡」とでもショートサーキットすればそれは思考停止に他ならない。
因果はある。存在するものには存在する理由がある。奇跡なんかじゃない。突然現れたわけじゃない。正解は無いかもしれない。でも、正解に近づくことは出来るだろう? 少なからず我々は漫画が好きであったり、人生の漫画が一部になっている人間なんだ。己の存在理由を放棄することなど、できやしないさ!
俺がなんとなくあずまんがの原点だと思ってるものってのは、所謂三文エロマンガに埋め草的に載ってる、リアル女の子が書いてる半端エロなあのマンガだと思うんだよね。
それこそ竹田エリさんなんかもそうなのかもしれないけど、なにか決定的に違うような気がしてならない。
あずまんがが萌え系の始祖だと仮にするとして、それの親は一体なんだったのだろう。何とするべきだろう? なんか妥当な答えは無いか?
先ほどあがってた
・竹田エリ
さんなんかは、違うように思う。なんとなく。
イリオモテヤマネコを飼い続けてバレないわけがないと思うんだけど。
いざ発覚したときにどうするんだ。猫だと思っていたと嘘をつくのか、そんな嘘をつけるのか。
正直にいったら獣医学部退学、獣医師免許剥奪ものだと思うんだけど。
あのエピソードがあるからどうしてもあずまんが大王を心から気持ちよく楽しめない。
開始時刻に少し遅れて着いたんですが、600人収容の講堂はすでに立錐の余地もない状態。
中継会場も立見席しかない状態。
こんな「ウルトラ怪獣大行進」というか「フェラーリVS朝青龍VSミトコンドリアVS標題音楽」のような異種格闘技戦企画にこれだけの人があつまるなんて驚き。
まるで興味のなさそうな大学生カポーが座席でいちゃついててむかついた。
シンポジウムはあずまんがひととおり趣旨を語った後に、『アーキテクチャの生態系』で名をあげた濱野智史の基調講演その1で幕開。
この手の議論になじみのない人に配慮したせいか、ネットに広がるアーキテクチャ(地平)はリアル世界の建築アーキテクチャと違って無限だよ、という話とある意味アーキテクト(設計者)がないネットは「人工」でありながら「自然」だよというベーシックな話を平易に語ってた。
すかさずあずまんが「ようは自然に見えるから人工のアーキテクチャに対して批判ができなくなってるのが問題なんだよね」とそんなこと濱野氏はひとこともいってないのに強引にまとめる。
まぁ、彼らの議論はそういうところにあるんだからいいかと思うけど、会場から微妙な失笑も。
つぎはうのたんの基調講演。
白いスーツで登壇した宇野タンですが、緊張してるのかビビッてるのか異常な早口でまくし立てる。
挙動不審といってもいいくらい。
内容は「ゼロ年代の想像力」をふまえつつ、アーキテクチャもいいけど、倫理的・実存的な問いも大切だからその両輪でいこうよという話にきこえた。相変わらず「母性のディストピア」がどうとか「悪い場所」がどうとかマッチョな説教がうざかった。
だんだんわけわかんない話になってきて、会場が「空気嫁よ」というふいんきに満たされる。
これもすかさずあずまんが強引うまくまとめる。
あずまん頭いいよ!!
ウノたんのえらく冗長な話を一発で簡潔にまとめる力。おそるべきプレゼン力。
つまんなかったのか「だいたい今日の趣旨とか聞いてない。宇野とか濱野とかよくしらねーし。
いろいろ言ってるけど、あんまり新しいことを語っているように思えない。だいたい今も昔も批
評の場所もないんだよ。マルクス主義が失敗した時点で!」とツン発言。
なんかこのシンポジウムはどこに行くんだろうと思ってたら中継画像が切れる。
復旧の見込みがないので、立錐の余地のない本会場に突入。
しかし、全般的にこのシンポジウムはロジが最低だった。
ついたときには磯崎新が「アーキテクチャ、アーキテクチャってうるさいよ。なんでもアーキテクチャっ
ていうな。定義汁」といい、続いて宮台も「俺も今日の趣旨は聞いていない」と切り出してあとはハイエ
クがどうこうと好き勝手しゃべり、「今日のシンポジウムは失敗なんじゃないの」とまでいう始末。
たしかにそれぞれが好き勝手なことしゃべって論点がまったくぼけてしまい失敗したようにみえたけど、が一番悪いようにも見えた。
宮台の散漫で冗長な話をいっしょうけんめいあずまんがまとめては一本の論点に集約させようとしていた。
結局、あずまんがいうところの「アーキテクチャ」に関してそれぞれがひとつにまとまった問題意識をもっていたわけではないので、あ
まり議論はかみあわず、お題に対してそれぞれが好き勝手にしゃべる場になっていたのは残念だけど、それなりに「アーキテクチャ」
をめぐる「論点」が総花的に提示されたようにも見えて有意義だった。
なぜか「ひろゆき(2チャンネル管理人のね)と公共性」が途中からメインイシューになってたけど、これも「アーキテクチャ」を
語る上ではずせない要素なのかもね。
あと、ウノタンは最初の基調講演と1回しょうもない発言をしたあとはずっと黙ってた。
どうも場違いだったようにも見えた。うのたんの最後のコメントは聞かずに帰った。
3時間立ち見だったので腰が痛い。
付記
うのたんは最後に「6割はどうでもいい話だった」といいはなち、「大文字の公共性はある」と叫んで行ったらしい。
うのたんのいう公共性って「ジャニーズドラマも仮面ライダーも純文学もアニメも語れる俺こそが島宇宙を越境した公
共性の司祭だ。みんな俺になれ」っていう程度のことでしかなくね。
うのたんは会社員はやめないほうがいいと思う。
生あずまん見てきたよ。
講義にもぐった理由
・ネット☆スター見て興味を持ったから
・著作読んだら、えらく面白かったから
読んだ本
『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』
ホントは先週行こうと思ってたんだけど、腰が引けてた。
んで、行かないで家でぼやーっといつもどおりネットしてたら、はてなでなんかもめてた。
↓こんな感じで
東浩紀問題、または歴史修正主義問題について(開かれた学問・知識について:前編)
http://d.hatena.ne.jp/amamako/20081213/1229172460
ああ、こりゃ早めに行っとかないとモグリ禁止もありうるなということで今日行ってきた。
講義に出ていろいろと思ったこと・感じたこと
1.
教室が小さい
講義に出る前は、てっきり大教室でやってるもんだと思ってた。
テレビに出てるくらいだし、そこそこ名前が売れてる批評家なので。
ところがどっこい、かなり小さい(と言ってしまうと失礼に当たるのかもしれませんが)教室です。
ふいんき(ryも、講義する人と学生の間に「関係」があるのを感じさせるアットホームな感じです。
簡単に言ってしまえば、人数多めのゼミみたいな感じ。
なので
次は、トラメガを持って東工大に行きます。
こんなこと書かれたら非常に迷惑だし、普通は怒るだろうなと。
確かに大学は開かれている「べき」だけど、mustではない。
時と場合によるし、あの「規模」だと開かれていなくてもしょうがないかなと。
歴史云々について
授業の前半30分くらい使って説明してた。
別に難しいことは言ってない。(以下はワタクシの解釈)
自分が体験したわけではない「歴史」というものは、物語でしかない。
その物語の「強度」によって人は「真実」であるとか「捏造」であるとか判断する。
常に更新可能であるし、閲覧した時点での記述が閲覧者にとっての「真実」となる。
また、「ソースがwikipedia(笑)」って感覚は「ソースが歴史学者(笑)」に通じるべきだ。
少なくともポストモダンな人は。
ってあずまんは考えてるんじゃないかな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA
南京大虐殺論争
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E8%AB%96%E4%BA%89
id:toledって人は、wikipediaで言うところの「ノート」で議論して、
らちがあかないから「みんなで編集合戦しようぜwwww」って言った様なものなのかな。
以下は生あずまんを見た後の、著作その他にかんする感想。
2.
http://watashinim.exblog.jp/8879908/
大塚 その話を聞いてしまったら、ポストモダンっていうのは、何もかもから距離を取れて、すごく楽な思想だっていう話になっちゃうよね。
東 楽と言えば楽ですが、楽じゃないと言えば楽じゃない……(苦笑)。
あずまんはポストモダンの「判断の不可能性」についてわりと謙虚な立場。
それは『波状言論S改』にもよく現れている。
ただ、それは「批評家」としてはどうなのかなーってのは確かに思う。
まぁ、「ずるい」と言われてしまってもしょうがないかなと。
(ただ、「ずるい」と言ってしまえる人ばかりだとまずいので「逆張り」している可能性もある)
宮台氏とか大塚氏は「イエネェっつっても世の中良くするためには何か言わなきゃ」な人たち。
東氏は「なぜか」そこには触れたがらない人。
(『ゲーム的リアリズムの誕生―動物化するポストモダン2』の序章で「生と実存の問題には触れていない」とはっきり書いてある。触れろよ!)
東 この議論は続けても仕方ないんじゃないかな。今、大塚さんはぼくの人格を批判しているので、
それはやめたほうがよろしいんじゃないかと……。
大塚「なんで自分の人格(判断)を晒さないの?馬鹿なの?死ぬの?」
あずまん「それは人格攻撃じゃ・・・」
んー、たぶん、「政治学」が好きじゃない?から言わないのかなぁと。
3.
あずまんって、『リアルのゆくえ―おたく/オタクはどう生きるか』で明言している通り、
「政治学」に興味ないから(「僕は政治がわからない」発言より)あんまり「政治学上の定義」とかにこだわってない。
だからたまーに何言いたいのかわからなくなる。
「政治」っつっても、ウェーバーの「政治」とアリストテレスの「政治」とぜんぜん違う。
ロバート・ダール
の『現代政治分析』(岩波書店, 1999年)第1章「政治とは何か」とか読んでみればいいのにーって思う。
あずまんが言うところの「共感」とか「正義」って、ダールの言うところの「規範」かな。
デモクラシーって経験主義的に「正義(善)」とされてるから、そこは政治学では脱構築?しなくていいんだよね。
そこさえ乗り越えちゃえば、宮台氏みたいな「行動」をすることができるんじゃないかなぁ。
コントロール(支配力)control,影響力influence,権力power,権威authorityをかなりな程度含む人間関係の持続的なパターン
4.
さいごに
あずまんは笑顔がかわいい人でした。
男に好かれるのは判る気がする。
(http://anond.hatelabo.jp/20080813223439のつづき)
それとも、それもコンプティーク側の問題とかいうのか?
そーじゃないだろ、それはお前ら(※らきすた)が自分で判断できねー萌漫画だから言われた紙面をつぶす方向の考えしかできなかったんだろ。
ようは、お前ら(※らきすた)自体がうすっぺらいんだよ。
どうせ、お前ら(※らきすた)、原稿上がったら、とっとと帰ってんだろ。
お前らのファンもうすっぺらいが、お前らもうすっぺらい。
例えば、お前ら(※らきすた)、なんか他誌の作品みたんか?
ぜってー、みてねーだろ。
設定的にバリバリにかぶってるヤツもいるんだぜ、深町センセも見たって言う今日の早川さんもそうだし、となりの801ちゃんも無茶苦茶かっこよかったぜ。聖おにいさんなんかも、エッジィなのに超ポップで、お前ら(※らきすた)の漫画的にも聞いとけば、お前ら(※らきすた)の今後に役立つにちがいないけど、どうせ、そいつらの名前すら知らないだろ。せいぜいあずまんがみたくらいじゃないのか?
ようはお前ら(※らきすた)は結局、美水のうすっぺらいオタ趣味で口パクで踊ってる萌漫画なんだよ。それをしゃーしゃーとギャグポップメディアミックスの風情でいるな、大魔法峠はおろか小麦ちゃんにもつくねちゃんにも失礼だ。
エレクトロとかいうのもサナギさんにも伝染るんですにも失礼だ。
無茶ぶり過ぎるだろjk
つづき誰かたのむ
http://anond.hatelabo.jp/20080811144621
それまでも、オレはアニメとしてらき☆すたは好きじゃなかった(いや、正確に言えば萌えアニメ全般が嫌い)だったが、いちおう、キャラクターに定評のある人たちだから、どんなもんか見ておかないとちゃんと文句は言えないだろうと思って、見ない限りはdisらないと決めていた。
もしかしたら、そこにキラメキがあるのかもしれないし。
漫画の環境が悪かったと言い切るのはあまりにもむごすぎないか、あの漫画は。
萌え絵ってのは知ってたから、そこに特に文句は言わない。
話? だって、アニメと同じでしょ。だったら、ニコニコでフルスクリーンで爆音で見ればいいよ。でも、そもそも絵が嫌いだからどうしょもないけどな。
ギャグ? いや、確かにオタ向けかもしれないが、萌え絵にする意味がわからん。萌え絵じゃないとできないの、あれ? なんか、あずまんがとかアレくらいのギャグして萌えれた気がするんだけど。いや、ゴメン、オレ、萌えはよく分からんから、これ以上はいえないや。
キャラ? あんな似たような顔面でダラダラとしゃべられてもむかつくだけなんだよ。
だいたい、それにしてはしゃべりも全っ然おもしろくねーんだよ。
あの似たようなキャラが読者にギャグで笑いを誘うなら、もちっと面白いこと言え。オタの方々は楽しんでたかもしれないが、しょせんは、オタへのオナニー漫画でしかねーよ。
チョココロネで天丼してスベッてた以外は、何もおぼえてねーよ。
今回に限っていえば、無理に四コマにしてオチをつけるなら、一気に1コマやってページ切り上げてくれた方がよっぽどましなんだよ、笑わせるそぶり見せるなら、違う方向にやれよ。
お前らのファンの京アニがアニメ化してるとかどうでもいいんだよ。のんきな殿様商売するくらいなら、とっとと実写映画をやれ。
一気に実写化やって、「ごめんね、オタは金払わないから(予算ないから)、AKB48から配役します。」とかいった方が、よっぽどギャグ的にもダレないし、かっこよくてロックだったっつうの。そしたら、オレもこんな評価はしねーよ。
だれかつづき頼む
こんなところかな。異論は認める。
追記
確かに、写真部Flickrたんは忘れていたけど、キャラ付けが思いつかないね。six apartとwordpressは迷ったけど、どっちでもいいかな、と。EITFものど元まででかかったけど、思い出せなくてRFCにした。それ以上は、きつくなるだけなので、ここまでで。
それにしても、マジでみんな列挙型ネタ、好き過ぎ。こういうネタやったらウケるだろうなぁ、と思ったらほぼそのまんまはてブに反映されててワロタ。「○○するための××をN個」なんてすぐにはてブホットエントリ入りするし。例えば、ネタ系列でも、同じような事をプログラミング言語とかでやってみたら、またすぐにエントリ入りするだろうね。戦国時代な数の多いジャンルでやると、すぐにウケると思うよ。
私立T女子学園は、正にその通り(個人的にあずまんがよりもT女だったので)。ああいうギャグ群像劇がモデル。
Google信者なので、世界征服ネタは思いつかなかったけど、普段は良い顔しているけど、自分に批判的な言動には「な・ん・だ・っ・て?」みたいに目を光らせてみるというのも良いかも。あとは、Googleモテネタとか。
とか、そんな感じ。
ちなみに、この手のマンガを考えるときに、超大金持ちを混ぜておくというのは、話を膨らませるための一種の王道。こち亀の中川とか、うる星やつらの面堂終太郎とか、そういうの。御坊っ茶魔くんとか、有閑倶楽部なんて、それだけをネタにしたような作品だし。ここで言えば、microsoftがT女の田中小夏みたいな立場。例えば、
とか、そんな感じ。富豪刑事とか、デスノートのL絡みも似たようなもんでしょう。同じようなシチュエーションは、発明家でも使えるので、そちらで考えてみても面白いです。上記で言えば、
とか、そんな感じ。ネタ振りがYouTubeで、たしなめるのがGoogleかな。話の切っ掛けは、性格の幼いキャラにして、その後、やや大人なキャラが突っ込み入れて、その後、別の展開と言うのがセオリー。Twitterとか、YouTubeがそういう先陣を切るキャラでしょう。
あとは、三段論法を壊すというオチもこの手のギャグでありがち。ここで言えば、TechCrunchが、矛盾する情報に悩んであさっての方向で結論を出したりとか、Wikipediaが、あまりの情報の多さに、却ってとんちんかんなことを言い出したり。ちょっとひねらないと面白くないけどね。
というわけで、皆さん、楽しんでいただけだでしょうか。ネタが当たって、僕は楽しかったです。
http://anond.hatelabo.jp/20080404214143
僕のこの文章にカチンと来たそこのあなたは間違いなくラブゾンビだ。
もしくはそのゾンビどもの歓心を買いたい人だ。
宇野常寛 wrote
言い換えれば、近代的な「主体」なるものは、なにかのメタレベルに立とうとしても必ずオブジェクトレベルに戻ってしまうような、そういう歪んだ構造をしているのだ。(中略)近代社会のイデオロギーは、まさにこの歪みを利用して人々の批判精神を麻痺させる。「君は僕を批判するようだけど、そのような批判が出てくることそのものが僕が正しいことを証明しているのだ」というのが、イデオローグの典型的な詐術である。その詐術の論理は、二〇世紀の前半にカフカによって見事に文学化された。
波状言論 crypto-survival noteZ 第十二回(2004年)
東浩紀 wrote
最近何かと批評界(半径50cm)を騒がせて絶好調の宇野常寛きゅん。
あずまんをdisってまた話題になるの巻。
http://www.sbcr.jp/bisista/mail/art.asp?newsid=3305
あずまんとのラジオ対談で「お前宮台派だろ?」と詰め寄られた多弁だけが取り得の宇野きゅんは
何も言い返せずに「うわーん」と泣きながらその場から逃走したが、自分の家に帰ると勇気100倍!
軽快にタッチタイピングし「俺は宮台派でも東派でもないぜ!」とポジショニングの表明をした文章。
調子に乗ってブルセラやエロゲーから批評界を奪い取ってやるぜと宣言しているんですがこれにあずまんが大激怒!
ちょっとひとこと。
http://www.hirokiazuma.com/archives/000390.html
あずまんの読者は思想で恋愛欲求を解消しようとしているラブゾンビ!との宇野きゅんの的確な指摘に冷や汗たらたらのあずまん。
本心は「そのとおり!エロゲなんてやめてさっさと俺みたいに結婚しろ」なんて思っているのにそんなこと言うと
読者が離れて娘が餓死しちゃうから「俺の読者はそんなんじゃない!俺の読者は正しい!だから本買いつづけてね」と必死にセールス。
しかし哀れあずまん・・・。宇野きゅんのトラップに見事ひっかかってしまっているのでした。
前記の宇野きゅんの文章をよーく見てみましょう。
僕のこの文章にカチンと来たそこのあなたは間違いなくラブゾンビだ。
もしくはそのゾンビどもの歓心を買いたい人だ。
ずぎゃーん!!
何ということでしょう。あずまんは自らがラブゾンビであることを認めてしまいました。痛たたたたた・・・。
ヒットポイント残りわずかのあずまん。ぼろぼろに弱ったところを颯爽と宇野きゅんがトドメを指すのかと思いきや若造らしい爪の甘さで
美味しいところは全部持っていかれてしまいました。ここぞとばかりに傷口に大きな蹴りを入れて絶命せしめたのは山形浩生さんでした。パチパチ。
かくして必死に延命を企てていた90年代ゾンビことあずまんはやっとここで息を引き取ったのでした。めでたしめでたし。
次回予告
師匠の死を耳にして消息不明だったあの男が蘇える!?
次回「若手のホープは俺だ!復活!佐藤心」
ご期待ください。
まずは結論から言おう。
らきすたは「面白く」もないし「つまらなく」もない。
アニメ版「らきすた」は作品ではなく、現象であるからだ。以下、「らきすた」という呼称はアニメ版のみを指す。
現象には内側に入り込むか、外側から眺めるかの二択しかない。
つまり参加することが面白いのであって、素材である「らきすた」そのものはどうでもいいのだ。
もちろんその素材足りうるいくつかの条件を「らきすた」は備えていた。
その条件は非常に流動的かつ偶発的であるため、マーケティング対象としては不適切である。
人為的な再現はほぼ無理だ。
らきすたの爆発的なブームは、最近巷でよく取り上げられる「祭り」の構造に近い。
作品としては典型的な「劣化あずまんが」以上のものではない。
それぞれのキャラクターの立ち位置もあずまんがのキャラクターとコンパチブルである場合も多い。
もちろん細部は違うから完全に互換だとは言えないまでも、かなり意識的に似通わせた構造の作品であることは明白であろう。
しかし、らきすたにはあずまんがには絶対に存在しなかったキャラクターが居る。
泉こなたである。
泉こなたの存在によって、「らきすた」は「らきすた」足りえていると言うのは万人が否定の余地のないところだ。
では「らきすた」は泉こなたというキャラクターの存在によって何を獲得したのか。
それはメタ視点であった。
泉こなたがオタク男性のアヴァターラ(化身)であるということは、既に多くの指摘を受けている。
「一日2回の二次元をオカズとしたオナニーが日課で、エロゲとネトゲとアニメ以外に生きがいのない汚らしい屑」のことである。
そんな俺たちであったが、それでもやっぱり美少女たちに囲まれる生活には憧れがある。
しかし異性として美少女の前に己を晒すという視点は、すでに俺たちにはリアルなものではない。
どんなに駄目なキャラクターでも、美少女たちに囲まれてチヤホヤされている男性キャラクターに自分自身を重ねることは到底無理であり
「このイケメンが」と嫉妬すら覚えることも稀ではない。
三次元をとうに諦め、二次元美少女にすら傷つけられることを恐れる絶望したオタクたちは、
「せめて二次元ではモテたい」「だがモテるはずがない」という二律背反に引き裂かれかけていた。
そこに生まれたコペルニクス的転換が
美少女は美少女に拒絶されない。これがオタクがその絶望の地平線に見出した新たなる信仰であり
それにすっぽり嵌ったのが泉こなたというキャラクターだったのだ。
「らきすた」という現象の中核はここにある。
本来、らきすたという作品はこなた抜きでも成立しうる。
時おり描かれる他キャラクターの日常をそのままに教室そしてそのほかの場所でのダベリに
こなたが居なかったとしても、かがみんはつかさに突っ込むだろうし、つかさは際限なくボケまくるだろうし、
みゆきは相変わらず豆知識を披露し続けるだろう。
基本的にこなたは彼女らの会話に対し、茶化したり感想を述べるなりするだけの存在である。
視聴者の視点を作品内に持ち込むことで、「らきすた」は「らきすた」として確立した。
故にこなたはどうでもいいことしか言わない。
視聴者の代弁者たるこなたの興味は他の美少女キャラクター自身にあり、彼女らが本来牽引すべきストーリー(そんなものがあったとして)には無い。
だからチョココロネの食い方だとか、そういう
「エンタティメントとして成立していれば明かす必要すらないどうでもいい情報」を知りたがる。
たとえばそれは設定資料集とかにチョロッと書いてある情報を喜ぶような、そういう心理だ。
ではそろそろ作品としての「らきすた」に評価を下そう。
「らきすた」はエンタティメントとしてはつまらない作品である。
笑わせるでもなく、さほどの共感をえられるとも思えない単なる日常を山も谷も無く描くだけの作品だ。
そこにあるのは単なる空間である。
だから、らきすたがつまらないと感じ、ムーブメントに乗れない君らは正しくて幸せだ。
反発を感じる必要など無い。らきすたは面白くない。その通りだ。第一話から最新話まですべてチェックしてニコ同でコメントしまくりDVDも全部予約した俺が保障する。
これまでと同じように充実したリアルとその他のアニメを楽しんで欲しい。
そして、らきすたを面白いと思っているオタクたち、君たちもまた幸せだ。
我々は我々の祭りを存分に楽しもうではないか。つかさにみwikiにかがみんに萌えて彼女らに慰撫される、我々のそれと地続きではない日常を楽しもうではないか。