はてなキーワード: 全体主義とは
僕はとりたてて左でも右でもないと思うが、個人的に橋下徹氏のやり方には強い違和感を感じる。君が代を歌わない教員を罰する、などといったタカ派的な行動(http://goo.gl/fdA8f DailyMotion: これで彼自身恥ずかしそうにしてちゃんと歌っていないというのは置いておいて...)やテレビタレント時代の核武装とか中国売春ツアーODA発言とか弁護士懲戒請求の扇動とか、そういう極端な言動への違和感が第一にある。ナイーブに考えて、下品で息苦しいのである。
だが、僕が結構ファンである佐々木俊尚氏(http://twitter.com/sasakitoshinao)や夏野剛氏(http://twitter.com/tnatsu)など、わりとリベラルで先見的と思われる人たちが橋下徹氏に好意的な評価をTwitterでしているのを見て、どうしたものだろうか、としばし考えた。
たとえば佐々木氏は、橋下氏の実行力を評価し、橋下氏の批判者が感情的な批判しかできていない、ということを指摘していた。たしかに、行革や財政再建を目指す政策は私も賛成である。また、部落問題や暴力団のような複雑な問題も、彼くらいの突破力がないと解決できないだろう(私が橋下氏に一番期待しているのは、そのような問題の解決においてである)。ただ一般に彼のやり方は、敵を作り、スケープゴートを作ることで住民の溜飲を下げさせていることで勢いを維持しているように見えてしまい、その手法に狡さ・醜さを感じるのである。さらに言えば、それに乗ってしまう人々の多さにも空恐ろしさを感じるのである(こういうと香山リカ氏みたいだが)。私は、橋下氏はルサンチマンに駆り立てられて動いている人間だということに気づいたが、彼がさらに住民の潜在的なルサンチマンを煽っている構図なのではないかと思うのである。そういう点で、現代のヒトラーという指摘はあながち見当違いではない。
私みたいに、緊縮財政・行革による財政再建は大いに結構、だがイデオロギー的な押しつけの空気やタカ派的挙動、さらには彼を突き動かしている感情にはアレルギーがある、という層は多いのではないだろうか。
佐々木氏が今日になってついに「橋下氏について行けない人たち」などという(そこまで言ってしまうと戦時中の非国民とかと同じメンタリティーにしかすぎないだろう)気持ち悪い全体主義的なポストまで挙げていたので、なんだかガッカリさえした(本当の知性や強さというものは、結論の出ない曖昧さから目を背けず、それに耐えて批判的に考え続けることではないのか。)のと同時に、自分の中でどういう立場を持てばいいのか、折り合いをつけなくてはいけないのかな、とも感じたのである。
私は科学者だが、周りを見ていてたしかに偉大な科学者が必ずしも人格に優れているわけではないし、科学者を見る際には業績と人格、さらに教育者としての資質は分けて考えるのが普通だ。政治家もそれと似たようなもので、イデオロギーと実質的な政策を分けて考えるべきなのかもしれない。彼の財政再建のための活動は評価するが、彼の人柄や彼を突き動かしているイデオロギー的ものには疑問を感じる、という折衷的なスタンスをとれば、私自身感じている息苦しさにも折り合いをつけられる。
余談だが、橋下氏、昔はテレビではけっこうチャライ感じでいじられキャラだった記憶があるのだが、いつの間にあんなに強者のキャラになったのだろう。そういうパブリックなイメージの変遷のメカニズムにも興味がある。
ひとりのAnonymous Cowardより
フェミニズムはあらゆる人間の問題をすべて解決するような全体主義ではありません。...フェミニズムの目的は幸福の実現ではなく、不満の原因になっている男女格差を取り除くことです。権利の獲得と幸福の実現は別の次元のものなので、混同してはいけません。
E・バダンテール
http://twitter.com/#!/femibotjp/statuses/150016562575839232
これはそう。 フェミニズムは、全ての人間の幸福を実現しようとしている訳じゃないのです。
そして不満は満たされることはありません。 欲望というのはそういうものでしょう。
痛いニュース(ノ∀`) : ひろゆき 「福島に残ってる人は、家族の命より日銭が大事な人」 - ライブドアブログ
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1669995.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1669995.html
覚悟を決めてるのか、楽観的なのか、何も考えてないのか
「仕事がある」とか言ってる人って、
この主張、何が問題なのか。
ブコメの主張はまあ、もっともだが、お前ら擁護モドキ(もちろんすべてではない)に問いたい。
私はひろゆきの主張を支持するし、自分の住む街で生活保護受けたいといってもその行動を支持するが、これの実現は無理だと断言する。なぜなら、
当然放射性物質に汚染された瓦礫等々は地元で処理することになるだろう。
年金辞めますか?それとも、生活保護辞めますか?なんて選挙が近いうちに起こるだろう。
復興市民がやりたいようにやればいい、海岸近くにまた復興しようが、それが当事者の選択なのだから気にしてはならない。1000年に一度の津波の警告は、市民ベースでは800年経ってから考えりゃいいじゃん、という気楽さでいいというのだろう、馬鹿げた話だが。
というか、今回の発言は(被災者感情無視するな派 + 放射能は穢れだから差別されても仕方ないこっちくんな派 + 生活保護は甘え派)などなど混濁となってるのだろうが、こういうのを「一丸となって」とか「共闘」とかいう表現はできないよな。
http://anond.hatelabo.jp/20110823091052 読んだ。
最初に騒いでいた人たちと今騒いでいる人たちはセグメントが違うんじゃないか。
特に芸能人(たむらあつし、おかむらたかし、ビートたけし)が「嫌なら見るな。」と発言した頃から。
「嫌なら見るな? おいおい、そりゃねーだろ、マスコミさんよー」
みたいな感じで。
韓流ゴリ押しはスルーしていた人たちも、この芸能人の傲慢さは見過ごせなかった。
そして今までうやむやにしてきた電波利権、利潤一辺倒の企業体質、コンテンツの公共性についての不満が一気に噴出した。
メディア批判へと変遷したのはメディアに原因があったからで、差別意識とは関係ないだろう。
集団の中にはさまざまな思想を持つ人たちがいるのに、それを十把一絡げに民族差別者と断じる輩の方が、将来、全体主義(ファシズム)の尖兵になりそうで怖い。
国を愛するのはよいが、熱狂的なナショナリズムはたいていの場合ファシズムを伴うから嫌いだ。
自分たちを同じように愛し、同じようにやり、同じような反応をしなくてはいけないように言ってくるのが気持ち悪い。
そもそもからして、その地位に必要な共同体への義務さえ果たせば、そんなことを他人に強制されるいわれなどないはずなのに。
彼らはまるで、学校でヒステリックに叫んでいた女学級委員長のようだ。
なんでまた、学校時代のような度を逸した共同意識への強制を叫ばれなくちゃいけないのか。
なにより気にくわないのが、みんな一緒じゃなくちゃいけないという意識だ。
普段の時には、そっちから一緒になるのを拒否してはぶっておいて、そんなことを言い出す。
そちらから手を払っておきながら、手を繋いでない奴がいるとか言い出す喜色悪さ。
その話は置いておいても、最近のナショナリズムというのは、バカにする文化から来ているような気がしてしまう。
愛していると言うよりも、寄っかかっている。
だいたいからして、最近の日本人は中国人化、韓国人化が進んでいるように見える。
中国人や韓国人が帰化した日本人が増えたという事じゃなくて、日本人が三国人化してる。
ちょっと前までは中国韓国人しかやってなかったことを、カウンターとでも言うかのように、同じようなことをして返している。
将来を考えないただ叫ぶだけの浅薄な愛国心。薄っぺらい自尊心。
貧民のような守銭奴根性。村農民出のような強制する共同体主義。
昔は脱亜して入欧しようとしてたのに、わざわざアジア式に染まっていって、なんの得があるのか。
個人的に日の丸も君が代もそれ自体はどちらかというと好きな方だけど強要するのは反対派な俺参上。
日の丸や君が代を強要する人が少なからずいる以上、「自由の敵の象徴」だからじゃないかな。逆に考えて、強要したいって人は何故強要したいのかって考えてみるといい。それがまさしく自由を尊重したい人々にとっては反対したくなる理由だろう。俺も強要のコンテキストで日の丸が出てくると(日の丸自体は好きだけど)日の丸が穢されていることに反吐が出るよ。
ただまあ、あくまで個人的にはだけど、日の丸は元々「日出る国~」の故事にちなんだものでこれは別に全体主義とか軍国主義とか自由への敵対なんかとは関係なく単純に「極東にあってますます繁栄する国」くらいの意味でしかなく、意匠的なシンプルさとも相まって非常に良いものだと思ってる。君が代も、まあそりゃ戦前までは帝政の継続みたいな意味合いでやってたんだろうけど、今でも天皇は日本国憲法下の日本国の象徴であるわけだから「今の日本国」が末永く繁栄しますようにって意味でもちゃんと通るわけで、ものすごく良いとは思わない(正直メロディの方はいけてないと思う)が積極的に反対するほどとは思わない。
でも、強要したい人々は、そういうのとは違う意味合いで国旗国歌ととらえているだろうし、だから強硬に反対する人々も反対しているんだろう。ぶっちゃけ、強要する側も反対する側も国旗国歌は正直全体主義の象徴だよね。
特にアニメ部分に関してはほとんど同じ水準にある萌えオタニュース速報とどうしてこんなに差が空いてるか、は興味深い。
結論を先に書くと、私が思ったのはやらおんって階級意識が明確だよねってこと。そして、一番人数が多い層の人間が一番優越感を感じられる仕組みになってること。
そして、その仕組みの結果としてやらおんでは祭りが発生する。萌えおたニュース速報では発生しない。この差は大きい。
発端は、批評家たちに対しての反発だろう。
こいつらアニメにとって何もプラスの貢献をしなかったよね、むしろ存在自体がマイナスだよねってくらいの嫌悪感を感じる。
同時に、技術とか能力ないけどアニメについて語りたいって層を大歓迎してるというのも感じる。
えらいのは、作ってる人と声優さん。それから買ってる人。ちょっと下の階層に楽しもうとしてる人。アンチや批評家は最下層に位置づけ直してる。
私は声優に全く興味がないし、ローソンフェアとか全く興味ない。売上情報もそこまで気にすることないと考える。
なので、なんでこの人こんなに声優とか消費活動取り上げるんだろう、って思っていたのだけれど、
こういう序列になってるんだと考えれば納得する。そりゃこっちのほうが重要度高いんだからあたりまえだよな、と。
批評家の毒にも薬にもならない批評よりかはよっぽど役に立つよねー、ということなんだろう。
他にもイロイロと特徴がある。たとえば理解しようとしてる人間への寛容さや親切さ。パロディによる個々人の楽しみ方の紹介など。
今では他も真似してるけど禁書の解説記事を毎回載せてたのは印象的。
本来禁書みたいに「解説が必要なアニメ」は、キャラ魅力が低かったらボッコボコに叩かれてたんだろう。実際錦織監督は叩かれまくってるわけで。
AB!に対するの態度も全体を叩きつつキャラ萌えを押し出そうとしてたし、
女にコンプレックス抱いてるキモオタ男読者が多いのを意識してか君に届けとか放浪少年を取り上げないところとか心遣いがわりと細かい。
かなり明確な思想の持ち主であると思う。
一方やらおん空間においては今まで好き勝手に作品を叩いてそれなりにいい気分に浸っていられた批評家やアンチの扱いは悲惨なものだ。
やらおん空間においては彼らは「バッシングを受ける対象」としてしか存在を許されていない。
お前らの存在いらねーんだよ、と。もう口閉じて眼と鼻と皮膚呼吸もやめて死ねくらいに思ってそうだ。
せめて口を開くなら、ヤマカンやハルヒの中の人のようにアニメの話題の肥やしになれ、うんこ野郎。
あずまんみたいに言うだけじゃなく自分で作ってみろ。そして作った物に責任をとれ、敬意を払えと。
実際の事情はどうか知らないが、制作者の立場に立ちながら無責任、アンチな言動とったと受け取られたあずまんはまさにワーストオブワースト。
やらおん空間ではリサリサ先生のまなざしを向けるのがふさわしいレベルなんだろう。
そういうやつらを見せしめにして、名状しがたい祭りを楽しむのがやらおん。
割とたんたんとアニメの話題だけを載せ続ける萌えオタニュース速報。
どっちが正しいとは言えないけど、人気があるのは圧倒的にやらおんだなぁ、と思う今日この頃。
個人的には、やらおんの価値観の再配列ははわりと一時大戦後のドイツの全体主義を彷彿とさせるものがあってあまり好きではないのだが人気には納得する。
よく「やらおんに比肩するサイトがない」っていうのが話題になるけど、扇動力が全然違うのは確かだよ。ほんとうに良く出来てる。
最終的に、能力も知識もない人らが権力を握ったアニメ業界が、知識層を追いだしてどういうアニメファン層をつくるかと思うとげんなりするが、それが世界の選択というのならしょうがないわね。理想としては、既存の評論家どもはきっちり潰れて、個人サイトとか若い人らが評価され直すといいんだけどなー。
で、そもそもなんでこんなに批評家や知識人(笑)に対して風当たりが強くなってるんだろうか。
それは、多分みんな「このままだとアニメそのものがなくなっちゃう」ってぼんやりと危機感を覚えてるんじゃないだろうか。
あるいは、少なくとも批評家をトップに置く序列に対する現状に対する猛烈な反発があるんじゃないだか。
上から目線で批評を加えたり製作者の状況無視して割りに合わない要求ばかりしたり、
アニメにはいろんな要素があることを忘れてテーマとかストーリー語ってるやつらばっかりだと、
じゃあお前らは文学(笑)でも読んでろって製作者がブチギレて、
ほんまに純粋にビジネスとして萌え豚向けアニメしかつくられなくなるんじゃねーかと。
それぞれに人の集まりができて、市場ができてってなっていけば。
でも、どいつもこいつも批評家の口にするのって同じことなんだよね。内輪感半端ない。
あずまんとか宇野とかそういうもともとコミュニケーション苦手そうなやつらがメインとなって
自分たちの居心地の良い空間をつくろうとしてるから異物があまり育たなかったんだろう。
楽しみ方が恐ろしく窮屈で偏屈。喋ってる本人らはデブばっかのくせにどうしてこうなるんだろう。
あの界隈、多分2~3人いたらあと全部キャラかぶってるからいらない。
そういう批評家どもの多様性の無さのため、批評家が褒める作品って限られてくる。
そうすると、こいつらを中心とした序列だと、本当に一部の作品しか残らない。
それは、ものすごくアニメというものをつまらなくさせてしまう、と、そんな展開。
これも本当のところはどうかしらない。ただ、明らかに彼らが戦犯扱いなのは間違いない。
あまり気持よくないのだが、ドイツのブルジョワ階級と違って批評家が役立たずだという点には同意してるのでまぁ別にいいかな(爆
参考記事
はちま機構のことはしらんけど、こういうのと比べるとやらおんは比較的全うだと思う。
魔女の中にも救える救えないがあるかもしれない。というわけでねむりひめの13人目の魔女の話なんかを考えてみる。魔女たちですら、魔女どおしで仲良くすることで安らぎを得ることは多分可能。同人のように、やおいのように、ラノサイのように。ヴァーチャルにキャッキャウフフ空間を作ってそこでやすらぐことは許されてる。でも、そこには必ず13人目の魔女が生じる。
http://anond.hatelabo.jp/20090202175729
○「ライトノベルサイト杯」と題すると、「すべてのライトノベル読みから投票を集めている」との誤解を招くから、名称を変更せよ。
そりゃ本音が「ぼっちの俺のことも思い出してください、そっちから手を差し伸べて拾ってください」だからなぁ。
もちろん恥ずかしがりやで嫉妬深い彼は素直にそんなこと言えるわけがない。じゃあ実際にはどう発言したか。
ただ、あんまり見栄えのいい姿ばかり見てる/見せてると、勘違いしたりされたりしちゃうから、見たくないだろうところに私が鏡を向けてみせただけ。
どのみち、私ごとき弱小サイト主が他人になにかを強要することはできませんので、あとは主催サイドや第三者がどういう判断を下すか丸投げです。
まおゆう批判でもラノサイ杯批判でも彼が言ってることは全く同じ。
「俺が参加してないのに勝手に代表するな」さもなくば13人目の魔女としてお前たちに呪いをかけてやるということ。
素直に「ぼくはここにいるよ」「僕も仲間になりたい」って言えればいいんだけどそれができないくらいには自分のことが嫌いだし自信がない。
だから別のものに自分を仮託してそのモノに批判という形で自分の願望を語らせる。
どうやらFXMC氏は、ラノサイ杯に投票する人々は、様々な要素によって「中二病と内輪ネタが好きな論壇の人たち」に限定される、と考えているらしい。明記されてはいないが、kim-peace氏が主催する以上は、『平和の温故知新』を読んでおり、さらにkim-peace氏やその周辺の人々を嫌っていない人間、という層にも限定される、と考えている可能性が大きい。そして、こちらは明記されているが、自分のような人間は投票しづらい、とも書かれている。これのどこが「開かれた企画」なのか、とFXMC氏は糾弾しているらしい
そうなんだけど、私には彼はただ最初からずっと「仲間になりたそうにこっちを見ている」まものに見える。
「ボクは悪いなんとかじゃないよー」って言いたいのに、素直になれなくて襲いかかっちゃう的なアレ。結果として「残念、スライムとかスライムナイトなら可愛いし役に立つけど、君は態度悪いしいらないわ」って言われてしまう。そしてそのことで絶望してしまう。素直じゃないって事はそんなに罪なんだろうか。ネットでは、そうなんだよな、とつくづく思う。キャッキャウフフ空間というのは、ただそれが存在するだけで素直になれない人間、そこに参加できない人間に恐ろしいほどのプレッシャーや罪悪感を与えるのだ。
理由は書いていないが「ラノサイ杯はこうあるべきだ」という理想像があるらしいというのがわかる。繰り返すが、そうあるべき理由はどこにも書いていない。そして、自分の中の理想像と、現実のラノサイ杯とでずれている点を挙げて、そこが問題だ、と言っている。何度も繰り返すが、それがなぜ問題なのかはどこにも書いていない。
それが言えるなら、とっくにその人は救いへの道を歩いてる。それが出来ないから悩んでるのだ。
「少数者による専制は認めないという。別に専制じゃない、下の人間にだって役割があるし、革命権だってある、教育によってスキルを身につければ参加もできる。いや、教育がなくても意思さえあれば参加できる。大事なのは意思だ」みたいな話をしても信じられない。なぜなら自分には無理だから。でも自分が弱いからだとは認められないから。だから、自分の弱さを正当化してくれる何かを求めてる。それこそが帝国主義で全体主義だと言うのだろう。違うよ、ぜんぜん違うよ。あなたの問題はあなたがちょっと勇気を出して足を踏み出せば解決する可能で、あなたと一緒にされたら戦後日本人も被植民地の人も怒るよっていっても多分通じない。 彼の中では本当にその努力は報われない事になってるから。 甘えというのは簡単だけど、彼にとってそれが以下に困難なのだった。
そう。その通り。それと同じように、完全自由主義ならば値上げは正しい。
平時、ライフラインは法律の縛りを受けている。値上げもままならない。
規制緩和が叫ばれてはいるが、すべてにおいて真に完全自由化が求められているわけではない。
水(水道)は特に重要なライフラインとして民営化すらなされていないのが普通である。
そのような重要な物資の値上げへの非難は間違ったものではない。そもそも、完全な自由経済下におかれるべきものではないのだから。
元記事の理論であれば、電力の不足に対しては電気料金を値上げすれば良いことになる。
数倍や数十倍に値上げを行い、即時支払などを求めれば、多くの人は電気の使用を控え、使用電力は下がり、電力不足はおこらず、医療に限らず必要な人が必要な分だけ使用できる事になる。
しかし、実際にはそれが多くの問題を生むことは明らかであろう。
それは独占が云々と思う人もいるだろう。そう。それもある。
市場の寡占化に限らず、様々な不均衡が実際の市場には存在する。
交通(すなわち流通)や情報の制限された被災地では様々な不均衡が起こり、健全な市場形成は難しいだろう。
政治家やメディアは激怒している、ハリケーンカトリーナに便乗した物価の上昇に。彼らは、ガソリンスタンドや水の売人を懲らしめようとしている。
もしもあなたが卑しく貪欲な金の亡者を懲らしめ得点を稼ごうと思ったら、大変良いのは「便乗商法」禁止の法律を作る事だ。
しかし、もしもあなたがその法律で「便乗商人」から「守られる」側だとしたら、そんなに上手くいかないだろう。
次のシナリオを考えてみよう:あなたはのどが渇いている - あなたの赤ちゃんが脱水症状を起こさないか心配だ。あなたは空いている店を見つける。店主はあなたの苦境につけ込むのは不道徳だと思い、先週より一銭も高く請求しないとしよう。しかしそれでも水は買えない。売り切れだから。
あなたはさらに探求を続け、ようやくあの恐ろしい怪物、便乗商人を見つける。彼は先週1ドルだった一本の水を「法外な」値段で売りつけようとする。その額20ドル。それでもあなたは災害から生き残るため言い値を支払う。
あなたは便乗商人に憤りを感じる。しかし、もし彼が20ドルを要求していなかったら、水は売り切れだっただろう。あなたの子供を救ったのは、便乗商人による「搾取」だったのだ。
人々が自らの利益を追い求める事によって子供は救われた。あなたが店に着く前に、他の人がやって来た。ボトルが1ドルだったので、彼らは買い占めて行った。ボトルが20ドルだったら、より慎重に買うだろう。20ドルを請求する事で、便乗商人は水が本当に必要とする人に届くように出来る。
甘ちゃん政治家達が極悪人とみなす人々が最も役にたっている。ボトル入り飲料水の需要が上がって行くと考え、彼らは大量に仕入れ法外な利益で転売しようと目論んだ。もしも彼らがそうしなければ、水は最も必要としていた人々の所に届かなかっただろう。
ボランティアが水を提供していたかもしれないって?たしかに慈悲の気持ちから他人を助ける人もいる。しかし私達は慈悲に頼る事は出来ない。かつてアダムスミスはこう書いた。「私達が夕食にありつけるのは肉屋や酒屋やパン屋の慈悲のおかげでは無く、彼ら自身の私利私欲の追求からである。」
店主の視点で考えてみよう。もしも彼が大きく儲けようとしていなければ、そもそもなぜ店を開けたのだろう。被災地にとどまる事は危険であり、家族と過ごす機会を捨て見ず知らずの他人の世話をするという事だ。 なぜそこまでリスクをとるのか?
例えば屋根張り、大工、倒木の除去など、災害の後はどんなサービスにも圧倒的な需要がある。ニューオリンズが復興された時、地元の大工が不足する事は十分に予測出来た。街にいる大工の数では足りない。
もしもここが全体主義の国だったら、国は職人をひとかたまりニューオリンズに行けとただ命令するかもしれない。しかし、自由な社会では、職人たちは家や家族、従業員や客を残し、ウィスコンシンあたりからニューオリンズまで車を運転しないと行けない。もしウィスコンシンよりルイジアナの方で稼ぐ事が出来なければ、わざわざ旅に出るでしょうか?
中にはヒーローになりたいという動機の者もいるかもしれない。しかし需要を満たすほど毎週毎週十分な数のヒーローを期待する事は出来ない。多くの者はほとんどのアメリカ人と同じ理由で行くのだ。つまり、金のために。被災地に分け入る職人には彼の故郷よりも高い収入が必要だ。さもなければ行かないだろう。嵐が来る前のニューオリンズの同業者と同じだけしか彼に払わないとしたら、どんなヒーローでも「馬鹿言え」と言うだろう。
もし彼がその危険に見合った額を請求すれば、まさに助けようとしていた人々に道徳的法的に非難されてしまうかも知れない。しかしそう言う人々は経済の基本を理解していないのだ。価格を押さえつけると供給が途絶える。市場に任せて供給を増やそう、すると競争によって災害の条件が許す限り価格は下がって行く。不足していた商品が、貧しい人々でさえ手に入るようになるだろう。
水をもたらし、ガソリンを運び、屋根を直し、街を再建するのは「便乗商人」だ。「便乗商人」こそ命を救うのだ。
In praise of price gouging - John Stossel
http://townhall.com/columnists/johnstossel/2005/09/07/in_praise_of_price_gouging/page/full/
Togetter - 「地震に対する発言で蓮舫のTLが大炎上 」
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/110626
こいつらも普段は同じことをしてるだろ。代表的なのに、こんなのがあるが。
blackdragon 社会, ネット社会学 こんな言いがかりは、むしろ嫌いな政治家を叩くチャンスとして災害発生を喜んで利用しているわけで、非常に不快。 2011/03/12
嫌いな対象を叩くために、今回の甚大な被害である大地震を利用しているのは、はてなサヨクも同じ。例えば、また、産経叩きに利用してる。
はてなブックマーク - 阿比留瑠比の菅政権考「致命的な国家観の欠如」+(1/2ページ) - MSN産経ニュース
http://b.hatena.ne.jp/entry/sankei.jp.msn.com/politics/news/110312/plc11031207000005-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110312/plc11031207000005-n1.htm
こいつらは、新聞の全ての記事を大地震だけにしろということか?というか、こいつら、ネットばかり見て紙面を見てないのか?新聞の紙面は地震の被災とは関係なく、スポーツの記事とかも書いているわけだが。普段は、挙国一致の全体主義を批判しながら、地震以外のことで産経「だけ」を批判するところに、この大震災に乗じて産経を叩いてやる!というのが透けて見える。
それじゃ、アニメ報道しているテレ東は何か?菅政権考「致命的な国家観の欠如」というのは、実際に国家間が欠如しているのだからそれが新聞に載るのは当たり前。むしろ、産経の姿勢は正しい。この震災に乗じて挙国一致だからと、変な予算を通せば、それこそ国民の生活に直結する悪政になる。普段は、権力批判をしているつもりが、こういう大震災の時には都合よく政府に利用されるようになる方向性になるのは、普段の権力批判の底の浅さが知れる。こういう非常事態の時こそ、政府の誤った行動は監視するべき。
しかし、産経の紙面では大地震が殆どになってるのは当たり前だが。他の朝日とかも大地震以外の記事も載せてるんだが。お前らバカサヨクは、震災でどれだけの人命が奪われているのかも考えずに、産経叩き、阿比留瑠比叩きに利用するのはいい加減にしろよ、クズサヨクが。
地震以外の記事を批判するのなら、産経「だけ」を批判するな。テレ東のアニメとか、批判しないといけなくなるところがかなり出てくるな。整合性が取れないから。ほら、さっさとゴミクズサヨクは産経以外も批判しろよ。
他にも、原発問題が出たら、変な平和団体とかの奴らが、被災者の命なんかどうだっていいから、「反核!」とか言い出しているんだが。産経の記事以外にも、震災とは関係ない記事で、まさに批判されるべきところはある。嫌いな対象を震災を利用して批判するなと蓮舫の件で言うなら、「産経が叩けるから、大震災が起こってくれて嬉しい!」というのが透けているはてなサヨクのゴミクズどもも批判しろよ。
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2011/feb/01/egypt-tunisia-revoltを和訳しました。
チュニジアとエジプトにおける叛乱では、イスラム原理主義の姿をまったく見かけない。これは注目すべきことだ。民主主義というもっとも非宗教的な伝統にのっとって、エジプトの民衆は、抑圧的な体制や体制の腐敗、そして貧困に対して叛乱をおこしたのだ。そして、自由と経済的な見通しを求めたのである。「アラブ諸国にあっては真の民主主義的センスは少数のリベラルなエリートのみに存在し、それ以外の膨大な数の大衆は、宗教的原理主義か、さもなければナショナリズムによって動員されるだけである」という西洋のリベラル派が持つシニカルな知見は間違っていると証明されたのだ。しかし、大きな疑問は残る。次に何がおこるのか?政治的な勝利者として、誰が登場するのか?
チュニスにおいて臨時政府が成立したとき、臨時政府はイスラム主義者と急進派左翼を排除した。これに対する独善的リベラルの反応はこうだ。「よくやった。奴らは基本的に同類なんだよ」。同類、すなわち両者とも極端な全体主義者だということだ。しかし、それほど単純なものだろうか?イスラム主義者と左翼との間には長年にわたる反目が存在しているが、それは存在しなかったとでも言うのか?もし仮にイスラム主義者と左翼が体制に対抗して一時的にせよ団結したとすれば、彼らはひとまず勝利するだろう。しかしその団結はすぐに元通りに分裂し、彼らは死闘に身を投じて、より残虐に振舞うのだ。
去年のイラン大統領選で、我々は今回のような戦いを目の当たりにしなかっただろうか?ムサーヴィーを支持して立ち上がった何十万の人々は、自由と正義を掲げたホメイニ革命はまだ継続中であるという人々の夢を表していたのだ。たとえその夢が非現実的なものであったとしても、それは政治的・社会的構想力の息をのむような爆発や経験の組織化、そして学生と一般市民との間の討論を導いたのだ。こうした社会を変容せしめる法外な力の解放のはじまりは、体制派のイスラム主義者が統治権を奪ったことで、次第に抑えつけられていった。
原理主義者による運動だと明らかな場合でも、その運動の社会的構成を見落とさないように注意すべきだ。タリバンは普通、テロにより支配を押し付ける原理主義的イスラム主義者の集団だと表現される。しかし、2009年の春、タリバンがパキスタンのスワット渓谷を占領していたころ、ニューヨーク・タイムズはタリバンが「富めるわずかな地主とその小作人たちとの間に広がる深い亀裂につけ込んだ階級闘争」を工作したと報じた。タリバンは、農家の困窮という「アドヴァンテージを得て」、ニューヨーク・タイムズが言うように「広範にわたる封建制を温存するパキスタンに対し危機を警告した」のかもしれない。もしそうだとするのなら、パキスタンやアメリカのリベラル民主主義者が同じように困窮という「アドヴァンテージを得て」、小作農を助けようとしないのはなぜなのだろうか?パキスタンにおける封建的勢力こそが、リベラルデモクラシーにうってつけの同盟相手ということなのだろうか?
これらから導かれる当然の結論は、次のようなものだ。すなわち、急進派イスラム主義者の台頭は、イスラム教国における世俗的左翼の消滅と常に関係がある。アフガニスタンは今は強固なイスラム原理主義の国と考えられている。しかし、40年前のアフガニスタンは強固な非宗教的伝統に則った国だったのであり、ソ連とは無関係に、独自に共産党が力を持っていたのだということを、誰か憶えているだろうか?そして、こうした非宗教的伝統はどこへ行ってしまったのだろうか?
こうした背景をふまえたうえで、チュニジアやエジプト(そしてイエメン、さらにはきっとサウジアラビアでも)で進行中の出来事を読み解くことが重要だ。もし現在の状況が、旧体制にリベラル風の彩りを付け加えるだけに終わり、結局は旧体制を生き残らせ、安定させてしまうとしたら、原理主義者による逃げ場のない反撃を生み出すことになるだろう。リベラルという遺産を生き残らせるためには、リベラル派は急進派左翼からの支援を必要とするのである。話をエジプトにもどすと、今回の件で最も破廉恥かつ危険なまでに日和見主義的な反応を見せたのは、CNNの中継放送に登場したトニー・ブレアだった。「変化は必要です。しかし、それは着実な変化であるべきなのです」。今日のエジプトにおいて、着実な変化とは、政府中枢の人数枠をわずかに増やすという目的にもとづいて、ムバラク勢力との妥協を図るということを意味するだけなのだ。このようなわけで、エジプトの平和的推移という語りは、鼻持ちならないのである。敵対者を押しつぶすことによって、ムバラクは自身に敵対することを不可能にする。抵抗する市民に対してムバラクが軍隊を派遣して以降、選択肢は明確になった。ほとんど何の変化もない中でのわずかな変化という見掛け倒しの変化か、真の破壊か。
ここが正念場なのだ。10年前のアルジェリアでは、自由選挙の容認によって権力がイスラム原理主義勢力へも平等に分配されたが、今回もそうなるというわけではない。もしムバラクが去った場合、体制を引き継ぐことができる組織的な政治勢力が存在しない、というのが、リベラルの一方の心配の種だ。もちろん、そんな政治勢力は存在しない。ムバラクは、つまらないことに対する反対意見であっても、反対意見であればすべてを却下することを通して、そうした政治勢力を始末してきたのだ。その結末は、アガサ・クリスティの著名な小説のタイトル、「そして誰もいなくなった」を思わせる。ムバラク自身やその混沌とした政治をめぐる議論は、ムバラクに敵対する議論なのだ。
西洋のリベラル派の偽善には仰天させられる。彼らは公然と民主主義を支援してきたのだが、宗教のためではなく、非宗教的な自由と正義のために人々が暴君に対し叛乱をおこすと、彼らは深く懸念を示したのだ。なぜ懸念するのか。なぜこの自由のチャンスが与えられたことを喜ばないのだろうか?今日、これまで以上に毛沢東の古きモットーが適切だ。「天の下に混沌、絶好の機会」(訳注)。
さて、ムバラクはどこへ向かうべきか。答えは明白だ。ハーグへ向かうがよい。ハーグの国際司法裁判所に着席するにふさわしい人物がいるとしたら、それはムバラクその人なのだ。
訳注:毛沢東のモットーについてはhttp://bit.ly/eSBrn9を参照。