はてなキーワード: 志向とは
http://anond.hatelabo.jp/20120203232802
別の人が回答してるけれど、私が元増田ね。私は人に国語力うんぬんとかまではいわないよ。
まず最初に。
勝間さんの論調は、あなたが言ってるような「結婚するために結婚」じゃあないよ。
彼女はむしろそれには否定的だと思う。実際に離婚3回もしてそれを堂々と世に言うくらいだからね。
結婚の価値を世間よりは低く見ているけれど、結婚をすることで得られる価値も認めている。
恋愛や結婚にはその程度の価値しかない「が」、逆に言えば一定の価値はあるからやらないと損はするということのようです。
じゃあなんで勝間さんは、結婚に対して「たいした価値はない」みたいな言い方をするかというと、
まず勝間さんが想定している「一般的な価値観」があって、それに対してちょっと待て、って言いたいようです。
勝間さんが考えるには、一般的には、恋愛というのはオンリーワンとか貴重なものとされ、
そこには思い入れやベッタリ感情がのった取り組みがすばらしいものとされてる、と。
そこに夢をいだいて、そこが人生のゴールであるかのように錯覚して、思う存分はしゃげみたいな
煽り系のバカ雑誌に踊らされてんじゃねーよボケってことが言いたいのかもしれないですね。
だから、そんなたいしたもんじゃねーよ。結婚なんか、所詮・・・・程度の価値しかないってのと言う。
結婚にムダに価値を置きすぎて頑張るから、結婚した後も捨てるのがもったいなくてしがみつくんだよ、と。
結婚を続けること自体に価値を置くから、駄目なら離婚って武器をもって交渉できない、カイゼンしようとしない。
そういう馬鹿な夫婦は見ているとイライラするから死ね、というかなり独立志向が強い考え方のようです。
まぁそうでなくても、勝間さんは最初から、常に何らかの仮想敵を立てて、
自分はそれに立ち向かう勇者だぞ賢者だぞってスタンスで本を書き続けてるから、そういう前知識はあったほうがいいかもね。
(自分自身を勇者にしようとするスタンスが流行らなくなってるのに方向性変えないあたり、たぶん元々の気質なんだと思う)
ただね・・・ここまで文脈を考えなくても、
「思い入れするほどの価値がない」=「機械的に処理してしまうべき」ってそれほどおかしな論理ではないと思うけれどどうかな?
もちろん、大した価値がないなら、機械的でもなんでもやるんじゃなくてやめてしまえば?っていう論理も否定はしないが
勝間さんに限って言えば、そこまで完全に価値は否定してないみたいですね。
むしろ、人脈力の証明やただでセックスできることにそれなりに価値をオイてるってことで。
納得していただけましたか?
周辺物件に比べて、割安で、中古での値上がり率が一番いいらしいです。
「丸紅は大手商社だし、それは素晴らしい。いいんじゃない」って安易に考えてませんか??
そうなんです。そこには裏があるのです。
よくよく、建設予定地、近隣の状況を見て下さい!
六義園周辺の予定地(不忍通り、日本医師会前)なんて、とてもひどい状況です。
不忍通りの道路拡幅事業を逆手に、将来、既存不適格になるような計画を
近隣の反対を押し切り、無理矢理に進めています。
既存不適格になるような物件であれば、将来どうなるか分からない。
もし何かトラブル(例えば直下型地震があり建物が損壊した場合など)が
あれば、既存不適格のために修復もできない状況になるかもしれません。
のべ床面積をぎりぎりのところに設定されている。
悪巧みの想像力は素晴らしいのに、協調的、未来志向的な想像力にはとても欠けている。
総合商社ってこの程度の交渉力で、身勝手に計画を進めるのですね。
近隣の住民は、既存不適格にならないような計画に変更してくれれば、
このような反対をすることはしないと言っているそうですが、
丸紅は少しも譲歩する気配はなく、利益のために設計変更はできないとの一点張りだそうです。
ここはどこなんだろう?土地の強制収用しているどこかの外国なのか?と思ってしまいます。
あーそうか、丸紅は商社で、どこか外国で商売をやっているのと同じ感覚なのか?
それとも、マンション開発は本業ではないので、窓際の人達に好き勝手やらせているだけなのか?
最近の大手(三井、三菱、東建、野村、東急)は、既存不適格などには敏感で、
ブランドイメージが落ちるようなことは決して手を出さないという話を良く聞くのですが、
グランスイートシリーズをブランドに育て上げようという考えはなく、
逆説的にいうと
そのようなブランドイメージとか本筋で勝負しても勝てないから、
それにしてもたちが悪い。
売ってしまえば将来どのようになっても関係ない。
今現在、合法であれば上質な住まいなんだという、売り手感覚が許せない。
例えば、電化製品や車の不具合があれば、すぐにリコールになるのに、
さて、どのような方向に進むのか・・・。
http://anond.hatelabo.jp/20120107093128
ちょっと困ってる。元増田を励ますつもりで「これからのこと」として書いたけど、実はもう、終わってる。
夫とは20年連れ添った。4年前に他界。子供は2人。成人して、家から独立した。
そういえば、娘のほうは私の環境(中学から私立で、お金に不自由したことがない)と同じでないことに、ずっと不満を持っているようだった。言わないけど。
「誰がおかげで飯が食えてるのか?」と繰り返し父が聞くのは「褒めてもらいたいからだ」とようやく最近になって理解した。というのも、父が認知症になって、理性のほとんどがぶっとんでしまい、本音でしか語らなくなったからだ。父の行動原理は「褒めて~褒めて~、もっと褒めて~」なのだと理解した。だから「ありがとう」「おかげさまで」「お父さんのおかげよ」と言っている限りご満悦。
じゃあ、20歳の私に、それが出来たか?と言えば出来ない。一番の理由は、父の支配欲が半端なく強いから。ひと言でも「お礼」なんか言おうもんなら、どんどん「じゃあ、俺の気に入るようにああしろこうしろ」と言い出すのが目に見えてて、怖くて感謝の言葉など言えなかった。
49歳の今なら「ああしろ」に対して「そうするねー」と言っておいて、ぜんぜん、言う通りにしないってことも可能だから問題ない。結果が同じならやり方なんかどうでもいいだろと開き直れるしね。
でもなあ。すっかり解決していると思っていたコンプレックスが、行間ににじみ出ちゃうのは困るなあ。
母(こっちも認知症でまともなことはあまり言わない)が気軽にお金を使おうとすると「お前はお金を稼ぐ大変さを知らないから、そんなことを言う」と噛みつくことがある。ちなみに、母は教員の免許を持っていて、元々キャリア志向。病気でキャリアを断念したという経緯がある。お金を稼ぐ大変さなんて知ってるよ。というか、専業主婦されるのが嫌なら、仕事させてやりゃ良かったのに、家に帰って来たときに真っ暗なのは嫌だと言って、母の仕事の芽を潰してきたのは父なのだ。
自分で潰しておいて、そのことを種に責める。はっきり言ってモラハラだと思う。
ああ、ごめん。なんとなく、増田なら、こういう愚痴も真面目に聞いてくれそうな気がして、つい、長文書いちゃったよ。ありがとう。恨み節が表に出ないよう気をつける。なんせ、今、その両親を介護中で、いつもニコニコ安心生活を実践せにゃならんのだ。指摘、助かった。
元記事
http://yorogame.blog137.fc2.com/blog-entry-513.html
9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。
また、ネットとTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネットの人間がTVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。
そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上位である憲法の重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。
現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法の理念に基づいた行動というのを国民が意識するようになったら、憲法の解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。
そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙で当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民にポジティブな意識、モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVもネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。
そしてネットとTVと新聞の世界を繋げるために、政治家はTVで希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。
大阪の政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。
また考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国等海外で人気があり日本でも知名度の高いこの文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。
私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネットのTV、新聞がどのような役割を果たしているかということある。
TV・新聞といったオールドメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネットが日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から、今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。
まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である。
という見知でこの文章では、各メディア(主にネット・TV・新聞)の主張を捉える。
そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民の感情について考える。
まず、311の地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。
この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。
私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫氏である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。
当然である。原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。
そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。
私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見が交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年~一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会に意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。
その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織が善意でネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTVの比重が大きい人間に、ネットの情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。
だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人が原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人は政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報は政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本のネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発の科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民の意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネットの情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。
原発の科学的情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的の効果を最大化させるために取り得る方法は何か。
国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民は政治に希望と期待などのプラスの感情、モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報を自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。
当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付けが全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。
それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院に入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。
病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語の勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダーに全然アクセスしなかった。
それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当にblogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福を志向する事の美しさみたいなものを学んだ。
話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットのblogにも情報は届くからだ。
そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。
その方法論を私なりに書きたい。
まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法は理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。
また、ネットとTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネットの人間がTVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。
そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上位である憲法の重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。
現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法の理念に基づいた行動というのを国民が意識するようになったら、憲法の解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。
そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙で当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民にポジティブな意識、モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVもネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。
そしてネットとTVと新聞の世界を繋げるために、政治家はTVで希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。
大阪の政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。
またこれらの考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国等海外で人気があり日本でも知名度の高い蒼井そらが社会の理想と希望について語りながら、性的な事を行う映像を創ることもまた効果的であるといえる。
その理屈を使って、ネット上で論じられる著作権問題を憲法が持つ全体の利益という視点を重視して、多少厳密さを欠いたうえで語るなら、インターネット上の無料コピーは日本人が一般的に思っているほど、あまり悪いこととも言えないという理屈も導ける。
ネット上の無料コピーによる、著作権侵害が違法であるといっても、動画サイトで見るのは良いが、ツールを使って落とすのはよくないとかそういうのは根本的に考えたら些末な問題でやってることは本質的には同じとも云える。それを差異があるように演出しているのはあまり社会を善くするという意味は無いと云う事もできる。なぜなら、どのような方法であれネット上で無料コピーにより著作権を侵害するという行為によって逮捕される人は現状、全然居ないに等しいからだ。なのでこのような違法としていて一部はそれを遵守せよ!と感情的になっているがその視点は近視眼的ということもできる。そういったあまり根本的に考えなていない意見によって脅迫をかけるような同調圧力と化していると思う。全体の利益という視点を重視したら、違法としててもろくに取り締まりもおこなっていないやったもん勝ちみたいな、現状の無料コピーに対する意識というのは不自然です。赤信号は場合によっては無視してもいいという意識は誰でももっているように、無料コピーにしても、目立つ形でやった人間以外ととても運の悪い人以外には、取り締まりなど無いに等しいから、やるのは個人の判断で赤信号を渡ることと似たようなこと。という意識を多くの国民がもっていたほうが国家としては健全だと私は思う。その国民の意識に応じて法を変えれば良い。
そのようなそこの浅いときに、脅迫的ともいえる同調圧力意見というのはネットにはありふれていて、その思考方法を変化させるためにも、国家はどうあるべきかという形を分かり易く国民全員に伝えなければいけないと思う。
(終わり)
日本のメディア間の隔絶について 日本のおけるネットとオールドメディアの最適な関係の構築方法の模索
この文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。
私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネット、TV、新聞がどのような役割を果たしているかということある。
TV・新聞といったオールドメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネットが日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から、今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。
まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である。
という見知でこの文章では、各メディア(主にネット・TV・新聞)の主張を捉える。
そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民の感情について考える。
まず、311の地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。
この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。
私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫氏である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。
当然である。原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。
そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。
私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見が交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年~一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会に意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。
その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織が善意でネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTVの比重が大きい人間に、ネットの情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。
だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人が原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人は政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報は政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本のネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発の科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民の意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネットの情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。
原発の科学的情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的の効果を最大化させるために取り得る方法は何か。
国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民は政治に希望と期待などのプラスの感情、モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報を自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。
当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付けが全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。
それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院に入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。
病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語の勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダーに全然アクセスしなかった。
それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当にblogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福を志向する事の美しさみたいなものを学んだ。
話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットのblogにも情報は届くからだ。
そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。
その方法論を私なりに書きたい。
まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法は理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。
また、ネットとTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネットの人間がTVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。
そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上位である憲法の重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。
現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法の理念に基づいた行動というのを国民が意識するようになったら、憲法の解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。
そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙で当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民にポジティブな意識、モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVもネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。
そしてネットとTVと新聞の世界を繋げるために、政治家はTVで希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。
大阪の政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。
また考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国等海外で人気があり日本でも知名度の高い
この文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。
私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネットのTV、新聞がどのような役割を果たしているかということある。
TV・新聞といったオールドメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネットが日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から、今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。
まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である。
という見知でこの文章では、各メディア(主にネット・TV・新聞)の主張を捉える。
そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民の感情について考える。
まず、311の地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。
この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。
私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫氏である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。
当然である。原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。
そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。
私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見が交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年~一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会に意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。
その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織が善意でネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTVの比重が大きい人間に、ネットの情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。
だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人が原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人は政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報は政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本のネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発の科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民の意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネットの情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。
原発の科学的情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的の効果を最大化させるために取り得る方法は何か。
国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民は政治に希望と期待などのプラスの感情、モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報を自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。
当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付けが全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。
それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院に入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。
病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語の勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダーに全然アクセスしなかった。
それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当にblogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福を志向する事の美しさみたいなものを学んだ。
話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットのblogにも情報は届くからだ。
そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。
その方法論を私なりに書きたい。
まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法は理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、Permalink | トラックバック(0) | 04:44
あなたがもちだす「主婦」対象のアンケート(http://anond.hatelabo.jp/20111231161437)が、
それは、この主婦のアンケート結果から見えるように「女性自身の認識」に縛られてませんか? という主張です。
『「共働き」女性の家事・育児の負担(C)の苦労は違う!』という反論/データの提示はもちろんOKですよ。
「男性への期待は過大である」ことを否定していない私に「今の男性が苦しい思いをしているとは思いませんか」と主張するのは無意味ではないですか?
私はあなたと「水掛け論」をしたいわけではないので、あなたが私の質問の主旨を理解されないのであれば、対話は終了です。残念ながら。
これについては構いませんよ。御自由に。 お返事ありがとうございました。
これに関してもすみません。 あなたの期待には答えられそうにありません。
あなたの期待に私が答えられない理由ですが、個人的には
2003年ころ、「結婚したくてもできない男 結婚できてもしない女」みたいな本が出たころ、
対等な状況になった男女が「男性と女性の両方の苦しみを癒すこと」みたいな議論ができるようになるのかな?
と思っていたんですが、実際にはそうはならず、
実際には女性の上昇婚志向は止まらないままでした。フェミニズムはフェアを求めるがフェアではない。
(全ての女性がそうだ、とは思っていませんよ。自分の給与水準を考慮して相手への理想を下げられる女性も、もちろんおります)
ただ女性観点でみると「結婚を利用しての生活レベル上昇」も失いたくないし、当然、仕事も欲しい訳です(私は女性雇用が悪いとは全く思っていませんよ)
全体としてみると、そういった傾向が見られます。
恐らく、フェミニストの方は1970年代、上記の意識を「男性に向けて」思ったのではないでしょうか?
今もそう思っている方も多数いることでしょう。
私は、男女の関係の「建設的な議論」というものが可能なのであれば、
2000年代前半で結婚観に関して、男女で建設的な議論と落としどころができたんだろーな、と思っていましたが、そうはならなかった訳で、
譲歩や交渉が効かない相手であるならば、キチンと反論すべきだと思うようになりました。
私は対話や譲歩といった方法では、もう「男性の苦しみを癒すこと」の実現不可能だと思っているのです。
そうですね。 これは『私が認識、想像するフェミニスト』に対するプロパガンダなのでしょう。
うーん、そうかなぁ。今の男性の高い自殺率は、男性への期待値が高すぎるからでしょう。
Buss&Schmitt1993 このPDFのP21
http://www.psy.cmu.edu/~rakison/bussandschmitt.pdf
各国の比較、日本人女性は他国に比べて男性への依存度が高い(アメリカっていうよりザンビア)
日本の場合、男女で『パートナーに求める年収』に激しい差異があるのです。
平成17年版 国民生活白書 女性は結婚相手に対して経済力を重視している
http://www5.cao.go.jp/seikatsu/whitepaper/h17/01_honpen/html/hm01020101.html
また過去から現在にかけて、女性の雇用は拡大、平均賃金は上昇していますが、女性の男性への期待値は下がっていません。
女性の92.1%は経済力も理由に配偶者を選択するが、男性は30.2%でしかない。
『女性の雇用、社会的地位が低いから男性への期待値が下げられない』
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20100616
男性が経済的なプレッシャーを受けた結果、死んでいる、という事ですね。
うーん、そうかな?と私が思うのは
「2」に関しては上昇指向をもった女性自身が少ないため自然に実現すると思います。
アファーマティブアクション等の自然競争でない、不公平なバイアスがなければですが。
「1」に関しては
・結婚年齢を下げる
(10年前、まだ若い女性が多数いた時代、根拠のない自信にあふれた女性が沢山いました)
人口増加が見込めず、若い女性の数は減る一方なので不可逆的に女性全体の価値は下がりつづけるでしょう。
結婚年齢ですが、今、30歳以上の女性に関して男性からネガティブな意見が出まくってますよね。
(「anan、cancan読んでる女性が2chまとめサイト見るか?」ってーと、そんな見てない訳で、
まだ数年続く必要があると思います)
若い女性は「豊かな生活」って分かってないです(年収低いですから)。二人で一緒に豊かになりましょう。
また女性の賃金が下がれば、女性の上昇婚志向を満たす社会が実現することになります。
結果的に婚姻件数も増える、と思ってるんですけどね。
2011/12/30 zions
え?なんで男性に依存するかの考察は無し?女性は結婚出産で失職(休職)し夫の経済力に依存するから、配偶者の選択で経済力が重要だろ。女性の賃金が下がれば、男性への依存は上がると思うのだが。
はい、貴方の言うとおりの理由から女性の上昇婚志向は文化によらず全人類に見られます。
これは最初のリンク、Buss&Schmitt1993の国際比較を見てもらってもわかりますよね。
(ただ日本人女性の経済的依存度は他国と比較すると圧倒的に高いです)
ただ先進国になるに従って経済的依存度は減るケースが一般的でしたが、
日本人女性では賃金上昇とパートナーへの経済依存度が反比例しなかったのです。
女性の賃金が「上がれ」ば、男性への依存度は「減る」のが普通と思われていました。しかし日本ではそうはならなかった。
『女性の賃金が上がれば、男性への依存度が下がる』ってのは幻想です。
2011/12/30 indication
期待値を下げるには、実際に家庭をもった女性を理解できないと、始まらない気がする。家内も独身だとわからないだろうな的なことを言っていた。
ちょっと誤解があるかもしれませんが私には妻子がいます。女性の上昇婚の事は把握していましたので、私は社員、彼女は派遣社員という組み合わせで結婚しました(職場は別です)今は上手く行ってます(w
2011/12/31 lcwin
自分の世界だと世の中の女性はファッション誌みながら2chまとめブログも読んで釣られるし、BLもギャルゲーも歴ゲーも楽しむものです
実はテレビ放送は一期しかチェックしていなかったが、個人的にロンドンに思い出があり、今回の舞台はロンドンと聞いて鑑賞。
空気系、日常系と評される本作品の中にあってもとりわけ空気「系」・日常「系」 感の強い本作品。
夢のロンドン行きが決まった瞬間、澪の歓喜する顔は、画面にない。
卒業式の日の朝、三年生の四人にとっては高校生活の最後を締めくくる、記念すべきライブ。唯はいつもの照れ笑いで、ステージを降りる。
ラストシーン 。軽音部ただ一人の後輩に捧げる、先輩からの最高のプレゼント。あずにゃんは拍手で応える。でも泣かない。
いわゆる「ドラマ」であればまず間違いなく涙で描かれるであろうシーンで、徹底的に涙が排除される。
許容されるのはただただ、回るものを怖がって怯える澪の涙だけ。萌え。
地震と津波が明らかな非日常であったのに対し、原発事故による放射能リスクは日常への疑念として、震災後も続く日常に影を落としている。この状況にあっては、日常はむしろ希求されるべき状態ではないか。
被災地では、一度は失いかけた日常を取り戻すべく活動が続いている。
未だ顕在化しないリスクを抱えたホットスポットとされる地域においては、(それが認知的不協和に基づくものであろうことはさておき)逃げ出そうとする人々は非難され、普段の生活を送ることこそが「平和」、「平穏」として志向される。
「セカイ系」に対しての「空気系」・「日常系」と評された本作。けれどそれが否定したのは本当は「セカイ」ではなくて「ドラマ」なのだと思う。
「感動」に対しての「平穏」。
涙は現実だけで十分。
今こそ平穏を取り戻そう。
「不況で働くのはツラい」ってのを学習したんだと思います。 もちろん男性も学習したと思いますけど。
少なくとも日本の女性はどこかで、「就業するより家庭に入った方がマシな現実」に突き当たって学習するからこそ、その選択になる。
就業することは幸福度を上げた。でもどこかでガラスの天井か何かは分からないけれど、何かに突き当たっているからこそ、家庭の方がマシと学習することになるわけで。
ガラスの天井って昔は言われてましたけど、最近は言われなくなってますよね↓
http://www.yomiuri.co.jp//komachi/news/mixnews/20080911ok08.htm
なりたくない理由は
「今まで以上に長時間働きたくない」(51%)、
「責任を負いたくない」(30%)、
「部下を持ちたくない」(20%)、
「見合った収入が得られないと思う」(18%)など。
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20110518-OYT8T00212.htm
背景には、女性の昇進意欲の低さもあるようだ。
独立行政法人「労働政策研究・研修機構」の06年の調査では、
「課長以上への昇格」を望む25~29歳の
男性は54%で、
女性は7%。
「役付きでなくともよい」は
男性33%、
女性74%だった。
20代女性に強まる「専業主婦願望」 理由は「働きたくない」「ラクしたい」
端的に言えば、近年の日本で女性は、労働して、報われるという経験を得ていないのです。
景気が良いときでさえ、男性に比べて大して報われていない経験を、日本の女性は体験し、学習しているわけです。スウェーデン等とは違い。
いえ、酬われていますよ。
http://www5.cao.go.jp/seikatsu/senkoudo/h21/21senkou_02.pdf
普通に女性のほうが幸せですよ。まぁ自殺件数を見てもわかるが。
あなたが思うほどに日本人女性は不幸だとは思っていないのです。 少なくとも男性よりはね。
それと何度か書いていますが、未婚男女の可処分所得はほぼ同レベルに達しています。
にもかかわらず、様々な統計、アンケートでは女性の上昇婚志向の傾向が見られます。 この点に関してはどう思いますか?
これも社会が悪いんでしょうか。
↓これはそう。
水は低きに流れる。 逃げ道があるのであれば、そちらに流れる、という状況ですね。
そういった観点では私も今の女性の行動は心情的には理解できます。
また、そういう事もあるので夫に年収を求める上昇婚志向が止まりません。
低いのは、国の経済状態で勤労意欲が変化してしまうような女性に問題があると思います。
もし本当に女性の勤労意欲が高い国であれば、高学歴女性の専業主婦志向や管理職志向の減少なんて起きないでしょう?
前にも書きましたが、この状態を『女性に問題がある』とするか、
あるいは『そういった背景を元に労働市場をデザインすべきなのか?』という議論がされるべきだと思うのですが、今はされませんよね?
実際自分みたいにプログラミングだけして生きていたい、子供なんか育てる暇ないし、そんなの面白いとも思わない、って女も普通にいる。
君は自分の経験を過度に一般化している。この点に関しては君が悪い訳ではないよ。ただ「全体がそうか?」というとそうではない。
女性を雇わない、出世させない、子育てコストを女性にだけ払わせる→女性は仕事を諦めるしかない→女性が仕事をやめるのでますます企業は女性を雇わない
女性の管理職志向は下がってるよ。まぁ景気が良くなったら女性の管理職志向もあがるとは思う。でも景気拡大は簡単な話じゃないでしょう。
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/news/mixnews/20080911ok08.htm]]
NPO法人GEWEL(ジュエル)が2006年、働く女性約2500人を対象に実施した調査では、
すでに管理職だった人や管理職になりたいという人が計22%だったの対し、
管理職になりたくないという人は41%、どちらとも言えないという人が34%だった。
なりたくない理由は
「今まで以上に長時間働きたくない」(51%)、
「責任を負いたくない」(30%)、
「部下を持ちたくない」(20%)、
「見合った収入が得られないと思う」(18%)など。
実際自分みたいにプログラミングだけして生きていたい、子供なんか育てる暇ないし、そんなの面白いとも思わない、って女も普通にいる。
君が悪い訳じゃない、でも全体で見ると、今の女性は君みたいな人ばかりではないんだよ。
結婚後の合計特殊出生率は女性の賃金によらない、というのは分かりますよ。
うん、それは「フィンランド女性に上昇婚志向が見られない」からだと思います。
女性が「自分と同じくらいの給料の男性と結婚する」と考えれば結婚は増え、出生率も増えます。北欧ではそうなのでしょう。
日本では(未婚男女の可処分所得は男女ならんでいるのに)女性は「主たる稼ぎ手は男性であるべき」という意識が変わらないのです。
この点に関して『これは女性が悪いのか?』と考えるのか、
雇用機会均等法とかできて男の多数は「女は男と経済的に対等になった」とか考えてるらしいけど実際は女性の賃金は低く抑えられてて男性の7割いかない。
フルタイムで働いてても年収300万いかない女が60%以上なのに対して男は400万以上が6割。
フルタイム勤務で就業時間や勤続年数、職階といった条件を揃えても女の年収はやっと男の7割ちょい。
雇用機会均等法ができたのなんて相当前なのに実態としては女性の労働単価は低く抑えられ続けていて、みんなその状況が改善されることを諦めてしまった。
おまけに共働きするなら家事は全部女がやれと言われる。(日本は世界一共働き夫婦の夫側の家事従事時間が少ない国)
親自身が、足るを知るようになるのが一番いいと思う。
身の程を知るんじゃなくて、足るを知る。
現状に満足する。
近くにいる人を大切にする。
無理な上昇志向は持たない。
子供に過度の期待をしない。
不平不満を言わない。
子供が嫌がる事を無理にさせない。
出生以来、こんな自分にも初めての恋人ができ3ヶ月。未だよくわからず試行錯誤の日々が続いてる。
だが特に最近は、付き合い始めてからずっと心身共にお近づきになれない状況が続いてることにヤキモキしている。
色恋に全く出会わない人生を長く続けたことで染み付いたキモイ童貞思考のお陰で、性的行為やイチャイチャまでは行かなくとも(究極的理想ではあるが)、身を寄せ合ってアハハウフフするような関係を想像してた。ただ実際は違った(この童貞思考にツッコミ所があるのはわかってる)。
バッタリ会っても、メールでも、数少ないデートでも、特に人前では素っ気ない態度を毎回とられる。目線をあわせてくれることも少ない。厳密には、意図的に意識しないように努めが隠しきれていない素っ気なさ、か。超奥手な自分が勇気を振り絞って、手を奪った時も、そこはかとなくそんな感じだった。
以降、身体的な距離を縮めることは「あー嫌なんだろうな」と思って躊躇してしまうようになった。同様に心的距離も縮められない。だからこの3ヶ月、一般的な彼氏彼女のような「振る舞い」をしたことは、手を握った一度を除くと、カミからシモまで、ない。
独りよがりではあるが、それが個人的には凄いさびしいし、物足りないし、嫌われてるんじゃないかと何度も思う。
そもそも相手は(自分もだが)結構な奥手志向だから、思い切った一歩を踏み出せないというのはある。ちなみに彼女は大人しく、真面目で、性に関する知識が全くない箱入りで、恋愛に疎く、だいぶ鈍感な、まさに現代日本にこんな人がいるなんて…という感じの女性。
この間二人で飲んだ時、酒の勢いに任せて本音をぶつけてみた。そしたら珍しく酒に酔った彼女が「確かに…だけど(「好き」と言いたかったらしいが、恥ずかしいらしくゴマカシてた)、『彼氏』と認識できない。悪い意味じゃなく、『友達の延長』のような感じ。増田は全然悪くない、全部私の性格の問題。ゴメンね」と言っていた。
それを聞いた時、先の童貞思考をもった自分は、ドゴォッとぶん殴られた気がした。この高裁関係でも自分は「彼氏」ではなく「友達の延長」なんだ…じゃあこの関係は形式的なものなのか…なんで付き合ってんだ…と、自分が相手に抱く感情とのギャップにショックだった。自分も、いやむしろ自分には、至らない所がたくさんある。こんな不器用でどうしようもない人間に告白してくれたことに、形容できないくらい感謝してる。だからこそ大切に、一生懸命尽くしたいと強く思う。しかしそんな自分の想いが一方的に空回りしてる感じなのかな…と正直落胆した。
その数日後には「自分が増田の期待に応えられない彼女であることはわかってる、申し訳なく思う」というメールもきた。
つまり彼女は、(たぶん)嫌ってはいないようだが、自身の性格(推測するに己の羞恥心?)によって心身的距離は縮められないようだ。
つい最近もクリスマスの予定をメールで話し合った。彼女は「クリスマスって何やるかわからない。いつものように『普通』じゃダメなのかな…」という内容を送ってきた。ここから、ああやっぱり先の童貞思考は未来永劫叶わないんだ、完全に叶わなくとも心身的にアハハウフフするのは難しく、ましてやこの子と性的行為なんて雲の上の上の上の…と確信した。
逆に考えてみれば確かに彼氏彼女の関係における一つの形ではあるだろう、が、やはりここは童貞、本能的にヤキモキせずにはいられない。
もうなんだろう。自分は彼女を好きだし、関係を続けていきたいけど、一方で多少冷めてないかと言われればウソになる。「まあ色んなカタチがあるよね、付き合いが浅いし時間をかけて一緒に解決していけば」という理性と「あー!もっと寄り添って過ごしたい!一般的な彼氏彼女のように振舞いたい!チュッチュチュッチュ!」という本能のこのディレンマをどうすればいいのか。
煽り耐性のない自分には、手厳しく向けられるコメントが怖いからこんな記事は書き控えていたが、でもやっぱり吐きどころがなくてモヤモヤしっぱなしなゆえ吐いてみた。もうどうにでもな~れ
気が利かないと責めるけど安心がないと他人に気を遣う余裕が無いので難しい。
自分が相手に対して余計なプレッシャーをかけてないか、安心を保証できてないのではないか、と確認するようにしたい。
というか、ある意味ではとても気を遣っている。
基本的に、過干渉が最初にあって、それに対する過剰防衛という問題であって
「だれそれが気が利くきかない」の問題ではなく、「気を通わすことが難しい関係性である」として問題を捉えるべき。
自分が上の立場だとこのことをすぐに忘れて、目下の者だけを責めるようになってしまうので注意するに越したことはない。
あと相手の志向のようなものが怒ることメイン(減点方式というかなんというか)だと、
喜ばせるための行動も自ずと自重される。
自然と気を遣って貰える人は、その気遣いによく気づき感謝する人だったりするので、見習いたい。
というか、気遣いというのを「こちらの要求が、言わなくても叶えられて然るべし」というような発想は
単なるコミュニケーションの怠惰であり、傲慢である。礼儀知らずであり、相手の意思を無視している。
目上になると、すぐにこうやって目下に対して礼儀知らずになってしまって、相手を不安に陥れ、
本当は気遣いのよく出来る良い人であっても、できなくしてしまうキケンが大きい。気を付けたい。
基本的に、人が人を嫌うのは、相手が自分というものを侵害したり、抑圧したりするからであって、防衛意識によると思う。
生理的に嫌いってのも、相手が自分の許可したラインを越えて侵入してくるということだろう。
嫌悪を乗り越えるために、自分はどれだけ頭を使って工夫できるかが大事。
こういう、完全な他人の間では誰もが理解していることなのに、
「親子」とか「恋人」とか「上司部下」といった関係になるととたんに甘えてしまうことが多い。
私はこういう関係が全く理解出来ない。
私にとってはどれも他人であり、他人である以上一定の線以上はどうしても相手を立ち入らせることが出来なかった。
で、相手はそこのラインを平気で侵害するので、しょっちゅう喧嘩になってうまく行った試しがない。
相手からしたら、私が自分のラインを押し付けたように見えただろうな。私のほうが加害者だったんだろうと思う。
親子関係にも恋人関係にも恵まれなかったと言い訳したいけれど多分、自分がそれらのメリットを全く受け取れないほど、人格的にどこか欠陥があるのかもしれない。
鬼灯さんちのアネキというマンガに出てくるワカメ髪の女の子を読んでそんなことを思った。
私はこの子にやたらと共感してしまう。私の友達はこの子のような人が多い。
お互いが合意のもとで許可したライン以上は絶対に越えないという関係。そういうのがとても落ち着く。
友達というか、関係のある他人。 必要なときだけ、壁越しにお互いの持ち物を投げ合う関係。
でも、ああいう子がどうやって、どういう時にラインを越えていくのか、そういうのを描いて欲しい。
文学少女シリーズの竹田さんしかりであるが、トラウマとかなんだとかわかりやすい傷を抱えている人よりも、
生まれて最初から、絶対的に変わらないラインがある人って、そもそも他人と深い関係を結ぶべきじゃないと思う。
そういう人が、落ち着いて存在できる。物語にはならないけれど、隅っこでただそこにある。そういう存在として生きたい。
ごちゃごちゃ理屈をこねたけど、結局、自分はこういう人間だから、こうしたいって言ってるだけだな。格好悪いな
他の人は自衛のために仲間づくりとか頑張ってるのに、それをサボってぼおっとしていたいって言ってるようなもんだ。
これだと相手に踏みにじらても文句は言えないと思う。
だから、自分なりに自衛の努力はしつつ、いざ踏まれても文句は言わないようにするしかない。
でもこれって、なんか政治とか軍事面から見た日本って感じだな。
誰かに頼って運良く生きているけど自覚しないで俺は一人でいたいんだーほうっておいてくれー、てな。
格好悪いうえにわがままカー救いようがないなー。
http://jkondo.hatenablog.com/entry/2011/11/19/114109
おしゃべりする相手はともだちだけじゃありません。それだけではあまりに退屈です。
ともだちだけが社会ではありません。人は、自分の興味があること、自分が専門としていることを通じて、もっと社会とつながりたいと思っています。ともだち以外の人とつながりの生まれる場所に行きたいと感じています。
個人的には全くもって同意。
で、これ、80年代は、これを全くひっくり返したことが言われてた。「もっとともだちを大事にしたり、友達を作らないとダメよ」「友達がすべてだよ」みたいなね。
生まれてこの方、この「ともだち第一」メッセージには心底うんざりさせられ続けてきたので、こういうメッセージはとても嬉しい。
「ともだち幻想=友達がいないやつは人間として問題がある」や「ともだちについての強迫観念」が生まれてきたのは70年代の末ころだったらしいです。
なんでもそうだけれど、誕生した当初はそれなりに合理的な理由があるもんです。 だいたいそれをおかしな方向にねじ曲げちゃうのがコマースメッセージなわけですが。
最初はあまりにもこの時代の日本社会が仕事一辺倒で、仕事以外で人間の価値をみとめられないこと、男社会への傾倒が急激すぎて、それへの反発が強くなったという話からスタートしてます。
(日本の男優位社会は伝統でも何でもなく、敗戦後に作られたものであるって話も大事ね)
人間関係も全部仕事がらみ、家族ぐるみの付き合いといっても結局仕事に縛られる。女の人や子供はさぞストレスだったろうと思う。
この当時は、必要があったとはいえ、仕事頑張りすぎて脳がおかしくなった男性が調子乗りすぎて、ソレ以外の人間を犠牲にしてヒャッハーしてた時代だったということやね。
(団塊世代の人とかが、「俺たちは毎晩徹夜する勢いでがんばってたのにいまどきの若いものは」とか言ってるのを聞くと、
ああ、日本人ははやく複式簿記を必修科目にスべきだ、と思う。こういうバランス無視の考えだからバブルが起きたんだよ、責任取れとはいわんがちょっとは反省しろボケが。
ああ、彼ら的には悪いのは全部日銀で政府でアメリカの陰謀なんですよね。 本当に信じられないくらいにナイーブな方々だと思う。反省したくてもできない脳のつくりなのね)
そんで、仕事における負け組や、仕事オンリーの人間関係に虚しさを感じる人達が、仕事以外のものをもとめたときにそれがともだちの存在だった、という流れ。
そういえば、この年代も、若者の連続殺人犯とかが立て続けに発生して問題になってたな。
当時から、社会的な問題があると、若者がカナリアよろしくまず発狂し、ソレを見て年寄りは「最近の若者は」って言うのは変わらんかった、と。
で、そこはなんでも極端な日本人、なんでも二元論で考える日本人。
日本人は、なにか新しいことを始めるときに、前のものを否定しなければ気が済まない上書き志向の持ち主です。
「仕事だいいち」に見切りをつけると、どっと「ともだち至上主義」に流れ出した。女の子は「恋愛なんちゃら」かな。
で、こんどは「仕事がデキない奴はクズ」「学歴低い奴は賢い奴の奴隷」みたいなカーストに復讐するかのように
「友達がいない奴は人間のクズ」「いくら偉くなってもあいつ友達いないんだろうな」って言えばなんとなくスカッとする傾向が生まれましたとさ。
とはいっても、おじさんたちは頭が硬いからそう簡単に変わったりはしません。つまり「勉強や仕事第一」主義も残ります。
夫に全面的に依存して思考停止している母親も基本的には夫の方針に従って子供を調教します。なので、勉強第一主義は根強く残ります。
「勉強・仕事だいいち派」と「ともだち100にんできるかな」が勢力闘いをするようになります。
まぁホント日本人くらいですよ、仕事とプライベートを対立関係に置いて、どっちか片方しか取っちゃいけないと考えてるのは。
仕事と私とどっちが大事なの?って慣用句自体、日本人の性格をこの上なく正確に表現してるよね。
不完全なものでも絶対の軸において、ソレにすがってないとアイデンティティを確立できないのは、やっぱり無神教国家だからなのかねぇ。とか知ったかぶってみる。
そうやって、自分だけが幸福になりたいばっかりに、それに適応しない人たちを踏みにじることを何とも思わないことがとっても生き物っぽくていいですよね。
こうやって仕事vsプライベートで対立しあって、お互いがお互いの素晴らしさを主張しようとハードルを上げ続けた結果、
もはや両立不能なレベルまでどちらも要求レベルが高くなって、両立できないからどっちか選ぶ羽目になってまたケンカする。アホかと。
両立するためには、超人的な体力を持つか、仕事時間を自分でコントロールすることが許されるくらい偉くなるか、
あるいはちきりん女史のように、全力で仕事頑張ったあと、途中で退職する以外に方法はないんだろうなぁ。いずれにしろ無理ゲー。
自分で無理ゲー作って、クリアできないとか言って文句言うのって楽しいのかなぁ。
ここで終わればまだ笑い話で済むんだけれど、さらに続き。
当然として「勉強・仕事が出来ない」「友達もいない」人はベン図の外側に追いやられて、「かのものは人にあらず」と迫害の対称になります。
まぁ簡単に言うといじめですね。いじめって人間を測る評価基準があれば必ず発生しますが、まぁ日本のいじめは馬鹿馬鹿しいのが多いですね、クソッタレです。
でまぁ、いじめられたやつがどうなるかについて全く考えてない、フォローしないのも問題ですね。で、そのつけは当然数倍になって返ってくるんですけどね。
社会から切り離されたまま長時間放置されて、社会性を失った人が大勢います。
人間以下の扱いを受け続けると、本当に人間であることを辞める人がたくさんいます。
匿名で振る舞い続けていると、人間であることの節度を失う私のような人間もたくさんいます。
で、そういう奴らはどうするでしょう。
隣人部作ってはぐれ者どうしで連帯する?そんなのフィクションです。サバイブSNSってのがありましたけど多分うまく言ってないんじゃないかと思います。
(はがないはアニメしか見てないけど、あれはともだち教へのアンチテーゼだよね。「きみらがいってるともだちとかはどうでもいいし少ないですがそれが何か?」ってことやろ?)
社会性の訓練とか人間扱いとか、匿名から引き剥がして一個の人格として扱うとか、
そういうレベルから世話焼いてくれるとこがない限り、いちど脱落したものはよっぽどのことがない限り復帰できません。
結局人はひとりひとり自分でなんとかして助かるしかないでしょうね。
ほとんどの人間は、それぞれが「人間以下のなにか」として、ずっと劣等感抱えながら生きていくだけです。
あるいは「人間以下の何科ですがなにか?」と開き直って、twitterやら増田なんかで有名人にからんだりなんなりと社会に迷惑をかけながら生きていくしかない。
人間であるための条件として「友だちがいること」「勉強ができること」ってのがかっちりと決まっているかぎりはもう人間に戻ることはない。
というような感じなんですが、そういうともだち地獄に対して、
「ともだちともだちともだちってそればっかかかお前らは、そんな人生つまんねーだろ」ってのが当たり前に言われだすとまた話が変わってくる。
「ともだち地獄」のいく末は「22世紀少年」であり「原理主義者たちの祭典」ってのがようやくわかってきたみたいで、さすがにみんなうんざりしてきてるみたいです。
勉強もともだちも大事ですが、それを必要条件のように考えると、ほんとにしんどいだけなので、そろそろやめようぜ、って話になってくると嬉しいです。
生きるのは、ただでさえしんどいことだと思うので、そこにわざわざ重荷を載せないでもいいやんか。
別に俺はドMだからハードモードでやりたいんだって人はそうしたらいいけれど、ちょっと荷物下ろして道端で休んでる人を鞭打つ必要もないでしょう。
「死のロングウォーク」(スティーブン・キングの超絶傑作)はフィクションとしては死ぬほど面白いけど、現実では一番やっちゃだめなフィクションだってのに、なんで好んであのゲームをやりたがるのか、私にはよくわからんです。
阿呆な頭で平等主義を誤解したままお題目みたいに唱えるから、能力ある人に引っ張られて自分たちもがんばらなきゃいけないハメになるんですよ。
阿呆なら阿呆でいいやん。 南無阿弥陀仏言ってたら幸せになれる頭の持ち主が、TPPのこととか考えなくていいよ。
あんまり他人のことを気にし過ぎないで、ともだちがどうとか言わないで、自分が好きな事やってりゃいいと思います。
生きるほうを、選ぼう。