はてなキーワード: ナチスとは
円高とデフレ。
これがあるから若者の給料は上がらず、国の借金は相対的に増え続け、景気は悪くなり続ける。
なのに、円高もデフレも何も有効な対策を打たないまま、財務省は野田総理をマリオネットのようにコントロールし、消費税の増税を実施しようとしている。借金の実高も、消費の冷え込みも承知の上で、それでも増税をするんだ。なぜ? 貯金も財産もない若者には「死ね」と言われているようにしか聞こえない。
けれど、きっと財務省や日銀のえらい人は、そんな素朴な疑問に対しても、僕の想像もつかないような専門用語で、哀れむように、蔑むように、理路整然と解説して「だからインフレターゲット政策は誤りなのですよ。私たちの啓蒙が足りませんでしたかねえ」というような顔をするのだろう。いや、彼らにそんな暇はない。どうせ説明を求めても「愚民に説明しても無駄だ」くらいの心持でいるのだろう。
そして、今の円高とデフレを放置している理由は、僕の理解を正直超えている。財政なんちゃら学的に見て、それが妥当だからなのか?
それとも、インフレが暴走することで、査定が下がることを恐れているのか?
デフレ政策を維持し続けてきた大蔵日銀OBのメンツを守りたいからなのか?
デフレによって、相対的に自分の給与や退職金、天下り先で手に入る金を維持増加させたいのか?
デフレによって、天下り先が維持される原因が生じ、それこそが彼らにとっての利益なのか?
全くわからない。だが、物心ついたときから、デフレと不況と、財務官僚に国民の声なんか届かないという無力感に、影に日向に僕はさいなまれ続けてきた。
そして、財務官僚は増税反対論を敷くマスメディアや論客に、税務調査で脅しを掛けるという。
権力を使ってまで、若者の雇用を間接的に殺してまで、増税がしたいのか。
この構造は、霞ヶ関の奥の院、密儀の神殿で、長老の如き老人たちの手で行われており、所詮、僕のような若い庶民には、何の異議申し立てをしても無駄なのだろう。
そして、無理に騒ぐ人間には、権力を使って合法的に圧殺するのだろう。そして、彼らは若者の声を「愚民どもが扇動されているな」とあざ笑いながら、政治家を言いくるめ、マスメディアを脅して、増税を押し通し、不景気を招くのだろう。そして彼らは、天下り先で高い給与と退職金を得て、仕事のない若者を横目に「努力が足りない」と呆れながら、安楽な余生を過ごすのだろう。
この20年、好景気とやらを殆ど見たことのないまま、どこかの頭のいい老人たちの手によって、僕らは翻弄されてきた。それに異議申し立てをする能力も手段もないまま。
ハシズムが勃興する理由の一つは、この学習性無力感を癒す可能性が僅かでも感じられたからだろうと僕は思う。頭のいい大学のセンセイなんかは「それはナチスやファシスタ党の勃興と同じ理由だ、眼を覚ましなさい」とご丁寧に忠告してくれるのだろう。
でも、もう遅い。この国に刻み込まれた、学習的無力感の反動が、これから荒れ狂うだろう。暖かい場所で、オーソリティと給与を得てきた大学のセンセイの言葉は、実にむなしく響くよ。
「レインマン」とかっこつけているが、要は嫁は「バカ」だといいたいんだろ。
だが、バカはお前だ。
現実に、メルトダウンしていないと東電が発表していた原子炉がメルトダウンしていて、放射性物質は遠くまで飛ばないと政府の要因が発表していたのにかなりの広範囲まで放射性物質が飛び散っていたじゃないか。
専門家が、原子炉が爆発するなどおたくのいうように科学的にマユツバだ、安全だと言っていたのに爆発したじゃないか。
チェルノブイリ事故で甲状腺がんが多発した地帯と同じレベルの被曝線量の汚染地域が広がり、避難勧告を行わないまま人々はそこで暮らしている。
専門家が問題ないと言っているから、そこに住み続けていることが、お前のいう科学的な、条理に沿った態度なのか?
原子炉の爆発のあった3/12の直後に大雨が降った。
あの時に俺は外出せず、それを友人は笑っていたが、実際はあの時に高濃度の放射性物質が関東中に降り注いだことがわかっている。
あの時に外出しなかったほうが、よっぽど科学的な態度じゃないか。
お前は理性的な態度をとっているつもりだが、実は権威者の言葉を盲信しているに過ぎない。
嫁の態度のほうが、危険性をできる限り少なくしようとする、「君子危うきに近寄ら」ない、賢者の態度だ。
お前はトム・クルーズを気取っている。
だがむしろ、太平洋戦争の時に大本営発表を信じ続けて住民に「大丈夫、大丈夫」と言い続けた町内会の顔役の立場がふさわしい。
まずはじめに断っておくが、自分はアスペなので嫌いな人はこのエントリを読まないでほしい。
私はアスペルガーという理由で医師から精神障害者の認定を受けている。
障害者であるかどうかという事自体は自分で決められる事ではないし、避けて通れない問題として割り切って生きていくつもりだ。
ただ思う事がある。ナチスドイツが障害者を排除しようとした様に、現代でも少なからず障害者を忌み嫌う人がいる。
それはそれで結構だし、個人個人がどう思うかという感情にまで一障害者である私が干渉しようとは思わない。
その人たちが私に対して死んでほしいだとか考えているのと同じように、私もその人たちの事を嫌いだと思っているし考えたくもない。
しかし、社会の一員として外に一歩踏み出してみると様々な人達と関わりをもたなければならない。それが嫌でしょうがない。
障害者という身分上、どう転がっても健常者と同じ土俵で生活できないからだ。
人間関係で大きなハンデを背負っているに等しい私が一体どの様にして一般的な人たちと同じように暮らせるのだろうか。
私の場合現実から逃避してきた。好きな事だけをし、障害者年金で飯を食い、適当に勉学をして、あとはやりたい放題で、本来の福祉の意味として社会復帰のために与えられた金を使ってのうのうと暮らし、社会活動に参加しようとは微塵も思わなかった。今後もこの考えは変わらないだろう。
私は敵意を感じる。もし今後時代が逆行してまた障害者を排除する流れになったら、私は必死になって最後まで抵抗するだろう。
往生際が悪いと思われるかもしれないが、私は私の都合で簡単に殺される訳にはいかない。
もちろん、上述した例は極論だが、様々な場面において私は誰にも邪魔される筋合いはないのだからそこだけは分かってほしい。
終わり。
6 Reasons We're In Another 'Book-Burning' Period in History | Cracked.com
By: S Peter Davis
これを聞いた人の8割は私の顔を殴りたくなるだろうが、端的に言おう。
稀覯本を含む本を数万冊以上捨ててきた。
焚書と聞いて、一般にはおそらくナチスドイツを連想する人が多いんじゃないだろうか。
それは不寛容と反知性の象徴だ。
だが今回の焚書は違う理由で起こっている。
本を捨てているのは、利用者が誰もいないような辺鄙な田舎の図書館だけじゃない。
おそらく世界最高の権威がある図書館、大英図書館でも、本の廃棄が産業的な規模で行われている。
オーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ大学やそのほかいくつかの大学では最近、本の処分に関するスキャンダルが起きた。
今年ボーダーズという書店がつぶれたときには、在庫は寄付されるのではなく廃棄された。
捨てられているのは、『TVガイド』とか重複所蔵の本だけじゃない。
17世紀に美麗に印刷されたシェイクスピアの作品集を想像してみてほしい。
奥付のページには、遠い昔に亡くなった所有者からの達筆なメッセージが付いている。
それをゴミ箱に捨てるのだ。
私は何度もその場にいた。
持ち帰ってeBayに出して売って、何百ドルかにはなったんじゃないだろうか。
これはオバマの共産ナチ新世界秩序に操られたソビエトの秘密作戦か何かではない。
血も涙もない官僚主義によって起こっているのだ。
というのも……
誰しも思うのは、恵まれない人たちに寄付すればいいんじゃないの、ということだ。
囚人でも、病気の子供でも、独立系の新興書店でもいい。寄付すればタダじゃないの、と。
蔵書であることが分かるようになっている。
その本を寄付したり売ったりするときには、印を消さなければならない。
盗品でないと分かるようにするためだ。
そればかりか、所蔵印が残っている本は、親切な人が見つけて図書館に返しに来てくれちゃったりもする。
そして、処理すべき本はとても多い。
図書館はやっきになって蔵書を減らそうとしている。
図書館館長になったつもりで、10万冊を処分しなればならないという報告を受けたと考えてみてほしい。
選択肢は二つ。
学者を何十人か雇って蔵書目録をもとに重要度や価値を評価させて、
また何十人かを雇って重要度の低い10万冊に一冊一冊処分の印を押させる、
というのがひとつ。
第二の選択肢は、コンピュータで貸出回数の少ない10万冊を列挙して、
数人に館内を回って集めさせて、シュレッダーにかけさせること。
第二の選択肢のほうがずっと速くて安いことはお分かりだろう。
そうなれば儲けがでることもある。
ことに司書にとっては、それはまるで、
ゾンビに噛まれた親友を前にして、自分だけが銃を持っているようなものだ。
それに、捨てられた本のなかに救われるべき本が埋もれてしまうことも忘れてはならない。
このやり方では明らかに、ものすごく貴重な本が引っかかってしまうことがある。
2011年版が書架にあるのに、『白鯨』の初版本を書庫から借りようとする人がいるだろうか。
コンピュータで出した貸出数ランキングではそうした区別ができない。
また、このやり方をする場合は、本は完全に破壊しなければならない。
ただゴミ箱に放り込むだけでは不十分だ。
盗られるかもしれないからだ。
誰も読もうとしないように本を引き裂くか、ゴミ箱に漂白剤を入れておく必要がある。
とにかく、ゴミ箱が「ご自由にお取りください」状態になってはまずい。
そして作業をする図書館員が16世紀の貴重書を見つけたとしても、
館長はそれを救えとは言えない。
捨てる代わりに調べるように命じていることになりかねないからだ。
どんな本か分からなければ捨てるのも楽になる。
みなさんがこの事実をご存じなかったとすれば、
ほとんどの場合、一般人が気づくのはゴミ箱に大量の本が入っているのを誰かが目撃してからのことだ。
とはいえ司書がこっそり話し合っている掲示板はいくらか見受けられるが。
2004年ごろ、ニュージーランドのビクトリア大学は13万冊の本を廃棄することを決めた。
計画では、廃棄対象の本に赤いテープを貼り、
それを救いたい人がペンでチェックマークを付けることになっていた。
ご想像のとおり、誰もが怒りをあらわにした。
ある教授は図書館を「野蛮人」と呼んで学内に電子メールを回し、
図書館をめぐりすべてのテープ付きの本にチェックを入れるよう、
職員と学生に呼びかけた。
私の場合は、本の廃棄に気づいたのはそれを盗んで逮捕された人だけだ。
一般人が気づくころには、すべて終わっていて、反乱の機会はなかった。
それに図書館は気づかせることのないよう巧妙な言い回しを使う。
たくさんの書架を空にして、本を書庫に送ったというとき、彼らは嘘をついているわけではない。
ただ、書庫はすでにいっぱいで、新しい書庫行きの本の分だけ廃棄をしているということを言わないだけだ。
本の廃棄を推進する人たちは、図書館の機能を「本の博物館」だとする見方に反対する。
みなさんは愛すべき古典文学の書架に代表されるたくさんの書架の集合こそが図書館だとお思いかもしれない。
通貨が少し下がったり上がったりすれば、外国雑誌の価格も少し変わるだろう。
さてここで、購読するのは数冊ではなく10万冊だと考えてみてほしい。
そして、いま降りかかっているのは小さな変動ではなく、大恐慌時代以来の最悪の不況だ、と。
これは一夜にして旅客機一台分が財布から飛んでいくことを意味する。
その旅客機の代金が払えないと、まずいことになる。
そうなったらとりうる手段は、燃え盛る蜂の巣を手放すように、
購読を打ちきることしかない……とお思いだろうか?
ところがそれは図書館のパワーユーザー、学者と学生が毎日必要とするものなのだ。
必要のないもの、それはたとえば、手書き挿絵の入ったネクロノミコンだ。
どれほどかけがえのない所蔵物であろうと、とにかく場所がないのだ。
というのも……
図書館が蔵書を引き裂く必要がある理由のひとつは、この不況だ。
悲しいことだが、それはそれで仕方ない。
コーヒーショップと引きかえに土塊にされているとしたらどうだろうか?
オーストラリアのニューサウスウェールズ大学でまさにそれが起こっている。
その図書館では、社交的空間を作るため、1850年代からの蔵書と新聞雑誌が廃棄された。
ピーター・スレツァク教授はそれを、図書館を「スターバックスのようなもの」に変えるものだと評している。
しかし、図書館の立場にたってみれば、それを要求しているのは、
彼らは本を保管することだけではなく、本を使う場所を図書館に求めているのである。
そして出版社は無数の本を出してくる。
ということで、図書館は、一方では新刊書を所蔵するために拡張を迫られ、
一方ではカプチーノを飲んで腰を下ろす場所を作れと言われているのだ。
問題は、その費用を誰も出してくれないということだ。
この報告書でも分かるように、図書館へお金を出している組織は予算増額をものすごくいやがる。
図書館が「拡張の資金が必要」と言えば、大学当局は「他を当たってくれ」と言うだろう。
ほとんどの図書館に他の当てはない(建物に放火して保険金をせしめるという手を勘定にいれなければ)。
本はもはや流行らない。このことは認めざるをえないだろう。
2010年最後の三カ月のAmazonの売上データで、電子書籍は紙の書籍を上回りはじめた。
最近のハードディスクであれば、場所をとらずに事実上無限の数の本を入れることができる。
小さめの図書館ならUSBメモリ一つでで置き換えられるとしたら、
巨大な防火設備で本を守り続けさせる原動力は、人々の愛しかない。
現在の経済状況下では、その愛はなかなか発揮されることがない。
この動きは三十年前に遡る。
1980年代、図書館のスペース問題を解決したのは電子化ではなくマイクロフィルムと呼ばれる新技術だった。
本や新聞雑誌をスキャンしてマイクロフィルムとして保存すれば、
図書館ひとつがキャビネットひとつに収まるというのが謳い文句だった。
ニコルソン・ベイカーは、マイクロフィルムブームの悲痛な記録を本にした。
それによると、大英図書館、アメリカ議会図書館といった世界の名だたる図書館が、
数千冊の古い貴重書を引き裂いてスキャンし廃棄したそうだ。
世界中の本好きたちがこれに抗議したところ、司書がマイクロフィルムを掲げて
今日では、インターネットの普及によって、本の圧縮はますます推進されるばかりだ。
ある組織では廃棄する本の選定にあたって、グーグルブックスに載っているかどうかというシンプルな基準を用いているそうだ。
もちろん、本好きの心はそれだけでは慰められない。
彼らは本の内容だけではなく、本それ自体に価値があると信じている。
彼らにとっては、同じ版の本がほかの場所にあるからといって、
貴重な書物を捨てることは正当化できない。
道は事務書類で敷き詰められていて、
これが現実だ。
何ナノ?
まだ悔しくって撤収できないの?
ならさっきの話を続けてもいいんだよ。
というロジック
(どこがロジックだ…)
が
どこの
ヨーロッパ各国
で
既に通ってる
のかをうかがってもいいけど。
説明出来ないから逃げ出したんでしょ?
グジャグジャ見苦しくのたうちまわんないでよ。
いや、俺が通したいわけじゃねえよw
ヨーロッパ各国で既に通ってるんだろうがw
おいおいすげえこと言い始めたな。
というロジックなんじゃないの。
こんな、ロジックと呼んだらロジックへの名誉毀損に当たるような意味不明の言明が
「ヨーロッパ各国で既に通ってる」わけねーだろw
大体お前自身さっき
ヨーロッパのことはよく知らんが、
と言ってたくせに
自分の出来のよくもない頭からひねくりだした「ロジック」をよくもまあ
ヨーロッパ各国で既に通ってるんだろうがw
とか言い出すなあ。
記憶力もどうなってんだよ。
それらの法律が制定される際には、
当然ながら諸々の議論があったはずだし、
もう一回ハッキリさせておくけど
君が今さっき提出した「ロジック」は、
「ヨーロッパをよく知らん」君が、
「議論された」だの「様々な解釈がなされた」だの「既に通ってる」だの
そんな事実は一切ない。
悪い頭が切羽詰ってテンパったのかもしれないが
な?
人間は二種類いる。
バカと利口だ。
劣等と優等、と言い換えてもいい。
奴隷は全員バカで劣等だ。だが、優等の中には奴隷と支配者がいる。
優等の中にいて、バカを馬鹿と見分けられ、バカを操るすべを知っているのに、奴隷に落ちる、優等の中のバカもいる。
劣等と優等は、別の種、と言ってもいい。劣等な人間には見えないモノが、優等な人間には見えている。
逆に劣等な人間は、優等な人間の前では丸裸になっている。ケツの穴まで見られている。ただ、ケツの穴を見られても劣等な種は恥ずかしさを感じない。家畜が尻を晒しているように。人間はそもそも気づかないか、気づいたら目をそらす。劣等な種が晒しているケツから目を逸らすのは優等な種である。
これは能力であって、優等な種が劣等な種に対して迫害したとか、何らかの操作をした、というわけではない。
ライオンは最初から兎を足止めする眼力をもっている。これは遺伝子に刻み込まれた能力であって、「努力」によって勝ち取られたものではない。
(というより、「努力」という言葉自体に幻想を抱けるからこそ奴隷は奴隷である証拠だ。そして、奴隷が抱くその幻想が、経済を動かしている)
こういうことを言うと、ファシズムがどうとか、ナチがどうとか、ガチで言い始める奴がいる。
「劣等遺伝子を持った人間を虐殺するのか!」「オマエのような差別主義者は許せない」と。
結論から言えば、ナチスとは、優等な種をジェノサイドした、劣等な種の集まりだ。
劣等な種が集まり、優等な種のなかの一部にそそのかされ、他の穏やかな優等な種を虐殺するときの欺瞞として、「(ほんとうは劣等な種だが)オレ達は優等な種であり、(ほんとうは優等な種でかなわない相手なのだが)劣等な種は有害だから滅ぼす」という言葉を創りだした。
この言葉すら、たぶん優等な種のうちの一部が創りだした言葉だろう。劣等な種に言葉を紡ぐ能力など無いし、能力があればそれは優等な種だ。
そして、先ほどの「オマエは差別者だ」と言っていたような奴が、先頭を切って虐殺を行い、「わたしはこんなに苦しい思いをしながら、しかし大義に報じるため、しかたなく屠殺を行っている。おお神よ」と舌を出していたのだ。
優等な種は、家畜をむやみに殺さない。
劣等な種だけが、虐殺という経済行為(これは経済行為の一種だ)を行う。
優等な種が憂うのは、劣等な家畜たちの反乱である。その反乱は、優等な種を滅ぼしたあと、劣等な種を激しい自死に誘う。内ゲバ、粛清、リンチ、処刑。
ロンドンで暴動があった。家畜の暴動だ。その前にフランスで暴動があった。家畜の暴動だ。
ハリケーン・カトリーナがニューオリンズを襲った。優等な種も劣等な種も被害にあった。そして、つかの間、「ユートピア」が現れたが、教育を受けた劣等な種が、怯えから大虐殺を行った。
劣等な種は、怯える。不安を紛らわせるために、建設的で地道なこと以外のあらゆることを行おうとする。
劣等な種が怯えている。彼らは奴隷の一揆を起こそうとしている。彼らは「自分たちは報われるべき人間なのに、このように不安を抱えている状態は許せないしそれは支配者が悪い」を合言葉に打ち壊しを始め、やがてその打ち壊しが自己目的化する。
優等な種は憂いている。
わたしは穏やかな劣等種なので、このような駄文を書いて自滅を避けることを(それはできないが)呼びかけることしかできない。
「ネガティブなことは言ってはいけないのか」論争に終止符を打ちたい
http://anond.hatelabo.jp/20110813021554を書いたものです。
たくさんのコメント、ブックマークありがとうございます。
もうちょっと書きたいことがあるので書きます。
ぼくらはけっこう慎重なもんで、
「○○についてどう思う?」という問いかけを目にすると
という考え方に持っていこうとする。
じっさいそれは素晴らしいことだとおもう。
なにか大きな疑問があって、それに対して必ず正解があると考えることのほうが危険なのかもしれない。
もっと優しく、賢く、謙虚になろうと思ったら、自分勝手に結論をゴリ押ししないで
あまねく人と可能な限りとことん話し合うほうがいいのかもしれない。
そういうのをなんて言う?構造主義的?
現在属している共同体の文化や価値観に従って決定することを避けられないから、
ぼくたちはとんでもない誤りを犯している可能性が常にある。
慎重に慎重を重ねても、結論を出すのに「慎重になりすぎる」ということはないのかもしれない。
しかし、ぼくはもう待てない。
というコメントを頂いた。
ぼくは長期的な幸せを望む。
間違った部分とは何か、という疑問についてはもっと考える余地があるかもしれないが、
ぼくたちはおそらくみんながみんな、
なるべく誤魔化しや、
その場しのぎでない、
恒久的、
永続的な幸せを望んでいると思う。
もしかしたら、前回の増田で例に挙げた、世界の多様性を示す例(ニューギニアやアフリカの話)は
「間違った部分」なのかもしれない。根絶すべき人間の悪性なのかもしれない。
よく考えてみてほしい。
ナチスのユダヤ人大量虐殺は「世界の多様性」と言ってしまっていいのだろうか?
9.11の同時多発テロは他人が介入すべきでない文化なのだろうか?
こういう例は枚挙にいとまがない。
うーん。そういうことにYESと言える人はあまりいないような気がする。
基本的人権というシールが、いつからか(先進国の人が考える)全ての人にへばりつくようになった。
このシールを大事にする人は、生きていい人と死んでいい人という区別があるのは認められないと言って、
慎重に慎重を重ねてものを言うなら、
「人を殺してはいけない」という価値観ですら狭い考え方でしかないかもしれないし、
「人を殺してもいいじゃん」という価値観が(先進国で)普通になっていたかもしれない。
そうじゃなくなったのは、人間の理性が悪を打ち破ったからではなくて、たまたまだという気がする。
ぼくは戦争のことなんてなにも知らないけど(体験してないのに知っていると言ってしまうのはウソである気がしてる)
「戦争はいけない」という価値観を受容して(強制されて)生きている。
そんなぼくが「戦争してもいい」という価値観を持つ人のことを理解できるわけがない。
戦争のことを知らないぼくが、戦争はいいとか悪いとか言っても説得力がないが、
少なくともぼくらは、大量虐殺はいけないと言ってもいい。テロはいけないと言ってもいい。
そう考えることしかできないと思う。
さて、間違った部分とはなにか?
ネガティブな発言を減らしていくということは、
間違った部分を正していく行為なのかもしれない。
それが長期的な幸せを作っていくのかもしれない。
ぼくが言いたいのは、
「ネガティブな発言をしてはいけない」という社会的合意が先鋭化されて、
「ネガティブな発言をやめられない人は生きていてはいけない」という主張に変わり、
実際に人が死んでいるかもしれないということだ。
もう一度言うが、ぼくは長期的な幸せを望む。
ネガティブな発言をみんながやめられるということが
少なくともぼくらの共同体では正しいことならば、そうする方が望ましい。
しかし、短期的にはその考え方のせいで人が死んでいるかもしれないということならば
話は別だ。
ぼくらは結局わかりにくいやり方で人を殺しているとおもう。
いちばん救われるべきだった弱いあの人を、ぼくらみんなが団結して殺した。
死因は自殺で、直接手を下したのはその人自身だったとしてもだ。
それはちょっと考え方が突飛すぎるだろうか?
考え過ぎだろうか?自意識過剰だろうか?
そうであるならばそれが一番いい。
ぼくひとりが間違っているのなら、それでいい。
がんばらなければいけない社会、
他人を傷つけるくらいなら自分を責める人がいて
自分が傷つくくらいなら他人を責める人もいる。
かなりの人が閉塞感を覚えているのだけど、その社会を選んだ(選ばされた)のはぼくらである。
民主主義によって、多数決でこの社会が選ばれた。少数派を殺そうという選択だ。
最近はもう少数派と呼べるほど無視できる数ではなくなっている。
弱い人が、
虐げられた人が、
ネガティブな発言をやめられない人がどんどんどんどん増えている。
その問題を優しくて、賢くて、謙虚な人たちがどうすればいいかとうんうん考え込んでいる。
「はてな民」たちはそういう人たちだと思っている。ありがたい。
しかし、あーでもないこーでもないと選択を先延ばしにしている間にも
世界は止まることがない。
つねに何かが選択されて、何かが切り捨てられていく。
切り捨てられていく中に弱い人達が含まれている。
もう待てない。
ぼくは、こんなふうに話し合っていくことが、
いつか世の中全体を変えるだろうと思っていた。
弱者を救済するための装置として、ベーシック・インカムに期待していた。
もう待てない。
長期的な幸せもいいが、まずは人を殺さないでほしい。
がんばって死ぬくらいなら、がんばらないで生きてほしい。
地面をはいつくばって生きるしかない人にとどめを刺さないでほしい。
ぼくらは死ぬために生まれたとでもいうのか?
蛇足かもしれないけど、
資本主義社会というのは、言ってみれば個人の自由を最大限尊重する社会だ。(その代わり平等ではない)
なにしろ死体になってしまうと、自分ではなにもできなくなるからね。
まあ、だから個人の自由を認める気があるなら、
資本主義を持続させようとするなら、一番避けるべきは誰かを殺すことじゃないかと思う。
それで、ぼくは「ネガティブな発言をやめろ」という言い方は誰かを殺すかもしれないと思うし、
解決するためには慎重に考えて、こうやって話し合っていくことが長期的な幸せにつながるのかもしれないけど、
考えれば考えるほどその間に人が死んでいってるかもしれないと思っているのだ。
まず「殺さない」ということだけでも、先になんとか決定できないだろうか。
ネガティブ発言を許せない誰かが狂ってでも、殺すことはやめようと言っているのだから。
その人はもしかしたら有能で、社会をより良くしてくれる救世主かもしれないが、
それでも誰かが死ぬことよりはマシだと思っているのだ。
理由は単純で、ネガティブ発言を許せない人よりも、
ネガティブ発言をやめられない人のほうがすぐ死んでしまいそうな「気がする」からだ
(どちらの側であっても心に余裕がないのかもしれないけど)。
ぼくは常に一番「死」に近そうな人の味方でありたい。
強い人は強い人で楽しんでくれたらいい。
ていうか、ぼくが殺されたくないからこんなこと書くんやけどね。
クズ人間であっても、最低限生きていることくらいは許してほしい。
すいません。言い方を変えます。
ぼくを殺さないでください。
上から目線で「あーしろこーしろ」と言いたくない。
ほんとは殺さないことが人のあるべき姿かどうかなんて、ぼくにもよくわからない。
このままのペースで世界の人が増え続ければ、間違いなくエネルギーや食糧が枯渇するから、
あんまり人は増えないほうがいいという説を読んだことがある。
死んでいく人が増えることはいいことなのかもしれない?
でもぼくは死にたくない。これ以上誰かが死ぬのも見たくない。
「ネガティブ発言」に込められているかもしれないと思ったのだ。それを奪わないでほしい。
もっと前向きな解決法があったらいいなーと思うけど、
「こんなふうにしてみようよ☆(ゝω・)v」
と言われて、
ぼくに必要なのは、一緒に泣いてくれる誰かだ。
後ろ向きなままでは前向きな方法は毒にさえなる。
まずは、死にそうな人を心穏やかにすることが先じゃないのかな。それも死ぬ前に。
これはちょっとさすがに自分でも意味がわからない。書けば書くほど冗長なだけになる。
ちょっと話題になってるこの記事のことだけど。
http://anond.hatelabo.jp/20110725004759
元増田の論じ方だと「親」の存在がみな同質/同列化されて位置づけられているが、
20代でダウン症児を生んだ場合と40代でダウン症児を生んだ場合とでは同列には語れない。
あるいは「親」の職業はどうだろうか。
公務員、サラリーマン、自営業者とではそれぞれ経済的な安定性が違うだろう。
また「親」に障害がある場合はどうか。
障害を持つ「親」と持たない「親」とでその後のフィジカルな不安というのは大きいだろう。
このフィジカルな不安というのは一般的には経済的不安に転換可能である。
いずれにしても「親」の属性を同質/同列化して語ろうとするのは、
ダウン症児をも育てることが困難に思われる属性を持つ親を「劣性」だとみなし、
排除する考え方に他ならない。
俺個人について言えば、ナチス呼ばわりされたことについて反発してるんじゃなくて、
元増田お花畑脳だなーと言ってるだけだね。
「ナチス(この場合本物)は人間の屑」というのは、「差別」では無いと考えてらっしゃるように読みましたが。
差別かどうかについて意見は無いが、定義が面白かっただけなんでしょうか?
人間の屑と言うこと自体は差別では無いということでしょうか。そんなこと無いですよね。
では「ナチス(この場合本物)」という対象への暴言は差別ではない、疑問に思っている、又は、差別とするならば定義が面白い。
ということですよね。
現時点でナチスは法律で禁止されているから(ドイツで。たぶん。)でしょうか?
現時点でナチス(である人間)は既に存在しないからでしょうか?
先天的でない性質、生まれながらにナチスである人間はいないからでしょうか?
ナチスかどうかは不可抗力によるものでなく、ナチスであることに本人の帰責性があるからでしょうか?
本当に哀れなほど皮相な人間観だね。喜怒哀楽の波があってはいけないと?ふーん。
じゃあ例えば星野仙一とか金田正一とかは辺り構わずキレまくったりしてるわけだが、あれはかなり作ったキャラであるにしても、少なくともあれを見て星野仙一に「陰」のイメージを持つ奴はまあいないだろう。星野や金田は間違いなく「陽」側のキャラクターで、「陰」なのはむしろ喜怒哀楽を露わにしない野村克也とかだろう。幸せそうに「見える」のは星野や金田だろう。違うかね。
単に八つ当たりしてるだけじゃないの。これは「啓蒙」なの。おわかり?キレ口調も釣りが半分以上ってわからんかね。
ここまでばらしてやらんとわからんとはもはや哀れを催してきたが、ナチスなんて言葉をわざわざ題名に入れるのも半分「釣り」なの。ホッテントリ狙って取りにいってるの。
勿論、出生前診断がナチス的な行為であるというのは俺の信念であるしそれに対して怒りを持っているのも当然だが、それを抑制した冷静な口調で、例えば論文調で書いたとしてだ、それがホッテントリになるか。ならんわな。「長いので3行でまとめて」とかいう脊髄反射トラバが1個ついて終了だ。
ところがこうやって釣ることで、ブクマした人数だけで300人以上、実数で言えばもしかすると1000人以上に俺の主張を伝えることができたわけだ。はっきり言って類型的な主張だよ。でも、世の中あまりに無知な人が多いからね。この程度だけでも心の中に引っかかりを作ることができれば、あとは何かの機会に自分でどんどん学んでいってくれることもあるだろうしさ。そういうことだよ。
悪いけど、「ちょっと知ってる人にとっては常識だけれど世間では余りに知られていなくてトンデモが跋扈している話題」に心を痛めたとき、多少でも啓蒙活動したければ増田って凄くいい場所なんだよ。今年に入ってから増田にホッテントリ3つ載せて合計で1500ぐらいブクマつけられれてるよ。ちょっとした社会貢献になってると思うんだけれどね。それが自分のストレス解消も兼ねてるんならまあ趣味としては悪くないんじゃないかね。
そんな想像力のないナチス万歳な人たちが多数を占めていることを前提に施策を考えるべきであって、多数に対して考えを改めろというのは理想論というか無理筋だなぁ。。。
主張自体は悪くないが、解決方法(親になるのは重責だから考えろとか)があまりにも幼稚。
子供がうっかりできちゃって運が良ければ可愛がるし、運が悪ければ可愛がれないような弱い人間がほとんどということを理解したほうがいいね。