はてなキーワード: 菊池誠とは
@kikumacoってさ、
やってることが毎日毎日エクストリーム擁護または話題そらしでネトサポそっくりだけどさ。
今日もあぜんとしたんだけど
「首相夫人付き」の公務員が首相夫人の選挙応援に同行したとき、もしそれが公務員の「やっていいこと」の範囲を超えていたとしても、責任を問えるのはその公務員だけ、という話。首相夫人には権限も責任もないから— 菊池誠(4/8SilverWings) (@kikumaco) 2017年4月6日
忖度の話とおんなじで、権限も責任もない人の意向に従って行動するのは危険ってことだよね。職務であることを本来の命令系統に沿ってきちんと確認しないと。「首相夫人付き」であっても、首相の配偶者には命令権限ないと思うんですけど、どうでしょう— 菊池誠(4/8SilverWings) (@kikumaco) 2017年4月6日
権限も責任もない人の「意向」に従ってついてって自発的にやったと本気で思ってるわけ?
一応私見を書いておくが、
これに関しては国家公務員の一般的な知識として、党務、政務に参加してはダメだというのは当然知れ渡っているわけで
選挙応援する姿をiPadで撮影して、提供することは、まぁアウトだと思うし、断固拒絶すべきだったとは思うが、
「それは党務ですのでお手伝いできません」なんていえると、本気で思っているのか?
土生や菅が一応曲がりなりにも「問題ない」って言ってくれてるところをみると
少なくとも選挙運動について同行することそのものに関して、上司の了解はとってるよ。
常設の2人が持ち回りで随行していることから考えても、平日に執務室を不在にすることに関して
私人たる安倍昭恵が交通費その他を支弁したこととしているわけだが、
国家公務員が連絡調整のために、それに随行するとしたらそれは公務であり、
そうでないなら、公務員が交通費を支弁されることもできないし、
あと、公務員が交通費を支給されて、そこで特定の政党ないし政治家に利する行為を行った場合、
交通費を支給した側は買収行為とみなされるおそれはないわけではない(選挙運動を目的とした随行であることを証明する必要はあるだろう)
その場合、当然支給した側は公職選挙法の規定する買収行為として連座制が適用されるから
昭恵には責任ないとは言えはしない。
大体、本来私費で雇うべき用務に、公務員を利用した政治家ないし、政治家の家族に
政治家としての責任がないとか言ってるんだとしたらなに考えてんだろうとはおもうね。
追記
記憶があいまいながら、たしか土生は出張命令等は出ていないと答弁していたように思うが、
公務員が出張する場合、旅費を相手負担しようななんだろうが、出張伺兼命令書を作成していなければならないはずなので、
当該秘書たちの出張伺兼命令書または安倍昭恵からの出張依頼書を提出するよう要求し、
存在しないというのならば、どういう法的根拠で彼女らが出張していたのかをギリギリ責めるべきだな。
この紙が出せない出張なんだとすると、前に新潮だかが書いていた官房機密費の疑いが濃厚になる。
http://anond.hatelabo.jp/20170331130851
「懐疑するということは、危険分子になることだ。 なぜなら懐疑主義はすでに確立された制度に異を唱えるからである」
「懐疑主義のやり方にも欠点はある。対立の図式を持ち出し『われわれ』対『彼ら』という感覚、『真理はわれわれが独占している』という感覚。『こんな馬鹿げた教義を信じている連中は頭が悪い』といった論調がそれである。」
「権威主義に陥るな。権威のいうことだからといって当てにしないこと。権威はこれまでもまちがいを犯してきたし今後も犯すかもしれない。」
「科学の核心は一見すると矛盾するかにみえる二つの姿勢のバランスを取るところにある。一つはどれほど直感に反する奇妙なアイディアであっても新しいアイディアには心を開く姿勢。もう一つは古いアイディアと新しいアイディア双方に懐疑的かつ徹底的に吟味する姿勢である。」
それでも水伝のような明らかな詐欺を叩いている際は大きな問題は起きなかったが、権威主義で対応できない問題にぶち当たった時、菊池誠の破綻が始まった。
典型的なのは有名な大震災後の「メルトダウンじゃないだす」発言で、これがわかりやすい発端といっていいだろう。
https://togetter.com/li/197084
菊池誠は権威である東電や原子力工学者の見解を無批判に受け入れるだけで、実際に起こっていることを分析的に思考することができない。
ちなみに現在メルトダウンを認めていない学者は、確認できるかぎり菊池誠、池田信夫、高田純の3名である。
その後も当の東電も認めたおしどりマコの取材に基づく排気塔問題についても根拠もなく否定したり、
https://togetter.com/li/941464
https://togetter.com/li/808369
辻元デマを真に受けたりと、
https://twitter.com/lautrea/status/845463623648526336
ネトウヨやミソジニストと区別がつかないところに到達している。
晩年おかしなことになる物理学者というのはままあることだが、菊池誠の場合は単に一貫して単なる権威主義だったということで話は終わりなのではないか。
おまけ
http://b.hatena.ne.jp/entry/329850045/comment/lets_skeptic
ブクマで「自分の「メルトダウン」という言葉の認識の問題であったことを認めている」と書いてる人がいるが、
菊池誠は2016年ですら「メルトダウンと炉心溶融は違いますよね」と相変わらず嘘を主張している。
https://twitter.com/kikumaco/status/700744555314835456
つまりこれは菊池誠が「だから自分は間違っていなかった」といっているのだよ。明確に「間違いだった」という表現あるいは謝罪の意を表明した言葉を探してみるといい。ないから。
問題は言葉だけの問題ではなく、当時菊池誠はメルトダウンの可能性を指摘した人たちを誤った知識で叩きまくっていたことも含む。擁護者らはこれをまるで無視するのだから、同じ穴のムジナと言わざるをえない。
https://twitter.com/kikumaco/status/702471667054833664
正しくはこっち。
https://twitter.com/miakiza20100906/status/703532925413765120
菊池誠という人がいて、一時はてな論壇においてそれなりの存在感を放っていた。
現在では一山いくらのネトウヨおじさん程度にしか認識していない人もいる。もはや過去の人であると断ずる向きもあるだろう。
しかしながら、彼について再考することで、論壇で今も跋扈する科学対非科学という対立軸を新たに捉え直す機会を持てる気がする。
というわけで彼の言説とその評価の変遷を追っていきたい。
2000年代後半。ニセ科学批判という社会運動が産声を上げた。
これは、自然科学に関する嘘をエビデンス棍棒で殴打するというシンプルかつ大変に社会的意義のある運動で、その倫理的な正しさからはてな市井で好評を博した。
この運動には様々な人が加わり、皆それぞれの専門分野に関する多種多様な嘘デタラメを殴り倒していた。
また専門分野のない人は、非専門分野に関する言説の妥当性をいかに評価すべきかということについて学んでいった。
よくわからんという人はid:NATROM先生がたくさんいたと考えてください。
ニセ科学とはなにか。誰が、なぜ吹聴するのか。このあたりは先人の素晴らしいテキストが山程あるのでそちらを参照するのがよい。私も一応書く。
ニセ科学批判の対象となったニセ科学は多岐にわたる。多岐にわたるがざっくり2つに分ける。
証明されていないことを証明されたと言うか、証明されたことを証明されていないと言うか、である。
科学的知見というものは往々にしてひっくり返るので、この宇宙を縛る法則から演繹していった時に実はニセ科学が正しかったということは有り得る話である。
しかしながら個人が霊感で獲得した宇宙の真理よりも、定められた手続きを踏んで得られた結論(宇宙的には間違っていたとしても)の方を評価するというのがニセ科学批判のスタンスだ。
営利企業や大学教授や特定の肩書のない個人的なブログ、政党や国そのものである場合もある。
彼らは何故嘘をつくのか。その動機を大きく4つに分ける。経済的利益(金銭)・社会的利益(名誉)・思想的利益(党派性)・倫理的利益(善意の施し)である。
どのニセ科学もこのいずれか、もしくはそれらの組み合わせから生み出されていると分類できるだろう。
例えば近藤誠や武田邦彦の動機は金と売名だし、安倍晋三や下村博文や共和党の言動は党派性の発露であり、有象無象のブログが代替医療で他人の癌を根治しようと試みるのは無知に基づく善意による。
ニセ科学批判は党派性から最も遠いところにいるとは菊池誠の言葉であるが、定義上これは正しい。
また、個々人のレベルで見ればその批判対象の選択において党派性が働くこともあるだろうが、運動を総体として捉えればそれは働かない。
組織を持たない草の根運動であるため、一貫した思想により運動員を抑えつけるということが原理的に不可能だからである。
運動自体に対して外部から党派性を見出す人は多々いるが、それは往々にして自身の党派性を表明しているに過ぎない。
例えばid:finalventにはニセ科学批判が左翼的活動に見えるそうだし、反原発派の中の放射能デマを吹聴するクラスタからは当局におもねった保守的な運動であると批判されている。
ニセ科学は大きくデマという概念に内包される。デマの分野を自然科学に絞り、真実性の判定に科学的手続きの有無を利用している場合それをニセ科学と呼称すると言い換えても良い。
ここからニセ科学批判の方法論を他分野のデマの払拭に利用できるのではないかと考えられる。特に人文科学系や社会科学系等の他分野の学問においてはその応用が容易いだろう。
ニセ科学と人文科学や社会科学系のデマとは地続きの問題であり、ニセ科学批判がニセ科学だけを取り扱うのは、単にそれが自らの領分だからというだけである。
ニセ科学批判の参加者が自然科学系以外の言説に対して取るべき態度は、専門分野外の自然科学系の言説に対して取るべき態度と同一でなければならない。
そうでない時、その価値判断には先の4つの動機のいずれかが作用しているのである。
「えー、じゃあさじゃあさ、なんで菊池さんはネトウヨおじさんなんて扱いを受けるの?だってさ、人が科学的事実を前にした時にどういう要因が認知を歪ませるのか、またその考え方は自然科学分野以外でも応用できるってことを誰よりも分かってるはずでしょ?ネトウヨなんてポジショントークが凝り固まって人型を成しているような存在じゃん。おっかしーぜ、それ。一個人が党派性から逃れることは出来ないにしても、自覚を持っていてその都度自己補正に努めればそこまで極端なことにはならないでしょ。オレ、納得できないなー」
そうだね、たかし君。じゃあ次の章では菊池誠の言説とその捉えられ方の変遷を時系列に沿って見ていこうか。それから菊池誠の言動が本当にいわゆるネトウヨ的な物なのかということもちゃんと検証してみよう。
さて、ここから菊池誠とその周囲の言説を掘り返し、断片的な事実を拾い上げ、時系列を整理し、推論を検証し、STS辺りも総括し、ニセ科学批判史とも絡め、最初のテーマに関して結論を出さなければならない。
でもなんか今週入ってから超体調悪くて、鼻は詰まったり止めどなく流れたり、体はとにかく熱っぽくて横になっているのも辛い。
よく考えたら私は菊池誠の親族でも知人でも生徒でも何でもないわけで、果たして病体にムチを打ってまでこの駄文の執筆に労力を割くべきなのだろうか?ここは潔く挫折する。
でもこのテーマ自体は割と意義があると思うので誰か調べてまとめて書いといて欲しい、個人的にはid:ublftboさんが適任かなと思う。でも多分やらないだろう。面倒くさいし。
どうやらこの記事の続きは執筆されないことが確定したため、以下に執筆時の構想諸々を記しあとがきに代えるものとする。
・7年ぶりくらいに菊池先生の名前を目にしたら、なんか凄い扱いになっていたので驚いて、矢も盾もたまらなかった。
・菊池誠に対する周囲の評価の変化点は2つくらいありそうだと思ってる。震災とそれから1年以上後。
・2009年から現在に至るまで菊池誠はネトウヨおじさんではない。ただ看過できない発言は多々あるし、愛想を尽かす人もいるだろう。これは年を追う毎に悪化しているように見える。今の立ち位置はid:hazumaにちょっと似てる。
・2009年頃と現在で、周囲から投擲される評価は明らかに変質しているわけだけど、それは菊池誠と周囲のどちらかあるいはその両方が変わった/変わっていない結果なのかという大枠の問いがあって、これは菊池誠が変わったというよりは、周囲に今までいなかった(少なかった)人種が現れたからだと思う。
・逆に言うと震災以前にもある種の題材を絡めてその手の人種と邂逅する機会があったら、今よりもっと早くこうなっていたと思う。今の状況はなるべくしてなったと言える。
・どうしてこうなったかは意思疎通が上手く行かなかったから。上手く行かない原因は個人でなく構造に求めないと仕方ない。専門家と非専門家の間にはクッションが必要になると思うんだけど、IKEAが布にガラス片を詰め込んでこれはクッションですと言い張ったり、あるいはクッションそのものを用意しなかったりするから、専門家自身が夜なべしてクッションを作らないといけない。彼らは裁縫の専門家ではないので、その出来は個々人の技術によって大きくムラが出る。ところでIKEAはSTSである。
・STSとは、何の生産性もなく相対主義ぶって科学者を腐してあてこすりで飯を食ってる人間の屑が集う旗印である、というのがこれまでなんとなく聞いていた印象なんだけど、いくらなんでもそんなものが何十年も学問として存続するわきゃないと思う。思うので、この際ちゃんと調べて、その社会的役割と意義と実際のところを自分の中で明らかにしておきたかった。震災時に(震災時でなくとも)彼らが求められる役割を十分に果たした結果がこれなのか、あるいは十分に果たせなかった結果がこれなのか。またそれはなぜなのか。
・つまり不幸な例であるところの菊池先生の件を足がかりにして、自然科学分野における専門家と非専門家とのディスコミ問題をアレできるんじゃないかと思ったというところが発端です。
・ブクマにニセ科学批判ってもっと前からあったでしょと言う指摘があったんだけど、前出の"ニセ科学批判史とも絡め"というところで今現在ニセ科学批判とされる運動の形はいつごろ成立したのかも調べておきたかった。書籍で探すと、訳語としてニセ科学を当てはめてる物は結構前からあるんだけどこれは定義が今と違っていて、今使われている意味でのニセ科学という用語はwebだと2004年が初出だと思う。ニセ科学批判についてはgoogle先生になんとなく尋ねるレベルでは天羽さんとかid:kamezoさんの2005年位のログしか出てこない。水伝での田崎さんと天羽さんは運動の拡大に大きく貢献したよねとか海外情勢(主に米キリスト教福音派系の)はid:Kumicitさんの忘却からの帰還が強かったとか、ニセ科学批判史は最終的に年表にしたかった。
以上が主観的になんとなく思いついた推論なので、これらを補強あるいは反証する材料を沢山探して、結果何かがまとまる予定だったのだということを言い残したかっただけの年度末だった。
恋愛心理の特集をしたいと知り合いの編集者に頼まれて、裏付けがあるわけではないのに、「こういう性格の人は、こういう男性と付き合うほうが心理学的にもいい」と言うことがあるわけですね。それなんか、すごくいつも、ちょっと罪悪感、後ろめたい気持ちがある。
自分のなかでは、これは治療行為とは違うんだ、エッセイを書くのと同じようなもので、ああそうなんだって思う人はそれでいいし、これは絶対真実だとみんながみんな思っているわけではないんだから、解釈という範囲で済むことなんだとか、そうやって自分に言い聞かせながらやっているんです。でも、それだったら精神科医って言わずに、エッセイストとか詩人とか言うべきだよなとか、そうじゃないんだからおかしいよなって思ったり、これでも葛藤があるんですよ。
だから、私の場合は、自分だけの話なんですけど、白衣を着た写真は絶対に出さないという線引きがある。白衣を着た私が「こうですよ」と言っているのは、それはやめてもらって、白衣という権威は利用しないっていう線引きがあるんだけど、それは全然あまり意味のない、それだけのことで。
ただ、いずれにせよ、うしろめたくやっているんです。うしろめたいからいいとか、うしろめたくないから悪いとかじゃないんですけど。でもきっと、うしろめたくない人もいますよね。「あんなもんにだまされやがって」って思いながら言っているんですかね。
「ニセ科学」批判者として、一部の人には依然として高く評価されているらしい菊池誠氏がこんなツイートをした:
なぜ左翼はトンデモに弱いのかと残念な気分になるけど、ルイセンコの昔からそうなのよね。日本の左翼科学者は軒並みころっとルイセンコに騙された
当選、批判を受ける:「なぜ左翼はトンデモに弱いのか」? 「左翼がニセ科学に弱いのが残念なのよ。」? - Interdisciplinary。メタブでヤロビ農法の支持者が広範に及んでいたことも指摘されてる:はてなブックマーク - はてなブックマーク - 「なぜ左翼はトンデモに弱いのか」? 「左翼がニセ科学に弱いのが残念なのよ。」? - Interdisciplinaryのリンク先。
ちょうどいい(悪い)タイミングで有用微生物利活用推進議員連盟 - Togetterまとめ、はてなブックマーク - 有用微生物利活用推進議員連盟 - Togetterまとめなんてのも知られてしまった。左翼じゃないよね。
田崎晴明さんが指摘する、原発・反原発の議論に潜むヤンキー思考 - Togetterまとめも、なんか田崎氏らしくない、とブクマ(はてなブックマーク - 田崎晴明さんが指摘する、原発・反原発の議論に潜むヤンキー思考 - Togetterまとめ)で指摘されてるけど、あれは上掲の菊池誠氏のツイートに対する「強烈なアンチ・テーゼ」として捉えるべきだと思う。「ヤンキー」と「左翼」って対極に近いイメージでしょ。
でも、ここで私が言いたいのはそういうことじゃない。もっと基本的なこと。
『もうダマされないための「科学」講義』(光文社新書)冒頭の「1章 科学と科学ではないもの」で、菊池誠氏がルイセンコ学説についてどう説明しているか、見てみよう:
これと似たような話がルイセンコ事件です。ルイセンコというソビエト連邦の生物学者が1935年に、小麦の遺伝的性質を人工的に変えられるという主張をしました。これだけなら、奇妙ではあっても「学説」のひとつと言っていいのだろうと思います。
小麦の遺伝的性質を人工的に変えられるという主張
いや、これなら左翼も右翼も中道もなびくでしょう。私たちの世界では「品種改良」と言うと思いますが。
試験で「ルイセンコ学説を説明しなさい」という問題に、上の答案がでてきたら○をつける人いますか?
『もうダマされないための「科学」講義』1章って、ろくに準備しないでしゃべったのが丸分かりで、論旨が支離滅裂に近いけど、これは一番ひどい例。でも、仮に準備不足でしゃべったにしても、活字にするときにチェックしませんかね?
そして、仮にとっさに出た説明だとして、そういうときでも「しっかり理解できていたら」こんな不十分な説明にはならないんじゃないかなあ? 「獲得形質」「ラマルキズム」などがパッと出てこない、ってどういうことなの?
10日に立ち上がり。
おそらく Twitter / 菊池誠: @lestes_ryu その検証は差別問題を差別的に ... , Twitter / 小川一水: さっきの松のまとめは、冒頭にハングルどうこうと書く必 ... やTwitter / 菊池誠: たぶんそのまとめは僕も読みましたが、差別問題を差別的 ... はこれを指してそう。
で、結論としてはTwitter / 菊池誠: @alohazuki わかるのですが、受け入れるとし ... .
早めにチェックが大事ではある。
それ以上に形式へのこだわりを外に押しつけるのは仏教という概念とは突合しないような。
「薪を使うなと抗議したアフォは本当に京都の人間なのか?」「近年の流入者、余所者ではないのか?」,最初の一文でボツっすな。,http://twilog.org/crazyaaa/asc(検証はぺちら),京都市も口挟めない大文字焼き「陸前高田の薪燃さない」 - GREE.
Twitter / 人工無能A狂: @denshanori また馬鹿な更新してるけどht ...Twitter / 阪奈 電次郎: @crazyaaa いやもう黙れと言いたいですね。実 ...